(皆様、大変長らくお待たせいたしました。本日より、再びブログを再開させていただきます。Rinokia)

2017年4月14日

 この世界には、<神>という、人々が様々な形で信じる存在があり、特に日本では、自然物のみならず、あらゆる事象に、すなわち“万物”
に尊い魂が宿ると考えられています。文字通り、“八百万(やおよろず)”の神々です。わたくしは、これまで全国各地の神社仏閣へ参拝する機会をいただきましたが、ひとつ細かな点を申し上げますと、たとえ、同じ神社の名であっても、根底に流れる息吹に共通性はあるものの、やはり、地域によって、繊細かつ、明確なまでの“差異”が、本当に“神ごとに”、見事にあられるのを感じます。

 霊視を司る者として、<神>という、目に見えない存在と意識を通わせること、それは、自らの意思(思考)を保ちながら、目には見えない(自分とは)別の意識体と、脳裏のみで会話(対話)することであり、わたくしにとりましては、けして軽々しくおこなうものではなく、やはり、必要な心構えがあり、そして適した段階(手順)を経ていくことが何よりも大切なことであると、日々肝に銘じております。

 冒頭に申し上げました、“八百万の神”―――、それは、各々が独特の波動をたずさえ、もっとわかりやすく表現するならば、神々から発せられるエネルギーの様相が、本当に“すべて異なる
のです。すなわち、現象界でも、万物はそれぞれにエネルギーの震え方=“振動数”があるように、神もまた、特有の振動を発しておられますので、逆に申せば、この違いによってこそ、<神>という存在を認識できますし、そして、もし神と意識を合わせるのであれば、自身の“振動数”を、それに見合う程度まで高めていく必要がございます。

 「霊能力を持っていれば、どのような神(意識体)とでも対話することができる」―――、これは正直にお伝えしますと、正答ではございません。他の国の言語を話す人と会話をしたいのであれば、その国の言語を用いることがまずは前提となるように、神もまた、本当にあらゆる息吹を発して(回転して)おられ、それをもって<神>たる存在となられていますので、ただ単に、人間である自分が神社の本殿の前へ詣でさえすれば、すなわち、すぐさま神と意識を通わせられるわけではないのです。

 これは、わたくしが数え切れないほどの神社へ参拝し、祈り続けた末に、ようやく得た実感でもあります。ただし、そこへ至るまでは、“無意識的に”と申しましょうか、ほぼ感覚的に、自ら感じるままに、神前にて、神と対話する術(すべ)をおこなっておりました。

 神々と対話するためには、まずその神が発せられる息吹の特徴を瞬時に把握し、自分の肉体とは別の部分<霊体>というものを、その(神が発する)レベルまで一気に引き上げる必要がございます。普段の人間的な感覚を脱し、霊的な意識のスイッチを“ON”にしたうえで、その神と対話するため、ちょうど適った状態に、自らの波動を合わせていくのです。これに要する時間は案外と短く、現在はほんの数秒程度ですが、その際には
非常に高度な集中力が必要となります

 目前にあられる<神>という息吹へ、文字通り、わたくしは“全身全霊で”対峙いたします。そこに一切の気の緩みは許されません。このときばかりは、自分という人間が、それまでとはまったく別のオーラを発し、神と自分とを介在する隙は一切排除されることを感じます。すると、ある瞬間に、“カチ”っと合う自分のなかでの手応えがあり、続いて、目前の神との対話が厳かに始まります。

 ほんの一言のみを、大切にお伝えいただく神もあれば、本当に長く御話しくださる神もあります。様々な御教えを授けてくださる寛容な息吹を発せられる神であれば、長めに時間を頂き、
僭越ながら、心ゆくまで問答をさせていただく場合もございます。

 そして、その御話の内容はと申しますと、人類の根元的な話であったり、人間という、生命たるがゆえの性質、また、今後の世界を予見(予言)する話もございます。あるいは、その神が祀られる地域や、そこに住まう人々への想い、神の御神威や、その神が本来司る御神徳を、順を追って話されます。また時には、対話の初めに、「あなたのことは、〇〇の神から聞き及んでおります。」として、わたくしが何者であるかをすでにご掌握でいらっしゃり、続いて、わたくしという存在が、なぜ霊的な道を運命づけられるに至ったかや、天上界で決められた計画などを、慈しみの息吹をもって、丁寧に御話しくださいます。
本当に神という存在は、いつでも、どこでも、わたくしたち人間と繋がり、実によくご照覧になられているのだな、と感じます。

 そして、わたくし自身も、やはり一個の魂ですから、縁深き神はもとより、それまで比較的縁の遠かった神もあります。神はけしてわたくしたちのことを無下に扱ったりはしませんが、正直なところ、とても親身に接してくださる神もあれば、また、当初は、非常に威風堂々と、新参者を寄せ付けない息吹を発せられる神もあられます。

 だからこそ、“幾度でも、機会を見つけ、神へ詣でる”ーーー、これが本当に大事なことなのです。大変
ありがたいことに、神々は、その時どきに合わせ、もっとも良いタイミングで、わたくしへ向けて、愛深き御言葉を発してくださいます。そして、一度詣でた神でも、その後、再び詣でて、対話する際には、お伝えくださる内容が確実に深まってまいります。わたくしが、その神のもつ特有の波動に慣れたためこともありますが、「あぁ、あのとき(以前)、この神がおっしゃったことの意味は、実はこういうことだったのだな。」と気づき、理解を深めることも度々です。

 そして、人間もそうですが、神もまた、あらゆる側面(性質)をたずさえておられますので、お逢いする(詣でる)たびに、その神の様相をつぶさに、より一層感じてまいります。“親近感”と言えば、おおげさかもしれませんが、神とわたくしという人間との距離が、詣でるたびに縮まり、それと比例するように、神がわたくしへ対し発する息吹はより鮮やかになり、御話しくださる内容は実に豊かに、そしてより核心をついてまいります。「神の話されることを一言たりとも逃したくないーーー」それが、わたくしの素直な気持ちであり、対話する相手が<神>という、圧倒的な存在であるだけに、わたくしといたしましては、何年経ても、今なお、本当に“無我夢中”です。そして、これが、今日までにわたくしが得た、霊的な力における、“大切な要素”であると申し上げられるでしょう。

その⑩へ続きます。)