2017年06月23日

もう、忘れちゃった?原発のこと。

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原発のことを書いておく。再稼動してしまったから。
いっときは国中の原発が止まっていた。それで何も不自由が無かった。電気は充分足りていた。原発なんていらないんじゃん?とみんなが感じたはずだった。

なのに、なぜ原発が再稼動したんだろ?
原発は「せっかくあるんだから、使わないともったいない」のかな? 確かに、生かして使うってちょっといいよね?もったいないっていう気持も好き。

でも、原発だけはダメだ。いや、ブレーキの無い車もダメだけど。危険過ぎる。

イタリア、ドイツ、台湾に続いて韓国も、原発を使わない電気の作り方にシフトを替えた。みんな福島の原発事故に学んだのだ。それは生き物として、自然な選択だと思う。それなのに、なぜ日本では原発を止めるどころか再稼動しちゃったんだろう?

その謎は、お金のカラクリにある。
日本中の企業は大も小も殆どが銀行からお金を借りている。特に必要が無くても借りた方が得。なぜなら借金は「負債」という勘定で、会社の「資産」と相殺される。金利は経費になる。

黒字(儲け)がたくさん出たら、支払う税金も増える。税金を払うより、お金を借りて負債を増やし、何かに使った方が有利なんだ。

とは言え、銀行は絶対返してもらえる相手にしか融資しない。だからうまく行っている大企業ほど借金も多いという不思議なことになる。

銀行では、大きな金額を貸し付ける時には何か担保を取る。住宅ローンを組んだ人は知ってるはず。買う家が担保になるのだ。設備資金だったら、その設備自体が担保ね。

もう、わかったでしょ?原発を借金で拵えて、その原発が担保になっている。だから、原発が稼働できない巨大なガラクタである、という筋書きは銀行にとっていささかまずいのだ。不良債権、つまり回収不能な貸付金ということになっちゃうからね。

そうなると、銀行はその分損を計上して大赤字になっちゃう。担保になっていなくても
貸し付けをした企業の立派な資産だったものが、害を垂れ流すガラクタである、と認定されたら、やっぱりうまくない。その企業の資産がウン十億円からゼロになっちゃうから。

だから、ここは国が介入して銀行が大打撃を受けずに済むような(小打撃ぐらいは負担すべきだが)措置をとるしかない。国策として進めて来たのだから、政治責任はある。(バブルが破綻したときは不動産の暴落に際し、国が銀行に助けを出した。)

更に電力会社はそれぞれ随分儲けて来たのだから、みんな中打撃くらい受け入れるべきだ。そして、自然エネルギーに舵取りをした方が、危険負担も減るし、先行投資としても一刻も早くした方が建設的。

でも、後ろ向きにイヤダイヤダとだだを捏ねている人々を説得できないんだよね。原因はお金のカラクリと言ったけれど、お金そのものが悪いんじゃないのだ。カラクリ、つまり制度が問題なんだ。

電力会社がなぜこんなに儲かって来たか?そして今まで通りの方法に固執しているのか?ざっと説明すると「かかるコストに利益を乗せたもの」を電気代にしていい、という方式を国が許して来たから。

通常の企業はコストを削減するために知恵を捻る。だが、電気だけはコストを全て商品(電気代)に上乗せできる。(だから世界一高い電気代を日本人はずっと払って来た。で、電力会社はせっせと借金しては原発を作って来た。)ここでだけ自由競争の原理が無くて甘やかされて来たの。

政治家や上級官僚の天下り先のひとつでしょ?電力会社って。甘やかされて来たから羽振りがいいのよ。まぁ、甘い汁を吸い続けたい人々がしがみついているせいで、そして国民があの原発事故の直後の感じを忘れて来ているせいで、再稼動しちゃった。

原発で電気を作るなんて、終わってる。技術的に制御不能なエネルギーなんだ、原子力は。今までひた隠しに隠して来たことが,福島の原発事故で大勢の人が興味を持って「なぜ原発は止めた方がいいのか」を知るところになった。

量の調節、オンオフがスムースにできない(そのために火力を併せて動かさなくちゃならない)、お金がかかる(トリックがあるので電力会社の説明にはひっかからないでね)、事故リスクはとんでもなく高い。しかもその賠償を被害者の希望通りにはほど遠くしか払っていない。

公害になる(事故無しでも放射線を撒き散らし、汚染水は垂れ流す)、原料の採掘には被爆を伴う。これまで世界は故意に貧しい人を作り出して、汚れ仕事、命の危険のある仕事を押し付けて来た。権力のある人々のズルがまかり通っていた。そういう時代だった。

けれども、もう充分学んだ。インターネットのおかげで、遠くに生きている人々、未だに仮設住宅に住んでいる人のことも知る。彼らにだって幸せになって欲しい。格差社会のありかたそのものを見直す時に来ているんだと思う。

野蛮な旧スタイルはやめて、素敵な明るい社会を目指すチャンスなんだ。風や太陽、地熱やバイオマスなど無くならないものを使って電気を作ることにシフトしていかないと、原発はお先真っ暗な将来性の全く無い話なのだ。

軽い装備で山登りして、途中で吹雪いて来た。この装備では遭難して凍死しちゃうかも知れない。でもさ、せっかくここまで来たんだから、もったいなくね?と言って闇雲に突き進む。それは、72年前の戦争で日本がやったこと。そして今、原発の再稼動でやっていることだ。 

今こそ、もう一度声を上げたい。そして、今私たちは購入先を選べるようになった。価格の比較をしているだけでは、そのツケが将来回って来る。私たちは平和な方法で示すことができる。原発で作った電気は買わないよ、と。 

※ちゃんと知りたい人は、私が読んだり観たりしたものの中から取っ付きやすいものをお勧めします。

田中優さんの本:電気は自給があたりまえーオフグリッドで原発のいらない暮らしへー
田中優さんの本:原発に頼らない社会へーこうすれば電力問題も温暖化も解決できるー
小出裕章さんの本:原発のウソ
小出裕章さんの本:隠される原子力・核の真実ー原子力の専門家が原発に反対するわけ
映画「ヒバクシャー世界の終わりに」
映画「イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘」
映画「100,000年後の安全」
映画「東京原発」

田中優さんの本は、未来に希望が持てて楽しくなる。小出先生の本は、その正直さ、冷静で謙遜な姿勢が素晴らしいです。映画はDVDになっているもの、多し。ぜひ観て下さい。最近できた映画も結構数あるようです。
 

2017年06月20日

誰のために作る?

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ああ、私の「作りたい」熱に欠けていたものがやっとわかった。そして、やっとそれを手に入れた、と思った素敵な朝だった。それは「ひと」なのだった。もしかしたら、当たり前?でも、私はそれがちゃんとわかっていなかった。

コマーシャルな、ビジネスライクな、マーケティング手法的な用語で言うなら「対象」と言ってもいい。けれど、コマーシャルなのもビジネスライクなのも、マーケティング手法も考え方が私は好きじゃない。興味も無い。

人脈なんていう単語は唾棄するほど嫌い。私がやってきたこと、やっていくこととは無縁だ。もっと無雑に作りたいんだ。ただ、作りたいという気持だけで前に進みたい。
それは悪くない。けれど、何か大きなものが私には欠けていた。

どこかに小さな穴は感じていた。誰も知らなくたって、私は知っている空洞。それが
「相手」だったなんて。今回縫い上げた11枚の服達はそれぞれ知り合いや、すれ違っただけなのに覚えている人の顔を思い浮かべて作った。

同じ型の夏のペラリとしたワンピースドレスなんだけど、小柄な人や伸びやかな肢体の人を素敵に見せて、かつ気持のいいものをと思った。その時、私の中に「着る人」が初めて要の場所に必要な主題となってはまった。

だから作っている時にとても気持がよかった。まだ一枚も売れてもいないのに、なんだか手応えを感じた。自己表現としてちょっとすごいものを作りたいという欲は、還暦直前になってやっと退散したらしい。

20代にやっていた「場面」つくりや40代から始めた「場」作りの方は、我ながらピタリと心に沿う仕事ができて気持の良さばかりがある。それに比べて、モノを作ることは、好きなのにどこかなにか違う、と感じていた。「ひと」が不在だったからなんだなぁ。

それで、その文章を素直にタグに書いたのだけど、初日に買って下さった人から翌朝
「タグが良かった」と言ってもらったのだった。ああ、年をとって良かったなぁ、病気をしたのも良かったなぁなんて思っちゃった。

一応、タグの文書を下に。

小柄なあの人や伸びやかなあの人のことを思い浮かべて作りました。
若い人や大人の人にも、その可愛らしさが出るようにしたいと考えました。
服よりも人柄が立ちのぼるような、そんな服にしたいと思いました。
どこの何とも目立ちませんが、きっとあなたを心地よく引き立ててくれる、
そんな服を作りたいと心がけています。

ただ、断っておくけれど、ものつくりはこうあるべき、という話ではない。誰のために、なんて度外視したって力のあるもの、魅力的なものは沢山ある。私というニンゲンは誰かのために作りたいのだな、とわかった、ということ。

展示は大磯駅2分のつきやまアート&クラフトで。
5名の作家(版画家、絵描き、テキスタイル作家、布物作家、と私)の個性的なTシャツが並びます。その中に全然個性的じゃない、でも着るとさらりと気持良くて、女子に生まれて良かったな〜と思える(はず)私のワンピースが並んでいます。

11時〜17時、月曜日定休、6月30日(金)までです。
どうぞよろしくお願いします。


 

2017年06月16日

しちゃいけない話

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ずっとノンポリ(ノン=ポリティカルの意味だと思う。政治に無関心なこと)で来た私が、最初に政治にはっきりと興味を持ったのは、2006年の冬。数年前に我が家で一夏を過ごしたフランス人大学生のジェレミーとパリで会った晩だ。

社会人になったジェレちゃんは、レストランでごちそうしてくれるという。カルチェラタンの片隅にあるレストランで美味しいご飯をたべながら、ジェレちゃんが私に振った話題が「遺伝子組み換え」についてだった。

日本は遺伝子組み換え農作物、どうなの?みんな賛成して輸入してるの?
え?と寸時固まってフォークが宙に浮いた。フランスでは、今、大問題なんだよ。遺伝子組み換えの種子を国内に入れないぞというグループと、入れて大規模農業をやった方がいいというグループがいるんだ。日本はどう?

あ、えっと、ジュヌセパ。アイドントノウアバウトザット。ぎゃぁ、どうしよう!と内心思った。アセ、というやつ。ジェレちゃんはその時24歳くらいで、私ときたらその時50歳くらい。倍も生きてる大のオトナで、しかもモノを知らなかった(今もあまり知らないが)。

心をかき乱されるのが耐えられないので、長いこと新聞も読まず、テレビは20年近く所有していなかった。11年前の私は遺伝子組み換えということばは聞いたことがあったが、それは農薬に強い品種である、という以上の知識が無かった。

ただし、負けず嫌いなので、咄嗟にイギリスのクローン研究を思い出し、きっと相似点があるに違いないと決めつけて「私はひとまず反対だけども」とはったりをかまして
「日本で議論が進んでいるかどうかは、よく知らない」と切り抜けた。のか、どうか。

それよりも、彼らフランスの若い人々が、こんなふうに闊達に政治について飯時に語り合うことが新鮮だった。みんな、こんなふうに話をするの?とその辺りを聞いてみた。いや、こういう話題が卓上で交わされるなら、老いも若きも参加できる。世代間断絶などという日本の特殊な社会問題は無かろうなと思った。

するよ、もちろん。日本ではしないの?と逆に驚かれた。なぜ?と問われて、これには詰まった。なぜでしょうね?なぜでしょう?なんだかね、日本では、政治の話と宗教の話はタブーなの。あれ?これ、世界共通のマナーかと思ってたけど?

初対面でいきなりはしないけど、とフランス人は答えた。あ。なんか、大間違いしてたかも。だよね〜。だって、政治の局面によっては、目下の最大関心事っていうタイミングもある。ここ数年の日本なんか、それの連続だ。なのに、日本人は喋らない。なぜだろう?いや、ほんとに謎です。

昔からそうなのか?と思いめぐらせば、違うのだ。私がこどもだった頃は父の診察室でよくそんな会話が聞かれた。センセイ、選挙どうする?いや、川上サンしかおらんでしょう?そうかねぇ、あれは...みたいな会話だ。時々は意見の衝突が起こる。むっとして終わったりもする。

だが、それで縁切りというようなことでもなく、お知恵拝借的に街角で話し合われた。床屋だろうが、風呂屋だろうが、医者の待合室だろうが。もちろん夕飯の食卓でもあーだこーだと話題に上り、子供心に候補者に「ふむ、あの人は狡いのか」とかいい加減な情報を得たりしたものだ。

なぜ、こんなに食卓や街角から政治の話が遠くなったのだろう?でもね、政治は面白い。人気力士のいるときの角力よろしく、花形スターのいるときの野球よろしく。共産党の議員の鋭い質問なんか、その内容を聞くだけで勉強になっちゃう(くらい私は無知だ)。

対する自民党大臣の答弁もしどろもどろで、下手なバラエティ番組より面白いときがある。(相変わらずテレビは無いのでIWJや、誰かが揚げてくれている録画で観る)まぁ、昨今は暴力的な場面が多くて、ひどいのだが、それはそれで面白くなくても、私たちの日々に直接関係する。

特に原発事故は、私の決意をしっかりと固めた。私が生まれて生きて来た60年近い年月は、そのまま原発の歴史と同じだ。これを解決せずに死ぬものか、と思った。そして、原発問題を深く考えて行くと、政治のしくみや利権の絡まり具合に至る。政治と切り離せるものではない。

私は夢を捨てられない。政治は素晴らしいことだってできるのだ。人々から集めたたくさんのお金は、ディズニーランドをいくつも作れる。オスプレイ一台買うお金(諸経費入れて211億円だったっけ?)で保育園と保育士を増やすなら、いくつと何人雇えるだろう?

人々に望まれている方にお金を使うことの素晴らしさを想像すると、うっとりしてしまう。そんな素敵な話をしちゃいけないって法は無い。私は住んでいる町を多角的に知りたいと思って、時々議員さんの報告会に出向く。そこでより良い町の政治を求めて集会しているグループを知り、月例会に参加してみた。

どんな町でも住まいの場所にそんな人々がいて、そんな行動をしているはずだ。どんな町の片隅にも、少し困った問題はある。困っている人同士で話してみる。そんな場に出ることで、知り合いが増え、知識が増える。知りたいことが生まれる。疑問も持ち上がる。

蓄積が増えればそのうちアイディアだって思い付くかも知れない。国は人の集まり。一番小さな単位のお家が幸せならば、次に町。だから、町の人と町を良くする話をしよう。小学生みたいな質問でも全然いいと私は思う。しないことよりずっと素敵。

 

2017年06月13日

自分らしく話せますか?

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不思議なことだ。私はおかしいのだろうか?
なぜだかわからないが、戦中の大本営発表やら、教師の児童に対する指導やら、やたらと国民の戦意を煽る場面を観ると吐き気がするんだ。よく表現で「吐き気がする程」とか言うけれど、本当の吐き気。

こういう気持の悪い感じは、NHKの既に放映されたドキュメンタリーで見つけられる。この局の報道はひどく偏りがあるようで、安倍チャンネルなどと言われている。だが、ドキュメンタリーやドラマの制作者は平和を足場にした良い仕事をしている。

戦争のドキュメンタリーを観ていると、この時代には今は使わない言葉がある、それもたくさん。ことばは即ち精神から形成される(逆もある。行ったり来たりね)ものだから、戦争を美化し、天皇を祀り上げ、国を神格化する気持があって生まれて来る。

そして、口に載せる度に心に沁み込んで行くのだ。言霊というが、そういう力が働く。この時代のことばは、不思議な色彩を帯びている。どれも熟語でなにやら高級そう、知的そう、高邁そう。素晴らしげに響いたのだろう。酔ったように人をその気にさせる。

滅私奉公、報国、 皇国、皇軍、軍神、英霊、偉勲、玉砕、国賊、散華、七生報国、小国民などなど、枚挙にいとまが無いがまとめてくれているブログがある。そのほとんどが今はほぼ死語か、外国語には存在しないと思われる。大陸からやって来た漢字を活用しまくりだ。

ずらりと並んだそれを読んでみて欲しい。面白いものもあるけれど、半分近くは洗脳を目的とした,或いは洗脳されたマインドから発した単語だ。読み進むうちに吐き気がして来ないだろうか?軽く頭痛がして来ないだろうか?

この時代のこどもや大人達はおよそ自分のことばを持たない。なるほどなぁとか、本当よね、とか、わかるわ〜というような、通常のすっと心に入って来る共感を呼ぶことばは皆無だ。みなが台詞回しの下手な役者のようにしゃべる。

それが奇妙な仮面劇のようで、ごく雑に言ってしまうなら「嘘」なんだ。空疎である。嘘の並ぶ気持悪さ、嘘の世界に生きていることの軽さを懸命に塗り固めている。命のが鴻毛(おおとり、鳥の羽)より軽しと称され「美」とされるセンス。これは本当に気持が悪い。

もちろん、家の中では「お腹空いたよ」とか「なんでうちの犬まで軍隊に差し出さないといけないの?」とか会話しただろう。だが、一歩外に出たら、外向きの仮面を被っていなければならない。

なぜなら、戦争への疑問や、小さな文句でも言おうものならたちまち「非国民」と称されるからだった。ああ嫌だな、と思うのだけど、今まさに言論の自由が失われようとしている。共謀罪だ。

またしても、こういう仮面を被った茶番劇のような時代がやってくるのだろうか?私は断固反対だけども。だが、自由の保障されている今日現在でさえ、自分のことばで話さないひとも、また多いのが事実かも知れない。

感情の伴わない温度の低いことば、きれいだけど真心のないことば、問題ないけれど、意味も無いことばが、実は結構、巷を行き交っている。豊富な語彙を駆使して、感動に乏しい文章があちこちに掲げられている。だから、いいのかな?寂しい。

グラウンディングという単語が精神世界にある。地に足をつける、とか大地と繋がるとか言う。私の足は、本当に大地に着いているだろうか?心は臍というか、魂と繋がっているだろうか?嫌なことを嫌と言える日々であるのか?これは大切なことじゃなかろうか。

時代は、私たちに「よく生きろ」「自分であれ」と訴えているのじゃないだろうか?
一枚の落ち葉を拾うことも、政治を見つめ、良き人々を応援することもひと繋がりの行為だ。気持が悪いとか、いいとかいう感情は、少しも軽蔑すべきものでなく信頼に足るのじゃないか。

それこそが、唯一の確かな手がかりで、判断の拠り所とするべきものなんじゃないか?心が動く、そのことは、地球を母とし、宇宙を住処とする私たちが、見えない大きな動力と繋がっていることの証明のような気がする。




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