2017年11月17日

やっぱりこんな仕事がしたい。

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茅ヶ崎に2003年に開いた店は、かつての人間関係上選ばれたアイテムで構成されたショップだった。その名残で製造や輸入を続けた製品が今でも残っているのだが,その関係も終焉して既に15年も経つ。実店舗を閉じてネットショップだけにして既に2年。

今の自分らしい構成にしようと思って、取り扱う品物を見直している。それ即ち日々の暮らし方を見直すことになるのが私らしいところだ。気に入っていなければ売る気になれない。今は気に入り純度80%と言う辺りだが、半年以内には100%に持って行きたいと思っている。

で、素晴らしいなぁと思うんです、このメーカーさん。おたくではどんなヘアブラシをお使いでしょうか?100円ショップにさえ様々な種類のものが売っている今日。特に気にしない人も多いのだろうけれど。たかがヘアブラシ、されどヘアブラシ。

私は持ち物の素材や性能、デザインが気になる方でずっと木製のヘアブラシを愛好。様々なものを使って来た。このブラシに辿り着くまでの最後に使ったのは、茅ヶ崎駅ビルに入っていた某せっけんメーカーの直営店のオリジナル。

クッションも良かったしデザインも良かった。手に持ったサイズも手頃。それでも長い間には当然の劣化が進む。ブラシのピンがゴムの台座にめり込んで、出て来なくなってしまった。そうなると本数がまばらになる一方。

さて買い替えなくては、と思って見つけたのがこれだった。以前のものと違うところはピン先が丸いところ。以前のものも尖ってはいなかったが、更に地肌を傷つける恐れが減った上に、なんなら顔のマッサージにも使える。

顔には無数のツボがあって、押すだけで気持ちの良いところがあるから、そっと押すだけ。目の脇を押すと目の疲れなどにも良いらしい。ブラシの柄部分の尖端で足裏を押すとかの案内まであって微笑ましい、我が家でも愛用の竹ピンのヘアブラシ。

すごいなぁと思うのは、ピンが無くなったら無料で送ってくれること。有料だけど台座交換もしてくれる。自分の作ったもの、販売したものの面倒を後々まで見ることは私にとっても理想だ。けれど、そこそこの金額の家電でさえ、昨今は修理代の方が高い。

今でも使っているダイソンの掃除機は、壊れて修理を依頼したら「ユーザーに限り、今なら最新式を格安で買えます」と言われてしまった。(で、購入した。)それも壊れたのだが、そのようなメーカーには既に期待はできなかった。

家電の部品保存機関は(物によって違うが)12年。結構あっという間である。昔のものと違って複雑な機能が付いているせいか、我が家の電機好きの息子にも治せないものがある。それがヘアブラシのメーカーでこんな誠実な会社があるなんて。

愛着って勝手に生まれるものもあるんだけど、育てることもできるのね。こんな仕事がしたいものだ、と可能不可能は置いて考える。ネットショップ中の「木村家のおすそ分け」で買えます。
大きい方で3,300円と決して高くない。お勧めします。

2017年11月13日

自衛隊はどこへ行く。

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日本の軍隊は自衛隊っていってね、専守防衛、つまり自分の国や国民を守るためだけにあるんだよ。かつてはそう言えば済んだ。だから憲法9条とその前文と矛盾せずに済んだ。けれどその実、自衛隊はその発足時から米軍が作った「小さな米軍」だったのだ。

それでも僅かな例外を除いて戦争に行かない72年の間、自衛隊は災害や避難などの国民の緊急時に活躍してくれた。きっと訓練もそういう想定だったろう。ここ数ヶ月空が喧しい。見上げればよく飛行機が、それもかつて無い程低く飛んでいるような気がする。

何か訓練が変わったんだろうかと確たる根拠も無く想像する。戦争をする、という前提の訓練は全く違うらしい。当たり前だ。自衛が目的とはいえ、戦場では迷っていたら死ぬ。だから動くものは迷わず撃つという訓練を、繰り返し繰り返し反復させる。

いつでも闘争心のスイッチが自動的に入るように、精神的にも攻撃性を植え込まれる。1秒を切る咄嗟の判断だけが身を守るのだから、いつでもどこでも頭じゃなくて心じゃなくて、身体が反応するようにその動作を叩き込まれる。

イラク戦争では、動いたから撃ったらそれが幼いこどもだったり。だが、兵士というものはそうでなければならない。戦場は唯一殺人が合法化されている場所で、より多く殺人をした方が表彰されるという例外的な場所なんだから。

復員したアメリカ兵士がその後、外的心因性ストレス(PTSD)に悩まされたり、苦悩の果てに自殺したりした。その数は数千人に上る。一方国内でもカンボジア以降のPKO派遣の自衛隊員の自殺者は59人とその率は公務員中筆頭、全体の38%に昇る。

専守防衛に徹して来た日本の自衛隊は、想像するに長いことそのような訓練とは無縁だったのだろう。だから1999年に自衛隊がカンボジアのPKOに派兵されて行った時、オーストラリア人の総司令官は「使い物にならなかった」「あれでは死んでしまう」から「道路工事をしてもらった」「早く帰って欲しかった」という。

カンボジアに行った自衛隊は「自衛権」しかなかった。ここには自衛隊とは別に警察隊も行った。警察隊は更に自衛のための武器の携行すら許されなかった。しかし、紛争は終結していなかった。1名殉職者を出す。

ちょっと想像してみたらわかるけれど、紛争が終結したほやほやですっかり国中安全なんてことはあり得ないよね?事態に納得できない武装解除しない兵士、埋まった地雷、積もり積もった不満や困窮など、一触即発の危機にあるに決まっている。

やっぱり私は自衛官を志した人々の気持がもっと知りたいと思う。なぜなら、かけている命は安全なテーブルに着席している政治家のものじゃないのだから。討議も決定も、重大な結果は、安全な椅子にどっかり腰を落ち着けた人々が現場の報告を聞いて、その様子を想像して為される。

命がけで恐怖と闘っている人達、身の安全を守る術の無い(発砲には許可がいる=発砲したら犯罪になる可能性がある)人達のことは「一応参考に」される程度でしかない。当たり前のことなのに、日本政府のにはその臨場感というか命の危機意識が決定的に欠けている気がする。

ここは前の戦争の時から進歩がない。さらに米国からの要求やら、一回決めたことは覆せないとかという事情、つまりしがらみとか体面と言うヤツを考慮した挙げ句、重々しく発表されるのだ。決める立場の人々は現地査察にさえ行かない。が、机の上で何がわかるだろう。

ここ数年、政局を騒がせている安保法案から共謀罪、秘密保護法、緊急事態条項という一連の流れは、アメリカが長いこと日本に要求し続けて来た「戦争する自衛隊作り=米軍の援軍作り」のためのものだ。

調べてみると、1999年の小渕政権のときに周辺事態法という法律が成立して、日本は自国以外の場所でも防衛と言う解釈ができるようになった。日本の再軍備、米軍への底なしの協力というアメリカの要求を、確たる部分では譲らずに憲法9条を盾に断り続けて来たのが長期にわたる自民党政権だった。

だが、自民党は内部で少しづつ変質し、いまや反対勢力や行き過ぎを戒める勢力が無い。オバカな意見でも通っちゃうんだ。従って党内の議論の叩き上げや練り上げなどが省かれ、強権の支配一本になっている。

その結果、自民党は悲しい属国根性を振りかざしアメリカの言うなりに進もうとする。そのおこぼれに預かりたい公明党との与党政府とそちらに行かないと宣言している野党との対立の図式になっている。政府の態度は、私には盲従としか見えない。

時の政治に右往左往しそうだけど、自衛隊に関しての私の意思はおおよそは決まっている。恨みもなく、勝ってもメリットのない国への米軍の仕掛ける攻撃に自動的に配備されて、日本の自衛官が傷つくのは嫌だ。だが、PKOはどうだろう?国連軍には参加すべきなんだろうか?

ここは簡単には答えが見つからない。もっと実態を知りたい。自衛官達はどう考えているのだろう?自衛官の中には、生活のためにその職を選ばざるを得なかった人々だっている。平和のための貢献なら、やる価値はあったろうが、外交努力をおざなりにして始まる戦争に彼らの心は鼓舞するのか。

現政府はアメリカしか頭に無い。だが、世界はアメリカだけで構成されていない。日本の米軍への追随はアメリカ以外の世界では異常さと狂気,或いは危険に写っているのではなかろうか。少なくとも中東ではそうだ。

PKOの現場=戦場では自衛隊は事実上のお荷物と評された。でも、平和にしか関心の無い私は、お荷物でいいじゃないかと思ってしまう。現場では悔しいものなのだろうか?彼らには彼らの活躍する場所がある。利害のために命のやり取りをするなんて、子供染みていると思うのは変なのかな。

今は一体いつよ?偏見と差別に満ちた中世を終え、策略と殺戮の戦国期を抜け、侵略と搾取の帝国時代を経験した21世紀ではないか。人々は分け合うこと、話し合うこと、自分らしくあることを侵したり侵されたりしない時代を迎えてもいいんじゃないだろうか。

※参考文献「憲法と戦争」C・ダグラス・ラミス 

2017年11月11日

なにかちょっときれいなものやこと。

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何かちょっと、きれいなものやことを見たいと思う。選挙が終わって、案の定、政府は勝手なことをやっているし、それを糾弾する仕組みも心もとない。正当な苦情を考えるだけでも、現状が余り酷いので悪口みたいになってしまって気持がクサクサする。

何かセイセイしたいんだな,私。そうとなれば、積極的に見たかった映画や景色を訪ねたり、積もり溜って自分をほんのり腐らせる原因になる事務仕事(好きじゃない)を片付けようかという気になる。気づけば、今年もあと少し。

今月のうちに主な庭仕事を済ませておきたいし、まだ夏服や中途半端な季節の衣類も完全には仕舞い終わっていない。母の一周忌も目前だし、娘は臨月となっていよいよ臨戦態勢である。あらあら、気ぜわしいことだ。

何かきれいなもの、と見渡すと、実はこれはもう身の回りに様々あるのだった。沙羅と木蓮が芽を残して落葉し、ドウダンは真っ赤に色づいている。同じ東小磯の高台の辺りに住む友人から紫色の丈の高い草を根付きで分けてもらったし、小さな苗も買った。

少し勉強の資料を探しに図書館に行けば、ふと目に入った本には心洗われることばが見つかる。全て世はことも無しと思えて来る。もう片方では「Life is struggle」ということばもちらつく。どちらもだ。生きていることは奇跡のように賑やかなきらびやかなものだな。 

身の内から、愛が美しいことばやものとして紡ぎ出されて、それが尽きないように、と祈りながら息子の冬のセーターを編む。言霊を身に沁み込ませるように、一目一目、歌うようにきれいなことばを心のまな板みたいなところに載せてみる。 

縫い物と違って編み物には、面を作っていく作業がある。この作業は祈りのような一面がある。これだから編み物は好きだ。 何かちょっときれいなもの、ことは私だって生み出せるのだと思うと、少し自信が生まれる。

天気のよい週末の秋の日。傍らに日だまりで眠る犬の寝息。

kalo_sapo_owner at 10:33コメント(0)着る、住まう 

2017年11月08日

糠で暮らす

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おにぎり屋を始めてしまうほどごはんが大好きな友人に勧められて、精米機を買った。玄米を好きな精度で精米できる。何事も挽きたて、炊きたて(淹れたて)が美味しいもので、使う度にザーッと精米し炊いて余さず食べ切ってしまうという、この一連の流れは我が家の定番となった。

さて、次には溜って行く糠をどうしよう?という問題が生まれた。もちろん糠漬けに使う。新しいので買って来た炒りぬかよりずっといい。だが、それだけでは使い切れない。そこで手のひらほどの大きさに木綿の袋を縫って端をゴムで止めたぬか袋を作る。

冬の間、乾燥しがちな私は入浴はこれで行こうと思っている。糠袋は濡らして身体を擦ったら、ギュッと絞って洗面に置いておく。翌朝、これで顔を磨いたら、またしてもギュッと絞って放置。乾いたら中身を捨てて、裏返してパンパンと叩けばいい。

この循環のために袋を数枚縫っておく。(濡らしたままにすると臭くなる)そのうち、無農薬の柚などが入手できたら、皮を一緒に入れてもいいな。身体を洗う以外にも、家具磨きや建具のつや出しなどにもいいんじゃないかな。何せ天然の植物性油脂が含まれているからね。

お肌にいいのはビタミンなんたらの含有率が高いので確信が持てる。歴史的にも、昔の美人は糠や鶯のフンで洗顔したらしいし。文学作品にも「せっけんは肌を荒らすから(昔の品質ね)使えないの」なんて芸者が言うセリフが出てくる。

それでも余るなぁと思っていたら、料理を作っている別の友人に洗い物全般に使ってごらん?とのアドバイスをもらう。そこで、透明な蓋付きのプラスチックのケースに入れて流し台のそば、固形せっけんと液体食器用洗剤に並べて置いてみた。

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試してみると、油がよく取れる。鉄のフライパンなど、洗剤やせっけんで洗うと油分が落ち過ぎて錆が心配だが、その心配も無い。乾かした後から油を薄く塗っておく作業が不要になる。シールウエアはせっけんには適わないが、通常の陶器磁器、ステンレスやら木の鍋蓋などには汚れ落とし力、充分である。

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ちょっとコツはいると思う。わずかに水分を足して、水と油が同量くらいあるところに糠を落とす。それでクロス類で擦るだけだ。糠が見事に油を吸ってくれる。糠自体は掴める程なら手で掬って生ゴミとして捨てる。少量なら流してしまう。

さて、これを教えてくれた彼女も、内心、流れた糠の行方が心配だったらしい。私が下水道処理場への見学を思い付くと一緒に行ってくれた。下水処理場の方の説明で、流れ着いた下水はまず油などの浮いた異物を掬い、更に沈殿槽で静かに待機。沈殿物を残して上澄みを何度も濾して浄水へと精製されるのだとわかった。

その上澄みは目視で長〜い物差しを使って水の透明度を計るのだ。我が家の糠は油と水を吸って底に溜り、その後乾燥されてレンガなどになるらしい。濾した上澄みをバクテリアが食べて分解する。バクテリアの元気のために酸素を送り込む。その電気代が相当額に登ると聞いた。

洗剤と糠、洗い物に使うならどちらが環境負荷としては優秀なんだろう?この質問には「最近の洗剤はそうひどくないので問題ないでしょう」「自然のものと言っても大きなものは流さないでください」とのことだった。まぁ、そうだよね、常識的に。

つまり、それ以上詳しいことは生分解の専門家に尋ねるしかなさそうだってこと。自己判断としは、糠の方がマシかも?と思った。下水は何度も濾して最高に透明になったところでバクテリアのお世話になって分解される。その後、薬品を投入し消毒されるわけだけど、透明度という基準では洗剤液のような化学物質の混入は避けられない。

しかし糠のような固体は漉すことができる。素人考えではあるけど。だからと言って、日本中の人々が洗剤を止めて糠で洗ったらいいのか?というと、それはまた別の問題が生じるかもしれないなぁ。レンガができ過ぎちゃうかも知れない。

また、大磯町のように下水道が完備しているところでは、河川への下水の流入は無いけれど、浄化槽だったら?或いはそのまま流すような環境だったら?いわゆる富栄養化というバクテリアで処理できない量になるなど様々なケースが想定されるから、正解はひとつじゃない。

けれど、まぁ、我が家の環境では糠で洗うことは悪くもないという結論が導かれて、それは下水処理場を見学して良かった。お財布の問題としては大採用ってとこだ。




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