2011年02月

2011年02月27日

映画小姑!

「あした」が見えないなあ……。


実写版「あしたのジョー」を見てそう思ってしまいました。

いや、彼らは「今」を生きているのだ。

ということなのかな?

それはそれでかっこいい。

昔の主題歌に「あしたはどっちだ?」とあったから、

見えなくて当たり前なのかな?


でも……



なんだか、ちょっと気にかかる。


なので。

いったい何が気にかかるのかを勝手に考えてみました。



俳優たちはすばらしかったです。

この作品のために、肉体改造して、トレーニングして、

瞬間瞬間、完全燃焼していたと思います。

あの映画の中で求められていることは、

すべてやり遂げたと思います。

トレビアン!


そう。

だからこそ、もどかしかったのかもしれません。


もっともっとこの俳優たちを輝かせることができたのではないだろうか、と。

「今」を超えて、見えない「あした」までーー。



つまり、

俳優の問題では全くなく演出の問題なのです。

俳優たちがキレイに画面にハマり過ぎているということなのです。


矢吹丈という存在は、

今、ここから、どんどんはみ出していく存在だから

ヒーロー足り得るんじゃないのかなと思うんですが、どうでしょうか?


アニメの「ジョー」で丹下段平が

「戦闘マシーン」にならないといけない、というようなことを

言っていたので、

そういう戦闘マシーンとしての存在を描きたかったのかなあ。

いや、いや。

その己を戦闘マシーンにしながら、

なおもそこから想像を超えた何かを出してくる。

その、底抜けのエネルギーこそが「あしたのジョー」の

エンターテインメント性だと思うんですよね。


作り手は、俳優を信じてもっともっと攻めるべきだった。


え、あんなに体重落として苦しそうだったのに?
無理でしょう?

ですよねえ。

酷でした。

そこで、それはやめておいて、では、

彼らを取り巻く環境にひと工夫してみたらどうだったでしょうか?


例えば、ドヤ街です。


ドヤ街というどん詰まりに暮らしていて、ここから出たいけど出られないと思っている人たちの

希望の星がジョー。

彼だけが涙橋を渡って外へと行ける可能性を持っているのです。

ですから、

ドヤ街や少年鑑別所などをもっともっといたたまれない場所に描くことで、

「出たい!」という気持ち、もしくは「どうせ出れない」という諦めなど、

負の気持ちが沸いてくる。

その大事な装置であるドヤ街は、

スタッフががんばってロケセットを作り込んでいたのは、

すばらしいです。

でも、精巧な作り物の域を出てなくて、

そこに暮らしている人の、どん底の生活感が希薄に感じました。



「ピンポン」には熱狂させられましたし、

曽利文彦監督はある面では極めて優秀なクリエーターだと思っています。

でも常にある面を放棄しているようにも思います。

それは、その生活感です。

とても紳士的な方で、

貧しさや汚さをエンタメにすることを好まないのかもしれませんね。


「ICHI」の時も、

ヒロインのバックボーンを絵として描くことを省略していました。

そのため、

なんでイチはこういう生活を送らざるを得ないのか?

っていうところが、

情報としてはわかりますが、体に響いてこなかった。


「あしたのジョー」も同じでした。


でも、

人はなぜ闘うのか、ということを省略して、

アクション表現の痛快さと、

闘いの後に得られる友情や愛というものばかりを追求していっても、

その先(あした)はないと私は思います。


映像技術で物語は作れない。

語りたいことがあるから表現技術が進化すると思うので。



今「あしたのジョー」を映画にするなら、

今、この閉塞した状況(日本)から、出たいともがいている人たちの
気持ちを代弁する覚悟をもってほしかった。

だから画面の中でそれ(閉塞した状況)をまずしっかり描いてほしかった。


それが、今でじゃリアルじゃないドヤ街じゃなくてもいいわけです。

現代に通じる閉塞感に代えてみても良かったと思います。


今、見たいのは、

この役、やりきったぞ!という達成感よりも、

こんな過酷な状況認めない、突破するぞ! という気迫。


それが、ボクシングの試合に集約されるのではないでしょうか。


それでもあえて、原作リスペクトで70年代を描くのなら、

やっぱりその時代の生活者のリアルに向き合ってほしかった。


そんなふうにジリジリして見ていたのですが、

丹下段平にはジョーと出会って生きる希望を見い出したという感情を

感じました。

丹下段平にとっては、ジョーは「あした」だったのだよなあ。

そういうことをきちんと表現している香川照之という俳優が、

たったひとりいたからこそ、

この映画はもっとできたはず、と思ってしまったのかもしれません。


それは希望でもありました。

まだ可能性はある。



優秀なクリエイターや俳優の「あした」のためにも
どんな作品を選ぶか、ということも重要な問題だと思いました。



















2011年02月21日

壮大なる同窓会?

仕事が終らないので

ブログとツイッター断ちしています。

調べものと仕事のメール以外、
ネットを禁じています。

だいぶ時間を有効利用できてるんじゃないかと思います。

そんな中、

「蜷川幸雄さんの文化勲章受章を祝う会」に出席させて頂きました。

ものすごいたくさんの人たちが来ていて、圧倒されました。

熱気がすごい。

蜷川さんと演劇を作ってきた人たち というカテゴリーの中、
いろんな時代をそれぞれ共に過ごした人たちが顔を合わせて、
しばし語り合っている。

私がお世話になった人たちにもたくさん会いました。

あの日、あの時、あの場所に。
というのがまざまざ浮かび上がりました。

みんなニコニコしてて、

いろんな人の挨拶もすごく気が利いていて楽しくて。

主役の人柄だよなあ。

華やかな俳優さんや文化人が挨拶した
最後に、
長い間、コツコツと現場で働いている
演出部のスタッフが壇上に登場して、締めたのもステキだ。


こういうリーダーだから、
共に働きたいと思うのだ。
力を尽くしたいと思うのだ。


時代が変わってきて、

出版社が疲弊してきて、

ライターという仕事の価値は
今大暴落していると思う。

ギャラとか待遇もどんどん悪くなってる。
媒体も減っている。

でも、その変化の状態を知っててライターを使うのと、
知らずに、そういうもんだと思ってライターを使うのとは
大きく違う。


我々ライターも、そんな時こそ
いい仕事をして、生き残らないといけないのだけど、

人を雇う人間は、
自分のために人が動くとはどういうことなのか、
それをちゃんと認識してほしいと思う。


私は、なるべく、声に出していきたい。
それは、自分のためだけじゃない。

ライターという仕事の価値を守るため。


この良き会に参加させて頂いたことへ
感謝して。










2011年02月11日

演劇小姑!

私のツイッターのTL でとても評判がいいので
時間をやりくりしてチケットを購入し、
葛河思潮社「浮標」を見た。

まずはKAATで上演され、その後、吉祥寺シアターに移動してきたものなのでだいぶ熟成されていたであろう。

40年に、三好十郎が発表した戯曲を、
長塚圭史さんが現代劇ととらえて演出した。

長台詞がとても多く、
それを聞いていると作家の思いがとてもよくわかる。

論戦劇みたいところもあって、
妻の死という不条理に苦しむ画家と、
あくまで医学という科学的な見地でものごとを考える医者との
やりとりなどは、非常にスリリングでおもしろい。

ただ、全体的に、
戯曲の強さだけが際立ってしまい、
舞台上の人間が生ききれず、
台詞に支配されているように感じてもどかしい。

長い台詞をその人間がお腹の底から言ってないように
思える。
長い上演時間(休憩入れて四時間!)も手伝い、
徐々に台詞を聞いてるだけで良くなって行く。
でも台詞がいいから耐えられる。

病の妻を看病している画家を演じる田中哲司さんが、
タフでクールな印象が拭えず、
葛藤する芸術家に見えない。
演出家は、田中さんのイメージを変えたい、
何にも動じない彼をボロボロに崩してみたかったのかもしれない。
田中さんっておもしろい。
こんなに感情がとぐろを巻いてるような男の役なのに、
結構ストレートに淡々として見えるのだ。
長台詞に苦戦してるのかもしれないけど、
弱みは決して見せないように、
ハキハキと台詞を吐き出していく。

野田秀樹さんが
『ザ・キャラクター』で、
田中さんに、ある教団の新しい教祖になる若者役を
やらせた視点に、ここへ来て合点がいった。

現代性があるのだと思う。
何を考えてるのか底知れない感じがするのだ。

「SPEC」の未来が見える男の役も抜群に良かった。

ご本人は、芝居熱心で才能も高い俳優だと思うが、
この舞台で彼が演じた役を見てると、
タフで、
ある意味鈍感な
(裏を返せば繊細なのだけどそれを見せない)
人間が、
生き続けていくんだなあ……というような、
なんとも言えない気持ちになった。

うーん、これうまく表せていないけども、
要するに、そういうやりきれない話なのだ。


また、
医者をやった長塚さんが、
また医者の専門用語を話すとき、滑舌が悪く、
言葉がよくわからない。
もちろん、医者だってハキハキしないひともいるでしょう。
とは言っても、
患者の家族の感情はわかりつつも、
現実的な回答をするお医者さんには見えなくて。
何だかとても揺らいでいる人のように見えてしまう。

医者を田中さんがやって、
作家である長塚さんこそ、画家の役をやったら懊悩が表現できたのじゃないだろうか。

この違和感。。。
あまりに明確だということは、
あえての挑戦だったのかもしれない。

長塚さんも才能のある方だから、
当たり前の表現に抗っていたのかもしれない。

俳優たちは、
神様の作った人間として、
神様の作った運命に翻弄されているといことだったのかもしれない。

舞台上には砂が敷いてあって、
ある時は、家の中、
ある時は、浜辺に見立てられる。

そこは、俳優たちが歩くたびに、形を変えていく。
最後、誰もいなくなった時に、
たくさんの足跡が残っていて、
歴史とか人間の生とかを感じて、
余韻があった。

この砂絵を描くために、
俳優たちを動かしていたのであれば、
それはそれで意味深いことである。

そして、切実な思いを描いた戯曲を
現代に伝えてくれたことにも充分意義はある。











2011年02月08日

テレビ小姑!

「大切なことはすべて君が教えてくれた」(CX )を見た。

女子生徒と関係を持ってしまったことが
クラスの子たちに知られてしまい、
みんなに責められる若い先生。

なんか、とっても恐ろしい状況なのですが
(そんなに簡単に、カミングアウトしなくても。。。と思うが
そこはドラマだ)

責める生徒たちが、女子生徒や先生の婚約者に同情し、
涙している様が、なんとも新鮮に思えた。

先生が聖職者じゃない。という意外な視点?
石原都知事への賛同?

もう長いこと、おそるべき子供たちが描かれてきた。
ヒットした映画「告白」も、子供たちに罪はないという考えや、
子供への刑は軽いってことに対して、
疑問を投げかけていた。

しかし、このドラマの子供たちは、
ある意味、全うな反応なのだ。

若者は草食系が増えて、
恋愛にも熱心じゃないというから、
生徒と先生の不倫なんてもってのほか、なのかも。

一回りしたなあという感じ?

これからどうなるのか、楽しみです。

学校ドラマは、ドラマを見てる生徒たちの心を捉えるべきと思う。

「スクール!!」(CX)は、明らかに、
正しい先生っていいよね。
という大人の目線で描かれているから、もったいない。

「熱中時代」も「金八先生」も、
子供が見て翌日話題にしてたはず。

カリスマ先生で育った人が大人になって
自分達が見たいものを作ってしまっているので
子供がついていけない。

日曜の九時なんて、
家族で見ることができる時間じゃないですか。
「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」とあって、
昔は7時台もアニメだった。
子供の黄金の時間だったのだ。

生徒のキャラが立っていて
子供の目線の問題を描き、
それを子供と一緒になって悩む先生だから
ヒーローになったわけで。

そういう意味では
「大切なことはすべて君が教えてくれた」のほうが
学園ものとして意義があるのかもしれないと思えてきました。



さて、
ドラマの話でなく、
NHK のお話。
「芸術劇場」など、演劇の舞台中継番組がなくなるそうで、
演劇に関わる人たちが激しく動揺しています。
私も、ついこの間、
見そびれた「摂州合邦辻」を見ることができるという
恩恵を受けたばかりだったので
残念な気持ちにはなった。

でも、騒いでる人たちは
ふだんNHKを見ているのだろうか?
公共料金払っているのだろうか?
「NHK見てません」とか言って集金の人を追い返している人は
いないのだろうか?
演劇関係の人は、みんなちゃんとしてたらすみません。

それはまあ冗談なのですが、

NHKという存在を抜本的にこの機会に考えてみるといいようにも思うんです。

そもそも、地デジになったらテレビの存在はどうなるの不安定な状況です。

最近は、WOWOWがたくさん人気演劇を放送しています。

ゲキ×シネなんてものも出てきたし、
昔と状況は大きく変わってきている。

ユーストで舞台中継は有効かはちょっとわからないけど。。。

NHKがもつ貴重なアーカイブの行方が気になるという意見も聞くが、
それについての考えを、NHKにまず問い合わせる人はいないのだろうか。

アーカイブがもったいないから、
署名して放送続行を嘆願するっていっても
そんなアーカイブ、再放送はこれまでも滅多にされてないですよね。

こないだ、爆笑問題の番組に野田秀樹さんが出たとき、
白石加代子さんが出演した「三人姉妹」の貴重な映像が流れ、
これはすげえ、と思ったけど。

アーカイブをどっかで引き受けるとか、
そういうことを考えたほうが、
良いような気がしました。

まさか、
エジプトの反体制運動がネットで盛り上がったことに、
影響されて、我々も立ち上がろうって感じじゃないですよね。

もちろん、小さなことから発展していくものではるけども、
それとこれとは大きく違う。

東京都青少年健全育成条例改正問題のことで、
出版社が、アニメフェア参加ボイコット、新たなアニメフェア開催しましたが、
それくらいのインパクトのある行動を起こさないと
世の中に注目されないでしょう。

運動って問題点を広く知らせることでしょう?

演劇村の人たちが演劇番組が必要だって主張して、
万が一、存続したところで、何も変わらない。

演劇好きな人が見て楽しむだけだ。

ええ、確かに、地方の人や演劇を知らない人が
偶然見て、演劇に興味を持つという出会いもあることはわかるのです。

だからこそ、
演劇番組が、演劇が、
どれだけ日本社会に大事なのかを
わからせることが大事なのではないのかなあ。

演劇村からちょっとはみ出してしまっている私には
そう思えるのですけど、
中に入ると、夢中になってしまうものなのでしょうかね。


誰か、教えてくれないかな。