2017年11月18日

(筆者が神に問いました。「2017年も残りあと一か月余りとなりました。この時期に、わたくしたちが必要な心構えをお教えください。」)

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「混沌とした状況が、今なおこの世界を覆っています。人も物も、この世に在るものとして複雑に絡み合い、そして、見えざるものもまた、その動きは、矢の如く飛び交い、この世を不安ならしめる、
まさに右往左往の状況と言えましょう。」

「いまだ見出せぬ、未来への予想図が、人々の心を一層不安に押し込めます。希望も、落胆も、それが何をもって希望とするのか、また、何をもって落胆なるのか、それすらもわからぬままに、ただ漠然とした不安ばかりが、この世を苛(さいな)むのです。」

「“光”が進むとき、闇は、密かに、その行く先を同じくして、光を蝕(むしば)むのを今か今かとうかがいます。その危険なる隣り合わせが、人々の希望と不安の両面をまさに表すかのように、(光と闇が)表裏一体となって、人々の暮らしのなかのあらゆる場(場面)において、同時に進行しているのです。」

「今よりも良くしていこう、少しでも明るい未来をと願い、懸命に生きるその裏腹で、(一見して)変わり映えの無き日々が、どこか底知れぬ虚無感を誘い、人々の生きる力を萎えさせます。」

「生きるとは、“根(こん)
をいかに用いるか、ということ。それは、言葉で示せば、“根気”や“根性”ということでもあるでしょう。この年(2017年)は、人も物も、そして、霊魂でさえも、いわば、“動”なるエネルギーにて、交わり、混在しました。ゆえに、その“動”なる時代の興隆に合わせ、われら(神)が、幾度も(2017年が)“試行の年”として、試みることに意義を強め、その試行に係る思索と行動によって、自らの立ち位置、そして、人との関わり合い、縁などを引き入れることを、ことさら説いたのです。」

「しかしながら、けして“根なし草”のように生きてはなりません。流動激しきこの世においては、これまでの(人類の)歴史には無きほどの情報の交錯、人々の流入(交流)、互いが
自覚ありなしとにかかわらず、何等かの接点をもって交わり合うことで、この多重なる世界が確立されているのです。」

「その多重なる世界においては、人は、生きる術(すべ)を迷います。そして、自らの在り方を迷います。迷わずに生きること何よりも困難なる世界ーーー。雑多な日々に翻弄され、気づけば、人生の転換の機会はとうに過ぎ、根無し草のように彷徨(さまよ)うことになる。」

「この手探りの世界を、ただ見過ごしていてはなりません。手探りは、自ら、“燈火(ともしび)”を得て、“手堅く”進んでいくーーー 各々(各人)にあっては、努めてその気概を持たねばならぬのです。」

「“気づき”の場(機会)、人間誰しもがもつ、縁を引き合う(引き寄せる)機会は、幾重にも配されています。必要に応じ、適切なる状況下、“あぁ、こういうことだったのか”とわが身に気づかせる、その貴重なる出逢いの場は、この世に降り立ったからこそ、何よも強みとなり、また、かけがえのない、人生の“救い”となるーーー」

「大なるも、またたとえ小なりとも、巡りくる“縁”をこそを大切になさい。傍観者は、単に、舞台の外に佇(たたず)み、その(舞台の
行方を見守るのみ。そなたこそが、欠かせぬ“縁”を幾重にも引き寄せ、その舞台の主(ぬし:主人公)となるのです。」

「傍らに佇むばかりでは、この、忙(せわ)しなき世においては、その潮流(本質)さえも見失い、本来進むべき道程を得ぬことになるでしょう。」

「今まさにこの世を生きている、という実感が、何より、明くる年(2018年)の展開を形づくることになる。それは言い換えれば、日々の生活、対人関係、近しき者(家族など)との関わり合いを今一度、意識に上げ(意識して)省みることであり、そして、今、この国の、この時代だからこそ、自らは何を求めて(目的として)生きるのか、それを心に丁寧に描く、それが、そなたが生きる証となるのです。」

「揺るがなき自分ーーーたとえ簡単ではなくとも、そう“努める”ことこそ、惑い多きこの世における最大の研鑽ーーー。不測の事態も、霹靂(へきれき)たる事象でさえも、それを果敢に乗り越える、賢きそなたとなるでしょう。」

以上。