神々からのメッセージ

宇宙の根源より地上へ降ろされる神々からの御言葉。人々への深い愛のメッセージ。

カテゴリ : 生死を司る神

2017年1月27日

(筆者が神に問いました。「近年、『無縁墓』 『荒れ墓』が話題となるように、先祖代々のお墓を守ること、また、お墓参りをすることさえ、様々な事情から困難な社会になっていると感じます。そもそも、この世を生きるわたくしたちが、祖先を祀る、あるいは故人(先人)を敬うということについて、その意味を御教えください。」)


「あなたがたは、今、現世にいながらにして、後の世(後世)について願うことは、平和であったり、また家族の幸せであったり、無論、(その想いは)かけがえのないものですが、どちらかと言えば捉えどころのない、漠然としたものであるかと思います。自らが生きながら、“後に展開する世”を考えるとき、それは、現実の世界に身をおく状態から見た、何か“別の次元”のような感覚であったりするものです。」

「勿論、それは、誤った感覚ではありません。“肉体をもつ”ということは、何より、この現象界においてこそ、自らの意識であったり、また、感情を根差していなくてはなりません。あなたがたが、肉体という器に則(のっと)り、この世を生きることは、何を差し置いても、それだけの“価値がある”ものだからです。」

「一方、すでにこの世を去った存在、言うなれば、あなたがたの祖先や先人たちの、後世のあなたがたに対する想いとは、果たしてどのようなものでしょう?人というのは、(人間という)生命体として生きる間に学ぶことは数限りなくありますが、肉体を離れ、霊魂となった際にもまた、地上で自らが歩んだ人生を思い返し、後に残した人々(家族)を想い、本当に言葉には尽くせぬほどに、“気付かされる”ものなのです。」

「人間という魂も、また自然という生命も、長い年月をかけ盛衰を繰り返し、しかしながら、“良き方向”へと向かうことを、魂の根源としています。一見、望ましからぬ道を辿っているとしても、また、改善(回復)の見通しが見えないものであっても、必ずや、何らかの“良き方向”へと、一歩一歩進んでいる。それは、後(後年)から当時を振り返り、経験や紆余曲折を経て、ようやく“実感”として得られることでもあるのです。」

「この“良き方向へ”という意味合いは、実に重大です。すなわち、肉体を離れたあなたがたの祖先そして先人たちもまた、(自らの)寿命というものが人生において終わりを告げはするものの、この“良き方向へ”という魂本来の“意志”は、肉体があろうとなかろうと、けして潰(つい)えることはありません。つまりは、“魂”が永遠であるならば、“良き方向へ”と向かう意志も、それこそ、“永遠”なのです。」

「祖先の想いとは、身近な範囲であれば、子孫の幸せや繁栄です。自らの血を受け継いだ存在が、また一人、この世に生まれ出でることは、祖先にとっては、まさに“心浮き立つ”ほどの大きな喜びです。そして、心から願うことは、ただ一つ、そういった大切な子孫たちが、家族皆で仲良く暮らすこと、そして喜びもまた悲しみも分かち合い、自分たち(祖先)の生きた時代より、少しでも良き時代を創り、大いに生きてもらうことです。」

「今より少しでも良い世に、今より少しでも良い人生に―――、あなたがたの祖先、そして、先人たちは、その望みを胸に、どの時代においても命を懸け生きてきました。そして、寿命を迎え、肉体を離れた今なお、霊魂として、その想いを持ち続けながら、今度は、今まさに肉体をもって懸命にこの世を生きるあなたがたへ、絶えなき願いを託しているのです。」

「あなたがたの祖先(そして先人たち)の想いとは、これが<真実>です。後悔や恨みの念で、後世の人々を責め立てることはけしてありません。むしろ、肉体をもち、人間として生きた、その経験があるからこそ、人生における痛みや苦しみ、人間の良きも悪しきも経験し、今この世を生きるあなたがたの、生きるという“現状”を理解しているのです。それこそ、あなたがたが惑い、人生に生きにくさを感じているその姿に、“どうか光(希望)を見出してほしい”という切実に願う気持ちのほうが勝っているでしょう。」

「あなたがたは、こうして、長い人類の歴史を経て獲得した“現代”に生きるなかで、今こそ、真に、先祖たちの想いを丁寧に汲んでいかなくてはなりません。それは、“このように(先祖を)供養しなくてはならない”、“これをしなくては先祖が浮かばれない”ということではありません。あなたがたは、すでに、沢山の“良き想い”を頂いて、今を生きることができる。先にもお伝えした、たとえ、今、人生が思うように運ばないと感じられても、それは、“良き方向へと向かう”、その過程において、大事な学びを得るための経験であり、何より、あなたという一人の存在には、それこそ数え切れないほどの先祖や先人たちの、あなたの幸せを想う心が込められているのです。」

「あなたがたは、これらの魂の想いを受け止め、先祖のためではなく、“自らのために”、良き方向へと向かう努力を惜しんではなりません。他人と比べるのではなく、あなたのなかで、日々自らが考え、様々な出逢いや気づきを得て生きることが、何より“幸せ”と感じること、そして、人に対しても、物に対しても、“感謝”の念が日常ごく自然と沸くことが、すなわち、先祖たちがもっとも喜ぶことであり、そういった縁深き存在の真の“安泰”となることでしょう。ですから、かけがえのないあなたという存在が、この地上で幸せに生きること、それ以上の先祖が望むことはけしてないのです。」

「先祖という、あなたに繋がる御霊に対し、何かできることはと願うのなら、まずは、自らの生活を“良き方向”へと向かわせることです。そして、『“お蔭様で”、毎日を幸せに生きています。』と、大切な先祖へ心静かに祈ることです。先祖とは、真実、あなたの“蔭”となって、あなたをいつも見守ってくださる、欠かせぬ存在なのですから。先祖と、そして数多くの先人たちの願いとともに、あなたが今、この世でこそ“より良き”人生を辿る、それが、何よりの<先祖供養>です。」 









 

2016年12月1日

(筆者が神に問いました。「人は、出逢いとともに、様々な形で“別れ”というものがあります。その別れの一つである、何らかの理由でこの世を去られた方への“供養”について御教えください。」)

「“生きる”と“死する”の分岐点、この世を生きる者同士の一方がある日この世を離れる、それは、地上に身を置くそなたら人間にとって、少なからず大事となる出来事であろう。」

「それは、現実に、それまで自らと同じく呼吸をし、身動きしていた者が、突如(または、ついには)その生命活動を停止し、これまで(会話などで)様々に意思を通じて(疎通して)いたことが不可能となる、その後において共にこの世を生きていくことが叶わぬことは、そなたらにとって、何よりも寂しきこと。」

「しかるに、現世をそなたが生きる、それは、魂という観点からすれば、ほんの“一片(いっぺん)”の事柄に過ぎぬ。魂の成長する過程で、ある“一時期”が、“この世”という現象の世界(舞台)にて現わされる、それが、究極的な表現である。」

「魂にとって、“一過点”であるこの世。しかしながら、なぜ、これほどまでに、人はこの世を生きることと、この世を離れることの“境”を重視し、その双方に対し、終わりのなき答えを求めるのであろうか。」

「それは、現象界というほんの一時期、しかしながら、あらゆる事象が混交するなかで、
様々な人との出逢いや交流(関わり合い)を通じ、人間ならではの温かみや喜び、あるいは辛苦を味わいながら、そなたが自らを“知る”ためであり、現象界に身を置きつつ、生命の不思議、魂というものの繋がり(仕組み)、そして、神の叡智を感じ取っていくことにある。」

「魂とは“不滅”であり、たとえ、肉体的にどのような様相となろうとも、その本質は、神と通ずるものである。“死別”という、そなたら人間にとっての誠に大なる出来事は、それでも滅せられることのなき(不滅の)魂というものに対して、どのような意味を成すものであろうか?」

「現象界で生じる物事は、様々な考え方はあれ、これもまた、実に“大事なる”出来事である。そして、その根底に流れる、不滅の魂たちの、“肉体をまとった”うえでの一つの現象(舞台)ということもまた、けして見逃すべきではない。」

「“供養”とは、当然のことながら、今現にこの世を生きる者より発せられる(故人への)“祈り”である。それは、今在る自分が、長く連綿と続く先祖や、または数限りなき魂たちの生き死にによって生かされているものであること、それを、“祈り”という形で、亡き人へ想いを寄せる(馳せる)ことで、現世生きるそなたからの(亡き人への)想いの“橋渡し”とすることができる。そうして、今現に生きる者も、また肉体を離れ光となった魂も、両者繋がり合いて、この<宇宙>を形成するのである。」

「亡き者への一番の“供養”とは、現世を生きるそなたらが、日々を如何に生きるか、この一言に尽きる。言い換えれば、そなたが自らを真の意味で、“大事なる者”として受け止め、日常において一歩一歩丁寧に歩むことであり、そのなかで、一つでも喜びや新たなる発見、そしてこの世に対し感謝の念が沸く、そういった、生きることに対し、自身の感覚により“充足”を感じ得るものであるかということこそが、魂たちが
もっとも心を寄せるものである。」

「そして、現世を生きるそなたの想いほど、この宇宙に在る数多の魂たちへ届くものはない。そなたがこの世を“生きること”、神や天に召されし数え切れぬほどの魂たちの、それ以上の望みはあるだろうか?」

「亡き人への“供養”を通し、今の自分こそを見つめてもらいたい。魂の繋がりによってこの世に降ろされたそなたは、この世においても、先立って天へと召されし魂たちと心を通わせながら、自らを知り、この世という奇跡を感じ、そして、より一層強く生きていくのである。」






2016年5月29日

「時間は、刻一刻と過ぎている。ある者は“生(せい)”をよりなぞらえ、たとえ目前に何が起ころうとも気(気力)を煌々(こうこう)と燃やし、一歩、一歩、段(階段)を上がるがごとく、ただひたすらに進みゆく。」

「かたや、ある者は“死”へとひた走る。それは、わが身が、究極、ついには死に向かうことを、目に見える現象の何らかの要因のゆえに、自らその判断を下すのであり、虚無的、あるいは崩壊的に人生を捉え、やみくもなまでに、生命(いのち)を費やそうとする。」

「しかるに、たとえ“生(せい)”に燃えるといえども、その真実たるや、“死”というものを絶えず内包し、身(身体)の細胞は、死する(消滅する)ことで再び生まれ、身体を維持し、機能させる。

そしてまた、すべて“生”によって構成される人生というものはなく、死、つまり、終焉ということは、目前の現象、人間の関わり(人間関係)、これまで学びしこと等の、ある種の終焉(区切り)こそが、まぎれもなく、そなたの人生に“生きる”ことを援けるのだ。」

「“死”へと向かう者もまた、同じ。たとえ、この世において、何をも成せず、ただ、虚無的なまでに日々を過ごそうとも、そなたが今ここに在ることが、すなわち“生”(せい)なる証―――。そなたが在ることが、他(他人)の生き方にも影響を及ぼし、それは、現在も、そして、過去(の先人たち)も、未来(の人々)でさえ、そなたの“生”がまさしく反映されるのだ。」

「“生”あるからこその“死”。そして、“死”あるからこその、“生”というものが一層の輝きを含み、人間は、この
(生死の)織りなす仕組みにより、己の人生を、世の中を、そして“神”をも感じ、想いを馳せることができる。」

「今一度申す。誰一人、この世に欠けてはならぬ。誰一人、この世が必要とせぬ者はなく、神がそなたのこの世に在るを、何よりも望んだのだ。」

「そなたという一人の人間が、自らの人生を創り、その人生におけるあらゆる“生と死”が、ついには、地球の生死へと連なり、その絶えず繰り広げられる地球(生命)の生死が、膨大なエネルギーを創出し、宇宙の様相となる。」

「時は刻一刻と過ぎ、そして、生は死とともに、交じり、互いを支えつつ、神の望しそなたのこの世の生、人生を美しきまでに精妙に創り成す。死があるからこそ、生はなお一層輝き、そなたは、その究極の“生在る”存在として、その(寿命における)死でさえも、他のあらゆる生命の“生”に、またとなき輝きを添えるのだ。」




2016年2月28日

「魂とは、たった一つであろうと、すでにその光は“宇宙大”にして、神が発する息吹と何ら変わらず、宇宙にあって、万物を組成する欠かせぬ要素なり。」

「その確たる(一つの)魂とは、大いなる“光”。それは他と比べるべくもなく、神が、この地球が、そのたった一つの魂が在ることで、しかるべく息吹を回転させるのだ。」

「魂をじっくりと観てみるがよい。魂は自ずと輝き、その魂の在るがゆえに、その息吹に似通うまた別の光、縁深き同胞の魂が、周りに漂い、嬉々として光を放ち、さらなる縁を呼ぶではないか。

魂とは、ただ一個の魂が在ることで、それにちなむ(縁ある)魂が、他ではない、“その”魂にこそ共鳴し、無上の安堵を得られるのだ。」

「そうして、現実世界において肉体を(まと)魂を内にたずさえた人間というものが、数々現象を経て、それによ現象さらなる学びを得るものなのである。

「たった一個の魂は、もうすでに立派に輝く。そこには何らの頼りも要さず(必要とせず)、すくと“立つ”と表せば(表現すれば)良いだろうか。いずれの魂もすでに神の如く立派に輝き、美しさをたずさえ、他の追随をも許さぬほど。」

「しかるに、そなたよ。魂とは、その一方で、互いに“引き合う”という、原理をもつ。引き合った魂は、各々独自に培ったエネルギーを、見事なまでに“交流”させる。

そして、引き寄せ、合わさった力がより高いものを生み出すということを、魂というものは、自らのもっとも根本なる動きのなかに備えている。」

「だからこそ、この世に在る魂は何一つ(誰一人)として、けして欠けてはならぬ。肉体の生命途切れるその瞬間(とき)まで、そなたは、この世に在り続けねばならぬのだ。


「たとえ老い、あるいは病みて、その身は寿命を迎えるばかりに床に伏すといえども、その者が今、この地上に在ることが、目に見えぬ存在でさえも、その魂と“命”のやり取りをするのである。

命とは、その魂がこれまでに培った“すべて”。その者が成した事、学び、そして心に描いた想い。そしてまた、その命とは、遠く遥か以前の人類の記憶、先人たちが築きし歴史をも引き継ぎ、その床に伏す魂は、自らにしっかりとたずさえている。」

「天が示す寿命の終わり(=昇天)がいつの瞬間(とき)か、ついにやって来たならばそなたは、果たして自らの心何を想うか。

「赤子として生を受けた瞬間より、そなたの人生はまた一つ“回転”を始めた。この地上ならではの環境、そして生まれ育つ場の状況により、そなたは喜びも悲しみも、あらゆるものを享受し、学び多き日々を過ごしてきたはずである。

人生を進むごとに、思いもせぬ出来事、人との出会い、そして、己の力で成せること(また、成せぬこと)を、身をもって体験したのだ。」

「そなたの人生の回転が、また別の(魂の)回転を呼び、あたかも“歯車”が回るごとくに、この世は確実に展開する。」

「しかるに、そなたのこの世での人生は、いつかは終わる。天が定め、それすらもまた、そなたに繋がる、あるいは以後続く他の魂にもっとも望ましき時という、天の“英断”なのである。」

「そなたの、天に(こいねが)地上のこの場環境・家族に降りたいという宣言、この世何があろうと生き通すという覚悟この者ならばという、希望の光て、そなたに縁在る霊たちの(まばゆ)ほど祝福―――。

魂が一つこの世に降りる、いずれも欠けてはならぬ。いや、すべての想いが揃う暁に、そなたは神の御胸に抱かれ、精一杯この世に降ろされるのだ。」

「そなたが今この地上に在ることは、この世の“奇跡”。それがまた、宇宙全土の計り知れぬ“可能性”という、大いなる“回転”を生み出す。なぜならば、そなたはすでにわれら神と同様、その内にたずさえる光は、宇宙をも凌ぐのだから。」




2015年7月11日

 

「人は産声をあげ、その瞬間からこの世を歩み始める。力の限りに息をはき、この先展開する自らの人生に、明るき希望と、いかなるときも生き続ける覚悟を決め、赤子となりしその身をたずさえ、今この瞬間(とき)懸命

「生(生きる)も死(死ぬ)も、ただ僅差の違いのみ。肉体を得て、この世を過ごすか。はたまた、魂という(肉体の)殻無き状態のままに、神の定めしある層(霊層)に漂うか。

しかしながら、人間は、生死にあらゆる価値を見出し、人間ならではの生死にまつわる壮大なるドラマを、多くの感情をはらませこの地上に創りだしたのだ。」

「生まれるは、この世の幕開け。そしてまた、死すは、この世の終わりではなく、新たなる世界の幕開けなり。魂という永遠の光を絶やさず、なお地上にての肉体の生死を経る、この確固たる区切りの有りてこそ、生命たちは、一層の(肉体・精神の両面にて)学びを得、一つまた一つと魂の段階を上げるのだ。」

「天に召されし魂は、まさに愛の光そのもの。地上にてあれほど苦しみ、(もだ)は、き、安堵全身地上底知郷愁と、深い

「『次(来世)こそは、人々とともに愛と平和の世を創り、自身ならではの使命を果たし、世の役に立ちたい―――』 そう、そなたたちは、大いなる神の御前に固く決意したではないか。」

「そなたのあの世での決意が、そなたの今生の生死を決める。それは地上にても同じこと。そなたの意思こそ、いや、そなたの意思のみが、そなたの人生を決めるのだ。」

「生死を定めるわれ生死の神は、数え切れぬほどの魂の決意を汲み、この地上界、ひいては宇宙全体の流れを司る。『そなたの想いを最大に生かす』 それが、われら神々の在る意義。究極の使命なり。」

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