科学は万能か?―地震予知に絡めて―

熊本地震に関連して地震予知に関する議論がまた盛んになりつつあるようである。このような傾向は大地震が起こるたびに見られることである。この問題に関して、科学が発達すれば地震が予知できるようになると考える人が世の中に結構いるが、それは根本的に間違っている。

物質界で起こる現象は物理学の法則に従う。物理学の法則は物質の可能な運動や変化を規定するものであり、物質の運動や変化はその法則の枠内でしか起こらない。従って、物理学の法則がすべて分かるということは、物理法則の枠内で起り得ることが何かが明らかになるだけであり、それによって何でも可能になる―万能性が手に入る―訳ではない。科学技術が人類に役に立つためには、その技術で意図したことが現実に起こらなければならない。従って、物理法則に反した「科学技術」は用をなさない。物理法則の有用性はまさにこの点にある。

前段では物理学の法則を物質の可能な運動や変化を規定するものとしたが、その運動や変化が一義的に決まるとは限らない。時間的変化が一義的であるような現象は決定論的現象と呼ばれる。残念ながら、すべての物理現象が決定論的ではないのである。その理由は、物質が原子や電子のようなミクロの粒子から構成され、ミクロの粒子が従う運動法則である量子力学が決定論的でないからである。

ところで、日食が地球のどこでいつどのように発生するかについては極めて精確に予知することができる。また、人工衛星を目標の軌道に打ち上げることもかなりの精度で行うことができる。このことは、物理現象が決定論的でないとしても、問題によっては決定論に近い予知をすることができることを意味する。量子力学が非決定論的であるのにも拘わらず、マクロな物質―人間が直接感知できる時間・空間スケールでみた物質―は量子力学的非決定性の影響を受けにくいのである。そのため、マクロな物質はニュートン力学のような決定論的運動方程式に従うとしてよい。

前段の議論にも拘わらず、マクロな物質はそのマクロ性により新たな非決定性に直面しなければならない。その理由は、マクロな物質が莫大な数のミクロの粒子の集合体であることによる。莫大な数とはアボガドロ数に代表され、10^{24}のオーダーとなる。決定論的運動方程式の場合、この点がネックとなる。すなわち、決定論的運動方程式は、初期条件が精密に与えられた場合に、系の未来が精密に決定できることを保証する。ところが、我々はマクロな物質を構成するすべてのミクロの粒子のある瞬間における状態―位置と速度―の情報を持ち合わせていない。我々が持ち得るのは統計的情報―数密度分布や速度分布など―である。その結果、マクロな物質の状態変化に関しては統計的予言(=確率的予言)にならざるを得ない。

そうは言っても、流体や弾性体のようないわゆる連続体の場合には流体力学や弾性体力学のような決定論的運動方程式を用いて扱うことができる。このうち、流体力学について言えば、マイルドな初期条件の場合、決定論的な予言が可能となる。しかしながら、流体力学の運動方程式は本質的に非線形であり、その結果乱流現象などが発生する。この現象は非線形性に内在するカオス現象に由来する。さらに、マクロ物質に含まれるミクロな統計性により、ミクロな揺らぎが増幅され、マクロな不確定性として現象する。そのため、流体の乱流現象は統計的に扱わなければならない。

弾性体力学の場合、線形理論が適用できるようなマイルドな条件における現象を扱う限り、決定論的とすることができる。ところが、変形が大きく、非線形弾性論が必要となる場合には事情が異なる。その典型は破壊現象である。破壊現象は流体力学における乱流現象に対応し、ミクロの不確定性がマクロな不確定性まで増幅される。すなわち、破壊現象は本質的に非決定論的である。地震は地殻の破壊現象であり、当然非決定論的である。

前段の議論は、マクロには一様な物質―弾性体―を念頭にしたものである。ところが地震の際の破壊現象はこのようなものではなく、断層と呼ばれる元々破壊されていた部分のすべりによって生ずる。従って、地震は摩擦現象に含められる。摩擦現象にもミクロの不確定性がマクロな不確定性まで増幅されるような機構が内在する。そのため、現象の非決定性は変わらない。従って、地震については確率的予知以上のことは原理的に不可能なのである。

先の議論では、マクロな物質の振る舞いにおける非決定性が系の初期条件に関する知識(情報)の不足に起因することを述べた。地震予知にはこの種の問題も内在する。すなわち、地震は断層の再破壊によって生ずるのであるが、我々には知りたい地域における活断層の詳細な構造を持ち合わせていない。活断層の構造は、地質学的な観察、ボーリング、人工地震、微小地震の震源分布などから推定されるが、通例極めて不完全である。地震の確率的予知にはこの種の原因による不確定性によっても強く制約される。

あとがき

本記事を書き上げてから破壊現象と確率の問題についてWeb検索したところ、早川美徳教授による「衝撃破壊の統計則 (WEB版) 」を見つけることができた。


 


 

STAP細胞、陰謀論、「意識高い系」

小保方氏が「あの日」を出版して以来、「STAP細胞事件」に関する議論が再び活発化している。STAP細胞問題が科学的には完全に決着しているのにも拘わらず、何故このようなことが続くのかは興味のある社会現象と言える。昨日あるウェブサイトでこの風潮を批判するブログが公表された。そのブログに対しては私もその記事を支持する立場からのコメントを書いた。ところが、この記事を批判するコメントも少なからず書き込まれている。本稿では、先に触れた私のコメントを敷衍する。

まず、私のコメントからの抜粋を以下に記す:

「小保方氏のSTAP細胞が科学的真実であれば、ノーベル賞疑いなしの大発見である。研究者の世界では大発見を目指して熾烈な競争がなされている。STAP細胞が真実である可能性があるのであれば、そのような研究テーマが放って置かれることはあり得ない。STAP細胞が論文として発表されてから2年以上経過したが、未だに再現実験に成功した報告はない。従って、STAP細胞が科学的真実である可能性は限りなくゼロに近いと言える。この意味で、STAP細胞問題を科学の問題とした場合、完全に決着したと言っても過言ではない。」

これがSTAP細胞に対する私の基本的立場である。

 次に、STAP細胞あるいは小保方氏を擁護する立場の人達の論拠として大きなポイントとなっていることから2点を取り上げて批判する。まず、笹井氏の自殺について取り上げる。笹井氏がNature論文を書いている段階で、氏がSTAP細胞の存在に確信していたとは思えないが、真実である可能性は低くないと認識していたと推定される。ところが、この論文に対する疑惑が提出された後程なくしてSTAP細胞が捏造であることを氏が確信したことも疑いない。2,0144月の氏の記者会見はそのことを取り繕うとする足掻きであった。氏が何故STAP細胞を信じたかと言えば、若山教授がSTAP細胞からキメラ細胞を作製したとされていたことと氏の若山教授への信頼によるのだろう。しかしながら、それを言い出したとしても笹井氏の研究者としての名誉は回復できないし笹井氏の自尊心を保つこともできない。私が笹井氏の立場にいたと仮定した場合でも、自殺は避けられなかったと考える。笹井氏の自殺を理由として氏や小保方氏に対する行き過ぎたバッシングがあったとする主張は中らない。

 次に、若山教授犯人説について取り上げる。これについては、STAP細胞をES細胞にすり替えてキメラ細胞を作製して捏造論文を発表した場合に、若山氏に何の得があるかを考えればよい。捏造論文は2つの種類に分けることができるだろう。ひとつは、研究能力が低い研究者が出版論文の数を水増しする目的で行うものである。このような論文はマイナーなジャーナルで出版され注目度も低いので、捏造はばれ難い。若山氏にこの種の捏造論文を発表する動機がないことは明らかである。第2番目は「歴史的捏造論文」型のものである。この型の論文はセンセーショナルな研究として出されるのでばれる可能性が高い。また、この型の論文は1人の研究者あるいは研究グループのボスが主導するものであり、今回のように笹井氏や丹羽氏など若山氏と同等以上の有力研究者を巻き込んで行うことは極めてリスクが高い。若山氏が愚者であるか大悪人でない限り、捏造と知りつつSTAP細胞のような論文を書くとは信じられない。やはり小保方氏に渡された「STAP細胞」からキメラ細胞が作成できたと信じていた可能性が極めて高い。STAP細胞問題では、STAP細胞をES細胞にすり替えたのが誰かについて調査委員会が明確にできなかった結果、小保方氏犯人説や若山氏犯人説が取り沙汰されている。私の心証では小保方氏犯人説が一番自然に思われるが断定することはできない。いずれにせよ、「犯人」探しとSTAP細胞が存在するかどうかとは別問題である。

以上の状況認識で考えた場合、小保方氏の擁護者が驚くほど多いことは理解に苦しむ。その理由としては次のようなことが考えられる。一番大きいのは、小保方氏がある種のカリスマ性を持っている点であろう。本人の風貌、一時的に寵児なったときの立居振舞、形勢が不利になってからの対応の仕方(弁護士を通した発信の内容)などの中に多くの人達を虜にする要素があるのであろう。これまで捏造やそれに類する行為によってやり玉に挙がった日本人は、学者、考古学愛好家、「作曲家」など沢山いたが、それらはすべて男性であり、小保方氏が持っていたようなカリスマ性は持っていなかった。

第2の理由は、「意識高い系」の人たちが世の中に沢山いることである。彼らは自分が信じたい情報をマスメディア以外から仕入れてくる。ウェブサイト、雑誌、書籍などがその情報源である。そして、マスメディアの主流の見方や通説とは異なった「真実」を発見したと確信する。マスメディアの報道が偏っていたり間違っていることがあることは事実である。だが、マスメディアの通説とは逆の主張が正しいとは限らない。見方によっては、マスメディア以外の情報源の平均的質はマスメディアの報道の平均値よりも低いと言える。特に、陰謀説は圧倒的に前者の情報源に多い。「意識高い系」の人たちはメディアリテラシーが高いと自認しているようであるが、実は逆であることが多い。彼らは無意識的に意識が高いことを目的化しているので、その目が曇るのである。「意識高い系」の人たちは権力や権威を批判することも意識が高いことの根拠となると考えている節がある。すなわち、反権威を目的化しているのである。科学者のコミュニティーの中では、STAP細胞問題は決着している。だが、「科学の悪しき体制が小保方氏を不当にいじめている」との見方が彼らを酔わせるのであろう。

追記(4月12日)
 小保方氏の「あの日」をアマゾンで検索すると今日現在で700件を超す数のレヴューが投稿されていることが分かる。このことは、本のレヴューとして異常である。

科学論文は他の人の論文と比較して独創性が低い場合出版されないのが通例である。このことは、文筆家の原稿や芸術家(デザイナーなども含める)の作品についても同様である。本のレヴューについても、その本を読もうかどうかを判断する情報としての意味を持つものなので、他のレヴューと大差ないものは投稿すべきでない。少なくともまともな知性と倫理を備えた読書家ならそのような姿勢を貫くだろう。そのような姿勢でレヴューが投稿された場合、好意的レヴューおよび否定的レヴューのそれぞれに分けて10~20件程度づつあれば十分であろう。

「あの日」に対する700件余のレヴューを私は読んでいない。しかしながら、それらのレヴューの質の平均値が極めて低いものになるであろうことは断言してよい。レヴューの数がこれほど多いことは、恐らくその大部分がファン投票的な支持あるいは信仰告白的な賛美となっているのであろう。

 

重力子のサイズとは?

 LIGOによる重力波検出に関連した前回の記事において重力子のサイズについて言及した。しかしながら、この問題はそれ程単純な問題ではない。そのため、私の記述に対して誤解が生まれるかも知れない。そこで、今回はこの問題について敷衍する。

 重力子は量子論的な粒子であるが、まず古典論的な物体のサイズの問題から議論する。具体例として地球のサイズの問題を取り上げる。この場合、大気は無視して、岩石(固体地球)と海水だけで地球の大きさを定義するのが通例である。しかしながら、山脈などを考慮すると、地表は凸凹である。そのため、重力ポテンシャルを考慮したジオイド面で考えるのがより合理的とされる。それでも、地球の表面の複雑な凸凹は依然として残る。そこで、回転楕円体の中でジオイド面に最も近いものをもって「地球の形状」と考えることが多い。しかしながら、問題によっては10km程度の厚さの地球大気を含めて地球のサイズとすべき理由がある。さらに太陽や宇宙から飛んでくる荷電粒子(陽子など)から見た場合、プラズマ圏(磁気圏)も考慮して地球のサイズを決めるのが合理的となる。また、宇宙空間の物体と地球の間の万有引力を考えた場合、地球のサイズはもっと大きく見積もるべきことになる。残念ながら、万有引力は逆2乗で無限遠まで働くので、地球のサイズをどの距離で引くべきかの根拠は存在しない。この例に限らず、物体のサイズは定義に依存するのである。

 次に、原子のサイズについて考える。この場合、原子を取り巻く電子雲のサイズを原子のサイズとすることが合理的である。厳密に言えば電子雲の裾は無限遠まで拡がっているが、それを適当にカットオフすれば、原子の凝縮状態(例えば液体アルゴン)や原子間の衝突現象を合理的に解釈できるような原子サイズを決めることができる。

 3番目として、素粒子のサイズについて議論する。この場合、素粒子が静止質量を持つ場合と持たない場合に分けて考えなければならない。まず、静止質量を持つ場合、静止した素粒子に対して他の素粒子を衝突させた場合の「散乱断面積」を下に素粒子のサイズを決めるのが合理的である(註)。この場合、対象とする素粒子―ターゲット素粒子―とサイズを測るためにぶつけられる素粒子―プローブ素粒子―との間の相互作用の種類が重要になる。すなわち、相互作用の種類によって、「強い相互作用半径」、「電磁的相互作用半径」、「弱い相互作用半径」さらには「重力相互作用半径」の少なくとも4種類のサイズを考えなければならない。また、「散乱断面積」はプローブ素粒子のサイズにも依存するので、ターゲット素粒子のサイズを決めるのは簡単でない。さらに、散乱断面積はプローブ素粒子のエネルギーにも依存するので、素粒子のサイズはエネルギー依存性を持つと考えなければならない。

 4番目として、静止質量がゼロの素粒子のサイズについて議論する。具体的には光子と重力子である。このような素粒子は静止させることができない。従って、「プローブ素粒子」を止めておいて逆に「ターゲット素粒子」をそれに対してぶつけなければならない。ここで、「ターゲット素粒子」はゼロ質量の素粒子を意味する。光子の場合は「電磁的相互作用半径」だけが問題になる。ところが、散乱断面積を光子の半径と「プローブ素粒子」の半径に切り分けることは簡単ではない。

 ここで、原子のサイズの問題に戻る。先の議論では原子間の衝突現象が合理的に説明できるような原子サイズが定義できることを注意したが、原子の「電磁的相互作用半径」や「重力相互作用半径」も定義することができる。ところが、例えば、「電磁的相互作用半径」の測定の場合、散乱断面積はプローブ光子のエネルギー(あるいは波長)に強く依存する。特に、ガンマ線などの高エネルギー光子をプローブ光子とした場合、原子の「電磁的相互作用半径」は通常の意味での原子半径と比較して何桁も小さな値となる。すなわち、原子のサイズは原子を見る手段によって大幅に異なって見えることになる。

 最後となるが、重力相互作用の問題について議論する。重力子の場合、問題になるのは重力相互作用だけである。重力相互作用が極めて弱い相互作用であるために、通常の素粒子や原子の「重力相互作用半径」は途轍もなく小さな値となる。重力子のサイズ自体についても同様である。この結果は、前回の議論と真逆と言える。それではどちらが正しいのであろうか?実はどちらも正しいのである。そして、前回の『それらの重力子が「本当に」人体を貫いた訳ではない』とする言明は依然として正しいのである。前回の議論と今回の議論の違いは問題にしている重力波の波長の違いに起因する。

 

註:正確にはいわゆる重心系における散乱断面積を用いる。ここで、重心系とは2個の粒子の運動量の和―全運動量―がゼロとなるような座標系を意味する。

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