食べる

2017年03月02日

うちじゃ油は捨てないよ?

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お宅では、食用油の使い残りはどうなさいますか?
我が家では全く捨てるということがないのです。いや、20年位前、これを知るまでは
「固めるテン○ル」などを使って廃棄していたし、廃油で作るせっけんキットなるエコロジーおもちゃもこどもに与えたこともある。

しかし、これを使い始めてからは、最後まで使い切ることができるようになった。
もちろん、質の良い油を買うことは必須だけども。現代は食品の質や健康に少しでも関心のある方なら、油には選ぶ基準がおありだろう。

家では揚げ物をしない、という家庭もある。しかし、私は揚げ物こそ家で、と思う。
業務スーパーというのがある。神戸の会社で、直営とフランチャイジー共で日本中に750店舗もある。業務用の食品を安く卸売りしているのだが、一般人でも買える。アメリカからやって来たコストコの日本版みたいなものだ。

そこで意外なことを知った。「植物油」を一斗缶で売っているのだが、その内容に「植物油、シリコン」と書いてあるではないか。植物油以外に何か入ってる!食品に詳しい友人に尋ねると、シリコンは揚げたてから時間が経過しても艶や張り感を維持するのに有効なのだそうだ。シリコンって高分子化合物の総称だけど、主に化粧品とか、ゴムとかでしょ?

食べられるの?まぁ、食べられることになってるね。いやはや、恐ろしい!大げさかな?植物油で揚げていますと歌っている外食残業も、こういうものを使っているとしたら、私たちは知らずにシリコンを食べる羽目になる。シリコンってワックス効果があるし粘度はいかようにもできるので便利なんだ。

それ以来、オイリー木村と威名を取ったほど揚げ物好きな私は、揚げ物こそ家で!という決意をしたわけ。もちろん、その前からジュワジュワっ、カリカリッと揚げていたけれどね。蛇足だが、一番好きなのはコロッケで我が家では「コロちゃん」とちゃんづけで呼ぶ。

動物性油脂は変質しにくいので、トンカツ屋さんなんかはラードで揚げてると思う。スーパーの総菜もそうかも知れない。それはそれでこくのある旨味があるので良し。ただし、ラードは豚の油だから我が家のムスリム息子には避けたいという家庭事情がある。

油は熱すると疲労する。だんだん元気がなくなるし、うっかりすると酸化する。この油漉し器というか、オイルポットに変えてからは、それが気にならない。なんと200枚以上の繊細なフィルター層で油をゆっくり漉す。

色は未使用と同じようにはならないが、その香りと元気さは数度の使用に耐える。もっとも鰯を揚げたりしたら匂いは取れないけど、それ以外は経験値として大丈夫と言える。炒め物や天ぷらなどに再度使えるし、必要なら新しい油を足しても使える。

我が家では一度揚げ物をして、このポットで濾した油をまた揚げ物、炒め物などに再利用して、やがて無くなってしまう。つまり全部消化してしまう。素晴らしい天カスができるので酸化する前にネットから取っておくといい。我が家では犬のドライフードのトッピングにおすそ分けしてやったり。

揚げ油は「菜種油」を使っている。生協や自然食品店で扱っている物理的圧搾のもの。化学薬品で抽出したものは避けている。油自体に力がある上に、適性な濾過装置を用いていれば、最後まで使い切れて経済的な気がする。

更にお店じゃないから、たっぷりの揚げ油という贅沢はしない。揚げ物に使う油は少なく工夫する。大きいものや大勢用にはフライパンを使うが、大体1cm程の深さで揚げる。必要なら蓋を使う。お弁当のおかずのシュウマイや牡蠣フライなど小さめのものは、片手の小鍋に100ccくらいを目安にしている。 

昨今はフライドポテトの代わりにポテトにたっぷりのオリーブ油をかけ回してオーブンで焼いたりもするけれど、揚げた方が適しているものは躊躇なく揚げる。それというのも後始末がそう大変じゃないからだと思う。今頃は素揚げした人参など、味が濃くてとっても美味しい。

使い捨てのフィルターは結構保つ(お進めによると2、3度)が、別売りで8個入り。この油濾しポットとフィルターは高いものじゃないのに、20年来、私の台所には絶対の必需品。あったあった!売りたいもの、と思い付いたので、ネットショップで売っております。 

kalo_sapo_owner at 17:05コメント(0) 

2017年02月16日

ごはんに載せるもの

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結局のところ、私たちはごはんに何か載せて手渡しているんだな。載せて、と言っても岩のりとかわさび漬けとかのことじゃない。ことばにならない何かだ。けれど、すごく大切で必要な何か。栄養満点のもの。

自分でも食事の支度ができそうな男性の友人から、先日の「オトコは馬と一緒だよ」の記事にいいね!や共感やコメントをいただいた。女性だって該当するよ、と言う人もいた。そうだ、私も商売でなくて誰かに作ってもらった食事は格別のものがある。

私がごはんを作らないと文句は言わないが何となくシュンとしてくる、という共働きの妻の感想もあった。彼も作れる人なのに、それでもだ。ふーん、それって愛?とかこっそり呟いてみて、ははは、とひとりで照れる。だが、多分そうなんだ。

娘が育つ頃から、私は母というのは食べもののことでは無かろうか?と仮説を立てた。その理由は、ことばだ。ほぼ世界共通で幼児語の母はマ行。思い当たるでしょう?そして食べることを表現することばにもマ行が多い。私はことばは音から発生するし、音は感情から発生すると考えている。

まみむめも。この湿った音は食べることの根源的な喜びを得た時に、命から生まれでて来る音なんじゃないだろうか?と考えたわけ。私の娘は満足して食べる時「んんん」と喉の奥を鳴らすような音を立てていた時期がある。だからまみむめもにプラス「ん」。

食べること、食べものそれ自体。それに寄り添うように母という立場の人が存在しているんじゃないかしら?と。拒食症が母親との関係性の修正のために発症することをご存知だろうか?様々な理由で、向かいあって食事を摂らないできた少女に多いらしい。

母という存在が食べものを司る人だいう暗黙の認識が私たちの土台にあるとしたら、それはよく理解できる。家庭崩壊という悲しい単語があるが、家庭崩壊の前にはもしかすると、食事風景の崩壊があるのかも知れない。

しかしながら、料理が苦手な女性だって、実は多い。知り合いの家では夫が主に食事を作るのもある。だが、夫の炊事の無い時には(割と頻繁に発生するらしい)妻が有り合わせで食事を賄う。つまり、安全弁としてとして2段階になっている構造で、その安全装置が「母」なのかも知れない。

それはごちそうとかである必要はなくて、多分、命を繋ぐための最低要素を意味する。ただし、確実に手に入ること、それが要なんだ。ああ、そこは私の一番苦手なところで、だから私には母性が不足しているんじゃないか?と悩んだこともあった。

私はほとんどマイブームで動く。お料理モードになっているときには熱心に作るし、研究怠りない。だが、そのブームが過ぎると次のモードに熱中して「定時に必ず納品する」ことが大の苦手だ。それは面白いのだが、家族の安全弁でいる、ということとは別の次元のことだ。

娘が育つ頃は、私は世の男性並みに働きまくっていて、炊飯器に炊いたごはんさえあれば自分でなんとかしてもらう、という時代だった。炊飯器の温かいごはんが安全弁で、それを切らさないことが彼女の私への信頼の綱だったわけだ。

この時代の彼女は、夜遅く帰宅するばかりの私とではなく、おばあちゃんとごはんを食べた記憶の方がずっと多いだろう。家庭は様々な形があるし、いろんな事情がある。けれど一緒に食べる、この人に作ってもらう、という一連の作業が、もしかしたら私たちの愛を伝えている。

そこにはオトコとかオンナとかって無いんだな。ただ、愛を乞う人と伝える人がいる。そしてそれは入れ替わり立ち替わりするんだな。それでいいんだ。バッテリーが充分に充電したなら、乞う人は与える人になるんだろう。与える人も時々は枯れるから、作ってもらえばいい。

食育と言うことばを作ったのは料理家の服部幸應氏だが、食卓の崩壊を危惧しての発案だったのだろう。教育は食卓から、という哲学で、だいぶ浸透したように見受けられる。今日も市井のあちこちで静かに愛は伝わっている。 

kalo_sapo_owner at 18:32コメント(0) 

2017年02月06日

オトコは馬と一緒だよ。

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すごい表題であります。大変失礼な言い草です。ほんとかよ?
これは昔、愚痴った私を諌めて母が言ったことば。もう少し詳しく言うと「男は美味しいものをお腹いっぱい食べさせるに限る。そうすりゃ、よく働くもんだ。」長兄の学校の学長が言ったのだそうだが。

そんな単純な話なの?「そうさ。言ってみりゃ馬と一緒だよ。餌が良ければよく走るんだ。」わぁ、ざっくりし過ぎていて付いて行けないよ、私。第一、男性一般に失礼じゃないの?しかもウチの夫はもう少し面倒なタイプ。屈折がひどいから、ごはんだけではどうにもならないよ?

「いいや、男は一緒だよ。まず食べもんだよ。」と譲らない。ふーん。本当かなぁ?半信半疑ではあれど、翌日から徒歩2分の仕事場に行く夫にお弁当を持たせることにしたのだった。その後、お弁当を作らなくなってから、彼にはよそに恋人ができたから、もしかしたら的を得た助言だったのかも知れない。

そんなことを思い出したのは、娘の婚姻によって私に初めて息子ができたから。東アフリカの小国で生まれ育った彼は、来日9ヶ月で和食にすっかり馴染んでしまった。もっとも、我が家の家計的制限でお寿司や刺身などのごちそうはあまり食べる機会が無い。

加えて彼はイスラム教徒なので豚肉とその加工品を食べない。職場には食堂があり、定食や麺類が割安で購入できる。だが、メニューが予めわからない上に出汁やスープなどにも豚肉の混入がわかりにくい。そこで我が家で作った弁当を持参する。

現在は仕事の後に日本語学校にも通う。だから、小腹が空いた時間帯のためにおにぎりとスナック菓子も持って行く。その彼を見ていると、母のことばがまんざら嘘っぱちでも無さそうに思えて来るときがある。

帰宅して開口一番、ただいま〜、オベント、オイシカッター。アリガトネ〜。我が家のイントネーション丸写しで謝意を伝えてくれる。黒(茶?)人の彼が秋田伝統工芸の曲げわっぱに詰めた弁当を箸で食べる。職場の人達は興味津々らしい。そうだよね、珍しいもの。

朝早く、お弁当とおにぎり、スナックを携えた息子は原付バイクで職場に通う。終われば近くの公園で一服し、おにぎりを食べて日本語学校に移動だ。全てを終えて帰宅するのは9時を回る。

その疑いもなく一途な日々の過ごし方は、ごはんに代表される家族への信頼に思える。その食事について疑うことが無い。作ってもらう側は献立に文句も言えず、好きでない品目の時にはがっかりするだろうに。

しかし、確かに、こんなふうに食にまつわる男性像というのは、どこか真っすぐでいじらしい。小さな男の子のようだなぁと思うとちょっと胸が一杯になる。そう言えば大工の鎌田さんも手作りのお弁当を持って来てたなぁ。

母の言うことにはひょっとして一理も二理もあったのかも知れない、と半世紀近く過ぎて思う。しかし、この話は男性に尋ねてみたことがない。馬と同じだって?そうかも知れないな、なんて言える男性はいるんだろうか?

それにいくらかの真実が含まれているとしたら、父はずいぶん我慢強いか、嗜好性が少ないか、経済的な馬だった。だって母はおよそ料理が好きでなく、実際フルタイムの看護婦であったから忙しいのだが、買って来た総菜を並べることが多かったんだもの。

おんなじだけ働いて、なぜ私がごはんを作るんだ?と時々は無理もない文句も言っていた。同じ口から「男は...」と出るのは俄に信じられない。本当のところはどうなんですかね? 

kalo_sapo_owner at 18:58コメント(0) 

2016年10月31日

ごはん、作りたくない日。

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ファイちゃん、ごめん。私ごはん作りたくないの、と言ってみた。
娘の夫で、初対面から同居することになった、しかも外国人のニュー息子との距離は微妙である。一緒に暮らして6ヶ月が経ったところ。今、娘は出張でインドだ。

娘がいるときは彼女も料理をする。私も彼女もしたくない〜という時には大手を振って何か適当なもの、スナックとかカップ麺とかをそれぞれ3人がモソモソ食べて終わる。或いは食べないという選択肢も時々。

しかし、娘が留守で私と彼だけのときはなぜだか「ワタクシが作りましょう!」モードになる。彼が望んでいるかどうか分からないのになぁ。多分、誉められたり認められたり感謝されたりするのが好きなんだ、私は。

更に長いこと母親をやっていたので、誰かが空腹でないかどうかを気にかけるのが習い性になっている。娘の自立と私の発病と共に、一旦は眠っていた母心みたいなものが発動しているのかも知れない。

けれど、それを押してでも作りたくない、という時はあって、まさに昨日がそうであった。あ〜あ、面倒くさいな、動きにくいな、更に食欲も湧かないし、献立も思い付かないとなると、なんとなくうっとうしくなって来る。

そして「作らなければならないモード」を抱えたままでいると、彼の存在が鬱陶しくなるという、関係性にまでコトが及んでしまう。彼との会話は主に英語で、私にとって英語は多少の努力が必要な道具だから、尚更伝えにくい感じがする。

しかし、ごはんのことは放置はできない。彼は昼過ぎには「ファイちゃ〜ん、ごは〜ん」と日本語で呼ばれると思い込んでいるんだから。で、冒頭のように率直に言ってみたのだ。返事はオッケー、ダイジョウブ、だった。

で、どうなるのか?と言えば、彼は自分でごはんを炊き(玄米を精米機にかける、米を研ぐ、炊飯器で炊く)炒飯もどきを作ったらしかった。あんまり美味しくなかった、と自己採点していたけれど、まず事無きを得たわけだ。

だが、私の分は無かった。ここだよ!ポイントは、と思う。かつての夫もそうだった。「ごはん作れない」と告げると「いいよ、心配しないで」とは言ってくれる。しかし、彼は自分のごはんを自分で調達するのみだ。

これは料理をしない男性一般がそうなのだろうか?私の兄は料理をするせいで、「お前、メシ喰ったか?」と尋ねるのか?料理をしない男性は、ごはんが提供されないという緊急事態に当たって、他のメンバーのことは気にならないのだろうか?

今後の我が家はどうあるのが望ましいか?台所仕事に関しては我家には「作らなかった人が洗う」という大原則があって同居に際して説明した。だから大体彼がやることになる。掃除は自分から買って出てくれる。

ごはんやお茶を用意する際、人に一声かける、作れない人の分も必要かどうか尋ねる。これはぜひとも伝えなくてはならんなぁ。夫にできなかったことを婿殿に要求しているわけで、ちょっとなぁ、と思うけど。お宅はいかがですか?

※画像は大磯駅近くの線路際にあるCafe 暖のランチ。 

kalo_sapo_owner at 16:30コメント(0) 

2016年10月13日

面倒くさがりサイン

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今の人はリンゴの皮を剥くのさえ面倒らしいですから、とその人は言った。だから、
農家も努力している、皮ごと食べられるブドウの品種改良に精出しているというのだ。いかんなぁ。私もうっかり皮を剥きやすいみかんやバナナに手が伸びる。こういう輩が多くなると農家だって対応せざるを得ないのは尤もな成り行き。

どこまで面倒臭がれば、ブレーキがかかるんだろう?我ながらちと気にかかる。掃除だって最近は床置きの電気のお掃除ロボットみたいなヤツが売れているらしいし。そんなに時間を節約して、得られるものは何なのだろうね?

平成も中盤、21世紀の我が家には家電が多い。パソコンと周辺機器は言うに及ばず、アイロン、トースター、ブレンダー、精米機、フードフロセッサー、ドライヤー、足マッサージ機を所有している。家電は日々活躍していて私はその恩恵に浴している。

そうして節約された時間はいったいどこに消えてしまったんだろう?ふと、かかる手間と時間というものは、自分にかける手間と時間と言い換えてもいいのじゃないか?という気もする。となれば、面倒だと言うのは自分や家族を世話する手間と時間を面倒だ、と惜しんでいると言い換えられるのか?

もしかしたら、少し便利を手放すだけで、憧れの「丁寧な暮らし」は手に入るのか?本が欲しければ(遠くたって)本屋に行き、人と仕事を吟味して道具や食材を買い求め、炊飯器を手放してごはんを炊き、帚とちりとりで掃除し、雑巾がけをするだけで。あれれ?

着るものにアイロンをかけ、継を当て、繰り返し使うだけで。少なくとも、それらのどれかひとつを採用するだけで、幾分かがスローダウンする。掃除が気持良いのと一緒で、面倒なことこそが日々を滋味深くしてくれるのかも知れないぞ、なんて考えてみたりする。

近い将来無くなる仕事という記事を読んだ。変化の激しい時代に、追い打ちをかけるような景気の冷え込みで自営業には暮らしが厳しい。昔日を惜しむばかりでは前進しないのは事実だ。需要が変わったのなら、それに対応していかなければ成り立たない。

けれど、信じるところがあるなら、時代の波をじっと堪えらることができるなら、変わる必要もないんだよなぁとも思う。無くなるのが必然のように見えるけれど、それでいいんだろうか?無くなって欲しくないと思う仕事や店や人があるなら、私はそれを支えるっていうのも選択できるんだよね。

時代の流れなんて言うけれど、別に従う必要はないんだよねぇ?何となく時代に取り残されたくないとか、売上が現状維持なら後退と一緒だなんて考えていた時代も、私にはある。世間様一般がそうだった。けれど、ふと顧みれば自分の人生の時間だ。好きなように生きればいい。

むしろそれを貫いて行けば、私が大切に思う「手仕事」を残す結果になるのかも知れない。冒頭のいくらか寂しげなことばは、伝統工芸の工房で年配の方から漏れ聞いた。私はその手仕事を惜しむ者だから、余計に心に残った。沁みた。

そうだ、ハサミを研ぎに出すんだった。穴の空いたレギンスの膝を繕う技を教わったのだった。一泊で出かけた信州の町で、粕漬けを拵えるのに良さそうな酒粕を買ったのだった。町の隅でそんな暮らしを営む人が増えて行くことで、何かが変わって行くかも知れないよね。

人は小さな一粒でしかないけれど、集まって大きな力になる。図らずも、人ひとりの暮らし方がどこかにリンクして影響を及ぼし合う。責任大だな。果物の皮を剥くのが面倒だな、と思ったら、それは私にとって心の貧しさの兆候と思っていいのかも知れない。(栗剥きは面倒だと思ってもいいかなぁ。)

 

kalo_sapo_owner at 18:18コメント(0) 
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