亀井英孝の「千年続く経営」ブログ

名南経営コンサルティング 亀井英孝 公式ブログ

2020年02月

本日は、“互恵”について考えてみたいと思います。

 

当社では年に4回、部門の責任者が集まって懇親会を
行っています。

 

その場では、それぞれが行っている取り組みを話し、

その中で他部門のメンバーに協力を仰いだり、または

「それならこういう協力ができる」と逆提案したり、

話の内容に対して「その取り組みを具体的に教えて
欲しい」であったり、「もっとこうしたらよいのでは
ないか」とアドバイスをし合ったりしています。

 

要するに、やっている仕事は違っていても、お互いに

どのような協力ができるかを考え、提案し合う場なの

です。

 

これは実に有意義で、実際に具体的な成果もどんどん

出てきています。

 

“互恵”という言葉があります。

 

恵みというものは、もちろん天地自然からはただただ

与えられるばかりですが、人同士の中では誰かから

誰かに一方的に与えるものではなく、互いに与え合う

ことで真の恵みが生じてくるもののように思います。

 

私は常々思うのですが、一人ひとりが自らを勘定に

入れず、目の前の人のために何ができるかを真剣に

考え、今の今、できることの精一杯をすることが

できていれば、会社も社会も必ずよくなります。

 
そのような社会のを“互恵”社会というのだと思います。

ではそのような互恵社会を実現するためには、何が

必要なのでしょうか。

 

それは「互いに」ではなく「自分が」という意識である

ように思います。

 

自らが率先垂範して「今の今、自分にできることは何か?」

と常に考え、実践していく。その姿勢が大切なのだと思い

ます。


一人ひとりがそのような意識で目の前のことに臨むとき
真の互恵社会を実現できるものだと思います。

本日は、“相続”について考えてみたいと思います。

 

“相続”と言いますと、「受ける」というイメージが

ありますが、その言葉の本質はそうではないように

思います。また、そう思ってしまうからこそ間違い

が起こるのだと思うのです。

 

相続を訓読みすれば「あいつづく」となります。

 

要するに「受ける」ものではなく「続けていく」

ものと考えることが妥当なのだと思います。

 

もちろん一旦は受けるのですが、それは次に続ける

ために一時的に預かるのであって、使い切っていい

ものではないのです。

 

ところが、一時的ではあっても一旦は手に入ってし

まうから、ついつい自分のものになったような気に

なってしまう。そこに問題の原因があるように思い

ます。

 

もちろん、手を付けざるを得ない場合もあります。

 

そのときに大切なのは、例えば10預かったものの

うち2を使って、その使った2で新たなものを生み

出して、11を次に繋げる、という考え方です。

 

「子孫のために美田を残さず」

 

という言葉がありますが、これには続きがあります。

それは

 

「社会のために美田を残す」

 

です。

 

社会のために何かを残すためには、お金がなくても

できることはありますが、なければできないことも

あります。

 

だからこそ子孫が社会に役立つくらいの美田を残す。

 

そして子孫は、その預かったものを使って社会に貢献

し、更に次代に繋げていくものを残していく。

 

そのような循環が生まれたとき、相続が“争族”になど

なりようがありません。

 

相続とは、受けるものではなく、預かるものである。

 

その本質を忘れないようにしたいものです。

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