2018年06月20日

わかりにくいことを恥とすべし

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民泊の許可申請でここ数週間、落ち着かない日々を過ごしている。新しく施行された法律なので、申請するこちらも白紙状態だが、申請を受け付ける側も多分に慣れない。慣れないんです、と言えないタイプの人が担当にあたると結構ややこしいんだな、と思うことがあった。

名指しですみませんが、消防署です。民泊の申請は、実は所轄の保健事務所、つまり通称ホケンジョに届け出る。最初に、サイトじゃ良くわからないから、近くの消防署に行っちゃえ!とばかり訪ねた。その時点で、ホケンジョなのだと知り、その際に親切にも「必要書類一覧」のコピーをつけてくださる。

次に保健事務所に行ったら、窓口では「わかりにくいですよね?」と言いつつ、大変親切。書類一式と記入例一式、更に神奈川県の独自必要書類の説明もしてくださった上にリストもくれた。

私が障害を持っているため家にいることが多いので民泊を考えたと言う、ごく個人的なことまで話せる、余裕のある担当者だった。

諸々の書類を整え、最初に行った消防署で教えてもらった通り、火災警報機と消化器も取り付けた。さて、それでは消防署の消防法適合住宅証明書、つまり消防法上、この住宅は火災について適切な設備を整えておりますよ、という認定ね、それを戴きに行く。家に実際のところを見に来てもらうわけ。

事前に電話したらもうひとつ、日用品を買う店が近くにあるという証明が必要だとわかり、それも相整えた。えっちらおっちら、時間をかけて消防署の高い階段を二階まで上がる。だって、一階は消防車が置いてあるから天井が高いのよ。

書類は全部オッケー、では消防法適合の申請となったところで、「申請書は?」と違う同席の係官に聞かれる。は?「申請書です。ないんですか?」それはどこに出す申請書ですか?民泊の申請書はホケンジョから戴いたもの一式、先ほどご覧いただいてコピーをおとりになりましたよね?

「消防法適合の申請書です」それはどこでもらうんですか?どこに出すんですか?「パソコンでpdfをダウンロードしてください」「こちらに出してもらいます。」おいおい、私は今、目の前にいるんだぜ?ここは消防署だぜ?と内心思いながら、パソコンが無い場合は?と聞いてみる。

わずかに私は怒り始めた。「パソコン、無いんですか?」いや、ありますけど、今、私はここにこうしているわけで、こちらに出す申請書なら、こちらで戴いてもいいのではありませんか?先程来、印鑑や身分証明書など一式持って来ているのもご存知なんですから。

「え〜、本来は自分で用意してもらうんですけど」ちょっと待ってよ。あのぅ、パソコンがあってもプリンタが無いとか、プリンタの調子が悪いとかってことはあると思うんですけど?本来、来所できない人のためにパソコンのpdfダウンロードはあるのではないんですか?

「いや、ここでプリントしてあげると費用がかかったりするんで、もごもご」と口ごもる。は?数円を惜しむ程、経費無いんかい?しかし、それは私にぶつけるモンダイではなく、親の消防庁に言うべきじゃないのかしら?などと思いつつ、むーん、としばし沈黙。

また家に帰って、この高い階段を上るのは身体上の理由で辛い。すると、最初に担当してくれた予防課の係官が件のその紙を持って来てくれた。ペラーリ。あるんじゃん。
まぁ、大した話ではない。お役所ではよくある話だ、多分。

だがね、私は思った。「この人達、自分たちの要求している事務仕事が市民にとって
わかりにくいということを、努力不足だとか、恥ずかしいと思っていない!」
とな。
これは誠に不思議なことだ。

公的な機関というのは、利用者のために存在する。利用者がわかりやすいように、利用しやすいように配慮するのは当然で、公僕の基本的な姿勢でなくちゃならないと思う。その努力が不足しているのに、なぜわからない市民側に高圧的な態度をとるかな。

これが民間だったら、たちまち他の業者にお客は行ってしまうところだよ?ちょっぴり複雑なことや、自分でも100%の理解に及ばないことは説明が難しい。だからこそ、人に伝える前によくよく読み直したり、吟味したりする。

そーゆーの、無いみたい。たいがいのお役所では。そう言えば、政府だって官僚の人々だってわかりにくいことばばかりを発する。難しいふうに言って煙に巻いたり、意味不明なことを長々と喋ったりして、はぐらかされる。

私の考えでは、わかりにくいというのは、本人が理解していないか、ごまかしや嘘がある場合なのだ。まぁ、こういう私だから、若き日はあちこちで怒った。税関、税務署などなど。もっと、わかりやすさについて公的機関は心を砕くべきである、と言うのが持論です。どう思う?

2018年06月18日

バイバイ、大手さん。

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携帯電話を3年振りにいわゆるガラケー(これは辞書にあるのだろーか。ガラケーは何の略であるか書いてあるんだろーか。そもそもガラパゴス化から説明を引っ張らねばならないが。)からスマートフォンに変えた。

私は文房具好きでパソコンもウィンドウズ以前から使っているし、スマートフォンも結構早く使い始めた。その頃はソフトバンクに毎月8,000円位払っていただろうか。娘が学生だった頃は2台分で13,000円くらい払っていた記憶がある。

3年前に寝込んで家にいることが殆どの暮らしになったので、画面はパソコンで観ることにして、携帯は電話専用にとガラケータイにしたのだった。稼ぎが減ってしまったので
年間にすると結構な額になる毎月の支払いを見直そうという気分もあった。

ソフトバンクのままでガラケータイに変えようとした3年前、ガラケーは在庫が無いという。は?画面には在庫有りと出ているんですけど?「あれは新規のお客さま用の在庫なんです」

なんと!よそから来る人には売るが、もともとソフトバンクでスマホを使っていたユーザーには売らないと。つまり彼等としたら、ガラケータイはよそから転入して来る新規顧客獲得のためのツールであって、月々の課金こそが最終目的なのだった。

サイトに出てるのに、売らないって、ちょっとそれはないんじゃない?私はいささか鼻白んだ。調べてみたら他の大手も同じようなものらしかった。ジェイフォンやらボーダフォン時代からのお付き合いだけど、それなら引越だ!ということでauに鞍替え。

その際に、娘は携帯代を自分で払うことになった。調べた挙げ句、格安シムカードというものを手に入れて、中古のiPhoneを購入し、月々2,000円以内の支払いになったという。どーなの、それ?と横目で眺める。

docomoやauの回線を乗っかりで使うので電波的不都合の心配はない。後は基本料金内に押さえるコツがいりそうだったが、すっかり慣れて何の不自由も無いという。遅ればせながら私も後を追うことになったわけ。老いては子に従っちゃう。

さて、現在に話を戻すと、私の通話専門のはずのガラケータイは、節約を心がけているのに月3,000円近い。電話が基本的に苦手なので、何にそんなに使っただろう?と調べようとすると、「詳細がわかる契約になっていない」ということでブラックボックス。

我が家には無線LANが設定されているので、ガラケータイはウェブに繋がない。それなのに、お知らせや本人確認などと称してウェブに繋がなくてはならない場面があるのも理不尽。このとき、我が家のLANに乗れないのだ。

そんなわけで二日間ほど格安携帯とこのままauでスマホに替える方法の価格やできることを比較し、自分に必要な機能などを調べまくる。かつて使っていたiphoneはヴァージョンがX(10)まで来ちゃってて手の届かない価格になっている。

やっぱりそこそこの出来で、安い機種+格安シムにしよう、と決める。で、番号をそのまま使う「ナンバーポータルサービス」をauに申し込む。無料電話だから良かったものの、なんと40分以上かかって顧客の転出を食い止めようと搔き口説かれた。

しかも、今止めると、16,000円費用がかかります、と。えええっ?何にそんなに?と思うが、ダレデモ割に加入していて、2年ごとの自動更新であり、更新月は10ヶ月後だからいくら、何々割に加入していてその解除費用がいくら、という具合である。ほぇ〜。

咄嗟に16,000円を12ヶ月で割る。1,300円ちょっとか、いや、それを上乗せしてもauの窓口のお嬢さんがお勧めの(この電話口で15,000円の割引クーポンを差し上げます、と来た。胡散臭いぞ。)月々6,000円払う課金より格安シムと端末の方が安い。

いっそ、その懸命の引き止め作戦が、悪辣なビジネス感を強調する。ホントのところどうかは知らないけど。あ、いいです。やっぱり止めます。そう言って切る。いつかもソフトバンク、汚ねー、と思って止めたのだが、auもきれいな仕事ぶりとは言い難い。

そう言えば、Adobeも月々の課金になって久しい。長く使っていたイラストレーターというアプリケーションは12万円程出して購入したのだが、あるときぱったり使えなくなり、月々数千円出す契約をするとヴァージョンアップしたものが使えると言われた。

いや、私ヴァージョンこのままでいいのだけど?だが、もうそのアプリケーションは開くことが出来なかった。この会社は違法コピーなどで苦しんだから、仕方の無い自衛戦略と言えるけれど。商売巧い企業はものを売るのでなく、使わせて月々課金して行くシステムに切り替わっているね。

電気代だってそうだな。東電は再生可能エネルギー発電促進賦課金ってのを料金に上乗せしているもの。小さな金額だから、結構みんな文句も言わないけど、ユーザーが支払う筋のもんなのだろうか。私は東電をやめたけど。

なんか感じ悪いな。広〜く薄くもれなく課金して行く世界。まぁ、それならこちらも選択して節約に努める工作をするのみだわ。情報収集も必要だし、最終的には使わなくたっていいくらいの逞しさも欲しいな。

さて、かつての電電公社、今NTTは、市民から8万円近い高い電話加入権を収奪した上で、そのお金であちこちにインフラを作ったのに、民間になった際にそれを市民に返却するどころか、加入権を段階的に無価値にした。

さらに膨大な数のテレフォンカードを販売して、今や使える公衆電話の少ないこと、私はちーと反感を持っていたのだよ。でも、回線に乗らせてもらってささやかな復讐としよう。バイバイ大手、となんとなく思う。

なんだか世知辛いなぁ。ともあれ、人の買い物は確実に世界を変えて行く。大手ばかりの世界より、個性的な小さい企業がいっぱいある世界が私は好きなんだ。 

2018年06月15日

権力って怖いよ。

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今日、人が手錠で拘束されて自宅から出る様子を偶然目にした。
そんなことってある?私は初めてだ。私服の四人の男性に囲まれて、手は前に繋がれたその後ろ姿にはウェストにベルト状のものが巻かれていた。いわゆる「お縄」。

家の近所で、静かな朝だった。制服制帽の人がいなかったので「本当に警察かな?」と思っちゃった。5人が乗り込んだ車は白いワンボックスで、普通の白いナンバープレートだった。拘束している側の人々とは目線を合わせないように伏せちゃった。

そしてなんとなく、ナンバーを扣(ひか)えた。あ、私、俄然疑ってるじゃん?と自分で気づいた。だが、何を疑っているんだろう。えん罪?警察?警察のふりをした反社会勢力?そういえば、テセウスの船というえん罪の漫画を読んだばかりである。

少し前には名張葡萄酒事件の映画「約束」も観たし、痴漢えん罪の「それでもボクはやってない」も観た。NHKのBS1スペシャル「ブレイブ 勇敢なる者"冤罪弁護士”」も観た。数年前には全福島県知事だった佐藤栄佐久氏の「知事抹殺」を読んで、検察や警察の取り調べの偏向的ずさんさを知った。

一昨日は袴田事件の再審請求が取り下げられてしまった。警察、検察、司法、権力ってこわいし、愚かだなぁと思う。ちっとも反省しないなぁ。つまり良くなろうという自浄作用が欠損しているんじゃなかろうか。

更に思い出したのは、ずいぶん前、お世話になったことのある弁護士さんの件で警察を名乗る人から電話があったときのことだ。弁護士さんはまだ容疑がかかっている段階であった。それなのに、電話口の警察官は「スギモト」と再三呼び捨てにした。

「最近スギモトと連絡を取りましたか」「スギモトに最後に会ったのはいつですか」
「スギモトはお金を貸せなどと言いませんでしたか」なんかすごいのだ。決めてかかっている感じ。私はその弁護士さんに好感を持っていたので、いささかむっとしたのを覚えている。

警察を嫌ったりしているわけではない。車椅子生活となった私を一家の主として、東アフリカから娘の夫を迎えた頃には、近所のお巡りさんに事情を知っておいてもらおうと積極的にもなった。災害時には私はお荷物になってしまう可能性があるのだし、新しい家族は、見慣れない外国人だし。

そういう意味では警察は頼りになるところでもある。二俣川の免許試験場では、障がい者であると一度わかれば相応の親切も受けた。何より運転能力だけを調べてくれる偏見の無さを感じて、サポートはあるが、特別視しない扱いはうれしかった。 

市民は警察を拠り所としている部分が大きいのだ。それなのに、容疑がかかったら扱いが一転してしまう。容疑は疑いであって確定とは全く違う。裁判だって疑わしきは被疑者の利益に、という鉄則があるのに機能不全だ。

容疑者には敬称を付けないという決まりでもあって、それを守らねば職務違反になったりするんだろうか。もし、私が警察官で捜査官だとしたら?警察内部では敬称をつけなくても、一般人に質問する時にはつけたいと思う。

容疑が確定してもいない段階で敬称を外すのは、犯人並みの扱いであるし、ちょっとした人権侵害の気がするんだ。まぁ、それ以外にもある。交通課の巡査に呼び止められた中年の男性の友人は「おとうさん」と呼ばれて憤慨していた。何ごとも人に依るのだとは思う。

それでも「取り締まる」力を託されたに過ぎない一機関が、やや暴力的に或いは高圧的に振る舞うとしたら、それを更に取り締まる機関が必要なのかも知れない。そういう機関、無いよねぇ。政治もそうだけど。

人々の暮らしを安全かつ順調に送るためにある機関が、その託された職務上の権力を拡大して使うとき、それは絶大な暴力になる怖さがある。

私たちは相手を信用してピストルを渡したのだ。その相手が渡されたピストルを私たち側に向けたら?沖縄で行われている市民の反対運動を物理的な力で排除していることは、その線上にある。まだ、ピストルに手をかけないでいるだけのことだ。

権力って怖いものだ、と思う。
 

2018年06月12日

あの世からのお使い

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うっしーだな、と思うのだ、蝶が私の目の前を華麗に横切ったり、まとわりついたりする度に。うっしーは今から12年前の寒い2月の冬の日に亡くなってしまった若い染色の作家。うしだみのりさんと言う。

彼女の死を聞いたとき、私もまた6ヶ月になるお腹の子がどうやら不調らしく、痛みと出血で苦しんでいた。結果、その数日後に死産という運命だったから、私はお葬式にもお通夜にも行けなかった。

悲しみと寒さと痛みと心細さで打ち震えているときにやって来た訃報だった。報せ自体が黒く縁取りされているような、そんな感じだった。悲しみと静けさの純度の極めて高いヤツ。患っているということは聞いていたが、こんなタイミングで、と打ちのめされた。

その後、私も亡くなった靴のサイズくらいのお腹の子の火葬をし、カサカサの乾いた心のまま、砂利だらけの道をやっと進み始めた頃、イギリス人の青年からメールをもらった。うっしーを愛していたらしかった。それでうっしーのご家族に繋いだ。

うっしーのご家族は、長い電話でうっしーが蝶になって戻って来ると約束してくれたと私に話した。その年は、本当に蝶との遭遇率の高い年になった。あり得ないような季節や場所で蝶を見かけた。その都度、私は「うっしーだね?」と呟いて過ごした。

今年は13回忌だったらしい。会期が明日まで、というやっぱり伺いにくいタイミングで、うっしーの遺作展の招待状が届いた。明日は都合が悪い。会ったことのない、しかし確実に繋がってくださっているうっしーのご家族に会いたいと思いながら諦めた。

そうだ、手紙を書こう、と思いながら、確定申告を終えた私の机は、苦手な事務処理待ちの書類が山になっている。その下の方に彼らからの手紙があって、封筒にご住所があるはず。その山を横目で眺めながら、数ヶ月が過ぎてしまった。

そして、友人からうっしーの遺作展を偶然見たという話を聞いた。彼女は生前のうっしーを知らないが、とても気に入ったと言う。うっしーは2000年だったか、その前後に原宿にあったカロカロハウスで2度個展をしている。一度は茅ヶ崎でもしてくれた。

植物で染色しているのに、人が「草木染め」をイメージするような美しい淡いものでなく、枯れたり錆びたり、黴が生えたような、どこか退廃的な、しかし大地のミックスのような色。極めてナチュラルな染色だが、化学繊維みたいなものや、安手の素材にも染めて、草木染めのお行儀の善い子っぽさを上手に避けている仕事。

だから力があるし、粋。裏山で枯れ葉を拾って来るんだ、と言っていた。忌野清志郎さんのファンで、彼に着て欲しいと言っていた。そんな彼女は30歳で早世してしまった。私の手元には、そんな鉱物めいた色合いのニットが1枚残った。確かな存在感ながら、どんな組み合わせにも違和感なく馴染むひと品。

このところ、とみに蝶が目に入る。黒に白いV字が入った小型、アゲハ、白い襞(ひだ)のきれいなものなどが次々と私の前にやって来て、一昨日はとうとう私に止まったのだった。ごめん、ずっと思いはあるんだけど、手紙書かなくて、と蝶に言う。

想像だけど、あの世とこの世を結ぶ結び目は、多分至るところにあるのだろう。その裂け目のような隙間から、声なきメッセージを載せて蝶は躍り出て来る。いつもそう思う。そして自分が期限のある時間を生きている最中なのだ、と思い起こす。




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