2009年09月24日

涼しくなりました   @清水

こんばんは
むしろ、お久しぶりです。

清水です。

最近、ちょっくらワケがありましてブログをしています。
mixiも続けていますが、あれは個人的な茶番劇を展開するためのツールに過ぎず、本当に思ったことを書くのはブログの方がいいかなと思っています。

とは言っても「Cry for the moon」ではなく、新しく開設しました。
そちらは、高校生活以降のことをメインに書いているのでここではURLを告知しません。

そう言いつつも、ここの更新も少しずつしてみようかな。

こういうことを今年の春に言ったような気がしますが、最後の更新からおよそ5カ月もたってしまいましたww


では、また後ほど。

2009年04月04日

罪悪感   @清水

何度読んでも威勢のいい日記だなというか、若気の至りなのかと思うような日記を先日に書いたなと思う俺。

後悔の気持ちとそれを否定する気持ちが交差した

この錯乱状態を考えるたびに思うのだが、
何度振り返っても自分のキャパシティーの浅はかさに悲嘆するの。
それが俺の関の山かな…と正面衝突したくない現実が横たわっている。


大学の親友と「過去を振り返ること」について話す機会があった。
現在と過去を別にとらえて、それを交差させながら現在を進歩させていく彼女は本当に上手い生き方をしていると思った。

それもあってか、久々にみんなのブログを見たり、友人のリンクから飛んで直接リンクしていない友人のブログを読んでみた。
他にも中学の友人のそれを読んだ。

そこには、
俺の唯一無二の親友だったり
マイナス面が目立っていたけど良い人がいたり
多くの悩みを抱え込むみんなから愛される人だったり
何もかもがもどかしいままだったかつての好きな人だったり


いろいろ振り返ることが多すぎてカオスると言うよりも、
長い時間を経ていることもあり、半ば忘却という無防備状態のときに来る
振り返ったときに感じる過去の…
つまりカオスってるんだなw

人は過去があって今があるのです。

だから今日の経験を大学生活をエンジョイするための糧としたい。

2009年04月03日

結局   @清水

今日は新歓のビラ配りをしていた。
とりあえず、入る人はいなそうだなと思った。
ここでサークルのグチをこぼす余地はありそうにないから前置きはここまでにしておく。

最近、法律について語る機会があった。

大方において法=正義、つまり守るべき存在として法律は語られるが、
必ずしもそれは当てはまらないし、法律は破るために存在するという側面もあると俺は思う。

そこでジョルジュ・バタイユの『C神父』を用いてみたい。

ただし、バタイユの本は文学と思想が密接に重なり合っている。
そんななかで抽象概念をそのまま登場人物にあてはめることほど強引で暴力的なことはないと思うが、
ここは仮説段階としてとらえていただきたい。

『C神父』においての主な登場人物は
兄であるロベールと弟であるシャルルである。
ロベールは聖職者であり禁欲の中に身を置いている。
それに対してシャルルは兄を尊敬しているのだが、偽善的な態度に嫌気をさし兄を貶めようとするためにさまざまな挑発をする。

最後はロベールは死に、それにつられるかのごとくシャルルは自殺する。

シャルルはロベールを一つの対象として、弁証法的な対象として、とらえており
結果的に際限のない「侵犯」を支える支柱の喪失により死を選んだ。
シャルルを動かした「侵犯」はロベールが守り抜いた(結果的には守り抜けない)「禁忌」によって支えられており、その逆も同じである。

何が言いたいかというと、「侵犯」と「禁忌」は背中合わせの関係にあると思う。

法律も同様である。
二十歳になってからお酒を飲もむ、だから今は我慢して法律を守らなければならないという消極的な「禁忌」と
酒を飲まないと盛り上がらない、法律は俺らが楽しむことを妨害しているだから酒を飲むといった積極的な「侵犯」が交差しているのが法律の現状である。

だが、この二つの概念をどちらが良くてどちらが悪いと断定して法律を語ることなどできない。
「禁忌」や「侵犯」は相互補完性の下で法律の進歩を支えているのだと思う。

人間性の尊重が「禁忌」に結びついたり、はたまたその逆であったりする。


だから、「禁忌」だけで法律を語る人に限って、
進歩を恐れ、疑心暗鬼という自らで作り出した幻影に怯えているのかもしれない。


2009年04月01日

面倒なことは嫌いだ   @清水

このブログに何かを書き込むとき、大方において自虐とそれからくる不満をこめて捌け口として利用していた。
しかも、高校時代の不毛ともいえる遺産の影におびえながら無い物ねだりにも似たグチをこぼしてこのブログの文字数を増やしてきた。
だからこそ、今日も解決の見込みもなさそうなことを書き連ねてみようと思う。


同じサークルの友達で嘘のような本当を言い、本当のように嘘をつく人がいる。
彼の文体からそんなことがにじみ出ている。
たとえば、彼が友人に遊びに誘われて、彼はめんどくさいと言い、友人がふてくされたとする。
すると彼はこう言う。
「本気で信じてるの?バカじゃねえの?冗談に決まってるだろ。」と言う。

まあ、これはほんの一例であるし、こんな例は俺以外の人でも同じような友人を持っているのなら経験することだろう。
でも、彼の場合他の誰かとは違う言い方をするのだ。

俺は彼の何に対してもまっすぐと話すその姿勢が好きで
当然その逆も俺にとっては学ぶべき点だと思っている。

彼の影響があったのか、それとも普段からよくつるんでいるサークルの連中に対する俺の態度があってか人に対する接し方が変わった。
それは器用な意味でも不器用な意味でも

俺が変わったと言われたらその通りだと思う。
それは周囲の人も変わっているし、俺の周囲の人に対する接し方もだいぶ変わっているからだ。

過去の自分と現在の自分の乖離に盲目な人に現在の俺を過去の直線になぞらえて指摘されることはど事後対応に頭を使わないことはない。
それは仕方がないことだと思う。

こう言う件は流すのが一番楽だと思うが、
面倒くさいオマケ付きでやって来た場合には絶対に後に引くつもりはない。
俺の思っている正反対のことが俺らしいのならなおさらだ。


それもあってか、俺はそのサークルの友人の話を楽しみながら聞いている。


2009年03月03日

悶々   @清水

今日(正確に言うと昨日)は高校の予備校のチューターと飲みに行った。





話題は大学生活から教育、ゲーム理論や人権についてまで多岐にわたった。



このブログで話の内容を忠実に書く必要性は感じていない。
(そもそも読む人がいるかどうかが不明だ)



ただ、言いたいことは



幸せを望むことで悲劇を呼んでいること



悲しさから逃れることで悲しさと向き合う必要性が増すということ。




俺は



強い人間になりたい




それはただ単に頭がいいとか体力があるとかの問題ではなくて




自分とは相反する思想をもった他者と協約できる部分を探しだし




そこから人間らしさを引き合いに語り合える力がほしい。




俺が人間的であるか、俺が人間を語ることができるかどうかは分からないけど



優しさに裏付けられた力を持ちたいと思った。




以上


2009年01月21日

今日もまた一人   @清水

俺は、理解されにくいと思うけど、結構厭世的だ。

楽天的であるかどうかと言われたら答えるのが難しいけど、
楽天的か厭世的かのどちらか、と言われたら厭世的になりがちだ。

たまにmixiでも日記を書くんだけど、

マイミクの友人が書く日記と自分のそれのコメント数を見ていくと
コメント数という名の評価基準で、
差異化され、自分の日記を見ていくのが辛くなり、
時には日記を消したりする。

そんな時にこう思う、
理解してほしいとは思わない(むしろ、理解してほしくない)
でも、理解してほしい。

俺は面白い文章を書くという点で文才能力がないのが原因なんだろう。


それなら、コメントしなくていいよ。
そんな気持ちと裏腹に、それを思い続ければ続けるほど、コメントを入れてほしいという気持ちが強くなる。


こんな甘い気持ちがあるがゆえに、
いっそのこと全てを消し去りたいと思ったりする。

消し去るという行為の延長線にある「孤独(=厭世感の極地)」が甘美なものであったらどんなに楽になれるのだろう。


とりあえあず、テスト終わったら
カフェで語りたい。
今度は四谷まで行くよ(笑)


2009年01月13日

2ヶ月半の意味を学んだ1分30秒   @清水

バイト先に引き継ぎの電話をしたら、


「新しい先生を呼んだから君はこの校舎での授業はないよ」


とのこと。

要するに、現在3つの校舎を担当しているうちの1つでクビを切られた。


虚無感よりも先に倦怠感に襲われ、
「不当だ」の一言よりも溜息が先に出た。

すべてのだるさを実感した後、強烈な虚無感が圧し掛かった。

空虚な感情から来る恐怖感に胸がざわめき、
それは憤る隙間も与えなかった。


俺が悪い。


感情を移入し、理性的な配慮を怠ったという
教師としてあるまじき様態を露呈した俺が悪い。

久しぶりに経験したキレるという行為。
それは信頼関係の構築を怠った、責任放棄だったかもしれない。


でも、学べた。

真剣に教えるとはどういうことか
真剣に信頼関係を結ぶとはどういうことか
責任を持つとはどういうことかを





とりあえず、テスト前の期間なので、この胸のざわめきをテスト勉強で忘れるとする。


2009年01月08日

悼む人

という小説を読んだ感想

備忘録を兼ねてここに書きたい。




『悼む人』とは、天童荒太という作家の最新作なのだが、彼は小説家であって文豪ではない。
美しい文章を書き、格言を残すようなことはしない。
この『悼む人』の中では不必要に人が死ぬ。


以前の俺なら、必要性のないものに対して目を向けることがなかっただろう。
だが、不必要に人が死ぬという残虐性の中に存在する人々の様々な思いは無視できるほど軽いものではないということに理解したとき、俺はこの物語の残虐性を否定する理由がないことに気づいた。


肝心の『悼む人』は、要約すれば、人の死の現場を訪ね、周囲の人々にその人のことについて聞き、その死を悼む旅を続ける男と、彼の家族(末期がんの母を中心)、えぐい記事を書くことを生業とする週刊誌の記者、夫を殺した女と係わり会うという話である。


なぜ男はそんな旅をするのか?
それを謎としつつ、各人が各人の悩みと闘う、そんな話である。


結末を知ることで価値が下がるようなものではないと思うが、読みたい、と思ってくれる人の中にはそれを好まない人もいるかもしれないのでこれ以上は内容には触れない。


ただ、彼らがそれぞれ、無関係な死を悼む者・これから死を迎える者・死を悼むことを拒絶する者・死を与えた者であり、皆が「死」をどう扱っていいか迷っていること。
それがこの作品のテーマである、これについては明確な答が出ないままで小説は終わってしまうことは書かせて欲しい。


天童荒太は『悼む人』を通して、自らの身にあまる問いに向き合い、その解答を探しあぐねて、なんとか答が見えそうだというところで力尽きているように思える。


主にその問いは「愛」についてであり、それへの極端なまでの懐疑である。


悼む人は、全くの無関係の人の死を悼むのに、周りの人々からの情報を元に、その人をある一面だけでも知ることができれば、それでよしとして記憶していく。


記者は中学生の少女と寝るときに彼女に向けてこう言った。

「(略)おまえの死を悲しむと思うか。お前を想って泣くと思うか。いいや、代りをすぐ見つけて、三日もすれば忘れるさ。」

「おまえがいまここでここで死んでも、誰も涙一つこぼさない、誰も悲しまない、惜しまない。いなくなっても忘れられちまう。(以下略)」


悼む人は当然のことながら、無関心とされた人に対しても彼の行為をやめない。
その行為は極度なまでの暴力であり、極度なまでの愛である。


天童は悼む人についての答えを出さなかった。


そのような苦闘を敢えて引き受け、絶望の中でも諦めない、そんな無器用さの残滓のような作品に俺は感動しているのだと思う。


小説だけでなく、文学、思想、音楽、映画、およそ芸術とは言えない全てのものに対しても基準はそこにあるように思える。


そして、結局の結論が甘いものであっても、そこまでの身を削った過程は、意味があったのではないかと言いたいのだ。


天童も、本作では「愛など元々執着に過ぎないが、おまえが執着しているのは自分だけだ」とまで語らせておいて、そこにはやはり執着を貫いた愛があったと言ってしまったり、逆に執着を手放すことも愛だと言ってしまう。



彼の説いた愛は俺の胸に空いた風穴を埋めることは出来なかった。
だが、天童の伝えたかった愛は確実に何かを残してくれた。


そんなどうしようもない答でも、裏切られたとも感じず、愛おしみたいと思ってしまう自分はとことん甘いのだろう。


ただ、せっかく知り合えてここまで読んでくれるような人には、やはり少しでも理解して記憶してもらうための努力は自分が惜しむべきでないと、そんなこともかんがえた。



本当にここまで、飛ばし読みでもたどり着いてくれた人には感謝している。
 

2009年01月01日

2009年を迎えて   @清水

2008年があっという間に過ぎました。
おそらく来年の今日も同じような気持ちで「2009年が過ぎた」ということでしょう。

こんなところで掲げるのも致しがたいですが、今年の目標は


「真面目に生きる。」

かな。
別に俺がチャラいとか、変態とか、真面目に生きていないというわけじゃなくて
今まで考えていた「真面目」以外にも別の「真面目」が存在すると思うに至ったからなのさ。

この前KSKと語ったとき、改めて俺が自分の作り上げた(られた)理性の下でがんじがらめになっているかを感じて、真面目であることが自分を抑圧しているんじゃねえかなと思ったりした。

文学や映画や演劇っていかに道徳や常識という理性

ロリコンでマザコンな光源氏の愛に対する誠実な姿勢。
キャピュレット家とモンタギュー家の争いを顧みず貫いたロミオとジュリエットの孤独な愛。

両方とも、現代的な「常識」の視点では非難されると思うんだけど、この中にある美しさって現代性に左右されるようなものじゃないのかなと思ったりする。

アメリカの政治学者ノージックの言説が象徴するような功利的観点ではなくて、大局的な視点をもって真面目に生きたい。

というわけで今年もよろしく!

2008年を振り返る

あけましておめでとうございます。
さっそく1日から労働をしました。

正月手当の額に負けた感じです。

2008年を振り返ろうと思ったけど、めんどうなのでダイジェストにします。


1月:

受験が終わって、図書館の片付けの手伝いをしたり、読書に明け暮れていたり…
自分の受験生活を振り返ったり、他の受験生を観察したり…
それが、今の仕事でも大いに役に立つとは…笑

2月:

全日空で客室清掃として働く。
単調な仕事に疲れてきて、大学では絶対にクリエイティブな仕事をやろうと決意する。

友人と中国へ旅に出る。
俺の中の卒業旅行はこれかな。
自分を見つめることができて、友人と語り合うことができて有意義だった。
夜中に外に出て心配も掛けてしまったけどねw

3月:

外語高校卒業式
改めて素敵な友人に恵まれたなと感謝。

入学準備…
といいつつ読書三昧のニート生活

4月:

入学式
外語から政経学部に行く人々と参加
そこから、推薦生の集いで知り合った友人と何を血迷ったかテニサーの新歓へ行く。

中国語クラスで早●田大学高等学院G組の連中にこれまでにないほどの嫌悪感を抱く。
つまり、内輪な内部組がいやになる。

5月:

フリーチベットの右翼どもが大学に来る。
このころから、俺の人間不信に拍車がかかる。

6月:

普通な日々といえるような日々
これと言った特色は…あったっちゃあった。

友人と大学の近くの大きい公園でサシで語り合う。
すると、友人がぞくぞく集まってオールすることに、気付いたら寝ていて朝を迎える。
女の子も野宿するという。早稲田クオリティー(笑)

7月:

テスト期間
フル単するも納得がいかない。
大学のテストってこんなもんかと思う。

8月:

長い長い夏休み
バイトで失敗ばかりするも毎回大切なことを学んで行けた気がした。

また読書家になる。

9月:

2週間近く友達に会わない(会えない)時期があった。
そんな中で、自分を見つめなおすことができた。

韓国へ一人旅をする。
田舎町にある歴史博物館へ行くのが大きな目的
電車の中で知り合ったおばあさんとその家族が案内してくれた。
とても有意義な旅行になった。

悲しい出来事もあった。
横浜みなとみらいで楽しんだはずの時間が一瞬で吹き飛ばされるという「一言」の強さ。
人間不信に拍車かかるよりも、空虚な気持になった。

中国に行った友人と食事会
どこかのKOボーイがブルジョワと化していたw

10月:

俺の話を聞いてくれる友人が大学にはいた。

11月:

早稲田祭を機にバンドサークルを辞める。

12月:

後輩が早稲田政経学部のAOに合格する。
大したアドバイスができなかったけど、とてもうれしい。

KSKと語る。
久しぶりに深い話をすることができたのでエクサイトした。

恩師と言えるかどうかは定かではないが、世話になった先生に挨拶しに行く。
リーダーの出来が良いグループに属すほどの英語力はなかったけど、2年から英文の推敲などでお世話になった。


ダイジェストにするといえど、長くなってしまった。
とりあえず、去年はいい年だったよ。



興信所