神々からのメッセージ

宇宙の根源より地上へ降ろされる神々からの御言葉。人々への深い愛のメッセージ。

カテゴリ : 仏教

2012年11月9日

【薬師如来 ※】※大乗仏教における如来の一尊。大医王仏とも称する。

(「人々へのメッセージはありますでしょうか。」)
「長きにわたって、人々の生きざまをつぶさに見てまいりましたが、現世という、はかなくも、この上無き“魂修行”の道のり、誠に様々な感情、想いからの、人々の悲喜というものが、時代(とき)を創り、そしてまた人が人であるゆえの、誠に盛んなる(物質、精神を含めた)“交流”というものがおこなわれてまいりました。」

「以前の人々は、現代のそなたたちよりもずっと、(その多くが)日々の生活にも苦しい状況のなかで生きてまいったのですが、やはりその精神力と申しましょうか、苦しみのなか、闇のなかとも思える状況のなかから一筋の光、そこには希望や我が身の求めるもの(神や仏など)に対する、唯々一心からの、自らの魂が救われんことを、一途とも言えるその気概に支えられ、その人生をまっとうせしめたのでした。」

「その(崇拝の)対象の一つとして、わたくし(薬師如来)があったのですが、わたくしは本来、神界に通ずる立場であり、古来より続く様々な神とのやり取りを通じながら、この世の仕組みを鑑みて、そういった(衆生)信仰を求める人々に対して、幸せを願い、真なる愛(慈愛)を授けてまいったのです。」

「この世は、“無常”(はかないもの)と言われますが、わたくしに関しては、そのような認識よりもむしろ、人々の様々な往来、そうですね、(過去世を含めた)古(いにしえ)より誠に深き縁にて結ばれた者たちが、また輪廻の過程でそれぞれの役割を担い、生まれしより、多くの人々の力やその影響により、ある一つの人生をまっとうする、これこそ魂を授かった者ならではの、謂わば、自らが望みし“挑戦”なる、誠にすべてがすべからく揃い相整った、人生の鮮やかなる “舞台”であると認識しております。大勢の者たちのなかに、そなたが存在するのではなく、そなたという大きな存在に対して、(その他の)人、物、そして神・仏すべてが(そなたの人生を)取り巻いているのです。」

「ですから、わたくしは、今の時代を生きるそなたたちに対して、自らの偉大性、自らが本当に珠玉のまたとない魂であるということを、如何なるときも感じていただきたいと願っております。自らを貶めることは、(己の)人生はもとより、自らを取り巻く、そうした多くの存在をも同様に貶めることになります。神界に通ずる者として、わたくしがあえて申し上げることは、そうした考え方は、誠に無知と言えるばかりか、神に対する大きな“罪”になります。神にそぐわない考え方は、やはり仏の世界でも、そして、この人間の世界でも禁事とお考えください。」

「そなたたちには、いずれも“良心”というものがある。これは、口には出さなくても一人ひとりが感じる微妙なる感情であり、しかし見逃すことの出来ない確固たる感情、指針となるはずです。そこには、わたくしたち仏の世界の存在や、もちろん神も宿ります。そなたたちには、この良心という、本来の自己を見つめる機会(=神、仏との対話)をいつ何どきも与えられている。これに勝る“援軍”はありません。そなたたちは、そうした心の指針(良心)に支えられて、より良い、現世という生まれ変わりの舞台をまっとうしていただければと願っております。」

以上。

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皆様

いつもありがとうございます。

お盆の時期に入り、都心に行き交う人も、普段のオフィスワーカーの光景から様変わりし
、観光客や、また家族連れの方々で一層賑わっております。

この時期は、郷里に帰省する方が多いため、都心は朝夕の通勤電車も含め、以前ですと閑散とするイメージがあったのですが、今は、このお盆の期間でも、都心で過ごす人は多くなったと感じます。それだけ、お盆休暇の概念も、生活の多様化に合わせて広がりつつあるのですね。

普段
わたくしは、池袋を中心に鑑定をさせていただいておりますが、先日は池袋駅にほど近い、日蓮宗の妙典寺へお参りいたしました。ちょうど、隣の会館にては、お坊様方のお経の声が響き、お供え花をたずさえる方も足早に所用を済ませていらっしゃる姿が印象的でした。

今回の記事では、妙典寺の御仏様に、“お盆の時期に、わたくしたちが心掛けていくべきこと”をお伺いしております。

天気の変化が激しき時季、どうぞ皆様お健やかにお過ごしくださいませ。

Rinokia

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「この(お盆の)時期は、天と地がとくに近くなります。

天が“霊”の世界であるなら、地は“人”の住む世界。天地は元々一つの光を成しており、次第に(天・地の)分化が進み、
しかるべく現象界に見る“天と地”が配されております。

天地がとくに“近く”なるーーーこれは何を示しているのでしょうか。

それは、
霊と人の入り交わり、さらには、あなたがたの言う“先祖”という、かつてこの世に生きた御霊が、霊界と人間界を行き来することで、人々は、自身の由縁、この世に生命がもたらされたことの奇跡、そして、繋がりゆく種(しゅ)があることを、“肌”で感じるひとときとなるのです。

この時期(=お盆)は、天の計らう、ある種の宇宙の成り立ちを表わし、
究極のところ、すべては単に分くべきに非ず(分けられはせず)、一見、別なりとみても(また、繋がりがないと思えても)、深く繋がりゆく“縁(えにし)”が、そこかしこに配されていることを、“天の妙(宇宙の妙技)”として、神仏の智慧たる根底としているのです。

だからこそ、普段、知らず知らずのうちに、あなたがたの想念に描かれる、自分と他人との区別、生命の違い、ひいては、この国とあの国ーーーそういった、諸段階に敷かれる“区分け(区別)”について、お盆という、元ある状態(分化していない)を肌で感じつつ、一層深く考えていく日々となるべきです。

たしかに、自と他、という区分は、この現象界には欠くことができません。違いや差異は確実に存在し、さらには、自と他を別物と考えるゆえに“個”は保たれ、人類の発展は続きゆくのです。

しかし、“別なるもの”が、初めに在るのではありません。“一(いつ)なるもの”が初めに在り、そこから“別なるもの”が生じていくことを、あなたがたには肝に銘じていただきたい。

天の計らうこの世には、“上”も“下”もありません。しかしながら、何が良くて何が悪しきかーーー両者を比較し、(上下)位置づけていく行為は、人類の歴史そのものです。そうして人類は、この(良し悪しの)判断と(この判断から導かれる)行動によって、世界(の構図)を長らく創り続けております。

しかしながら、今その姿で見える、あなた一人でさえも、単純には、これまでの人生の縮図、という言葉には到底収まらぬほどに、生まれ変わりを繰り返し、さらには、数え切れぬほどの祖先の命が引き継がれ、身体も、そして魂でさえも(単に、“あなた”という意味での)“一つ”ではないのです。

より一層の、大きな“一つ”に自らが連なり、そして自らの生命の、なんと彩り溢れる素質を得た姿であるか、これが僅かでも見い出す(気づく)ことが出来たならば、この世に“孤独”は消えることでしょう。

先祖でも良い、あなたを生み育てた親でも良い。さらには、もっと身近に在る仲間や、ひとときのみ交わる隣人(※ここでは、単発で接触する人のことです。)でも良いーーー

あなたが生きる“今”が、人も、時も、そして、神仏も、すべて繋がり得た、その“集大成”として表された奇跡として、あなたを心底安堵させ、明日への生きる力となることを、わたくしは切に願います。

“誰一人、けして欠けてはならない”―――天は、いつの御代にても、そう高らかに宣べます。宇宙は、すべての存在を必要とします。妙なる(絶妙な)均衡は保たれるのが、まさに“宇宙”ーーーこの世に(人間として)生きる者も、そして、天(霊界)に在る御霊も、すべて、無くてはならぬ存在なのです。」

以上。

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皆様

いつもありがとうございます。

先日のブログで書かせていただきました、群馬県甘楽郡下仁田町の、小高い山の斜面にそびえる榛名神社での神の御言葉に続き、その神社から徒歩数分のところにあります、天台宗 観福寺(かんぷくじ)にて御仏様よりいただきました御言葉をお伝えいたします。

天台宗の大本山は、「比叡山延暦寺」です(以前の記事:東塔 )。阿弥陀堂をはじめとして、わたくしの霊視の道をいつも支えてくださる大いなるお寺です。全国には、沢山の天台宗のお寺がありますので、ふと立ち寄らせていただいたお寺が実は天台宗、ということも度々ございます。

全国的に有名な寺院もしかり、わたくしとしましては、人気(ひとけ)のほとんどない、静かで簡素なお寺も好きで、よく伺います。場合にもよりますが、総じて寺院は、小綺麗に手入れされていて、
普段、喧噪(けんそう)のさなかに生活しておりますと、心が一気に洗われるようです。

時折、お寺のご住職ともお話をさせていただく機会があり、皆様お忙しいのに、とても親切にお話してくださいます。その地の歴史など教えてくださるなど、本当に学びになりますし、こうして長らくお寺を守り、仏道を歩まれるお姿に大いに励まされます。

先頃お参りしましたこの観福寺も人気なく、本当に静かなひとときを過ごさせていただきました。本堂前のほか、隣に併設された墓地にも、少々手を合わさせていただき、わたく自身の命が在ることに感謝の念を深めた次第です。

皆様のお心が、この
観福寺の御仏様の愛の御言葉で、少しでも軽くなっていただけましたら幸いに存じます。

暑さ厳しき折、どうぞ皆様お身体ご自愛くださいませ。

Rinokia

***
「真に、心の“自由”なる者、それは、目前の物事に心揺らされることなく(気が散漫になることなく)立ち向かえる(打ち込める)者なり。

けして卑屈な意味ではなく、人は皆、いずれも、広がる宇宙のなかのほんの僅かな、小さき存在。その小さき存在が、自らの場(※ここでは立ち位置や役割、という意味です。)を知り、目前にこそ、先ずは“生きる意味”を見いだすこと、そこに、天の配した“妙”(=不思議なほど優れていること)がある。

人は、
いわば、目に見えぬこと、実感がもてぬことに、ある種の恐怖や違和感、さらには、自らの心の定まりを欠く(=不安定になることがある。

しかし、それは人の力の劣性(劣っていること)ではなく、むしろ、人は、自らと、そして自らの間近(周囲)にて、存分に“生きる”(※力を発揮する、という意味です。)ことが叶い、さらには、その所業(動き・成したこと)がすべて、目には見えぬ力(エネルギー)となって、必ずや力の及ぼされる(影響する)、その永らく続きゆく、深淵なる仕組がある。

ゆえに、皆よ。苦しむことなかれ、自らの力の及ばぬ、自由ならぬ(本意にはいかぬ)を、悲しむことなかれ。

真の、
生きる達人”たるは、真実ささやかな、その僅かなる物事にこそ、上もなく下もなく、ただ心穏やかに(素直に)、魂(心・気持ち)を込める、その潔さをもつ者である。

***
(少々間を置きました。)

“一隅を照らす”---あなた様(=Rinokia)も時に目にされる、わが(天台宗の)宗派の、この教訓は、もっとも簡素にして、もっとも事実を得た(的を得た)、人の在り方、生き様を示しております。

目前の、真実(本当に)たとえわずかばかりであっても、自ら、一隅を照らす者となる。

この真意こそは、人間という魂が持ちうる苦しみ―――自ら思い描く物事(理想や願望)と現実の狭間(はざま)に在るを瓦解し(解脱させ)、
慎ましく、あるがままに、そして自らの(置かれた)場において、誠心生きることを示す教えでありましょう。

もっとも尊きは、巨大でもなく、数多(あまた)でもなくーーーただ、その一人の、真心の一行(ひとつの行い)いであり、この世を照らす“燈火”(ともしび)となるのです。」

以上。

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※大変お待たせいたしました。前回の続きです。

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霊的修行のさなか、より人間ならではの魂の仕組みついて、学びを深めていくなかで、戸惑い、それでもなお、天より授かった自らの使命を遂げていく、まだまだ迷い子のようなわたくしに対し、すでに途方もないほどの長い年月、人々の生き様、そして、難局極まる時代のさなかに宗派を開かれた開祖の御姿などを見守り続けた阿弥陀如来は、
わたくしに、静かに声をかけてくださいました。

「あなた(Rinokia)は、今まさに、<人間>という魂が、果たしてどのような性質をたずさえた存在であるかを、天(神仏)との対話のもとに、一つひとつ、まるで花びらの一片を開かせるが如く、懇(ねんご)ろに知り得ているのです。

元より、その対象たる魂とは、単に一個体として括れる(区分けのできる)ものではなく、あたかも、振動し、共鳴し合う“粒子”の如く、互いに(磁石のように)引き合い、寄せ合い、幾重にも影響を及ぼし合うという、誠に不可思議、かつ繊細なりて、ついには、一つの魂が、(生まれ変わりを経て)再び“人間”という姿(状態)へと変化(へんげ)を遂げゆくのです。

宇宙という壮大な広がり(とエネルギーを内包する)空間も、ひいては、ただ一つの魂も、極めるならば(究極のところ)、その仕組は、誠に同質であると言えます。一人の人物について、ほんの数十年(の人生)を紐解くことさえも、なんと奥深く、重なる由縁を幾重にも引き寄せ合う、誠に難解なるかを、あなた(Rinokia)は常に心に銘じ、可能な限りを読み解き、そして天の命じた物事を成さねばなりません(※これが、Rinokiaの霊視の原点です)。

宇宙には宇宙の、神には神界の、そして、人間であれば、人間という魂が紡ぎ出す世界の成り立ち(構造)があり、それは、まさに、互いの分野にて渦(=エネルギーの流れ)を生じ、果ては、すべてが繋がる(あるいは、すべてが神の光に集約される)ことを、あなたには是非感じていただきたいと、わたくし(阿弥陀如来)は願います。

宇宙のように、終わりなく果てしなく、そして、無限に“広がる”のが、<人間>という魂でありーーー さらには、それに付随する数多(あまた)の魂もまた、人ひとりのその魂にとりて、かけがえのない要素となり繋がり(由縁)となり、そして、さらには、“時”という“流れ”(※ここでは転生を含みます。)に則り、無限に積み上げし物事はーーー けして安易ならず、そして・・・けして、消え去るものに非ず。

その、宇宙の真理の如く、無限の光を放つ、神が創りし<人間>という存在に、あなたは、今、幾光年の時を超え、あなた自身が、人間という借り物(=肉体)に乗り、人間の感覚(五感など)を覚えるなかで、(人間として)成長し、今や果敢に、<人間>という未知の領域を知ろうとしているのです。

それは、生まれたばかり赤子が、この世における、いわば天文学的な物事に挑戦しようとするかの如く、実に超え難く、すでに途方も無きことは、天(神々)は重々ご承知でありましょう。

しかしながらーーー いいえ、だからこそ、天はあなたに命じました。

いまだ無垢であり、人間的な由縁の引き合い、物事(※エネルギーも含みます。)の操作を受けず、この世に“単独”として生きるあなたにこそ、天は、一つの望みを託されたのです
(※霊的には、わたくしは地上のどこにも属しません)

互いに引き寄せ合うのは、素晴らしい縁ともなりましょうが、しかし、ある場合には、物事は重なりゆき、ついには、身動きを取ることさえ、難しき要因ともなりかねない。

何ものにも染まらず、何ものにも左右されない、ただ“あなた”という光は、実に軽やかに、地上の世界と、そして霊界をも速やかに通り抜けるのです。

“新しき風を、この世に”ーーー

あなたが日頃、神のお社に在りては
(※神社参りのことです)、天より度々賜る御言葉ですね。

そうです、あなたは、<人間>の世(=人間界)からは、いまだ未知の、相交わることのない新しき息吹きを以って、この世の人々に“気づき”を―――人間という生命が、神の御意、究極の愛の体現として、命(いのち)を与えられ、
何よりも崇高であり、もっとも尊き存在であることの、その真の気づきをもたらすことに、(あなたは)その身を投じるのです。

人間ならでは(=人間由来)の魂が見出すことの叶わぬ、“<神>の視点”を、果てしなく遠く在りながら、しかしいつかは“同調”し、共鳴し合う、(人類にとって)
未知なる新たな存在(エネルギー体であるあなたが、“誠の言葉”(=言霊)によって丁寧に紡ぎ出し、人類の歩みの、過去も、現在も、そして未来をも繋げゆく、新たな“架け橋”となるのです。

あなたが今後、(霊視の道において)悩めるときーーー難解なる人の世、魂の深き関わりについて、なお、あなたの理解を超え、さらには、極限の壁(※霊視の道にあっては、この壁があり、厳しい修行の峠とも言えます。)に苦悶するとき、いつでもこちら(阿弥陀如来様のもと)へおいでなさい。
あなた自身の“原点”に戻ることを、束の間のひととき、わたくしが手をたずさえましょう(※この世でありながら、一定の無空間(=なんの交わりも無い状態)にしてくださるため、わたくしの霊的な重みが、非常に軽くなります)。

あらゆる魂を、もっとも“ありのまま”として慈しみ、抱き、そっと手をたずさえるーーー今まさに
歩み始めゆく赤子を、どこまでも見守り、(行く)先の幸いなるを願うこと、ここに、わたくし(阿弥陀如来)の、仏界における役目があるのです。」

以上。

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皆様

いつもありがとうございます。

数年前になりますが、比叡山延暦寺の東塔(とうどう)にある、阿弥陀堂に訪れた際の、御本尊 阿弥陀如来からの御言葉をお伝えいたします。

比叡山延暦寺は、東塔・西塔・横川の三つの地域から構成されており、そのなかで、東塔は、総本堂である“根本中堂”を中心とする地域で、延暦寺発祥の地といわれます。

どの地域も広く、仏教の聖地のひとつとして、1000年以上の長きにわたり存続する天台宗総本山に寄せる信仰の篤さがうかがえます。なかでも、この東塔は、幾つもの御堂が広大な敷地に点在し、さらには印象として大変急こう配の地形が特徴です。

東塔をしっかりお参りするには、それなりにまとまった時間を要しますし、また足元に注意しなくては、と思えるほどに、ときに長く急な階段と、坂の上り下りなどが連続いたします。


阿弥陀堂は、檀信徒の先祖回向の道場として建立されました。ここに辿り着くのにも、やはり階段を上ります。すると、じきに正面前方に、大きな阿弥陀堂が現れてまいります。

元々、神からの御導きのもと、神界、そして地上界について、霊的に学び、祈りの旅を続けてきたわたくしですが、以前のブログ【霊との向き合い方】で書かせていただいただとおり、神からのいささか強烈な言、「あなたはーーー 余りにも〈人間〉のことを知りません」という御言葉をいただいてから、本当に導かれるように、以後は、各地の寺院を訪れることになりました。四国八十八カ所に代表される、今や全国に広まったお寺巡りも、祈りの旅に組み込む形で、幾つもおこなっております。

寺院を巡るということは、それに付随する形で、本堂はもとより、供養塔、鎮魂碑、そして併設する墓地などにも(失礼の無きように遠巻きから)お参りをさせていただく、ということです。

今ある、わたくしの霊視は、実際には、このときの霊的修行が、大きな位置を占めているのではないかと思うこともしばしばです。

なぜなら、霊視という目に見えないことは、現に人間として生きている人々に向けてさせていただくものでもありますし、なおかつ、人々の魂に由縁のある、すでに肉体を持たない御霊たちと、霊的な手法を用いて意識を通わせ、わたくしなりに“言葉”に紡ぎ出すことも、不可欠だからです。

どの魂も、究極は、“神”という一つの光に集約されるものではありますが、しかしながら、幾度も転生を繰り返し、生きたその数だけの“色”を、様々にたずさえた人間という魂に関しては、わたくし自身、やはり神とは別の要領で、その特徴を捉えております。

まずもって、<人間>という魂は、何を思いーーー何を喜びとし、あるいは悲しみとし、この世に見える幾多の要素とはどのようなつながりを引きつつ、影響を受け合うのか、という、人間にまつわる“魂の仕組み”を知らなくてなりません。

開祖様の墓地などがある場合には、たとえ山奥でも必ずお参りし、偉大なる御霊、先人たちの御言葉に、静かに耳を傾けるのです。こうすることで、当時の御霊たちが何を願いながら生きてきたのか、開基に至った時代背景や人々の動向も含めて、当時ならではの状況を把握できるのです。


御堂では、御仏からの、まさに見えない“説法”が始まります。人の世の道理や霊の世界での出来事、そして人間と霊との違いや関係など、実に多岐にわたります。

今世は、人間の器に入り、周囲の環境、はたまた教育に影響を受け、自分なりに心もとないながらも“人”生を辿ってきたわたくしですから、どうしても、霊の世界の真実ーーー天の、あまりにも深淵な采配について、知れば知るほど、目に見える世界(現象界)との違いに戸惑うことも、正直ございます。

そして、生きている間でしか叶わない物事も知ることで、すでに肉体を離れて御霊となった方々に対し、わたくしとして何をさせていただけるのか、少しでも次の世への転生のために何をさせていただくべきなのか、自問自答する日々が続きました。

なおかつ、神も仏も、わたくしの霊的修練には、(人間的な感覚での)優しさなどは一切なく、人知を超えた難解な課題を授け、さらには様々な“現実”と、ありのままの“真実”も示してくださいますので、わたくし自身、やはり少なからず心身に堪えるのです。

*

その迷いのさなかに訪れたのが、この比叡山延暦寺でした。

数ある御堂は、すでに長い年月を経てなお、威厳堂々たるもので、先人たちが命を懸けて守り抜いたその意気を今に感じます。

阿弥陀堂へ続く、階段を上り、視線の先に見えたその立派な御堂は、陽の光で美しく輝き、わたくしはなにか新世界に迷い込んだかのごとく、新鮮な面持ちで御堂内に入りました。

そこで、賜ったのが、阿弥陀如来からわたくしへの温かい御言葉です。

次回は、霊能を司る者に対し、御仏たちはどのように御思いになっているのか、阿弥陀如来よりの御言葉を大切に紡ぎ出させていただきます。

Rinokia

以上。

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皆様


いつもありがとうございます。

あじさい寺とも言われる、鎌倉 長谷寺に別れを告げ、徒歩数分程度で、高徳院に辿り着きました。ここは、“鎌倉の大仏様”で有名な、浄土宗の寺院です。

御本尊は、鋳造の阿弥陀如来坐像で、国宝に指定されています。長谷寺の御本尊十一面観音菩薩も10メートル近い高さがありますが、この阿弥陀如来様もまた、座した御姿ですでになんと11メートルを超えています。

拝観券売り場を抜けて、道なりに進みますと、すぐさま目前に大仏様の御姿を拝することができます(屋根の無い場に建立された露坐です)。数段の階段を上り、尊像を仰ぎ見ますと、やはりどこもかしこも造りが大きく、何百年前の昔に、どうやってこの像を鋳造せしめるのか、驚嘆と興味が沸いてまいります。

尊像の周りをぐるっと一回りしたところ、阿弥陀如来様が座しながら、少々背を丸めて視界を下方へ落としているのが分かります。なるほど、真っすぐと前方を見るのではなく、あくまでも、下から仰ぎ拝むわたくしたちを、こうして高いところからつぶさに見てくださるよう、先人は考えたのだ、とつくづく感心いたしました。

今回の記事では、“願い”について、長らくわたくしたち衆生を見守り続ける鎌倉の大仏様からの御言葉をお伝えいたします。

Rinokia

***
「この世は、幾多の“願い”によって成り立つものです。

この“願い”とは、あなたがた人間をはじめとした魂をもつ存在が、自らの感覚や価値観に則り、“こうしたい” “こうでありたい”と、自身の今とこれから(将来)について思い描くことであり、あるいは(場合によっては)、周囲(他の人)に対しても“こうしてもらいたい”という使役的な望みになることもあります。

この世を生きるとは、艱難辛苦(かんなんしんく)ーーー平坦な道程はなく、幾多の苦楽あり、ゆえに、誰一人として、現況なお苦難の無き存在はありません。

古(いにしえ)の人の、時代にあって度重なる苦労は、今やあなたがた(現代の人々)の想像の域を超え、それら(の歴史の記憶)が風化していると言っても過言ではないでしょう。

しかしながら、あなたがた(現代人)もまた、今(の世)ならではの困難に直面し、考え、(苦難の)局面を超えようとする姿は、いつの時代でも同じく(同じように)、わたくし(=大仏様)には見受けられるのです。

現代の生活に依り
(ちなみ)ますと、もしかしたら、各々の生き方、個別(個々)の歩みが顕著になり、(昔よりは)人との繋がりや関わりが希薄に思えるかもしれません。

しかるに、あなたがたの“命”も、天よりの、“この世に生(せい)あれ(=生きよ)”とする、まさに“願い”そのものであることを、あなたがたは、たとえ目前の苦難に遭うとても、どうか心に留めていただきたい。

人は、大なるも、また実に微細なものさえも、“願い”―――様々な前進への望みによって日々の生活を送り、また、ひいては人生を成す(構築する)ことを繰り返すものです。

将来へ向けて、何も望みがない、そう心に漠然とした虚無感が漂う人であっても、魂が事実、人間という器に入り、一人の人として成している限りは、数多(あまた)の“願い”がありてこそ、“生きる”そのものが叶いしことを、地上の人々が真に会得するを、わたくしは求めます。

“願い”を懸けられることは、けして負担の意(意味)ではありません。

それは万感の信頼あってこそ、そして、あなたにしかできないこと(あなたにこそしてほしいこと)があるからこその、願いを寄せる、何よりも尊ぶ(たっとぶ)ことであり、その信頼から発せられた“願い”は揺るぎなく、そして限りなく強き、目には見えぬ力(※これは潜在能力のことです。)を呼び起こすものでありましょう。

その発する力が、またかけがえぬ“縁”を呼ぶものとしたら、この世はなんと美しき、願いの懸け合いと、数多の縁(えにし)が、この地上を遥かなる時代(とき)のなかで脈々と紡がれているのでしょうか。

今も、そして古(いにしえ)も、人の“幸なる”ことへの(※この場合には、救われたい気持ちも含みます。)切なる願いは、けして移ろい変わりはしません。

長らくの間(=大仏様が建立されてから)、今なおわたくしは、人の“願い”によって、そして、極(きわむ)ところ、天よりの“衆生を(人々に)近き場にて救わしめよ”という願いによって、この地に在り続けるのです。

“願い”とは、それほど強く、逞しく、わたくしを支え続けるーーー

そして、あなたがたもすべて、天の願い、そして縁を引いた人々の“より良く生きてほしい”という発願(ほつがん:祈願を立てること。大仏などの建立は、この“発願”によって成された大事業です。)より呼び起こされた人生であり、ゆえこそ、あなたがたの存在は、すでに、真実(本当に)“強く”、そして“無二”であることに気づいていただけることを、わたくしの最大の“願い”といたします。」

以上。

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皆様

いつもありがとうございます。

藤沢での鑑定を終え、先頃都内へ戻りました。
鑑定の前日には、まずは鎌倉へ足を延ばし、祐気取りを兼ねて長谷寺へ参りました。

“あじさい=鎌倉の長谷寺”と言われるように、あじさいの名所でもある長谷寺は、十一面観音菩薩を御本尊としてお祀りしております。尊像の全長は9メートルほどもあるということで、木彫仏としては国内最大級だそうです。その高さと大きな造りに、思わず感心して見上げてしまいます。

広い敷地には数々の御堂が随所に立ち並び、さらには
御本尊のある観音堂を抜けると、高台の斜面に多種のあじさいが咲き誇っていて、大変良い見栄えです。鉢植えの華著なものから、幹も立派で、斜面にしっかりと根付いた大輪まで、一言で“あじさい”といっても、本当に様々な趣きがあるのだなぁ、としばらく時を忘れて見入りました。

ちょうど、わたくしが訪れた日は、終日の雨降りでしたが、雨露に濡れたあじさいも
大変風情で、葉は青々と艶やか、そしてはなびらもしっとりと美しく咲いておりました。

ちょうど見頃なシーズンだったからでしょうか、参拝客がとても多く、参拝はもとより、境内の展望台から鎌倉の町を一望したり、あじさいをじっくりと撮影したり、今はお寺へのお参りも様々なスタイルがあるのですね。

今回は、長谷寺御本尊の
十一面観音菩薩よりの御言葉を書かせていただきます。厳しくも愛ある御言葉を授かっております。

皆様の日々に、沢山の幸せが訪れますようお祈り申し上げます。

Rinokia

***

「人が人(他人)と関わり合う場が、この世です。

目に見えると見えずとにかかわらず、皆、数多(あまた)の関わり(ご縁)を互いに引き合い、いずれにしても(※この場合には、良くも、またそうでないことでも、という意味です。)互いの“生きる”ことが、自らも、また周囲(他人)にも影響を及ぼしています。

だからこそ、人は、誰しもが、“たった自分のみ”という観念から物事をおこなう(べき)ものではありませんし、自身にまつわる(関係する)多くの人の存在を、(心にて)感じ、良きに(誠実に)生きていくべきなのです。

(↑ ここまでが前置きで、以下より語調が変わりました。)

しかしながら、あえてわたくしは、あなた(Rinokia)へお聞きしますが、“人のため”、“みんなのため”という誠に聖者たるごとくの心根は、あなたがたとえ、争い(※戦など)のさなか、あるいは、誠に厳しき生きる(生活)環境に在りしとき、果たして(人のためという)心は、本心にて沸き起こるでしょうか?

ひいては、人(他人)に起こる苦しみ悲しみは、あなたが真に代わることができるでしょうか ーーー

今置かれた(この国の平和な)環境ゆえこそ、あなたが当然のごとく持ち得ている価値観を、(他の)すべて(の時代・国)の通念(常識)として当てはめることは、実に困難であることを肝に銘じるのです。

人は、究極のところ、他(の人)とは相容れることは叶いません。

なぜならば、人の魂は、たとえ同質(同程度)の由縁ありとても、各々の(魂の成長による)持ち分(お役目)、また今世学びゆくべき物事、それらがけして一重(ひとえ:同様)にはならぬゆえです。

人(他人)は人(他人)、自分は自分ーーー

一見、冷徹と思えるやも(かも)しれませんが、人は皆、第一義の根底(基礎)として、“個”であることを先ずは見て(理解して)ゆかねばならぬのです。

人との連動感、連帯、そして、結びつきーーー これらは、実に麗しき物事ではありますが、すべての現象にこの道理を通すには、人類の生きる(=存続する)うえで難き(難しい)面もある。

(人は人、自分は自分、の)この考えは、人をないがしろにするものではなく、人への尊重と、さらには“自立”を呼ぶ
(もたらす)ことでしょう

一人ひとりが、天より授かった命(使命)は、限りなく当の者(当の本人)こその命(使命)に因るものであり、なおかつ幾多の霊魂の流れ(仕組)、互いに“個”なるゆえの縁、そして天よりの深き計らいがあり、当(当人)の為にこそ、ようやく成されたものであることを、常に考える(認識する)のです。

誰にすがる(頼る)こともできない、誰を助けることもできないーーー 自らの生きることの苦しさ、そして悲しみや絶望のさなかにあって、(かつての)人々は、神仏に救いを求め、人の命のはかなさ、世の不条理の果てにあってなお、
心に念じ(お経を唱え)れば、いつかは(極楽)浄土の道の開かれることを、人は、“ただ一人”、神仏の御前にあって、自らの心に向き合い、(切なる)想いを吐露し、限りある寿命のなかで世を生きたのです。

今こそ、たった一人、“自分”という命が、この現世を“生きる”ことの本当の厳しさ、そして深い意味を知りなさい。

自らが向きゆくもの(対象)は、わが心にあり。そして、越えゆくものは、わが心の天邪鬼(あまのじゃく)(※ここでは、ひねくれたり、道理に則ることのできない虚(うつ)ろな心のことです。)にて、あなたは、自らを見つめ続けるごとに、何に因ることのない、すべて自らが起こした物事、自らの発したものに(端を発し)て、世は成る(“完結”している)ことを知りーーー そして、人間の原点ーーー 誰しもが皆、“ただ一人”である、この真理に気づくことでしょう。

(再び語調を変えました。)

ゆえこそ、人も、またわれら(御仏)とても、相容れぬ“一個体”として互いに在り(存在し)、しかしながら、そのなかであって、ほんの僅かーーー 僅かなひとときであっても、互いが想いを分かち合い、今この一瞬(とき)、触れ合う(感じ合う)ことの素晴らしさを、われらは慈しむのです。

束の間の(参拝の)ひととき、あなたがその他の(参拝の)人と同様に、心を和ませたり、また花々を愛でたり、古人(先人)の人々へ思いを馳せるのであれば、それはわれら(御仏)も同じくして、ついには“一つ”となる。

この世に、互いに生き合うとは、この僅かな“分かち合い”に支えられているとも申せましょう。

個々の存在が、なおかつ縁を引き合い、(心が)通じ合う、その“奇跡”が、地上の花(光)となり、われらが長らく人々(生き様)を見続け、そして過去世、現世、そして来世を守りゆく、確かな原動力なのです。」

以上。

***

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前回① からの続きです。)

善光寺の御仏より:

「人の数だけ、その者のみが表わす
“生き様”があります。人が生きるとは、いずれにせよ(生きる上での)“場”があり、人は誰しもが(生きている限りは)この地上にて、己にちなむ“縁”を(人も物事も)様々に引き合い、その時代、その“場”(環境下)での生き様を、自らの感情、欲、意志のもと体現させていくのです。

地(大地)に根付いた“人間”という存在が、長い(地球の)年月、少しまた少しと進みゆけた(発展を遂げた)のは、“地”がいずれも、人の生きるうえで欠かせぬ“礎”(基)でもあり、この“地”において、人の生活が
様々に創出され、(人類の)発展が成し遂げられたとも申せましょう。

(環境や条件的に)“良き地”であるならば、無論、それは人にとりて追い風ともなるものですが、しかしながら、一定の範囲(ここでは限りがある、という意味です。)において、総じて人が生きていかねばならぬ、この事実にあっては、すべてが(人の要望に)“適う”ものではありません。

それであるならば、先(ま)ずは、一つの心の指針として、どの“場”(=環境)であろうとも、その場において、良き生き様を心得ていく(=心掛けていく)、この点を心に芯を据えていくことです。これは、さらに言うならば、逃げも隠れもせぬ、(生きるうえでの)“覚悟”となりましょう。

無きもの(=手に入れられぬもの)を無暗(むやみ)に求め、右往左往し、元より欠かせぬ(大事な)物事を見失うは、実に本末転倒。生きる場は無論、肝要なるものですが、それ以上に、己の“成せる”(=行動)に、もっぱら心をかけていく、その意気を据えていただきたいとわれら(御仏)は願っております。

今、自ら意としない“場”(※これは、地域の意味だったり、家族、また職場など、生活において身を置くあらゆる環境を意味します。)で在りても、けして不満をもたず、自らに成せることについて、尺度(程度)を縮こまらず“大いに”成すことで、果ては、人も驚くばかり(一目を置く)姿(存在感)となることでしょう。

自らの力を限らず(見限らず)、知恵をもって、(ときに周りと)力を合わせ、卑下せず淡々と、自らの立場(立ち位置)にて大輪の花を咲かせていただきたいーーー

(少し間を置きました。)

今、まさにあなた様(Rinokia)が仰ぐ(仰ぎ見る)、建造物(=ご本堂の内装)は、先人たちの弛まぬ御仏への求心(※中心=悟りに近づこうとする心)が、人知を超越せる(する)ほどの技の粋(すい)を集結させ、果ては幾年(長い年月)を経てなお、こうして時代を経て人の拠りどころ、(心に)感じ入る場として存在し続ける、そういった、人のもつ“意気”(心意気)と、限りなき(最大の)力の“結晶”なのです。

ですから、現世ーーーすなわち、迷い多く、総じて万象(あらゆる物事)の(入り)交じるがごとくの世においては、あなたがたは、目前の事象に対し“何”を心の大元(=芯)に据え、生きるべきか、その根源的な位置(立場)を常に考えゆかねばなりません。

ここでこそ、心に描く(思い描く、目指す、志す)物事は、努めて、“限り”(=制限)の無きよう、心得ていただければと思います。人の心とは、すなわち万象(※ここでは“宇宙”という言いです。)にあって、光のどこまでも続く、尊きものなりて、この心、ひいては魂こそは、けして“限り”あるものと見なしてはなりません。

何をするにも、何を想う(考える)のも、志すものは、限りなく大きく、そして、伸びやか、かつ堂々と、けしてあなたがたの内(内側)にみる仏性(“魂”)は小さきものにあらず、実に壮大で“朗々”(※光が澄んでいること。)たる姿なのですーーー

こちら(※善光寺)では、人間という生命のもつ真の力強さ、願う力、仏道への求道ーーーそれらの“心意気”をこころゆくまでお感じになられてください。

どこに在ろうとも、それ自体が煌々と光輝くとき、ついには、この世の
欠かせぬ“礎”となり、人々の“希望”となり、その存在は永久に、地上に刻まれていくことでしょう。」

以上。

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皆様

いつもありがとうございます。

日本で有名とされる神社仏閣には、
ここ数年来の日本への観光ブームも相まって、海外からの観光客も多く訪れていらっしゃいます。京都の伏見稲荷大社や、三重県伊勢市の伊勢神宮、また東京の明治神宮などは、その代表格とも言えましょう。

わたくしも、全国津々浦々、折に触れ大小かかわらず様々な神社仏閣へ参りますが、参拝されるお方々の顔ぶれが、近年は多彩になったと感じることもしばしばです。

一つの空間に、幾つものお国柄、価値観ーーーそれらを含めた“人生”の一片が交じり合い、実に多様な人間模様が現わされる場でもあります。来
年2020年の東京オリンピックを契機として、この傾向はさらに強まるかもしれませんね。

さて、昨年ですが、長野県長野市にあります「善光寺」へお参りいたしました。善光寺へは、数年に一度のペースで幾度か訪れておりまして、国宝に指定されているご本堂のほか、善光寺境内やその周辺含めた敷地の広さ、壮大な建造物など、どれ一つとっても、スケールの大きさに本当に驚くばかりです。

少々暗がりのご本堂(間口24mに対して奥行が54m、高さが29mもあります。)の中は幾つもの部門があり、訪れる方々もめいめいの目的に従い、束の間のひとときを過ごしていらっしゃいます。

豪華絢爛な内陣に佇む方々(お戒壇巡りも出来ます)、外陣にて熱心に拝む方、興味津々のご様子で天上を仰ぎ見る方、等々、次から次へと参拝客が訪れますので、このご本堂は常に人でひしめき合っている印象です。

善光寺は、1400年あまりの歴史をもつと言われておりますから、その年月の数だけ、人々の心の拠りどころとして在り続けたのでしょう。

善光寺が“無宗派”であるというのも驚きですが、規模の大きさも相まってか、授与品所を含めて本当に沢山の職員の方々がいらっしゃることにも新鮮な驚きを感じます。熱心に各々の持ち場でお勤めされているお姿は、仏様に心身を添い遂げようとする思いが伝わってくるようです。


わたくし自身は、善光寺に参りますと、お参りできる嬉しさ反面、なぜかとても静かな気持ちになります。

この長野の地にこれだけ大きなお寺が何故、どのようにして建てられたのか、時代の変遷にありながら、変わらず、歴史上の人々含め、これほど篤い崇敬を集めることとなったのか、等々、人の成せる技として到底想像できぬほどの壮大な建造物の造りを拝し、長きにわたり、仏と人との関係性、はたまた、仏という救いに対する人の“信仰心”について、ついつい考えにふけるのです。

ご本堂の柱一つにしても、とてつもなく太く、高い天井を支えるために高さもありますので、これらの資材を集めるだけでも相当な作業であったことは想像に難くありません。

1000年を超えてなお威光を放ち続ける善光寺の歴史は、幾多の先人たちと、まさに今わたくしたちと歩む、大切な歴史でもあります。人々の息づかい(生き様)を御見守りくださる、善光寺の御仏に頂戴した御言葉を次回の記事にて書かせていただきたいと存じます。

皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

Rinokia

次回② に続きます。)

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2012年2月29日

 

【お釈迦様からのメッセージ】

(清々しく心地の良い静寂に包まれる。男性でありながらも高貴で美しい雰囲気。祈り初めてすぐに“慈悲と愛”という言葉が何度も浮かぶ。)

「自分の心を見つめよ。そなたたちには尊き魂がある。悲しむことや苦行は要らぬ。いつでも心を平らかにし、“中道”に生きることこそ、そなたたちの本来の姿。そこに神が顕現する。」

「そなたたちはこれまで幾度も輪廻転生を繰り返し、互いに魂を向上させてきた。いかなるものも、すべてはつながりがあり意味のあること。他を思いやることが、すなわち自己を思いやることだと知りなさい。」

「宇宙はすべて一つであり、そなたたちも本来自他のない一つの魂。神の壮大な仕組みの中で生かされている。神の世界は“慈悲と愛”の世界。そなたたちはこの地上にてこれを実践するために生まれてきた。」

「われはいつでもそなたたちを見守り、今後必要なときに現れるだろう。」


以上。

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※高幡不動尊 金剛寺・・・真言宗智山派別格本山で、関東三大不動の一つに挙げられる。今から約1100年前に、清和天皇の勅願を受け、東関鎮護の霊場として不動堂および不動明王を安置したことにはじまる。

(Rinokia、不動堂にて)
祈りはじめますと、ちょうど聖徳太子様のご尊像の絵図などに描かれる、童子ような
脇侍(わきじ)のお姿が視え、そのお方は、腕に抱えるほどの大きさの枡(ます)を、一つひとつ段違いに重ねておられました。ですが、とても物静かなご様子で、感情の起伏などは無いように思われます。

そこに、天からとめどなく“水”が流れ落ち、それら幾つも積み重なった枡を、次から次へと満たしてゆきます。枡を満たす“水”は、綺麗な虹色を放つものもあれば、薄汚れた色みを帯びたもの、実に様々です。

ここから、不動明王様からの御言葉が降ろされました。

「そなたたちの日々の“行い”は、すべて、この溢れんばかりに流れ出でる水のごとく、この世に沁みわたり、そしてなお、これらの枡に流れ込みて、とめどなく(枡を)満たすが如くと心得よ。

悪しき行いを成すならば、それは、穢(けが)れとなりて、それまでの行い(たとえ善行を積んだとしても)を汚(けが)してしまうであろう。

そして、善き行いを成したなら、その枡が、再び“善”(=美しき状態)に満たされるまで、善き物事を続けねば、(穢れは)解かれたことにはならぬ。」

次に、視えてきた光景に、わたくしは衝撃を覚えました。

脇侍の童子が積み上げた“枡”が、ある程度の高さまで積み上がりますと、なぜか、底辺の枡たちが、一斉に“消えて”ゆきます。“消滅”とでも言うべきでしょうか、それまでは底辺を支えていた枡はもとより、満たした水も、すべてが“無い”のです。

その真意を、不動明王様にお尋ねしました。すると、

「この場(=枡がある状態)にみえているのは、いまだそなたたちが意思をもって“変え得る”期(期間)である。悪しき行いをしたと、自ら省みる(反省する)ならば、わずかでも善行をせねばと思い立つであろう。

しかしながらそなたたちはーーー(たとえ悪行をおこなったとしても)自らの行い、心の醜(みにく)き有り様を、いつしか記憶の彼方へと忘れゆくーーー

時の経過とともに、この世に沁みわたった“水”(=行い)は、天の審判(場)へと刻みこまれていく。そなたの一生にかけて、消し去ることのできない(行いの)“証”(記録)として。

ただその一瞬(ひととき)の戯
(ざ)れ事にうつつを抜かし、自らの行いすら忘却し、正すこと無きーーーその浅はかさよ。

それらが、ついにはそなたの冥土の示すところ(=天国地獄の審判)となり、一生をかけて成したその結び(=結果)を、善なるか悪なるか、そのすべてをーーーそなたは受け入れるのである。」

以上。

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2013年2月2日

【大日如来 ※】
※真言密教の教主。日本では平安時代に浸透した密教において最高仏として位置づけられ、大日信仰が成立した。

「人々は、日々様々な“欲”に魅せられ、しかしながら、それに対し一つも満足することなく、ただ闇雲に追い求めるばかりです。心の平安とは、けして外の世界に在るものではなく、むしろ、自ら(のなか)に広がる宇宙が、自分の“すべて”と言っても過言ではないでしょう。人は、他(周囲)にある意味依存しなくては生きてはゆけません。そのように人というものは、誠にか弱き存在。しかしながら、か弱き存在であるからこその、人同士の繋がりや、愛情、そして他を労わることにての、比類なき魂の修行ができるのです。」

「この何千年にもわたって、わたくしは、世界中の仏を求める、いや、より広い意味での神を求める人々をつぶさに見てまいりました。そこには、本当に微妙な心持ちが、各々(の人)よって異なる気がいたします。敬虔なる信者は、世界中に在り、その想いはこの世の一端を支えます。神や仏があるからこその、自身の心の平安、そして尽きることのない神(仏)を求める心、これらはみな、その理由すらもはや突き詰められぬほどに魂の奥底に浸透し、そして幾回もの転生を繰り返すたびに己と神の関係に想いを巡らせ、そしてそこに横たわる人生というものをまっとうせしめるのです。」

「天上の世界では、わたくしたちのような(高段階の)魂は、見事なまでに統一された存在です。世界中様々な呼び方をされるようですが、その根源的魂は非常に限定されており、この世界を一手に治めていると言えましょう。しかしながら、わたくしも長き歴史を、この世界と天上の世界の往来をするにあたり、数々の魂の派生によって、“色分け”がなされているのです。これが、わたくしの放つ、人によっては、そのオーラを感じることはできますが、魂の色とでも言いましょうか、それを古来より人々は様々なる描写のもと描いてきたのです。」

「神そして仏とは、突き詰めるところ本当に一つです。それを、地上に生きるそなたたちにも是非わかってほしい。天上において、差のない、平安なる一つの壮大な世界が広がるように、この地上でも同様にすべてが高低のない、自らが完結する世界が在るのみなのです。他に依存するとは、ある意味、自らの弱さを認め、そして、それを理解したうえでの、魂について、各々の段階に従って、修練していくことです。

人は他人の“痛み”を理解しなくてはならない。しかしながら、その痛みも、そなた自身がそれを知った時点で、解放せしめることで、他の人の痛みは本当に和らぐのです。そうして、みなが己を知り、そして他を理解することで、すべてが徐々に徐々に、高みに上がってゆけばよい。足の引っ張り合いはもうたくさんではありませんか。他を貶める行為は、よく言われるように、自らも必ず貶めます。まさに、自己が他に顕在しているのです。これが宇宙創成に至る仕組みの、大きな要素の一つ。」

「わたくしは心から望みます。そなたたちが、これまで何千年、いや何万年もかけて紡ぎ出した、ありとあらゆる歴史が、それはつまり途方もない程の多くの魂が互いに関わり合ってきたからですが、そうした、一つひとつの人生の積み重ねを、そなたたちが今こうして背負い、この世界を生きるとき、それはどこまでも“認められた”存在であり、この世界を生きること自体、魂たちの無限の喜び、祝福のなかで生かされているということを。今地上では、誠に様々な宗派のもと、人々はある種の壁を各々の間に建て、本来の“自他和合”が図られにくい状態のなかで、時を経るほどに混沌を究め、人々の悲しみや苦しみが顕著に露呈しておりますが、そういったなかでも、どうか、希望を捨てないでほしい。

天上の世界では、高次の存在たちが、そなたたちを究極の愛で、そう、わずかの差も無き真の愛によって、優しき眼差しでいつでも見つめております。そういった、どこまでも深き愛情に包まれし真実に心を寄せ、この地上の世界だからこその、ありとあらゆる事象が起きる特異な世界に身を置きつつ、その心は天上の世界に解き放ってほしいとわたくしは願っております。そなたたちは、転生を繰り返しながらもうずいぶんと様々な経験をとおして学んできました。この地上においても、そのあたりの壮大なる宇宙の仕組み(天上の世界を含めて)に気づく者が連鎖のごとく次々と現れて良い。これがわたくしを含め、天の世界の現在の認識です。

心はいつでも安らかにおいでなさい。そして、いつも自らが、わたくしたちの愛に包まれていることを感じ取るのです。喜びは、悲しみを凌駕し、如何なるときにもそなたたちに希望の道標(みちしるべ)を指し示すことでありましょう。わたくしは、この希望の道を、如何なるときも、如何なる時代になろうともそなたたちに授けたい。その希望の行き先、行き着くところがまさにわたくしそのものなのですから。」

以上。

2013年2月2日

【大日如来 ※】
※真言密教の教主。日本では平安時代に浸透した密教において最高仏として位置づけられ、大日信仰が成立した。

「人々は、日々様々な“欲”に魅せられ、しかしながら、それに対し一つも満足することなく、ただ闇雲に追い求めるばかりです。心の平安とは、けして外の世界に在るものではなく、むしろ、自ら(のなか)に広がる宇宙が、自分の“すべて”と言っても過言ではないでしょう。人は、他(周囲)にある意味依存しなくては生きてはゆけません。そのように人というものは、誠にか弱き存在。しかしながら、か弱き存在であるからこその、人同士の繋がりや、愛情、そして他を労わることにての、比類なき魂の修行ができるのです。」

「この何千年にもわたって、わたくしは、世界中の仏を求める、いや、より広い意味での神を求める人々をつぶさに見てまいりました。そこには、本当に微妙な心持ちが、各々(の人)よって異なる気がいたします。敬虔なる信者は、世界中に在り、その想いはこの世の一端を支えます。神や仏があるからこその、自身の心の平安、そして尽きることのない神(仏)を求める心、これらはみな、その理由すらもはや突き詰められぬほどに魂の奥底に浸透し、そして幾回もの転生を繰り返すたびに己と神の関係に想いを巡らせ、そしてそこに横たわる人生というものをまっとうせしめるのです。」

「天上の世界では、わたくしたちのような(高段階の)魂は、見事なまでに統一された存在です。世界中様々な呼び方をされるようですが、その根源的魂は非常に限定されており、この世界を一手に治めていると言えましょう。しかしながら、わたくしも長き歴史を、この世界と天上の世界の往来をするにあたり、数々の魂の派生によって、“色分け”がなされているのです。これが、わたくしの放つ、人によっては、そのオーラを感じることはできますが、魂の色とでも言いましょうか、それを古来より人々は様々なる描写のもと描いてきたのです。」

「神そして仏とは、突き詰めるところ本当に一つです。それを、地上に生きるそなたたちにも是非わかってほしい。天上において、差のない、平安なる一つの壮大な世界が広がるように、この地上でも同様にすべてが高低のない、自らが完結する世界が在るのみなのです。他に依存するとは、ある意味、自らの弱さを認め、そして、それを理解したうえでの、魂について、各々の段階に従って、修練していくことです。

人は他人の“痛み”を理解しなくてはならない。しかしながら、その痛みも、そなた自身がそれを知った時点で、解放せしめることで、他の人の痛みは本当に和らぐのです。そうして、みなが己を知り、そして他を理解することで、すべてが徐々に徐々に、高みに上がってゆけばよい。足の引っ張り合いはもうたくさんではありませんか。他を貶める行為は、よく言われるように、自らも必ず貶めます。まさに、自己が他に顕在しているのです。これが宇宙創成に至る仕組みの、大きな要素の一つ。」

「わたくしは心から望みます。そなたたちが、これまで何千年、いや何万年もかけて紡ぎ出した、ありとあらゆる歴史が、それはつまり途方もない程の多くの魂が互いに関わり合ってきたからですが、そうした、一つひとつの人生の積み重ねを、そなたたちが今こうして背負い、この世界を生きるとき、それはどこまでも“認められた”存在であり、この世界を生きること自体、魂たちの無限の喜び、祝福のなかで生かされているということを。今地上では、誠に様々な宗派のもと、人々はある種の壁を各々の間に建て、本来の“自他和合”が図られにくい状態のなかで、時を経るほどに混沌を究め、人々の悲しみや苦しみが顕著に露呈しておりますが、そういったなかでも、どうか、希望を捨てないでほしい。

天上の世界では、高次の存在たちが、そなたたちを究極の愛で、そう、わずかの差も無き真の愛によって、優しき眼差しでいつでも見つめております。そういった、どこまでも深き愛情に包まれし真実に心を寄せ、この地上の世界だからこその、ありとあらゆる事象が起きる特異な世界に身を置きつつ、その心は天上の世界に解き放ってほしいとわたくしは願っております。そなたたちは、転生を繰り返しながらもうずいぶんと様々な経験をとおして学んできました。この地上においても、そのあたりの壮大なる宇宙の仕組み(天上の世界を含めて)に気づく者が連鎖のごとく次々と現れて良い。これがわたくしを含め、天の世界の現在の認識です。

心はいつでも安らかにおいでなさい。そして、いつも自らが、わたくしたちの愛に包まれていることを感じ取るのです。喜びは、悲しみを凌駕し、如何なるときにもそなたたちに希望の道標(みちしるべ)を指し示すことでありましょう。わたくしは、この希望の道を、如何なるときも、如何なる時代になろうともそなたたちに授けたい。その希望の行き先、行き着くところがまさにわたくしそのものなのですから。」

以上。

2012年11月9日【薬師如来 ※】※大乗仏教における如来の一尊。大医王仏とも称する。

(「人々へのメッセージはありますでしょうか。」)
「長きにわたって、人々の生きざまをつぶさに見てまいりましたが、現世という、はかなくも、この上無き“魂修行”の道のり、誠に様々な感情、想いからの、人々の悲喜というものが、時代(とき)を創り、そしてまた人が人であるゆえの、誠に盛んなる(物質、精神を含めた)“交流”というものがおこなわれてまいりました。」

「以前の人々は、現代のそなたたちよりもずっと、(その多くが)日々の生活にも苦しい状況のなかで生きてまいったのですが、やはりその精神力と申しましょうか、苦しみのなか、闇のなかとも思える状況のなかから一筋の光、そこには希望や我が身の求めるもの(神や仏など)に対する、唯々一心からの、自らの魂が救われんことを、一途とも言えるその気概に支えられ、その人生をまっとうせしめたのでした。」

「その(崇拝の)対象の一つとして、わたくし(薬師如来)があったのですが、わたくしは本来、神界に通ずる立場であり、古来より続く様々な神とのやり取りを通じながら、この世の仕組みを鑑みて、そういった(衆生)信仰を求める人々に対して、幸せを願い、真なる愛(慈愛)を授けてまいったのです。」

「この世は、“無常”(はかないもの)と言われますが、わたくしに関しては、そのような認識よりもむしろ、人々の様々な往来、そうですね、(過去世を含めた)古(いにしえ)より誠に深き縁にて結ばれた者たちが、また輪廻の過程でそれぞれの役割を担い、生まれしより、多くの人々の力やその影響により、ある一つの人生をまっとうする、これこそ魂を授かった者ならではの、謂わば、自らが望みし“挑戦”なる、誠にすべてがすべからく揃い相整った、人生の鮮やかなる “舞台”であると認識しております。大勢の者たちのなかに、そなたが存在するのではなく、そなたという大きな存在に対して、(その他の)人、物、そして神・仏すべてが(そなたの人生を)取り巻いているのです。」

「ですから、わたくしは、今の時代を生きるそなたたちに対して、自らの偉大性、自らが本当に珠玉のまたとない魂であるということを、如何なるときも感じていただきたいと願っております。自らを貶めることは、(己の)人生はもとより、自らを取り巻く、そうした多くの存在をも同様に貶めることになります。神界に通ずる者として、わたくしがあえて申し上げることは、そうした考え方は、誠に無知と言えるばかりか、神に対する大きな“罪”になります。神にそぐわない考え方は、やはり仏の世界でも、そして、この人間の世界でも禁事とお考えください。」

「そなたたちには、いずれも“良心”というものがある。これは、口には出さなくても一人ひとりが感じる微妙なる感情であり、しかし見逃すことの出来ない確固たる感情、指針となるはずです。そこには、わたくしたち仏の世界の存在や、もちろん神も宿ります。そなたたちには、この良心という、本来の自己を見つめる機会(=神、仏との対話)をいつ何どきも与えられている。これに勝る“援軍”はありません。そなたたちは、そうした心の指針(良心)に支えられて、より良い、現世という生まれ変わりの舞台をまっとうしていただければと願っております。」

以上。

2012年2月29日

 

【お釈迦様からのメッセージ】

(清々しく心地の良い静寂に包まれる。男性でありながらも高貴で美しい雰囲気。祈り初めてすぐに“慈悲と愛”という言葉が何度も浮かぶ。)

「自分の心を見つめよ。そなたたちには尊き魂がある。悲しむことや苦行は要らぬ。いつでも心を平らかにし、“中道”に生きることこそ、そなたたちの本来の姿。そこに神が顕現する。」

「そなたたちはこれまで幾度も輪廻転生を繰り返し、互いに魂を向上させてきた。いかなるものも、すべてはつながりがあり意味のあること。他を思いやることが、すなわち自己を思いやることだと知りなさい。」

「宇宙はすべて一つであり、そなたたちも本来自他のない一つの魂。神の壮大な仕組みの中で生かされている。神の世界は“慈悲と愛”の世界。そなたたちはこの地上にてこれを実践するために生まれてきた。」

「われはいつでもそなたたちを見守り、今後必要なときに現れるだろう。」

皆様。
いつも神々からのメッセージをお読みいただき本当にありがとうございます。明日から2週間程、お休みします(もしかしたら、この期間中も時折メッセージを配信するかもしれません)。皆様のご多幸を心よりお祈りしております。このメッセージが皆様の人生において、少しでもお役に立てましたら誠に幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

以上。
 


2012年2月29日

 

【お釈迦様からのメッセージ】

(清々しく心地の良い静寂に包まれる。男性でありながらも高貴で美しい雰囲気。祈り初めてすぐに“慈悲と愛”という言葉が何度も浮かぶ。)

「自分の心を見つめよ。そなたたちには尊き魂がある。悲しむことや苦行は要らぬ。いつでも心を平らかにし、“中道”に生きることこそ、そなたたちの本来の姿。そこに神が顕現する。」

「そなたたちはこれまで幾度も輪廻転生を繰り返し、互いに魂を向上させてきた。いかなるものも、すべてはつながりがあり意味のあること。他を思いやることが、すなわち自己を思いやることだと知りなさい。」

「宇宙はすべて一つであり、そなたたちも本来自他のない一つの魂。神の壮大な仕組みの中で生かされている。神の世界は“慈悲と愛”の世界。そなたたちはこの地上にてこれを実践するために生まれてきた。」

「われはいつでもそなたたちを見守り、今後必要なときに現れるだろう。」


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