神々からのメッセージ

宇宙の根源より地上へ降ろされる神々からの御言葉。人々への深い愛のメッセージ。

2016年05月

2016年5月29日

「時間は、刻一刻と過ぎている。ある者は“生(せい)”をよりなぞらえ、たとえ目前に何が起ころうとも気(気力)を煌々(こうこう)と燃やし、一歩、一歩、段(階段)を上がるがごとく、ただひたすらに進みゆく。」

「かたや、ある者は“死”へとひた走る。それは、わが身が、究極、ついには死に向かうことを、目に見える現象の何らかの要因のゆえに、自らその判断を下すのであり、虚無的、あるいは崩壊的に人生を捉え、やみくもなまでに、生命(いのち)を費やそうとする。」

「しかるに、たとえ“生(せい)”に燃えるといえども、その真実たるや、“死”というものを絶えず内包し、身(身体)の細胞は、死する(消滅する)ことで再び生まれ、身体を維持し、機能させる。

そしてまた、すべて“生”によって構成される人生というものはなく、死、つまり、終焉ということは、目前の現象、人間の関わり(人間関係)、これまで学びしこと等の、ある種の終焉(区切り)こそが、まぎれもなく、そなたの人生に“生きる”ことを援けるのだ。」

「“死”へと向かう者もまた、同じ。たとえ、この世において、何をも成せず、ただ、虚無的なまでに日々を過ごそうとも、そなたが今ここに在ることが、すなわち“生”(せい)なる証―――。そなたが在ることが、他(他人)の生き方にも影響を及ぼし、それは、現在も、そして、過去(の先人たち)も、未来(の人々)でさえ、そなたの“生”がまさしく反映されるのだ。」

「“生”あるからこその“死”。そして、“死”あるからこその、“生”というものが一層の輝きを含み、人間は、この
(生死の)織りなす仕組みにより、己の人生を、世の中を、そして“神”をも感じ、想いを馳せることができる。」

「今一度申す。誰一人、この世に欠けてはならぬ。誰一人、この世が必要とせぬ者はなく、神がそなたのこの世に在るを、何よりも望んだのだ。」

「そなたという一人の人間が、自らの人生を創り、その人生におけるあらゆる“生と死”が、ついには、地球の生死へと連なり、その絶えず繰り広げられる地球(生命)の生死が、膨大なエネルギーを創出し、宇宙の様相となる。」

「時は刻一刻と過ぎ、そして、生は死とともに、交じり、互いを支えつつ、神の望しそなたのこの世の生、人生を美しきまでに精妙に創り成す。死があるからこそ、生はなお一層輝き、そなたは、その究極の“生在る”存在として、その(寿命における)死でさえも、他のあらゆる生命の“生”に、またとなき輝きを添えるのだ。」




2016年5月22日

「(目前の)何かを見て、ふと笑顔がこぼれる。それは、凝り固まったそなたの心内、囚われた思考に、目前の光景(事象)が期せずして、そなたの思考を一瞬にして変える、新鮮な要素を授ける。すると、そなたは、心をまたたく間に“軽く”させ、知らず知らず、心の均衡を整えている。」

「日常、何かを思い浮かべ、それが、過去の嬉しき出来事、出逢った人を思い浮かべ、あるいは、未来(将来)における楽しみや希望がごく自然とそなたの思考に連なったのなら、そなたは、その心にじんわりとした温かさ、生きる勇気が沸いてくるであろう。そなたの顔には笑顔(笑み)が咲くのだ。」

「そなたよ。この世に生きるは辛きことか?苦しみ多き、この世知辛(せちがら)い世の中か?物質的・金銭的に苦しむ者、あるいは、そういった辛苦なき日常それでもなお一抹の不安、生きにくさを感じている。この地上、われら(神)から見るに、ひたすらに苦しみ、もがく者、そして実体の無い不安、予測、観念にてわが身を苦しめる者が如何に多いことか。」

「人間は苦しむために生まれてきたのではない。神は、人間を苦しめるためにこの地上に生まれさせたのではない。この地上にあらゆる人間を生まれたらしめる神の願いとは、すなわち“笑み”の姿であり、一人の人間のなかに、いつも笑顔を、そして、縁ある人々との対話、交流、数多くの人々が関わるその輪のなかにも、数々の笑み(笑顔)があることのみ。」

「そなたたち(人間)に与えられた笑顔。これこそ、かよわき人間というものが、太古より長らく生きながらえ、そして今も生き繋ぎ、多大なる国、社会、家族を創り得る、神が与えた不可欠なる要素。これに勝る“調和”の真髄、人間として生きる秘訣は無かろう。」

「そなたがわが身を省みるとき、そなたの顔に“笑み”はあるか?そなたの心が真に何ものにも縛られず、自由に軽やかに生きる最大のきっかけは、そなたの顔にほころぶ、その笑顔なのだ。」

「悩み、苦しみ、心が窮屈なとき、笑顔になるが良かろう。動作から心への作用、エネルギーの転換―――。しかるに、それでも笑顔になれぬほどに心が沈み悲しみに苛まれるとき、自らの気持ちをないがしろにしてまで、笑顔に(無理と)変える必要も無かろう。」

「そのときは、いや、そのときこそ、神を思い出してほしい。われらの心は、いつもそなたに“笑み”を向け、今もそなたを想い、愛してやまぬ。そなたこそ、わが愛しき者よ。われらがそなたに笑みを向けるその意味は言葉には到底尽くせず、だからこそ、神はこうしてそなたが在る(存在する)宇宙を存続させる。そして、この地上に現わされる自然もまた、形は様々にして、しかるに温かな、真に誠実なる微笑みをたたえているではないか。」

「それが、地球。そなたの生きる場所―――。神の笑みのなか、宇宙のなかに、そなたは今まさに、笑みをたたえ、それでもあきらめず、前へと進む。」

「神の笑みのなか、温かな光のなかに、そなたが、われらと同じく“笑顔”をたたえ、日々を穏やかに生きられこと。それが、神々の本望、われらに“最高の笑顔”を与える。」




2016年5月15日

「現象界において、(肉体的な)生命(いのち)の終わりがあること、老いがあること、それは、今この世にされる一瞬”さえも、輝きがあり、それはまた、固定ならず、過去のものず、まさに“新鮮たる”そのままの“(せい)があという―――

なる状況、環境下、その新鮮たる、“生きた”世に現わされるそなたたちは、まぎれもな人間特有仕組“新鮮なる”ものって組成されているのであり、この“生きた”世を要素が、一瞬、一瞬、目に見える、耳に聞こえ、さらには全身感じることであ

(せい)”ある者だからこそ、自らはまさに、今“生き”この世を新鮮感覚生きる、様々(せい)って奇跡を、いかなる“瞬間(とき)”でさえ感じ、吸収し、果敢に、そして感動をもって生きねばならぬ

「過去の歴史、出来事も、皆、“今”に繋がる。過去からの人類の歴史の集約が、すなわち“今”であり、過去たるものは、決して遠くの存在、記憶の彼方ではなく、今を紐解き、今を()つい過去を知ることとなる。」

「そしてまた、過去(また歴史)とは 、“死”の積み重ねではなく、また、動かし得ぬ存在、“無動”でもない。むしろ、過去という、“生きた”時代、その場面での、人々の“生きる”積み重ねがあり、あらゆる“動”があるゆえの、今のそなたたちの“生きる”世が在る。

それであるならば、そなたたちは、なおさら、自らが、何より“今”を生きることに専念し、今この瞬間こそを、新鮮たる想い、感覚、感動をもって、この世で、自らを良きに生かさなくてはならぬのだ。」

「日々の一瞬、一瞬もまた、すなわち、未来の“生きる”人々へと連なり、そうして、人類は、過去も、そして未来をも突き通し、限りなく、そして果てしなく、豊富なまでの人の生きざまをこの世に現わし、こうして人は続いてゆく。」

「過去に固執することなかれ。過去の良き時代を想い、あるいは過去の苦難に今なお心を(さいな)まれる、その複雑な感情の矛先は、まさに、という(せい)駆逐するであろう。」

「そしてまた、未来へ先走ることなかれ。それは、現実(今)からの逃避。正当なる段階を踏まぬ、急ぎ心から成される、この一時(ひととき)安易脱却―――今”無下(あや)


「あらゆる“時”の概念は、他でもない、

生命(いのち)礼賛一瞬が、も、地球も、たい価値

そうて、人類
(せい)基点地上という奇跡る。




いつも『神々からのメッセージ』をご覧いただき、誠にありがとうございます。
 
 年に数度、全国各地にお伺いし鑑定をさせていただいておりますが、今年の夏は、東北および新潟にて実施することとなりました。以下、日程をお知らせいたします。

 
  【 開催場所・日時 】 

  • 福島県/会津若松駅周辺:8月20日(土)8時〜11時
  • 宮城県/仙台駅周辺:8月20日(土)15時〜20時/8月21日(日)8時~11時
  • 岩手県/盛岡駅周辺:8月21日(日)14時~20時/8月22日(月)8時~11時
  • 秋田県/秋田駅周辺:8月24日(水)16時~20時
  • 山形県/山形駅周辺:8月26日(金)16時~20時/8月27日(土)7時~9時
  • 新潟県/新潟駅周辺:8月27日(土)15時~20時/8月28日(日)8時~13時


 いずれも主要駅周辺で、気軽に鑑定をお受けいただける良い機会かと存じます。ご家族・お知り合いの方にも鑑定にご興味のあられる方がいらっしゃいましたら、是非お声をかけていただけましたら幸甚です。


皆様が今世授かる人生の目的やお役目、またご自身をお守りくださる存在の愛の御言葉をお知りになって、日々をより安らかなお心持ちで進んでいただけることを心よりお祈りしております。
                     
                                                 Rinokia



2016年5月4日

「人間とは何と、か弱きもの。この地上(地球上)に現わされる幾多の自然の、いずれの要素も欠けたならば、たった一日でさえ生き延びることは叶わぬ。人間が赤子として生まれ、無垢なるままに母親に抱かれるその姿は、まさに、“生きる”ことが、赤子の今、“すべて”となる―――。

全身で感じ、全身で感情を表現し、それは、“生きる”ということが、人間にとりて、それ以上の使命とはならぬほどに、ただその瞬間、“生(せい)”の真っただ中に在る、愛しき赤子。そして、人生を(すでに幾年も)経ているそなたたちもまた、実に純粋なる“生命(いのち)”というものを、神に愛され、認められるそのままに、しかとたずさえているものぞ。」

「ごく自然と、“家族”という形態が、古来、人間という種(しゅ)の集団に芽生えた。それは、すなわち神の意向でもあり、また、大切な(女性の)身を用いて、ようやく産み出だされた、か弱き赤子が、この世を全身にて力の限り生きるとき、すでにこの地上を経る者たちのごく自然な感情からの援(たす)け(援助)が必要とされた。

赤子が日々呼吸をし、泣き、笑い、少しまた少しと物事を習得する、一つの生命のその見事なまでの“吸収力”は、赤子に関わる者へ、無上の感動と、生きる力を与えるものぞ。」

「そのようにして、互いに守り、守られ、心身を刺激し合い、人生に彩りを添え歩んでいく、そのごく身近で、切れぬ繋がり(集団)こそ、“家族”―――。人間が殊(こと)更(さら)に、か弱きものゆえの、しかしながら、一つの生命を構成し、発する波動は、神にとりてもかけがえのなき“宝”。

ゆえに、神は、“家族”を通し、いつでもそなたを支える。家族というものの大切さを覚え、学びを得ることのできるよう、そなたの人生のあらゆる場(場面)に、“家族”という大きな敷石を配したのである。」

「この地上において、現にあらゆる家族の形態があるなかで、しかしながら、いかなるものであっても(家族を構成する)その者にとって、今世、もっとも欠かせぬ“学び”となる。たとえ無情卑劣な(家庭)環境下にあっても、けして卑屈であってはならぬ。

繰り返し地球に転生し、あらゆる“家族”のあり方を経てきたそなただからこそ、今生(こんじょう)再び幾多の縁によってこそ頂く“家族”の形態に身を置き、さらなる学びを得、そして何より、自ら発することのできる“愛”があるであろう?」

「遠く上空、宇宙の彼方(かなた)から地上を見たとき、“家族”の様相がことごとく垣間見られる。その様子とはいかなるものか。家族が笑顔で、互いをねぎらい、ときには互いに鼓舞し、その家族ならではの“調和”が図られたとき、絵も言われぬ温かな光が、その家族から溢れ出るのだ。ここにこそ、明日への架け橋が繋がり、神の望む、万物・生命の調和の御世が現わされるであろう。」

「神は願う。そなたに与えられた今、その環境、家族、そしてあらゆる力(お蔭)を借り、ようやく生まれ出で、叶ったそなたの今生(こんじょう)が、そなたにとって何よりも大切な“礎(いしずえ)”となることを。人との関わりのなかで得た経験、学びの一つひとつが、そなたの人間としての“熟成”に寄与し、生まれてからのあらゆる出来事が、自らにとって本当に“欠かせぬ”ものと心底思い、丁寧に生きること、そして、明日に希望をもてることを。」

「神は愛(め)でる。そなたの人生こそを。そして、神は感じる。そなたが、神の大切なこの地上を、あらゆる状況のなか、苦難にも屈せず、それでも“生きる”その健気(けなげ)な姿を。

そなたが在るからこその、この地上における神の一層の喜びであり、それはまた、そなたがなおこの地上を“生きる”からこその、家族の学び、そして喜びに繋がっている。」




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