トンガの海底噴火に伴う津波について

今回のトンガの海底噴火に伴う津波に関する予報を気象庁は大きく外した。噴火は昨日の午後1時過ぎであった。最初の予報では観測にかかる程度の津波は来るが災害を発生するような大規模な津波は来ないとのことであった。ところが、昨晩日が変わる直前に奄美大島で1m超の津波が突然観測された。それを受けて気象庁は本日午前零時15分に津波警報を発令した。完全に後付けの発令である。

 

津波は通例海洋部の地底で発生した地震によって数十キロメートルのスケールで海底が隆起/沈降した際に発生する。従って、津波を扱う学問分野は地震学である。ところが、今回の津波は海底火山の噴火に伴うものである。火山噴火は地震学とは別に火山学と呼ばれる学問分野で扱われる。火山噴火に伴う津波の多くは海岸付近にある火山の噴火によって大量の土砂が海岸に落下した際に生じたものである。このような津波は局所的には大きな被害が生ずるが、千キロを超える遠方の海岸に大きな被害を及ぼすような津波は生じない。ところが、今回は海底火山である。火山の噴火によっても地面の瞬間的な隆起/沈降は起こるがその空間的規模は数キロメートル以下と思われる。この場合、隆起/沈降の大きさにもよるが、大きな津波は発生しない。従って、今回の津波は海底の瞬間的な隆起/沈降に起因するものでは無さそうである。考えられるのは、海底火山の噴火によって大量の海水が火口近辺から排除され、それが原因となって津波が発生したということである。このような津波は火山学者と海洋学者の間の共同研究の対象と言えるだろう。

 

昨日の大規模火山噴火の後に火山学者や海洋学者から大規模津波の警告が出されることは聴いていない。私は物理学者であるが、今回の津波に関しては地震学者、火山学者および海洋学者が私と equal footing と考えていいのではないかと考えている。今回の津波に関して気象庁の報道官の説明はしどろもどろであった。我が国における津波の管轄は気象庁なので、今回も対応せざるを得なかった。気の毒な気がした。先ほど一部の地方では津波警報が津波注意報に切り替えられたが、これも後付けである。勿論、そのことで気象庁を責めることはできない。

2022年1月16日午前9時

「人種」とは

アメリカにおける警察官の黒人殺害事件を契機として「人種」問題が世界的に注目されている。これに関係して『「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」という重要な考え方』とする論考が『遺伝学では「人種」は否定されている』と題する副題とともに発表されている。著者は磯直樹氏である。私はこれを読んで驚愕した。著者は社会学を専門としているとのことであるが、文系学者の一部に見られる極めて非科学的な論考と言わざるを得ない。

 日本語としての人種について私が「人種」と括弧つきで表したのは、人種が多様な意味を持つからである。「人種」については、少なくとも生物学(遺伝学・人類学)、社会学および国語の3個の分野の文脈で考えなければならない。

 まず、生物学的意味での人種について議論する。地球上には極めて多様な生物が生息しておりそれらを把握するためにはそれらを分類しなければならない。もしも何らかの分類をしなければ、例えば、我々が「犬」と呼んでいる生物について言えば、個体ごとに別物として扱わなければならない。これでは、生物に関して他人に何らかの情報を伝えることが不可能となる。ある対象の分類とは、その対象をツリー(グラフ論における)状の構造の中に位置づけることである。生物学的意味での種とは生物の分類学におけるツリー(系統樹)のひとつのノードに対する用語として用いられている。ところが、種の定義として必ずしも万人が納得するようなものは存在しない。それでも、現生人類がすべてヒトと呼ばれる同一の種に属するとすることについては異論がなさそうである。しかしながら、遺伝学的に見た場合、ヒトはツリーのノードのひとつに過ぎず、その先にもツリーは枝分かれする。従って、ヒトと言ってもそれをさらに分類することは科学的に意味のあることである。この意味での区別については仮に「亜種」と呼ぶことにする。「亜種」については生物学的にそれなりの定義があるようであるが、そのことは本論考の本筋とは関係しないので深入りしない。

 次に、国語(言語)としての種について議論する。国語における単語の意味は歴史的に形成され、かつ時代とともに変化し得るものである。従って、ある時代におけるその単語の意味はその時代に生きている人達の「多数決」で決まると言っても過言ではない。このことは国語学の常識である。当然、単語の意味は絶対的なものではない。また、国語における「人種」は生物学上の「人種」とは無関係ではないがそれとは独立である。従って、誰かが「人種」と言う単語を使用したときに、それが生物学上の「人種」と一致しないとしても不思議なことではない。すなわち、そのことをもって、それが国語学的に誤りだと非難することはできない。国語における「人種」が前段で述べた「亜種」を意味するとすれば、生物学的に見ても誤りではないことになる。

 私は社会学には疎いので、社会学的意味での「人種」については論究しない。

 再び、国語における「人種」に戻る。この意味での「人種」の場合、人類(生物学的にはヒト)は白人(コーカソイド)、モンゴロイド、黒人に大別される。実を言えば、「黒人」は肌の色の濃度がある基準以上に黒い人達を呼ぶ総称であり、その中には遺伝学的に言って白人とモンゴロイドの距離程も離れた人たちが含まれている。いずれにせよ、「人種」によって肌の色の違いだけでなく顔貌や体格の違いがあることは明確である。また、これらの違いが生得的(遺伝的)なものであり、環境によるものでないことも疑いない。特に、顔貌の違いは肌色の違いとともに人間が「人種」を区別する上で重要な情報となっている。体格の違いとも関係するが、「人種」によって運動能力の違いがあることも間違いなさそうである。体格の違いや運動能力の違いを「人種」に絡めて議論しても人種差別として非難されることは通例ない。私の認識では、音楽的才能にも「人種」間で差があるのではないかと疑っている。しかしながら、この点に関しても「人種差別問題」はなさそうである。

 問題は、知能が「人種」によって差があるか否かである。これは極めてデリケートな問題である。そのために、それに関する科学的研究は殆どなされていない。恐らくタブーとなっているのであろう。私は、知能が「人種」によって差があるかどうかについて明確な意見を持っていない。しかしながら、知能が「人種」によって差があることを示唆する事実は存在すると考えている。それがどうであろうとも、人種差別をしてはいけないとする倫理については、私は強く同意する。このような倫理は人類が共存して行くために必要な宗教に属するものであり、生物学あるいは科学の問題ではない。

 このように、「人種」については様々な側面から論じなければならない。生物学的な種としての「人種」を金科玉条として論じても問題を混乱させるだけであり、「人種差別問題」の解決にマイナスになるだけである。

 

後書き:

私的な事情により、ブログの更新に2年以上のブランクが生じた。再開したのはどうしても黙ってはいられなかったからである。私的な事情には特別な変化はないので、また休止期間に戻ることになるであろう。再び「義憤」が生じれば別であるが。

合成ダイヤモンドと天然ダイヤモンド

 ダイヤモンドは高い屈折率と知られている物質の中で最大の硬度(モース硬度)を持っている点で工業的に重要な物質である。また、高温に強い半導体の材料として有望視されている。 

 合成ダイヤモンドも天然ダイヤモンド炭素の4面体配置を基礎としている点でミクロには同等と言える。しかしながら、それはダイヤモンドの理想的な構造を想定した場合であり、現実のダイヤモンドはそれが生成されるプロセスに依存するミクロな欠陥を含んでいる。欠陥の原因には不純物混入による着色も含まれる。合成ダイヤモンドと天然ダイヤモンドの間ではそれらが生成されるプロセスが異なるために、欠陥を調べることによって両者を区別することができる。だが、欠陥が極めて少ない良質のダイヤモンドの場合、両者の区別が困難になる。最近の中国の技術による合成ダイヤモンド製造がその水準に到達した とのことである。

 合成ダイヤモンドと天然ダイヤモンドの違いを区別するのが現在の技術で困難だとすれば、物質として両者の価値が区別できないことになる。残されたのは、合成ダイヤモンドよりも天然ダイヤモンドの方がより価値があるとする消費者の信仰だけである。この信仰はそう信じさせるような天然ダイヤモンド業界のキャッチフレーズによって強化される。いずれにせよ、合成ダイヤモンド製造技術の向上は人類にとって望ましいことであり、それによって天然ダイヤモンド業界が困るかどうかは別問題である。

  このような問題は、あらゆる技術の発展に伴って生ずることであり、古くは自動織機が産業革命で果たした役割の中に見ることができる。


追記(3月26日):
 この記事の作成については少し急ぎ過ぎたきらいがあったので、補足したい。
 まず、タイトルも本文も「人口ダイヤモンド」を使用していたが、「合成ダイヤモンド」に変更する。2番目として、第2の関連記事 にリンクを張りたい。第3に、材料としてのダイヤモンドの特性として、あらゆる物質の中でトップクラスの熱伝導性を持つことおよび光に関して透明となる波長範囲が極めて広いことも触れるべきだろう。

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