2016年05月30日

私を許す?

nandia.jpg

完全に赦すこと。それはできるんだろうか?ペンデュラムの答えは「できる」だった。わからないとき、迷ったとき、でも心底ではもう決意しているんだろうなと思うとき、
身体はきっと知っているんだろうな、と思えるとき、私はペンデュラムを使う。ペンデュラムとは、ペンダントのようなもの。振り子だ。

そもそも「赦す」が主題に出て来たのは、高根ちゃんのやってくれた日本の神様カードリーディング上でだった。今、私は障がい者になったということを受け入れ、治療費の補助を受け、介護保険のお世話になって電動カートや車椅子を借りて過ごしている。

心は概ね晴れやかで、何の不足もない。先行きのことなど誰にもわからないので、要らない心配はしないことにしている。だから満足な毎日ではある。いつもはひとりでこのカードを一枚だけ引く。「今、私が知るべきことを教えて下さい」と聞いてみる。

けれども、高根ちゃんが練習中のカードリーディングをしてくれる、というので、せっかくだからいつもより具体的な問いかけをしてみようと決めた。その質問は「一体全体
私の病気は治るんですかね?」というもの。ふと、一生このままなのかな?という疑問が頭をよぎったから。

選んだ4枚のカードは、青の中に赤が燃えているようなものばかりが3枚。産土神の白いカードが1枚。3枚のカードは左向きで方向性があり、ひとつは真正面を見据えている。その見据えているカードが「燃やせ」だったので、高根ちゃんは「何かまだ塊があるから、燃やして忘れてしまえ的なもの」と解釈したのだ。

ああ、殆ど忘れかけているけれど、残念な、悲しい、そして悔しい、いっときは決して許すまいと思った出来事が私にはあるのだよ、本当に。この耐え難い感情は失望から幻滅、幻滅から軽蔑へと変化した。相手を軽蔑することによって、私はようやく誇りを保ち、どん底から這い上がった。

そして、時と共に水分が蒸発するがごとく濃厚に煮詰まって、結果としてその感情は、鋭利な塊のように結晶してしまった。憎しみや恨みはとうに越えたが、名付けられないその尖った固い感情を持ち続けた私は、同情して欲しい人になった。

かわいそうだと思われたい、という思いが結実して、それで病んだのだ、きっと。あれから11年経った。時は確かに全てを癒してくれる。だが、時を待たずにもっと積極的に
許すのだ、忘れてしまうのだと自分で決めることだってできる(ノカモシレナイ)。

あなたのためにその方がいいよ、と言ってくれてるよ、と高根ちゃんは言う。産土神のカードは「あなたを生まれる前からずっと見守っているよ」というメッセージだと。
水に流すことができない思いなら燃やせ、と言われているように私には感じられた。

そうか。燃やして炭にし、風化させてしまおうか。できる、と心の奥が言うのだから。編み物を一目編むごとに「許す」と呟いてみる。ユルス、ユルス、ユルス。程なくして「的」は相手でなく、私自身であったと気づく。

許すことができない、その感情の刺(とげ)は相手でなく私に向いているんだ。ああ。そのことに気づくとたちまち許して、と願う側になる。ワタシよ、私を許して。

2016年05月27日

柑橘系の寝坊対策

orange.jpg

この頃の私は朝が遅い。出勤の必要もない「自宅療養中」の身の上なので、いつまでも寝ていたっていいのである。あるが、美味しい朝ごはんや、空腹を感じながらチャチャッと作る昼ご飯などに魅力を感じているため、しかるべき時間には起きたいのよ。

ああ、そうだ、こういう季節やこういう体調のときにオレンジとかレモンっていいんだよね、と弊社の製品を思い出す。柑橘系の香りはいつでも爽やかだけど、朝はことさらだ。細胞が全部お休みモードでくた〜っと寛いでいるところに、爽やかな心地よい刺激をもたらしてくれる。

このスプレーは首から顔にかかっても安心な化粧品としての認可をとっているもの。
なぜかというと、ただの香りであっても液体が肌にかかるから、その蒸発の際に肌の潤い分まで持って行ってしまわないか?というのが私の心配だった。そこで保湿成分をある程度プラスして化粧水という仕立てにした。

製品性能としては満足。しかしながら、今度は化粧品としての法的な制限が加わり、パッケージ上で香りの話が一切できなくなったのだ!いや、だから本来は香りのものだから、と言いつつ、その香りが精神に、また身体にどんな作用をもたらすか?ということは「化粧水」の名に於いて一切表現できない。

だからみんな化粧品って店頭で派手なポップとか、イメージ戦略が必要なのか〜、と製品が完成してから唸ってしまった。でも、ド派手なポップなんか美しくないし、広告宣伝も気が進まないなぁと思っている間にここまで来てしまった。

モノとしては自信作。柑橘系のシミになる作用を徹底的に避け、気分一新、爽やかでどなたにも好かれる柑橘系の香り。潤い成分がプラスされているので、化粧水としてたっぷり使うこともできる。ちょっともったいないけど。たまに容器のスプレー故障があるのが欠点。(良品とお取り替えしています)

ベッドサイドに常備して、朝の目覚めにひと吹き、バッグに忍ばせて気分転換にひと吹き、嫌なことがあったときなどにもシュッとひと吹き。特にお勧めなのは出張先や旅先に持って行くこと。寝付きにくいホテルのリネンなどにスプレーすると、自分空間に早変わりします。香りって素晴らしいよね?

家の中で人を寛がせるには色々なアプローチがある。静かなインテリア、間接照明、または積み上げられた好きな本みたいな「視覚的」なものもあるが、身体と心にどすん!とダイレクトに影響があるのが匂い。田舎の家の少しの黴や干した布団の日向の匂いなんて、典型的だ。

柑橘系の香りは万人を寛がせ、リフレッシュさせる。健全な食欲も出ます。緊張していた心も身体も解すけれど、それが少しもダルな感じの解き方でないことも気に入っている。さてさて、明日から香りの力を借りて、良き目覚めを期待するか。

ネットショップからお求めいただけます!
 

2016年05月25日

ギロンの場

shakuhaku.jpg

昨日、ふともらった朝日新聞に「高校生の校外活動(政治的)の学校への届け出」に
ついての読者意見が載っていた。最初に明確にしておくが、校外活動だ。学校には関係がない範囲のこと。だが、「生徒の安全確保」のために届け出を義務化する(愛媛県の高校)というのが議題だ。

義務化が必要だという意見は「高校生という身分は保護されているのだから、保護する側に情報なり状況を知らせておくのは当然の義務だ」というもの。43歳パート。もうひとつは「高校生には勉学の方が大切であり、義務である。政治活動に参加する事前届け出を義務化することで先生が生徒に意見したり、成績を下げることはないと思う」というもの。

教師を過大に評価しているが、実態は教師には逆に「意見する」「成績を下げる」権力がある、つまり生徒は教師に弱みを握られているということを露呈してしまっている。これは15歳中学生の意見で、成長段階にあって、大人は自分たちを害しないと思いたがっていることがよく伝わる。で、残念ながら良い大人ばかりではない。

反対意見は「政治に関心を持つことが特異なことのように思われかねない。若い世代の低投票率は、主権者教育をきちんとしてこなかった学校の責任もあることの自覚を」15歳中学生。「届け出が義務化されれば、不自由で行動を縛られている気分になり、政治的活動への参加を諦めてしまう、即ち若者を政治から遠ざけてしまう」15歳中学生。

「選挙権の引き下げは若い世代に政治参加を求める意図なのに矛盾している、「生徒の安全確保」とはいったい何なのか?」13歳中学生。「学校外での活動のこれまでの禁止事項(バイク、アルバイトなど)は学校運営や管理上の都合のものが多く、生徒が自立できるように教育、支援する努力を学校側が怠って来たものだ、生徒を萎縮させ実質的な禁止になる」75歳元高校教員。

私自身はこの事案をあまりよく知らなくて、たいした考えも持たなかった。読んで、面白いなぁと思った。意見って、いろんな段階のものがあって、議論が成立しにくいものもある。それでもこうやって新聞の投書欄が活発に多方向の意見を載せるというのは、本当に面白い。

意見を言う、反論を喰らう、思考に新しい要素が加わる、自分の意見が少し変わる。
それを面白がれないかな?ワタシ、と考えてみる。日本人は概して議論は苦手らしい。確かに口角泡を飛ばして議論している人達って、70年代の学生運動時代以降あんまり目にすることがない。

議論で反対意見に出くわすと、人格を全否定されている気分になるという。でも、そうかな?そんなことはないはずだよね?反対意見をのけぞりながらも良く聞いて、ドキドキしながらでもそれを検証することって素晴らしいんじゃなかろうか?考えたけど、やっぱり賛成できない、それならそれでいい。

しかし、そんなことが難しいのは、議論の場が極めて少なく、みんな自らの羽を捥いでおとなしく縮こまって生きているせいかも知れない。誰も傷つけないと言えばきれいだが、何よりも面倒に巻き込まれたくない一心が垣間見える。なんだか淋しい。

もし、そんな議論が日常にあって、そう、昔の床屋や銭湯での世間話みたいに、意見を戦わせるような場があって、続きはまた明日、と言えるような関係があったら素敵だと思う。これについては意見が合わないんだけど、お茶仲間ではある、というような。

意見の似ている人とは繋がり易い。けれど、それでいいのかな?という疑問も生まれる。小さな囲いから出ないでいるつもりはないけれど。私の実家は夕飯時は意見交換の場であって、男性達に太刀打ちできず歯ぎしりした経験も多々ある。

あ、ここまで書いて気づいたけど、近所の人と立ち話などすればいいのだ、きっと。
好みからでなく、共通点の違う立脚点はきっと色々あって面白いに違いない。引っ越してきて10ヶ月近く。できるかな〜?

 

2016年05月23日

みんなの自由

monpal.jpg

我が家にHONDAモンパルがやってきた。これ、すごく素敵。年寄りはこんな感じでしょ?的な投げやりなデザインでない、乗り物としても魅力的な意匠の電動カート。私が年寄りと言えない年のせいか、通りすがる小学生が「あれ何?楽しそう!」と囁く。

車椅子での最初の一年を終え、介助される側の不自由さも思い知る。健常者だった頃、自分は自由だと考えていた。みんなそうかも知れない。そして障害を持った今は不自由なばかりだと考えていた。不自由なことは堪らない。気が向いた時に出歩くことって実は素晴らしい自由なんだ。

誰にもごめんね、という気持を持たないで済む方法はないか?不自由は苦しい。なんとかしようと足掻く。ガリガリ足掻いたってどうにもならない。何も変わりはしない。苦しい。その葛藤の中で、何をどうしたいのよ?と自問することになる。自分の望むものの輪郭をはっきりさせる、というか。

だが、自由、不自由は身体機能に由来するんだろうか?それとも経済力に?それとも想像の翼に?そんなことをつらつら考えながら、できることをする単純な喜びにつき動かされて、編んだり縫ったりしながらジリジリと毎日を暮らす。それが私の療養の日々。

電動カートに初めて乗ったとき、目的地があるから急いで行こうと自然に考えた。現役バリバリ時代の名残かな。あの頃は目的なくぶらつくようなことが苦手だった。手元のスイッチで時速1Kmから6Kmまでの速度指定をする。真ん中辺りにセットした。

けれど、杖を使って痛みを堪えつ、10分以上かかってやっと50mを歩く(現在、それが最長)私には、通常の人が歩く速度は速過ぎたらしくドギマギしてしまった。歩けなくなった一年で私は歩行初心者になっちゃったみたいだ。1歳児くらいだな、と苦みがこみ上げる。

気を取り直して、スイッチをずっとゆっくりに切り替えた途端、脇の圧倒的な緑地帯から、聞いたことの無い鳥の声が聞こえて来た。ああ、これでいいのか。私は「急がなくていい時間」をもらっているんだな、そのことの恩恵に気づいて充分に味わい尽くすために、今生きているだな、と思えてくる。

風が気持よく頬を額を肩をなでて行く。眩しい初夏の日射しが美しい。まるで洗うように全てのものを照らす。私は今、屋外、それも国道の鋪道にひとりいる。すごいぞ。風を切るなんて、何年振りだろう?自転車は手首が痛くて乗れなくなり、最後に3輪スクーターに乗ったのは2013年の2月だった。3年経ったのか。

電動カートが来た、その数日後に町役場から障がい者アンケートが来た。障がい者として差別を感じたことがあるか?それはどんな時と場所か?差別をなくした方がいいと思うか?というアンケートだった。差別か。感じたことはたくさんあるけれど、もっと良いことばがある。

こども、妊婦、年寄り、足弱、障がい、今、貧しくある人、困っている人、誰でもが
「自由」に出入りし、行動し、寛げる場所が無数にある、そんな社会の実現だ。多分、その名前は「自由」だ。私一人のでなく、全ての人の「自由」だ。 「みんなの自由」
それ、すごくいい。

本棚って脳内かも?
記事検索
livedoor 天気
livedoor プロフィール
http://astore.amazon.co.jp/sabro822-22