玉集-03 雑詩九首【字解集】
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2017年1月3日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年 026-027まで 【字解集】杜陵絕句・君子有所思行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7919 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-018-#2 全唐文551-11-#2喜侯喜至贈張籍、張徹 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7920 |
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806年-017-#11 巻二 18-#11巻02-19薦士 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7908 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
757年-60 豎子至 杜詩詳注(卷一九(四)一六三四)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7921 |
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757年-54 承聞河北諸道節度入朝歡喜口號絕句十二首 【字解集】 杜詩詳注(卷一八(四)頁一六二九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7885 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻一50 (60)回目温庭筠 《玉蝴蝶》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7922 (12/30) |
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fc2 |
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54)回目温庭筠 《南歌子七首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7886 (12/24) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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玉集-03 雑詩九首【字解集】Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7923
雜詩九首 其一 枚乘
(夫を西北の国境に送っている、その方向の高台には高楼があるので、その高楼を見ては思い出し、また、そこから、聞こえてくる箏の音色はさびしそうなものであり、響きである。聞く人も、家に嫁いだけれど部屋に訪れる人がなく孤独であり、弾く人も、寂しくて音楽に托して意中を表わし、知音の人を求めようとする意を述べた詩である。)
1. 枚 乗(未詳-前一四一)は、前漢の人。字は叔。淮陰(江蘇省淮安市)の人。賦や文章を得意とした遊説の徒である。
呉王劉濞の郎中となっていたが、呉王が漢に対し恨みを持ち反逆しようとすると、枚乗は上書してそれを諌めた。しかしながら呉王はそれを取り上げなかったので、枚乗は呉を去って梁へ行き、梁王劉武の元に就いた。
景帝が即位すると、御史大夫晁錯が漢の制度を定めると共に諸侯王を抑える政策を行った。景帝前3年(紀元前154年)に呉王はついに他の六国と共に反乱を起こし(呉楚七国の乱)、晁錯の誅殺を反乱の名目に掲げた。漢はそれを知ると晁錯を殺して諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王に対し書を奉り、速やかに兵を帰還させることを説いたが呉王は用いず、反乱は失敗に終わり呉王は滅びた。
反乱の後、枚乗は有名になり、景帝は彼を弘農郡都尉に任命した。しかし大国の賓客となって英俊たちと遊説し、望むものを得る事ができていた彼は役人となることを喜ばず、病気と称して官を辞して再度梁の賓客となった。梁の賓客の中でも彼が最も賦に長じていた。
梁王劉武が死亡すると、枚乗は故郷の淮陰に帰った。
その後、武帝が即位すると、皇太子時代から枚乗の名を聞いていた武帝は、老年の枚乗を安車蒲輪(座って乗れて揺れの少ない馬車)で召し出したが、枚乗はその途上で死亡した。
子の枚皋も賦に優れ、武帝に仕えて多くの賦を残した。
なお、『文選』に枚乗の作品である「七発」が収録されている。枚乘が最もその本領を発揮したものであり、「七発」八首で、「七」なる文体を後世に流行せしめるに至った辞賦の別体である。
2. 雜詩 「雑詩」という題名は、幾篇かの詩に共通の題目をつけかねる時に、作者が附する題名である。この九首の中、第六首「蘭若生春陽」を除く外は『文選』の無名氏作「古詩十九首」中に見えるものである。『文選』と『玉台新詠』とはその編集時代があまり隔たっては居らぬのに、『文選』では無名氏の作であったものが、『王台新詠』には枚乗作と明記されているのは何故であろうか。徐陵がこれを枚乗作とした根拠を示したものはないので、知る由もない。清の朱彝尊は「書二玉台新詠後一」には枚乗作を肯定している。しかし諭は多く推定に基づき、且つ漢代における五言詩成立の時期が問題であるために、これが真偽には疑問が残る。一般に五言詩の成立は、枚乗より後の時代と見るのが、今日の定説に近いのではないだろうか。
3. 雜詩九首 其一「西北有高樓」(西北に高楼有り)「古詩十九首」中の第五、李善は「高才の人仕官未だ達せず、人を知る者稀なるを明らかにす」といい、「西北」を乾の方位として、夫、君の方位と解している。古今の解説は概ねこれに従っている。鈴木博士は夫を亡った妻の夫を慕う歌曲と見て居られる。要するに孤独の人が音楽に託して意中を表し、知音の人を求めようとするのが、詩の表面の意であるとしている。
4. 西北有高樓 西に閨があり、北には妾夫の囲われた部屋があり、高楼がある。
4. 交疏結綺窗 格子窓。すかし彫りの、組み合わせに彩色の紋様を彫り込み綵絹を張った飾り窓。富貴の家の娼妾の部屋の窓。
5. 阿閣 四方が解放されていて屋根があり,あがつまや風の高殿。
6. 杞梁妻 斉の国に杞梁殖の妻が,夫の戦死を悲しみ城下で哭いていた。7日のち城壁が崩れ為に,その父と夫と子を失い悲しみを琴を奏でて歌った。歌い終わると河に身を投じて死んだ。(列女伝)孟姜女 斉の杞梁の妻; 万里の長城の人夫であった夫が過酷な労働で死んだことを知った孟姜女が号泣すると万里の長城が崩れた故事
一去燕山更不歸。造得寒衣無人送,不免自家送征衣。 一般的な見方としては、孟姜女と杞梁は夫婦であり、「杞梁の妻」とは孟姜女を指す。
斉の荘公の時の人であるが、杷梁殖の妻の作った琴歌に「杷梁妻歎」がある。殖が戦死したのを悲しんで、「上には父無く、中には夫無く、下には子無し。将に何を以て吾が節を立てん」と嘆き琴をとって鼓し、曲終わって潤水(当)に身を投げたと伝える。その「琴歌」に「悲しきは生別離より悲しきはなし」の句(『楚辞』「九歌」に見える句がある人。
7楽哉新相知、憂来生別離 自分が楽しいとおもうのは、新しい出逢いから知り合い、親友となることである、一方、愁い悲しみにくれるのは、「楚辞」に見る、折角知り合ったものがたちまち別れること、なのである。
《楚辞 九歌第二(六)少司命》「悲莫悲兮生別離 樂莫樂兮新相知。」(悲しきは生別離より悲しきはなく、楽しきは新相知より楽しきはなし。)世に悲しいのは、生き別れより悲しいものはなく、楽しいのは、新たに心から知り合う事より楽しいものはない。折角知り合った人にたちまち別れることになるとは、この上なく悲しいものである。
















