(改訂版)女冠子二首其二
雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。
髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。
往來雲過五,去往島經三。
正遇劉郎使,啟瑤緘。
(女冠子二首其の二:清廉な礼拝の修行の成果、神女となって昇天し、雲に乗って五岳、神仙三山を廻ったが、劉郎の使者が訪れ寵愛を受けると詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊145《巻三44女冠子二首其二》巻三4445-〈145〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5927
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漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 唐五代詞詩・花間集・玉臺新詠 中国の韻文学には、古くは周代の詩があり、漢魏六朝には古詩と楽府かあり、唐代になって古詩に対して新しい近体の律詩、絶句がおこった。楽府がおとろえ新しく勃興したのが詞である。詞ははじめ、学詞ともよばれ、楽曲の歌詞をさしていうものであるが、それが流行するとともに、唐詩などと相ならんで、一つの韻文学として成立したのである。 5年以上のブログ連載。(魚玄機・薛濤・花間集)完掲載 現在《玉臺新詠》完全版連載中 予定(文選【詩篇】文選【賦篇 楚辞 詩經 ・・・・)
(改訂版)女冠子二首其二
雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。
髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。
往來雲過五,去往島經三。
正遇劉郎使,啟瑤緘。
(女冠子二首其の二:清廉な礼拝の修行の成果、神女となって昇天し、雲に乗って五岳、神仙三山を廻ったが、劉郎の使者が訪れ寵愛を受けると詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊145《巻三44女冠子二首其二》巻三4445-〈145〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5927
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女冠子二首其一 .薛昭蘊(改訂版)
求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。
霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。
野煙溪洞冷,林月石橋寒。
靜夜松風下,禮天壇。
(寵愛を失った妃嬪がっもともあこがれ、希望するのは、南岳魏夫人のように俗世を棄てる事であり、清らかに自然に同化していくことであると詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊144《巻三43女冠子二首其一》巻三4344-〈144〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5922
李白《江上送女道士褚三清游南岳》
吳江女道士,頭戴蓮花巾。
霓衣不溼雨【霓裳不溼雨】,特異陽臺雲。
足下遠遊履,凌波生素塵。
尋仙向南嶽,應見魏夫人。
南岳魏夫人(神仙・上清派の開祖) 道教上清派の開祖とされている女神仙。南岳衡山(こうざん)の支配者ともいわれ、紫虚元君(しきょげんくん)とも呼ばれる。 もとは魏華存(ぎかそん)(251~334年)という名で、西晋の司徒魏舒(ぎじょ)の娘として山東省に生まれたと伝えられている。若いときから『道徳経』などに親しみ、胡麻散などの長生薬を服用し、神仙術に打ち込んだ。結婚後に河南省に移り二男をもうけたが、子供が成長すると斎室を建て、家族と離れて修道生活に入った。288年12月16日、ついに神々が降下してきて、『上清経』などの経典や道法を授けられた。83歳のときには東華帝君から仙薬を与えられ、その薬を飲んで尸解(しかい)して昇天し、天界で紫虚元君に封じられ、南岳衡山を支配するようになったという。 また、それから30年後に茅山(ぼうざん)の楊羲(ようぎ)、許穆(きょぼく)のもとに降霊し、上清派の諸経典を授け、これによって上清派が始まったのだという。
唐代には仏教、道教の両宗教がきわめて盛んであり、寺院、道観は林立し、膨大な数の尼と女道士(女冠)の集団を生み出していた。『唐六典』(巻四)に、盛唐の時代、天下に女道士のいる五五〇の道観、二一二二の尼寺があったと記されている。尼や女道士の数はさらに相当なものである。『旧唐書』 の 「侍突伝」 に、唐初「天下の僧尼の数は十万に満ちる」とあり、『新唐書』 の 「百官志」には「天下の女冠は九八八人、女尼は五万五七六人」とある。『唐会要』の「僧籍」によれば、唐後期の会昌年間(八讐-八四六)、僧尼は二六万五百人に達した。これらの記録から推測すると、尼僧は少ない時でも数万人、多い時には十余万人にも達していたと想像される。都から遥か遠方の敦蝮地区でも、普通の寺の尼僧は常に一寺院に百人はいた(『敦蛙資料』第一輯「敦塩寺院僧尼等名牒」)。道教寺院の女道士の数はやや少なめであった。これに各地で自由に活動している女巫(女占師)を加えて合計すると、無視できない階層を形成していたのである。
この数万もの尼や女道士には、出家以前は高貴な身分であった妃嬢・公主や、衣食に何の心配もない貴婦人・令嬢もいたし、また貧と窮がこもごも重なった貧民の女性、身分の餞しい娼妓などもいた。彼女たちはどうして同じ道を歩んで出家するに至ったのだろうか。
【出家の動機】
およそ出家の動機は、次のようないくつかの情況に分けることができる。一部は、家族あるいは自分が仏教、道教を篤く信じて出家した人々である。たとえば、宋国公の斎璃は仏教にのめりこみ、娘を三歳にして寺に入れ尼にしてしまった(『唐文拾遺』巻六五「大唐済度寺の故比丘尼法楽法師の墓誌銘」)。
柳宗元の娘の和娘は、病気のため仏にすがり、治癒した後に仏稗と名を改め、自ら剃髪して尼となることを願った(『全唐文』巻五八二、柳宗元「下務の女子の墓碑記」)。こうした人々の大半は貴族、士大夫の家の女子であり、彼女たちの入信は多かれ少なかれ信仰の要素を内に持っていたようである。長安にあった成宜観の女道士は、大多数が士大夫の家の出身であった。しかし、こうした人は少数であり、圧倒的多数はやはり各種の境遇に迫られ、あるいは世の辛酸をなめ尽して浮世に見切りをつけ、寺院や通観に入って落ち着き先を求めた人々であった。その中には、夫の死後再婚を求めず入信して余生を送ろうとした寡婦もいる。たとえば、開元年間、輩県(河南省筆県)の李氏は夫の死後再婚を願わず、俗世を棄てて尼になった(侠名『宝応録』)。焼騎将軍桃李立が死んだ時、その妻は喪が明けると、出家して女道士になりたいと朝廷に願い出た(『全唐文』巻五三一、張貫「桃李立の妻、女道士に充らんとするを奏せる状」)。あるいはまた、家族が罪にふれて生きる道がなく、寺院や通観に人らざるをえなかった者もいる。越王李貞(太宗の子)の玄孫李玄真は、祖先(曾祖父李珍子)の武則天に対する反逆の罪によって父、祖父などがみな嶺南の僻遠の地で死んだ。彼女はそれら肉親を埋葬した後、成宜観に入り信仰の中で生涯を終えた(『旧唐書』列女伝)。睾参は罪にふれて左遷させられた。すると、その娘は榔州(湖南省榔県)で出家し尼になった(『新唐書』睾参伝)。
また妓女、姫妾が寺院や通観を最後の拠り所にすることもあった。有名な女道士魚玄機はもともとある家の侍妾であったが、正妻が容認しなかったので道観に入った(『太平広記』巻二二〇)。妓女は年をとり容色が衰えると出家するのが一般的だった。唐詩の中には「妓が出家するのを送る」 ことを題材とした作品がたいへん多い。宮人・宮妓が通観に入る例も少なからぬ割合を占める。彼女たちは年をとり宮中を出でも頼るべき場所とてなく、大多数が寺院・通観を最後の安住の地とした。
長安の政平坊にあった安国観の女這士の大半は上陽宮の宮人であった(『唐語林』巻七)。詩人たちはかつて、「斎素と白髪にて宮門を酢で、羽服・星冠に道意(修行心)存す」(戴叔倫「宮人の入道するを送る」)、「君看よ白髪にて経を詞する者を、半ばは走れ宮中にて歌舞せし人なり」(慮輪「玉真公主の影殿を過ぎる」)などと詠んで嘆いた。最後になったが、他に貧民の家の大量の少女たちがいる。彼女たちはただ家が貧しく親に養う力がないという理由だけで、衣食に迫られて寺院や道観に食を求めざるを得なかった人々である。総じて言えば、出家は女性たちが他に生きる道がない状況下における、最後の出路、最後の落ち着き先になったのである。
一般の女子の出家の状況はだいたい以上述べたようなものであったが、妃嬢・公主たちの出家の事情は比較的特殊である。妃嬢の中のある者は、皇帝が死ぬと集団で寺に送りこまれた。
(改訂版)-4.薛昭蘊144《巻三43女冠子二首其一》
女冠子二首其一
求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。
寵愛を失って神仙をもとめて俗世を去るのである、これまでの翡翠の飾り、花鈿、黄金の櫛、簪、なにもかもすべて投げ捨て、自然に同化できる岩山の洞窟に入ったのだ。
霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。
薄い透明感の黄色の羽衣を軽くたるませて上半身、片に巻き付ける。頭には雲の彫刻の白玉の冠を付けている。
野煙溪洞冷,林月石橋寒。
野に靄が漂うのは、修業している渓谷の洞窟の冷気が靄は生むのである、そして、ここに繁る木々に月光はあまねく照らし、清川な流れにかかる石橋をも一体化して寒気がひろがる。
靜夜松風下,禮天壇。
清廉で静かな夜に、小高い丘の松をぬけた風が遠くやさしく吹いてくるところで、王屋山の絕頂の様に天壇をつくって礼拝する。
(改訂版)(女冠子 二首其の一)
仙を求めて去るなり,翠鈿【すいでん】金篦【きんべい】盡く捨て,嵒巒【がんらん】に入る。
霧捲 黃羅の帔【かたかけ】,雲彫 白玉の冠。
野煙 溪洞に冷やかなり,林月 石橋に寒し。
靜夜 松風の下,天壇に禮す。
(改訂版)-4.薛昭蘊144《巻三43女冠子二首其一》
『女冠子二首其一』現代語訳と訳註
(本文)
女冠子二首其一
求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。
霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。
野煙溪洞冷,林月石橋寒。
靜夜松風下,禮天壇。
(下し文)
(改訂版)(女冠子 二首其の一)
仙を求めて去るなり,翠鈿【すいでん】金篦【きんべい】盡く捨て,嵒巒【がんらん】に入る。
霧捲 黃羅の帔【かたかけ】,雲彫 白玉の冠。
野煙 溪洞に冷やかなり,林月 石橋に寒し。
靜夜 松風の下,天壇に禮す。
(現代語訳) (改訂版)女冠子二首其一
(寵愛を失った妃嬪がっもともあこがれ、希望するのは、南岳魏夫人のように俗世を棄てる事であり、清らかに自然に同化していくことであると詠う。)
寵愛を失って神仙をもとめて俗世を去るのである、これまでの翡翠の飾り、花鈿、黄金の櫛、簪、なにもかもすべて投げ捨て、自然に同化できる岩山の洞窟に入ったのだ。
薄い透明感の黄色の羽衣を軽くたるませて上半身、片に巻き付ける。頭には雲の彫刻の白玉の冠を付けている。
野に靄が漂うのは、修業している渓谷の洞窟の冷気が靄は生むのである、そして、ここに繁る木々に月光はあまねく照らし、清川な流れにかかる石橋をも一体化して寒気がひろがる。
清廉で静かな夜に、小高い丘の松をぬけた風が遠くやさしく吹いてくるところで、王屋山の絕頂の様に天壇をつくって礼拝する。
(訳注)
(改訂版)女冠子二首其一
(寵愛を失った妃嬪がっもともあこがれ、希望するのは、南岳魏夫人のように俗世を棄てる事であり、清らかに自然に同化していくことであると詠う。)
前段は、女道士となるために、家も身を創る品々もすべてを捨て去って、山に入ると、いつしかもやのようにつつまれて同化する衣裳に変わること述べる。後段は、月の照る静かな夜、風渡る松の木の下で、天壇、地壇に祈りを捧げるさまを描く。
『花間集』には薛昭蘊の作が二首収められている。双調四十一字、前段二十三字五句、二仄韻二平韻、後段十八字四句二平韻で、❹❻③5⑤/5⑤5③の詞形をとる。
女冠子二首其一
求仙去也、翠鈿金篦盡捨、入嵒巒
霧捲黃羅帔、雲彫白玉冠。
野煙溪洞冷、林月石橋寒。
靜夜松風下、禮天壇。
求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。
寵愛を失って神仙をもとめて俗世を去るのである、これまでの翡翠の飾り、花鈿、黄金の櫛、簪、なにもかもすべて投げ捨て、自然に同化できる岩山の洞窟に入ったのだ。
求仙 仙人になることを求める。ここでは南岳魏夫人(神仙・上清派の開祖)にあこがれて高貴な身分を棄てる(しかし、宮人を引き連れて入山する。)
翠細金箆 翡翠や金で飾った櫛や簪。
嵒巒 自然に同化するため岩山に入る。道教は、南北朝の時代に成熟し、唐代には国教となり、宗教としての質をどんどん向上させた。宗教人類学・宗教歴史学・宗教心理学・宗教社会学の観点から分析すると、道教は宗教の基本要素を全て備えている。キリスト教・イスラム教・仏教の三大世界宗教と比べると、道教は一般の宗教としての特徴だけでなく独特の民族文化の特色も備えている。道教の一般的な宗教としての特徴を次に示す。道教は自然発生した自然宗教と人為的な倫理宗教の結合体である。人格化した主神(元始天尊・太上老君など)に対する信仰だけだけでなく、自然界の本質である汎神論の「道」の信仰(ヒンズー教の「ブラーフマン」、大乗仏教の「仏性」と類似している)もある。祠に女妓ともなった。
霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。
薄い透明感の黄色の羽衣を軽くたるませて上半身、片に巻き付ける。頭には雲の彫刻の白玉の冠を付けている。
霧捲黃羅帔 薄い透明感の黄色の羽衣を軽くたるませて上半身、片に巻き付ける。
古代婦女披於肩背的一種紗巾,多為薄質紗羅所制。
白玉冠 白い玉。白壁。《禮記》「衣白衣、服白玉。」
野煙溪洞冷,林月石橋寒。
野に靄が漂うのは、修業している渓谷の洞窟の冷気が靄は生むのである、そして、ここに繁る木々に月光はあまねく照らし、清川な流れにかかる石橋をも一体化して寒気がひろがる。
野煙溪洞冷 渓谷の洞窟から靄が発生し、雲に成長するというのが古代中国の考えであった。道教はこの煙、霞と一体化することが修業である。
林月石橋寒 この後段からは、自然と一体化していく修行の場の様子をいう。
靜夜松風下,禮天壇。
清廉で静かな夜に、小高い丘の松をぬけた風が遠くやさしく吹いてくるところで、王屋山の絕頂の様に天壇をつくって礼拝する。
靜夜・松風下 どちらも清いことに喩える語。杜甫《陪鄭広文遊何将軍山林十首 其九》「醒酒微風入,聽詩靜夜分。」(酒を醒まさんとして微風入り 詩を聴けばかんとして静夜分かる)酒の酔いを醒ますため微風に当たり体に当て吹きこみ、詩に耳を傾けていると静かに夜がふけてゆくのである。
杜甫 《玉華宮》「溪回松風長,蒼鼠竄古瓦。」(渓廻りて松風長し 蒼鼠古瓦に竄る。)谷川がうねっている、そこに這うように松風が遠くやさしく吹いてくる、落ちて散らばった古瓦に胡麻塩の毛の鼠が人を畏れるかの様にかくれている。
天壇 天の神を祭るための祭壇。1.封建における帝王祭天をおこなう高臺。 《宋書‧禮志三》: “ 光武 建武 中, 不立北郊, 故后地之祇常配食天壇。” 《南齊書‧禮志上》: “郊為天壇。” 2. 王屋山の絕頂,軒轅が天に祈ったという。《相傳》「黃帝 禮天處。 」相傳には黃帝が天に禮した處という。 唐 杜甫 《昔游》「王喬下天壇,微月映皓鶴。」(王喬天壇に下り,微月 皓鶴に映ず。)おりしも王喬かと思われる仙人が天壇に降りてきた。 仇兆鰲 注: “ 王屋山 絕頂曰 天壇 。” 宋 陳師道 《談叢》卷十八: “ 王屋 天壇 , 道書云 黃帝 禮天處也。
軒轅 黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年)漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊、昌意の父。
**********************************************************************************
(旧解)
女冠子二首其一
求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。
霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。
野煙溪洞冷,林月石橋寒。
靜夜松風下,禮天壇。
(家を出て山間に入り道士となった女を詠う。)
女道士になるために家を出るにつけて、翡翠の飾り、黄金の櫛、簪、なにもかもみな投げ捨てて、自然に同化できる岩山の洞窟に入ったのだ。
霧は巻かれることもあり、きれいな薄絹の肩掛けをつけるようになり、『高唐の賦』にいう雲は祠にかざられた彫刻に白い玉の冠をつけるようになった。
野に靄がひろがり、渓谷の洞窟が冷ややかにして靄は生まれ、この祠の近くに散歩する木々のあいだから月あかりに映えていたが、いまは石橋をわたるのもひとりで寒い。
あの人が来てくれなくなった静かな夜、小高い丘の松をぬけて風が吹いてくる、こうして恵まれてきたことを天壇に祈りを捧ぐ。
女冠子 二首其の一
仙を求めて去る也,翠鈿【すいでん】金篦【きんべい】盡く捨て,嵒巒【がんらん】に入る。
霧捲く 黃羅の帔【かたかけ】,雲彫る 白玉の冠。
野煙 溪洞 冷やかに,林月 石橋 寒し。
靜夜 松風の下,天壇に禮す。
(旧解)
女冠子二首其二
雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。
髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。
往來雲過五,去往島經三。
正遇劉郎使,啟瑤緘。
(家を出て山間に入り道士となった女を詠う。)
その日、ここ仙郷に雲の薄絹に覆われ、霧は谷を被う、新たに晴れやかに道女としての法籙を授かった。そうして、真の女道士の教授として里に下りてゆく。
髪を書き上げ髻をしっかりし、若さある髪を整え、そして冠を選んで、碧玉の簪を付けた。
行き過ぎるの雲が過ぎる様に今宵を過した、行きつ戻りつして中州、島々、一年を過していった。
まさに、遊び人のあの劉郎の使いのものと出会った、そしてもう、道教の経典の「啓瑤壇」を封印してしまった。
女冠子二首其の二
雲は羅に 霧は縠に,新らたに明威なる法籙を授り,真函に降ろ。
髻綰 青絲の髮,冠抽 碧玉の篸。
往來して雲 五を過り,去往して島 三を經る。
正に劉郎の使に遇い,啟瑤 緘ず。
花間集 巻三42《醉公子》薛昭蘊(改訂版)
慢綰青絲髮,光砑吳綾襪。
床上小燻籠,韶州新退紅。
叵耐無端處,捻得從頭汚。
惱得眼慵開,問人閑事來。
(最初は大切にしてくれ、贅沢なもの、華美なものを身に付けさせてくれたのに、今はどこにいるのだろう、何時も酔っていてかえってこなくなった貴公子に、心が捻じ曲がり、汚れていったと、なにもしたくないと生きる意欲も失せたと詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊143《巻三42醉公子一首》巻三4243-〈143〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5917
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| 花間集 教坊曲『醉公子』 四首 | | |||||
| 作者 | 巻 | 題 | 初句7字 | | ||
| 薛侍郎昭蘊 | 巻三42 | 慢綰青絲髮 | | |||
| 顧敻(顧太尉敻) | 巻七35 | 漠漠秋雲澹 | | |||
| | 巻七36 | 岸柳垂金線 | | |||
| 尹鶚 | 巻九32 | 暮煙籠蘚砌 | | |||
| | | | | | ||
薛侍郎昭蘊 十九首: |
花間集に薛昭蘊の詞は《小重山二首》《浣溪紗八首》《喜遷鶯三首》《離別難一首》《相見歡一首》《醉公子一首》《女冠子二首》《謁金門一首》の十九首所収。 |
薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭筠に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。 醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。 |
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花間集巻三41 相見歡
羅襦繡袂香紅,畫堂中。
細艸平沙蕃馬,小屏風。
卷羅幕,凭粧閣,思無窮。
暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。
(改訂版)薛昭蘊 《相見歡》(相見歡:いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたものだが、いまはもうそんなことはまったくなく、ただひたすら、待ち続けて歳を重ねるだけだと詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊142《巻三41相見歡》巻三4142-〈142〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5912
薛侍郎昭蘊 十九首: |
花間集に薛昭蘊の詞は《小重山二首》《浣溪紗八首》《喜遷鶯三首》《離別難一首》《相見歡一首》《醉公子一首》《女冠子二首》《謁金門一首》の十九首所収。 |
薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。 醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。 |
(旧解)
相見歡一首
(浮気男に棄てられた女の愁いの情を詠う。)
羅襦繡袂香紅,畫堂中。
今日も夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あの人を待つ鳳凰の画かれた奥まった閨の中にいる。
細艸平沙蕃馬,小屏風。
そこには、あの人が好きな小草生う広がる砂地に戒の駿馬の小さな屏風をかざった。
卷羅幕,凭粧閣,思無窮。
待っても来ないから、薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い化粧の部屋の窓辺に寄りながめるけれど、いくら思っても果てがない。
暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。
女として若くないことを実感させる暮れ方の雨のあとの靄、これで完全に女のもとに訪れるという思いは断たれてしまった、ここから出ることもかなわない身の上の者には窓にかかる簾は檻であり、あの人の居る世界と隔離されてしまっている。
(相見歡【そうけんかん】)
羅襦【らじゅ】繡袂【しゅうべい】紅に香り,畫堂の中。
細艸 平沙の蕃馬【ばんば】,小屏風にあり。
羅幕を卷き,粧閣に凭【よ】れば,思 窮り無し。
暮の雨 輕き煙 魂は斷たれ,簾櫳を隔つるに。
唐宋代の絵画、彫像に出てくる女性の姿を見ると、彼女たちはみな確かに顔は満月のようにふくよかであり、からだは豊満でまるまるとしている。そして、胡や、国軍服を着て馬に乗って弓を引く女性は、特に堂々とした勇敢な姿を示しており、痩せて弱々しい姿はほとんど見られない。これはまさに唐宋代の人々の審美観と現実の生活そのものの反映であった。唐宋代第一の美人楊玉環(楊貴妃)は豊満型の美人であり、漢代の痩身型の美人趨飛燕と並んで、「燕は痩せ、環は肥え」といわれ、美人の二つの典型と称された。
このような美意識は、唐代の社会生活と社会の気風から生れた。というのは、唐宋代の物質生活は比較的豊かであったから、身体がふっくらとした女性が多くいたのである。また社会の気風は開放的であり、北朝の尚武の遺風を受け継ぎ、女性は家から出て活動することもわりに多く、また常に馬に乗って矢を射る活動にも加わっていた。それで、往々女性は健康的で颯爽たる姿をしていたのである。こうした現実が人々の審美観に影響し、そしてこの審美観と時代の好みとが、逆に女性たちにこの種の美しさを極力追求させたのである。少なくとも「楚王、細き腰を好む*」ために、食を減らすといったことはなかった。これによって、女性は健康で雄々しくかつ豊満であるといった傾向が助長されたのである。審美観と密接な関係がある服装と化粧は、女性の生活の重要な一部分であった。
* 『筍子』等に、昔、楚の霊王は腰の細い美人を好んだ。それで宮中の女性は食を減らし餓死したという故事がある。
唐宋代の女性の服装は、貴賤上下の区別なく、だいたいにおいで衫(一重の上着)、裙(スカート)、帔(肩かけ)の三つからなっていた。上着の衫の裾は腰のあたりで裙でとめる。裙はたいていだぶだぶとして大きく、長くて地面をひきずるほどであり、普通六幅(一幅は二尺二寸)の布で作られた。肩に布をかけるが、これを「帔服」といい、腰のあたりまでゆったりと垂れている。また、常に衫の上に「半臂」(袖の短い上着)をはおったが、これはかなり質のよい布で作り、主に装飾のためのものであった。足には靴か草履をはいたが、これらは綿布、麻、錦帛、蒲などで作られていた。
胡装
胡服を着て胡帽を被る 「女が胡の婦と為り胡妝を学ぶ」(元稹「法曲」)、これは唐代女性の特別の好みの一つであった。唐代の前期には、女性が馬に乗って外出する際に被った「冪蘺」(頭から全身をおおうスカーフ)は、「戎夷」(周辺の蛮族)から伝わった服装であった。また、彼女たちは袖が細く身体にぴったりした、左襟を折り返した胡服を好んで着た。盛唐時代(開元〜大暦の間)には、馬に乗る時に胡帽をかぶるのが一時流行した。胡服・胡帽の姿は絵画や彫刻、塑像の中で、随所に見ることができる。
彼女たちは、また胡人の化粧をも学んだ。
「新楽府」「其三十五 時世妝」 白居易
時世妝,時世妝,出自城中傳四方。
時世流行無遠近,腮不施朱面無粉。
烏膏注唇唇似泥,雙眉畫作八字低。
妍媸黑白失本態,妝成盡似含悲啼。
圓鬟無鬢堆髻樣,斜紅不暈赭面狀。
昔聞被發伊川中,辛有見之知有戎。
元和妝梳君記取,髻堆面赭非華風。
時世の妝 時世の妝、城中より出でて四方に傳はる。
時世の流行 遠近無し、腮に朱を施さず面に粉無し。
烏膏唇に注(つ)けて唇泥に似たり、雙眉畫きて八字の低を作す。
妍媸 黑白 本態を失し、妝成って盡く悲啼を含めるに似たり。
圓鬟(かん)鬢無く堆髻の樣、斜紅暈せず赭面の狀。
昔聞く 被髪伊川の中、辛有之を見て戎有るを知る。
元和(806-820年)の妝琉(顔の化粧、髪型) 君 記取よ、髻椎、面赭は華風に非ざるを。
流行の化粧は、都会から出て四方に伝わる、時勢の流行には近在も遠方もない、頬紅をささず顔に白粉を塗らぬ、黒い油を口に塗って泥を見るようだ、眉を書けば八の字に垂れ下がって見苦しい(時世妝:流行の化粧法、腮:顎から頬にかけて)
美醜と黒白がひっくり返って、化粧した顔は泣きべそ顔だ、丸髷にはふくらみがなくさいづちまげのようだし、頬紅はぼかしてないのでまるで赤ら顔だ(妍媸:美醜、含悲啼:泣きべそ顔、圓鬟:丸髷、堆髻:さいづちまげ、胡人の女が結ぶ、斜紅:斜めに引いた頬紅、赭面:赤ら顔)
昔のことに、髪をふり乱した者たちが伊川で踊っているのを見て、辛有はその地が戎の地だといったというではないか、元和の流行の化粧について記録しておいてほしい、さいづちまげや赤ら顔は華風ではないと(被髪:髪を振り乱す、妝梳:化粧とヘアスタイルのこと)
同時代に流行したファッションを批判したもの。都の人々が中国固有の化粧やヘアスタイルを捨てて、戎の風俗にしているという内容で、白居易は中国風でない化粧や髪型の流行を慨嘆している。こうした胡服や胡粧は大半が北方と西北の遊牧系少数民族から伝わってきた。服装と装飾が胡族化したことは、まさに強盛な大帝国が率先して外来文化を吸収したことを、最も良く示す現象である。
唐代の人々には、宋代の人のような「〔中華の〕遺民 涙尽く 胡塵の裏」(陸游「秋夜将に暁に籬門を出で涼を迎えんとして感有り」)といった亡国の痛みはなかったので、当然にも胡服や胡粧によって中華の中心たる中原が胡化するとか、生臭い土地に変り「蛮夷」の邦になるといった恐れや心配は全く頭に浮かんではいない。ただ唐の中期になり、「胡騎 煙塵を起こす」というようになると、始めて「女が胡の婦と為り胡敏を学ぶ」(元稹「法曲」)のは乱国の兆であると、悲しみ嘆く人が出てきた。国勢が衰退したので、統治者の自信が揺らいだのである。女性からすると、一瞥の女卑からの解放、自由な外出へと、社会的な大変革をもたらすものであった。これは、文化的頽廃、性倫理の変貌と有機的に化学反応したものである。
戎装と男装
唐宋代の女性、とりわけ宮廷の女性は、常に戎装(軍装)と男装を美しいものと考えていた。高宗の時代、太平公主は武官の服装をして宮中で歌舞を演じたことがある。また、武宗の時代、王才人は武宗と同じ服を着て一緒に馬を駆って狩りをした。それで天子に上奏する人はいつもどちらが天子か見まちがったが、武宗はそれを面白がった。宮女たちが軍服を着たり、男装するのは全く普通のことだった。「軍装の宮妓、蛾を掃くこと浅し」(李賀「河南府試十二月楽詞」)、「男子の衣を着て靴をはく者がいる。あたかも奚、契丹の服のようである」(『新唐書』車服志)などの記録はたいへん多い。絵画や彫像の中にはさらに多くの戎装、男装の宮女の姿を見ることができる。こうした風潮は民間にも伝わり、妓女や俳優(役者)たちも常に「装束 男児に似たり」(李廓「長安少年行」)といわれ、また「士流(士人階級)の妻は、あるいは大夫の服を着、あるいはまた男物の靴、衫(上着)、鞭、帽子などを用いて、妻も夫も身仕度が同じだった」(『大唐新語』巻十)といわれている。男女が同じ服を着て、妻と夫の区別も無いとは、本当に平等な感じがする。こうした風潮が生れたのは、社会の開放性と尚武の気風があったからにはかならない。当時の若干の保守的な人々は、男女の服装に違いがなく、陰陽が逆さまになっている情況に頭を横に振りながら、「婦人が夫の姿になり、夫は妻の飾りとなっている。世の中の顛倒でこれより甚だしいものはない」(『全唐文』巻三一五、李華「外孫崔氏二孩に与うる書」)と慨嘆した。これぞまさしく、女性が男装する風潮は封建道徳の緩みであると説明する直接的表現ではないか。
(改訂版)《巻三41相見歡》
相見歡
(相見歡:いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたものだが、いまはもうそんなことはまったくなく、ただひたすら、待ち続けて歳を重ねるだけだと詠う。)
羅襦繡袂香紅,畫堂中。
夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。
細艸平沙蕃馬,小屏風。
いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。
卷羅幕,凭粧閣,思無窮。
薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。
暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。
高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ。
(改訂版)《巻三41相見歡》
『相見歡一首』 現代語訳と訳註
(本文)
相見歡
羅襦繡袂香紅,畫堂中。
細艸平沙蕃馬,小屏風。
卷羅幕,凭粧閣,思無窮。
暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。
(下し文)
相見歡
羅襦【らじゅ】繡袂【しゅうべい】紅に香り,畫堂の中。
細艸 平沙の蕃馬【ばんば】,小屏風にあり。
羅幕を卷き,粧閣に凭【よ】るも,思 窮り無し。
「暮雨輕煙」の魂 斷つ、簾櫳に隔たる。
(現代語訳)
(相見歡:いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたものだが、いまはもうそんなことはまったくなく、ただひたすら、待ち続けて歳を重ねるだけだと詠う。)
夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。
いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。
薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。
高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ。
(訳注) (改訂版)《巻三41相見歡》
相見歡
(浮気男に棄てられた女の愁いの情を詠う。)
妃嬪の愁いが詠われる時、季節は多く晩春である。「暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳」妃嬪は待つのが使命である、寵愛を失えば、これほど人格を否定されるものがないから、詩に登場する。この時代、その他の階層の女性は、比較的、自由な性生活をしている。不倫や自由恋愛多いから、役所で取り締まらなければいけなかった。妃嬪には、その可能性が極めてない。その間、春が来るごとに「暮の雨」花が落ち、年増になってゆくこと、それでも、地位が変わらなければ、あいかわらず、ちょうあいをうけるじゅんびをして、まちつづけなければならないのである。と、詠うものである。
寵愛を受けている時と寵愛を失って以降の対比、一人で出かけることはできないので、この語を使用する。なかにわに出るくらいの生活を意味するもの。
唐の教坊の曲名。『花間集』には薛昭蘊の一首のみ所収。双調三十六字、前段十八字四句二平韻、後段十八字五句二仄韻二平韻で、⑥③6③/❸❸③6③の詞形をとる。
羅襦繡袂香紅、畫堂中。
細艸平沙蕃馬、小屏風。
卷羅幕、凭粧閣、思無窮。
暮雨輕煙魂斷、隔簾櫳。
○○●●○○、●○△。
●●○△○●、●△△。
△○●、△?●、△○○。
羅襦繡袂香紅,畫堂中。
夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。
香紅 もみの上着に薫きしめた香が香ること。
羅襦 杜甫.新婚別詩:「自嗟貧家女、久致羅襦裳。羅襦不復施、対君洗紅粧。」(自ら嗟【さ】す貧家の女,久しく羅襦【らじゅ】裳を致す。羅襦復た施さず,君に対して紅粧【こうそう】を洗わん。)
新婚別 杜甫 三吏三別詩 <218>#3 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1049 杜甫詩集700- 314
繡袂 袂に縋る願いを聞いてもらうまでは離すまいと、人のたもとをとらえる。転じて、相手の同情を引いて助けを求める。
細艸平沙蕃馬,小屏風。
いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。
蕃馬 戎の馬、小ぶりの足の速い遊牧民族の馬、騎馬兵士の勇壮さが好きだから飾っている。駿馬が好きで、おそらく女性自身も、男装して馬に乗るのであろう。だから屏風にもそうしたえがかれたもおを飾った。
この時代の女性は、男装にあこがれ、馬の画を善く飾った。この馬を以て意中の男が最果ての砂漠の地に旅立って帰ってこないことを連想するというのは、短絡である。
卷羅幕,凭粧閣,思無窮。
薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。
粧閣 化粧の部屋。明かりをよくいれるために他の部屋より独立し、階床が高かった。物見もできるもの。
《班婕妤》 王維 (後宮の妃嬪を詠う)
怪來妝閣閉,朝下不相迎。
總向春園裏,花間笑語聲。
怪しむらくは妝閣【さうかく】の 閉づることを,朝より下りて 相ひ迎へず。
總て春園の裏に 向いて,花間 笑語の聲。
この三句でわかることは、西域のどこか、砂漠に出征したのでなくて、何時でも女のもとに来られることをあらわす句である。
暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。
高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ
暮雨軽煙 夕暮れの雨と簿霞は高唐の賦の「朝雲暮雨」の故事をいう。晩春に降る雨はここで必ず春の花は落花する。妃嬪の希望、期待を完全に断たれたことを意味する。
簾櫳 簾のかかる連子窓。1窓.2(動物を入れる)おり.寵愛を受けているころは、事あるごとに、連れ立って出かけた、寵愛を失っても、寵愛を受けるための準備と、ただ待つだけが使命であるから、動くことができないから、御殿のその場所から出られないことをいう。
薛昭蘊 花間集巻三40《離別難一首》
離別難一首
寶馬曉鞲彫鞍,羅幃乍別情難。
那堪春景媚,送君千萬里。
半粧珠翠落,露華寒。
紅䗶燭,青絲曲,偏能鉤引淚闌干。
良夜促,香塵綠,魂欲迷,檀眉半斂愁低。
未別心先咽,欲語情難說。
出芳艸,路東西。
搖袖立,春風急,櫻花楊柳雨淒淒。
薛昭蘊(改訂版)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊141《巻三40離別難一首》巻三4041-〈141〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5907
(旧解) 離別難 (男性から見た、宮女・官妓が情のかよった男を送り出し、これから先どうして貞操を守ってゆくのかその心持を詠う。) 夜明け前に出発する男の宝飾で盛装した馬を整え、車には暁の斜め横からの日差しを防ぐためのとばりがかけられ、彫刻に飾られた車前の横木のおおいや鞍も準備されている。閨の薄絹のとばりの中で二人は離れがたい気持ちでいたのだ。 那堪春景媚,送君千萬里。 どうしてまだ春の最中で、この景色を楽しみたいのに、それを堪えねばならないのでしょうか。あのお方を千里も万里もはるかなところへ送らないといけないのでしょうか。 半粧珠翠落,露華寒。 玉と翡翠の簪を落したまま兮そそくさと薄化粧を整えて外に出たのですが、朝露がきれいに降りて光っていてとても寒いのです。 紅䗶燭,青絲曲,偏能鉤引淚闌干。 昨日の夜の赤い蝋燭と瑟で「靑絲の曲」を奏でたことで一つになった、そんなことを思い出すとひたすら涙を誘い、涙にぬれて渡り廊下の欄干にすがっているのです。 良夜促,香塵綠,魂欲迷,檀眉半斂愁低。 こんな素敵な春の夜を二人で過ごせたいい夜だったが、春の夜は短く二人で過ごす良い夜の時はあっという間に過ぎてしまったし、蝋燭の火も燃え尽きそうで、香炉のお香もいつしか消えていたのも気が付かず過したのです。別れるのがつらく眉が檀になり、眉間にしわを寄せてしままったままで、愁いの気持ちでただそこへ蹲ってしまうのです。 未別心先咽,欲語情難說。 本当に別れたわけではないのに一緒に居たい気持ちはどうにもならずむせび泣いています。声を掛けようと思うのですが別れがつらすぎて声にならないのです。 出芳艸,路東西。 あの人は良い香りの街道の草花の中へ旅立って、東西に長い街道を隔てて別れるのです 搖袖立,春風急,櫻花楊柳雨淒淒。 私はこの袖を揺らして別れを惜しんで立ち尽くし、一人で春の突風に晒されるのです。ああこんなに桜が咲いても、こんなにも、楊も柳も葉をつけて繁っても、私が巫山の巫女となって雨に化身しても、それはただ寂しくさらさらと降るだけなのです。 (離別【わかれ】難し) 馬を寶【かざ】り曉の鞲【ふく】彫の鞍【くら】,羅幃【らい】は乍【たちま】ちの別 情【なさけ】難し。 那んぞ春景の媚に堪えん,君を千萬里に送るを。 珠翠の落るに半粧して,露華の寒。 䗶燭【かつしょく】紅にし,絲曲に青しものを,偏えに能く鉤引【こういん】し 闌干に淚す。 良夜は促し,香塵は綠す,魂は迷わんと欲し,檀眉 半ば斂して愁いて低す。 未だ心は咽を先んじて別れず,語らんと欲れど 情 說難し。 芳艸に出で,東西に路す。 袖を搖して立し,春風急す,櫻花 楊柳 雨 淒淒【せいせい】。 9 15-#1 離別難一首-#1(薛昭蘊)薛侍郎昭蘊ⅩⅫ唐五代詞・「花間集」 Gs-391-9-15-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3502 9 15-#2 離別難一首 (薛昭蘊)薛侍郎昭蘊ⅩⅫ唐五代詞・「花間集」 Gs-392-9-15-#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3507 離別難一首 寶馬曉鞲彫鞍,羅幃乍別情難。 天子のお馬車に夜明け前から彫刻に飾られた輦、馬には彫刻の鞍が、そしてうす絹のとばりが足らされて待っているが、別れをされながら情が離れがたいのだろうお出ましが遅い。 那堪春景媚,送君千萬里。 天子を千里、万里もはるかなところへ送りすれば、一緒にこの春の景色をいつくしむことが出来ないのをどうして堪えられようか?という別れもある。 半粧珠翠落,露華寒。 「徐妃半面妝」というので珠翠の寵愛を失い、鬱くちい妃嬪が後宮を出て、四つを浴び寒い寺観に追いやられたという別れもある。 紅䗶燭,青絲曲,偏能鉤引淚闌干。 紅い蝋燭のもと天子に“壽陽來”と侯景は渦陽を大敗させた戦果に錦を求めたが、朝廷は靑布を給したことで、童謠の「靑絲の曲」のように謀反を起こした。錦の変わりに蒼絲ということが引き金になって謀反を起し、涙で御殿の欄干から別離をしたこんな偏ったこともある。 良夜促,香塵綠,魂欲迷,檀眉半斂愁低。 春の夜、二人で過ごせたいい夜だが短くすぐにすぎる、香炉のお香もいつしか消えていたのも気が付かず過したというのに、愛する心はどこへ行ったのか、ここにはいなくなった、つらく眉間に横の皺と縦の皺が出来てしまって、愁いの気持ちは心沈ませて高まることはない。 未別心先咽,欲語情難說。 いまだに別れを告げられたのではない、別れの事が咲きに考えるから嗚咽してしまう、声を掛けようと思うが別れがつらすぎて声にならない。 出芳艸,路東西。 門を出れば、良い香りの草草は沢山あるし、路は東と西にわけてしまうと、あとは何にをしようと分からない。 搖袖立,春風急,櫻花楊柳雨淒淒。 袖を揺らして立ち見送る、一人ですごす春の風は急いで過ぎてゆく。桜の花を吹き飛ばし、柳絮もいそいでとびさるし、雨はただ寂しくさらさらと降るだけで、それが別れというものである。
寶馬曉鞲彫鞍,羅幃乍別情難。
(改訂版) 薛昭蘊 花間集巻三40《離別難一首》
小重山
岳飛《小重山一首》 むかし、閨で一緒に聞いた蟋蟀の声、昨夜は、晩秋というのにコオロギが鳴きやまず、うとうとしては、驚いて目を覚ます、きっとおまえも、遥か千里の彼方のわたしのことを夢見ていてくれるだろう。 すでに午前零時を過ぎているころのことだった。
昨夜寒蛩不住鳴,驚回千里夢。已三更。
起來獨自遶階行,人悄悄,簾外月朧明。
白首爲功名,舊山松竹老,阻歸程。
欲將心事付瑤琴,知音少,絃斷有誰聽。
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小重山二首 其二
秋到長門秋草黃,畫梁雙鷰去,出宮牆。
玉簫無復理霓裳,金蟬墜,鸞鏡掩休粧。
憶昔在昭陽,舞衣紅綬帶,繡鴛鴦。
至今猶惹御爐香,魂夢斷,愁聽漏更長。
薛昭蘊 小重山二首
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊139《巻三39小重山二首 其二》巻三3939-〈139〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5897
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| 花間集 教坊曲『小重山』 六首 | |||
| 作者 | 巻 | 題 | 初句7字 |
| 韋相莊 | 巻三 | (改訂版)小重山 韋荘 | 一閉昭陽春又春 |
| 薛侍郎昭蘊 | 巻三 | 春到長門春草青 | |
| 巻三 | 秋到長門秋草黃 | ||
| 和凝 | 巻六 | 春入神京萬木芳 | |
| 巻六 | 正是神京爛熳時 | ||
| 毛秘書熙震 | 巻十 | 梁鷰雙飛畫閣前 | |
薛侍郎昭蘊十九首:
小重山二首
浣溪紗八首
喜遷鶯三首
離別難一首
相見歡一首
醉公子一首
女冠子二首
謁金門一首
薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。
醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。
今、花間集に侍郎とあり、また、その中に収められた十八首の詞の中、八首の浣渓沙があることから推量して薛昭蘊は紹緯と同じ人物であろうといぅ説が考えられるといわれている。晩年に磎州(渓州に同じであろう、広西に属する)に配せられているが、全唐詩の薛紹緯の条には天復中(唐末の年号、901-903)に渓州司馬に貶せられたといぅひおそらくこの頃に貶せられたであろう。なお、北夢瑣言では薛澄州と呼んでいる。澄州もまた広西に属する。また、全唐詩に河東の人とあるのは、おそらく薛氏の出身地を言うのであろう。
歴代詩余の詞人姓氏では前局に編入して蜀に仕えて侍郎となったごとく記している。この説に従ってかれが韋荘と同じく蜀に仕えて侍郎となったとしている伝記も見受けられるが、紹澄が紹緯と同一人であるとすると上記の経歴と矛盾を生ずる。王国維は紹緯と薛昭蘊とを兄弟と見て、一門に浣溪沙詞を好んだものがあったと解しているが、この説よりも上にのべた同一人と見る説の方がよいようだ。花間集において温庭筠、皇甫松、韋荘についで薛昭蘊を並べているのも、唐王朝に仕えた人物を先に置いたためであろう。両者を同一人としておいた。
小重山二首 其一
(小重山二首 其の一:漢の陳皇后が武帝の寵愛を失い、所縁の長門宮に隠居させられて、切ない思いをすると詠う)
春到長門春草青,玉堦華露滴,月朧明。
春が訪れて長門宮にも春の芳草が青く芽吹く、宮殿の美しい階を降りてゆくと花の花弁に甘露が滴り、月はおぼろに照っている。
東風吹斷玉簫聲,宮漏促,簾外曉啼鶯。
春風に乗って芳草の香りと笛の音に酔っていると、きれいに飾られた簫の吹奏の音は、春の突風が吹いて中段される、宮殿の夜は日ごと短く時せわしなくすすむ、すだれの外に夜明けの鶯が啼いている。
愁起夢難成,紅粧流宿淚,不勝情。
寵愛を失って、愁いがはじまり、しだいに夢にも見なくなってしまう、春の夜に、頬を紅く染めた化粧をとかす涙は夜具をぬらす、それは耐えることができない。
手挼裙帶遶宮行,思君切,羅幌暗塵生。
皇后を廃され、長門宮に隠居させられたのである、どれほど天子の事を慕おうとこのせつなさはどれほどのものであろうか。絹のとばりにほこりや塵が積もっている。
(小重山二首 其の一)
春は長門に到り 春草 青く、玉堦 華露 滴り、月は朧に明らかに。
東風 玉簫聲の声を吹断す、宮漏 促【せきた】て、簾外 鶯 暁に啼く。
愁い極まり 夢 成り難く、紅粧 宿涙 流る、情に勝えず。
手もて裙帶を挼りつつ階を遶りて行く、君を思うこと切に、羅幌 暗に塵 生ず。
(改訂版)-4.薛昭蘊139《巻三39小重山二首 其二》
(小重山二首 其の二:漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている)
秋到長門秋草黃,畫梁雙鷰去,出宮牆。
寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。
玉簫無復理霓裳,金蟬墜,鸞鏡掩休粧。
ここの宮殿で、きれいに飾られた簫は再び吹かれることはなく「霓裳羽衣の曲」の踊りの練習さえもすることはなくなった。金蝉の簪は化粧台に置かれたまま、鳳鸞鳥の鏡に掩いがしたまま、化粧さえしなくなった。
憶昔在昭陽,舞衣紅綬帶,繡鴛鴦。
昔の昭陽殿にいたころは花形であった、舞着物には紅の綬帶の佩びていたし、鴛鴦鳥の刺繍がいっぱいに際江の寵愛を受けた。
至今猶惹御爐香,魂夢斷,愁聽漏更長。
寵愛を失った今に至っても、化粧や飾り付けの花鈿、簪を付けなくても、閨の褥の準備だけは毎日して、なお、香炉に焚くことに惹かれてはいるものの、もう夢にも出てくることはなく、秋の夜長に時を刻む漏更の音は愁いを聞くにほかならない。
其二(小重山二首 其の二:漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている)寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。
薛昭蘊(小重山二首 其の一:漢の陳皇后が武帝の寵愛を失い、所縁の長門宮に隠居させられて、切ない思いをすると詠う)春が訪れて長門宮にも春の芳草が青く芽吹く、宮殿の美しい階を降りてゆくと花の花弁に甘露が滴り、月はおぼろに照っている。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊138《巻三38小重山二首 其一》巻三3838-〈138〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5892
(改訂版)-4.薛昭蘊138《巻三38小重山二首其一》
小重山二首 其一
(小重山二首 其の一:漢の陳皇后が武帝の寵愛を失い、所縁の長門宮に隠居させられて、切ない思いをすると詠う)
春到長門春草青,玉堦華露滴,月朧明。
春が訪れて長門宮にも春の芳草が青く芽吹く、宮殿の美しい階を降りてゆくと花の花弁に甘露が滴り、月はおぼろに照っている。
東風吹斷玉簫聲,宮漏促,簾外曉啼鶯。
春風に乗って芳草の香りと笛の音に酔っていると、きれいに飾られた簫の吹奏の音は、春の突風が吹いて中段される、宮殿の夜は日ごと短く時せわしなくすすむ、すだれの外に夜明けの鶯が啼いている。
愁起夢難成,紅粧流宿淚,不勝情。
寵愛を失って、愁いがはじまり、しだいに夢にも見なくなってしまう、春の夜に、頬を紅く染めた化粧をとかす涙は夜具をぬらす、それは耐えることができない。
手挼裙帶遶宮行,思君切,羅幌暗塵生。
皇后を廃され、長門宮に隠居させられたのである、どれほど天子の事を慕おうとこのせつなさはどれほどのものであろうか。絹のとばりにほこりや塵が積もっている。
(小重山二首 其の一)
春は長門に到り 春草 青く、玉堦 華露 滴り、月は朧に明らかに。
東風 玉簫聲の声を吹断す、宮漏 促【せきた】て、簾外 鶯 暁に啼く。
愁い極まり 夢 成り難く、紅粧 宿涙 流る、情に勝えず。
手もて裙帶を挼りつつ階を遶りて行く、君を思うこと切に、羅幌 暗に塵 生ず。
(改訂版)-4.薛昭蘊138《巻三38小重山二首其一》
『小重山二首 其一』 現代語訳と訳註解説
(本文)
小重山二首 其一
春到長門春草青,玉堦華露滴,月朧明。
東風吹斷玉簫聲,宮漏促,簾外曉啼鶯。
愁起夢難成,紅粧流宿淚,不勝情。
手挼裙帶遶宮行,思君切,羅幌暗塵生。
(下し文)
(小重山二首 其の一)
春は長門に到り 春草 青く、玉堦 華露 滴り、月は朧に明らかに。
東風 玉簫聲の声を吹断す、宮漏 促【せきた】て、簾外 鶯 暁に啼く。
愁い極まり 夢 成り難く、紅粧 宿涙 流る、情に勝えず。
手もて裙帶を挼りつつ階を遶りて行く、君を思うこと切に、羅幌 暗に塵 生ず。
(現代語訳)
(小重山二首 其の一:漢の陳皇后が武帝の寵愛を失い、所縁の長門宮に隠居させられて、切ない思いをすると詠う)
春が訪れて長門宮にも春の芳草が青く芽吹く、宮殿の美しい階を降りてゆくと花の花弁に甘露が滴り、月はおぼろに照っている。
春風に乗って芳草の香りと笛の音に酔っていると、きれいに飾られた簫の吹奏の音は、春の突風が吹いて中段される、宮殿の夜は日ごと短く時せわしなくすすむ、すだれの外に夜明けの鶯が啼いている。
寵愛を失って、愁いがはじまり、しだいに夢にも見なくなってしまう、春の夜に、頬を紅く染めた化粧をとかす涙は夜具をぬらす、それは耐えることができない。
皇后を廃され、長門宮に隠居させられたのである、どれほど天子の事を慕おうとこのせつなさはどれほどのものであろうか。絹のとばりにほこりや塵が積もっている。
(訳注)
小重山二首 其一
(小重山二首 其の一:漢の陳皇后が武帝の寵愛を失い、所縁の長門宮に隠居させられて、切ない思いをすると詠う)
薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。
醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。
今、花間集に侍郎とあり、また、その中に収められた十八首の詞の中、八首の浣渓沙があることから推量して薛昭蘊は紹緯と同じ人物であろうといぅ説が考えられるといわれている。晩年に磎州(渓州に同じであろう、広西に属する)に配せられているが、全唐詩の薛紹緯の条には天復中(唐末の年号、901-903)に渓州司馬に貶せられたといぅひおそらくこの頃に貶せられたであろう。なお、北夢瑣言では薛澄州と呼んでいる。澄州もまた広西に属する。また、全唐詩に河東の人とあるのは、おそらく薛氏の出身地を言うのであろう。
歴代詩余の詞人姓氏では前局に編入して蜀に仕えて侍郎となったごとく記している。この説に従ってかれが韋荘と同じく蜀に仕えて侍郎となったとしている伝記も見受けられるが、紹澄が紹緯と同一人であるとすると上記の経歴と矛盾を生ずる。王国維は紹緯と薛昭蘊とを兄弟と見て、一門に浣溪沙詞を好んだものがあったと解しているが、この説よりも上にのべた同一人と見る説の方がよいようだ。花間集において温庭筠、皇甫松、韋荘についで薛昭蘊を並べているのも、唐王朝に仕えた人物を先に置いたためであろう。両者を同一人としておいた。
「長門宮」は、前漢の武帝の皇后であった陳氏が、皇后を廃された後に隠居させられた、そんな宮殿である。この歴史的経緯を説明すると次のとおりである。
陳氏は、武帝の従姉妹に当たる伯母の子である。また、武帝、劉徹が太子になる事が出来たのは、母の陳氏によるのと、館陶公主の力添えがあってこそであった。陳氏との間には子は生まれなかったから、二人は血縁的に強い結び付きが合った。そのような折り、姉である平陽公主の下を訪れた武帝は、謳者の一人であった衛子夫を見初め、そのまま宮中に連れ帰ってきた。この二人の間には、三女一男が生まれた。これによって、いよいよ陳氏の嫉妬が強まり、それは武帝の我慢の限界を超える程のものとなった。衛子夫が男児を生んだのが、元朔元年(前128)で、陳氏が皇后を廃されたのはが、元光五年(前130)である事から、子の男女に関わらず、子が出来た事が、寵を奪われた事に加算されて、嫉妬に狂ったのである。その嫉妬のあまり、媚道を行うに至った。媚道とは、つまり、呪詛である。これが露見し、死罪は減じられたものの、長安城の東南にあった長門宮に隠居させられた。この長門宮は、元は長門園と言い、武帝の母の王氏の別荘で、陳氏の母の館陶公主が献上した物である。衛子夫は男児を生んだその年、皇后に立てられている。
小重山は《柳色新》《小冲山》、《小重山令》という別名がある。『花間集』 には薛昭蘊の作が2首収められている。双調五十八字、前段三十宇六句四平韻、後段二十八字六句四平韻で、⑦5③⑦3⑤/⑤5③⑦3⑤の詞形をとる。
春到長門春草青、玉堦華露滴、月朧明。
東風吹斷玉簫聲、宮漏促、簾外曉啼鶯。
愁起夢難成、紅粧流宿淚、不勝情。
手挼裙帶遶宮行、思君切、羅幌暗塵生。
○△△●●○○、○●●、○●●○○。
○●△△○、○?○●●、△△○。
春到長門春草青,玉堦華露滴,月朧明。
春が訪れて長門宮にも春の芳草が青く芽吹く、宮殿の美しい階を降りてゆくと花の花弁に甘露が滴り、月はおぼろに照っている。
・長門 漢代の宮殿の名。漢武帝の陳皇后がはじめ天子の寵愛を得ていたが、人の妬みを受けて長門官に別居し、憂悶の日を送っていた。時に司馬相如の文名を聞き、黄金百斤を奉じて長門既を作らせ天子に献上し、再び寵幸を得たという故事に本づく。寵愛を受けていた女性が棄てられることを比喩するもの。長門宮は長安城の東南にあった。この長門宮は、元は長門園と言い、武帝の母の王氏の別荘で、陳氏の母の館陶公主が献上した物である。
韋荘『小重山』
一閉昭陽春又春,夜寒宮漏永,夢君恩。
臥思陳事暗消魂,羅衣濕,紅袂有啼痕。
歌吹隔重閽,繞庭芳草綠,倚長門。
萬般惆悵向誰論?凝情立,宮殿欲黃昏。
126 小重山 韋荘 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-290-5-#44 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2997
・玉堦 玉のきざはし、階段。
・華露 露草に同じ。ここは月の光をうけてきらきらひかるつゆ。階の露は甘露、男女の混じり合いを云う。
・朧月 - 霧や靄(もや)などに包まれて、柔らかくほのかにかすんで見える春の夜の月。《季 春》朧月は月が女性を意味し男女の混じり合いを連想させる。
東風吹斷玉簫聲,宮漏促,簾外曉啼鶯。
春風に乗って芳草の香りと笛の音に酔っていると、きれいに飾られた簫の吹奏の音は、春の突風が吹いて中段される、宮殿の夜は日ごと短く時せわしなくすすむ、すだれの外に夜明けの鶯が啼いている。
・宮漏 宮中の漏刻。水時計。
・促 水時計の音がほやくせわしくきこえること。
愁起夢難成,紅粧流宿淚,不勝情。
寵愛を失って、愁いがはじまり、しだいに夢にも見なくなってしまう、春の夜に、頬を紅く染めた化粧をとかす涙は夜具をぬらす、それは耐えることができない。
・夢難成 夢が完成しにくいこと。たのしい夢が愁いに断たれて十分見つくすことが困難になること。
・紅粧 紅をほどこしたうつくしい化粧。ここは陳皇后をさす。
・流宿涙 循涙を流す。宿涙は昨夜から泣きつづけて、枕も布団もぬれてしまうほど涙を流すこと。
手挼裙帶遶宮行,思君切,羅幌暗塵生。
皇后を廃され、長門宮に隠居させられたのである、どれほど天子の事を慕おうとこのせつなさはどれほどのものであろうか。絹のとばりにほこりや塵が積もっている。
・手挼裙帶 裾(もすそ)を手にとって揉むこと。裙帶:①もすそのひも。もすそとおび。②女官の制服に着用した装飾の具。③后妃の力によってその地位を得ること。武帝の皇后であった陳氏が、皇后を廃された後に隠居させられたということを暗示させる。
・遶宮行 長門宮に回り道をしてゆく。遶越/遶行:回り道をしてゆく。皇后を廃され、長門宮に隠居させられたことを暗示。
・思君切 陳皇后が天子を思うことがはなはだしいこと。
・羅幌 うすぎぬのとばり。
・暗塵生 産暗生といういい方もあり、ひそかに塵がつもっていること。寵愛を失っている状態をあらわすことは。
薛昭蘊 改訂版)喜遷鶯三首其三(何年も頑張って来て進士に及第した、その日は春の盛りの清明節に晴天であったのに、雨がぱらついたが馬を飛ばし、野山に行楽に出かけ、楽しみ、帰り道まで、雨に濡れたも活力を出している、自分も次の目標にむかって頑張ろうと詠う。)清明節の日、朝から晴天であったのに突然雨が降り出した。それでも、まさに積年の願いがみのり、おもいが叶ったということだ。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊137《巻三37喜遷鶯三首 其三》巻三3737-〈137〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5887
(旧解)
喜遷鶯三首 其三
(前の年から願っていた春の盛り、清明節もはれわたり、野山に行楽に出かけ、楽しみ、帰り道まで、草むらで楽しんだ。春を謳歌する詩。)
清明節,雨晴天,得意正當年。
清明節が来る、雨が上がって晴れている。まさに昨年から思っていたことが叶ったということ。
馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。
馬も喜び跳ね回り、歩く道を軟弱にしていたがそれも乾いて、みちには、錦の飾りを列ねている。女たちも袖口にしっかりと香りをしみこませて、半分のブランコで遊ぶ。
花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。
花が咲き乱れるとこの街にも華やかな色に和らいでいるし、人々も、競うように着飾っている、こんなはるはだれもことごとく刺繍で飾った馬の鞍をつけ、赤の馬のむながいをあたらしくしてやる。
日斜無計更留連,歸路艸和煙。
しかし、今日も日が傾いて来ても、何の計画もない、さらにここに留守居のように又過ごしているけれど、帰り道には草も成長していて、夕靄に覆われ馴染んできているところで楽しむのだ。
喜遷鶯三首 其の三
清明節,晴天に雨ふり,意を得る 正に年りに當るを。
馬驕 泥軟 錦連として乾,香袖 半ば籠鞭す。
花色 融け,人は賞を競う,是を盡せば 繡鞍 朱鞅。
日斜となり計無く 更に留り連る,路に歸り艸煙に和む。
(改訂版)-4.薛昭蘊135《巻三35喜遷鶯三首 其一》
喜遷鶯三首 其一
殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。
昨日の祝宴で飲み過ぎて、名残の月も沈んでしまい、暁の仕事始めの鐘が打ち鳴らされた、酔いはのこったままで天にも昇るほど、身が軽くまだ夢見心地なのだ。
乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。
そんな春眠はたちまちのうちに醒めてしまう、ところが、どうやら二日酔いのようである。杏の中庭の庭園には春の雪が降っていたが、夜明けから天気も晴れてくる。
紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。
牡丹の花を廻ってお屋敷をはしごした、都大路は長く、落第してえりと云い袖と云い涙でぬれたものにとって朝の風は冷たいし、しかし、これだけが人の世の風景というものではない。
迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。
この人の俗世間を見まわしてみると結局、ずっと以前から同じようなことを繰り返している、だからといって、鶯が啼いて谷を移り変わってゆく、世渡りの上手い立身出世を遂げてゆく絶頂期のものを羨んだりすることはやめたほうが良い。
殘蟾【ざんせん】落ち,曉鐘【ぎょうしょう】鳴る,羽化 身輕を覺ゆ。
乍ち春睡無く餘酲有り,杏苑 初めて晴れ雪のごとし。
紫陌 長く,襟袖 冷か,是れなく人間風景を。
迴看し塵土 前生に似たり,羨むを休む 谷中の鶯。
(改訂版)-4.薛昭蘊136《巻三36喜遷鶯三首 其二》
喜遷鶯三首 其二
(喜遷鶯三首 其の二:科挙に及第したその当日、天子に謁見し、その後街に出て祝福を受け、杏園、曲江での祝宴を満喫すると詠う。)
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。
いつも見る金光門の暁が、今日は晴れやかだ、天子におあいできる輝かしい都の春である、駿馬もこの日は次々に入城してきて、急ぎ馬が砂塵を巻いて突っ走り、人も集まって進むと砂塵が舞う。
樺煙深處白衫新,認得化龍身。
謁見の宮殿には樺の燭火の煙は奥まったところにまで漂っていて、そこには白く新しい上着をまとった官女がならぶ、そこ二つの角と五つの爪を持つ龍に化身された皇帝が鎮座されているのが分かった、科挙試験合格が実感として感じる。
九陌喧,千戶啓,滿袖桂香風細。
長安城の南北にぬける「九通」はどの通りも喧しくなり、たくさんの邸宅、家という家の門は開かれた、及第者は、各家を回って祝ってもらう、通りの大勢の人々は手を振って喜んでくれ、各所で焚かれる桂のお香は春のおだやかな微風に乗って届いてくる。
杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。
夕方には、杏園で、歓喜の祝宴を賜り、曲江のほとりの砂浜でも色とりどりの幔幕が張られ祝いの宴が催され、長安の街を園遊する。このようにいま自分は目標を達成し、よい日、よい時を一人でかみしめ、満喫しているのだ。
(喜遷鶯三首 其の二)
金門の曉,玉京の春,駿馬は驟【はし】り 輕塵【じんけい】す。
樺煙 深處 白衫の新,認得す 龍身に化するを。
九陌の喧,千戶の啓,滿袖 桂香 風細やかなる。
杏園の歡宴 曲江の濱,自ら此に 芳辰を占む。
薛昭蘊(改訂版)喜遷鶯三首 其二(喜遷鶯三首 其の二:科挙に及第したその当日、天子に謁見し、その後街に出て祝福を受け、杏園、曲江での祝宴を満喫すると詠う。)いつも見る金光門の暁が、今日は晴れやかだ、天子におあいできる輝かしい都の春である、駿馬もこの日は次々に入城してきて、急ぎ馬が砂塵を巻いて突っ走り、人も集まって進むと砂塵が舞う。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊136《巻三36喜遷鶯三首 其二》巻三3636-〈136〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5882
当時、長安は人口120万にを超す世界最大級の都市であった。
7世紀に建立された慈恩寺大雁塔は古き良き長安の姿を今も残す。
この詩の杏園は曲江池の西にあり、慈恩寺大雁塔の等々あった庭園である。春、都では官僚になるための試験、科挙に合格した者たちの祝宴が開かれる。
貴族たちの家々の庭は合格者に解放され、無礼講。春、二月三月、当時富貴の者は、牡丹の花の出来栄えを競っていた。自分の家の庭、牡丹、それを題材にして、大雁塔の下に詩を題してくれると大変な名誉であった。だから、富貴の者は合格者を大歓迎し、もてなした。
そして、夜になると杏園において、庭の花を競い、酒を競い、華やかな歌舞に宮廷料理、宴は賑やかに行われる。科挙に合格した者だけがわが世の春を謳歌するのだ。この日だけは、華やかな高殿の若き乙女たちも主役の座を譲ってくれる。
この試験のために全国から若者が集まってくる。
何年もかかってやっと合格するもの、どうしても及第しないもの悲喜こもごもの日なのだが、この喜遷鶯というのは喜選鶯令、鶴冲天、鶴冲霽、燕帰来、燕帰梁、早梅芳、春光好などといこの詩は長安の科挙合格者を主役にしたにぎわいを詠った有名な詩である。
《唐摭言》巻六 「唐進士杏花園初會謂之探花宴,擇少俊二人為探花使,徧遊名園,若他人先折得花,二人皆受罰。」
唐の神龍(705)ごろから杏園での祝宴の後、合格者全員慈恩寺塔のもとに詩を題して書いた。その題内一番優秀の者はこれを記録し後世に残された。
《唐摭言》卷三 「自神龍已來,杏園宴後,皆於慈恩寺塔下題名,同年中推一善書者記之。」
喜遷鶯三首 其二
(科挙に及第した両家の子息の合格前夜と合格の祝宴などを詠う)
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。
昨日、科挙に受かったので、いま、金門を出て行こうとすると暁の空に変わろうとしている。それは科挙合格の耀く長安の春のことである。だから、駿馬にまたがって喜び勇んで砂塵を巻いて突っ走っていく。
樺煙深處白衫新,認得化龍身。
昨日の夜、樺の灯火の煙は奥まったところにまで漂っていったのだ。そこには白く新しい上着をまとった女がいて、そこで龍身に化身(男になった)したのだ。
九陌喧,千戶啓,滿袖桂香風細。
長安城の「九通」どの通りも喧しくなり、千個どの家も家の門を開いた。人々は手を振って喜んでくれ、桂のよい香りは春のおだやかな微風に乗って届いた。
杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。
杏園で、歓喜の祝宴を賜り、曲江のほとりの砂浜でも祝い、長安の街を園遊する。このようにいま自分はよい日、よい時を一人でかみしめているのだ。
(喜遷鶯三首 其の二)
金門の曉,玉京の春,駿馬 驟【にわか】に塵輕【じんけい】。
樺煙 深處 白衫新たなり,龍身に化するを認得す。
九陌の喧,千戶の啓,滿袖 桂香 風細やかに。
杏園の歡宴 曲江の濱,自ら此に 芳辰を占む。
喜遷鶯三首 其三
清明節,雨晴天,得意正當年。
馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。
花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。
日斜無計更留連,歸路艸和煙。
(改訂版)-4.薛昭蘊136《巻三36喜遷鶯三首 其二》
喜遷鶯三首 其二
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。
いつも見る金光門の暁が、今日は晴れやかだ、天子におあいできる輝かしい都の春である、駿馬もこの日は次々に入城してきて、急ぎ馬が砂塵を巻いて突っ走り、人も集まって進むと砂塵が舞う。
樺煙深處白衫新,認得化龍身。
謁見の宮殿には樺の燭火の煙は奥まったところにまで漂っていて、そこには白く新しい上着をまとった官女がならぶ、そこ二つの角と五つの爪を持つ龍に化身された皇帝が鎮座されているのが分かった、科挙試験合格が実感として感じる。
九陌喧,千戶啓,滿袖桂香風細。
長安城の南北にぬける「九通」はどの通りも喧しくなり、たくさんの邸宅、家という家の門は開かれた、及第者は、各家を回って祝ってもらう、通りの大勢の人々は手を振って喜んでくれ、各所で焚かれる桂のお香は春のおだやかな微風に乗って届いてくる。
杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。
夕方には、杏園で、歓喜の祝宴を賜り、曲江のほとりの砂浜でも色とりどりの幔幕が張られ祝いの宴が催され、長安の街を園遊する。このようにいま自分は目標を達成し、よい日、よい時を一人でかみしめ、満喫しているのだ。
(喜遷鶯三首 其の二)
金門の曉,玉京の春,駿馬は驟【はし】り 輕塵【じんけい】す。
樺煙 深處 白衫の新,認得す 龍身に化するを。
九陌の喧,千戶の啓,滿袖 桂香 風細やかなる。
杏園の歡宴 曲江の濱,自ら此に 芳辰を占む。
(改訂版)-4.薛昭蘊136《巻三36喜遷鶯三首 其二》
『喜遷鶯三首 其二』 現代語訳と訳註
(本文)
喜遷鶯三首 其二
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。
樺煙深處白衫新,認得化龍身。
九陌喧,千戶啓,滿袖桂香風細。
杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。
(下し文)
(喜遷鶯三首 其の二)
金門の曉,玉京の春,駿馬は驟【はし】り 輕塵【じんけい】す。
樺煙 深處 白衫の新,認得す 龍身に化するを。
九陌の喧,千戶の啓,滿袖 桂香 風細やかなる。
杏園の歡宴 曲江の濱,自ら此に 芳辰を占む。
(現代語訳) (改訂版)-4.薛昭蘊136《巻三36喜遷鶯三首 其二》
(喜遷鶯三首 其の二:科挙に及第したその当日、天子に謁見し、その後街に出て祝福を受け、杏園、曲江での祝宴を満喫すると詠う。)
いつも見る金光門の暁が、今日は晴れやかだ、天子におあいできる輝かしい都の春である、駿馬もこの日は次々に入城してきて、急ぎ馬が砂塵を巻いて突っ走り、人も集まって進むと砂塵が舞う。
謁見の宮殿には樺の燭火の煙は奥まったところにまで漂っていて、そこには白く新しい上着をまとった官女がならぶ、そこ二つの角と五つの爪を持つ龍に化身された皇帝が鎮座されているのが分かった、科挙試験合格が実感として感じる。
長安城の南北にぬける「九通」はどの通りも喧しくなり、たくさんの邸宅、家という家の門は開かれた、及第者は、各家を回って祝ってもらう、通りの大勢の人々は手を振って喜んでくれ、各所で焚かれる桂のお香は春のおだやかな微風に乗って届いてくる。
夕方には、杏園で、歓喜の祝宴を賜り、曲江のほとりの砂浜でも色とりどりの幔幕が張られ祝いの宴が催され、長安の街を園遊する。このようにいま自分は目標を達成し、よい日、よい時を一人でかみしめ、満喫しているのだ。
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薛昭蘊(喜遷鶯三首 其の一:進士にやっと及第し、貴族の庭園をまわり、杏園で祝賀で飲み過ぎてたので、気持ちの良い春暁も二日酔いで台無しだ、それにしても、及第したものよりもはるかに落第したものが多くいえり袖を濡らしたことだろう、しかし、落第した型といって、羨んでいても仕方ないと詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊135《巻三35喜遷鶯三首 其一》巻三3535-〈135〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5877
遷鶯 鶯遷のこと。 鶯が谷から出て大きな木に移ること。転じて、立身出世すること。進士の試験に及第することをいう。科挙の試験に合格し、朝まだき、天子にお目見えするさまを、道教の神、玉華君にお目見えするさまを借りて詠うもので率直な表現をしている。前段は、天子に拝謁に向かう騎馬の行列の鳴り物入りの賑やかなさまは他人の騒がしさ、襟や袖を吹き過ぎる夜明けの風の模様、五更の空は自分自身が感じるこれまでと違った感覚などを描写する。後段は、参内する科挙の合格者の騎馬の列、それを導く儀仗隊の盛んなさま、合格者の豪華な着衣などを描写した後、いよいよ天子に拝謁するさまを述べる。韋荘は科挙の試験に幾度も失敗を重ね、晩年、五十九歳になって初めて合格した。この詞には、その歓びのさまが言葉の端々に表れている。後段最後の「玉華君に引見せらる」の句は、科挙の合格者が、天子直々の試験、殿試験を受けることを言ったものである。
『喜遷鶯二首』其一、『題酒家』「酒綠花紅客愛詩,落花春岸酒家旗。尋思避世爲逋客,不醉長醒也是癡。」題酒家 韋荘 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-278-5-#32 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2937
韋莊 長安春
長安二月多香塵、六街車馬聲鈴凛。
家家楼上如花人、千枝萬枝紅艶新。
簾間笑語自相問、何人占得長安春。』
長安春色本無主、古来盡屬紅樓女。
如今無奈杏園人、駿馬輕車擁将去。』
長安春 韋荘 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-269-5-#23 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2892
薛昭蘊 喜遷鶯三首 其二
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。
樺煙深處白衫新,認得化龍身。
九陌喧,千戶啓,滿袖桂香風細。
杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。
9 17 喜遷鶯三首 其二 (薛昭蘊)薛侍郎昭蘊ⅩⅫ唐五代詞・「花間集」 Gs-394-9-#17 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3517
またの名を《早梅芳》、《春光好》、《烘春桃李》、《喜遷鶯令》、《萬年枝》、《燕歸來》、《鶴沖天》、《鶴冲霽》、《燕帰梁》、などという。「花間集」には韋荘の詩二首収められている。双調四十七字、前段二十三字五句五平韻、後段二十四字五句二仄韻二平韻で、③③⑤⑦⑤/3❸❻⑦⑤の詞形をとっている。
喜遷鶯三首 其一
(女、女妓の一生を詠う。)
殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。
名残の月も沈んで、暁の仕事始めの鐘が打ち鳴らされ、酔いはのこったまま、その身はまだ夢見心地なのだ。
乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。
たちまちのうちにうとうとともできない二日酔いのようである。杏の中庭の庭園には雪のように花が咲いてお天気も晴れてきた。
紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。
都大路は花が咲き長く続く、おんなの襟や袖は涙にぬれて冷たい、これは女の本筋ではなかったのだがこれが人の世の風景というものなのだ。
迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。
この人の世の塵の様なものまで見まわしてみると結局、前の年も、その前も、そして、自分たちの前世も似たようなものなのである。春を告げる鶯の声を羨むことをやめたのだろう谷の奥の方に行ってしまった。
其二
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。
樺煙深處白衫新,認得化龍身。
九陌喧,千戶啓,滿袖桂香風細。
杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。
其三
清明節,雨晴天,得意正當年。
馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。
花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。
日斜無計更留連,歸路艸和煙。
(改訂版)-4.薛昭蘊135《巻三35喜遷鶯三首 其一》
喜遷鶯三首 其一
殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。
昨日の祝宴で飲み過ぎて、名残の月も沈んでしまい、暁の仕事始めの鐘が打ち鳴らされた、酔いはのこったままで天にも昇るほど、身が軽くまだ夢見心地なのだ。
乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。
そんな春眠はたちまちのうちに醒めてしまう、ところが、どうやら二日酔いのようである。杏の中庭の庭園には春の雪が降っていたが、夜明けから天気も晴れてくる。
紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。
牡丹の花を廻ってお屋敷をはしごした、都大路は長く、落第してえりと云い袖と云い涙でぬれたものにとって朝の風は冷たいし、しかし、これだけが人の世の風景というものではない。
迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。
この人の俗世間を見まわしてみると結局、ずっと以前から同じようなことを繰り返している、だからといって、鶯が啼いて谷を移り変わってゆく、世渡りの上手い立身出世を遂げてゆく絶頂期のものを羨んだりすることはやめたほうが良い。
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(改訂版)-4.薛昭蘊135《巻三35喜遷鶯三首 其一》
『喜遷鶯三首 其一』 現代語訳と訳註
(本文)
喜遷鶯三首 其一
殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。
乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。
紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。
迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。
(下し文)
喜遷鶯三首 其一
殘蟾【ざんせん】落ち,曉鐘【ぎょうしょう】鳴る,羽化 身輕を覺ゆ。
乍ち春睡無く餘酲有り,杏苑 初めて晴れ雪のごとし。
紫陌 長く,襟袖 冷か,是れなく人間風景を。
迴看し塵土 前生に似たり,羨むを休む 谷中の鶯。
(現代語訳)
(女、女妓の一生を詠う。)
(喜遷鶯三首 其の一:進士にやっと及第し、貴族の庭園をまわり、杏園で祝賀で飲み過ぎてたので、気持ちの良い春暁も二日酔いで台無しだ、それにしても、及第したものよりもはるかに落第したものが多くいえり袖を濡らしたことだろう、しかし、落第した型といって、羨んでいても仕方ないと詠う。)
昨日の祝宴で飲み過ぎて、名残の月も沈んでしまい、暁の仕事始めの鐘が打ち鳴らされた、酔いはのこったままで天にも昇るほど、身が軽くまだ夢見心地なのだ。
そんな春眠はたちまちのうちに醒めてしまう、ところが、どうやら二日酔いのようである。杏の中庭の庭園には春の雪が降っていたが、夜明けから天気も晴れてくる。
牡丹の花を廻ってお屋敷をはしごした、都大路は長く、落第してえりと云い袖と云い涙でぬれたものにとって朝の風は冷たいし、しかし、これだけが人の世の風景というものではない。
この人の俗世間を見まわしてみると結局、ずっと以前から同じようなことを繰り返している、だからといって、鶯が啼いて谷を移り変わってゆく、世渡りの上手い立身出世を遂げてゆく絶頂期のものを羨んだりすることはやめたほうが良い。
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(訳注)
喜遷鶯三首 其一
(喜遷鶯三首 其の一:進士にやっと及第し、貴族の庭園をまわり、杏園で祝賀で飲み過ぎてたので、気持ちの良い春暁も二日酔いで台無しだ、それにしても、及第したものよりもはるかに落第したものが多くいえり袖を濡らしたことだろう、しかし、落第した型といって、羨んでいても仕方ないと詠う。)
喜遷鶯は、またの名を喜選鶯令、鶴冲天、鶴冲霽、燕帰来、燕帰梁、早梅芳、春光好などという。遷鶯は鶯遷のこと。 鶯が谷から出て大きな木に移ること。転じて、立身出世すること。進士の試験に及第することをいう。科挙の試験に合格し、朝まだき、天子にお目見えするさまを、道教の神、玉華君にお目見えするさまを借りて詠うもので率直な表現をしている。“花間集」には薛昭蘊の詩三首収められている。双調四十七字、前段二十三字五句五平韻、後段二十四字五句二仄韻二平韻で、3③⑤⑦⑤/3❸❻⑦⑤の詞形をとっている。
(改訂版)喜遷鶯三首 其一
殘蟾落、曉鐘鳴、羽化覺身輕。
乍無春睡有餘酲、杏苑雪初晴。
紫陌長、襟袖冷、不是人間風景。
迴看塵土似前生、休羨谷中鶯。
殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。
昨日の祝宴で飲み過ぎて、名残の月も沈んでしまい、暁の仕事始めの鐘が打ち鳴らされた、酔いはのこったままで天にも昇るほど、身が軽くまだ夢見心地なのだ。
・殘蟾 二十日過ぎの月の名残。つまり夜明けの後に沈んでゆく月のこと。
・曉鐘 暁の仕事始めの鐘。当時は夜明け前に仕事場に入らなければいけなかった。
・羽化 1.昆虫が、蛹(さなぎ)や幼虫から、成虫になること。→蛹化(ようか)。2 羽化登仙 《蘇軾「前赤壁賦」から》中国古代の信仰で、からだに羽が生え仙人となって天へのぼること。また、酒に酔ってよい気持ちになったときのたとえにいう。羽化。
羽化覺身輕 科挙及第になった
杜甫『漫成 二首其一』「野日荒荒白,春流泯泯清。渚蒲隨地有,村徑逐門成。只作披衣慣,常從漉酒生。眼邊無俗物。多病也身輕。」(野の日びは 荒荒として白く,春の流れは 泯泯として清し。渚の蒲 地に隨って有り,村の徑 門に逐って成る。只 作るは 衣を披き慣れる,常に從うは酒生ずるを漉【こ】す。邊を眼るに俗物は無し。病多くして身輕と也。)
漫成二首其一 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 6) 杜甫 <411> 五言律詩 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2000 杜甫詩1000-411-594/1500
乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。
そんな春眠はたちまちのうちに醒めてしまう、ところが、どうやら二日酔いのようである。杏の中庭の庭園には春の雪が降っていたが、夜明けから天気も晴れてくる。
・春睡 春眠と同じ。孟浩然《春曉》「春眠不覺曉,處處聞啼鳥。夜來風雨聲,花落知多少。」
・餘酲 ふつかよい。酲:酒に酔ってもうろうとなる.ふつかよい。宿酔。杏園から春の科挙祝宴、饗宴での妓優や女妓とのその日の無礼講を連想する。
・杏苑雪初晴 杏園における祝賀の宴。杏苑は杏園とおなじ。
・杏園:官吏登用試験(科挙)に合格した進士たちの祝宴会場。科挙に合格した進士には、曲江の池の畔(ほとり)の杏園で、祝宴を賜り、長安の街で園遊し、咲き誇る牡丹などの花を観賞する慣わしがあった。《唐摭言》巻六 「唐進士杏花園初會謂之探花宴,擇少俊二人為探花使,徧遊名園,若他人先折得花,二人皆受罰。」
唐の神龍(705)ごろから杏園での祝宴の後、合格者全員慈恩寺塔のもとに詩を題して書いた。その題内一番優秀の者はこれを記録し後世に残された。
《唐摭言》卷三 「自神龍已來,杏園宴後,皆於慈恩寺塔下題名,同年中推一善書者記之。」
・杏園人:科挙に合格し、新たに進士となった人たちを指す。
長安曲江 杏園 進士の試験は秋にあり、翌年の春の花が咲き誇る時期に結果発表がある。官吏登用試験(科挙)に合格した進士には、長安の曲江西の池の畔(ほとり)にあった杏園で、祝宴を賜り、長安の街を園遊し、咲き誇る牡丹などの花を観賞する慣わしがあった。また、貴族は自邸自慢のボタンを庭を開放して鑑賞させ、合格者の無礼を許した。
・長安:唐の首都。現・陝西省・西安。科挙の最終試験会場もここにあり、科挙合格者の祝宴もここで開かれる。
孟郊はそれに落第して、落胆のさまを『再下第』「一夕九起嗟,夢短不到家。兩度長安陌,空將涙見花。」とうたった。この詩もそれと似た感情を詠っていよう。
孟郊は『登科後』で「昔日齷齪不足誇,今朝放蕩思無涯。春風得意馬蹄疾,一日看盡長安花。」と、がらりと変わった詩を作っている。 唐宋詩236 登科後 Ⅶ孟郊(孟東野)<19>紀頌之の漢詩ブログ
長安の春
長安二月多香塵、六街車馬聲鈴凛。
家家楼上如花人、千枝萬枝紅艶新。
簾間笑語自相問、何人占得長安春。』
長安春色本無主、古来盡屬紅樓女。
如今無奈杏園人、駿馬輕車擁将去。』
長安春 韋荘 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-269-5-#23 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2892
紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。
牡丹の花を廻ってお屋敷をはしごした、都大路は長く、落第してえりと云い袖と云い涙でぬれたものにとって朝の風は冷たいし、しかし、これだけが人の世の風景というものではない。
紫陌長 長安の東西に走る大通り。都の街路。都の市街。合格者は、何処のに葉にも入って行けたし、合格を祝ってもらった、そうすると都大路は。とても長く感じた。
襟袖冷 襟には頬をつたわって流れた涙でぬれ、袖は涙を吹いて濡れていて冷たい。
不是人間風景 この街には悲喜こもごも合格発表に泣くものの方がはるかに多い。
迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。
この人の俗世間を見まわしてみると結局、ずっと以前から同じようなことを繰り返している、だからといって、鶯が啼いて谷を移り変わってゆく、世渡りの上手い立身出世を遂げてゆく絶頂期のものを羨んだりすることはやめたほうが良い。
塵土 1 ちりと土。取るに足りないもの、値うちのないもののたとえにもいう。2 けがれた現世。俗世間。
谷中鶯 谷の中の鶯。谷を移り変わってゆく、世渡りの上手い立身出世を遂げてゆく絶頂期のものをいう。
薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其八(浣溪の沙 八首其の八 :西施のように美しい娘は、生娘でその魅力を認められたが、歳をとってしまえば、若い時の魅力はなくなるものだと詠う)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊134《巻三34浣溪紗八首 其八》巻三3434-〈134〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5872
雇われたり手伝い仕事をする女性は必ずしも針仕事だけではなく、その他の生計の道もあった。九隴(四川省彭県)の人張守珪は茶園を一つ持っていた。彼は「毎年茶摘みの人を百余人旦雇った。男女の雇工が茶畑に入り混っていた」(『太平広記』巻三七「陽平諦仙」)。これは女性が茶摘みに雇われた例である。張薦の著した『霊怪集』には、鄆州(山東省東平県)の関某なるものが、紐という姓の女を傭婦として雇い、それに衣食を給して酷使した話が載っている(『太平広記』巻二八六)。これは家の雑事に雇われた例である。これらの傭婦たちの大半は生きるすべがなく、他人に雇われたものであるが、しかし彼女たちと主人の関係は雇傭関係であって、売買可能な奴碑と同じではなかった。その他にも、別の仕事に従事する女性も若干あった。
澄州(広西省上林県)の砂金採りの女性たち。劉禹錫 《浪淘沙九首其六》「日照澄洲江霧開,淘金女伴滿江隈。美人首飾侯王印,儘是沙中浪底來。」(日は澄みたる洲を照らし江霧は開け、金を淘う女伴は江の隈に満つ。美人の首飾 侯王の印、尽く是れ抄の中 狼の底より来る)。
その他に手工業に従事する女性もいる。広州に何二娘という女がおり、年わずか二十歳で専ら靴を編んで生業としていた(『太平広記』巻六二)。
これら農業以外の仕事に従事する女性たちは、農家の女性と同じょうに、唐代社会の経済的発展、富の蓄積、さらには科学技術文明に対して貢献をなしたのである。
花間集において、労働する女性を詠う場合、その労働の部分は、かつて純真無垢の乙女であった時をいう場合が多く、その後、選ばれて、後宮にあがった、官妓になって名声を得たとか、比較するための常套である。西施が、素足で水辺にいたのをスカウトされる。採蓮曲なども、腕をあらわにし、素足を出す乙女を詠うものである。これら同じ労働する無垢な少女がその美貌で栄華を得るサクセスストーリが描かれている。浣溪沙八首其八では「越女淘金春水上」とその少女は素足で砂を浣っていたのである。
(旧解)
浣溪沙八首其八
(浣溪の沙 八首其の八 妓女の一生を詠う)
越女淘金春水上,步搖雲鬢珮鳴璫,渚風江草又清香。
越地方にくるとの美女がす足で金を水に選りわけ作業をしているがそれは春の雪解け水の水嵩が増えているあたりだ。歌に合わせて揺れ動き雲型の髪を高く結い、動きに合わせて帯玉や耳飾りが鳴っている。中州の渚に風が吹き、大江の土手の草が揺れると、また、風に乗って、乙女らの清々しい香りが漂ってくる。
不為遠山凝翠黛,只應含恨向斜陽,碧桃花謝憶劉郎。
春の山は遠きに霞みにうつる体ではないし、翡翠のような眉に似せてはもう画けない。ただ、年増になった女妓にとってまさにこの山に日がかたむいて來るとどうしても怨みの思いを含んだ景色ということなるのだ。青い桃の花がやがてパッと咲くが、それもつかの間、花は落ちてしまい、まるで浦島太郎の様な一時のことだと思うのである。
(浣溪の沙八首其の八)
越女が春水の上で金を淘【よな】げ,雲鬢を步み搖らし 珮 璫を鳴らせる,渚風【ちょふう】 江草 又た清香なり。
遠山 翠黛を凝すを為さず,只だ應に恨みを含むは 斜陽に向い,碧桃も花謝【お】ち 劉郎を憶うを。
薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首其七 呉王夫差の領地である呉の国は、むなしく落日に晒されている。 越王の勾践は自らの宮殿に火をつけて、闘う志気を昂揚させ攻めこんだが、その宮殿は、今、半ば雜草に埋もれてしまっている。太湖に、ハスの花がいっぱいに咲いて、ヒシがいっぱいに繁って、「採蓮曲」の歌が響いている。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊133《巻三36浣溪紗八首 其七》巻三3633-〈133〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5867
(旧解)
浣溪沙八首其七
(郊外の乙女の時に好きになって、何年かたって春別れて秋になっても合いには来てくれない道女の心を詠う)
傾國傾城恨有餘,幾多紅淚泣姑蘇,倚風凝睇雪肌膚。
国を亡ぼすほどの美貌には、恨みごとが、余りあるほどである。幾多の女性が姑蘇城に涙を流して泣いたことだろう。どれほど多くの女性がここ、姑蘇城に涙を流したことだろう。 風に乗って瞳をこらせば、雪のように真っ白な美しい肌の女性だ。
吳主山河空落日,越王宮殿半平蕪,藕花菱蔓滿重湖。
呉王夫差の領地である呉の国は、むなしく落日に晒されている。 越王の勾践の宮殿は、半ば、草に埋もれている。ハスに花が咲き、ヒシが繁って、太湖に、いっぱいになっている。
(改訂版)-4.薛昭蘊133《巻三36浣溪紗八首 其七》
浣溪沙八首其七
(浣溪紗八首 其の七:呉越戦争に絡んだ、呉と越の地をそれぞれの地に立って思いうかべて歌ったもの。)
傾國傾城恨有餘,幾多紅涙泣姑蘇,倚風凝睇雪肌膚。
男をして国や白を滅ぼして顧みぬまでに心酔させるほど妖艶な美女には、恨みごとが、余りあるほどである。たった200本の立派な黒檀が夫差の警戒心を解き、呉の国庫にダメージを与えることになった豪奢な五層の大宮殿を完成させ、姑蘇台となずけたが、幾多の女性が姑蘇城にあつめられ、涙を流して泣いたことだろう。どれほど多くの女性がここ、姑蘇城で忍び泣き、涙を流したことだろう。若耶溪で風に乗って瞳をこらして見つけ呉主山河空落日,越王宮殿半平蕪,藕花菱蔓滿重湖。
呉王夫差の領地である呉の国は、むなしく落日に晒されている。 越王の勾践は自らの宮殿に火をつけて、闘う志気を昂揚させ攻めこんだが、その宮殿は、今、半ば雜草に埋もれてしまっている。太湖に、ハスの花がいっぱいに咲いて、ヒシがいっぱいに繁って、「採蓮曲」の歌が響いている。
(浣溪紗八首 浣溪沙その七)
傾國傾城 恨みは餘り有り,幾多の紅涙 姑蘇に泣く,風に倚り 睇【ひとみ】を凝【こ】らせば 雪の 肌膚。
呉主の山河 空しく落日,越王の宮殿 半ば平蕪,藕【はす】 花さき菱【ひし】蔓【の】びて 重湖に滿つ。
浣溪沙八首其八
越女淘金春水上,步搖雲鬢珮鳴璫,渚風江草又清香。
不為遠山凝翠黛,只應含恨向斜陽,碧桃花謝憶劉郎。
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.薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其六 それでも、ここで別れるということは、江南に旅立ってしまうと心は断ち切れ、いかに、巫女と皇帝の化身である楚の雨も、その降るところを迷ってしまう。舜の娥皇と女英の湘江のほとりで瑟を奏でたように思い続けても、離別に堪えきれなくて、怨みを持ち、水に投身することになるということをいうが、私の心は、志が高く、清廉潔白であって、「月高霜白」である、それに、その清廉な空と大江の流れとは連なっているではないか。(だから余計な心配はするな)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊132《巻三35浣溪紗八首 其六》巻三3532-〈132〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5862
薛昭蘊:五代、後蜀*の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。
(*後蜀(935-965)は中国五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した国。四川の豊かな財物を背景に文化の華を開かせた。)
醇紹撃(生没年未詳900年代前半)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。
今、花間集に侍郎とあり、また、その中に収められた十八首の詞の中、八首の浣渓沙があることから推量して薛昭蘊は紹緯と同じ人物であろうといぅ説が考えられるといわれている。晩年に磎州(渓州に同じであろう、広西に属する)に配せられているが、全唐詩の薛紹緯の条には天復中(唐末の年号、901-903)に渓州司馬に貶せられたといぅひおそらくこの頃に貶せられたであろう。なお、北夢瑣言では薛澄州と呼んでいる。澄州もまた広西に属する。また、全唐詩に河東の人とあるのは、おそらく薛氏の出身地を言うのであろう。
歴代詩余の詞人姓氏では前蜀に編入して蜀に仕えて侍郎となったごとく記している。この説に従ってかれが韋荘と同じく蜀に仕えて侍郎となったとしている伝記も見受けられるが、紹澄が紹緯と同一人であるとすると上記の経歴と矛盾を生ずる。王国維は紹緯と薛昭蘊とを兄弟と見て、一門に浣溪沙詞を好んだものがあったと解しているが、この説よりも上にのべた同一人と見る説の方がよいようだ。花間集において温庭筠、皇甫松、韋荘についで薛昭蘊を並べているのも、唐王朝に仕えた人物を先に置いたためであろう。両者を同一人としておいた。

.薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首其五 元宵節の時に知り合って、親の目を盗んで、月一回のお参りに、寒食・清明節と逢瀬を重ねた。才色兼備の令嬢崔鶯鶯はと書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、それは悲恋に終わったと詠う。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》巻三3431-〈131〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5857
才色兼備の令嬢崔鶯鶯は、書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、というロマンチックな物語も生れた(元稹『蔦鴬伝』)。これは後世、ながく名作として喧伝されることになる戯曲『西廂記』 の原話である。これは中国古代の恋愛物語の典型ということができる。また、別の話であるが、美しくて聡明な官僚の家の娘無双は、従兄と幼い時から仲良く遊び互いに愛し合っていた。後に無双が家族の罪に連坐し宮中の婢にされると、この従兄は侠客に頼んで彼女を救い出し、二人はめでたく結婚したという話(薛調『劉無双伝』)。名妓李娃は、自分のために金と財産を使い果し、乞食に落ちぶれた某公子を救い、さんざん苦労して彼が名を成すのを助け、二人は白髪になるまで一緒に暮らしたという話(『李娃伝』)。妓女霞小玉は才子の李益を死ぬほど愛したが、李益は途中で心変りして彼女を棄ててしまった。小玉は気持が沈んで病気にかかり、臨終に臨み李益をはげしく恨んで失恋のため死んでしまったという話(蒋防『霍小玉伝』)。唐代には、こうした話以外に、人と神、人と幽霊、人と狐が愛しあう「柳毅伝書」、「蘭橋遇仙」など有名な物語がたくさん生れた。唐代の愛情物語は、中国古代のなかできわだっており、後代の戯曲、小説に題材を提供する宝庫となった。
愛情物語の中ばかりでなく、現実の生活の中でも、当時の労働する女性たちが自由に恋愛し夫婦となることは、どこでもわりに一般的に見られることであった。「妾が家は越水の辺、艇を揺らして江煙に入る。既に同心の侶を覚め、復た同心の蓮を来る」(徐彦伯「採蓮曲」)。あるいは「楊柳青青として 江水平らかに、邸が江上の唱歌の声を聞く。東辺に日出で西辺は雨、遣う是れ無暗(無情)は却って有晴(有情)」(劉禹錫「竹枝詞」)などと詠われている。これらは労働する女性たちの自由な愛情を描いている。彼女たちは長年屋外で働いていたので、男性との交際も比較的多かった。同時にまた、封建道徳観念は稀薄であり、感情は自然で自由奔放であったから、自由な恋愛はわりに多くみられた。一般庶民の家の娘は礼教の影響や束縛を受けることが比較的少なく、自由な男女の結びつきは常に、またどこにでも存在していたのである。たとえば、大暦年間、才女の見栄は隣に住む文士の文茂と常に詩をやりとりして情を通じ、また機会を見つけては情交を重ねた。見栄の母はそれを知り、「才子佳人というものは、往々にしてこんなふうになるものだ」と嘆息したが、ついに二人を結婚させた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」)。この話は、当時の社会には男女の自由な恋愛やひそかな情交があったばかりでなく、こうした関係を父母が許していたことも示している。
女性が恋人と駆落ちするという事件も時々発生した。白居易は次に紹介する詩の中で、庶民の娘の「駆落ち」について書いている。
井底引銀缾 白居易 (井底より銀缾を引く)白居易(白氏文集 巻四)
井底引銀缾、銀瓶欲上糸縄絶。
石上磨玉簪、玉簪欲成中央折。
瓶沈簪折知奈何、似妾今朝与君別。
憶昔在家為女時、人言挙動有殊姿。
嬋娟両鬢秋蝉翼、宛転双蛾遠山色。
笑随戯伴後園中、此時与君未相識。
妾弄青梅憑短牆、君騎白馬傍垂楊。
牆頭馬上遥相顧、一見知君卽断腸。
知君断腸共君語、君指南山松柏樹。
感君松栢化為心、暗合双鬢逐君去。
到君家舎五六年、君家大人頻有君。
聘則為妻奔是妾、不堪主祀奉蘋蘩。
終知君家不可住、其奈出門無去処。
豈無父母在高堂、亦有情親満故郷。
潜来更不通消息、今日悲羞帰不得。
為君一日恩、誤妾百年身。
寄言癡小人家女、慎勿将身軽許人。
(井底より銀缾を引く)
井の底より銀缾を引きあぐに、銀桝は上らんと欲で糸縄絶つ。
石の上にて玉くつわ簪を磨くも、玉簪は成らんと欲て中央より折れたり。
研沈み簪折れる 知らず奈何せん、妾 今朝君と別れるに似たり。
憶うに昔家に在りて女為りし時、人言う 挙動に殊姿有りと。
嬋娟な両鬢は秋蝉の翼、宛転った双蛾は遠山の色。
笑いで戯伴に随う後園の中、此の時君と末だ相い識らず。
妾は青梅を弄びて短塔に憑りかかり、君は白馬に騎って垂楊に傍う。
墻頭と馬上とで遥かに相い顧み、一見して君が即ち断腸たるを知る。
君の断腸たるを知りて君と共に語り、君は南山の松柏の樹(雄大にして常緑なる巨木のたとえ)を指さす。
君が松柏を化して心と為す(わが心は松柏の如く四時変ることがない)に感じ、闇かに双鬟(少女の髪型)を合して君を逐うて去る。
君が家に到りて舎ること五、六年、君が家の大人頻りに言有り(小言をいう)。
「聘すれば(礼をもって迎えたならば)則ち妻と為り 奔すれば(出奔して来たならば)是れ妾、
主祀(祭りの主宰)として蘋蘩(供物とするヨモギ科の草)を奉ずるに堪えず」と。
終に君が家の住まる可からざるを知るも、其れ門を出でて去く処無きを奈んせん。
豈 父母の高堂に在る無からんや、亦た親情(肉親)の故郷に満つる有り。
潜かに来れば更に消息を通ぜず、今日 悲しみ羞じて帰り得ず。
君が一日の恩の為に、妾が百年の身を誤る。
言を痴小なる人家の女に寄す、「慎んで身を将て軽しく人に許すこと勿れ」と。
白居易は詩を書いて世の人々を戒めたのであるが、こうした駆落ちは決して例外的なことではなく、また結婚も必ずしも両家の家長の承認を得なければならないものでもなかったことが分かる。官僚の家の女子の自由恋愛は比較的困難であったが、元稹が自分の経験に基づいて書いた『鴬鴬伝』や、陳玄祐の『離魂記』、薛調の『劉無双伝』などの小説が世に出現したことは、彼女たちの中にも崔鶯鴬のような、封建道徳への反逆者たちが出現していたことを示している。六朝以来、儒教的恋愛観は嫌気があり、そこに、北方文化との融合があって、自由な恋愛が広がったのである。(この時期の自由恋愛の風潮は、中國のみならず、日本を含めた世界的なものである。)
要するに、唐代の女性たちの愛を追求する想いは、決して封建道徳というのはこの頃は成熟していなくて、完全に圧殺されはしなかったし、彼女たちの勇気に人々は感嘆の声を上げたのである。
唐代の女性の恋愛観は社会全体の価値観の影響を全面的に受けて、相手に「文才」があることをとても重んじた。小説はもちろん現実の世界においても、女性が愛する対象はたいてい風流才子であった。「我は悦ぶ 子の容艶を、子は傾く 我が文章に」(李白「情人に別れしひとに代りで」)、「娘は才を愛し、男は色を重んじる」(『零小玉伝』)というように、女は男の才能を愛し、男は女の容色を重んずるというのが、唐代の男女の典型的な恋愛観であった。ここから、後世の小説や戯曲の中の「才子佳人」という恋愛パターンが形成されたのである。
.薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其四(万物が成長する春に、橋のたもとで別れることもあり、八が花に飛び移る別れもある、そこには香り豊かないい思いでがあるべきで琴の音に寄せるものであるべきで、どんなに思い愛、その気持ちが深くなっても、別れというものはあるものだと詠う。)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊130《巻三33浣溪紗八首 其四》巻三3330-〈130〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5852
(旧解)
浣溪紗八首 其四
(浣溪紗八首 其の四 春になると春水に、柳に、蜂に、琴に、雲霧に、月にあの人のことを思い出してしまう。)
握手河橋柳似金,蜂鬚輕惹百花心,蕙風蘭思寄清琴。
手を握りあったのは河橋のたもとの柳が金のように芽吹き繁る下でした。蜂はその鬚でもって、輕やかに百花の芯に惹かれ、飛び回るのです。花のかおりが風に乗って吹いて来て、そのなかの蘭のはなに思いよせると、いつのまにか清がしい琴の音に寄ってしまうのです。
意滿便同春水滿,情深還似酒盃深,楚煙湘月兩沉沉。
あの人への思いは胸いっぱいであり、ちょうど今、川いっぱいの春の増水とおなじのようなのです,あのひとのおもい、やさしさはとても深く、だから、また、酒盃をいっぱいに何度も注いでくれることのようでした,楚の巫女と皇帝の化身である靄、カスミが漂い、舜の後を追って湘水に身を投げた娥皇と女英が月に化身している,そのふたつの思いは、やがて沉沉とおさまっていくものです。
(改訂版)-4.薛昭蘊130《巻三33浣溪紗八首 其四》
浣溪紗八首 其四
(浣溪紗八首 其の四 万物が成長する春に、橋のたもとで別れることもあり、八が花に飛び移る別れもある、そこには香り豊かないい思いでがあるべきで琴の音に寄せるものであるべきで、どんなに思い愛、その気持ちが深くなっても、別れというものはあるものだと詠う。)
握手河橋柳似金,蜂鬚輕惹百花心,蕙風蘭思寄清琴。
手を握りあった「皓首以為期」と言って別れるのは、むかしから河橋のたもとで、柳が金のように芽吹き繁る下でするものだし、蜂という生き物はその鬚でもって、輕やかに飛び回って百花の芯に惹かれるもの、蘭の花に思いよせることは花のかおりが風に乗って吹いて来て、そこには、いつのまにか清がしい琴の音に寄せてしまうもの。春というもの、それぞれひかれるものがあるというものである。
意滿便同春水滿,情深還似酒盃深,楚煙湘月兩沉沉。
この季節は誰も思いを胸いっぱいにするものであり、ちょうど今、春の雪解けのみずが増水するのとおなじのような増加していく,たがいの思いが深くなるというのは、また、大盃に酒を注いでいくと次第に深くなるのと似ている、楚の懐王は「朝雲暮雨」と煙霧のようにまじわり、舜の後を追って湘水に身を投げた娥皇と女英が月に化身している,そのふたつの思いは、やがて沉沉とおさまっていくもの、「楚煙」は雨沈々、「湘月」は湘水に沈々となった、いずれもそこには「送別」というものがあるのである。
(改訂版)-4.薛昭蘊130《巻三33浣溪紗八首 其四》
『浣溪紗八首』 現代語訳と訳註
(本文)
浣溪紗八首 其四
握手河橋柳似金,蜂鬚輕惹百花心,蕙風蘭思寄清琴。
意滿便同春水滿,情深還似酒盃深,楚煙湘月兩沉沉。
(下し文)
(改訂版)《巻三33浣溪紗八首 其四》
手を握るは河橋なり 柳 金に似たるころ,蜂鬚 輕く惹れる 百花の心,蕙風 蘭思 清琴に寄る。
意 滿つ 便ち同うするは 春水滿ちるがごとく,情 深くするは 還た酒盃深くすに似たり,「楚煙」 「湘月」 兩れも 沉沉たり。
(現代語訳) (改訂版)《巻三33浣溪紗八首 其四》
(浣溪紗八首 其の四 万物が成長する春に、橋のたもとで別れることもあり、八が花に飛び移る別れもある、そこには香り豊かないい思いでがあるべきで琴の音に寄せるものであるべきで、どんなに思い愛、その気持ちが深くなっても、別れというものはあるものだと詠う。)
手を握りあった「皓首以為期」と言って別れるのは、むかしから河橋のたもとで、柳が金のように芽吹き繁る下でするものだし、蜂という生き物はその鬚でもって、輕やかに飛び回って百花の芯に惹かれるもの、蘭の花に思いよせることは花のかおりが風に乗って吹いて来て、そこには、いつのまにか清がしい琴の音に寄せてしまうもの。春というもの、それぞれひかれるものがあるというものである。
この季節は誰も思いを胸いっぱいにするものであり、ちょうど今、春の雪解けのみずが増水するのとおなじのような増加していく,たがいの思いが深くなるというのは、また、大盃に酒を注いでいくと次第に深くなるのと似ている、楚の懐王は「朝雲暮雨」と煙霧のようにまじわり、舜の後を追って湘水に身を投げた娥皇と女英が月に化身している,そのふたつの思いは、やがて沉沉とおさまっていくもの、「楚煙」は雨沈々、「湘月」は湘水に沈々となった、いずれもそこには「送別」というものがあるのである。
(訳注) (改訂版)《巻三33浣溪紗八首 其四》
浣溪紗八首 其四
(浣溪紗八首 其の四 万物が成長する春に、橋のたもとで別れることもあり、八が花に飛び移る別れもある、そこには香り豊かないい思いでがあるべきで琴の音に寄せるものであるべきで、どんなに思い愛、その気持ちが深くなっても、別れというものはあるものだと詠う。)
『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、⑦⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。韋荘の浣渓抄の解説参照。
『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。
(改訂版)浣溪紗八首 其一
双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、7⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。
紅蓼渡頭秋正雨、印沙鷗跡自成行、整鬟飄袖野風香。
不語含嚬深浦裏、幾迴愁煞棹舡郎、鷰歸帆盡水茫茫。
双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、⑦⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。
(改訂版)浣溪沙八首其二
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
(改訂版)浣溪紗八首 其三
粉上依稀有淚痕、郡庭花落欲黃昏、遠情深恨與誰論。
記得去年寒食日、延秋門外卓金輪、日斜人散暗消魂。
(改訂版)《巻三33浣溪紗八首 其四》
握手河橋柳似金、蜂鬚輕惹百花心、蕙風蘭思寄清琴。
意滿便同春水滿、情深還似酒盃深、楚煙湘月兩沉沉。
握手河橋柳似金,蜂鬚輕惹百花心,蕙風蘭思寄清琴。
手を握りあった「皓首以為期」と言って別れるのは、むかしから河橋のたもとで、柳が金のように芽吹き繁る下でするものだし、蜂という生き物はその鬚でもって、輕やかに飛び回って百花の芯に惹かれるもの、蘭の花に思いよせることは花のかおりが風に乗って吹いて来て、そこには、いつのまにか清がしい琴の音に寄せてしまうもの。春というもの、それぞれひかれるものがあるというものである。
○握手河橋 別れることを意味した句。漢·李陵《與蘇武三首其三》詩「攜手上河梁,遊子暮何之?徘徊蹊路側,悢悢不得辭。行人難久留,各言長相思。安知非日月,弦望自有時。努力崇明德,皓首以為期。」(手を携えて河梁に上る、遊子暮に何くにか之く。蹊路の側 に徘徊して、悢悢【りょりょう】として辞する能わず。行人久しく留まり難し、各々言う長く相い思うと。安んぞ日月に非るを知らんや、弦望自ら時有る。努力して明徳を崇くせよ、皓首以て期と爲さん。)にもとづいており、橋。送別を示す。
李陵 《與蘇武詩三首 其三》 古詩源 文選 詩<106>Ⅱ李白に影響を与えた詩853 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2813
○蜂鬚 ちじれた髭が蜂がむらがったような顔の男。いわゆる猛者のようなおとこ。はちのくちひげ。・鬚 (あごひげ)、髭(ひげ)とは、人間の顔から顎の下にかけて生える毛のこと。鬚はどうぶつのひげ。ふさ。、あごひげをいう。くちひげ(髭)、ほおひげ(髯)で漢字を使い分ける。
意滿便同春水滿,情深還似酒盃深,楚煙湘月兩沉沉。
この季節は誰も思いを胸いっぱいにするものであり、ちょうど今、春の雪解けのみずが増水するのとおなじのような増加していく,たがいの思いが深くなるというのは、また、大盃に酒を注いでいくと次第に深くなるのと似ている、楚の懐王は「朝雲暮雨」と煙霧のようにまじわり、舜の後を追って湘水に身を投げた娥皇と女英が月に化身している,そのふたつの思いは、やがて沉沉とおさまっていくもの、「楚煙」は雨沈々、「湘月」は湘水に沈々となった、いずれもそこには「送別」というものがあるのである。
・春水滿 四方の沢が春水で満ちること。春の雪解け水はきれいな水が増水していることで、川の中ほどが盛り上がって流れる様子を云う。水の流れを人の心の思いに喩える。そしてそれは、男女が布団の中での情事の様子を連想させるのである。
『春水』
三月桃花浪,江流複舊痕。
朝來沒沙尾,碧色動柴門。
接縷垂芳餌,連筒灌小園。
已添無數鳥,爭浴故相喧。
(春 水)
三月 桃花の浪、江流 復た旧痕まであり。
朝来 沙尾【さび】没し、碧色【へきしょく】柴門に動く。
縷【る】を接して芳餌【ほうじ】を垂れ、筒を連ねて小園【しょうえん】に潅ぐ。
己に添う 無数の鳥、争い浴して故に相い喧【かますび】し。
春水生 二絶其一
二月六夜春水生,門前小灘渾欲平。
鸕鸂鸂鶒莫漫喜。吾與汝曹俱眼明。
其の一
二月の六夜 春水生じ,門前の小灘【しょうたん】渾て平ならんと欲す。
鸕鸂【ろじ】鸂鶒【けいせき】漫【みだり】に喜ぶこと莫れ。吾と汝と曹【むれ】となしは俱に眼明せん。
『春水生 二絕其二』
一夜水高二尺強,數日不可更禁當。
南市津頭有船賣,無錢即買系籬旁。
其二
一夜にして水高くは二尺強,數日にして更に禁當する可からず。
南市 津の頭り 船賣有り,無錢 即ち系籬の旁に買う。
遣意二首 其一
囀枝黃鳥近,泛渚白鷗輕。
一徑野花落,孤村春水生。
衰年催釀黍,細雨更移橙。
漸喜交遊絕,幽居不用名。
其の一
枝に囀【さえず】りて 黄鳥【こうちょう】近く、渚に泛かびて 白鴎【はくおう】軽し。
一徑【いっけい】野花【やか】落ち、孤村【こそん】春水【しゅんすい】生ず。
衰年【すいねん】黍【しょ】を醸【かも】すを催【うなが】す、 細雨【さいう】更に橙【とう】を移す。
漸【ようや】く喜ぶ 交遊【こうゆう】の絶ゆるを、 幽居 名を用いず。
春水生 二絶其一 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 9) 杜甫 <414> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2015 杜甫詩1000-414-597/1500
・情深:盃深 ここは男性の心持を表現するもので、思いが深ければ、盃に酒をいっぱいに注ぐこと。この句も男が女に状を示し、連想させる。
楚煙 「朝雲暮雨」の「楚の朝雲」をいう。《楚(そ)の懐王が夢の中で契りを交わした神女が、朝には雲に、夕暮れには雨になると言ったという、宋玉「高唐賦」などにみえる故事から》男女の堅い契り。
湘月 湘夫人の月琴演奏九歌。《楚辞》九歌篇に歌われる2人の女神。湖南省にある湘水の神とされ,また洞庭湖の水神でもあって,湖中の君山にその祠廟がある。《山海経(せんがいきよう)》に洞庭の山に住む天帝の2人の娘のことが見え,漢の《列女伝》では,この2人は尭帝の娘で舜の妃である娥皇と女英であって,舜が蒼梧で死ぬと2人は湘水に身を投げてその神になったのだとされている。
.薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三 それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》巻三3229-〈129〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5847
各クラスの官僚が彼女たちの門下に出入し、へつらったり賄賂を送ったりして栄達を求めた。彼女たちが顔を出して頼み事をすると、役所は皇帝の詔勅のごとく見なして奔走し、不首尾に終わることをひたすら恐れた。一般の官僚で彼女たちに逆らおうとする人はいなかった。
貴族の女性は衣食住の心配も家事の苦労もなかったので、年中歌舞音曲とお化粧とで暇をつぶした。
彼女たちは豊かといえば豊か、地位が貴いといえば貴かったが、しかしその富貴と地位の大半は、男性の付属物たる身分によって獲得したものであった。彼女たちに富貴をもたらすことができたものは、逆にまた災難をもたらすこともできた。一家の男が一旦勢力を失うと、彼女たちも同様に付属物として巻き添えになった。そして一夜にして農婦、貧女にも及ばない官稗(国有の奴隷)となった。
これが彼女たちの最も恐れたことである。厳武は剣南節度使となって相当好き勝手に振舞った。彼が死ぬとその母はむしろほっとして、「これからは官碑にならないですむ」といった(『新唐書』厳挺之附厳武伝)。(杜甫が厳武について述べている中には、厳武は英雄としての表現しか見当たらない。参考「《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#1》 杜甫」)
「栄耀栄華は束の間のことで長続きはしない」といつも恐れおののいていたほかに、貴族の婦人たちがそれこそ絶えず感じていたのは閨の孤独、夫の薄情に対する恨み、それに容色の衰え易さに対する嘆きであった。唐詩の中で百首に上る「閏怨」詩の大部分が、彼女たちのこの種の心情をよく表現している。花間集以外でたとえば、
王昌齢「閏怨」
閨中少婦 不曽愁、春日凝粧上翠楼。
忽見陌頭 楊柳色、悔教夫婿覓封侯。
閨中の少婦かつて愁えず、春の日に粧いを凝らして翠楼を上る。
忽ち見る 陌頭の楊柳の色を、夫婿をして封侯を求めしむるを悔ゆる。
陳羽「古意」
妾年四十絲滿頭、郎年五十封公侯。
男兒全盛日忘舊、銀床羽帳空飃飅。
妾の年四十にして絲の頭に滿ち、郎の年五十にして公侯に封ぜらる。
男兒は全盛なれば、日びに舊を忘れ、銀床、羽帳は、空しく飃飅たり。
などの詩。こうした心情は彼女たちがただ終日飽食し、何の心配もなく暮らしていたから生れたというだけではない。それよりも重要なのは、彼女たちは下層の労働する女性たちに比べて独立した経済的能力が無かったため、男性に対する依存心が強く、また家庭の中でも地位が低かったために、夫の自分に対する感情に頼らざるを得なかったことによる。しかし、貴族の男たちは往々にしてたくさんの妻妾を持ち、あちこちで女色を漁ったので、おのずから彼女たちは一日中夫の薄情に苦悩し、家庭の中での自分の行く末を案じ、従って自分の容色の衰えを嘆く以外に為すすべがなかった。
命婦制 | 高貴な身分の女性に授与する封号を定めたもの。皇帝の母や妃嬢等に対しては内命婦制が、公主など外朝の男に嫁した者に対しては外命婦制が定められていた。外命婦には国夫人、郡夫人、郡君、県君、郷君の五等級があった。 |
内命婦 | 宮中の全ての妃嬪 |
外命婦 | 公主、王妃、貴婦人 |
外命婦制 | 親王の母と妻を「妃」とし、文武の二品官と国公の母と妻を「国夫人」に封じ、三品官以上の官僚の母と妻を「郡夫人」に封じ、四品官の官僚の母と妻を「郡君」に封じ、五品官の官僚の母と妻を「県君」に封ず、と。以上の婦人はそれぞれ封号を与えられたが、母親の封号には別に「太」の字が付け加えられた。 |
(旧解)
浣溪沙八首其三
其の三(官妓から妾妻に迎えられたものの寒食の時から見むきもされない女を詠う)
粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。
逢いたいのに逢えなかった娘はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡があり、郡役所の官舎の庭に咲く花は散り夕闇となる。思いは遠くにいるあの人のこと、深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。
記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。
忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、延秋の門の外れに車止め、日は傾きてあの人は花が散るように魂消え失せてしまった時でもあるのだ。

(改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》
浣溪沙八首其三
(「郡庭花」として後宮に選ばれて迎えられたものの寵愛を受けることもなく、女の盛りを過ぎてしまう、一度だけ、寒食の日の行楽で心ときめかしたこともあったけど、みんな遠い夢の中と詠う)
粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。
妃嬪はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡がある、郡役所の官舎の大きな庭に咲く花も散り夕闇となってしまう。妃嬪は「郡庭花」として後宮に選ばれては行ったが、しかし、寵愛もないまま花の盛りを過ぎようとしている。情も通うことなく遠く隔ったままで、この深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。
記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。
それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。
(浣溪の沙 八首 其の三)
粉上 依稀【いき】として淚痕有り,郡庭の花 落ち 黃昏【こうこん】せんと欲す,遠情 深恨 誰とか論ぜん。
記【おぼ】え得ぬ 去年 寒食の日,延秋門の外 金輪を卓【と】む,日は斜めに 人は散りて 暗く消魂するなり。
『浣溪沙八首』 現代語訳と訳註
(本文) 薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三
浣溪沙八首其三
粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。
記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。
(下し文) 薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三
(浣溪の沙 八首 其の三)
粉上 依稀【いき】として淚痕有り,郡庭の花 落ち 黃昏【こうこん】せんと欲す,遠情 深恨 誰とか論ぜん。
記【おぼ】え得ぬ 去年 寒食の日,延秋門の外 金輪を卓【と】む,日は斜めに 人は散りて 暗く消魂するなり。
(現代語訳) 薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三
(「郡庭花」として後宮に選ばれて迎えられたものの寵愛を受けることもなく、女の盛りを過ぎてしまう、一度だけ、寒食の日の行楽で心ときめかしたこともあったけど、みんな遠い夢の中と詠う)
妃嬪はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡がある、郡役所の官舎の大きな庭に咲く花も散り夕闇となってしまう。妃嬪は「郡庭花」として後宮に選ばれては行ったが、しかし、寵愛もないまま花の盛りを過ぎようとしている。情も通うことなく遠く隔ったままで、この深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。
それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。
(訳注) (改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》
浣溪沙八首其三
(「郡庭花」として後宮に選ばれて迎えられたものの寵愛を受けることもなく、女の盛りを過ぎてしまう、一度だけ、寒食の日の行楽で心ときめかしたこともあったけど、みんな遠い夢の中と詠う)
この詩は郡令・節度使の娘が、選ばれて後宮に迎えられ、妃嬪となり、親孝行となるも、寵愛を受けることもなく、暇を持て余す。故郷の郡官舎の庭遊んだことを思いだす。しかし、どうしようもないことだが、去年の寒食の時、大勢の行楽行列の中の官僚人の男を見初めた。
その初恋の人を忘れる事は無いとおもっていたが、今年の寒食で見つけることはできなかった。妃嬪もしだいに年を重ねる。もう忘れる事しかないのである。
この詩の背景をまとめると郡令・節度使の娘が、選ばれて後宮に迎えられ、妃嬪となり、死の雰囲気から、寵愛を受ける事のない状態であった。①.初めた男を思い慕う娘、②.後宮の奥院囲でただ寵愛を受ける準備をして生活するだけ、③.自分の意志を伝える手段はないし、④.そこまでの地位ではない。唐宋の性倫理は結構自由であったが、妃嬪という立場は最も高速性の高い者で、若しあやまちがあれば、本人、一族に至るまで死罪である。ただ、解放される場合、貴族、地方貴族、高級官僚には者のように与えられることはあった。
寒食の時、後宮から、クルマを連ねて、楽遊原、曲江、韋曲などに行楽に行く。
当時の娘、妃嬪、など、深窓の中に暮らし、外出する自由はなかった。外出が許されるのは、月十五日の元宵節や、寒食清明、あるいは寺社参りなど、特別な日に限られていた。しかも一人での外出など許されなかった。
本詞の女主人公は、何時:「去年」「寒食日」というから、今年の寒食の日との対比、去年見初めたけれど、今年はなかった。
何処で:「延秋門外」、この門の内外、一般人は近づくこともできない。つまりここに登場するのは、天子に関係した人物である。去年は延秋門から出て行列の中にいた人であるが、その行列の中には今年はいなかったのか、妃嬪そのものが、行楽に参加させてもらえなかったのか。
どうした時:「卓金輪」去年車を止めて乗り降りするときに見かけた、今年は見かけなかった、あるいは妃嬪はこの康楽に参加させてもらえなかった。
寒食の日に延秋門外に行楽に出かけた時の車も、その身分に相応しい立派なものであったことが金輪の語から窺える。妃嬪は、大勢の行列の中の人の男を見初めたが、もちろん男に二正業をかけることなどできるはずもない。やがて日も西に傾き、人々はみな帰り去ってしまった。
花先、花散る寒食の時節になると、特に強く男のことが思い起こされ、密かに涙を流さずにはいられなかったのである。
『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。
(改訂版)浣溪紗八首 其一
双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、7⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。
紅蓼渡頭秋正雨、印沙鷗跡自成行、整鬟飄袖野風香。
不語含嚬深浦裏、幾迴愁煞棹舡郎、鷰歸帆盡水茫茫。
双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、⑦⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。
(改訂版)浣溪沙八首其二
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
(改訂版)浣溪紗八首 其三
粉上依稀有淚痕、郡庭花落欲黃昏、遠情深恨與誰論。
記得去年寒食日、延秋門外卓金輪、日斜人散暗消魂。
粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。
妃嬪はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡がある、郡役所の官舎の大きな庭に咲く花も散り夕闇となってしまう。妃嬪は「郡庭花」として後宮に選ばれては行ったが、しかし、寵愛もないまま花の盛りを過ぎようとしている。情も通うことなく遠くへだったまま、この深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。
○粉上 白粉を塗った頬。
○依稀 かすかなさま。
○郡庭 郡役所の庭。ここでは郡の長官の官舎の庭を指す。郡は中国では県の上の行政単位。
○遠情
記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。
それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。
○寒食 冬至から数えて百五日目。・寒食:清明節の3日前夜。現在の暦で言うと、四月四日前後か。“掃墓”(先祖のお墓参りをして、お墓の掃除をする日)の日でもある。春の盛りから晩春にさしかかる頃。この日は火を焚くことを禁じ、あらかじめ調理しておいた冷えた料理を食べたので寒食と言った。
の「寒食天」:戦国の時、晋国は内乱が発生し、介之推は苦難を恐れなくてに重耳を追随して、困難の時、自分足の肉を切ってスープを作って重耳に飲まされたことがある。重耳が晋文公をした後、介之推は母と隠遁して山奥に行った。重耳は介之推の行ったことが分からない。重耳は行って、あちこちを探しても出せなかった。仕方がなくて彼は、そこで火を放して人を探しす。三日の火が続き、強火が消した後、介之推と母と互いに抱いていっしょに深山の中で焼き殺された。
介之推と母の焼き殺される時間をちょうど清明前の日であり、こちらの忠義の臣を記念するため、清明の時に人々はすべて介之を焼き殺す火を拒絶し、冷たい食品だけを食べて、だからこの日は「寒食節」を叫ぶ。
○延秋門 唐の禁苑の宮門の名。唐 代 長安 禁苑西門。 ・天寶 十四載冬11月5日, 安祿山 起兵叛亂。 次年六月長安陥落,玄宗 即由して 延秋門から長安を脱出し, 蜀に避難に赴く。
▶ 唐 杜甫 《哀王孫》詩: “ 長安 城頭頭白烏, 夜飛 延秋門 上呼。”(長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。)
宋 程大昌《雍錄》卷五: “ 玄宗 幸 蜀 , 自苑西門出, 在 唐 為苑之 延秋門 , 在 漢 為都城 直門 也。 既出, 即由便橋渡 渭 , 自 咸陽 望 馬嵬 而西。”
宋 宋敏求 《長安志》卷六: “苑中宮亭凡二十四所, 西面二門, 南曰 延秋門 , 北曰 玄武門 。”
○卓金輪 立派な車を止める。卓は停める。
(改訂版).薛昭蘊 浣溪紗八首其二 (寵愛を失った妃嬪が寒食、清明節のころには行楽の約束をされて心待ちにしていたが、宮殿の自室に迎えることもなく、行楽に出かけるこうとないまま空しく春を過す。)其の二。額に飾る花鈿の飾物を宝飾箱から出し、菱花の鏡をだす、そして、錦の帯を帯びかけに出して垂れさせ用意する。寒食、清明の行楽に迎えにくる約束の数日は髪を頭頂で左右に分け、耳飾りを多く低くつけて毎日同じようにして待つ。それは、しずかに欄干に臨みおむかえし、頭に飾っているものを取り去って褥に入る時を楽しみにしているからなのだ。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊128《巻三31浣溪紗八首 其二》巻三3128-〈128〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5842
薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。
醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。
<!--[if !supportLists]-->1.<!--[endif]-->女性の美の総論
唐代の人々が美しいと感じる女性は、どのような人であったか。玄宗は太子の妃を選ぶ時、はっきりと「背が高くて色の白い」女子を選ぶようにと言ったことがある(『唐語林』巻一)。寧王李憲(容宗の長子)は、隣に住む餅売りの妻を見初めたが、それは彼女が「肌のきめが細かくて白く、目が輝いて美しい」からであった(『本草詩』情感)。これらは、およそ基本的に唐代の人々の女性についての審美観を反映しており、また中国古代の女性美についての一般的な標準とも一致している。つまり、「長、白、美」の三つであった。長とは身長が高いこと、白とは皮膚の色が白いこと、美とは容貌が美しいことである。中国古代の美人の基準は主にこうした点にあり、唐代の人々も例外ではなかった。その他に、「桜桃 焚素(白居易家の歌妓)の口、楊柳 小蛮(同じく歌妓)の腰」(白居易「楊柳枝詞」)というように、唐代の詩詞や著作の中に反復して出てくる、小さい口、細い腰、白い手、細い足などは、秀麗で繊細な美人の特徴であり、だいたい各時代のそれと一致している。
しかし、人々は唐代の女性美には他の時代にはない特色があったことに注目している。唐代の男性は、背が高く色が白く、細くて優雅な女性を好んだが、しかし決して林黛玉(『紅楼夢』の主人公)のような病弱なものは喜ばなかった。彼らは健康で雄々しく、はては豊満でぽっちゃりした美人を大いに尊んだ(これはただこの時代の好みというだけであって、決してあらゆる人々がいつもこうだったわけではない)。この点に関しては、証拠はたいへん多く、すでに人々の周知のことである。
《体型》
唐代の絵画、彫像に出てくる女性の姿を見ると、彼女たちはみな確かに顔は満月のようにふくよかであり、からだは豊満でまるまるとしている。そして、あの軍服を着て馬に乗って弓を引く女性は、特に堂々とした勇敢な姿を示しており、痩せて弱々しい姿はほとんど見られない。これはまさに唐代の人々の審美観と現実の生活そのものの反映であった。唐代第一の美人楊玉環(楊貴妃)は豊満型の美人であり、漢代の痩身型の美人趨飛燕と並んで、「燕は痩せ環は肥え」といわれ、美人の二つの典型と称された。
このような美意識は、唐代の社会生活と社会の気風から生れた。というのは、唐代の物質生活は比較的豊かであったから、身体がふっくらとした女性が多くいたのである。また社会の気風は開放的であり、北朝の尚武の遺風を受け継ぎ、女性は家から出て活動することもわりに多く、また常に馬に乗って矢を射る活動にも加わっていた。それで、往々女性は健康的で楓爽たる姿をしていたのである。こうした現実が人々の審美観に影響し、そしてこの審美観と時代の好みとが、逆に女性た
ちにこの種の美しさを極力追求させたのである。少なくとも「楚王、細き腰を好む」ために、食を減らすといったことはなかった。これによって、女性は健康で雄々しくかつ豊満であるといった傾向が助長されたのである。
* 『筍子』等に、昔、楚の霊王は腰の細い美人を好んだ。それで宮中の女性は食を減らし餓死したという故事がある。
審美観と密接な関係がある服装と化粧は、女性の生活の重要な一部分であった。この方面の論文や著書はたいへん多いが、ここでは、すでに発表された著作のうち、主として孫機先生の「唐代婦女の服装と化粧」(『文物』一九八四年第四期)と題する一文によって簡単に紹介し、その後で、唐代女性の服装と化粧について、少しばかり私の意見を述べようと思う。
《服装と化粧》
―服装
唐代の女性の服装は、貴賎上下の区別なく、だいたいにおいで杉(一重の上着)、裾(スカート)、岐(肩かけ)の三つからなっていた。上着の衫のすそは腰のあたりで裙でとめる。裙はたいていだぶだぶとして大きく、長くて地面をひきずるほどであり、普通六幅(一幅は二尺二寸)の布で作られた。肩に布をかけるが、これを「帔服」といい、腰のあたりまでゆったりと垂れている。また、常に衫の上に「半臂」(袖の短い上着)をはおったが、これはかなり質のよい布で作り、主に装飾のためのものであった。足には靴か草履をはいたが、これらは綿布、麻、錦帛、蒲などで作られていた。
―化粧
唐代の女性は、化粧にたいへん気をつかった。普通は、顔、胸、手、唇などに白粉や頬紅をつけ、また肌を白くし、あるいは艶やかにしたが、それ以外に眉を画くことをことのほか重視した。眉毛の画き方はたいへん多く、玄宗は画工に「十眉図」を描かせたことがあり、それらには横雲とか斜月などという美しい名称がつけられていた(『粧楼記』)。ある人は、唐代の女性は眉毛の装飾に凝り、それはいまだかつてなかった水準に達したと述べている。その他、彼女たちは額の上に黄色の粉を塗り、それを「額黄」「花蕊」「蕊黄」といった。また、金箔や色紙を花模様に切り抜いて両眉の間に貼るのが流行り、「花細」、「花子」などと呼んだ。その他、両頬に赤、黄の斑点、あるいは月や銭の図柄を貼るケースもあり、これは「粧靨」靨はえくぼの意)といった。
唐の玄宗皇帝が画工に命じて描かせた《十眉図》に見られるように,鴛鴦眉(八字眉),小山眉(遠山眉),五嶽眉,三峯眉,垂珠眉,月稜眉(却月眉),分稍眉,涵烟眉,払雲眉(横烟眉),倒暈眉の10種類であった。唐の末期には〈血曇粧〉といって目の縁を赤紫に彩った化粧がはやった。
―髪型
髪型はさらに豊富多彩で、段成式の著作『髻鬟品』 には、多種多様の髪型が列挙されている。たとえば、半翻髻【はんほんけい】、反綰髻【はんわんけい】、楽游髻、双環望仙髻、回鶻髻、愁来髻、帰順髻、倭堕髻など。髻の上に、色々な宝石や花飾りの簪を挿したり、歩揺(歩く度に美しく揺れ光る髪飾り)を着けたり、櫛を挿したりして飾った。それらは、貧富や貴賎によって定まっていた。
衣服、装飾などはきわめて墳末な物ではあるが、かえって一滴の水と同じょうに、往々にして社会の多種多様の情況をよく映し出すことができた。唐代の女性の服飾もその例に漏れない。そこに浮かび上がる特色もまた、まさに唐代という社会の諸相を映し出す映像そのものであった。
(改訂版)《巻三27浣溪紗八首 其一》
浣溪沙八首 其一
(春の清明節のころ、秋の長雨のように降り止まないので、行楽が中止になった。その時の様子を詠ったものである。)
紅蓼渡頭秋正雨,印沙鷗跡自成行,整鬟飄袖野風香。
春の行楽、舟遊びを楽しみいるというのに、渡し場のあたりの紅蓼にもあきのながあめのように雨が降ってくる、砂浜もぬれてカモメの足跡が列をなしてしっかりと残るほどである、舟遊び、野砂浜で宴を催すはずであった女たちがあめのやむのをまっている。髷の髻から髪が垂れ、袖が揺れ、野の風が香りを運んでくる。
不語含嚬深浦裏,幾迴愁煞棹舡郎,鷰歸帆盡水茫茫。
行楽が中止されると誰もが語ることもないし、苦々しさを含んだ顔つきで、船津の裏の奥の方に消えていく、憂い顔の船頭は幾度も廻って舟歌を歌ってかえって行く。ツバメも、女妓たちも帰ってしまい、小雨そぼ降る水面が茫茫として広がっているだけなのだ。
(浣溪沙八首 其の一)
紅蓼【こうじん】渡頭に秋の正ぞ雨なる,鷗跡【おうせき】沙に印して 自ら行を成し,整鬟【せいかん】飄袖【ひょうしゅう】野風 香る。
語らず 嚬【しかめ】るを含んで浦の裏に深くする,幾びか迴って 棹舡郎【とうこうろう】を愁煞【しゅうさつ】せんとし,鷰 歸って 帆は水を茫茫とし盡す。
(旧解)
浣溪沙八首其二
其の二(湘水の港町の妓女が、旅から戻ってくる男を待つ、そして次の年も同じように待つ、全く音信もなくなって空しく春過す。)
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
顔面の上に飾物や、菱花の鏡を用意して、宝飾箱があり、横には西の帯が垂れたままにある。この静けさは、蘭のかおる女の閨に広がり、今、頭飾りを取り去ろうとしている髪の毛の頭頂で左右に分け,それぞれ耳のわきで輪をつくって束ねた結い方を整えようとしているのは、旅から戻ってくる約束の日が来たからなのだ。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
春も盛んになり野山に草木が繁茂して、ここ湘水には緑がいっぱいに広がっている。夢をしっかり見るころに、ひたひたと水時計の音がむなしく響いてくる。もう二回目の春は終わろうとしている春の花が咲きみだれて、やがてその香はなくなって來るのだ。
(改訂版)《巻三31浣溪紗八首 其二》
浣溪沙八首其二
(寵愛を失った妃嬪が寒食、清明節のころには行楽の約束をされて心待ちにしていたが、宮殿の自室に迎えることもなく、行楽に出かけるこうとないまま空しく春を過す。)其の二
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
額に飾る花鈿の飾物を宝飾箱から出し、菱花の鏡をだす、そして、錦の帯を帯びかけに出して垂れさせ用意する。寒食、清明の行楽に迎えにくる約束の数日は髪を頭頂で左右に分け、耳飾りを多く低くつけて毎日同じようにして待つ。それは、しずかに欄干に臨みおむかえし、頭に飾っているものを取り去って褥に入る時を楽しみにしているからなのだ。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
この季節になると野山に草木が繁茂して、故郷の湘水の岸辺の砂浜に、色とりどりの幔幕が広がっているだろうと、行楽の夢をしっかり見るころに、ひたひたと水時計の音がむなしく響いて現実に戻される。もう二回目の春は終わろうとしていいて春の花が咲きみだれて、やがてその香はなくなって、妃嬪の女としての盛りが過ぎてしまうようで愁いが深くなる。
(改訂版)《巻三31浣溪紗八首 其二》
『浣溪沙八首』 現代語訳と訳註
(本文)
浣溪沙八首其二
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
(下し文)
(浣溪の沙 八首 其の二)
鈿匣【でんこう】菱花【りょうか】錦帶垂れ,靜かに臨む蘭の檻 卸頭【しゃとう】の時,約鬟【やくかん】低珥【ていじ】歸期に等【なお】す。
茂茂として艸青 湘渚【しょうちょ】闊がる,夢餘り 漏は依依とするも空しく有り,二た年 日終り 芳菲も損う。
(現代語訳)
(寵愛を失った妃嬪が寒食、清明節のころには行楽の約束をされて心待ちにしていたが、宮殿の自室に迎えることもなく、行楽に出かけるこうとないまま空しく春を過す。)其の二
額に飾る花鈿の飾物を宝飾箱から出し、菱花の鏡をだす、そして、錦の帯を帯びかけに出して垂れさせ用意する。寒食、清明の行楽に迎えにくる約束の数日は髪を頭頂で左右に分け、耳飾りを多く低くつけて毎日同じようにして待つ。それは、しずかに欄干に臨みおむかえし、頭に飾っているものを取り去って褥に入る時を楽しみにしているからなのだ。
この季節になると野山に草木が繁茂して、故郷の湘水の岸辺の砂浜に、色とりどりの幔幕が広がっているだろうと、行楽の夢をしっかり見るころに、ひたひたと水時計の音がむなしく響いて現実に戻される。もう二回目の春は終わろうとしていいて春の花が咲きみだれて、やがてその香はなくなって、妃嬪の女としての盛りが過ぎてしまうようで愁いが深くなる。
(訳注) (改訂版)《巻三31浣溪紗八首 其二》
浣溪沙八首其二
(寵愛を失った妃嬪が寒食、清明節のころには行楽の約束をされて心待ちにしていたが、宮殿の自室に迎えることもなく、行楽に出かけるこうとないまま空しく春を過す。)其の二
春まだ寒い時期、染め付けた布地を水にさらした後、河原に干す。春になると谷間の美しい光景となる。「浣溪沙」は、寒食、清明節、春の河原に、色とりどりの万幕を張って行楽を楽しむ様子が布地を晒し、乾かす光景と似ているために、春の行楽の恋模様を詠うものである。多くの階層の歌があるが、妃嬪・宮人・妓優のものがほとんどである。
『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、⑦⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。韋荘の浣渓抄の解説参照。
浣溪沙八首其二
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
額に飾る花鈿の飾物を宝飾箱から出し、菱花の鏡をだす、そして、錦の帯を帯びかけに出して垂れさせ用意する。寒食、清明の行楽に迎えにくる約束の数日は髪を頭頂で左右に分け、耳飾りを多く低くつけて毎日同じようにして待つ。それは、しずかに欄干に臨みおむかえし、頭に飾っているものを取り去って褥に入る時を楽しみにしているからなのだ。
・鈿匣 ・鈿:古代婦女の顔面の上に飾物をつけること。匣:はこ。
・菱花 1 ヒシの花。2 《裏面に多くヒシの花を鋳るところから》金属製の鏡。菱花鏡。
・蘭檻 蘭のかおる女の閨。
・卸頭 女性の頭に飾っているものを取り去ること。通常は逢瀬で床に入る際に飾り物をとるという意味だが、この詩は帰って来る相手のために飾ったものを、約束を破られたので飾を執ることをいう。卸下頭上的裝飾。唐·韓偓·閨情詩:「輕風滴礫動簾鉤,宿酒猶酣懶卸頭。」
・鬟 鬟:わげ。頭頂で左右に分け,それぞれ耳のわきで輪をつくって束ねた結い方。びずら。びんずら。髻【もとどり】:《「本取り」の意》髪を頭の上に集めて束ねた所。また、その髪。たぶさ。
・珥 1.耳の飾り珠。丸玉。2. 剣の白玉飾りのある柄頭。《楚辭·九歌、東皇太一》撫長劎兮玉珥,璆鏘鳴兮琳琅。《註》珥,音餌。 又同咡。3.日傘。日傍の雲気。日旁氣也。《前漢·天文志》抱珥𧈫蜺。蜺とは、耳飾りという意味の漢字である。
・等 等しい。整える。階級。階段。順位をあらわす。はかる。待つ。篇海に「等,侯待也。」とある。ここでは帰る約束の寒食清明節のころに毎日同じように待っているというほどの意。
・歸期 帰って來るという約束の日のこと。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
この季節になると野山に草木が繁茂して、故郷の湘水の岸辺の砂浜に、色とりどりの幔幕が広がっているだろうと、行楽の夢をしっかり見るころに、ひたひたと水時計の音がむなしく響いて現実に戻される。もう二回目の春は終わろうとしていいて春の花が咲きみだれて、やがてその香はなくなって、妃嬪の女としての盛りが過ぎてしまうようで愁いが深くなる。
・茂茂 1茂る,繁茂する.≡懋.⇒繁茂.用例根深叶茂=根は深く葉が茂っている.2豊富ですばらしい.
・湘渚【しょうちょ】秋江 靜まり,蕉花 露に泣き 紅に愁う。 湘江は、広西チワン族自治区北部臨桂県の海陽山に発する。海洋圩から流れる海洋河を源流とし、北東方向へ広西チワン族自治区を流れる。湖南省永州市東安県の瀑埠頭で湖南省に入る。永州市では紫水、石期河、瀟水、応水、白水などの支流が、衡陽市では蒸水と耒水が、衡山県では洣水が、株洲県淥口鎮で淥水が、湘潭市で漣水が流入する。長沙市の中心で瀏陽河と撈刀河が、望城県新康で溈水が流入し、湘陰県の濠河口で左右に分かれて洞庭湖に注ぐ。湘江には2,157の支流があるとされ、主要な支流のうち、瀟水、耒水、洣水、淥水、瀏陽河は東岸の支流で、祁水、蒸水、涓水、漣水、溈水は西岸の支流である。
『臨江仙 一首』
煙收湘渚秋江靜,蕉花露泣愁紅。
五雲雙鶴去無蹤,幾迴魂斷,凝望向長空。
翠竹暗留珠淚怨,閑調寶瑟波中,花鬟月鬢綠雲重。
古祠深殿,香冷雨和風。
臨江仙 一首 張泌【ちょうひつ】 ⅩⅫ唐五代詞・ 「花間集」 Gs-349-7-#11 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3292
薛昭蘊 (改訂版)浣溪紗八首 其一 (春の清明節のころ、秋の長雨のように降り止まないので、行楽が中止になった。その時の様子を詠ったものである。)春の行楽、舟遊びを楽しみいるというのに、渡し場のあたりの紅蓼にもあきのながあめのように雨が降ってくる、砂浜もぬれてカモメの足跡が列をなしてしっかりと残るほどである、舟遊び、野砂浜で宴を催すはずであった女たちがあめのやむのをまっている。髷の髻から髪が垂れ、袖が揺れ、野の風が香りを運んでくる。
『花間集』全詩訳注解説-4.薛昭蘊 (改訂版)《巻三27浣溪紗八首 其一》27-〈花間集127〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5837
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(改訂版)韋荘 小重山一首 (小重山〔閨での寵愛の様子を連想させる題〕:漢の後宮の賢夫人“薄姫”を歌ったもの)魏の王族の生まれであった薄姫は奴隷の身まで落ち、機織りの仕事をしていて、劉邦にみとめられたが、昭陽殿にただいるだけで蟄居されたもおなじであった、春が過ぎまた春が過ぎ、秋の寒々とした独り寝で、時を知らせる音を聞く長き夜、帝の情け夢に見る。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-48韋荘126《巻3-26 小重山一首》三巻26-〈126〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5832
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| 花間集 教坊曲『小重山』 六首 | | |||
| 作者 | 巻 | 題 | 初句7字 | |
| 韋相莊 | 巻三26 | 一閉昭陽春又春 | | |
| 薛侍郎昭蘊 | 巻三27 | 春到長門春草青 | | |
| 巻三28 | 秋到長門秋草黃 | | ||
| 和凝 | 巻六14 | 春入神京萬木芳 | | |
| 巻六15 | 正是神京爛熳時 | | ||
| 毛秘書熙震 | 巻十03 | 梁鷰雙飛畫閣前 | | |
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(改訂版)韋荘 木蘭花一首 京劇の「花木蘭」は男となって異郷にいったのだが、どこの女も、幾千の山を超えることも、万川をわたって行くこともない詞、思いを回らす夢見さえ叶わず、何を知りたく、何を求めていきていくのだろうか。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-47韋荘125《巻3-25 木蘭花一首》三巻25-〈125〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5827
化粧と美意識
◎ 1.胡装
胡服を着て胡帽を被る ー 「女が胡の婦と為り胡敏を学ぶ」(元横「法曲」)、これは唐代女性の特別の好みの一つであった。唐代の前期には、女性が馬に乗って外出する際に被った「帯解」(頭から全身をおおうスカーフ)は、「戎夷」(周辺の蛮族)から伝わった服装であった。また、彼女たちは袖が細く身体にぴったりした、左襟を折り返した胡服を好んで着た。盛唐時代(開元〜大暦の間)には、馬に乗る時に胡帽をかぶるのが一時流行した。胡服・胡帽の姿は絵画や彫刻、塑像の中で、随所に見ることができる。
彼女たちは、また胡人の化粧をも学んだ。ファッション
「新楽府」「其三十五 時世妝」 白居易
時世妝,時世妝,出自城中傳四方。
時世流行無遠近,腮不施朱面無粉。
烏膏注唇唇似泥,雙眉畫作八字低。
妍媸黑白失本態,妝成盡似含悲啼。
圓鬟無鬢堆髻樣,斜紅不暈赭面狀。
昔聞被發伊川中,辛有見之知有戎。
元和妝梳君記取,髻堆面赭非華風。
時世の妝 時世の妝、城中より出でて四方に傳はる。
時世の流行 遠近無し、腮に朱を施さず面に粉無し。
烏膏唇に注(つ)けて唇泥に似たり、雙眉畫きて八字の低を作す。
妍媸 黑白 本態を失し、妝成って盡く悲啼を含めるに似たり。
圓鬟(かん)鬢無く堆髻の樣、斜紅暈せず赭面の狀。
昔聞く 被髪伊川の中、辛有之を見て戎有るを知る。
元和の妝梳 君記取せよ、髻堆面赭は華風に非ず。
流行の化粧は、都会から出て四方に伝わる、時勢の流行には近在も遠方もない、頬紅をささず顔に白粉を塗らぬ、黒い油を口に塗って泥を見るようだ、眉を書けば八の字に垂れ下がって見苦しい(時世妝:流行の化粧法、腮:顎から頬にかけて)
美醜と黒白がひっくり返って、化粧した顔は泣きべそ顔だ、丸髷にはふくらみがなくさいづちまげのようだし、頬紅はぼかしてないのでまるで赤ら顔だ(妍媸:美醜、含悲啼:泣きべそ顔、圓鬟:丸髷、堆髻:さいづちまげ、胡人の女が結ぶ、斜紅:斜めに引いた頬紅、赭面:赤ら顔)
昔のことに、髪をふり乱した者たちが伊川で踊っているのを見て、辛有はその地が戎の地だといったというではないか、元和の流行の化粧について記録しておいてほしい、さいづちまげや赤ら顔は華風ではないと(被髪:髪を振り乱す、妝梳:化粧とヘアスタイルのこと)
◎ 2.戎装と男装
唐代の女性、とりわけ宮廷の女性は、常に戎装(軍装)と男装を美しいものと考えていた。高宗の時代、太平公主は武官の服装をして宮中で歌舞を演じたことがある。また、武宗の時代、王才人は武宗と同じ服を着て一緒に馬を駆って狩りをした。それで天子に上奏する人はいつもどちらが天子か見まちがったが、武宗はそれを面白がった。宮女たちが軍服を着たり、男装するのは全く普通のことだった。
男女が同じ服を着て、妻と夫の区別も無いとは、本当に平等な感じがする。こうした風潮が生れたのは、社会の開放性と尚武の気風があったからにはかならない。当時の若干の保守的な人々は、男女の服装に違いがなく、陰陽が逆さまになっている情況に頭を横に振りながら、「婦人が夫の姿になり、夫は妻の飾りとなっている。世の中の顛例でこれより甚だしいものはない」(『全唐文』巻三一五、李華「外孫雀氏二該に与うる書」)と慨嘆した。これぞまさしく、女性が男装する風潮は封建道徳の緩みであると説明する直接的表現ではないか。
◎ 3.時世粧
唐代の三百年間には、服装、装飾は何度も変化し、各時代にその時代の時世粧があった。「時世赦 時世赦、城中自り出でて四方に伝わる」、「小頭鞋履 窄衣裳……天宝末年の時世赦」(自居易「時世赦」、「上陽白髪人」)などと詩に書かれている。唐代の女性はファッションに大変に凝った。彼女たちはモダンなもの、新奇なものを追うのが大好きで、しばしば宮中から何か新しいファッションが伝わってくると、民間も競ってそれをまねたので、すぐ社会全体の流行になった。
。服装の変化のリズムは非常に速く、女性は目新しいモードを追いかけるのが大好きで、服装が流行に合っているかどうかを気にかけたが、それは何を意味していたのだろうか。人々は次のように言うかもしれない。どうせただ悠々と満ちたりた生活を送っていた貴婦人たちの、賛沢で退屈しのぎの表れであり、また妃嬢・姫妾・娼妓など色気で寵愛を求める者の、男を龍絡する手段にすぎないと。こういう説明は確かに誤りではない。しかし、別の角度から見れば、社会に新鮮な活力がみなぎっていた一つの表現であるとは言えるのである。
◎ 4.身体を露出するファッション
唐初、女性が騎馬で外出する時には、冪蘺を着用して頭から全身を蔽っていた。後世になると、冪蘺の代りに帷帽(山高帽のつばの左右と後部に首を隠す網が垂れているもの)をかぶった。帷帽から垂れている網は首まで覆うだけで、もう全身を覆うものではない。盛唐の開元年間に至ると、女性は騎馬で外出する時にはただ胡帽をかぶるだけで、顔も、甚だしい場合には頭髪さえも外に露出していた。
唐代の女性の服装は、まさに社会の風気が開放的になるに従って自由となり、益々拘束がなくなっていったのである。家庭での服装については、私たちは唐代の絵画の中に見ることができる。たとえば、有名な永泰公主の墓の壁画の中に見られる女性などは、たいてい上着も下着も太めにゆったり美しいが、しかし胸も乳も露わにされているのである。
(改訂版)韋荘 酒泉子一首(祭礼接客、宴会、寝所の世話を司る役割の妃嬪が寵愛を受けていたが次の年の春が来ると寵愛を失っていた、それでも寵愛を受ける気持ちでいないといけない自由な考えはできないと詠う)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-46韋荘124《巻3-24 酒泉子一首》三巻24-〈124〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5822 後宮での酒泉子 后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加すること〔-これは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた〕。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ、「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」 ことがあった(『資治通鑑』巻二一三、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賎しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。 『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。 妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、 六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、 美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、 才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。 しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。 形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまざらわすかということに尽きる。「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。
(改訂版)韋荘 更漏子一首 (寵愛を失った妃嬪が夜の時間経過の気にする:秋の夜長に時を告げる、女の侘しさを詠う。)献上するために錦を織りあげる作業をしていたら、鐘鼓の響きが寒々ときこえてくる、気が付けば、樓閣の一角で機織りの場所だけの燈だけになってあたりは暗くなっている、月は明かるく庭を照らし、擣衣の砧の作業も済んだ、銅張りの井戸端を照らしている。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-45韋荘123《巻3-23 更漏子一首》三巻23-〈123〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5817
白居易に「繚綾」(呉越で作られた花柄模様の最高級の錦)「念女工之勞」と題する詩がある。
綾繚綾何所似?不似羅綃與紈綺。
應似天台山上明月前,四十五尺瀑布泉。
中有文章又奇絕,地鋪白煙花簇雪。
織者何人衣者誰?越溪寒女漢宮姬。
去年中使宣口敕,天上取樣人間織。
織為雲外秋雁行,染作江南春水色。
廣裁衫袖長製裙,金鬥熨波刀剪紋。
異彩奇文相隱映,轉側看花花不定。
昭陽舞人恩正深,春衣一對值千金。
汗沾粉汙不再著,曳土踏泥無惜心。
繚綾織成費功績,莫比尋常繒與帛。
絲細繰多女手疼,紮紮千聲不盈尺。
昭陽殿裏歌舞人,若見織時應也惜。
この繚綾は何という素晴らしい、天然の技をも凌ぐ、精美で色鮮やかな織物であったことか。
それは、われわれが今でも見ることのできるひじょうに美しい唐代の多くの織物と同じょうに、まさにこの時代の無名の「越渓の寒女」の手から生れた。すばらしい技能をもっていた女職人たちは、心血を注ぎ技術の限りを尽して、紡織1芸史と技術史の上に重要な一頁を飾ったのである。しかし、その名前事績も人に知られることなく、われわれはただこれらの作品の中から、当代の女職人たちの聡明な才知と高度な技芸を味わう以外にない。
紡織、染色、刺繍などの工芸技術の方面で、新しい創造をし、絶妙な技術を発揮した女性はいたが、その内の何人かが偶然の原因でわずかばかりの記録を残したにすぎなかった。玄宗の柳婕妤の妹は生れつき手が器用で頭もよく、鏤板(板木)に様々な模様を彫って布の上に捺染する新しい染織の技法を発明した。技術は高く、染めた織物はたいへん精巧で美しかった。彼女はかつて自分の作品を王皇后に献上したことがあったが、玄宗はそれを見てたいそう喜び、宮中でそれをまねて作るよう命じた。最初、この技術を宮廷外に伝えることは禁止されたが、後しだいに民間にも伝わり、一般庶民もこの柳氏の染織法で染めた織物から作った衣服を着るようになった(『唐語林』巻四)。
永貞年間(八〇五年)、南海(広東省沿海一帯)から宮中に一人の「奇女子」が献上されてきた。名を盧眉娘といい、年はわずか十四歳であったが、その巧みな技芸は他に並ぶものがなかった。彼女は長さ一尺の絹布に『法華経』七巻すべてを刺繍することができた。その文字は粟粒のように小さいが、点も画もはっきりしており、髪の毛のように細い文字であった。さらにまた、彼女は傘のような蓋いである「飛仙蓋」も作った。これは一束の絹糸を三段に分け五色に染め、五重の傘の蓋を作るのである。その上面には、伝説上の仙人の島である十洲三島、天人仙女、御殿、麒麟、鳳凰などの模様が描かれていたが、さらに千人に上る子供の像も刺繍されていた。この蓋は幅が一丈もあったが、量ってみると重さは三両にも満たなかったという(『太平広記』巻六六)。このような高度で精妙な技能をもっていたのだから、まさに「奇女」ということができよう。
もう一人、馬雷五という技が巧みな少女がいた。彼女は幼い時から聡明で手先もたいへん器用で、およそ彼女が織り刺繍したものは、誰からもこの世の物と息われないと常に絶讃された。彼女の叔母は柳宗元の姫妾であった。馬雷五がわずか十五歳で病死した時、柳宗元は特にこの手芸に長じた薄命の少女のために墓誌銘を書いた(『全唐文』巻五八九、柳宗元「馬室女雷五葬志」)。彼女は、唐代に
無数にいた手芸に巧みな女性の一人に過ぎなかったが、大文学者のおかげで幸運にも後世にその名が伝わったのである。
中国古来の「男耕女織」という生産方式は、女性を制約し、彼女たちがその他の生産活動、科学技術の方面で知恵と才能を発揮するのを不可能にした。
高邁かつ深遠な学術の世界は、古来女性が足を踏み入れ難いところであった。それで唐代においては、哲学や学術の世界で書物を読みあさって造詣の深かった女性は一人か二人しか生れなかった。
一人はすでに文学の方面で言及した才女牛応貞である。彼女は博識多才で、十三歳でもう儒教経典、諸子百家、歴史書など数百巻、仏教経典二百巻を朗読できた。彼女は、「学問は、六芸(詩・書・礼・楽・易・春秋の六つの経書)全般にわたり、文章は諸子百家を兼ね、道家の秘言を頣い、釈部(仏教)の幽旨を采る」といわれ、儒仏道の三教に通じないところは無かった。彼女はまた夢の中で古代の哲学者の王弼、鄭玄、王衍らと名理(名と本質)を論じ、文章について語り合った。彼女の有名な著作「魍魎 影に問う賦」は、文学作品であると同時に哲学書でもあった。この作品は『荘子』の魍魎(霊魂)が影を責める話に基づいて、霊魂と影の問答に仮託して深遠な哲理を追究したものであり、女性が哲学を論じた、じつに稀な著作である(宋若昭『牛応貞伝』)。
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韋荘(改訂版)女冠子二首 其二 昨夜の夜半のことだった。一年以上も経つというのに、枕辺で、夢を見たことをはっきり覚えている。「夢では多く語り合ったし、以前と同じ妝装いでで麗しい君の面影は桃の花のようだった。ほほえんでくれて女性の美しく若い柳葉の眉尻はしきりに下げている。」というものだ。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-44韋荘122《巻3-22 女冠子二首 其二》三巻22-〈122〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5812
(旧解)
女冠子 (二)
昨夜夜半,枕上分明夢見。
昨夜の夜半のことだった。枕辺で。寝ていてはっきりと明らかなことは夢で会えるということです。
語多時。
その時は幾時か、共にかたりあったものでした。
依舊桃花面,頻低柳葉眉。
以前と同じで麗しい女性の面影は桃の花のようです。女性の美しい眉はしきりに長く下げている。
半羞還半喜,欲去又依依。
半ば、恥じらい、こんどは半ば、喜ぶということでしたし、行こうとしても、名残が尽きなくて離れがたいのです。
覺來知是夢,不勝悲。
夢から覚めてから、夢であるということがやっと分かったし、悲しみにとてもたえることができないのです。
女冠子
昨夜 夜半,枕上 分明に夢に見【まみ】ゆ。
語ること 多時にわたる。
舊に依る 桃花の 面【かほ】,頻に 低ぐ 柳葉の眉を。
半ば羞ぢ 還た 半ば喜び,去らんと欲して 又 依依たり。
覺め來って 知るは 是れ 夢,悲みに 勝【た】へず。
【出家の動機】
およそ出家の動機は、次のようないくつかの情況に分けることができる。一部は、家族あるいは自分が仏教、道教を篤く信じて出家した人々である。たとえば、宋国公の斎璃は仏教にのめりこみ、娘を三歳にして寺に入れ尼にしてしまった(『唐文拾遺』巻六五「大唐済度寺の故比丘尼法楽法師の墓誌銘」)。
柳宗元の娘の和娘は、病気のため仏にすがり、治癒した後に仏稗と名を改め、自ら剃髪して尼となることを願った(『全唐文』巻五八二、柳宗元「下務の女子の墓碑記」)。こうした人々の大半は貴族、士大夫の家の女子であり、彼女たちの入信は多かれ少なかれ信仰の要素を内に持っていたようである。長安にあった成宜観の女道士は、大多数が士大夫の家の出身であった。しかし、こうした人は少数であり、圧倒的多数はやはり各種の境遇に迫られ、あるいは世の辛酸をなめ尽して浮世に見切りをつけ、寺院や通観に入って落ち着き先を求めた人々であった。その中には、夫の死後再婚を求めず入信して余生を送ろうとした寡婦もいる。たとえば、開元年間、輩県(河南省筆県)の李氏は夫の死後再婚を願わず、俗世を棄てて尼になった(侠名『宝応録』)。焼騎将軍桃李立が死んだ時、その妻は喪が明けると、出家して女道士になりたいと朝廷に願い出た(『全唐文』巻五三一、張貫「桃李立の妻、女道士に充らんとするを奏せる状」)。あるいはまた、家族が罪にふれて生きる道がなく、寺院や通観に人らざるをえなかった者もいる。越王李貞(太宗の子)の玄孫李玄真は、祖先(曾祖父李珍子)の武則天に対する反逆の罪によって父、祖父などがみな嶺南の僻遠の地で死んだ。彼女はそれら肉親を埋葬した後、成宜観に入り信仰の中で生涯を終えた(『旧唐書』列女伝)。睾参は罪にふれて左遷させられた。すると、その娘は榔州(湖南省榔県)で出家し尼になった(『新唐書』睾参伝)。
また妓女、姫妾が寺院や通観を最後の拠り所にすることもあった。有名な女道士魚玄機はもともとある家の侍妾であったが、正妻が容認しなかったので道観に入った(『太平広記』巻二二〇)。妓女は年をとり容色が衰えると出家するのが一般的だった。唐詩の中には「妓が出家するのを送る」 ことを題材とした作品がたいへん多い。宮人・宮妓が通観に入る例も少なからぬ割合を占める。彼女たちは年をとり宮中を出でも頼るべき場所とてなく、大多数が寺院・通観を最後の安住の地とした。
長安の政平坊にあった安国観の女這士の大半は上陽宮の宮人であった(『唐語林』巻七)。詩人たちはかつて、「斎素と白髪にて宮門を酢で、羽服・星冠に道意(修行心)存す」(戴叔倫「宮人の入道するを送る」)、「君看よ白髪にて経を詞する者を、半ばは走れ宮中にて歌舞せし人なり」(慮輪「玉真公主の影殿を過ぎる」)などと詠んで嘆いた。最後になったが、他に貧民の家の大量の少女たちがいる。彼女たちはただ家が貧しく親に養う力がないという理由だけで、衣食に迫られて寺院や道観に食を求めざるを得なかった人々である。総じて言えば、出家は女性たちが他に生きる道がない状況下における、最後の出路、最後の落ち着き先になったのである。
一般の女子の出家の状況はだいたい以上述べたようなものであったが、妃嬢・公主たちの出家の事情は比較的特殊である。妃嬢の中のある者は、皇帝が死ぬと集団で寺に送りこまれた。たとえば、武媚(後の武則天)などの妃嬢は太宗の死後、盛業寺に送られて尼にされた。また、ある者は家人が罪を犯したためもはや妃嬢となる資格を失い、やむなく出家せざるを得なかった。たとえば、粛宗の喜妃は長兄が死を賜ったので粛宗と離婚し、宮中にある寺の尼となった。楊貴妃が女道士になった件は、玄宗が息子の嫁を自分の妃にするために弄した策略にすぎず、これで天下の耳目を掩ったのである。公主が道教に入信することはさらに多く、唐朝の二一二人の公主のうち、出家した者は十人にも上る。ただし、彼女たちの多くは道教に入っており、仏に仕えたのではなかった。彼女たち事実上自ら願って女道士の生活に入ったのであろう。最も有名な玄宗皇帝の妹の玉貴公主と、彼女と同時に出家した金仙公主は、おそらくこうした例である。彼女たちは女道士になっても公主としての富貴と栄誉を失わなかった。朝廷は旧来のごとく彼女たちに生活資財を支給したから、生活はかえって公主の時より自由になり、束縛を受けなくなった。また女道士の生活は尼僧のそれに比べていくらか自由であったからこそ、公主たちの大半は仏寺に入らず通観に入ったのである。
(改訂版)-43韋荘121《巻3-21 女冠子二首 其一》
女冠子二首其一
(道女になると別れた女性を思い偲ぶ情を詠う。)
四月十七,正是去年今日。
初夏、四月十七日、まさにこの日一年前の今日。
別君時,忍淚佯低面,含羞半斂眉。
それはきみと別れの時、涙をこらえつつ、ただ、見つめ合えばこらえきれないのでうつむいてしまう、形の上の出家とはいえ、泣けば恥かしいことと思い顔を作るから、少し眉間にしわを寄せてしまった。
不知魂已斷,空有夢相隨。
すでに思いを通わせることは許されないと心に言い聞かせているのに、夢で君を追いかけていることがある、それは空しくつらいことだということは知らなかった。
除卻天邊月,沒人知。
空にある月がきみであるから、もう月を見る事はしなくなったし、そして、人のうわさも75日、一年もたったので、誰も別れた人の心を知ろうとはしない。
(女冠の子)
四月の十七,正に是れ去年の今日。
君と別れし時。涙を忍びて佯【いつは】りて面を低げ,羞【はぢら】いを含みて眉を斂む。
知らず 魂い已に斷たれ,空しく夢に相ひ隨う有るを。
除卻す 天邊の月を,人の知る沒【な】し。
女冠子二首其二
(一年前に別れたというのに、夢に女性が出てきて逢瀬を楽しみ歓び、離れがたいという夢だが、夢だということがわかると、もっとつらくなるのだと詠う。)
昨夜夜半,枕上分明夢見:語多時,依舊桃花面,頻低柳葉眉。
昨夜の夜半のことだった。一年以上も経つというのに、枕辺で、夢を見たことをはっきり覚えている。「夢では多く語り合ったし、以前と同じ妝装いでで麗しい君の面影は桃の花のようだった。ほほえんでくれて女性の美しく若い柳葉の眉尻はしきりに下げている。」というものだ。
半羞還半喜,欲去又依依。覺來知是夢,不勝悲。
それでも、その夢の、「半ば、恥じらい、また、半ば、喜ぶ、去って行こうとしても、名残が尽きなくて離れがたい。」ということがつらいのだ。夢から覚めてから、それが夢だったと分かってしまうと、その悲しみにとてもたえることができないのだ。
(女冠の子)
昨夜 夜半,枕上 分明に夢み見【まみ】ゆ。:「語ること 時に多く、舊に依る 桃花の 面【かほ】,頻に 低ぐ 柳葉の眉を。
半ば羞ぢ 還た 半ば喜び,去らんと欲して 又 依依たり。
覺め來って 知るは 是れ 夢,悲みに 勝【た】へず。
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『女冠子二首其二』 現代語訳と訳註解説
(本文) (改訂版)《巻3-22 女冠子二首 其二》
女冠子二首其二
昨夜夜半,枕上分明夢見:語多時,依舊桃花面,頻低柳葉眉。
半羞還半喜,欲去又依依。覺來知是夢,不勝悲。
(下し文)
(女冠の子)
昨夜 夜半,枕上 分明に夢み見【まみ】ゆ。:「語ること 時に多く、舊に依る 桃花の 面【かほ】,頻に 低ぐ 柳葉の眉を。
半ば羞ぢ 還た 半ば喜び,去らんと欲して 又 依依たり。
覺め來って 知るは 是れ 夢,悲みに 勝【た】へず。
(現代語訳)
(一年前に別れたというのに、夢に女性が出てきて逢瀬を楽しみ歓び、離れがたいという夢だが、夢だということがわかると、もっとつらくなるのだと詠う。)
昨夜の夜半のことだった。一年以上も経つというのに、枕辺で、夢を見たことをはっきり覚えている。「夢では多く語り合ったし、以前と同じ妝装いでで麗しい君の面影は桃の花のようだった。ほほえんでくれて女性の美しく若い柳葉の眉尻はしきりに下げている。」というものだ。
それでも、その夢の、「半ば、恥じらい、また、半ば、喜ぶ、去って行こうとしても、名残が尽きなくて離れがたい。」ということがつらいのだ。夢から覚めてから、それが夢だったと分かってしまうと、その悲しみにとてもたえることができないのだ。
(訳注) (改訂版)《巻3-22 女冠子二首 其二》
女冠子二首其二
(一年前に別れたというのに、夢に女性が出てきて逢瀬を楽しみ歓び、離れがたいという夢だが、夢だということがわかると、もっとつらくなるのだと詠う。)
この作品は、女冠子(二)と聯章詞(聯章体=同一の事柄を複数の詞で詠むもの)になっている。男が女性の側に立って描いているが、発想はあくまで男性である。
・女冠 ①道教の門中に在って修道している女道士をいう。②宮中の妃嬪・女官が位階を与えられること。
【解説】 其一で、去年の四月十七日に、王建に韋荘の愛妾はうばわれた。まず道女となり、その道女として後宮に入り、妃嬪となった。 夢に恋い慕う女を見た男の情を詠う。その夢が覚め、そこで初めて夢だと知り、悲しみに堪えることができないことを語る。
唐の教坊の曲。『花問集』には韋荘の作が二首収められて心る。双調四十.字、前段二十三字五句二仄韻二平韻、後段十八字四句二平韻で、❹❻③5⑤/5⑤5③の詞形をとる。
詞牌の一。双調(単調、異体もある) 四十一字。換韻。
《巻3-21 女冠子二首 其一》
四月十七,正是去年今日。
別君時,忍淚佯低面,含羞半斂眉。
不知魂已斷,空有夢相隨。
除卻天邊月,沒人知。
(改訂版)《巻3-22 女冠子二首 其二》
昨夜夜半,枕上分明夢見:語多時,依舊桃花面,頻低柳葉眉。
半羞還半喜,欲去又依依。
覺來知是夢,不勝悲。
●●●●、△●△○△●●○○;△●○○●、○○●●○
●○○●● ●●●△△
●△○●△ △△○
昨夜夜半,枕上分明夢見:語多時,依舊桃花面,頻低柳葉眉。
昨夜の夜半のことだった。一年以上も経つというのに、枕辺で、夢を見たことをはっきり覚えている。「夢では多く語り合ったし、以前と同じ妝装いでで麗しい君の面影は桃の花のようだった。ほほえんでくれて女性の美しく若い柳葉の眉尻はしきりに下げている。」というものだ。
・分明:はっきりと明らかなこと。
・夢見:夢で会う。見:会う。ここは、夢を見る、ではない。
・語多時:(想いを)語ることが長時間に亘る。多くの時間、(情愛を)語った。
・依舊:昔ながらの。以前と同じで。
・桃花面:桃の花のように麗しい女性の容貌。美貌。面:かお。
・頻低柳葉眉:しきりとほほえんでくれるので美しい眉尻を下げる。柳眉:女性の美しい眉。
半羞還半喜,欲去又依依、覺來知是夢,不勝悲。
それでも、その夢の、「半ば、恥じらい、また、半ば、喜ぶ、去って行こうとしても、名残が尽きなくて離れがたい。」ということがつらいのだ。夢から覚めてから、それが夢だったと分かってしまうと、その悲しみにとてもたえることができないのだ。
・半羞還半喜:半ばは恥じらい、半ばは喜ぶ。
・還:なおも。また。
・欲去又依依:行こうとしても、名残が尽きなくて離れがたい。依依:名残惜しく離れにくいさま。・依依 後に心がひかれるさま。 顔延之《秋胡詩》(7) (「遲遲前途盡,依依造門基。」(遲遲【ちち】として前途【ぜんと】盡【つ】き,依依【いい】として門基【もんき】に造【いた】る。)秋湖の足どりは遅れがちながらも行く道を尽くしてしまう、後に心を引かれながらも家の門の土台に行き着いた。
・門基 わが家の門の土台。
・覺來:夢から覚める。
・知是夢:夢であるということがやっと分かった。知ったことは、夢である。
・不勝悲:悲しみに勝(た)えない。とても悲しい。
韋荘(改訂版) 女冠子二首 其一 道女になると別れた女性を思い偲ぶ情を詠う。初夏、四月十七日、まさにこの日一年前の今日。それはきみと別れの時、涙をこらえつつ、ただ、見つめ合えばこらえきれないのでうつむいてしまう、形の上の出家とはいえ、泣けば恥かしいことと思い顔を作るから、・・・・・・・。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-43韋荘121《巻3-21 女冠子二首 其一》三巻21-〈121〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5807
公主が道教に入信することはさらに多く、唐朝の二一二人の公主のうち、出家した者は十人にも上る。ただし、彼女たちの多くは道教に入っており、仏に仕えたのではなかった。彼女たち事実上自ら願って女道士の生活に入ったのであろう。最も有名な玄宗皇帝の妹の玉貴公主と、彼女と同時に出家した金仙公主は、おそらくこうした例である。彼女たちは女道士になっても公主としての富貴と栄誉を失わなかった。朝廷は旧来のごとく彼女たちに生活資財を支給したから、生活はかえって公主の時より自由になり、束縛を受けなくなった。また女道士の生活は尼僧のそれに比べていくらか自由であったからこそ、公主たちの大半は仏寺に入らず通観に入ったのである。
【女冠子の生活】
出家した女性の生活は、きわめで特色のあるものだった。まず第一に、彼女たちは人に頼って生きる階層であり、一般には生業に従事しなかった。国家あるいは施主から衣食がすべて供給された。
建国当初、高祖は勅令を下して、「およそ戒律を守り、修行に励む僧尼、女冠等の人には、一律に衣食を供給し、欠かさぬようにせよ」(『旧唐書』高祖紀)と命じている。しかし、尼や女道士の生活状況は人によって大変な相違があった。豪奢な生活をし奴僕を使っている上層の者もいれば、清貧の生活をし奴稗に等しい下層の者もいた。上層に属す尼や女道士には、国家が生活物資を支給する以外に、高官貴人も布施などの援助をしたので、彼女たちの生活は往々にして豊かであり賛沢でさえあった。
彼女たちは最も独立性に富んだ身分であり、同時にまたきわめて開放的な階層でもあった。なぜなら、彼女たちは家庭と夫の束縛から抜け出しており、また世俗的な道徳倫理の拘束からも解放されていたからであり、なおかつ唐代の宗教教門の戒律もそれほど厳格ではなかったからである。彼女たちのうち、とりわけ女道士は、唐代の女性の中できわめで自由奔放な人々であったから、唐代の女道士は娼優に近かったという学者もいる(梁乙真『中国婦女文学史綱』、譚正壁『中国女性文学史話』)。
彼女たちは深い教養を身につけ、常に宮廷、王府、貴族豪門の屋敷に出入りしては、軍事・政治の大事に参画したり、天文や人事に関する吉凶を占ったので、皇帝・皇后や貴顕から大いに信用された。女道士の許霊素はかつて粛宗の張皇后を助け、偽の詔勅を作り、皇后の生んだ子を皇太子にした(『旧唐書』后妃伝下)。また、尼僧の王奉仙は唐末、節度使間の戦争が激しかった時、朝廷の観察使等の大官や将帥たちの軍師となり、軍中の賞罰、作戦などすべて自ら決した(『資治通鑑』巻二五七、偉宗光啓三年)。こうした例は決して少なくない。
彼女たちは、社交、外出、生活などなんでも比較的自由だった。上述の出家した玉貴公主は、玄宗時代には特殊な地位にあって活躍した人物である。彼女は常時宮廷に出入りし、兄玄宗や高官貴顕とよく一緒に出かけて遊んだ。唐詩の中には、当時の近臣たちの唱和の作品に、玉真公主とともに遊んだことを特別に詠んだ詩がある。ところで、尼僧や女道士は常に四方の名山大川を自由に遊歴することができた。
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| 花間集 教坊曲『女冠子』十九首 | | |||||
| 溫助教庭筠 | 巻0148 | 含嬌含笑 | | |||
| | 巻0149 | 霞帔雲髮, | | |||
| 韋相莊 | 巻0321 | 四月十七, | | |||
| | 巻0322 | 昨夜夜半, | | |||
| 薛侍郎昭蘊 | 巻0338 | 求仙去也, | | |||
| | 巻0339 | 雲羅霧縠, | | |||
| 牛嶠(牛給事嶠) | 巻0401 | 綠雲高髻, | | |||
| | 巻0402 | 錦江煙水, | | |||
| | 巻0403 | 星冠霞帔, | | |||
| | 巻0404 | 雙飛雙舞, | | |||
| 張舍人泌 | 巻0439 | 露花煙草, | | |||
| 孫少監光憲 | 巻0824 | 蕙風芝露, | | |||
| | 巻0825 | 澹花瘦玉, | | |||
| 鹿太保虔扆 | 巻0916 | 鳳樓琪樹, | | |||
| | 巻0917 | 步虛壇上, | | |||
| 毛秘書熙震 | 巻0945 | 碧桃紅杏, | | |||
| | 巻0946 | 脩蛾慢臉, | | |||
| 李秀才珣 | 巻1036 | 星高月午, | | |||
| | 巻1037 | 春山夜靜, | | |||
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(改訂版)韋荘上行杯二首 其二(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の二:其の一で部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになった、上司のものが、部下の遊侠の貴公子の者に、別れの歌を返して激励し、だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの)【其一と其二はセットになっている連歌のようである】
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-42韋荘120《巻3-20 上行杯二首 其二》三巻20-〈120〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5802
(旧解)
上行杯二首其二
白馬玉鞭金轡。少年郎,離別容易。
派手な白馬に、飾り立てた鞭に、金に輝くくつわを付けている。そこに貴公子の遊び人たちがいる。こんな奴は簡単に女と別れるのだ。
迢遞去程千萬裏。
あの男は遙かに遠くに去って行ってしまった、それも千里、万里の先の方にいるという。
惆悵異鄉雲水,滿酌一杯勸和淚。
一所にとどまらず自由きままな男は異郷に行ったまま恨みに思う、宴席にあってみんな盃を注ぎ合い進め遭った、すると涙が和んできた。
須愧,珍重意,莫辭醉。
こんなことを愧じとする。我が意を酌んで、肴も酒も調えているので、これ以上飲めないと言ってはいけない。
(上行杯二首其の二)
白馬に玉の鞭と金の轡、少年郎は 離別容易ならんも。
迢遞たる去程は千萬裏。
惆悵ことならん異郷の雲と水とに、一杯を勸和して涙和りに勘む。
須らく愧づべし、意を珍重せよ、酔うことを辭するなかれ。
(改訂版)-41韋荘119《巻3-19 上行杯二首 其一》
上行盃二首其一
(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の一:長安の東㶚橋の駅亭の高樓において、春の配置転換の部下の送別の宴を催す。部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになる。だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの)
芳艸灞陵春岸,柳煙深,滿樓弦管,一曲離腸寸寸斷。
長安春明門から東30里、灞陵、㶚水の春の岸に若草が香る。土手の柳並木も鬱蒼と煙り、㶚水亭の高殿には管絃楽の音が満ちわたる。驪歌一曲、驪駒歌一節の歌に、もう腸はずたずたに断ち切られる思いになる。
今日送君千萬,紅樓玉盤金鏤盞,須勸珍重意,莫辭滿。
この日、はるか千里万里の地、旅行く君を見送る、頬紅を紅く染めた妓女の舞に高樓には鱠盛る大血と金縁の杯をそえている。肴も酒も調えているので、こいねがうことは、存分に飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。
(上行盃二首其の一)
芳草の㶚陵、春の岸、柳 煙深くし、樓 弦管滿つ、一曲の離に腸断するに寸々たり。
今日 君を千萬に送る、紅樓 玉盤 金鏤の盞、須【ねが】うは、珍重する意「滿するを辞することなかれ」を勸める。
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(改訂版)韋荘 上行杯二首 其一(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の一:長安の東㶚橋の駅亭の高樓において、春の配置転換の部下の送別の宴を催す。部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになる。だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの)
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-41韋荘119《巻3-19 上行杯二首 其一》 韋荘 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5797
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| 花間集 教坊曲『上行盃』四首 | | |||
| 韋相莊 | 巻0319 | 芳草灞陵春岸 | | |
| 巻0320 | 白馬玉鞭金轡 | | ||
| 孫少監光憲 | 巻0837 | 草草離亭鞍馬 | | |
| 巻0838 | 離棹逡巡欲動 | | ||
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(旧解)
上行杯二首其一
芳草灞陵春岸。柳煙深,滿樓弦管。
長安の別れは若草が香る灞陵の川の春の岸にある。柳も鬱蒼と煙り、高殿には楽の音が満ちわたる。
一曲離聲腸寸斷。
一節の別れの歌に帰りの遅いあの人を思い出し、腸は断ち切られる思いになる。
今日送君千萬,紅縷玉盤金鏤盞。
この日はるか千里万里の地、旅行く君を見送る、鱠盛る大血と金縁の杯をそえる。
須勸、珍重意,莫辭滿。
よし存分に飲もう。我が意を酌んで、肴も酒も調えているので、これ以上飲めないと言ってはいけない。
其二
白馬玉鞭金轡。少年郎,離別容易。
迢遞去程千萬裏。
惆悵異鄉雲水,滿酌一杯勸和淚。
須愧,珍重意,莫辭醉。
(上行盃二首其一其の一)
芳草 㶚陵の春岸、柳煙深く、滿樓の弦管。
一曲の離聾に腸は寸断さる。
今日君を千萬に送る、紅縷の玉盤に 金鐘の蓋。
須らく勸むべし、意を珍重せよ、滿つるを辞することなかれ。
(上行盃二首其一其の二)
白馬に玉の鞭と金の轡、少年郎は 離別容易ならんも。
迢遞たる去程は千萬裏。
惆悵ことならん異郷の雲と水とに、一杯を勸和して涙和りに勘む。
須らく愧づべし、意を珍重せよ、酔うことを辭するなかれ。
(改訂版)-41韋荘119《巻3-19 上行杯二首 其一》
上行盃二首其一
(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の一:長安の東㶚橋の駅亭の高樓において、春の配置転換の部下の送別の宴を催す。部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになる。だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの)
芳艸灞陵春岸,柳煙深,滿樓弦管,一曲離腸寸寸斷。
長安春明門から東30里、灞陵、㶚水の春の岸に若草が香る。土手の柳並木も鬱蒼と煙り、㶚水亭の高殿には管絃楽の音が満ちわたる。驪歌一曲、驪駒歌一節の歌に、もう腸はずたずたに断ち切られる思いになる。
今日送君千萬,紅樓玉盤金鏤盞,須勸珍重意,莫辭滿。
この日、はるか千里万里の地、旅行く君を見送る、頬紅を紅く染めた妓女の舞に高樓には鱠盛る大血と金縁の杯をそえている。肴も酒も調えているので、こいねがうことは、存分に飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。
(上行盃二首其の一)
芳草の㶚陵、春の岸、柳 煙深くし、樓 弦管滿つ、一曲の離に腸断するに寸々たり。
今日 君を千萬に送る、紅樓 玉盤 金鏤の盞、須【ねが】うは、珍重する意「滿するを辞することなかれ」を勸める。
上行盃二首其二
白馬玉鞭金轡,少年郎,離別容易,迢遞去程千萬里。
惆悵異鄉雲水,滿酌一盃勸和淚,須愧珍重意,莫辭醉。
(改訂版)-41韋荘119《巻3-19 上行杯二首 其一》
『上行杯二首』現代語訳と訳註
(本文)
上行盃二首其一
芳艸灞陵春岸,柳煙深,滿樓弦管,一曲離腸寸寸斷。
今日送君千萬,紅樓玉盤金鏤盞,須勸珍重意,莫辭滿。
(下し文)
(上行盃二首其の一)
芳草の㶚陵、春の岸、柳 煙深くし、樓 弦管滿つ、一曲の離に腸断するに寸々たり。
今日 君を千萬に送る、紅樓 玉盤 金鏤の盞、須【ねが】うは、珍重する意「滿するを辞することなかれ」を勸める。
(現代語訳)
(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の一:長安の東㶚橋の駅亭の高樓において、春の配置転換の部下の送別の宴を催す。部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになる。だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの)
長安春明門から東30里、灞陵、㶚水の春の岸に若草が香る。土手の柳並木も鬱蒼と煙り、㶚水亭の高殿には管絃楽の音が満ちわたる。驪歌一曲、驪駒歌一節の歌に、もう腸はずたずたに断ち切られる思いになる。
この日、はるか千里万里の地、旅行く君を見送る、頬紅を紅く染めた妓女の舞に高樓には鱠盛る大血と金縁の杯をそえている。肴も酒も調えているので、こいねがうことは、存分に飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。
(訳注) (改訂版)-41韋荘119《巻3-19 上行杯二首 其一》
上行杯二首 其一
(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の一:長安の東㶚橋の駅亭の高樓において、春の配置転換の部下の送別の宴を催す。部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになる。だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの)
○上行 上に進む。上の人が行う。上座。上の列。上の人の指図。下級の者が上級の者に差しだす杯。妓楼の亭主のさしだす杯。送別の歌のお手本というべき詞である。
唐の教坊の曲名。『花間集』には四首所収。韋荘の作は二首収められている。双調四十一字、前段二十字四句三仄韻、後段二十一字四句三仄韻で、❻3❹❼/❻❼5❸の詞形をとる。
《巻3-19 上行杯二首 其一》
芳艸灞陵春岸、柳煙深、滿樓弦管、一曲離腸寸寸斷。
今日送君千萬、紅樓玉盤金鏤盞、須勸珍重意、莫辭滿 。
○●●○○●、 ●○△、●○○●、●●△○●●●
○●●○○●、○○●○○△●、○●○△●、●○●。
芳艸灞陵春岸,柳煙深,滿樓弦管,一曲離腸寸寸斷。
長安春明門から東30里、灞陵、㶚水の春の岸に若草が香る。土手の柳並木も鬱蒼と煙り、㶚水亭の高殿には管絃楽の音が満ちわたる。驪歌一曲、驪駒歌一節の歌に、もう腸はずたずたに断ち切られる思いになる。
○灞陵 朝陵とも記す。漢の文帝の陵墓。唐の都長安の東にあり、近くを滻水が流れ、川には滻が架かり、古来から送別の地とされてきた。・灞陵亭 長安東の正門たる春明門からここまでに滻水に架かる橋をわたってくるのであるが、㶚水にかかる橋のたもとにあった亭までが30里である。ここを東に洛陽に向い、南に行くと漢水へ出る。人棭言って送別するのが習わしである。の別れを惜しみ、一夜、酒を酌み交わすのである。また、娼屋の様なものもあったようだ。㶚水の堤には楊柳があり、柳を折って旅の安全を願ったのである。 ・灞水流 長安の東を流れる川は終南山を水源にした滻水と驪山、藍田の方角から流れてくるこの㶚水が北流して合流し渭水に灌ぐのである。㶚水、滻水の二俣川。
李白『灞陵行送別』
送君灞陵亭。 灞水流浩浩。
上有無花之古樹。 下有傷心之春草。
我向秦人問路歧。 云是王粲南登之古道。
古道連綿走西京。 紫闕落日浮云生。
正當今夕斷腸處。 驪歌愁絕不忍聽。
灞陵亭で君を送る、灞水の流れはひろびろとうららかにながれている。
まだ早春で、頭上には花のない古木がある、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が生えている
土地の人に向かって東洛陽方面と南はどこへと分かれ道のことを尋ねた。こちらの道は建安の七子の王粲が「南登」と歌った古道はこれで漢水まで続くのだといった。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じているのだろう。
まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えない。
灞陵行送別 李白:Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白139
○離声 別離の曲、歌。驪歌 古歌で妾の女が主人を恋しくて歌う詩。「驪駒の歌」というものがあり、客が主人に向って別れ卯を告げる時に歌ったもの。” 驪駒門に在り,僕夫具に存す。驪駒 路に在り,僕夫 駕を整う。“とある。
〈驪歌〉原來叫做〈驪駒歌〉,是不見於《詩經》的佚詩。《曲禮》說:「客欲去,歌之。」歌詞是:「驪駒在門,僕夫具存。驪駒在路,僕夫整駕。」歸客要離去時,唱出〈驪駒歌〉,表達自己別離的心意。
○腸寸寸斷 「腸斷寸寸」 一寸ごとに。ずたずたに。すこしづつ。
今日送君千萬,紅樓玉盤金鏤盞,須勸珍重意,莫辭滿。
この日、はるか千里万里の地、旅行く君を見送る、頬紅を紅く染めた妓女の舞に高樓には鱠盛る大血と金縁の杯をそえている。肴も酒も調えているので、こいねがうことは、存分に飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。
〇千万 千山里。
〇紅樓 頬紅を紅く染めた妓女の舞にそまる高樓。
○金鏤盞 金鏤:きんをちりばめる。盞:玉の盃。こさかずき。ともしびのあぶらざら。
〇珍重意 私の心を酌んで。私を愛してくれる気持ち。
(10)#4-1
(王室の七陵)-1
若乃觀其四郊,浮遊近縣,
さて、できるなら、長安四方の郊外をとくと眺めていただき、近県を周遊してみる。
則南望杜㶚,北眺五陵。
南に杜陵と㶚陵の二陵をはるかに望み見て、北に長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵の五陵が見わたされる。
班孟堅(班固)《西都賦》(10)#4-1 文選 賦<112―10>
登池上樓 謝靈運
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
進德智所拙,退耕力不任。」
徇祿反窮海,臥痾對空林。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』
初景革緒風,新陽改故陰。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群難處心。
持操豈獨古,無悶徵在今。』
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群難處心。
持操豈獨古,無悶徵在今。』
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
(改訂版)韋荘 訴衷情二首 其二(妃嬪の孤独な心情を詠う二首の其の二。妃嬪の夢をくだく、雨による舟遊びの中止の様子を詠う。)後宮の池には柳の緑に水面も染まっていて、赤い花と薫り高い花が咲きほこっているが、カスミが靄になり細雨に変わり静かに時が過ぎていく。その日の舟遊びを楽しみにしていた妃嬪が、蘭の棹に倚り、ゆくのをためらっている。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-40韋荘118《巻3-18 訴衷情二首 其二》三巻18-〈118〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5792
作者 | 詩題 | 詞形 ○平韻 ●仄韻 | 字 | |
溫庭筠 | 訴衷情一首 | 7③❸❷③ ⑤②⑤③ | 33 | 六平・二仄 |
| (❷❷❸③❸❷③ ⑤②⑤③) | (十一句六平五仄) | ||
韋莊 | 訴衷情二首其一 | 7③❸❷③ ⑤②⑤③ | 33 | 六平・二仄 |
訴衷情二首其二 | ⑦③❸❷③ ⑤②⑤③ | 33 | 六平・二仄 | |
毛文錫 | 訴衷情二首其一 | 7⑤33⑤ ⑤③⑦③ | 41 | 六平韻 |
訴衷情二首其二 | 7⑤33⑤ ⑤③⑦③ | 41 | 六平韻 | |
顧夐 | 訴衷情二首其一 | 7③❸❷③ ⑤②⑤③ | 33 | 六平・二仄 |
訴衷情二首其二 | 7③❸❷③ ⑤②⑤③ | 33 | 六平・二仄 | |
魏承班 | 訴衷情五首其一 | ⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③ | 41 | 八平韻 |
訴衷情五首其二 | ⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③ | 41 | 八平韻 | |
訴衷情五首其三 | ⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③ | 41 | 八平韻 | |
訴衷情五首其四 | ⑦⑤3③⑤ 5③7③ | 41 | 六平韻 | |
訴衷情五首其五 | ⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③ | 41 | 八平韻 | |
(旧解)
訴衷情二首 其二
碧沼紅芳煙雨靜,倚蘭橈。
春も深まり緑に染まる池の周りには赤い花や薫り高い花が咲き、カスミが靄になり細雨に変わり静かに時が過ぎていく。そして蘭の大きな弱くなった樹に倚りかかる。
垂玉佩,交帶,嫋纖腰。
朝が来ると朝賀の儀に佩び玉が垂れ整列する。其の後でもう閨で交わる。妖艶な細腰は寵愛されていたのである。
鴛夢隔星橋,迢迢,越羅香暗銷,墜花翹。
鴛鴦のように過したものが七夕の橋渡になり今はそれも隔たることになった。春ははるか遠くになってしまった。うす絹の上衣、香をたくこともなく消え行ってしまった。あれだけ寵愛によって栄華を誇ったものも今や落ちてしまった。
(訴衷情【そちゅうじょう】二首其の二)
碧沼の紅き芳に煙雨静かに、蘭橈に倚れば。
玉佩び垂れ、帯交る、嫋【しなや】かに纖【ほそ】き腰鴛夢は星橋を隔てて、迢迢たり、越羅の香は暗【ひそ】かに銷え、花翹 墜つ。
改訂版 3 韋莊《03-38 訴衷情二首 其一》
訴衷情二首 其一
(女盛りを過ぎた女の孤独な心情を詠う二首の其の一:踊りと美しさにより妃嬪となったが、毎年新しい女性が後宮に選ばれて後宮に入って来次第に忘れ去られる寵愛を失った踊りの得意であった妃賓を詠う。)
燭燼香殘簾半卷,夢初驚。
寵愛を失い、孤独の夜をうとうととしている、今しがた、なにかで夢から目覚めて驚いた、春とはいえ少し肌寒いと思えば、蝋燭も燃え尽き、残り香も消えても未だ昼間に帳を半分巻き上げたままにしていたからだが、それでも何もする気になれない。
花欲謝,深夜,月朧明。
庭を見ると、もう、深夜をすぎたから、月はおぼろにあかるくて、花はもう散りかけ凋み始めている。
何處按歌聲?輕輕,舞衣塵暗生,負春情。
夢を醒ませた楽器に合わせて歌う歌声は何処の御殿から聞こえてくるのだろう、こちらには、自慢であった舞の衣に塵が積もって色あせて見える、春の心情は忘れないし、寵愛を受ける準備も、踊りの準備も毎日している、それに負けたら生きていけないのだと思っても、心は折れそうになる。
(訴衷情【そちゅうじょう】二首其の一)
燭 燼【も】え 香 残り 簾 半ば捲かれて 夢初めて驚む。
花も謝【しぼ】まんと欲す、深き夜、月朧に明かく。
何處よりぞ 按歌の聾の軽軽たる、舞衣は塵 暗【ひそ】かに生じて春の情に負【そむ】く。
改訂版 韋莊 訴衷情二首其一 女盛りを過ぎた女の孤独な心情を詠う二首の其の一:踊りと美しさにより妃嬪となったが、毎年新しい女性が後宮に選ばれて後宮に入って来次第に忘れ去られる寵愛を失った踊りの得意であった妃賓を詠う。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-39韋荘117《巻3-17 訴衷情二首 其一》三巻17-〈117〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5787
教坊の曲 舞踊
紅桃
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。
謝阿蛮
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。
張雲容
全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。
王大娘
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。
許和子(永新)
『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。
念奴
『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。
訴衷情二首 其一
燭燼香殘簾半卷,夢初驚。
花欲謝,深夜,月朧明。
何處按歌聲?輕輕,舞衣塵暗生,負春情。
訴衷情二首 其二
碧沼紅芳煙雨靜,倚蘭橈。
垂玉佩,交帶,嫋纖腰。
鴛夢隔星橋,迢迢,越羅香暗銷,墜花翹。
改訂版 韋荘 思帝鄕二首 其二 帝都の女の郷で思うこと その二:《巻3-15 思帝郷二首 其一》のある「兩心知」〔二人だけの愛の言葉〕の答、「將身嫁與、一生休。縱被無情棄,不能羞。」〔あなたのもとへ、嫁つぎたい、あなたと一緒にすごしたい。もし、棄てられても、恥たりして死ぬようなことはない。〕と詠う。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-38韋荘116《巻3-16 思帝鄕二首 其二》三巻16-〈116〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5782
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(旧解)
思帝郷二首 其二
(帝都にいて田舎を思う。)
春日遊, 杏花吹滿頭。
ある春の日に、郊外へ行楽に出かけました。杏の花びらが頭一杯に降りかかってくるような日でした。
陌上誰家年少、 足風流。
こんな田舎道にいるのは、どこの若者なのでしょう。 行楽で足を延ばしてきたなかなか風流な事でしょう。
妾擬將身嫁與、 一生休。
わたしは一度でいいから、嫁という地位をあたえられたいのです。そしたら、一生 おちつき、これでおわっても満足なのです。
縱被無情棄, 不能羞。
たとえ、無情にも棄てられたとしても、いっかいよめになっておれば、はずかしいとは思わないものなのです。
思帝鄕
春日遊ぶ, 杏花 吹きて頭に滿つ。
陌【あぜみち】の上 誰が家の年少か、足【はなは】だ風流なり。
妾【わたし】は擬【おも】う 身を嫁與【かよ】すとしても、 一生の休んぜん。
縱【たと】い無情に棄てらるるとも, 羞づ能【あた】わず。
女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものがあった。
人日の剪彩
陰暦の正月七日は「人日」 である。この日、宮中でも民間でも、女性は美しい色彩の絹布をとりだして、花、葉、鳥などの図案をはさみで切り抜く。「閏婦は刀を持して坐し、自ら憐む 裁ちて新しきを乗るを。葉は催して情は色を綴り、花は寄せて手は春を成す。燕(燕の模様の努紙)は帖めて敷戸に留め、鶏(鶏の模様の努紙)は謝りて餉う人を待つ。撃ち来って夫婿に問う、何処ぞ真の如からざらん」(徐延寿「人日華麻」)。上手にできれば、それを木に飾ることもあれば、それを空に飛び散らせる人もあった。こうした勢彩は主に節句のめでたさを盛り上げるために行ったのであろうが、また女性たちはこの機会を借りて自分の器用さを人に誇ったのである。
* 人日は一月一日から六日まで各種家畜の成育を占い、七日が人、八日が穀物の占い口であった。これは年頭に豊凶、吉凶を占う習俗であり、古代日本にも伝わった。
蕩鞦韆(ぶらんこ蕩ぎ)
この女性の遊びは、毎年、寒食(清明節の前二日の節句)と清明節(冬至から一〇六日目、春の到来を祝う)前後に行われた。「天宝年間、宮中では寒食節に至ると、鞦韆を作って宮婦たちを乗せて宴楽とした。これを〝半仙の戯〞(半分仙人気分となる遊び)とよんだ」(『開元天宝遺事』巻下)。民間の女性もぶらんこをして遊んだ。唐詩に、
「少年き児女は鞦韆を重んじ、巾を盤け帯を結んで両辺に分かつ。身は軽く裙薄く 力を生じ易し、双手は空に向き 鳥の翼の如し。下り来り立ち定まりて 重ねて衣を繋ぎ、復た斜めの風の 高きを得ざらしむるを畏る。傍人 上に送る 那ぞ貴ぶに足らん、終に鳴璫を賭け 聞いて自ら起つ。回り回って高樹と斉しかるが若く、頭上の宝釵 従って地に堕つ」(王建「鞦韆詞」)。
また別の詩に、
「五糸もて縄を繋ぎ 墻を出ること遅く、力尽き纔かに瞵りと隣の圃を見る。下り来って矯く喘ぎ末だ調うる能わず、斜めに朱闌に借りて久しく語無し」(韓偓「鞦韆」)とある。これらの詩からみると、少女たちはぶらんこが大好きで大いに勝負を争い、時にアクセサリーまで賭けて、誰が最も高く揚がるか競った。
韓偓《鞦韆》
池塘夜歇清明雨,繞院無塵近花塢。
五絲繩繫出牆遲,力盡才瞵見鄰圃。
下來嬌喘未能調,斜倚朱欄久無語。
無語兼動所思愁,轉眼看天一長吐。
王建《鞦韆詞》
長長絲繩紫復碧,裊裊橫枝高百尺。
少年兒女重秋千,盤巾結帶分兩邊。
身輕裙薄易生力,雙手向空如鳥翼。
下來立定重系衣,復畏斜風高不得。
傍人送上那足貴,終賭鳴珰鬥自起。
回回若與高樹齊,頭上寶釵從墮地。
眼前爭勝難為休,足踏平地看始愁。
浣渓沙五首 其二
欲上鞦韆四體傭、擬教人送又心忪、畫堂簾幕月明風。
此夜有情誰不極、隔墻梨雪又玲瓏、玉容憔悴惹微紅。
(浣渓沙五首 其の二)
鞦韆【しゅうせん】に上らんとして四体慵【ものう】し 人をして送らしめんと擬【ほっ】するも又心 忪【おどろ】く、畫堂の簾幕に月明らかに風ふく。
此の夜情有るを誰か極めざらん、墻【かき】を隔てて梨雪又玲瓏【れいろう】たり、玉容憔悴して微紅惹【みだ】る。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-2韋荘80《巻2-30 浣渓沙五首 其二 (欲上鞦韆四體傭)》二巻30-〈80〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5602
闘百草(百草を闘わす遊び)
草花を採ってその優劣を競う遊びで、端午の節句の前後、百草の生い茂る頃に行われた。「帰り来って小姑に見え、新たに放って百草を弄しむ」(劉駕「桑婦」)、「閑来に百草を闘わし、日を度るも敗を成さず」(雀顛「王家少婦」)などと詩に詠われでいる。これは主に少女たちの遊びであろう。中宗の時代、安楽公主は五月五日の「闘百草」 の時、出し物を豊富にするために、わざわざ人を南海のある寺院まで派遣して、南朝宋の謝霊運が臨終の時に寺に寄進した美害(ほほひげ)を取り寄せて、百草遊びの賭け物とした(『隋唐裏話』巻下)。この「闘百草」という遊びは、恐らく草の品種で勝ち抜けを競ったものと思う。それで安楽公主は、謝霊運のほほひげを草の一種のように装って賭け草にするという、奥の手を考えついたのであろう。
弓子団子
端午の節句に、宮中の女性たちは団子を作り、それを小さな弓で射る遊びもした。「粉団で角黍(粽)を造り、金盤の中に貯く。小さな角で弓子を造るが、うっとりするほど繊細巧妙である。箭を架えて盤中の粉団めがけて射かけ、当たれば食べでもよいが、粉団は滑威して射ぬくのは難しい」(『開元天宝達事』巻上)。この遊びは宮中だけで行われたらしく民間には普及しなかった。
七夕の乞巧(針仕事の占い)
旧暦七月七日の夜の針仕事の占いは、一年の中で女性にとって最も重要な祭日だった。この日の晩は宮廷でも民間でも祭壇をつくり、鄭重に線香、果物、酒などをお供えして、香を焚いて牽牛と織女の二神を祭り、音楽を奏して宴会を開き、賑やかに過ごした。女性たちは織女に様々なお願い事 - 針仕事が上手になるように、幸せになるようにと願い、また「困難を乗り越え、手と目がさらによく利き、織りも縫いも心のままにできるよう」お願いした(『柳河東集』巻一八「乞巧文」)。この夜、女性たちは月に向い針に糸を通してみる。うまく通れば上手になると解釈した。宮中の女性たちは、次のような新しい占いもした。「宮女たちは、瓜の花と酒食を庭に並べて牽牛と織女に願いごとをした。また各人が蜘株を捉えて小さな盆の中に入れ、蜘妹がかける巣の糸が粗いか細かいかを見て、自分の針仕事が上手か下手かを占った」(『開元天宝達事』巻下)。
拜新月
「幼女綾かに六歳、末だ巧も拙も知らず。向夜堂前に在りて、人に学んで新月を拝む」(施肩吾「幼女詞」)、「東家の阿母も亦た月を拝し、一拝一悲 声断絶す。昔年 月を拝しては容輝を蓮 にし、如今 月を拝しては双すじの涙垂る。衆女の 新月を拝するを回り看て、却って憶う紅閏の年少の時」(張婦人「新月を拝す」)、などと唐詩に歌われている。拝月はもちろん新月が初めて出た時に行う。古代の小説や戯曲の中に家庭の女性が拝月する情景がしばしばでてくる。それらによって、拝月は昔から女性たちがお月様に願いごとをする機会であったことを知るのである。
蔵鈎(鈎隠し)
「蔵鈎を得て多少を語らん(数を当てん)と欲し、嬢妃官女は相い和すに任す。朋毎に一百人を定(定数)となし、三千匹の森羅を遣勝る」(羅宗涛『教壇変文社会風俗事物考』台北文史哲出版社、一九七四年より引用)。これは双方百人ずつが勝負を競う集団的な遊びで、これは宮中の女性だけに盛んに行われたもののようである。
* 鈎とは、とめ金、帯どめなど、先端が曲っている金属製の小物の総称。
動物の飼育
「年は二八(十六歳)、久しく香閏に鎖こめられ、禍児(狩)と鶴鵡を相手に戯ぶのが愛き」(『敦煙変文社会風俗事物考』より引用)とあるように、家庭の少女や婦人、それに宮中の女性たちは常に鶴鵡や犬などの小動物を友として飼い、寂しさをまざらわせていた。楊貴妃が飼っていた鶴鵡は雪衣女といい、犬は康国(中央アジアのサマルカンド)から献上されたもので、どちらも高貴な品種であった。宮女や妃妾もまた常に小さな金の龍に蟻蜂を捉えて飼い、夜枕辺に置いて鳴き声を聞き、孤独の苦しみをまざらわせた。後に、この風習を民間が争ってまねるようになり、蟻蜂を飼うのを娯楽とした(『開元天宝遺事』巻上)。
唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。
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紀 頌之