キリン公園のアカザ


















セイタカアワダチソウが無くなったとか、近頃いわゆる雑草が少なくなったような気がします。藜(アカザ)という雑草もあまり見ることが無くなりましたが、キリン公園を散歩しているとそれらしきものがありました。ミナトアカザとコアカザでしょうか。ほとんど一顧だにされない雑草です。しかしこれが天才の手にかかると次のようになります。

芥川龍之介が関東大震災の後に横浜山手を訪れています。ここで「ピアノ」という小品を書いています。

「或雨のふる秋の日、わたしは或人を訪ねる為に横浜の山手を歩いて行つた。この辺の荒廃は震災当時と殆ど変つてゐなかつた。若し少しでも変つてゐるとすれば、それは一面にスレヱトの屋根や煉瓦の壁の落ち重なつた中に藜(あかざ)の伸びてゐるだけだつた。現に或家の崩れた跡には蓋をあけた弓なりのピアノさへ、半ば壁にひしがれたまゝ、つややかに鍵盤を濡らしてゐた。のみならず大小さまざまの譜本もかすかに色づいた藜の中に桃色、水色、薄黄色などの横文字の表紙を濡らしてゐた。」

中略・・要件を済ませた帰途、筆者はここでピアノの音を聞きます。幻聴ではなく、確かに鳴った・・

ミナトアカザコアカザ







「五日ばかりたつた後、わたしは同じ用件の為に同じ山手を通りかゝつた。ピアノは不相変ひつそりと藜の中に蹲つてゐた。桃色、水色、薄黄色などの譜本の散乱してゐることもやはりこの前に変らなかつた。只けふはそれ等は勿論、崩れ落ちた煉瓦やスレヱトも秋晴れの日の光にかがやいてゐた。
 わたしは譜本を踏まぬやうにピアノの前へ歩み寄つた。ピアノは今目のあたりに見れば、鍵盤の象牙も光沢を失ひ、蓋の漆も剥落してゐた。殊に脚には海老かづらに似た一すぢの蔓草もからみついてゐた。わたしはこのピアノを前に何か失望に近いものを感じた。
「第一これでも鳴るのかしら。」
 わたしはかう独り語を言つた。するとピアノはその拍子に忽ちかすかに音を発した。それは殆どわたしの疑惑を叱つたかと思ふ位だつた。しかしわたしは驚かなかつた。のみならず微笑の浮んだのを感じた。ピアノは今も日の光に白じらと鍵盤をひろげてゐた。が、そこにはいつの間にか落ち栗が一つ転がつてゐた。
 わたしは往来へ引き返した後、もう一度この廃墟をふり返つた。やつと気のついた栗の木はスレヱトの屋根に押されたまま、斜めにピアノを蔽つてゐた。けれどもそれはどちらでも好かつた。わたしは只藜の中の弓なりのピアノに目を注いだ。あの去年の震災以来、誰も知らぬ音を保つてゐたピアノに。」

ちょっと長い引用でしたが、廃墟のアカザと壊れたピアノ、という不思議な組み合わせを描く芥川の感性にはやはり天才的なものを感じます。