自己啓発

2015年03月24日

俺は、人生の目的だとか、命題だとか言ったものが割とハッキリ決まっている人間である。だから、自分の進路だとか、やりたいことがなんだかわからないだとか、そういった悩みを抱えたことが無い。

ま・・・こういったものは、自分で見つけるしかないし、しかも、見つければ幸せになれて、見つからなければ不幸になるというものでもない。故に、俺がそういう人間だということは、皆様にとって心底どうでも良い事だと思う。でも、そういうことを自由に書いていいのが匿名の個人ブログというものだ。


人生の目的、命題、欲求は、具体的にも抽象的にも言うことが出来る。
だが、一言でいえば、

「好奇心を満たす」

ということに尽きる。

「この世の全てが知りたい、理解したい、解き明かしたい」という、好奇心を満たすことだ。俺は基本的に、そこに向かって人生の舵をきっている。

手段は目的に従属する。
「好奇心を満たす」という目的を満たせるのなら、金も地位も名誉も要らないのだ。でも、金や地位や名誉があった方が色々なものを理解する機会を得られるというのなら、目的を達成する手段として、それらを求めることはしよう。


法曹を目指す理由だって、突き詰めればこの目的を達成するためだ。
考えてもみろ、法曹より職域の広い仕事が、この世に存在するか?労働、医療、教育、環境問題、政治、経営、財務、外交・・・法曹資格保有者は、どこにだってその身を置くことができる。現に、それぞれの分野で一流と言われる法曹は居る。犯罪者と、後ろめたいことなく仕事として話せる仕事なんてのも、ごく限られている。そういった点で、法曹資格は、2000近くある日本の「資格」の中でも、かなり特異な資格である。

そういった「色んな分野に飛び込み、新しい事を理解する機会を得られる」法曹資格を得ることは、目的との関係で合理的関連性のある手段である。あとは、好奇心にまかせて好きな分野に進むことだろう。

そして、好奇心を満たす「知」を生み出す、あるいは、わかりやすくして俺に伝えてくれる「人間」という存在は、当然俺からの寵愛を受けることになる。これは当然のことだ。俺は人間好きである。昔の俺とは違うのだ。


俺が一時期知財に入れ込んだのも結局、知財法制がしっかりすれば、より活発に「知」が生み出され、そしてその恩恵の一部でも俺が受けることになり、おれの好奇心を満たしてくれると期待したからである。


と言うわけで、俺の思考回路は相当シンプル・単純であり、かつ、自己満足、自己中心的である。故に、悩むということが無い。頭悪そうかな?こういった自己中心的な姿勢は、もしかしたら、ときに人に不快な思いをさせているかもしれない。なにしろ末っ子だし・・・でも、最低限、「迷惑」はかけないようには気を付けているつもりではある。

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2014年11月12日

イスラム国の話をしているとき、ルサンチマンというキーワードが話題に上がった。

ルサンチマンとは、弱者が強者に対して憎悪、怨恨、非難といった感情を抱くこと意味する哲学上の概念である。ルサンチマンといえばニーチェが有名だが、最初に提唱したのはキェルケゴールらしい。

ルサンチマンは、嫉妬や羨望を起源とする。
特徴的なのは、自己欺瞞を含んでいるということである。

ルサンチマンを持つ人というのは、本来その感情から生まれるべき「反動」、つまり行動による変革を封じられているために、想像上の復讐をすることしかできない(強者は、ごく一時的にルサンチマンを持つに至っても、行動によりこれを解消できる。しかし、弱者はルサンチマンから逃れられない。したがって、ルサンチマンを持つものは皆無力感を感じている)。この想像上の復讐、あるいは行動できないことを正当化するために、自己欺瞞におちいる。

しかるに、ルサンチマンを持つ者は、社会的に価値があるとされているものを否定するなど、反転した思想、斜に構えたものの見方をするようになる。

例えば、ニーチェは、キリスト教が、貧しいことを「善」とするのは、せめて空想の中だけでは自分たちを「善」としたいというルサンチマンの表れだと説いた。もっと砕いた例を言えば、葡萄が取れないとき、「あれは酸っぱい葡萄だ」と考えるというよりは、「葡萄を食べない生き方こそ美しい」と考えるのが、ルサンチマンの表れである。

さらに、ルサンチマンの表れの典型として、自分に無力感を感じさせる相手を「悪」とし、その反対にいる自分を正当化する考えにいたるということがある。例えば、貧しいことに無力感を感じているのなら、金持ち・資本家は「悪」と考えるに至る場合がこれにあたる。

さらにルサンチマンが拡大していくと、自分に無力感を感じさせている「世界」自体が「悪に満ちている」と考えるようになる。さらに、前述のとおりルサンチマンは「悪」にと正反対にいる自分を正当化する(優れていると考えるイデオロギーを生じさせるものであるため、「自分=善 世界=悪」という構図を個人の中に形成する。


イスラム国に向かうというのは、この状態に至った人ではないのか?

ルサンチマンを抱える者は、行動を起こせないからルサンチマンを抱えるに至る。だが、抱え込んだ者の中には、ちょっとしたきっかけで、今までため込んできたものを一気に爆発させる者が居るのかもしれない。それが、自ら紛争に向かったり、銃乱射事件を起こしてその場で射殺されるような行動に繋がっている。
ルサンチマンをため込んだ者は、強烈な無力感に苛まされている。自分が優れているという自己欺瞞を持ちつつも、自分のことが「大事にすべきもの」とも思えなくなっている。刹那的、急進的、厭世的。それが絶対報復のルサンチマン・最終形態。


ニーチェはさらに、ルサンチマンからスタートして「神は死んだ」と言いだし、ニヒリズムに至り、永劫回帰を提唱し、「力への意志」、そして「超人」論に到達した。この辺りは、高校倫理でやったっきりで大枠しか知らないが、あの辺の流れは思い出すだけで胸が熱くなるな。


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2014年07月18日

「理解できない」という、批判の仕方がある。

「何故そんなことを言うのか、理解できない。」
「何故そんなことをするのか、理解できない。」

最近で言えば、放送中止になった東京ガスのCMについて



「どうしてこれが批判されるのか、理解できない。」というコメントがされていたのを見た。


しかし、この「理解できない」という批判の仕方は、俺は、避けるべきだと考えている。それは、自分の理解力の無さか、性格の悪さ、いずれかを露呈する言葉だからだ。

まず、この東京ガスのCMについて意見を述べよう。

このCMに対する苦情というのは、簡単にまとめれば

「リアルすぎる」
「心に突き刺さる」


という苦情であり、
この苦情に対する批判は

「良い話じゃないか」
「現実に向き合え」


といったものであった様である。

俺は、確かに、このCMは良いCMだと思う。

しかし、このCMを見ると胸苦しくなる人が居るのは良くわかる。特に、このCMが放送されていたころは大手就活の真っ最中だから、就活生にとってかなりリアルなCMだったと思う。そして、昼間就活をしてボロボロになって家に帰ってきて、ちょっとテレビをつけてみたらこのCMが流れた…とかだったりすると、結構嫌な気持ちになるんだろうなぁとは思う。
そういう人に対して、「現実に向き合え」と、正面から言えるとすれば、それは相当に残酷な性格をしている。辛い現実に向き合うためには、適度に目を反らさなければならないものである。家に居る時ぐらい現実から目を背けないと、壊れてしまう。

先に述べたとおり、俺はこのCMは良いCMだと思うが…一方で、嫌な気持ちになる人が居るのは、当たり前のことだと考えている。普通に考えて(特に考え込まなくても)これは理解できる。

だが、「このCMは良いCMだ」と思うと、「そう思わない人はおかしい」「理解できない」という思考に行き着く人が、ごく少数ながら居るようである。理解できないって。どんだけ人の気持ちがわからないんだよ。


だが、俺は「理解できない」という批判の仕方をするタイプの人のことを理解しようとは努めている。
このタイプも、いくつかのグループに分けることが出来る。

グループ① 精神疾患型
人の心がわからないという精神疾患はあり、これを患っているのであれば、「理解できない」のは仕方がない事といえる。

グループ② 直情型
自分の意見と違うものが出てくると、頭に血が昇ってしまい思考が停止してしまうグループ。感情の揺れ動く幅は人によって異なり、こういう人も中にはいるだろう。

グループ③ 議論拒否型
理解はできるが、「理解する気がない」というのを「理解できない」と表現しているグループ。実際には、このグループが一番多いのではないかと思っている。


①の人は、医師の治療を受けるというのが、一番良い道だろう。
②と③は、自省する必要があると考えている。

自分の気に入らない意見を「理解できない」と突き放しては、自分の視野が広がらないのはもちろん、自分の気に入らない意見を持つ相手を説得することもできない(説得のためには、まず相手を理解することが必要不可欠のプロセスである)。正直言って、メリットは何にもない。

自分にとって都合の良いように物事を運ぶためには、まず、気に入らない意見であっても理解する必要がある。理解しなければ、適切な批判をすることはできないし、相手の意見を変えさせることもできない。現実には、理解しようと努めても結果として理解できない場合もあるのだろうが、とにかく理解しようと努めて、場合によっては相手に釈明を求めたりすることが必要だろう。

もちろん、「理解した」と思ったつもりが、ハズれていることもある。
この場合、相手に大変不快な思いをさせることになる(「理解したつもりになっているが間違っている人」というのは、人を不快にさせるものである)が、そのときはそのときで相手に訂正してもらうしかあるまい。俺自身「理解した気になってるだけだった」などということは日常生活多々あるが、それは「理解することによるメリット」を得るための必要経費としてやむを得ないものだと考えている。

とにかく、「この人は何でこんなことを言うんだろう」と思ったとき、その言葉の表面的意味をとらえるのではなく、様々な個別具体的状況を踏まえて、その人がそういうことを言わなければならなかった理由を探求することが大事だと考えている。そうすると、大体の発言には腹が立たなくなるし、より深く実りのある人間関係を築くことができる。


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2014年04月04日

「それだけの値打ち」とは、「民法案内」において我妻が残した名言である。

我妻 榮
勁草書房
2013-02-25





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時勢は移る。二度とかえってこない青春の日に、なすべきことはほかにもあろう。ただしかし、諸君が大学で法律学を学ぼうと決心した以上、在学中というやはり二度とかえがたい機会に、徹底的に法律を理解することにも、それだけの値打ちはあるのではなかろうか。朝から晩まで、法律で日を送れというのではない。諸君の毎日の生活プランのなかに法律の勉強も入れよ、そしてその勉強はこんな覚悟でやれ、というだけである。

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我妻栄とは、死後40年経った今もなおその学説が実務・学説共に対し強い影響力を持っている、日本の民法学者である。

民法案内は、その我妻栄が書いた民法の入門書だ。その第1巻「私法の道しるべ」は、内容としては「法学入門」に近い。そして、その巻末付録「私の勉強法」に記されていたのが、所謂「それだけの値打ち」と呼ばれる名文句である。

大学には、色んな事をやっている人が居る。皆向いている方向はバラバラだ。その中で、俺は法学に傾倒していったわけであるが…やはり、悩む事はあった。「こんなことやってていいのか」「他にやるべきことがあるんじゃないか?」と。まぁ、若人の悩みと言う奴である。

そんな悩める俺は、我妻栄の言葉で結構心震えるものがあったのだ。
法律学というのも、青春をかけるだけの値打ちがあるのだと。我妻はそう記す。というか、我妻栄は人生を法律に捧げてしまった人間だと自分で言っているが…笑

法学者の頂点に位する者の一人である我妻栄の言葉は重い。

我妻栄に対して俺が抱く感情を一言で言おう。


「カッコ良い」だ。


我妻栄は、努力家である。愚直に努力するタイプである。
「私の勉強法」でも触れられているが、我妻栄は自身を「要領良くできるタイプではなかった(その点は岸君とは雲泥の差である)」と評している。しかし、愚直に物凄い努力をするもんだから、他人が成しえないことを成し得てしまう。

もはや我妻栄に「才能」と呼べるものがあったか無かったかなんて関係ない。
才能の有無などどうでも良くなるぐらいの努力。
そういう事が出来るのは、超一流の必須条件だろう。どの分野においても。

そんな超一流である我妻栄は、学者と実務家志望という違いは有るけれども、同じ法学徒として俺は憧れるし、カッコ良いと思ってしまうのだ。

特に10代のうちは、努力せず結果を出すのがスマートでカッコ良いと思われる風潮がある。だが、俺は同じ結果を出しているなら努力している人の方がずっと魅力的に見える。そこには「意思の強さ」という、人間にとって大切なものがあるからだ。


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