2012年08月05日
7皿目 最後の国鉄機

新製直後のEF64 1053号機 1982年10月 川崎重工兵庫工場にて
息が続く限り、毎週更新にチャレンジ、と思っていたのですが、あえなく撃沈しました(笑)
昔は、JRじゃなくて国鉄だったんだよ、と若い鉄ちゃんに説明しなければいけない時代になってきました。
先日、久々に某所で写真を撮っていたところ、居合わせた若い鉄ちゃんと会話する機会があったのですが、「伯備線って、昔から64ですよね」と。うーむ。どれくらい昔かにもよりますが、自分の世代ならDD51と181系「やくも」だったし、もう少し上なら布原D51三重連、てところですかね。
伯備線は1982(昭和57)年に電化され、「やくも」はピカピカの381系に置き換わりました。まだ、国鉄時代の話です。
その国鉄が最後に発注した機関車がEF64 1000番台で、その中でも一番最後だったのが、今回取り上げる1053号機です。
ロクヨン自体は、当時あまり馴染みのあるカマではありませんでした。名古屋まで足を延ばせば見られたのですが、気合を入れて撮りに行った記憶が全くないのです。何でだろう?
まして1000番台なんて上越のカマでしょ、という感じだったのですが、実は地元の川崎重工で作っているということを知って、これまた撮りに行きたくなりました。ところが、いつ作っているのか(広い工場の)どこで作っているのかよく分からない、どうしよう、と思っていたところに工場の一般公開があったわけです。
これ幸いというところで、場内に足を踏み入れてみると、一番目立つところに置いてありました!しかも試運転のカン付きで。確か隣には営団7000系が置いてあった記憶があるのですが、池袋〜営団成増(当時)開業は翌年(1983年)なので、これも記憶違いかもしれません(汗)
試運転と言えば、川重で落成した機関車は当時も現在と同じように(多分、スジも現在と似たようなスジだったと思います)、山陽線での試運転が行われており、単機ではありますが、普段走らない線区の機関車が見られるのも魅力でした。
さて、EF64 1000番台は、機器配置の関係から、それまでの左右対称の側面から非対称となったことで、国鉄機らしからぬスタイルになったとともに、0番台とは似ても似つかぬ姿となり、当時はなんでこれが同じ形式なのか、と思ったほどです。1053号機は、1000番台3次車に分類され、電気暖房は非搭載。当時はまだ、客車に暖房用の電気を送る必要があったので、貨物用という位置付けでしたが、現在はJR東日本所属で寝台特急「あけぼの」の牽引もこなします。新製当初から長岡区(国鉄当時は長岡運転所、現在は長岡車両センター)にあって、そう言えば数少ない生え抜きのカマになりますね。
国鉄の機関車もどんどんその数を減らしてきており、JR貨物所属機では更新改造が施され、色も変わってしまっていますが、幸いこの1053号機は国鉄時代の塗色のまま現役です。国鉄機の末永い活躍を願っています。
2012年07月20日
6皿目 赤いカマ

金沢駅に入線するEF70 32号機 1981年8月(多分)
個人的には、どちらかと言うと青い機関車(直流機)の方が好きだったのですが、赤い機関車(交流機)も撮らなかったわけではありません。実家から一番近い交流区間が北陸本線だったので、夏休みと学割を利用して遠征してきたものです。
大阪から急行「きたぐに」に乗って、金沢に着いたのがAM3時過ぎ。でも、確かホームの立ち食いそば屋がやっていて、空腹を満たした記憶があります。七尾線の始発が早かったからだと記憶しているのですが、違ったかな。
当時の「きたぐに」は、10系ロネ・ハネ+12系ハザ+荷物車という編成で、もちろん12系の直角座席が貧乏中学生の一晩の宿でした。そう言えば、「きたぐに」は、米原回りだったので、米原まではEF58が牽引していましたね。
ところで、EF70という機関車、なんとなく影が薄いカマです。製造数は全部で81両。途中、20系牽引対応として7両が1000番台に改造され、ブルトレの牽引機にもなりました。しかし、中途半端な両数と、軸重の重いF型機であることから他線への転用もままならず、国鉄からJRになる前に全機が除籍されてしまっています。
北陸線はこのEF70と、今でも活躍しているEF81が2大勢力でしたが、最終的にEF81の牙城となってしまったのは、上記の理由から仕方の無いことなのかも知れません。この写真を撮った当時は、北陸線にも旧客の普通列車が数多く残されており、もちろん、EF70もEF81に混じってその牽引の任に就いていました。金沢駅は入ってくる列車の形式もバラエティに富んでいて、それこそ1日中いても飽きることが無かったと記憶しています。そうそう、この頃はまだ地上駅でしたね。
末期には、一部の仲間が九州に移ったり、老朽化したEF58の後釜として直流機に改造される計画もあったようですが、それも結局計画だけに終わってしまいました。継子扱いされた挙句に捨てられたような、可哀想な感じがします。
現在は、碓氷鉄道文化むらに、22号機を改造した1001号機が保存されており、EF60とともに正面2枚窓のスタイルを確立したその姿を見ることができます。
2012年07月12日
5皿目 カマはハコに限る

高松駅で入換を待つDF50 1号機 1983年3月
機関車は箱型という偏見?から、ディーゼル機関車で好きだったのは、DD53、DD54そしてこのDF50でした。
しかしながら、撮りたいと思った頃には四国にしか配置が無く、しかも500番台(MAN型)は既にいなくなった後でした。それでも、0番台(ズルツァ型)の活躍を我がアルバムに加えるべく、銀箱を担いだ中学生は、国鉄宇高連絡船の乗船客となったのでした。
DF50という機関車は、「電気式」という事実を見ればJR貨物のDF200と同じで、ディーゼルエンジンで発電機を回し、起こした電気でモーターを回すという複雑な仕組みを持っています。なぜそんなに複雑にしなければならなかったのかというと、DF50が開発された頃は、大容量のトルクコンバータ(液体式変速機)が存在せず、仕方なく電気式を採用せざるを得なかったという事情があったのです。一方で、30年以上の時を経て、新しい機関車に改めて電気式が採用されているという所は面白いですね。
この写真を撮った当時のDF50は貨物牽引のみで、客車はDE10が牽いていました。この時は、高知へ移動するために高松駅で中村行きの夜行731Dを待ちつつ、バルブをしていたんだと思います。もちろん、運用を知っていたわけではなく、来た貨物を撮ったら、たまたま1号機だったというラッキーです。
ドッドッドッドッという独特のエンジン音も好きだったDF50でしたが、この年の9月には貨物牽引からも撤退して、本線上から消えてしまいました。しかし、この1号機は解体を免れ、長らく多度津工場で保管された後、2007年に四国鉄道文化館に移され、現在も同館にて公開されています。
2011年12月08日
4皿目 F型への憧れ

明石〜舞子間を行くEF65 519号機 1981年頃
EF65という機関車に「F型」というものがあると知ったのは、小学3年生くらいだったと思います。
一般型はしょっちゅう見ていたし、P型はもちろんブルトレで、PFも川重で作っていた!ので知っていたのですが、F型というのは(運悪く)見たことが無く、持っていた図鑑にも載ってなかったので、知らなかったのです。
当時流行った、小さくて分厚い本(笑)を買ってもらったところ、なんとそこには「F型」というものがあるではないですか。確かツララ切り付きのを正面から捉えた写真だったと思うのですが、その姿にまあ、一目惚れしたわけです。そして、一度は見てみたいと思いつつも、中々お目にかかれなかったのでした。
見たいものほど、見られない。そういうことってありますよね。
この写真を撮った当時、F型は米原区と吹田二区に配置されており、そのうちツララ切りの付いていた518〜522・526号機はすべて米原区にいました。つまり、米原区の運用を追えば、簡単!ということになるのですが、「運用」なんてものがあるなんてつゆ知らず、まして使用順序表なんか入手できるわけも無く、適当に線路際に立つ日々でした。
そして、ついに捉えたF型は519号機。列番はもちろん分かりませんが、ネガの並びから、上り鮮魚特急の前を走っていた列車のようです。緑色のコンテナが並ぶ姿も懐かしいですね。
EF65の中で一番好きなのは、やはりこの「F型・ツララ切り付き」です。
2011年03月25日
3皿目 巡り合わせ

大阪駅に到着する遅延あかつき 1982年頃
まだまだ閉店していませんよ(笑) ゆるゆるとまいりましょうか。
さて、頑丈そうな機関車と言えどやはり機械モノですので、当然故障することもあるわけで、牽引中にそうなった場合は、代走を立てなくてはならなくなります。そうなると、とにかく手近にあって使える(牽引定数や速度種別にできるだけ合致する)機関車を引っ張ってくることになるため、いきおい普段見られない組み合わせを見られることが多くなります。
第3回目の肴はこの「代走」を取り上げてみたいと思います。
この写真を撮った当時(多分1982年)は、インターネットや携帯電話なんていうものはなく、FAXも一般家庭では普及しておらず、鉄ネタの伝達手段は固定電話、手紙、会って話すくらいでした。なので、この写真が撮れたのはたまたまそこに居合わせて、しかもこの情報を親切にも教えてくれたお兄さんがいたからなのでした。
お兄さん曰く「※※(駅の記憶がありません)であかつきの機関車がぶっ壊れて、65のPが代走してんねんて。」とのことでした。当時既に大阪発着のブルトレは全てPF牽引だったので、P型牽引のブルトレが撮れるのはまたとないチャンス!ということで、昼飯までに家に帰って来いと親父に強く言われていた理由は忘れてしまいましたが、ゲンコツ覚悟でこの列車のために大阪駅居残りを決めたのでした。
そして待つこと数時間、やってきたのはお兄さんの話通り、Pが牽引するブルトレでした。その時はその時でPのブルトレが大阪駅で撮れた!とそれなりに感動したものですが、今になってこの写真を見るとまた違った感慨を覚えます。そうです、535号機なのです。この頃535号機は沼津区にあって、東海道・山陽線の貨物牽引という、元特急機からすれば地味な仕業をこなしていました。基本的に雪のない地区を走るため、必要の無いスノープラウは外されており、P型とは言え少し間が抜けたような印象を受けます。
その535号機が貨物を牽引して西に下っていて、ブルトレの代走に抜擢された所をたまたま私が撮影し、さらに20年近く経ってからは特急色だと言って追い掛け回し、そして今、P型最後の生き残りとしてその姿を見ることができるというのは、運命などとは言いませんが面白い巡り合わせだと思っています。
正直に言うと、撮ったときの感動とは裏腹に何号機だったかは全く覚えてなくて、最近になってこの写真を見返して「なんと、535だったのか!」と思った次第です。
先の事は誰にもわかりません。ただ「今を記録する」ということの大事さを再認識した1枚でした。
2009年05月30日
2皿目 鮮魚特急

山陽線を行く1051レ 1986年頃
あまりに間が空いたので、早くも閉店か!と思われたかも知れませんが、細々と営業中です。さて、居酒屋と言えば、「鮮魚は欠かせないでしょう」ということで、今回の肴です。
国鉄時代には生の魚を運ぶための冷蔵車があって、その名残は今も冷蔵コンテナに見ることが出来ます。この冷蔵車、少し前に模型の世界でリバイバルしていたので、実物を見たことが無い方でもご存知かも知れません。
鮮魚特急のそもそもは、昭和41年10月改正の貨物列車高速化で誕生した、いわゆる10000系高速貨車による最高速度100km/hの特急貨(当時はそう呼ばれていました)のうちの一つでした。レサ及びレムフ10000形式冷蔵車で組成された編成をEF66が牽引(鮮魚特急登場時はEF65F重連!牽引)するもので、東京市場向けが「とびうお」大阪市場向けが「ぎんりん」という愛称までついていました。
その中で私が撮影したのは、東京市場向けの「とびうお」を引き継ぐ列車でした。この列車、東京市場の開場時間に合わせる関係上、東京着は夜中、返空は荷卸が終わった後だったので、私が住んでいた所は上下とも撮影可能時間帯の通過でしたが、主に狙っていたのは順光になる下り列車でした。この写真を撮影したのは、かなり末期の頃(鮮魚特急廃止は昭和61年3月改正)だったと記憶しているのですが、その割に周りには撮影している人もなく、のんびりと構えていたように思います。
鮮魚特急が廃止された理由については諸説あるようですが、一つにはやはりトラック輸送へのシフトに歯止めが掛けられなかったこと(鮮魚特急設定当時は時間優位性があったが、その後の高速道路網発達によってトラックが優位となった)、一つには扱うモノの特性上、荷が常に列車単位にまとまる保証がなかったこと(当たり前だが、魚の水揚げは自然相手のため)、さらには車両清掃の手間(鮮魚を扱うため清潔に保つ必要がある)や塩分などによる車両の傷みの進行が激しい等、運用維持コストが大きかったことがあって、かなり早い時期に国鉄側で合理化の対象となっていたようです。
今の時代、本当に鮮度が必要なら空輸でしょうし、先述のような事情から専用列車の復活は、模型の世界だけというのは致し方ないのでしょうが、もし復活したとしたらM250系みたいな貨物電車になるんでしょうか。個人的にはブルトレに匹敵する編成美を持った貨物列車だったと思っています。
と、ここまで書いたところで、以前にレムフ10000の修復を手伝っていた知人が、鮮魚特急に関する情報がWEB上に少ないと嘆いていたのを思い出しました。私にしては珍しく当時の資料を幾らか残しており、永らくの開店休業状態をお詫びする意味も込めて、長くなってしまいますが、末期の鮮魚特急の運転情報をここに記しておきたいと思います。
昭和60年3月改正時点の鮮魚特急運転形態
高速貨A第1050列車 香椎発汐留行 鮮魚 休前日ウヤ 小田原〜品川間旅客線経由
○現車換算等
香椎〜門司間現車11換算54.5定数60、門司〜幡生間現車11換算54.5定数80、幡生〜東広島間現車18換算84.3定数100、東広島〜汐留間現車18換算89.5定数100
○組成方
長崎発汐留行レムフ1車、長崎発汐留行レサ4車、西唐津発汐留行レサ2車、博多港発汐留行レサ4車、下関発汐留行レサ5車、下関発東広島行レサ(空)2車、東広島発汐留行レサ2車
○時刻
香椎6:11-7:11門司7:24-7:43幡生8:19-11:20東広島11:45-13:03糸崎13:06-14:20岡山操14:23-15:33姫路15:36-16:46吹田信16:49-18:05米原18:08-19:04稲沢19:07-20:34西浜松20:37-21:41東静岡21:44-22:21沼津22:24-0:15汐留
○継走関係
高速貨C第1352列車 長崎発香椎行 休前々日ウヤ (レムフ1レサ4)
長崎19:40-20:16諫早20:49-22:17鍋島22:47-23:30鳥栖23:38-0:51香椎
集配貨B第792列車 西唐津発鍋島行 (レサ2)
西唐津18:42-20:08久保田20:11-20:19鍋島
集配貨B第290列車 博多港発香椎行(レサ4)
博多港5:28-5:40香椎
集配貨B第690列車 下関発幡生行(レサ5レサ(空)2)
下関7:25-7:35幡生
高速貨A第1051列車 汐留発門司行 レサ返空 休日ウヤ 品川〜小田原間旅客線経由
○現車換算等
汐留〜幡生間現車18換算43.2定数50、幡生〜門司間現車11換算26.4定数80
○組成方
汐留発香椎行レムフ(空)1車、汐留発香椎行レサ(空)10車、汐留発下関行レサ(空)7車
○時刻
汐留5:37-8:00東静岡8:03-10:36稲沢10:39-11:41米原11:44-13:05吹田信13:08-14:33姫路14:36-15:51岡山操15:54-17:07糸崎17:10-18:20東広島18:54-22:15幡生0:15-0:31門司
○継走関係
車直貨第3861列車 幡生発下関行 (レサ(空)7)
幡生7:43-7:54下関
集配貨B第191列車 門司発香椎行 (レムフ(空)1レサ(空)10)
門司4:55-6:14香椎
集配貨B第295列車 香椎発博多港行(レサ(空)4)
香椎18:45-18:59博多港
集配貨A第2361列車 香椎発長崎行(レムフ(空)1レサ(空)4)、香椎発鍋島行(レサ(空)2)
香椎4:30-5:09鳥栖5:18-5:48鍋島6:20-9:25長崎
集配貨B第791列車 鍋島発西唐津行 (レサ(空)2)
鍋島13:51-13:59久保田14:00-15:28西唐津
その他の情報
所要数 レサ10000形式73両、レムフ10000形式5両、常備駅 香椎
主な積荷 あじ、さば、たちうお、かき(東広島発)等 ただし、かきの発送は設定上11月1日から4月30日の間。このため、それ以外の5月1日から10月31日の間は組成扱い上、下関発の7車は積車で東広島での解結はなし。ちなみに下関からの空車2車は東広島にて解放後、翌日載荷のうえ同じ列車に連結される。
何かの参考になれば幸いです。
2007年11月25日
1皿目 ロクイチ

大阪駅10番線に停車する荷38レ 1982年頃
というわけで、記念すべき?第1回目の肴を何にしようかと迷うほど手元にネタがなかった(笑)ので、これにしてみました。
ロクイチと言えば、栄光のロイヤルエンジンEF58 61号機という方が殆どだと思いますが、当時関西に住んでいた私にとって、それは非日常的で雲の上のような存在でした。なので、当時の私の中では、ロクイチと言えばEF61でした。
今さら説明するほどのことでも無いのですが簡単にEF61について述べますと、貨物用として製造されたEF60をベースに、旅客用として蒸気発生装置(SG:SteamGenerator)を積んだ機関車で、SG関係以外のメカは基本的にEF60と同じでした。ただし、そのサイドビューはEF60(4次型以降除く)と異なり、後に製造される各形式のように明取り窓が横長で、かつその後の形式と異なりHゴム支持ではなく、その下の採風口の形状も横一線のフィンが並び、SG搭載のために延長された車体と相まってスマートさが感じられるものでした。当時の機関車で一番好きだったのは、ご多分に漏れずやはりゴハチでしたが、その次がこのロクイチでした。もちろん65や66も居ましたが、他形式に比べてあまりに没個性的で数も多かったので、残念ながらそれほど熱心に写真を撮っていません。
この写真の頃のEF61は全機広島運転所にあって、SGが必要だった荷物列車をEF58に混じって牽引していました。拙い記憶を辿るに、始発電車に乗って大阪駅に着くと、4番線にEF58牽引の荷物列車、そして10番線にこのEF61が牽引する荷38レが停車していて、冬にSGを吹く姿をバルブしたものでした(その後1番線にEF58牽引「ちくま」だったか?)。60番台の新型直流電機(当時はそう呼ばれていました)が蒸気を上げる姿はミスマッチにも思えますが、当時はそれが格好いいと思っていました。
「写真を撮る」と言えば、当時の私の中では「とりあえず大阪駅」だったので、駅撮り写真は圧倒的に大阪駅で撮ったものが多いです。最近の大阪駅の事情はよく知らないのですが、当時は必ず誰かしら写真を撮っている人がいて、構内を民族大移動の如くあっちこっちと移動したものです。あの頃一緒に写真を撮っていた人達は、今でも写真を撮っているんでしょうかねぇ。私の友人にも、当時は熱心に写真を撮っていたが、今はさっぱりという人が結構います。三つ子の魂百までとはいかないようです。
さて、EF61ですが、昭和59年2月に大鉈が振るわれた東海道のEF58とともに、そのEF58の最後とは対照的にひっそりと姿を消していきました。後に小郡(現:新山口)駅構内で兄弟機EF60とともに解体待ちの姿を見たときは、一抹の寂しさを感じたものです。
現在JR貨物広島車両所にはこの写真の4号機が残っています。残念ながらカットモデルとなってしまっていますが、そのスマートなサイドビューの片鱗はうかがい知ることができると思います。