2016年05月22日

八咫烏の会/卑弥呼の邪馬一国は何処にあったのか

これまで卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、それとは
別に存在した邪馬一国の女王であり、弥生時代後期
の2世紀末から3世紀に大倭王の邪馬台国と卑弥呼
の邪馬一国という二つの大国が別々に存在していた
事実を突き止め、大倭王の邪馬台国や後年の
ヤマト王権が古代出雲に実在した真実の解明に達した。

ここでは日本古代史の公式の歴史において長年迷宮
入りしているもう一つの国である卑弥呼の邪馬一国
が具体的にどこに実在していたのかを魏志倭人伝を
正確かつ精密に分析する事で解明を試みる。

・韓半島から対馬までの距離は千里余りとされ、
対馬から対岸の釜山までは50km余りの距離で
あり、魏における1里は約50mに当たる。

・対馬から壱岐までの距離が千里余りであり、
これも50kmの距離である。

・壱岐から千里余りに九州本土の上陸地点である
末盧國があるとされ、そこは丁度大きな港である
博多湾に当たり、弥生時代の博多湾は大陸から
九州へ交通が行き来する最大の玄関口にもなって
いた。
このような地理的情勢を考えれば、博多湾沿海と
言う要所に末盧國が存在していたに違いない。

・末盧國から東南に五百里進むとそこに伊都国が
あると記されている。

末盧國がある博多から平地伝いに東南方面を
目指して五百里約25km進むと、大野城や大宰府
を通って丁度「甘木」に到着する。
要するに今の福岡県朝倉市甘木に伊都国は実在して
いた事になる。
実は甘木は博多から日田を中継して豊後に行ける
街道、小倉から久留米を中継して大牟田に行ける
街道など九州各地に行ける主要な街道が交差しており、
甘木は九州において地理的利点が極めて高い要所なの
である。
そこに帯方郡の使者が駐在する伊都国があるのは
戦略的にみればごく自然な形であり、帯方郡の使者
が博多から伊都国があった甘木に行く道が最短かつ
最も楽な方法である。

・魏志倭人伝では伊都国周辺の国々が紹介されている。
伊都国(甘木)から東南に百里約5km離れた所に
奴国があり、平地伝いで行くとそこは丁度旧朝倉町
に当たり奴国はそこにあったのだろう。

・伊都国から百里約5km東に離れた場所に不弥国が
あり、甘木から東に街道伝いで約5km進むと佐田川
沿いの三奈木に当たりその場所に不弥国があったの
だろう。

・同じく伊都国から南に水行二十日、要するに海を
南へ20日航海すると「投馬国」という国があった
とされる。
「陸で行ける」とは一言も書かれてない以上、
必然的に甘木から遠く南に位置する九州とは別の
島だと言う事になる。間違っても東にある本州や
四国では無い。

もしも魏の使者が魏志倭人伝の記述からして船を
停泊する港にしていたであろう末盧國の博多湾
から船で甘木より南の島に行こうとすれば、
恐らく長崎や五島列島を素通りする当時知られて
いた航路で南へ進み、当時の船で20日かかって
やっと行けた距離だとすれば、その場所は西九州
の甑島列島や大隅諸島でもなく、奄美大島という
ことになる。
投馬国が「国」である以上、ある程度の低地の
広さや豊かな自然があったところとなる。
そうなると必然的に奄美大島だという答えが出る。
この時代において奄美大島そのものが投馬国だった
のだろう。

・いよいよ本命の邪馬一国の場所を突き止めよう。
伊都国から南へ海路で10日か、陸路で一ヶ月
かけて行くと卑弥呼がいる邪馬一国に行けるとある。
要するに海から行けば、陸路のおおよそ3/1の
日数で邪馬一国に行けるということである。
前述の投馬国は九州とは別の島にあるから海から
でしかいけないが、邪馬一国は甘木より南にあるが、
1ヶ月かければ陸からでも行く事が出来る記されて
ある。ということは邪馬一国が実在した場所は
必然的に同じ九州島の甘木よりかなり南に離れた
南九州にあったことになる。前提事実として、
邪馬一国は2世紀末に始まった女王国であるから、
南九州で遅くとも女王国が成立した2世紀末には
存在していて、短くとも3世紀末まで存続していた
南九州で大規模かつ最大規模の遺跡が卑弥呼が
いた邪馬一国である可能性が最も高い。

そしてそれらすべての条件を満たしている古代
遺跡は南九州では一つしかない。
それは宮崎県西都市の1世紀に誕生し4世紀以後の
古墳時代まで続いた西都原古墳群である。

西都原古墳群は温暖で広い宮崎平野の西都原台地に
あり、恐らく魏の使者は当時知られていた航路と
して先程同様博多湾(末盧國)を出向して、九州を
中国大陸に近い西から南下して九州南端の大隅半島沖
を経て、少しだけ北に上って、宮崎平野の西都原に
おおよそ10日の航海を要して上陸していたのだろう。

その他にも甘木から日田を経て豊後に行ける街道を
通って、豊後、日向を南下し陸路1ヶ月でも西都原
に行けたであろう。更に魏志倭人伝によると帯方郡
があった韓半島のソウル周辺から女王国(邪馬一国)
までの距離は1万2千里余りと記されている。
要するにソウルから半径約600kmの圏内に
邪馬一国が実在したことになり、西都原はその
範囲内にあるのである。

・西都原古墳群にはそこが卑弥呼の邪馬一国で
あった事実を裏付ける決定的証拠がある。
西都原台地には300基以上と言う膨大な数の
古墳群があり、九州最大の古墳群である。
古墳の9割が円墳であり、その中に日本最大の円墳
である男狭穂塚(おさほづか)古墳があり、円墳
部分の直径の長さは132メートルもある。
正に大倭王の邪馬台国に次ぐ別の国の女王だった
卑弥呼に十分相応しい規模の墓である。

卑弥呼の時代の魏の度量衡によると、計算基準と
なる足を左右のどっちかに決めて、その足の歩数で
度量を計測していた。要するに2歩が魏書において
1歩として計算されていたのである。
通常の大人の歩幅が60cm余りであるから、
魏の度量法における1歩は120cm余りになる
のである。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓が直径百余歩と記されて
おり、これは男狭穂塚古墳の円墳部分の直径の長さ
132メートルと殆ど同じ長さになるのである。
この男狭穂塚古墳こそが卑弥呼の墓である。

この古墳を除いて魏志倭人伝の卑弥呼の墓に近い
古墳は日本全国を探しても無いのである。
このことから、長年日本古代史を迷宮入りさせて
きた卑弥呼の女王国即ち、伝説の邪馬一国は
北部九州でも近畿でもなく、かくして日本神話
で日向と呼ばれた宮崎の西都原古墳群に実在して
いたのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 08:51|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月15日

八咫烏の会〜358本の銅剣

出雲の荒神谷遺跡から発見された知る人ぞ知る
358本の銅剣は3世紀に製造されたものであるが、
出雲では製鉄は行われていたが、製銅は行われて
いなかったことから、製銅が行われていた他の
地域から持ち込まれた可能性が高い。
358本という数は古代出雲における神社の数
と同じであり、もともと神社に奉納されていた
ご神体だったのだろう。そのご神体である銅剣
すべてをわざわざ一つの場所に集めて埋めた事と、
埋めた所が山奥の人に見つかりにくい場所だった
事実を合わせて考えれば、出雲に唐の水軍が攻めて
くる直前に出雲王国の最期を悟った祭司達が、
唐に銅剣が見つかって没収されるのを防ぐために
隠し、出雲王国復活のときに掘り出すつもりで
いたいわば「タイムカプセル」だったのだろう。
しかし、出雲王国の統治者の末裔は消滅し、
復活を目指す者さえ現れず、出雲王国は復活の日
を見ることなく、1300年後の道路建設の
ときにようやく発見された。それが358本の
銅剣の真相であるに違いない。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 09:13|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月08日

八咫烏の会/唐の日本征服の狙いは水銀

出雲を中心とした倭国が唐に征服される4年前の
659年に唐の李延寿が「北史・南史」という
史書を編纂している。そこでは、倭国が文身国と
して描かれ、国民は豊かだが客人に食物を出したり、
もてなしたりせず、国王は金銀財宝にまみれていて、
家の周辺には水銀が溢れ、その上を雨が流れている
と傲慢な放蕩者のように描いている。恐らくその
時点から出雲を中心とした倭国を悪者を退治する
つもりで征服する意図が唐の朝廷にあったのだろう。

実は古墳時代以降の古代日本では水銀が大量に
産出されていた。当時の水銀は朱色の色彩原料や
金メッキなどに使われていて、道教思想では外丹
と言う名で不老長寿の秘薬として知られていた。
経済的目的として唐は水銀鉱脈を手に入れる為に、
668年に高句麗を滅ぼした後の676年に韓半島
からは完全に撤兵したのとは対照的に、それ以降も
征服された日本は引き続き占領され続けているのだ。
それで韓半島では先住国家だった新羅が統一新羅と
して残ったのに、出雲の邪馬台国は滅ぼされてから、
元の国に戻らなかったのである。
水銀鉱脈が豊富だった丹波と伊勢の中間にある
畿内地方に673年に誕生したとされる飛鳥浄御原宮
(あすかきよみはらのみや)から幕末まで続いた
平安京、大阪などに至るまで都を構え続けたのは、
唐の勢力が水銀資源を採掘して莫大な利益を得る
ことが目的だった。


・万葉集に封印された邪馬臺国の最期


東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 
月かたぶきぬ(万葉集1巻第48首)

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡(原文)

万葉集の暗号で解説した万葉集1巻第48首の聖武天皇
であった柿本人麻呂のこの歌は実は倭国の都
邪馬臺国の最期を歌った歴史的にきわめて重要な
歌である。
かぎろひとは炎の事であるが、広い地域一帯が特別
な事情から大炎上するほどの出来事であるに違いない。
更にこの歌の原文から読解できる夜に月が西へ傾く
のは「上弦の月」であり、旧暦の8月?10月に
かけて起きる現象である。
10月と言えば百済滅亡の翌月、そして出雲の
神在月の時期に当たるのである。
これらの事実が意味するものは「人麻呂は663年
10月に倭国の都である邪馬臺が、百済を滅ぼした
ばかりの唐の水軍から、夜襲される形で攻め込まれ、
白村江の戦い同様唐の水軍はここでも火攻めを行い、
今度は東出雲の都を大炎上させた」その極めて
衝撃的な風景を歌ったのが万葉集1巻第48首の歌で
あった。

このように「倭国の都であるヤマトが出雲にあって
その倭国が当時世界最強の国家だった唐に武力で
征服された」究極の正体を直視する事で、今まで
未解明だった万葉集をはじめ日本古代史の数々の
謎を解明できるのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「今昔玉手箱・不可思議な国・日本」
を出版しました。購入は↓↓ から
http://www.amazon.co.jp/dp/B00GWYIZUK 

kame3328 at 08:49|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月01日

八咫烏の会/劉仁軌の謎

1084年北宋の司馬光が唐帝国の歴史資料を
厳選して編纂した資治鑑通という中国の史書に
唐軍が古代日本を占領した事実を示す記述がある。
660年に高句麗と百済は新羅に攻め込み、
新羅は唐に援軍を要請し、韓半島は大きな戦乱状態に
陥った。これを契機に唐は東アジア統一制覇に乗り出す。
唐の武将劉仁願が新羅救援を理由に百済へ攻め入り、
首都の百済府城を占拠するものの、今度は逆に
百済府城に籠った唐軍が百済軍に包囲されて危機に
瀕してしまう。
そこで武則天は劉仁軌将軍に同盟国の新羅軍と
共同で劉仁願の唐軍を救援する詔をだし、それを
受けた劉仁軌はこう発言している。
「我は東夷を掃平し、大唐の暦を海表へ頒布する
のだ」と述べており、韓半島や日本列島などの
中国から東夷と呼ばれた地域を掃討平定し、
唐の暦を頒布してその支配下に置くと征服への
強い意志をあらわにしていた。

劉仁軌の唐軍は新羅軍と合流し、百済軍を撃破
しながら進撃し、百済兵1万余人が戦死している。
韓半島の戦乱は益々激化し、662年に百済は
倭国に援軍を求め同年12月に唐は正式に高句麗、
百済討伐の詔を出した。
663年9月、孫仁師将軍らが率いる唐軍が
百済救援にやってきた倭兵と百済の余衆を破り、
劉仁軌は水軍と兵糧戦を率いて熊津から白江に
入り、陸軍と共に周留城に向かい、そこへ倭兵の
大軍と白江口で遭遇する。

これが世に言う白村江の戦いであり、唐軍は四戦全勝
し倭船四百隻以上を焼き、煙炎が天を焦がし
海水は朱に染まったとされている。
倭国は百済救援に総兵力の殆どを占める五万人に
上る大援軍を送ったが、その殆どがこの戦いなどで
唐軍、新羅軍に撃破殲滅されてしまった。
その直後に百済は滅び、倭国は自前の兵力の殆どを
失い、日本にまで攻め込んだ劉仁軌将軍率いる
唐の水軍に抵抗したが、ほとんど太刀打ちできず
占領征服されてしまった。

そのため戦闘が行われた倭国の都がある出雲周辺は
百済の戦地同様、家が焼け落ちて屍が路上に散乱
しており、そこで劉仁軌は唐軍の兵士を動員して
屍の埋葬、戸籍の整備、村の人集め、
橋梁の建設、堤防の補強、道路整備などを行い、
倭国において古代のマッカーサーさながらの
戦後復興を行っている。同時に唐の暦である太陰暦
を導入し、それ以来日本は明治初期に至るまで
太陰暦が支配していた。

次に劉仁軌は占領した西日本の適所に屯田を開拓
し兵糧備蓄、士卒訓練を行い高句麗征服のための
拠点を築いており、 第二次世界大戦後の在日米軍
基地の建設に似ている。
664年10月劉仁軌は唐の皇帝に日本に関する
進言をしている。劉仁軌は「疲弊したり負傷した者
が多く、勇健な兵は少なく衣服は貧しく帰国する
事ばかり考え、戦意が無い」
と日本を占領していた唐軍の守備兵の現状を伝えて
いる。

劉仁軌はその兵士に「往年の兵士は5年でも留まる
が、今の汝等は赴任して1年しかたっていないのに、
何故そんなにくたびれているのだ」と尋ねている。
このことから、唐軍が倭国を攻め滅ぼしたのは、
ちょうど1年前の663年10月となり百済滅亡
の翌月に当たる。

10月といえば出雲の神在月の期間であり、
神迎え祭、神在祭とはこのとき唐軍に抹殺された
倭国を統治した出雲の勢力を弔う祭なのである。
続いて劉仁軌は皇帝に唐軍の倭国征服を裏付ける
かなり重要な証言をしている。

「陛下が兵を海外にとどめているのは、高句麗を
滅ぼす為です。高句麗と百済は昔からの同盟国で、
倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。
もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の
一国に戻ってしまうでしょう」と皇帝に進言して
いる。

ここで劉仁軌は主に日本の占領は高句麗征服の
ためであり、日本を守備兵に占領させなければ
元の国に戻ってしまう と述べている。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o


このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 09:12|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年04月24日

八咫烏の会/唐の建国に垣間見る国譲り神話


隋は二代皇帝煬帝の三度にわたる高句麗遠征の失敗、
百万人の民を動員した大運河建設など民に度重なる
負担を強いた結果、隋全土で大規模な反乱が
起こり隋は未曽有の大混乱に陥っている。
その隙に乗じて太原太守だった李淵が突厥の後方
支援を受けて挙兵し、隋の首都大興城を占領して、
朝廷を事実上乗っ取り、617年に煬帝を
太上皇帝にする形で廃帝し、その孫の恭帝侑を
傀儡の皇帝に擁立して隋の実権を巧みに掌握している。
618年に江南地方にいた煬帝が近衛兵に殺さ
れると、これを好機と見た李淵は、恭帝から
禅譲を受けさせる形で即位し、隋を廃して唐を
建国している。

しかし隋・唐共に鮮卑拓跋部が王侯貴族として
支配していることから本質的には同じである。
西周時代以降の中国史における君主の位を
形式的な合意の上で引き渡す「禅譲」とは、
勝った者の側が新しい王朝をたてて、統治権を
握る事を正当化する為の偽善的手段である。
唐の建国者李淵が受けた禅譲は、隋の都を失政
に乗じて攻め取ったことから最もらしい形であり、
国譲りとは唐が武力で出雲の倭国を攻め滅ぼした
くせに「相手から国を譲られた」として征服者の
侵略を正当化した史実を神話に描いたものである。


・女神天照大神と女帝武則天


649年唐の皇帝に李治が即位するが、李治は病弱
であり、そのため655年に皇后の武則天が唐の
政治の実権を掌握し、極悪非道の限りを尽くし、
朝廷内部における反対者の存在も許さないほどの
徹底した独裁政治を行っている。
660年に武則天は道教思想から皇帝の称号を
天皇に改め、皇后の称号も天后に改めている。
実は日本の大部分を治めていた出雲の倭国は
中国史上(正確には世界史上)初めて、君主に
天皇称号を導入した武則天が独裁恐怖政治を
行っていた時代に、唐に攻め滅ぼされている。
国譲り神話における”天照大神”とは武則天の
投影であり、天照大神が”皇祖”とされている
のは、天皇称号を初めて導入した人物が、同じ
女性の武則天だからである。

詳細は省くが、天照大神は元々男神であり
ニギハヤヒノ命と同一神である。武則天とは無縁で
倭国の土着の神であったが、唐が「国譲り神話」
にある通り、古代出雲を征服した後に、
たまたま天照大神の訓読表記が「天照神」と
同じであり、これが最後の漢字をとって武則天の
「天」幼名の「武照」、皇帝名の「聖神」と同じで
あったことから、男神でニギハヤヒを指していた
「天照」を武則天に見立てて「女帝ならぬ女神」、
「独裁者ならぬ最高神」、「天皇の開祖ならぬ
皇祖」として改ざんし、ニギハヤヒとは別人と
して密教的に武則天を指し示すものとして創作
されたのが、伊勢神宮で表向きに祀られている
天照大神であり、こちらは武則天として改ざん
された偽りの姿である。本物の天照は
ニギハヤヒノ命である。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

株は安い時に買い高い時に売る。基本は単純。ではいつどんな株を
買っていつ売ればいいのか。最初の関門が銘柄探しです。株式投資
にはプロも素人も関係ないようです。2008年のリーマン
ショックが好例です。なお投資の本質をふまえた良いレポートが
あります。何事も学習とイメージトレーニングは必要です。
成功者の体験+知識を学んで自分の考え方を変えることが近道に
なります。
 http://idia33.blog76.fc2.com/blog-entry-124.html
kame3328 at 09:02|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年04月17日

八咫烏の会/隋書に紹介された都としての邪馬臺

出雲地方に当たる現代の島根半島は本州とつながってる。
しかし、平安時代以前の古代においては、”半島”
ではなく本州本土から海面が比較的浅い狭い海を
挟んだ島になっていた。 現代の島根半島は古代に
島だった出雲が海面の上昇後退や地殻変動に加え、
山陰地方本土と島の河口に河川や海流から流れて
きた土砂が、間の海に堆積した結果、山陰地方本土
とつながったものである。

更に島根半島の形をよく見るとトンボの胴体さながら
の形をしているのは一目瞭然で、島だった古代に
おいてもトンボの胴体さながらの形をしていたこと
は想像に難しくない。
唐代636年に編纂された隋の歴史を伝える隋書。
その隋書には倭国の都は邪靡堆であり、魏書に登場
するいわゆる邪馬臺と同じであると書かれている。
魏書原文には邪馬臺という言葉は登場しないが、
間接的にそれを指し示す記述ならある。
魏書とは別の後漢書には「大倭王」がいる
「邪馬臺国」という記述があり、先ほど述べた魏書
の魏志倭人伝に登場する倭国の倭王が、必然的に
それに当たる事になる。

魏書の記述によると倭国の倭王とは別に登場する
女王国の卑弥呼は景初二年に魏の皇帝に使者を
送り、卑弥呼宛に証書、金印などが与えられて
いて、詔書で卑弥呼に対して「哀汝」という言葉
を二度使って、魏はあからさまに卑弥呼を
見下した態度をとっていた。
それとは対照的に2年後に魏が倭王に先立って使者
を送り、詔書、印綬など様々な宝物を授けている。
その返礼で倭王は使者を魏に送り、返礼として
貢物も届けている。

その際に魏の使者はこと倭王に対しては
「詣・奉・拝」という言葉を使い明らかに倭王
を仰ぎ見ている。これは倭王が統べる倭国
(邪馬臺国)が卑弥呼の女王国(邪馬壹國)
よりも格上で、遥かに強大だったことを意味
している。 隋書で記載されている「今の倭国の都
は魏書のいわゆる邪馬臺と同じ」というのは正に
このような倭国の倭王のことであり、究極的には
邪馬臺国は公式の歴史で言われている3世紀末に
消えたのではなく、大倭王が統治する倭国として
5世紀の倭の五王の時代を経て、7世紀の隋代
まで連綿と続いていたのだ。

そして前述したとおり、邪馬臺国が出雲地方に
あたということは、後年のヤマト王権があった
とされる倭国の都も出雲地方にあったことになる。
その証拠に邪馬臺とはそのままヤマトの漢字音写
であり、ヤマト王権とは倭国の都であるヤマト
(邪馬臺)の王権と言う意味である。
要するに邪馬臺の呼び方は「ヤマタイ」ではなく
「ヤマト」という呼び方の方が正確なのである。

ヤマトとは「あきづ嶋」と共にもともと上古出雲地方
の地名であり、古代日本史における「倭国」とは
出雲を中心とした国家であり、倭国のヤマト王権
とは出雲を都とする王権のことで、本来のヤマト
とは都であった出雲のことだったのだ。
これは公式の歴史における「近畿絶対論」および
「ヤマトと出雲は別物」とする定説を根本から
覆す驚くべき真実である。


○出雲の邪馬臺国消滅の謎に迫る




それでは一体出雲に実在した邪馬臺国は何故消えて
しまったのか?その謎を解く鍵が「国譲り神話」に
隠されている。国譲り神話とは古事記上巻に記された
出雲を舞台とした神話物語の事で、高天原の
天照大神の命を受けたタケミカヅチノ神が出雲の
伊耶佐の小浜(稲佐の浜)に剣を突き立てて、
「天照大神が自分の子供に葦原中国(あしはらの
なかつくに)を統治させるように言っているが、
お前の考えはどうなんだ」と大国主命に迫る。
そこで大国主は2人の息子に事態を相談し、2人の
子供はタケミカヅチを倒そうと立ち向かうが太刀打ち
できずに、タケミナカタノ神は投げ飛ばされて、
信濃の諏訪湖に逃走し、もう1人の息子の
コトシロヌシノ神が承諾する形で、大国主は
タケミカヅチノ神に葦原中国を「譲る」物語である。
国を譲ったとされる大国主命は出雲大社に祀られて
いて、出雲大社から西へ離れた所に国譲りが
行われた稲佐の浜がある。

そこでは毎年旧暦の10月10日に神迎え祭が、
翌11日から17日にかけて1週間「神在り祭」
が仮の宮を中心に行われ、その仮の宮は「万葉集
の暗号」で解説した天の香具山だった奉納山の
ふもとにある。 仮の宮は古代島根半島が「島」
だった時代には丁度浜辺になっていた。

その神迎え祭で日本全国の神々が出雲に集まり、
他の地域では神々がいなくなることから、祭りの
期間中出雲では「神在月」 他の地域では
「神無月」と呼ばれている。

日本全国の神が集まるほどの祭りだから大そう
賑やかに行われるかといったら実際はそうでもない。
神在月の祭りの期間中、出雲大社周辺では、騒音、
歌舞音曲、工事を控えるという一般的な祭りの
イメージとは正反対で、かなり謹慎するように
なっており、「御忌みさん」とも言われている。
祭りと言うより最早、葬儀か法事のようになって
いるのである。

この出雲の神在月が意味するものは旧暦の10月に
古代出雲にあった日本の大部分を支配した倭国の
都は武力によって滅ぼされ、そのときに大勢の
人々が殺されたことから、鎮魂の儀式を行って
いるということである。それでは少なくとも隋代
7世紀まで実在していた出雲の邪馬臺国を滅ぼした
のは、一体どのような勢力だったのか?


○唐に滅ぼされた出雲の邪馬臺国


出雲の邪馬臺国を滅ぼした勢力の正体を示す痕跡が
出雲大社の神紋に残されている。出雲大社を営む
出雲国造家の神紋は亀甲に剣花菱という紋様で
「剣花角」と呼ばれている。花菱は唐花とも呼ばれ、
その花菱に剣が組み込まれている模様は唐花即ち、
唐が剣で出雲を滅ぼしたことを表している。
葦原中国である出雲を征服する命を出した
天照大神は、日本全国の神社で最高位の神社で
ある三重の伊勢神宮に祀られていて、その神紋は
唐花であり、唐の存在を表している。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

あなたは持ち家や車を資産だと思い込んでいませんか?家や車を
買えば固定資産税や住宅ローン・クレジットなどでポケットから
お金が出ていきます。こういう性質のものを「負債」と呼ぶの
です。本当の資産とはポケットにお金を入れてくれるもの。株や
債権の配当や利子、不動産の家賃収入、知的財産の特許使用料や
印税などです。

http://idia33.blog76.fc2.com/blog-entry-123.html
kame3328 at 09:15|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年04月10日

八咫烏の会/大化の改新と日本国号の真相

公式の歴史では大化の改新は645年に善人の
藤原氏が悪人の蘇我氏を滅ぼした血みどろの政変
であるか、大化の改新は無かったとされて
いるが、両方とも誤りである。

旧唐書によると大化の改新があったとされる3年後
の648年に倭国は新羅と一緒に唐の朝廷に使者を
送って倭国の情勢をある程度伝えている。

そこでは歴代の中国朝廷側からの呼称に由来する
「倭国」という国号が良くないから、国号そのもの
を「日本国」に改めたと使者は述べている。という
ことは、旧称倭国の使者が唐の朝廷に来訪した
648年には既に「日本国」の国号が成立して
いたことになる。

それでは日本国の国号は具体的に何故成立したのか?
使者が来訪した直近の3年前の645年に大化の
改新が行われており、実は大化の改新とは公式の
歴史で言われている様な出自不明の藤原氏が突然
起こした政変などではなく、「倭国が国号を
日本国に改め、初めて元号制を導入した前代未聞
の大改革」だったとすれば、 648年に使者が
述べた日本国号改称の謎を解明でき、「無かった」
と言われるほど判然としない大化の改新の真の
姿も解明できるのである。

日本の歴史で初めて元号が使われるようになった
のが645年の大化元年であるが、これも大化の
改新による日本国号成立と合わせて導入したに
違いない。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

あなたは、勝った負けたで一喜一憂を繰り返す不安定な投資”
から決別したいと思っていませんか?いずれに転んでも
戦略次第で利益が出せる投資種目が“オプション取引”です。
オプション取引は株やFX、日経225先物に比べて、
非常に自由度の高い投資種目です。

http://idia33.blog76.fc2.com/blog-entry-123.html
kame3328 at 10:43|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年04月03日

八咫烏の会/冠位12階と推古天皇の謎

600年に倭国は隋に初めて使者を送り、隋書では
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と
為す」という倭国の基本的な統治形態を報告して
いる。これは国家象徴者の「天」を兄とし、国家
支配者の「日」を弟と位置付けたもので、今で
いう天皇と総理大臣の関係に似ている。
使者は倭国の冠位についても報告し「大・次⊂・
次・膺痢⊂・痢・腟繊⊂・繊・艫后⊂・后・臙辧⊂・
辧・膺・⊂・・廚箸い・BR>12の冠位があり、
そのため冠位12階と呼ばれている。

ところが公式の歴史では冠位12階は603年に
実在そのものが疑わしい聖徳太子が初めて導入
したとされているが、 600年に倭国の使者が
隋に冠位12階の制度がある事を上述の通り
報告しているのである。冠位12階は600年
の時点ですでに導入されているのは明らかであり、
「冠位12階603年導入説」は架空の歴史で
あると言わざる終えない。

更に公式の歴史では、隋に使者を送った600年
当時の倭国の倭王は女性の推古天皇とされていて、
倭王は今でいう天皇に当たるから普通の人の様に
姓は無かったとされている。

しかし、隋書に登場する600年に隋を訪れた
倭国の使者は「倭王には妻がいる」「倭王の姓は
阿毎」と述べており、妻がいる以上、同性結婚
でもない限りは、倭王は男性であり阿毎という
姓もあった。

これは600年当時の倭王が推古天皇以外の
男性の人物であり、普通の人同様に姓があった
真実を意味している。 600年の倭王は女性の
推古天皇、倭王に姓は無いとする公式の歴史は
明らかに誤りである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

口臭や体臭の長期的対策は食生活を見直して体質改善することです。
体質改善コンサルタントの伊藤潤一が、あらゆるタイプの口臭や体臭など
体の臭いを全部消して、人と接するのが楽しくなる方法を伝授しています
http://bihada3328.blog35.fc2.com/blog-entry-162.html
kame3328 at 09:17|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年03月27日

八咫烏の会・古代ヤマトの究極の正体

〇卑弥呼は邪馬台国の女王に非ず



邪馬台国と言う漢字で表記されていた国は
歴史上存在していない。

「台」という漢字は中国の史書に登場する
「邪馬臺國」の「臺」という漢字が常用漢字
では無いことから、「台」という良く使われて
いる漢字が代用表記されているにすぎない。
邪馬台国の本来の漢字名称は「邪馬臺國」である。
後漢書ではその邪馬臺國に大倭王がいたと
書かれている。
しかし、卑弥呼は大倭王の邪馬臺國とは別の
女王国にいたと別々に記載されている。


○魏志倭人伝に邪馬台国への道順は書かれていない

魏志倭人伝には邪馬臺國(邪馬台国)という国名
は出てこないし、無論、邪馬台国に至る
道順など何処にも書かれていない。
書かれているのは魏の公館があった伊都国に
至る道順と伊都国周辺の諸国が紹介されている
だけで、その中の一つに「邪馬壹國(邪馬一国)」
という卑弥呼の女王国が記載されているだけで
ある。

○壹は改ざんを防止する為の漢字

中国の魏志倭人伝では女王国の国名が「邪馬壹國」
と書かれている。「壹」と言う文字は数字の「一」
を意味する文字で、古代では壹というのは計算に
使われる事が多い
数字の改ざんを防止するために使われていた繁体字
である。卑弥呼がいた邪馬壹國と大倭王がいた
邪馬臺國(邪馬台国)は別物であり、卑弥呼は
邪馬台国の女王などではない。
また蜀出身で西晋の専門書記官であり史書三国志の
編纂者である陳寿が改ざん防止用の漢字である
「壹」が邪馬臺國の「臺」と字形が多少似ている
からと言って、国名であるそれをそこだけ書き
間違えるとは信じがたい話であり、「壹」は数字の
「一」、臺は「大王や皇帝がいる都」を意味して
おり、両方とも全く異なる漢字である。


○邪馬臺國が出雲に実在した決定的証拠


島根県雲南市神原にある神原神社の真下から古墳が
発見され、竪穴式石室から刀剣、勾玉、三角緑
神獣鏡と呼ばれる中国産の銅鏡が発見され、
その三角緑神獣鏡には「景初三年陳是作」と
いう銘文が刻まれている。
日本国内で三角緑神獣鏡は300枚ほど発見されて
いるが、景初三年という文字が刻まれている銅鏡
は出雲で発見されたこの1枚しか存在していない。

景初とは魏の年号であり、陳是とは明らかに中国人
の名前である。魏志倭人伝には女王・女王国とは
別に景初三年(西暦239年)の翌年に当たる
正始元年に魏帝国帯方郡の太守が「倭国の倭王」
に使者を送り、金、帛、錦、毛織物、刀、鏡、
色鮮やかなものを授けており、景初三年の鏡は
この時に渡ったものである。

公式の歴史では景初二年に魏の皇帝の明帝に女王国
の卑弥呼が使者を送っていることから、これを
景初三年の誤記として「景初三年の鏡」は卑弥呼に
渡ったとする「卑弥呼絶対論」が唱えられている。
しかし、使者が詣でた相手の明帝は景初三年の
正月に既に亡くなっており、新しく即位した皇帝
は8歳の子供で職務も殆どこなせない有様であり、
とても使者に謁見して難しい言葉を語ったり、
宝物を与えられる状態ではなかった。

おまけにその年の魏の朝廷は明帝崩御で喪に服して
いたから、他国の使者が8歳の皇帝に会うのは
不可能だった。よって「卑弥呼絶対論」に基づく
「景初三年誤記説」は架空の話と言える。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

松岡繁の今昔政経メルマガ=支那・朝鮮を血祭りにあげ、
日本を賛美する。ついでにアメリカ+EU情報も載せよう。
登録→http://mail.os7.biz/m/MJ12
kame3328 at 09:25|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年03月14日

朝鮮人取扱いマニュアル

〇伊藤博文の朝鮮半島における在留邦人への文書

一、朝鮮人は対等の関係を結ぶという概念がないので、
常に我々が優越する立場であることを認識させる
よう心がけること。

一、朝鮮人には絶対に謝罪してはいけない。勝利と
誤認し居丈高になる気質があり、後日に至るまで
金品を強請さるの他、惨禍を招く原因となる。

一、朝鮮人は恩義に感じるということがないため、
恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。

一、朝鮮人は裕福温厚なる態度を示してはならない。
与し易しと思い強盗詐欺を企てる習癖がある。

一、朝鮮人は所有の概念について著しく無知であり
理解せず、金品等他者の私物を無断借用し返却
せざること多し。殊に日本人を相手とせる窃盗を
英雄的行為と考える向きあり、重々注意せよ。

一、朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に
信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を
提示させること。

一、朝鮮人と商取引を行う際には正当なる取引は
まず成立せぬことを覚悟すべし。

一、朝鮮人は盗癖があるので金品貴重品は決して
管理させてはいけない。

一、朝鮮人には日常的に叱責し決して賞賛せぬこと。

一、朝鮮人を叱責する際は証拠を提示し、怒声大音声
をもって喝破せよ。

一、朝鮮人は正当なる措置であっても利害を損ねた
場合、恨みに思い後日徒党を組み復讐争議する習癖
 があるので、最寄の官公署特に警察司法との密接
 なる関係を示し威嚇すること。

一、朝鮮人とは会見する場合相手方より大人数で臨む事。

一、朝鮮人との争議に際しては弁護士等権威ある称号
 を詐称せる者を同道せる場合がある。 権威称号を
 称する同道者については関係各所への身元照会を
 徹底すべし。

一、朝鮮人は不当争議に屈せぬ場合、しばしば類縁
 にまで暴行を働くので関係する折には親類知人に
 至るまで注意を徹底させること。特に婦女子の身辺
 貞操には注意せよ。

一、朝鮮人の差別、歴史認識等の暴言に決して怯まぬ
 こと。証拠を挙げ大音声で論破し、沈黙せしめよ。

一、朝鮮人との係争中は戸締りを厳重にすべし。仲間
 を語らい暴行殺害を企てている場合が大半であるので、
 呼出には決して応じてはならない。


〇旧日本陸軍の朝鮮兵に対する注意書き

,い帖△いなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きな
 だけ使わすこと。
∪簑个貌、体を叩いてはいけない。怨みを持って
 復讐する気質があり、脱走の原因となる。
清潔な食事運搬バケツと雑巾バケツの区別をよく
 教えること。
ご躙韻幣況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す
 習癖があるから、日本兵二名で一名の朝鮮兵を
 入れて行動せよ。


〇米軍による韓国兵の扱いマニュアル

ヾ攅饋佑砲篭気で押せ。抵抗する場合は大声で命令
 しろ。
¬仁瓩鯤垢ない場合は身体で解らせろ。
F韻犬海箸魴り返す場合、犬のように何回でも同じ
 ように叱れ。こちらが上ということを身体で解らせろ。
ね由は聞くな。どうせ大したことは言っていない。
タ搬里撚鬚蕕擦疹豺隋∈に持つ場合があるので、
 後で身辺には気をつけて行動しろ。
但し、徹底的に解らせる迄、手を抜いてはいけない。
α蠎蠅3才児と思い、信用したり頼りにはするな。
 重要な仕事は任せるな。


〇 旧ソ連共産党による朝鮮の扱い方

1、頭痛の種になるだけだから関わるな
2、手段を選ばぬキチガイ揃いだから関わるな
3、関わるとこっちが痛い目に遭うから関わるな



○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

口臭や体臭の長期的対策は食生活を見直して体質改善することです。
体質改善コンサルタントの伊藤潤一が、あらゆるタイプの口臭や体臭など
体の臭いを全部消して、人と接するのが楽しくなる方法を伝授しています
http://bihada3328.blog35.fc2.com/blog-entry-162.html
kame3328 at 09:42|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)政治史