神々からのメッセージ

宇宙の根源より地上へ降ろされる神々からの御言葉。人々への深い愛のメッセージ。

2017年04月

2017年4月29日

 “神域”ーーー、それは、場合によっては、誰しもが軽々しく踏み込むことのできない、“聖域”という表現になるのかもしれません。皆様もきっと参拝される神社で、鳥居をくぐり本殿(拝殿)へ向かうその道すがら、天へまっすぐと伸びる、樹齢幾年もの木々が醸し出す、独特の雰囲気であったり、建立物(こんりゅうぶつ)の荘厳な佇まい、また、ある場では、ピリッと張り詰めた空気感のようなものなど、様々な息吹をお感じになられるのではないでしょうか。

 人が、日常の喧騒を忘れ、心静かに神の御前にて手を合わせる―――。「何かご利益があるかも」と望み、神の御神徳をいただく、それ以上に、今は、日常溢れだすほどの情報や、尽きぬ悩みで、心身ともに疲弊した自分自身を、しばし時も忘れ、身も心も清め不要なものを洗い流す、そういった“禊(みそぎ)”であったり、“癒し”という意味合いのほうが、神社や仏閣などでは強く求められることなのかもしれません。

 わたくしが各地を巡りますのは、全国的にも大変有名な神社もありますし、また、鳥居は朽ち果て、本当にかろうじて神社と分かる、そんな小さな神社もございます。参拝される方が多い神社は、やはり、人の出入りが激しい分、エネルギーが交錯(行き来)する、言うなれば、霊的にも“賑やか”、または“慌ただしい”様相が視えますし、また一方で、本当に静かな息吹を常に回転し続ける、そういった整然とした神社では、その聖域が、一つの“完結した”息吹であることもまた、つぶさに感じ取っております。

 参拝客がいようともいまいとも、わたくしが、天が示す状況下において、対話すべき神と意識を通わせる、それに関し、必要な一連の行いはけして変わることはありません。もちろん、他の参拝する方々へご迷惑がかからぬよう、間合いをはかりつつ努めて平生を保っておりますが、それでも、神と対話するために、自らの波動は、【その⑨】でお伝えしたとおり、しかるべく高みへ“調整”していまいります。
 
 ところで、神社によっては、摂社や末社など、(その神社の)御祭神と縁ある神が、同じ境内に祀られております。わたくしは、お参りする際、境内に祀られるすべての神々へ、一つひとつ手を合わせてまわることを、常より心がけております。すでに本殿へと自らの歩みを進める最中に、脇にある摂社(または末社)の神の意識が、わたくしのもとへ入り込むこともございますし、また、幾度も詣でたことのある神社であれば、それらの神々の歓待の息吹を感じて、参道の間、心嬉しく意識を通わせることもございます。

 神社の御祭神(本殿)と対話させていただく、これは、ただ単に、目に見えない存在と話ができるということのみならず、そこに至るまでには、天の計画に基づく、わたくしに縁ある神々による御配慮や、しかるべく、わたくしの守護霊様のお取り計らいがなされるゆえでもございます。そして、<神>という存在が、わたくしという、人ひとりと意識を通わせてくださる、これは、僭越ながら大変光栄なことですし、また、一方では、その神の祀られる神社の境内一体のエネルギーの様相を、大きく揺り動かすことも事実です。

 ですから、とくにここ数年は、わたくし自身、神社や仏閣へ参る際には、神社であれば、一の鳥居、そして仏閣であれば、山門をくぐる際には、少しの間立ち止まり、自らの気を集中させつつ、「こちらへ入らせていただきます。よろしいでしょうか?」と、境内(または御祭神)へ向け、わたくしがその聖域へ足を踏み入れるためのご許可をいただいております。

 すると直後に、鳥居(または山門)の脇に控える、いわば“門番”のような霊的存在が、「お待ち申し上げておりました。」とおっしゃってくださったり、もう少し境内のエネルギーの調整が必要となる場合には、「しばし待たれよ。」をお達しを受けることもございます。あるいは、御本殿におわす神より、直接「ようこそお出でくださいました。お入りください。」などと、御声をかけていただきますので、そこでようやく、わたくしは心静かに、この神の聖域へ入らせていただきます。

 木漏れ日のなかを、実に清々しく、感謝の念をもって歩みを進める、そのなかにあって、わたくしの波動は、やはり、しかるべく御祭神との対話に向けて、徐々に感度を増してまいります。“来たるべき瞬間”―――、神との全身全霊を懸けての対話を成すべく、わたくしにまつわる一切は研ぎ澄まされ、そして、意識は現象界とは分離され、いざ、神のあられる神域へ足を踏み入れるのです。

その⑫へ続きます。】










 

2017年4月23日

 神社にて、<神>という意識体に“自ら”の波動を合わせるーーー、これは、いわば、テレビやラジオなどの“電波”と同様で、チャンネル(周波数)を切り替えることで、受信する側は、観る(または聴く)ことが可能となります。わたくし自身、全国の神社仏閣を巡るなかで、なぜこのようなことができるようになったのか、その理由は、徐々に自身の祈りの対象、つまり、対話する霊魂が増えるなかで、本当に必要な術(すべ)を神からいただいたのだと感じますし、そして、自らの身を守る意味でも大変大きな意味をもつことに、後々気づいたのです。

 わたくしは近年、神社仏閣以外にも、かつての戦地や空襲などがあった場所(忠魂碑)、そして、様々な理由により、船が難破(あるいは玉砕)した場にほど近いところに建立(こんりゅう)された石碑
などへ祈りにまいります。さらに時代を遡りますと、飢饉や一向一揆、籠城攻め(ろうじょうぜめ)などがあった城跡、また、戦国時代の合戦(かっせん)をはじめ、歴史上、熾烈な戦いがあった場、そして、そういった戦(いくさ)の後に建立されたであろう首塚(胴塚・足塚)などへも赴き、祈りを捧げております。かつて先人たちが経験された状況は、凄まじい轟音(ごうおん)や叫び声をともない、鮮明な映像となってわたくしの目前にて繰り広げられ、これがかつてのこの国の様子なのだと、しばし時を忘れ、静かに拝見させていただきます。

 そのような場所にて祈る、それは、神という意識体とは別の意識、すなわち、かつては人間であった御霊と意識を通わせるということです。そして、それらの御霊は、当時起こった出来事や争い、または不慮の事故などにより命を途絶えてしまったという経緯がありますので、ある意味では、“生と死”を分ける究極の状況、人の生きざまの“縮図”がそこに示されるものでもあります。

 はからずも命を絶えることになった御霊の悲しみ、愛する家族と離れ離れになった苦しみは、幾年を経ても
今なお消え去るものではなく、今を現に生きる者として、同情や哀れみなどで安易に接することはできません。そして、こういった、“人生の究極”を経た御霊たちが達する想いとは、得てして“悟り”に近いと感じます。「人間の想いとは、そぎ落とされていき、究極、このようなもの(達観したもの)になっていくのだな」と、思い知らされるようなことも多々ございます。

 わたくしが、そういった場所に赴きますと、様々なお姿の御霊を拝見いたします。(命を絶えたときの)当時の様相は、服装が朽ち果てており、あるいは、瀕死の負傷をおったままの御霊もあられます。また一方で、だいぶ弔(とむら)いが進んでいるのか、本当に綺麗な(その御霊が、人生をもっとも謳歌していたであろう時期)のお姿で、わたくしの目前へ出ていらっしゃることもございます。特に特攻隊などで戦死された方々は、皆様大変きちんとした身なりをされていることが多く、団長を先頭に整列されるお姿は実に堂々と、一斉に敬礼をしてくださいます。

 祈りを始めた当初は、お出逢いできる御霊の数も限られておりましたが、やはり祈りを重ねるごとに、わたくしが通わせるそうした御霊の数は増え、また、視させていただく光景もより詳細化してまいりました。わたくしという一つの魂が、そうした、目に見えない霊魂と、当時の状況を照らし合わせながら対話する、それは、すなわち、身はそのまま(現在)に在りながら、魂は、“過去”という時空へ飛び、しかも霊魂特有の層へ入り込むということですから、ある意味、魂と身体の“離脱”が起こり、実質的な疲労も大きく、場合によっては霊的に非常に危険な状況に陥る可能性もございます。

 ですから、わたくし自身、もちろん、祈り自体は、その場にて出来得る限りのことをさせていただきますが、自らの波動は、冒頭でもお伝えしましたように、ある周波の高さ(チャンネル)にすることを、ごく自然とおこなうようになりました。その高さとは、対話する集団のなかの、“リーダー的な魂”、あるいは、これだけは(わたくしへ)伝えたい、という意思をもたれる御霊の波動です。

 すると、本当に整然と、(リーダー的あるいは、メッセージを伝えたい)その御霊は、かつての様子や、また、その集団(御霊たち)の現在の状態、あるいは、今の世に生きる(後世の)人々への想いなどを、わたくしへ向け、一つひとつ丁寧にお話しくださるのです。これは、わたくし自身の、そういった御霊からのメッセージを、混乱なく、確実に理解させていただくことにつながりました。

 御霊と対するときには、本当にどのような存在に対してであれ、自らのスタンス(波動)を崩してはなりません。目に見えない存在とは意識を通わせながつつ、しかしながら、けして(そういった存在に)翻弄されてはならないのです。

 今の時点で必要なことを、そして、わが身一つで、真っ向から受け止められることを―――、あらゆる状態にある御霊に、肉体をもつ者として、この姿勢は欠かせぬものと、日々実感しております。そして、これは、現在のわたくしがおこなっている霊視鑑定でも、けして“揺るぐことのない秘訣
でもございます。

 ただ、これまでの数々の御霊との対話によって、一つ気づいたことがございます。それは、たとえ当時の様相が激烈で、苦渋の結末であろうとも、それが、今なお“恨み”といった形で御霊から表わされるのではなく、むしろ、当時の状況を冷静に省みつつ、深い“気づき”とともに、ついには後世への“祈り(願い)”となって静かに見守ってくださる、という、いわば、“段階の上がった”霊魂の状態へと昇華していらっしゃる御霊が実に多いということです。

その⑪へ続きます。】


 

 
 

(皆様、大変長らくお待たせいたしました。本日より、再びブログを再開させていただきます。Rinokia)

2017年4月14日

 この世界には、<神>という、人々が様々な形で信じる存在があり、特に日本では、自然物のみならず、あらゆる事象に、すなわち“万物”
に尊い魂が宿ると考えられています。文字通り、“八百万(やおよろず)”の神々です。わたくしは、これまで全国各地の神社仏閣へ参拝する機会をいただきましたが、ひとつ細かな点を申し上げますと、たとえ、同じ神社の名であっても、根底に流れる息吹に共通性はあるものの、やはり、地域によって、繊細かつ、明確なまでの“差異”が、本当に“神ごとに”、見事にあられるのを感じます。

 霊視を司る者として、<神>という、目に見えない存在と意識を通わせること、それは、自らの意思(思考)を保ちながら、目には見えない(自分とは)別の意識体と、脳裏のみで会話(対話)することであり、わたくしにとりましては、けして軽々しくおこなうものではなく、やはり、必要な心構えがあり、そして適した段階(手順)を経ていくことが何よりも大切なことであると、日々肝に銘じております。

 冒頭に申し上げました、“八百万の神”―――、それは、各々が独特の波動をたずさえ、もっとわかりやすく表現するならば、神々から発せられるエネルギーの様相が、本当に“すべて異なる
のです。すなわち、現象界でも、万物はそれぞれにエネルギーの震え方=“振動数”があるように、神もまた、特有の振動を発しておられますので、逆に申せば、この違いによってこそ、<神>という存在を認識できますし、そして、もし神と意識を合わせるのであれば、自身の“振動数”を、それに見合う程度まで高めていく必要がございます。

 「霊能力を持っていれば、どのような神(意識体)とでも対話することができる」―――、これは正直にお伝えしますと、正答ではございません。他の国の言語を話す人と会話をしたいのであれば、その国の言語を用いることがまずは前提となるように、神もまた、本当にあらゆる息吹を発して(回転して)おられ、それをもって<神>たる存在となられていますので、ただ単に、人間である自分が神社の本殿の前へ詣でさえすれば、すなわち、すぐさま神と意識を通わせられるわけではないのです。

 これは、わたくしが数え切れないほどの神社へ参拝し、祈り続けた末に、ようやく得た実感でもあります。ただし、そこへ至るまでは、“無意識的に”と申しましょうか、ほぼ感覚的に、自ら感じるままに、神前にて、神と対話する術(すべ)をおこなっておりました。

 神々と対話するためには、まずその神が発せられる息吹の特徴を瞬時に把握し、自分の肉体とは別の部分<霊体>というものを、その(神が発する)レベルまで一気に引き上げる必要がございます。普段の人間的な感覚を脱し、霊的な意識のスイッチを“ON”にしたうえで、その神と対話するため、ちょうど適った状態に、自らの波動を合わせていくのです。これに要する時間は案外と短く、現在はほんの数秒程度ですが、その際には
非常に高度な集中力が必要となります

 目前にあられる<神>という息吹へ、文字通り、わたくしは“全身全霊で”対峙いたします。そこに一切の気の緩みは許されません。このときばかりは、自分という人間が、それまでとはまったく別のオーラを発し、神と自分とを介在する隙は一切排除されることを感じます。すると、ある瞬間に、“カチ”っと合う自分のなかでの手応えがあり、続いて、目前の神との対話が厳かに始まります。

 ほんの一言のみを、大切にお伝えいただく神もあれば、本当に長く御話しくださる神もあります。様々な御教えを授けてくださる寛容な息吹を発せられる神であれば、長めに時間を頂き、
僭越ながら、心ゆくまで問答をさせていただく場合もございます。

 そして、その御話の内容はと申しますと、人類の根元的な話であったり、人間という、生命たるがゆえの性質、また、今後の世界を予見(予言)する話もございます。あるいは、その神が祀られる地域や、そこに住まう人々への想い、神の御神威や、その神が本来司る御神徳を、順を追って話されます。また時には、対話の初めに、「あなたのことは、〇〇の神から聞き及んでおります。」として、わたくしが何者であるかをすでにご掌握でいらっしゃり、続いて、わたくしという存在が、なぜ霊的な道を運命づけられるに至ったかや、天上界で決められた計画などを、慈しみの息吹をもって、丁寧に御話しくださいます。
本当に神という存在は、いつでも、どこでも、わたくしたち人間と繋がり、実によくご照覧になられているのだな、と感じます。

 そして、わたくし自身も、やはり一個の魂ですから、縁深き神はもとより、それまで比較的縁の遠かった神もあります。神はけしてわたくしたちのことを無下に扱ったりはしませんが、正直なところ、とても親身に接してくださる神もあれば、また、当初は、非常に威風堂々と、新参者を寄せ付けない息吹を発せられる神もあられます。

 だからこそ、“幾度でも、機会を見つけ、神へ詣でる”ーーー、これが本当に大事なことなのです。大変
ありがたいことに、神々は、その時どきに合わせ、もっとも良いタイミングで、わたくしへ向けて、愛深き御言葉を発してくださいます。そして、一度詣でた神でも、その後、再び詣でて、対話する際には、お伝えくださる内容が確実に深まってまいります。わたくしが、その神のもつ特有の波動に慣れたためこともありますが、「あぁ、あのとき(以前)、この神がおっしゃったことの意味は、実はこういうことだったのだな。」と気づき、理解を深めることも度々です。

 そして、人間もそうですが、神もまた、あらゆる側面(性質)をたずさえておられますので、お逢いする(詣でる)たびに、その神の様相をつぶさに、より一層感じてまいります。“親近感”と言えば、おおげさかもしれませんが、神とわたくしという人間との距離が、詣でるたびに縮まり、それと比例するように、神がわたくしへ対し発する息吹はより鮮やかになり、御話しくださる内容は実に豊かに、そしてより核心をついてまいります。「神の話されることを一言たりとも逃したくないーーー」それが、わたくしの素直な気持ちであり、対話する相手が<神>という、圧倒的な存在であるだけに、わたくしといたしましては、何年経ても、今なお、本当に“無我夢中”です。そして、これが、今日までにわたくしが得た、霊的な力における、“大切な要素”であると申し上げられるでしょう。

その⑩へ続きます。)







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