汐汲坂のダイダイ


















汐汲坂の上の方にダイダイがなっていました。ここの坂は結構急峻です。かつてこの坂の中腹の横浜女学園(現元町幼稚園)で英語の教師をしていた中島敦が「カメレオン日記」という小説の中にこの坂でミカンを落とし、転がってゆくミカンを拾い上げる教員のこっけいな姿を描写しています。

汐汲み坂 上から元町幼稚園







 (吉田は)私とほゞ同年だが、全く此の男程精力絶倫で思ひ切り實用向きで、恥も外聞もなく物質的で、懷疑、羞恥、「てれる」などといふ氣持と縁の遠い人間を私は知らない。疲れる事を知らぬ働き手。有能な事務家。方法論の大家。(本質論など惡魔に喰はれてしまへ!)常に勇氣凜々たる偏見に充ち滿ちて、あらゆる事に勇往邁進する男。運動會、展覽會、學藝會、校友會雜誌の編輯、その他何でも彼が一人で片附けてしまふ。抽象とは彼にとつて無意味と同義である。

今年の正月のこと、何處かの級のクラス會で、生徒が三四人、蜜柑や煎餅を買出しに行つた。學校の前は山手から降りて來る坂になつてゐるのだが、その坂の中途迄、風呂敷包をぶら下げた買出し係の生徒等が上つて來た時、一人の持つてゐた風呂敷が解けて、中から蜜柑がこぼれた。二つ、三つ、四つ……七つ、八つ、かなり急な坂とて、鮮かな色をした蜜柑が續々ところがり出した。その生徒は思はぬ失策にひどく顏を赭らめ、風呂敷を結び直すのがやつとで、轉がる蜜柑を追ひかけるどころではなかつた。

學校以外の人々の往來も相當にあるので、一寸羞づかしかつたのであらう。丁度其の時坂の上に立つてゐた吉田は、之を見るや猛烈な勢で駈下り始めた。小石を蹴とばし、砂利で滑りさうになり、つんのめりさうになり、途中に立つ生徒を突き飛ばして、短躯の彼は背中を丸くして蜜柑を追ひかけた。一度轉んだが直ぐ起上り、砂も拂はずに又駈け出し、到頭十五六の蜜柑を悉く拾ひ上げ、坂の片側の溝に轉げ落ちることを防いだのである。生徒等も通行人達も呆氣にとられて立止り、彼の猛烈な勢に見とれてゐた。吉田は蜜柑を手に持ちポケットにも入れ、「みんなボヤーツと見とつちや駄目やないか」と生徒等に叱言(こごと)を言ひながら、又登つて來た。彼の顏が赧くなつてゐたのは、單に走つたからなのであつて、決して、彼がてれてゐたためではない。正に、この男こそ、私の、以て模範とすべき人物だと其の時、私はしみじみ思つた。

青空文庫から引用
http://www.aozora.gr.jp/index.html

中島敦の看板汐汲み坂 下から








カメレオン物語は生徒からもらったカメレオンを飼育するたった5日間の物語ですが、学校の教員たちの人間的な様子と喘息を患い、思うようにいかない主人公の精神的葛藤を対比させながら進んでゆくなかなか面白い作品です。ちょっと暗い小説ですがとても興味深いものがあります。

上にあげた吉田先生のような陽性タイプに比べ、主人公は陰性タイプの極致のような性格ですが、そういう自分の心理を分析し、悩む主人公に読者は何か共感を感じます。

元町山手に上がる坂はどれも急ですが、特にこの汐汲み坂は頂上直前が急なのでどちらかと言えばほかの坂を利用した方が楽だと思います。

中島敦の代表作は「李陵」「山月記」など短編が多く、きらりと光る印象的な作品がたくさんあります。昼間、学校のやっている間であれば看板の裏から入って、作品や遺品を見学することができます。