2007年05月17日

抑留余話 6

 
 ヒロシマ、ナガサキ、沖縄は悪い戦争のツケを纏めて払わされたような災難で実に気の毒なことでしたが、その痛みを梃子にして反戦、平和を世界に発信し続けているのは立派です。バビロン虜囚の再来といわれる「シベリア抑留」もそれに劣らぬ悲劇ですが、発信エネルギーの貧困からこのまま歴史の中に埋葬されてしまうのはいかにも残念なことです。

 60万の血と汗と涙の記録が次世代にどう語り継がれるか、甲斐性なしの大正男はやることなすこと<すかたん>ばかりで、たいした遺産もありませんが、次の三つは確かな形見です。
1)香月泰男のシベリアシリーズ・・・     山口県立美術館
2)シベリア強制労働補償請求事件裁判記録・・・全国抑留者補償協議会
3)捕虜体験記・・・ ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会

 文学として高杉一郎や長谷川四郎などの作品集もありますが、「野火」や「俘虜記」の作者に比べると影が薄くなります。ドキュメントとして逸見じゅん氏の「ラーゲリからきた遺書」は伝えたいものの一つです。(体験者より上手なのがシャクですが・・)
2)は「シベリア抑留」のハード版、後世史家や研究者の拠り所として充分です。
3)は体験者の手記を右、左にぶれないリベラルな編集で、「シベリア抑留」の総合ソフト版。菊池 寛賞を受賞しましたが、これは本来なれば国がやってしかるべき事業です。

 辛かった、ひもじかった のシベリアエレジーは山ほどありますが殆どは泡と消え、劇団四季の「異国の丘」は百害あって一利もなく実に淋しい限りです。私はいつぞや映画「黒い雨」を見て、しばらくは席を立てないほどに心を打たれました。ヒロシマの叫びに比べシベリアには一本の映画もないのです。

 “何とか一本、良いのを作ってくれ”と私が虜友のSを口説きだしたのはそれからのことでした。ラーゲリでともに芝居をやっていた仲間の彼は、ダモイの後も俳優座から映画プロジュゥサーへの道を歩み、「人間の条件」や「砂の器」など良い仕事を続けていました。“しかしだな、女ひとり出てこん陰気な映画にカネを出す物好きは居ないよ”と笑うばかりでした。

 彼は決して忘れては居なかったのです。やがてモスフイルムとの共同シナリオが届き、“スポンサーの目途も立ったぞ、近くソ連への現地ロケ検分だが、お前も一緒にどうか”など、私は舞い上がってしまいました。1988年秋、ソ連崩壊の3年前のことでした。

 好事魔多し とはこのことか、映画の話はぬか喜びに終わりました。どうしてダメなのかとしつこく聞く私に、彼はぼそりと言い捨てました。“香月の顔にならないんだ今の若者は・・・これでは別の映画になってしまう” いまどきの役者はいくら減量してもあの幽鬼になってくれないのだそうでした。

 彼は10年前「深い河」を遺作にこの世を去りました。その偲ぶ会で映画がおしゃかになった本当の理由を知ることが出来ました。監督を日ソのどちらから出すか、すなわち作品のイニシャティブを巡る確執だったと言います。Sには絶対に譲れない一線があったのだと思います。

 シナリオ「遙かなるシベリア」は私の手許に残されましたが、その名のとおりシベリア映画は遙かなる幻となってしまいました。



kamakiriikeda at 11:38│Comments(0)TrackBack(0)clip!no more war | シベリア抑留

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