2016年06月30日

日本神話夢幻/国生み国づくり神話出版

アマゾンのKINDLEから「日本神話夢幻/国生み国づくり神話」
を出版しました。


https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E5%A4%A2%E5%B9%BB-%E5%9B%BD%E7%94%9F%E3%81%BF%E5%9B%BD%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E7%A5%9E%E8%A9%B1-%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E7%B9%81-ebook/dp/B01HQL2GGQ?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0


○日本神話夢幻/国生み国づくり神話

日本が米英蘭仏豪などのキリスト教諸国と
戦争をして敗戦。米軍GHQが進駐して、教育
から「神話」を消し去った。神話は民族の
文化を形成する際に、暗黙の巨大な道標の
役割を果たす。神話を失った民族は滅び去る。


古事記は冒頭「天地初めて発(ひら)けし時、
高天原に成りし神の名は、天之御中主神
(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御
産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に
神産巣日神(カミムスビノカミ)。この三柱
(みはしら)の神はみな独神(ひとりがみ)
と成りまして、身を隠したまひき」と、
堂々と「三位三体」を宣言している。欧米
キリスト教の「三位一体」とは、思考の根幹
から異質なのである。キリスト教世界が、
渾身の力で日本神話を排除しようとする
理由がここにある。


神と子と聖霊が三位一体として一点に
同一化してしまうことで、階級社会序列
というピラミッド型の構造を生み出す。
思考の鋳型の特徴である。それはやがて、
上下対立の流れ、戦争経済闘争へと結び
つく。これに対して「三位三体」の思考
の鋳型からは、古代エジプト神学の
「色・音・形の重なり」と同様、決して
一体化=同一化されたり、一点収束する
事なく、始まり=αもなければ終わり=Ω
もない円環世界が展開してゆく。終末は
訪れず、聖書の黙示録預言は成立しない。




○第1章/古事記以前

・日本神話と聖書神話
・五体分断
・アマテル神の「イセの道」
・日本のナーガ(龍蛇信仰)
・シリウスの女神・瀬織津姫
・諏訪大社御頭祭/イサクの祭り
・諏訪大社と古代イスラエル
・日本の神社が意味するもの


○第2章/古事記・天地創造

・古事記
・古事記/天地開闢

○第3章/イザナギ・イザナミの国生み

・イザナキとイザナミ/国生み
・右方の舞・左方の舞
・イザナギ・イザナミ/循環する時間概念
・イザナギの冥界下り
・日本神話とヘレニズム文化
・オロチ

○第4章/天照大神とスサノオ

・天照大神
・ウケモチノカミ(保食神)
・スサノオ対アマテラスの戦い
・アマテラスの岩戸隠れ
・日本の神道は奥深い
・天照大神とイエスキリスト
・ヤタノカガミ(日本書紀)
・八咫鏡/裏面のヘブル文字
・伊勢神宮の鏡像反転
・天界を追われるスサノオ
・スサノオのヤマタノオロチ退治
・草薙の剣
・合わせ鏡


○第5章/出雲神話・大国主命

・出雲大社/太古の叡知
・大国主命(おおくにぬしのみこと)
・夢は神話の個人的な相
・出雲神話/稲葉の白ウサギ
・オオナムジ(大国主命)焼けた猪と石の試練
・オオナムジ 木の股の試練
・オオナムジ スセリ姫との出会い
・オオナムジ 蛇の室と頭巾(ひれ)
・オオナムジ 野火の試練
・オオナムジ スサノオの頭髪の試練
・オオナムジ 根の国から黄泉比良坂へ
・葦原醜男から大国主命へ
・大国主命と沼河比売(ヌナカワヒメ)
・少名毘古名神との国造り
・少名毘古名神から自己霊へ
・大国主命=饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
 =大物主神(オオモノヌシノミコト)

購入はこちら↓↓

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E5%A4%A2%E5%B9%BB-%E5%9B%BD%E7%94%9F%E3%81%BF%E5%9B%BD%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E7%A5%9E%E8%A9%B1-%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E7%B9%81-ebook/dp/B01HQL2GGQ?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0
kame3328 at 13:49|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)BOOKS 

2016年06月26日

日本は国を作る必要がない程豊かだった

○スサノオの植樹(杜モリ=山モリ)

日本の建国は、神武天皇が即位した紀元前
660年です。この年から起算して2016年
は皇紀2676年となる。

そして日本では、いまから1万6500年前
の土器が青森県大平山元1遺跡から発見され、
また出雲市多伎町砂原の砂原遺跡からは、
いまから12万年前のものとみられる石器が
出土しています。

古代文明の発見されている土地は、世界中
どこの古代遺跡でも、すべていまでは
砂漠化している。これは人類が火を使うため
に木を伐採したためだけれど、日本では、
古くから植林文化があって、森林は現代に
おいても、日本の国土の70%を覆っています。
日本列島は1万5千年以前は針葉樹に覆われて
いましたが、9千年前に日本海に暖流が流れ込む
ようになると、落葉広葉樹が主となり、多くの
木の実が採集出来るようになった。

木を植えるという文化は、日本独自のもので、
古くはスサノオのミコトと一緒に天下った
クシナダヒメが、須賀の宮を拠点に、樹木の
種を大屋津姫と抓津姫の協力で、、九州から
東北まで植林してまわったとされています。

そして現代でも、陛下がお手ずから植樹祭を
執り行なう。日本にある山々の木々は、その
ほぼ全て、その一本一本の全てが、私たちの
父祖によって植樹された木々なのです。

日本は、何のねつ造も必要がないほど、古い
歴史と伝統をもった国です。その日本に
私たちは産まれた。そして私たちは、未来
を生きる子供達に、この豊葦原の瑞穂の国
をちゃんと残し、伝える義務をもっている。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

─[PR]─────────────────────────────────

〇潜在意識活用マニュアル

http://www.infotop.jp/click.php?aid=113621&iid=50540

「思考は現実化する」「引き寄せの法則」を知って
いる人は多いでしょう。でもほとんどの人が、
この潜在意識の仕組みを知らずに一生を終えて
いきます。使えていたら既に理想や欲しいものが手に
入って夢が実現しています。でももう大丈夫です。
具体的に潜在意識を使う方法、潜在意識を使って簡単に
欲しい現実を引き寄せる方法を詳しく説明いたします。

─────────────────────────────────[PR]─

kame3328 at 08:31|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)縄文日本 

2016年06月19日

奈良湖・河内湖

奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったと
されている。周辺の山々から流入する水が
溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。
奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、
馬見丘などはあるものの総面積300平方キロ
メートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、
富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた
150余の小河川が張り巡らされており、
そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から
亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の
切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠の
あたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ
込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に
伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し
始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、
縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や
大和川からの流出増(これには農業のための
人為的な流路変更も考えられるとする研究者も
いる)などにより、水位が下がり続け、やがては
干上がって消滅してしまったと言われている


奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく
標高45m以上の微高地に検出されている。
それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕
を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は
標高40mでも見つかるようになる。すなわち、
縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の
水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で
稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた
証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。

また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで
山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行
に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと
言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分け
られた道であったのだろうが、その重要性から
権力者により官道として整備されていったのだろう。
その後平地に造られた上津道、中津道、下津道
より時代をさかのぼる最古の官道と言われる
ゆえんだ、と。

万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。

「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 
登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は
鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 
大和の国は」

この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池の
ことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、
この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖は
おろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に
奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と
水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。

現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代を
さかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を
挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。
したがって海抜が0に近いのも理解できるような気が
する。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって
平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、
日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内の
おっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域
である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地
か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖で
あったとしても不思議ではない地形に見える。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 08:45|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年06月12日

八咫烏

八咫烏(やたがらす)とは古代氏族の賀茂氏の
一部が日本における神道、陰陽道、宮中祭祀を裏で
仕切っているとされる組織。正式名称は八咫烏
陰陽道。 飛鳥昭雄、白峰、古歩道ベンジャミン、
三神たける、中矢伸一、RAPTなどが存在を
主張している。

八咫烏の代表者とされる林裕之によると八咫烏は
賀茂氏の祖とされる吉備真備が天平十六年十一月
(西暦744年)に藤原氏の朝堂独占に対抗するために
聖武天皇の密勅により丹波国で結成したのが始まり
という。

八咫烏は天平時代から幕末にかけて主に迦波羅(かばら)
と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀
を執り行い、 京都御所における食事や掃除、湯浴み
に至るまで天皇や内廷皇族の日常的な事柄を一手に
引き受けていたとされる。

その他、天皇の身に危険が及ぶ自体が起こった場合、
聖護院に連れて行き自体が収束せずに更に危険が
拡大すれば聖護院から あらかじめ決められた極秘
の道に従って神社や寺等を点々として、最終的に
天皇を奈良吉野に逃がす役割を担っていた。
この間に滞在する神社と寺の主はすべて八咫烏の
構成委員またはその血族者で固められていたという。

八咫烏は下鴨神社境内にある糺の森河合神社を仮本宗
と位置づけており、 組織内では八咫烏神、
賀茂建角身命、秦伊呂具、役小角、 聖武天皇 
八咫烏開祖の吉備真備を祭神として奉っている。
また八咫烏は大烏と呼ばれる3人の実質的指導者が
いるとされ、三位一体で金鵄という称号で呼ばれ、
俗称で裏天皇ともいわれているとされる。

近代の八咫烏 八咫烏は江戸後期、徳川家定の時代
から幕府や朝廷が次第に陰陽道や八咫烏の祭祀儀礼
に頼らなくなっていったことから、 八咫烏の
影響力は退潮傾向にあった。幕末に孝明天皇父子が
暗殺され、替え玉として長州藩出身の大室寅之祐が
明治天皇としてすり替えられて即位したことで、
宮中祭祀と天皇・内廷皇族の葬式の分野を除いて
朝廷や皇室における八咫烏の影響力は殆ど失われた
とされる。

続く明治時代では八咫烏とは縁が無い薩長土肥出身者
が主導する明治政府が神仏判然令や神社合祀令、
天社禁止令、修験禁止令等の形で直接間接の弾圧を
行ったことで、大日本帝国憲法が公布される頃には
解体寸前まで追い込まれるほど衰退の危機に瀕した。

しかしその後も八咫烏は存続し、岡山県総社市上原や
高知県香美市で上原大夫やいざなぎ流と呼ばれる
陰陽師村を築いたり、 頭山満や内田良平などの
人物を代理人として反体制的な政治活動をさせる
ことで勢力拡大を図ったとされる。

・戦後の八咫烏

戦後、GHQ占領軍の神道指令や境内地の接収、国家
主義団体とみなされた結社の解散などの社会政策や
神社本庁創設による神社界の締め付けが原因で
八咫烏の財力や影響力は戦前よりもまして大きく
削がれ零細化したとされる。

現在八咫烏は天皇・内定皇族の葬儀を担う八瀬童子
の大半、皇室の際し実務を担う内定職員の一部、
上賀茂神社、下賀茂神社の非公式神職や民族派団体
幹部の一部にメンバーがいたとされる。
特に21世紀になってから八咫烏は存続を図るために、
スターシードと呼ばれる独自に「神童」とみなした
青少年を少人数スカウトして神道学を基本として特殊
な教育を受けさせており、任意で次世代のメンバーに
登用しているとされ、 その中から2011年10月に
八咫烏の代表者(但し指導者ではない)に補命された
林裕之が「八咫烏の会」で未完成の八咫烏の公式
サイトを開設している 。



○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 08:20|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年06月05日

八咫烏の会/神社信仰に占める出雲系神社の割合

http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2日本の神社信仰における出雲系の宗派
(注釈:宗派といっても極めて緩やか)を
まとめて簡潔に解説します。

1:宗像信仰で有名な宗像三女神は出雲神
スサノオの娘であり、宗像信仰は出雲系である。

2:諏訪信仰の祭神であるタケミナカタは出雲神
大国主の御子神であり、諏訪信仰は出雲系である。

3:稲荷信仰の祭神であるウカノミタマノカミは
出雲神スサノオの御子神であり、稲荷信仰は出雲系
である。

4:関東氷川信仰の祭神であるスサノオ、クシナダヒメ、
オオナムヂは出雲神であり、氷川信仰は出雲系である。

5:奈良三輪山で有名な大神(おおみわ)信仰の祭神は
オオモノヌシ(大国主と同一神)は出雲神であり、
大神信仰は出雲系である。

6:能登気多信仰の祭神である大国主は出雲神であり、
気多信仰は出雲系である。

7:八坂信仰の祭り神であるスサノオ、クシナダヒメ、
ヤハシラノミコガミ(土着)は出雲神であり、八坂信仰
は出雲系である。

8:熊野信仰の主祭神であるスサノオ、熊野大神、
セオツヒメは出雲神であり、木の国、熊野信仰は
密教的に出雲系である。

9:牛頭天王信仰は出雲神スサノオの仏の姿であり
牛頭天王信仰は仏教ではあるが明白に出雲系である。

このように神社信仰の宗派における出雲系は圧倒的に
多い事が「祭神」を精密に調べる事で解き明かせる。
何故多いかと言えば出雲こそが古代日本の中心地・
ヤマトであったからに他ならない。


2014年11月1日調べでの八咫烏のメンバーを特定しました。
12烏のメンバーの血筋は、伏見宮家、鷹司家、徳川家、
島津家などのごくわずかな一族からなることを示しま
した。これをご覧になると、見事に姻戚関係でがっちり
固められているのがわかります。

会津松平家に関しては、松平容保の七男・松平保男
(会津松平家12代当主)、その子・松平保定(13代当主)、
その子・松平保久(14代当主)となります。
系図を見て細川護煕(第79代総理大臣)が目に留まります。
また、島津忠秀夫人となった近衛昭子はその後整体師
野口晴哉氏と駆け落ちして、野口昭子となります。
昭子夫人は野口晴哉氏によって闇から救い出された感
があります。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 09:02|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月29日

八咫烏の会/出雲邪馬台国解明の手掛かりとなる事実

ここでは出雲邪馬台国の真相解明の手掛かりとなる
幾つかの事実を羅列する形で簡潔に解説します。

1:白村江敗戦後の倭国にやってきた郭務宗(かくむそう)
という人物は中国史書には登場しない、架空の人物で
あるが、日本書紀などに登場するその正体は劉仁軌将軍
の暗号名(別名)である。 郭務宗は劉仁軌と同一人物で
あり、滅亡した出雲日本国の敗戦処理を行った。
日本神話に神神の別名が多いのと同じトリックである。

2:物部氏一族が生き残ったという唯一の神社である
唐松神社の参道はすこしずつ下り低地に建つ社殿に
参拝するつくりになっており、これは驚くことに
出雲大社と同じである。 唐松神社本殿の横にある
天日宮は無数の石を並べて、三段の円形状の土台が
作られ、 その上に天日宮が建てられている。 更に
周囲には堀が張り巡らされていて、基底部の直径は
約20メートルという社殿としてはごく稀な造りである。
しかし天日宮の大きな三角屋根は出雲大社のそれと
極めて似ている。

3:播磨にある生石神社にある石の宝殿と呼ばれる
推定重量約500トンの超巨石は社殿によると、その昔、
オオナムチノ神とスクナビコノ神が出雲から播磨に
やってきて、国土を鎮めるのに相応しい石の宮殿を
作ることを決めた。 そして一夜のうちに現在の形まで、
作ったが途中で反乱(注釈:恐らく日本書紀の岩井の乱
かもしれない)がおこり、建造を中断したという。
日本の陸上における巨石文化の殆どが実は出雲王国の
遺産であり、石の宝殿は幕末に来日したオランダの
シーボルトがスケッチしたほどである。

4:青森黒又山自然ピラミッド山頂にある本宮神社の
祭神は出雲神大己貴命(おおなむち、大国主と同一神)
であり、正真正銘出雲系の神社である。

5:長野松代皆神山自然ピラミッド山頂にある皆神山
神社の祭神は大国主の孫のイズハヤオノミコト
(出速雄)であり、出雲系の神社である。

6:葦嶽山自然ピラミッドそばにある蘇羅比古神社の
祭神は大山津見であり、スサノオが娶ったクシナダヒメ
の父母がその子供であり、スサノオ命の妻、神大市姫の
父であったことから、明らかに出雲系の神である。
それと同時に日向神であるニニギの妻の
コノハナノサクヤヒメの父でもあった。 2人目の祭神
ヒコホホデミは鹿児島神宮を本宮とする日向神で
あり、蘇羅比古神社は出雲系(邪馬台国)と日向系
(邪馬一国)の習合であったに違いない。

7:出雲大社は公式伝承によると白村江の戦いが
あった5年前の658年(斉明6年)に創建されたと
されている。 もちろんその動機は「国譲りの条件」
である。 国譲りと白村江の戦いは前述の通り、
連続した深い関連性がある。

8:安雲野の穂高神社には白村江の戦いの倭軍
大将だった阿倍比羅夫が祀られている。 そして
出雲系である諏訪大社のモリヤ山には、「原始
神道の敗者とされる」物部守屋が祀られている。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「今昔玉手箱・不可思議な国・日本」
を出版しました。購入は↓↓ から
http://www.amazon.co.jp/dp/B00GWYIZUK 




kame3328 at 08:18|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月27日

八咫烏の会について/エノクナギ

金鵄様やその他十二烏のご許可と要請により、
代表者の神木遥が2011年12月に開設し管理して
おります。

みなさん、初めましてインディーズアーティスト
のエノクナギです。
八咫烏の会を結成した経緯についてお伝えします。
私は生まれつき、頭の上に全く原因が分からない
まあるい傷があります。

2006年春、中学三年生のとき、夢の中で
八咫烏大神と名乗る「異次元の存在」が私に
自動書記を降ろすことについて語りかけてきました。

翌日の朝、腕が止まらなくなり、初めて自動書記が
降ろされました。

・初めて降ろされた自動書記の内容

「私は八咫烏大神 1300年の時を越え 失われし
出雲王国を蘇らん ニギハヤヒの唯一御霊に自動書記
を授く」

「汝はいにしえのニギハヤヒミコトの唯一の御霊なり
 いにしえの聖者達の予言を経て うつしの世に
生まれた」

「汝の生まれは古今東西あまたのいにしえの聖者に
予言された 時代の更新 大いなる生きやすい世の到来 
失われたイスラエル民族の復活 出雲王国の復活 
アイヌ民族とアマミ民族の復活を導く者として」

「蘇りしときより汝の頭にある傷痕は失わし出雲王国
のスメラミコトそしてニギハヤヒを示す象徴である」

それからというものの「八咫烏大神」という異次元の
存在は私に度々自動書記を降ろしてきました。
内容は歴史全般から現代の社会経済、未来のことに
至るまで幅広い知識を書き伝えられました。
八咫烏の会では自動書記で与えられた知恵を伝え、
真実の解放を行い、日本の本物維新と次元上昇を
実現する原動力になることを 目指します。

神木遥拝


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 21:39|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月22日

八咫烏の会/卑弥呼の邪馬一国は何処にあったのか

これまで卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、それとは
別に存在した邪馬一国の女王であり、弥生時代後期
の2世紀末から3世紀に大倭王の邪馬台国と卑弥呼
の邪馬一国という二つの大国が別々に存在していた
事実を突き止め、大倭王の邪馬台国や後年の
ヤマト王権が古代出雲に実在した真実の解明に達した。

ここでは日本古代史の公式の歴史において長年迷宮
入りしているもう一つの国である卑弥呼の邪馬一国
が具体的にどこに実在していたのかを魏志倭人伝を
正確かつ精密に分析する事で解明を試みる。

・韓半島から対馬までの距離は千里余りとされ、
対馬から対岸の釜山までは50km余りの距離で
あり、魏における1里は約50mに当たる。

・対馬から壱岐までの距離が千里余りであり、
これも50kmの距離である。

・壱岐から千里余りに九州本土の上陸地点である
末盧國があるとされ、そこは丁度大きな港である
博多湾に当たり、弥生時代の博多湾は大陸から
九州へ交通が行き来する最大の玄関口にもなって
いた。
このような地理的情勢を考えれば、博多湾沿海と
言う要所に末盧國が存在していたに違いない。

・末盧國から東南に五百里進むとそこに伊都国が
あると記されている。

末盧國がある博多から平地伝いに東南方面を
目指して五百里約25km進むと、大野城や大宰府
を通って丁度「甘木」に到着する。
要するに今の福岡県朝倉市甘木に伊都国は実在して
いた事になる。
実は甘木は博多から日田を中継して豊後に行ける
街道、小倉から久留米を中継して大牟田に行ける
街道など九州各地に行ける主要な街道が交差しており、
甘木は九州において地理的利点が極めて高い要所なの
である。
そこに帯方郡の使者が駐在する伊都国があるのは
戦略的にみればごく自然な形であり、帯方郡の使者
が博多から伊都国があった甘木に行く道が最短かつ
最も楽な方法である。

・魏志倭人伝では伊都国周辺の国々が紹介されている。
伊都国(甘木)から東南に百里約5km離れた所に
奴国があり、平地伝いで行くとそこは丁度旧朝倉町
に当たり奴国はそこにあったのだろう。

・伊都国から百里約5km東に離れた場所に不弥国が
あり、甘木から東に街道伝いで約5km進むと佐田川
沿いの三奈木に当たりその場所に不弥国があったの
だろう。

・同じく伊都国から南に水行二十日、要するに海を
南へ20日航海すると「投馬国」という国があった
とされる。
「陸で行ける」とは一言も書かれてない以上、
必然的に甘木から遠く南に位置する九州とは別の
島だと言う事になる。間違っても東にある本州や
四国では無い。

もしも魏の使者が魏志倭人伝の記述からして船を
停泊する港にしていたであろう末盧國の博多湾
から船で甘木より南の島に行こうとすれば、
恐らく長崎や五島列島を素通りする当時知られて
いた航路で南へ進み、当時の船で20日かかって
やっと行けた距離だとすれば、その場所は西九州
の甑島列島や大隅諸島でもなく、奄美大島という
ことになる。
投馬国が「国」である以上、ある程度の低地の
広さや豊かな自然があったところとなる。
そうなると必然的に奄美大島だという答えが出る。
この時代において奄美大島そのものが投馬国だった
のだろう。

・いよいよ本命の邪馬一国の場所を突き止めよう。
伊都国から南へ海路で10日か、陸路で一ヶ月
かけて行くと卑弥呼がいる邪馬一国に行けるとある。
要するに海から行けば、陸路のおおよそ3/1の
日数で邪馬一国に行けるということである。
前述の投馬国は九州とは別の島にあるから海から
でしかいけないが、邪馬一国は甘木より南にあるが、
1ヶ月かければ陸からでも行く事が出来る記されて
ある。ということは邪馬一国が実在した場所は
必然的に同じ九州島の甘木よりかなり南に離れた
南九州にあったことになる。前提事実として、
邪馬一国は2世紀末に始まった女王国であるから、
南九州で遅くとも女王国が成立した2世紀末には
存在していて、短くとも3世紀末まで存続していた
南九州で大規模かつ最大規模の遺跡が卑弥呼が
いた邪馬一国である可能性が最も高い。

そしてそれらすべての条件を満たしている古代
遺跡は南九州では一つしかない。
それは宮崎県西都市の1世紀に誕生し4世紀以後の
古墳時代まで続いた西都原古墳群である。

西都原古墳群は温暖で広い宮崎平野の西都原台地に
あり、恐らく魏の使者は当時知られていた航路と
して先程同様博多湾(末盧國)を出向して、九州を
中国大陸に近い西から南下して九州南端の大隅半島沖
を経て、少しだけ北に上って、宮崎平野の西都原に
おおよそ10日の航海を要して上陸していたのだろう。

その他にも甘木から日田を経て豊後に行ける街道を
通って、豊後、日向を南下し陸路1ヶ月でも西都原
に行けたであろう。更に魏志倭人伝によると帯方郡
があった韓半島のソウル周辺から女王国(邪馬一国)
までの距離は1万2千里余りと記されている。
要するにソウルから半径約600kmの圏内に
邪馬一国が実在したことになり、西都原はその
範囲内にあるのである。

・西都原古墳群にはそこが卑弥呼の邪馬一国で
あった事実を裏付ける決定的証拠がある。
西都原台地には300基以上と言う膨大な数の
古墳群があり、九州最大の古墳群である。
古墳の9割が円墳であり、その中に日本最大の円墳
である男狭穂塚(おさほづか)古墳があり、円墳
部分の直径の長さは132メートルもある。
正に大倭王の邪馬台国に次ぐ別の国の女王だった
卑弥呼に十分相応しい規模の墓である。

卑弥呼の時代の魏の度量衡によると、計算基準と
なる足を左右のどっちかに決めて、その足の歩数で
度量を計測していた。要するに2歩が魏書において
1歩として計算されていたのである。
通常の大人の歩幅が60cm余りであるから、
魏の度量法における1歩は120cm余りになる
のである。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓が直径百余歩と記されて
おり、これは男狭穂塚古墳の円墳部分の直径の長さ
132メートルと殆ど同じ長さになるのである。
この男狭穂塚古墳こそが卑弥呼の墓である。

この古墳を除いて魏志倭人伝の卑弥呼の墓に近い
古墳は日本全国を探しても無いのである。
このことから、長年日本古代史を迷宮入りさせて
きた卑弥呼の女王国即ち、伝説の邪馬一国は
北部九州でも近畿でもなく、かくして日本神話
で日向と呼ばれた宮崎の西都原古墳群に実在して
いたのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 08:51|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月15日

八咫烏の会〜358本の銅剣

出雲の荒神谷遺跡から発見された知る人ぞ知る
358本の銅剣は3世紀に製造されたものであるが、
出雲では製鉄は行われていたが、製銅は行われて
いなかったことから、製銅が行われていた他の
地域から持ち込まれた可能性が高い。
358本という数は古代出雲における神社の数
と同じであり、もともと神社に奉納されていた
ご神体だったのだろう。そのご神体である銅剣
すべてをわざわざ一つの場所に集めて埋めた事と、
埋めた所が山奥の人に見つかりにくい場所だった
事実を合わせて考えれば、出雲に唐の水軍が攻めて
くる直前に出雲王国の最期を悟った祭司達が、
唐に銅剣が見つかって没収されるのを防ぐために
隠し、出雲王国復活のときに掘り出すつもりで
いたいわば「タイムカプセル」だったのだろう。
しかし、出雲王国の統治者の末裔は消滅し、
復活を目指す者さえ現れず、出雲王国は復活の日
を見ることなく、1300年後の道路建設の
ときにようやく発見された。それが358本の
銅剣の真相であるに違いない。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「謎の古代日本史/ユダヤ人秦氏と神道」
を出版しました。「日本は神道だが、神道はユダヤ教だな。」とは、
明治天皇の言葉である。購入は↓↓ から
          http://www.amazon.co.jp/dp/B00WT3T2S2
kame3328 at 09:13|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)古代世界の謎 

2016年05月08日

八咫烏の会/唐の日本征服の狙いは水銀

出雲を中心とした倭国が唐に征服される4年前の
659年に唐の李延寿が「北史・南史」という
史書を編纂している。そこでは、倭国が文身国と
して描かれ、国民は豊かだが客人に食物を出したり、
もてなしたりせず、国王は金銀財宝にまみれていて、
家の周辺には水銀が溢れ、その上を雨が流れている
と傲慢な放蕩者のように描いている。恐らくその
時点から出雲を中心とした倭国を悪者を退治する
つもりで征服する意図が唐の朝廷にあったのだろう。

実は古墳時代以降の古代日本では水銀が大量に
産出されていた。当時の水銀は朱色の色彩原料や
金メッキなどに使われていて、道教思想では外丹
と言う名で不老長寿の秘薬として知られていた。
経済的目的として唐は水銀鉱脈を手に入れる為に、
668年に高句麗を滅ぼした後の676年に韓半島
からは完全に撤兵したのとは対照的に、それ以降も
征服された日本は引き続き占領され続けているのだ。
それで韓半島では先住国家だった新羅が統一新羅と
して残ったのに、出雲の邪馬台国は滅ぼされてから、
元の国に戻らなかったのである。
水銀鉱脈が豊富だった丹波と伊勢の中間にある
畿内地方に673年に誕生したとされる飛鳥浄御原宮
(あすかきよみはらのみや)から幕末まで続いた
平安京、大阪などに至るまで都を構え続けたのは、
唐の勢力が水銀資源を採掘して莫大な利益を得る
ことが目的だった。


・万葉集に封印された邪馬臺国の最期


東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 
月かたぶきぬ(万葉集1巻第48首)

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡(原文)

万葉集の暗号で解説した万葉集1巻第48首の聖武天皇
であった柿本人麻呂のこの歌は実は倭国の都
邪馬臺国の最期を歌った歴史的にきわめて重要な
歌である。
かぎろひとは炎の事であるが、広い地域一帯が特別
な事情から大炎上するほどの出来事であるに違いない。
更にこの歌の原文から読解できる夜に月が西へ傾く
のは「上弦の月」であり、旧暦の8月?10月に
かけて起きる現象である。
10月と言えば百済滅亡の翌月、そして出雲の
神在月の時期に当たるのである。
これらの事実が意味するものは「人麻呂は663年
10月に倭国の都である邪馬臺が、百済を滅ぼした
ばかりの唐の水軍から、夜襲される形で攻め込まれ、
白村江の戦い同様唐の水軍はここでも火攻めを行い、
今度は東出雲の都を大炎上させた」その極めて
衝撃的な風景を歌ったのが万葉集1巻第48首の歌で
あった。

このように「倭国の都であるヤマトが出雲にあって
その倭国が当時世界最強の国家だった唐に武力で
征服された」究極の正体を直視する事で、今まで
未解明だった万葉集をはじめ日本古代史の数々の
謎を解明できるのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o

このたびアマゾンのKINDLEから「今昔玉手箱・不可思議な国・日本」
を出版しました。購入は↓↓ から
http://www.amazon.co.jp/dp/B00GWYIZUK 

kame3328 at 08:49|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)古代世界の謎