2017年12月09日

時代のセンスはどこを向く

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樹齢150年のアスナロの木をバッサリと切って新幹線やロケットを運ぶ国家プロジェクト用のトレーラーと船でうんとこどっこいしょと遥か遠い神戸に運んで展示する、という企画がある。この話、ご存知?

私はこれをFacebookで知って、なんとなく後味の悪いような苦いような思いをした。伐るのには間に合わなかったらしかったが、反対署名には協力したひとりだ。

知らない人のためにざっと書くと、その企画はもみの木でないアスナロをクリスマスツリーに仕立て上げるために「残念な(なぜだか)存在だけど、世界一のクリスマスツリーになる」と言うことだった。伐られたアスナロの巨木は、その後小さく刻まれてバングルになり、みんなの持ち物となって愛されて永遠の命を得る、という筋書き。

漫画の世界だって、これじゃ今時リアリティが無いと却下されそうなストーリーだと思う。だが、ぐっと来た人々もたくさんいて、クラウドファウンディングで実行されている。そろそろ会期も始まった。

この企画はプラントハンターという聞き慣れない仕事をする植物の売買の専門家の立てたもの。それに乗ったのが糸井重里氏で、その広いファンの裾野分話は広がって行った。プラントハンターとはどんな仕事だろうか、と興味が湧いた。

彼の紹介としては、世界中の貴族王族、企業や行政機関に世界中から探し出して来た植物を届けるというものらしい。こりゃまたビッグな思いつきである。楽しそうだ。だが、そのプロセスが生命の方を向いているならという制限が必要である。むしろ、困ったなぁとちょっぴり感じたのだった。なんかうっすらバブルの匂いがする。

日本の大磯の私の日常にはバブルは無いけれど、地球のどこかにいつでも好景気は存在しているわけである。この20年ですごい発展!と道案内してくれたドーハの人と、あのバランスのおかしな妙ちくりんな建設物の点在する都市を思い出しちゃう。

この壮大なプロジェクトは私の日常感覚から遠い。150年生きた巨木を伐り倒すことにも必然性を感じない。だが、ここに夢を感じる人々が多くいるのも事実だ。いつもビッグマネーを動かしているトレーダーの金銭感覚が庶民の日常と離れているのと同じなんだろうか。

結局、件の企画はインターネットで少々非難を浴び、切り刻んで記念品として売るはずだったフェリシモがその部分を撤退したらしい。現在、そのバングルが数千円で買える部分はサイトに無い。

神戸の「震災からの復興」のシンボルとして、その命の終焉と再生というキリストになぞらえたクリスマスに相応しいイベントは「再生」部分を撤退して進んでいる。死にっ放しというわけよ。

パッとしないなぁと私は思うんだが、現地の神戸ではどんな様子なんだろう。電気を使わない反射ボードのオーナメントはいいアイディアだけど、それを500円で売ってその人と無関係などこかの子供たちに願い事を書かせるのもどうもピンと来ない。

確かにお金持ちがいる世界は美しいものを多く残してきた。私たちはそういう過去の遺産を見て感嘆したりする。ヨーロッパの建築物や美術など、パトロンという存在あっての成熟だ。(実は、もうひとつ成長しないお金という大きな条件もあったのだけれど、その話はまた別の時に。)

文化の伝承や夢のある世界の方が、よりロマンティックであると思う。けれど、格差による人の分断が生まれるような「お金持ちのいる世界」は21世紀の今、これから目指すには古い。もうそれは終わった。充分やったのだ。

もう時代は「打ち上げたり」「盛り上げたり」「押し寄せたり」するのとは違う方向性を見せている。大きいことが素晴らしかった時代は終わったんだと思う。ちがうかな。人々がもう少し内観的な、個人的な記憶や記録を大切にしていくような、小さくて細くて、けれどそれだけに確かで濃密な繋がりや広がりへと形態が変わって来ているように思う。

そういう意味で、より先鋭的なセンシャスな人々はあのプロジェクトに強烈な違和感と反発を抱いたんじゃないか?そのセンスが新しい時代を引っ張って行くのじゃないか?と思う。まだ、少数派であるにしろ、ね。

※画像はその企画のサイトから。




2017年12月04日

メンバー増員のご報告

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先月中頃から我が家のメンバー増員に伴って、諸々不慣れなことの連続でありました。で、更新が間遠くなってしまった。お腹の大きな娘の姿を知っている方は、そろそろかな?とこのブログを見ていたと言ってくださる。そこでご報告デス。霜月24日に目出たく現れたるは、大きな男児でした。

さて、次にはその名前。私が生まれた時なのだか、生後すぐに亡くなった姉のためだったのか、我が家には父の読んだ歌が短冊になって存在していた。赤ん坊のよくある表現の「みどり児」で始まるその歌は、見つけた時にきっと私のことだ!と小学生の私を喜ばせた。なにせ、私の名前はみどり(緑)だから。このことは長く愛情の印として私を支えた。

今思えば、亡くなった姉のことかもしれない。私と同様、誰にも師事したりしないのに
時々三十一文字(みそひともじ)を書き付けたくなる父が、深く心動かされたのは幼い死児を抱いた時かもしれない。けれど、思い違いにせよ、自分のために詠まれた歌があるというのは悪くないものだ。

日本語名を希望する娘夫婦は、長いこと名前を考えあぐねていた。意味する所が良くても音がルワンダ語やスワヒリ語でおかしな意味になることも間々あって決めかねていたのだ。娘の陣痛が間近になって助産院に入った夜のうちに、私のアタマにやって来たインスピレーションは「知庸」と「柊青」だった。

中庸=ニュートラルということの素晴らしさと稀さ、難しさ。そこに至る道は「知ること」なのだなぁとここ一年感じていたからだと思う。知を以て庸とす、漢文っぽいなぁ。こりゃ〜理が勝ち過ぎかしらね。

柊の青は少し叙情的。私と娘の母子は知人から「青い」と言われることがあって、それは私にとって褒め言葉なんだけど。理想を失わないとか諦めないという意味に於いて、おばかでもいつまでも青くありたいと思うから。

そうだ、雪を冠ってなお青々と輝く強い葉は、ちょっと素敵じゃないか、初冬の生まれなのだし、と娘達にチヨウとトウセイの両方の思いつきを伝えてみる。とうせいとタイプしても変換しないのは、私が柊の字を勝手に音読みでトウもあるに違いないと思い込んだせいだ。

事実はシュウしかなかったのだが、当用漢字であればなんと読ませても良いという現在の名付け条件に則り、柊青=とうせいと相成った。ちなみに彼には祖父譲りのアラブのミドルネームもある。

命名紙は、普段短冊やら半紙やらに書く習わしがないので、再生紙のコピー用紙。歌詠みも、ほんのたまにしかしないから、精進の予定もない。自分のお粗末な教養がちょっと以上に恥ずかしい。けれど、今、私にできる精一杯のことをしておくことは別に悪いことでもないや、と思い直す。

丁寧に、「柊のそのつよき葉の瑞々し降り積もる雪を貫きて佇む」と書いておく。これをルワンダ人の息子に英語と日本語のごった煮で説明するわけで、holly leafよ、evergreenでね、even under snowもね、と。どうやらわかったらしく、今度は彼は漢字の練習を始めた。そう、お父さんは届け出など様々な書類に名前を書かされるものね。

 私は彼の人生にはぐんと引いた関わりの「おばあちゃん」という、少々のルール違反や脱線が許される立場なので、外郭からの応援をしようと思っている。お七夜には両隣の人々にお赤飯をお届けして、顔見せの挨拶。この世の一員となった。ご報告まで。

2017年11月23日

エントの嘆きと復讐

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明日、中野区の平和の森公園では整備のためという目的で立派に育った17000本の木が一斉に切られる。クリスマスには樹齢150年になるあすなろの木が世界一高いクリスマスツリーを立てる「復興と再生のシンボル」と題したキャンペーンのために植樹、展示された後、切って売られる。

あちこちで木が切られるような印象を持つ、しかも無駄に。今年に始まったことじゃないかも知れない。でも、特筆すべきものすごい規模であちこちで、我が物顔で地球を「所有」している気分が見られる。私には木の叫びが聞こえるけれども、それが聞こえない人達が圧倒的に多いってことか。

なんたって隣地の松と話をした私だ。隣地の高さ15m以上と思われる松、大きく育った名前のわからない木、ぎゅっと硬く樹形の詰まった椿、その他を「開発」という名のもとで切られるときに、市役所に相談したり、自分でその土地が買い取れないかと無謀にも銀行に借金を申し込んだりした。

結局できなかった。だが、切られるという前の朝、いつも寝室の窓から見ていた一番背の高い松が、「また植えてくれれば良いよ」と私に伝えたんだ。そもそも、私はその数年前に樹々と話ができるようになるために20年吸い続けて来た煙草を止めたんだ。バカみたい?

あの松は私を責めなかった。でも、キミが生きて来た時間はどうする?私より長生きのキミは、私より遥かに知恵を持ち多くを見つめ、たくさんの恩恵を人々に与えて来た。でも彼は言った「私たちはそうして命を繋いで来た」と。確かに永劫に続く命は無い。

だからこそ、賢い人々は長く生きたものに敬意と畏怖を持ったんじゃなかったか。様々に言われながらも天皇がその存在を侵されないのは、彼ひとりのことでなく、代々の天皇が長らく続けて来た一筋の祈り=祭祀、その「続ける」という決して生易しくはない行為のためでないのか。

たかが50年程のスパンの利便性のために、人の一生より長く生きた生命をぶった切ってしまうのか。そもそも便利ということは必要なのか?それには限度があるのか?便利の果てには、手間を惜しむ,面倒がることが待っているのなら、それは生きて死ぬことを否定している。

生まれて生きて死ぬことは、如何にも手間がかかって面倒で困難なことなんだから。生命を否定するような方向に向いている文明は間違っているんじゃないの?クローンにせよ、遺伝子組み換えにせよ、便利の許容範囲を決める基準を私たちは持っているはずじゃないか?

それが「美」という普遍的な価値なんだと私は思うのだけど。
ファンタジー好きの私は「指輪物語」で最後に白の世界を勝利に導いた偉大な力が、古い樹木が動き出して大きな土壌の流れを起こしたことだったのを思い出す。その樹木は「エント」というのだった。

著者のトールキンは言語学者なので、その物語世界に様々な言語を仮構築して物語を進める。そこには2千年のスパンで生きる人々も住まう。全くの夢のような作り話である。けれど、私にはそれは現代の私の住む世界そのもののように、或いはそれを暗喩しているように思る。

犬は入っちゃダメなどと告知してある公園などを見る度に「所有」について考える。便宜的に土地に線を引いて所有を決めるのは致し方ない。孤立しては生きて行けない性質のヒト科の暮らしの交通整理のようなものだ。だが、全てが借り物であるという前提を忘れたヒト科の驕りは全く美しくない。

私たちはそんなに素晴らしい存在でも力を持った存在でもない。他の命を脅かし、その命を奪ってしか生きて行くことができない本質を持っている。そして、自然の力の前には全く無力なちっぽけな集団なんだ。更に悲惨なことには、自分は無知であるという認識すら無い。

世界にある無数のイデオロギーや宗教はヒトの交通整理の手法だ。ただひとつ従うべきは、そしてどの宗教にも共通の理念は、生命の方向を指向することだと思う。それは美しいと感じさせる万民に共通する普遍性を持つ。

商売が悪いことでも便利が悪なのでもない。だが、無駄に木を切ることの醜さは、大勢の人の眉をひそめさせる。それは生命の本質に背いているからだと思う。こんなふうに日常にある「ちょっと変だな」「何だか好きになれないな」という小さな印は実は貴重なものだ。

エントは怒る。復讐だってするのだよ。トールキン世界のような形ではないかも知れない。だが、木の無い地には鳥も虫も住まない。それがどんなに荒廃した世界だか、本来私たちは知っている。私の住む町は緑を味わうのに遠くまで出かける必要はなく、少し目線を上げれば良い。私はそれを選ぶ。 

2017年11月20日

きれいになりたい。

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きれいな人になりたいとずっと思っていた。それはもう、全然身の程知らずかも知れないけど。でも、持って生まれたものが人並みより多少劣っていたとしても、その持ち物を損なわず、腐らせず、磨き続けることだけはしたいと考えていた。

願いというのは祈りと同じで、願い続けていると中身が研ぎすまされて来る。程なくして、そもそもきれいな人とはどういう人だろう?と考えることになった。周りできれいな人というのを思い浮かべたり、有名人で好みの美しさについて考える。

亡くなった父は、鏡を見る時に眉を見ろと私に言った。へっ?眉には感情が表れる、心中穏やかでないときには、どんなに平静を装っていても眉の毛流れが逆立つのだ、と。眉を見て、心を鎮める努力をせよと言うのだった。

本当かなぁと半信半疑なのは今も変わらない。アイブローマスカラのように眉毛を逆立てたりするメイク方法だってあるしさぁ。が、その助言のおかげか、私は鏡の中で気になるシワやシミなどと同時に自分の表情を調べるのが習慣になったと思う。

すると、確かににじみ出て来るものがある。その中にケンやら偉そうな教育的な様子や威丈高な雰囲気を見つけると、ふるふると首を振って反省する。年をとって行くということは、どうやら気づかない内に甲羅が硬くなっていくらしい。

経験やら知識が、それが幾ら古びていようと時代と即さなくなっていようと自分の中では思い出と共に確たる居場所を占めている。若い時には、年をとるとなぜ思い出や昔の得意な話ばかりするのだろうと不思議に思った。なのに私も同じことをやっている。

若さが一番とはよもや思わないけれど、若さに伴う清潔感や正義感のような無垢な感情は確かに美しく、年を減ると瑞々しさとと共にそれは失って行くものらしい。諦めや無力感、後悔などが取って代わる。それは少しも美しくない。

とは言え、年取ることはごく自然なことであって、若さの切なさやり切れなさを充分持て余した私には、ある意味で歓迎すべきことでもある。清潔や正義感、潔癖や新鮮さなどの美しい部分を保ちながら、上手に年をとって行くことはできない相談なのかな。

そう考えると、年がいってもきれいな友人が数々いる。シワもあり、挫折も何度となく味わい、それでも美しいというのは?と考えると、彼らは善意の人である。愛ある人である。ふむ、どうやらきれいな人とは形を上回る美しい空気を纏っている人なのだ。

自分のことを考える時、私は何度も折られて伸ばされた使い込まれた封筒を思い浮かべてしまう。人生の荒波に揉まれて、皺くちゃに丸められたこともある。その後、丁寧に平らに伸ばされて、きちんと折り目をつけられて、今ここにある、ような感じだ。

美しいとは最早言えないかも知れない。だが、味わい深く、やさしく、底光りしているようなことはまだ私にもできる。そう思って、髪をとかし、顔を洗い、化粧を整え、身支度をする。何と言っても私に与えられたものは、この身ひとつだから。

 

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