2016年12月1日

(筆者が神に問いました。「人は、出逢いとともに、様々な形で“別れ”というものがあります。その別れの一つである、何らかの理由でこの世を去られた方への“供養”について御教えください。」)

「“生きる”と“死する”の分岐点、この世を生きる者同士の一方がある日この世を離れる、それは、地上に身を置くそなたら人間にとって、少なからず大事となる出来事であろう。」

「それは、現実に、それまで自らと同じく呼吸をし、身動きしていた者が、突如(または、ついには)その生命活動を停止し、これまで(会話などで)様々に意思を通じて(疎通して)いたことが不可能となる、その後において共にこの世を生きていくことが叶わぬことは、そなたらにとって、何よりも寂しきこと。」

「しかるに、現世をそなたが生きる、それは、魂という観点からすれば、ほんの“一片(いっぺん)”の事柄に過ぎぬ。魂の成長する過程で、ある“一時期”が、“この世”という現象の世界(舞台)にて現わされる、それが、究極的な表現である。」

「魂にとって、“一過点”であるこの世。しかしながら、なぜ、これほどまでに、人はこの世を生きることと、この世を離れることの“境”を重視し、その双方に対し、終わりのなき答えを求めるのであろうか。」

「それは、現象界というほんの一時期、しかしながら、あらゆる事象が混交するなかで、
様々な人との出逢いや交流(関わり合い)を通じ、人間ならではの温かみや喜び、あるいは辛苦を味わいながら、そなたが自らを“知る”ためであり、現象界に身を置きつつ、生命の不思議、魂というものの繋がり(仕組み)、そして、神の叡智を感じ取っていくことにある。」

「魂とは“不滅”であり、たとえ、肉体的にどのような様相となろうとも、その本質は、神と通ずるものである。“死別”という、そなたら人間にとっての誠に大なる出来事は、それでも滅せられることのなき(不滅の)魂というものに対して、どのような意味を成すものであろうか?」

「現象界で生じる物事は、様々な考え方はあれ、これもまた、実に“大事なる”出来事である。そして、その根底に流れる、不滅の魂たちの、“肉体をまとった”うえでの一つの現象(舞台)ということもまた、けして見逃すべきではない。」

「“供養”とは、当然のことながら、今現にこの世を生きる者より発せられる(故人への)“祈り”である。それは、今在る自分が、長く連綿と続く先祖や、または数限りなき魂たちの生き死にによって生かされているものであること、それを、“祈り”という形で、亡き人へ想いを寄せる(馳せる)ことで、現世生きるそなたからの(亡き人への)想いの“橋渡し”とすることができる。そうして、今現に生きる者も、また肉体を離れ光となった魂も、両者繋がり合いて、この<宇宙>を形成するのである。」

「亡き者への一番の“供養”とは、現世を生きるそなたらが、日々を如何に生きるか、この一言に尽きる。言い換えれば、そなたが自らを真の意味で、“大事なる者”として受け止め、日常において一歩一歩丁寧に歩むことであり、そのなかで、一つでも喜びや新たなる発見、そしてこの世に対し感謝の念が沸く、そういった、生きることに対し、自身の感覚により“充足”を感じ得るものであるかということこそが、魂たちが
もっとも心を寄せるものである。」

「そして、現世を生きるそなたの想いほど、この宇宙に在る数多の魂たちへ届くものはない。そなたがこの世を“生きること”、神や天に召されし数え切れぬほどの魂たちの、それ以上の望みはあるだろうか?」

「亡き人への“供養”を通し、今の自分こそを見つめてもらいたい。魂の繋がりによってこの世に降ろされたそなたは、この世においても、先立って天へと召されし魂たちと心を通わせながら、自らを知り、この世という奇跡を感じ、そして、より一層強く生きていくのである。」