神々からのメッセージ

宇宙の根源より地上へ降ろされる神々からの御言葉。人々への深い愛のメッセージ。

2016年09月

2016年9月23日

(筆者が神に問いました。「人間関係(対人関係)について質問いたします。好きな人、嫌いな人、得意な人、苦手な人、愛する人、憎い人・・・人には、生きていくうえで様々な人間(対人)関係があります。この人間(対人)関係によって、わたくしたちは一体何を学ぶべきなのでしょうか。」)


「あなたがたを(天より)見ておりますと、“好き”よりも“嫌い”、“良い”よりも“悪い”そして、“許せる”よりも“許せない”等々、なにかそのこと(その相手)によって、自らの心をより“窮屈”にさせる心持ちが実に多いと感じます。つまり、あなたがたの生きる指標が、“是・肯(肯定)”よりも、“非・否”という、打ち消すもの、否定するものであることが、現代のこの世の特徴でありましょう。」

「しかしながら、この現象界は、むしろ、“(やっては)いけない”ことよりも、“(やっても)良い”という“容認”に立つ人間の関わり方から端を発しました。無論、いつの時代であっても、人間という、いわば個々が“(人間)同士”として、関わり合い、互いに友好的に生きるうえでは、してもよいこと、そして、してはいけないこともまた、ごく自然発生的に(礼儀として)各々に課されております。」

「今一度考えていただきたいのです。相手が許せない、相手が嫌い、そして、相手のために自分が不利を被る(人生を謳歌できない)という、果てしてその心(思い)は、本当は、一体何が原因なのでしょう?」

「あなたの心が許せないのは、本当にその(被害を与える)相手なのか、それとも、あなたがそういった相手を許すことができない(または、影響を受ける)不甲斐ない“自分”なのか―――。」

「神は、あなたがたを、誰一人として“不完全な
存在とは見なしておりません。度々伝えていますが、誰一人この世に欠けてはならないし、神がこの世を大事に思う、それは、すなわち、あなたこそを大事に思うがゆえです。」

「様々な規範と人間関係、そして、日々多くの事象の起こるこの社会において、本当に窮屈なのは、果たしてこの世か、それとも、あなた自身か―――。」

「窮屈なこの世があなたがたの思考を窮屈にする、すなわち、視野を狭めるということも考えられるでしょう。しかしながら、皆に今一度考えていただきたいのは、対人関係もしかり、そして社会の仕組みでさえも実に窮屈に、煩わしく感じてしまう、あなたのその“思考”が、この世の可能性を狭め、同時に、あなたの人生をも狭めてしまっているのではないか、ということ。」

「あなたがたは得てして、実に頑(かたく)なであり、さらに人間的な表現で申せば、“真面目すぎる”きらい(傾向)があります。こうしなくてはならない、こうでなければ生きられない、そういった、日々生きるうえでの数々の(自らに課す)規範、そして価値観が、あなたを自らにもっとも苦しめている。」

「“対人関係”ということで質問をいただいておりますが、今お伝えした、この世(この社会)へのあなたの心持ちと相通ずるものが、対人関係にも当てはまるのではないでしょうか。」

「あなたの目前に現れる家族であり、友人であり、または仕事上の関わる人々は、はたして、本当にあなたが苦しみ、戸惑い、そして、人生を自らの意思で歩むうえでの支障となる存在なのでしょうか?」

「“こだわらなくてもよいもの(人)”にこだわる。これは、けして、あなたの感覚や思考が劣っているからではありません。むしろ、あなたが他人(相手)に対し、あなたとその人との距離をあまりにも狭くし、あなたは、それら対象物(人)に知らず知らずのうちに自らを“投影”させているがゆえです。そしてなお、あなた自身が思い描くもの(良いビジョンもそうでないビジョンも含め)をもってあなたの目前に対して、“良い悪い”、“許せる許せない”等々を、それこそ“窮屈”なまでに厳格に判断し、あなたが持つ“基準”を、対象(相手)にあてはめようとするのです。」

「この世において、本当に機械(ロボット)のような、画一的な人間が望ましいのであれば、神はこの地上に人という魂を降ろした時点で、もとよりそのように(人間を)創り成しているでしょう。」

「しかしながら、誰一人として同じ(性質の)者はいない。皆が違っていて、そして、その違いがあるからこそ、互いが大いに学び合い、協力することを知る。一人では叶わぬこと、同じ(性質の)人間同士では成し得ぬことを、この世において現わすがために、神はあらゆる性質の魂をこの世に降ろしているのです。」

「対人関係において、あなたは、相手を非難する必要もありませんし、ましてや、相手によって、自分を窮屈にする必要もありません。対人関係にあって、何を見るか、それは、唯一、自らであり、そういった人間関係によって生じる自らの“心”なのです。そこには(対人関係があることによって)己を知る喜びがあり、対人によってこそ、今自らが生きているという実感が持てるか、そういった感情が生じるならば、より一層その道(思い)を極めなさい。そして、なお、その感情が心安きものでないならば、それは、まず、自分がそういった思い(心)を持つことに、罪悪感を感じるのではなく、ただただ静かに受け入れるのです。」

「自分という一個の人間におさまる、そういった、冷静なる“第三者の目”というものが確立していくにつれて、対人関係における困難は自然と解消されていくでしょう。あなたも、そしてあなたの頑(かたく)なな心と態度を受け取るその相手でさえも、誰も苦しんではならないのです。」

「神は、どの人でも、その人ならではの魂こそを、唯一の光、珠玉の魂と見なします。そこには高低も、また善悪さえもありません。違い、つまり“差”があることが苦しみではなく、“差”(違い)があることこそ、神が望んだこの世を彩る大切な要素―――。現実の世界の“差”(違い)が、あなたの心のなかで真に“差”のなきものとなる。対人関係という、狭い距離感のなかで濃密に関わる人間同士の関わり合い、それらを含め、神はこの世においてすべてをあなたに与える。あなたがこの神の恩寵のなかで真に得るべきもの、それは、あなたの人生におけるあらゆる出逢い、出来事のなかでの、“差”取り、すなわち、<悟り>なのです。」




2016年9月10日

(筆者が神に問いました。「この現象界では、実際に身体があり、物があり、出来事がある。すべては実在しているように思えますが、
神が『この世は“幻”である』 という意味を今一度御教えください。」)

「そなたたちは、過去のある出来事について、あるいは、今自らが置かれている状況(環境)においても、“後悔”や“恨む”想いをもつではないだろうか。現象界の目から見れば、無論、この世は幸なる(幸せな)ことばかりではない。

あらゆる性質の人々が
様々な状態にあるなかで、自身がある立場で関わることによって、時には(他人に)“影響される”という事態や、進むべき道が“遮られる”という状況ともなる。」

「“あの時こうすれば(あるいは、こうしなければ)”という悔いる思いは、遠い過去の出来事であっても、人間として、容易には拭い去れるものではない。」

「無論、現在(今)というものは、過去からの続きであり、そなたの今は、過去のすべての積み重ねが、認識あろうと(なかろうと)、形作っていることは間違いない。」

「言い換えれば、それだけ、行為や言葉によって、これからのそなた、そしてそなたを取り巻く環境(状況)は如何ほどにも変えられることを示唆するのだ。」

「(過去を)悔やむより、今を見据えよ。今に悲嘆するならば、その状況が変わり得ないと諦めるより、今を精一杯生き抜いてみよ。」

「“人は、何度でもやり直せる”―――。たった一つの失敗が、すなわちそなたの人生を止めることにはならない。」

「そなたが決意し、思い立ったとき、勇気を奮い起こしたとき、幾度でもそこから歩み始めることができる。それが、この世の仕組み、すなわち、確たる(確実な)ものは一切ない、ということなのである。」

「“この世が幻である”、それは、虚無感を植え付けるものでもなく、そなたたちの明日を目指し生きる意味を削ぐものでもない。“この世が実在しない幻なら、今だけやり過ごせばよい”という考えは、誠に愚考である。」

「一つ(一度)の人生においてもなお、人間に、幾度でも“生き直す”(やり直す)機会を与える、それ以上の、神の愛はあるであろうか?」

「ほんの僅かな希望でも、ほんの一握りの勇気でも、この世は、そなたがそれらをたずさえ生きるのにまだ余りあるほど、多くの恵みを備えている。そして、そなたが前進することによって得られる“学び”は数え切れない。」

「この世において、“確たる(確実な)”ものが無いのであれば、そなたのその魂(心)こそを、何ものにも左右されぬ、確然たるものとせよ。すなわち、この世が、そなたがあらゆる試みで生きる、そのもっとも最良な場であるなかで、そなたはありとあらゆる“幻”の現象を通じて、わが身を信じ、諦めず、悲観せず、幾度でも前へと歩みを進めていくのである。」

「人生に躓(つまづ)いたのなら、幾度でも起き上がれば良い。“幻”の現世において、そなたの歩みを遮るものは何もない。それが、神の愛であり、神は、生きることに命を懸ける(=懸命)そなたにこそ、手を差し伸べる。たった一度の人生を、“生き尽くす”ための、この世なのだから。」




2016年9月3日

(この世において“幸せな生き方”とは、と筆者が神に問いました。)

「自らこの世を生きていくうえでの“逃げ道”というものを、現代の人々は、大小あらゆる事象において、それを見い出すことに腐心し、果ては右往左往の人生を辿る。」

「“逃げ道”―――。それは、単(端的)には、“言い訳”という表現にても置き換えられる。そなたたちは、こうして、現代にみる生活の向上・安定の上に立ち(生き)ながらも、かえって、それが、自らが要する(必要)以上の“甘え”となって、何か事あるごとに頭を抱え、立ち行く(進みゆく)ことを拒む、そしてついには、自らの人格さえも抑え込むという行動に走らせてしまうのである。」

「そなたたちには、“潔(いさぎよ)さ”が足らぬ。潔さとは、まずもって、自身の心に嘘をつかず、人に対しても諂(へつら)うこともない。ただ、自身に備わるものをあるがままに認め、自ら成すことに関し、それ以上も以下もない、ただそのままの様相を、自らに、また、他(の人)に対しても、嘘の無き誠(の心)に従い、淡々と示していくのである。」

「幸せから遠のく生き方は、誰のせいでもない。そなた自身の心の捉え方次第、そなたの“選択”の結果なのである。“あの人がこうしたから”、あるいは、“あの人がこうしてくれなかったから”という、責任の転嫁はすなわち、自ら現世における学びの機会を逃し、見るべきもの、注力すべき事柄を悉(ことごと)く不鮮明にする。」

「“誰かがやらねばならぬ”というものは、この世のすべての者が負っている。言い換えれば、“誰もがやらねばならぬ”が、この世の中、埋め尽くされている(満たされている)ということ。それは、各々の環境・立場によって、内容は異なれども、必ずや、すべての者は、一つひとつが繋がり(由縁)をもって、天に“やるべきこと”を任されているのである。

ある国に自ら生きるということは、その国を良きものとするために、(その国に生きる)一人ひとりが、各々の立場にて、自ら考え、地道に、そして堂々と成すべきことに心を懸けていくのである。」

「やりたいことをやらず、言いたいことも言わない。そしてやるべきことも行動に移さない、その遅々として立ち行かない(進まない)今の自分を誰かのせいにする。それは、この世に生きながら、真には(真の意味では)この世を生きていないということ。

“生きる甲斐”、すなわち“生き甲斐”は、自らが見い出す(見つける)ものであり、自らがこの世に在ることを、自分なりに示していくこと、すなわち、目前の事象に対し不満の心を持つことなく、素直に、つぶさに対処していくことで、逃げ道に走らない、ということである。自らの人生に対して逃げず、言い訳をしない、その潔さのある日々にこそ、人は自ら“生きる甲斐”を見出すことができる。」

「責任のなすり合い、何かの原因を、人(他人)に求めるのは、もはや十分ではないか。この国(日本)が総じて不安定な状況に傾いていく、不安な道程を突き進むと感じる、それは、為政者のせいでもなく、ましてや、そなたたちの日々の生活に充足を感じられぬは、そなたを取り巻く人々のせいでもけしてない。」

「与えられた立場で、自らの役割こそを真正面から受け入れる。逃げず、惑わず、出来ることを淡々と処(対処)していく。それが、“潔さ”であり、日本は、先人たちの“潔さ”によって、生き抜く叡智を得、自然との共存を図ってきた。」

「受け入れるべきものは素直に受け入れ、けして、うやむやにはしない。そして、やるべきことは、そなただからこその、大事な“お役目”と心得よ。役目が果たせる(または果たそうと努めること)ことはすなわち、神が示す、この地上に在る者としての、そなたたち本来の“幸せな生き方”―――。

歩むべき道は、逃げ道にはけして見出すことは叶わぬ。日常こそ、そなたの身も心も、すべてを懸ける尊き場―――。逃げも隠れもせず、意(意思)を固めて、丁寧に処(対処)していくこと。それが、そなたこその“潔さ”なのである。」




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