神々からのメッセージ

宇宙の根源より地上へ降ろされる神々からの御言葉。人々への深い愛のメッセージ。

2017年05月

皆様

Rinokiaです。
いつも『神々からのメッセージ』をご覧いただき、誠にありがとうございます。

日ごと宇宙の光が増し、気候の変化とともに地上の人々も、心に深く訴えかけるような出来事が多く生じているのではないかと感じております。

2017年の前半は、殊更に地の振動が激しい時期ですので、どうかくれぐれも体調に気を配り、自身の人生についてこれまで以上に“挑戦する”気持ちで過ごされてくださいませ。皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

さて、来たる8月に、東北・北海道へお伺いいたします。

5日/6日の仙台をかわきりに、7日~10日は札幌、そして、11日/12日には青森にて鑑定をさせていただきます。
鑑定をご希望される方は、是非この機会にご予約いただけますと幸いです。

【開催場所・日程】

・仙台/仙台駅周辺:8月5日(土)、
6日(日)

・札幌/札幌駅周辺:8月7日(月)~10日(木)
・青森/青森駅周辺:8月11日(金/祝)、12日(土)


※詳細は以下のURLよりご確認ください。

https://www.rinokia.com/%E5%90%84%E5%9C%B0%E3%81%A7%E3%81%AE%E9%91%91%E5%AE%9A/

全国の皆様にお会いできますことは、わたくしにとって何よりも嬉しく、また光栄なことと感じます。皆様とのご縁に心から感謝いたします。

                         Rinokia





2017年5月26日

 全国の神社や仏閣、またかつての戦地などを巡るーーー現在もなお、年に数度おこなう、わたくしの巡礼の旅は、毎回本当に“命懸け”であり、また、一人の人間として、そういった目に見えない存在たちに対し、敬意を払い、心からの誠意を尽くすものでもございます。どんな魂も、真実とても美しく、そして神に愛されていることを、この場にて皆様へお伝えできれば幸いに存じます。そして、この世とは、それほど、目に見えない息吹が幾重にも渦巻く、すなわち、霊的なエネルギーの作用がとても強いものでもあるのです。

 わたくしが当初授けられた能力のとおり、神、御仏(みほとけ)の御前にて霊的に対話をさせていただく―――、もしかすると、ただそのことに終始する道を選んだならば、そうした、我が身の霊体まで深く用いるような危険は冒すことはなかったのかもしれません。

 ですが、これが、まさしく“宿命”と申しましょうか、はたまた、わたくしの性質とも申せるのかもしれませんが、わたくしは、様々な天上界の御援けをいただきながら、神や仏のみならず、“人間”という御霊たちと、深く魂でのやり取りをおこなう道を選びました。しかし、その道はけして簡単なものではなく、そこへ到達するためには、【その⑬】でお伝えしましたように、御仏による御指導が不可欠となったのです。いわば、“修行的”な要素です。

 御仏たちと接すれば接するほど、わたくし自身が乗り越えるべき、霊的な“課題”というものが、御仏よりその都度与えられました。これまでに見たことも聞いたこともないような、霊魂への対処法(祈り方や浄霊など)であったり、わたくしという、肉体をもつ人間ならではの、その発するエネルギーを、霊魂へと作用させる場合の、“転換”方法などを習得するよう、御仏たちは厳かにおっしゃられるのです。

 目前に繰り広げられる幾多の霊魂の様相(動き)を
瞬時に捉え、“本能的に”祈る、それを、自らの魂を取られる(憑依される)ことなく、細心かつ大胆におこない、そしてその結果をまた霊的につぶさに視て取り、再び試行するーーー。まさか、こういった仏道における“修行”を、自身がなぞらえることになろうとは夢にも思っておりませんでしたが、この地道なおこないを一つひとつ積み重ねていく、これによって、これまで数々の先人たちが辿られた、奥深く厳しき仏道というものを体感することができましたし、また同時に、密教的な意味合いの強い仏事において、歴史上の方々が感得された“秘術”というものもまた、新参者ながら、会得することができました。

 御仏たちもまた、その存在は本当に多様です。神とはまた別の、そして、この宇宙にあって、しかるべく大事な部分を司る御仏たちは、揺るがなき、特有の“強さ”をたずさえていらっしゃいます。仏道の修行(祈り)にあっては、愛あるからこその、実に厳しい御指導をされる御仏もあれば、「わたくしの前へいらした際は(あなたのエネルギーは用いず)、せめて身体をお休めなさい。」として、わたくしの祈りを優しく静止され、眩(まばゆ)いほどの光や、また、仏道の絵図などでよく見受けられる、天女様などがお召しの羽衣から、たおやかに風になびく細く美しい紐を、幾本もわたくしのもとへと吹きなびかせてくださる、そういった、慈悲深い御姿を示される御仏もあられます。

 わたくしに課された、仏道における霊的な“修行”は、御仏たちより下される課題も、御霊を目前とした(祈りの)本番も、そしてその回答でさえも、当然のことながら、“霊視”でおこないます。元々は、神的な息吹に慣れていたわたくしでしたので、この修行は、当初は疲労感が殊更に強く、祈りと祈りの間の休養では、ほとんど気絶したように眠り、その間は、霊体として天へといったん引き戻され、急速に波動を調整していただくといった具合でございました。
 
 “何を以って、真にやり遂げたと言うのかーーー”、正直、霊視でおこなう霊魂たちとのやり取りは、現象界における視覚的に分かりやすい状態ではございませんし、また、霊魂たちが背負う様々な“想い”や、複雑に絡んだ“因縁”は、突き詰めるごとに次々と溢れだす、それこそ、“果てしなき問答”を繰り広げるがごとくです。

 わたくし自身、天より与えられた機会、その貴重な時間において、ただひたすら目前のことを懸命におこなう、そのなかで、“もう大丈夫ーーー”と思えるところまできて、やっと霊魂とのやり取りに終わりを告げるーーーそれしかありません。“本当に自分のような者が、こうやって霊魂の奥深くまで関わることははたして良いのだろうかーーー”、人間の業(ごう)や、幾年を経てもなお尽きぬ怨念、また、人の感覚では到底理解し得ない霊魂たちの“本性”というものに、祈り、光を降ろし続けるわたくしは、そう、自問自答を繰り返しました。

 それでも天は、わたくしという存在に、神と人とを繋げる“架け橋”となるよう、一縷(いちる)の望みを託されたのではないでしょうか。

 終わりなき“霊視”の道を歩むーーー。目前の御霊がたとえどのような様相であろうとも、その内なる神へ通ずる光を信じ、ただひたすら祈り、天からの光を降ろすーーー。このわたくしが辿る霊視の道とは、あまりにも“愚直”と申せるのかもしれません。今生限りの、大切な自らの人生、そして日々の人間としての生活がありながら、「霊界」といつも隣り合わせで、霊魂たちと、深く、そして真っ向から関わり合うーーー。

 わたくしがなぜこの道を、いかなることがあっても心折れず、そして日々を、益々明るく歩み続けるのか、次回は、その理由(わけ)をお話しいたします。

その⑯へ続きます。】






 

2017年5月21日

 神と仏―――、どちらもわたくしたちが生きるなかで、いつも見守り、幾多の縁を繋いでくださる、だからこそ、わたくしたち人間は、転生を経るたびに、またさらなる“縁”をいただきながら、様々な気付きを得、魂を向上させていくことができるのです。

 ただ、やはり一言で“神仏”と申しましても、【
その⓾】でお伝えしましたように、神という息吹も実に多様で、ひとつとして同じ様相はないように、仏道における意識体もまた、<神>の息吹とはまったく別のエネルギーの発し方をなされるため、御話しくださる内容も異なります。

 一概に申し上げることは難しいのですが、神的な意識体は、人間であれ、宇宙であれ、その真理や仕組み、そして魂という光の性質などを御話しになることが多いと感じます。宇宙に係る一切の光が、根源の神を頂点として、各々の役割や繋がりを配置しながら、壮大な図を描く様相はまさに圧巻です。また、神社の御祭神であれば、その神社が建つ地域の人々への、本当に深い想いを示されるのです。一方の、仏的な意識体は、人間が歩んだ歴史であったり、当時の国の情勢において、時代に翻弄された人々の生きざまを表現されます。それは、“悲哀”を帯びる、という表現に近いとも感じます。一般的に、わたくしたちが学校で学ぶ、いわゆる歴史とはまた別の側面からの御話は、大変に興味深く、心に迫るものがございます。

 わたくしが、現在の“霊視”を司る者として、霊能力を得ていく、その過程において、幼い頃の、霊的な性質に端を発し、そして大人になってから、いわばターニングポイントとなった出来事を経てまいりましたが、これらは、殊更(ことさら)、わたくし自身の「守護霊様」の存在とその御取り計らい、そして、大変ありがたくも、参拝の先々にて、意識を通わせる<神>的な存在とのやり取りなどを通して、本当に“独自に”得ていったものでございます。こうして考えますと、わたくしの性質を、天上の神々は本当によくご照覧でいらっしゃり、その場、その時、いつも“最適に”、霊視の道を配してくださったのではないかと、今となってなお感謝が深まるばかりです。

 そして、これもきっと、天は深く御理解されていたのだと感じますが、わたくしの、目に見えないエネルギーを視分ける(感じ取る)力について、わたくしが五感を用い、また、元々の霊感も相まって、今後の世界にとって役立つ可能性を含むことを御感じになってくださっていたのではないかとも、僭越ながら感じております。

 この世界は、本当に“エネルギー”の世界です。物質も、現象も、そして人間もまた、各々が特有のエネルギーを持ち、そして、もれなく互いに(エネルギーを)行き来させているのです。<神>という存在との対話から端を発し、自然の息吹や、この世の流れを知り、そしてやがては、ある意味、もっとも難解な“人間”という魂、しかしながら、神から愛される、珠玉の御霊たちについて、霊的な観点からつぶさに感じ取り、時に対話し、また時に、その霊的な息吹に対し必要な祈りさせていただく、これは、正直申し上げて、これまでにない“痛み”を伴うものでございました。

 “人間臭さ”と申せば、言葉は悪いかもしれませんが、人間という魂を本拠とされる霊的な存在、しかも、たとえば、歴史的な出来事からもたらされた、その末の“霊魂”と意識を通わせることは、本当に<神>とは別の、“人間らしい”息吹との魂のやり取りです。そして、わたくし自身が人間であるだけに、これらの御霊との対話は、綺麗ごと抜き、まさに本性のままに、といった表現になりますでしょうか、その御霊が発する息吹から、本当にありったけの事象を目の当たりにいたします。人間界でいうところの“良し悪し(善悪)”は通用せず、人間の心内に潜む“光と闇”が交錯する―――、それがとてつもない速さで展開してまいります。

 そして、わたくしの場合、過去についても、そのときの映像(音や文字も含め)を視ますので、“仏教”にちなみ、命懸けで人生を歩まれた御霊たちと意識を通わせる度に、「なぜ、こうも人間は・・・」と苦悶し、ただその場に立ち尽くすばかりでございました。時には、“偉人”と呼ばれるかつての先人の墓前にて、当時、歴史の顛末(てんまつ)に至った理由をお尋ねすることもございます。その際には、それらの先人の御霊の今の(霊界での)状況、そして現に生きるわたくしたち、つまり後世の人々への、その御霊たちの心からの願いなどを聴かせていただきます。

その⑮へ続きます。】






2017年5月14日

 わたくしが天より授かったこの仏教的な道を、“霊視”を交えながら深く追究すること、それは、今になって省みますと、
これまでになく“修行的な”意味合いが非常に強かったと感じます。仏的存在は、<神>という息吹と照らし合わせますと、波動の流れ方、振動もまるで違う様相を呈し、わたくしにとっては、幼い子どもが初めての世界を見るような、良いも悪いもない、ただその(仏的)霊現象が目前に展開するといった具合でした。

 そして、わたくしが当初欠如していた仏教的な事柄は、御仏(みほとけ)たちとの問答のなかで徐々に会得していったのです。優しく諭すように教えを授けてくださる御仏もあれば、本当に愛あればこそと、厳しき形相(ぎょうそう)にて、一般では到底理解しがたい物事さえも御達しくださる、そのような御仏もあられます。本当に、“有無を言わせぬ”といった圧倒的な波動を、わたくしは、御仏との問答がおこなわれる度に、全神経を研ぎ澄ませ、ひたすら受け止めてまいりました。

 気付くと、御仏のみならず、たとえば、御仏(仏閣)に縁のある御霊たちの姿を感じ取っていくようになりました。僧侶の読経に合わせて、数多の霊魂が、特有の動き方(流れ方)をしつつ、伽藍(がらん)を縦横無尽に飛び回ります。仏具などの霊的な意味合いも、これらの御霊たちの動きや、読経する僧侶たちから発せられる波動によって理解いたしました。かつての先人たちがこれらの仏具などを見出して(創出して)いかれたのは、本当に驚きという他はございません。

 そしてこれまで以上に数多くの御霊と“対話”をするようになり、浄霊にあっては、幾万体させていただいたかは分かりません。地球という星のなかの、現実に見える世界にあって、時代を経てなお繰り広げられる霊的現象は、逆に申し上げれば、この霊的な関わり合いがあるからこそ、現象界というものが成り立つのかもしれません。それが、わたくしは、<仏>に連なる数々の歴史、因縁、そして、仏道を極めようとする僧侶たちの様相を霊視させていただくことで、人間という魂がこの世を生きる上での霊的な“影響力”について、本当につぶさに学んでいったのです。

 世の中には、様々な価値観があるかとは存じますが、やはり、この世には神も仏も必要なのです。それは、人間という魂が、生まれながらにして各々性質をもち、選択と行動を繰り返しながら人生を歩む、そして、大小様々な縁を紡ぎながらある日、寿命を迎え、再び次の時代へと転生するーーーたった“一人”の、その人生を考えても、本当に日々何かの、そして、誰かの“お蔭”で生かされている、それが<真実>です。その“お蔭”とは、無論、人間同士においても当てはまりますが、神も、また仏も、皆様がわたくしたちに対し、尽きぬほどの愛をたずさえながら、一人ひとりの“お蔭”となってくださっているのです。

その⑭へ続きます。】







2017年5月6日

 <神>と対話するーーー、それは、目に見えない存在との、いわば“波動”のやり取りであり、いつしか、そういった大いなる存在を目前にして、わたくし自身は、全国、様々な“容態”にある息吹に対し、わたくしなりにさせていただくことを、神との距離をはかるなかで、ごく自然と身に着けていくようになりました。

 これは、一言で“霊能者”と申しましても、おそらくは、そういった霊的能力を備える人々には、各々が元来持っているその人自身の特質と兼ね合わせ、天上界の意向(采配)も相まって、(
単に“霊視”という力のみならず)そのお役目に従い、何らかの付加な“力”を、“霊視”という側面を欠かせぬ要素とし、天より授けられているのだと感じます。

 わたくしの場合は、日本にみられるような“八百万の”神、すなわち、この国を守らんがため各々(の神が)御役割を備えていらっしゃる、そういった意識体と幾度も
息吹を通わせるなかで、霊的なエネルギーを、相手の御意向(御望み)に従い“変換し、再び還させていただくことを覚えました。

 もう少し分かりやすく説明いたしますと、神は全知全能ではありますが、地球という、多くの霊魂または“念”の渦巻く大地において、しかるべく息吹を回転させ、またある場合には、人間の営みによって創建された“神社”という括りのなかで、その意識を生かし続けていらっしゃるものでもあられます。当然、参拝者の方々の、神へと向けられる切なる願いをはじめとする、強い“念”であったり、また霊魂というものが、人間(参拝客)とは別に、目には見えずとも、ごく頻繁に行き来するものでもございます。

 “すべてを知りながら、それでもわたくしたち人間(または霊魂)の意向に寄り添い、いつでもその場(神社)にいてくださる存在”ーーー、そういった側面をもつのが、特に、この日本という国の、神々の在り方であるように感じます。

 そうしますと、本殿(拝殿)にて手を合わせる際、神という意識に自らの波長を重ね合わせますときに、神という存在が、今何を御感じになり、何をわたくしたち人間へ何を望んでいらっしゃるかが、誠に僭越ではございますが、少しずつ理解できるようになりました。それらの目に見えない存在から“感じ取る”エネルギー、また、積極的に発せられる御意思も含め、いったん自分自身を霊的に“拠りどころ”とさせ、それらの息吹をきちんと受容しつつ、わたくし自身が持ち得る、日本語という“言葉”になぞらえ、時に記し、また時には、(そのメッセージが)必要な方々へお伝えしていくという手順を踏んでまいるのです。

 近年では、老若男女問わず、神社や仏閣へお参りするということが、以前の時代とはまた違った形で、とても身近な行為となっているように感じます。霊山(れいざん)などにみられるような、すでに幾年にもわたり、人々が心からの願い(願掛け)や、また自らの研鑽のため、危険を冒してまで幾度も足を運ぶ、そういった険しき修行場もございますし、また、ご利益が今の時代のニーズに則しているためか、比較的若い年齢層の方々も、その神社(または仏閣)が醸し出す雰囲気を感じながら、自らの運気向上を願いつつ、心に描く望みなどを託される、いわば“パワースポット”と呼ばれる場も全国各地にございます。

 わたくし個人といたしましては、人の趣向によって形成された、そういったある種の“神聖な”場というものに対し、けして否定的な見解をお伝えするものではございませんが、やはり、人が集まるところ、それだけ多くの想い(=念)や、また、それに付随する(または何らかの由縁により)参集する実に多くの霊魂が、本当に“渦”を巻くように、また時には、その地へ積り重なるように、その地へ(霊的な)負荷がかかっている様子もつぶさに垣間見ております。

 こうした状況を目前にしつつ、<神>と呼ばれる、その場にあられる崇高なる存在の、エネルギーの様相を感じ取らせていただいたわたくしでしたが、何か危機的なものを感じ、“神に対して、自らができることをさせていただきたい”ーーー、そう思ったのではなく、むしろ、“神という存在の想いやその(エネルギー的な)状況と、
(目に見えるか否かにかかわらず)人間という魂がもつ願いや、そこから発散されるエネルギー、その双方のなかで、わたくしができることは一体何なのだろうか”ーーー、神と人、各々のエネルギーの様相を、すでに読み取ることができるようになっていたわたくしは、両者特有のエネルギーが往来するその狭間(はざま)にあってこその、自らの在り方を考えるようになりました。

 神社では、
<神>と呼ばれるその御霊に対し、また一方では、かつての戦地や空襲があった場にて、わたくしが自ら感じるままにおこなう祈りでは、各々が発してくださるその息吹を、まずはできるだけ純粋に感じ取るよう努めました。そのなかで、「あぁ、この神(この御霊)は、こういったエネルギーを御望みで(適して)いらっしゃるのだな」と、霊的な意味において“直接的な”対話とともに、全身全霊を研ぎ澄ませ、その存在があるべき姿(容態)を理解いたします。そして、自ら感じ取った(受け取った)エネルギーを、意識はせず、ごく自然と、主に“手の動き”によって、冒頭でお伝えましたように“変換し”、元の場(御霊)へ還させていただきます。

 そのような祈り方をしていくなかで、あるとき詣でた神社にて、その御祭神より、「あなたは、これまで<神>という存在の息吹を、よくぞここまで会得(えとく)されました。しかしながら、あなたには、まだ、<人間>というものの魂の仕組みを深く知り得るには足りません―――」と、そうはっきり言われたのです。つまりは、わたくし自身の人生における経験や知識に対して、霊能を司る者としては、人類の歴史を含め、人間という魂が、時の流れとともに紡ぎ出し、あるいは命を懸けて受け継いだ、複雑かつ深淵なる重なり、そして人間ならではの想いや、あるいは“欲”というものを理解していくには、圧倒的に場数が足りないとの御判断が下されたのでしょう。

 わたくしの、“霊視”の道を歩む自らの人生において、当初は<神>的な存在、つまり、神社へ詣でることが大半でしたが、ほどなくして、日本でいう“仏教”の世界へも足を踏み入れることとなりました。奇しくも縁をいただいた仏閣などへ赴き、神とはまた別の次元での、多くの御霊と意識を通わせ、わたくしという霊的能力をもつ人間が、神と人との狭間にて、天より授かるお役目を果たすべく、本当に欠かせぬ術(すべ)を授かっていくこととなるのです。

 それは、言い換えれば、わたくしが人生のなかで、本当に初めて真っ向から直面した、霊的存在との”命懸けの修行”でした。

【その⑬へ続きます。】






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