劉禹錫《再遊玄都觀 序文》私、劉禹錫は805年永貞元年屯田員外郎であった時にここで来てみた時にはこんなに花はなかった。しかしこの年連州の長官に貶されているし、それからも朗州の司馬に左遷された。その間続くこと十年も経過して、やっと長安に呼び戻された。



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再遊玄都觀 序文 劉禹錫 薛濤関連 唐五代詞・宋詩 薛濤-238--#94   漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2737


元和十一年(816年)に朗州(現・湖南省常徳市)より召還され、長安に戻ってきて、戯れに花見をしている諸賢に詩を贈る。 
永貞元年(805年)に政争に敗れて地方の連州(広東省連州市)刺史に左遷され、更に朗州(湖南省常徳市)司馬に左遷されて、足掛け12年、都へ呼び戻されたとき(元和十一年:816年)、このページの詩を作ったのである。それが政敵に知られることとなり、「この表現内容が、朝政を嘲弄しており、不穏当」とのことで、再び地方へ飛ばされる原因(口実)となった。やがて、この詩作のとき(元和十一年:816年)から、更に十四年後の太和二年(828年)、再び都へ呼び戻された。その時の詩作『再遊玄都觀』とその序に、その間の事情が説明されている。


再遊玄都觀   序
余貞元二十一年爲屯田員外郎時,此觀未有花。
私、劉禹錫は805年永貞元年屯田員外郎であった時にここで来てみた時にはこんなに花はなかった。
是歳出牧連州,尋貶朗州司馬。
しかしこの年連州の長官に貶されているし、それからも朗州の司馬に左遷された。
居十年,召至京師,
その間続くこと十年も経過して、やっと長安に呼び戻された。
人人皆言,有道士手植仙桃,
人々は口々に言う。「道士が仙郷にある桃の木をここにうえたのです。」と。
滿觀如紅霞,遂有前篇以志一時之事。
花は満開に咲き誇り、まるで紅の霞が漂っているかのようです。そしてまた、前篇『元和十一年自朗州召至京戲贈看花諸君子』「紫陌紅塵拂面來,無人不道看花回。玄都觀裏桃千樹,盡是劉郎去後栽。」の詩を作った時の事を思い出していた。
旋又出牧,今十有四年,復爲主客郞中。
その詩を書くや否や、わたしはまた地方の長官に出されてしまい、それでまた十四年も経過し、やっとまた戻されて、主客郞中という役目を仰せつかった。
重遊玄都觀,蕩然無復一樹,
そうして重ねてこの玄都観に遊びに立ち寄った。するとどうだろう、ふたたびここには一本の木も無くなっていたのだ。
唯兔葵燕麥動搖於春風耳。
ただ、兔葵と燕麦だけが伸びており、そこを吹き抜ける春風だけなのだ。
因再題二十八字,以俟後遊,時太和二年三月。

そうして、再び二十八字、七言絶句の詩を作った。しかしこの間にどんなことがあったというのだ。この詩を作ったのは828年太和二年三月のことである。
余【よ】貞元二十一年(805年)屯田員外郎 爲【た】るの時,此の觀 未だ花 有らず。
是の歳 連州に出でて牧す,尋【つ】いで 朗州の司馬に貶【へん】せらる。
居ること十年,召されて京師に至る,
人人 皆な言ふ,道士の仙桃を手植する有りて,
滿觀 紅霞の如しと,遂に 前に篇し以て一時の事を志(しる)せる有り。
旋【たちま】た又た牧に出づ,今に 十有四年,復【ま】た主客郎中 爲【た】り。
重ねて 玄都觀に遊び,蕩然として復た一樹も無し,
唯だ兔葵【いえにれ】燕麥の春風に動搖する耳【のみ】。
因って再び二十八字を題し,以て後遊を俟【ま】つ,時に 太和二年(828年)三月。



再遊玄都觀
百畝庭中半是苔, 桃花淨盡菜花開。
種桃道士歸何處? 前度劉郎今又來。
・玄都觀 道教寺院の名。長安の東西を春明門と金光門、延興門と延平門に大通りがあり、南北通り朱雀門と明徳門、が交差するあたりにあった。

燕麦01











『再遊玄都觀 序』 現代語訳と訳註
(本文)
再遊玄都觀

余貞元二十一年爲屯田員外郎時,此觀未有花。
是歳出牧連州,尋貶朗州司馬。
居十年,召至京師,
人人皆言,有道士手植仙桃,
滿觀如紅霞,遂有前篇以志一時之事。
旋又出牧,今十有四年,復爲主客郞中。
重遊玄都觀,蕩然無復一樹,
唯兔葵燕麥動搖於春風耳。
因再題二十八字,以俟後遊,時太和二年三月。


(下し文)
余【よ】貞元二十一年(805年)屯田員外郎 爲【た】るの時,此の觀 未だ花 有らず。
是の歳 連州に出でて牧す,尋【つ】いで 朗州の司馬に貶【へん】せらる。
居ること十年,召されて京師に至る,
人人 皆な言ふ,道士の仙桃を手植する有りて,
滿觀 紅霞の如しと,遂に 前に篇し以て一時の事を志(しる)せる有り。
旋【たちま】た又た牧に出づ,今に 十有四年,復【ま】た主客郎中 爲【た】り。
重ねて 玄都觀に遊び,蕩然として復た一樹も無し,
唯だ兔葵【いえにれ】燕麥の春風に動搖する耳【のみ】。
因って再び二十八字を題し,以て後遊を俟【ま】つ,時に 太和二年(828年)三月。


(現代語訳)
私、劉禹錫は805年永貞元年屯田員外郎であった時にここで来てみた時にはこんなに花はなかった。
しかしこの年連州の長官に貶されているし、それからも朗州の司馬に左遷された。
その間続くこと十年も経過して、やっと長安に呼び戻された。
人々は口々に言う。「道士が仙郷にある桃の木をここにうえたのです。」と。
花は満開に咲き誇り、まるで紅の霞が漂っているかのようです。そしてまた、前篇『元和十一年自朗州召至京戲贈看花諸君子』「紫陌紅塵拂面來,無人不道看花回。玄都觀裏桃千樹,盡是劉郎去後栽。」の詩を作った時の事を思い出していた。
その詩を書くや否や、わたしはまた地方の長官に出されてしまい、それでまた十四年も経過し、やっとまた戻されて、主客郞中という役目を仰せつかった。
そうして重ねてこの玄都観に遊びに立ち寄った。するとどうだろう、ふたたびここには一本の木も無くなっていたのだ。
ただ、兔葵と燕麦だけが伸びており、そこを吹き抜ける春風だけなのだ。
そうして、再び二十八字、七言絶句の詩を作った。しかしこの間にどんなことがあったというのだ。この詩を作ったのは828年太和二年三月のことである。




(訳注)
再遊玄都觀  序


燕麦003余貞元二十一年爲屯田員外郎時,此觀未有花。
私、劉禹錫は805年永貞元年屯田員外郎であった時にここで来てみた時にはこんなに花はなかった。
・貞元二十一年(805年=永貞元年 正月德宗が亡くなり、順宗が待望の即位をしたがすでに重病であり政務を満足に取ることができなかった。そこで側近の王叔文が、王伾・劉禹錫・柳宗元・程异など少壮官僚達とともに新政に乗り出した。宦官軍權の排除や停滞した政治の改革が矢継ぎ早に指令された。しかし抵抗勢力が強くなかなか浸透しなかった。
順宗の健康は悪化していくばかりであり、皇太子の即位を望む声が強く、八月には順宗は退位して上皇となり、憲宗が即位した。憲宗は宦官吐突承璀の影響を受け、宦官の軍權を元に戻したが、政治改革については精力的におこなった。しかし前帝の側近王叔文や取り巻きの少壮官僚は左遷され姿を消した。また八月には対吐蕃の重鎮西川節度使韋皐(薛濤のパトロン)が亡くなり、その幕僚の劉闢が自立した。憲宗は即位早々この対策に逐われることになった。
・屯田員外郎 古代の官職。主税助の別称。前漢の武帝は、辺境地帯を防衛する兵士に農耕を行わせた(軍屯)。後漢末期に徐州の陶謙が陳登を典農校尉に任じて屯田のことを行わせ、続いて196年には魏の曹操は、韓浩・棗祗らの提言に従って屯田制を導入した。これは、辺境地帯でなく内地において、荒廃した田畑を一般の人民にあてがって耕作させるもの(民屯)で、当初は許都の周辺で行われ、のち各地に広まった。屯田制下の人民は、各郡の典農中郎将、各県の典農都尉によって、一般の農村行政とは別に軍事組織と結びついた形で統治された。


是歳出牧連州,尋貶朗州司馬。
しかしこの年連州の長官に貶されているし、それからも朗州の司馬に左遷された。
・牧 地方長官。前漢・後漢代に於ける州の長官のこと。刺史:前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。


居十年,召至京師,
その間続くこと十年も経過して、やっと長安に呼び戻された。


人人皆言,有道士手植仙桃,
人々は口々に言う。「道士が仙郷にある桃の木をここにうえたのです。」と。
・仙桃 会稽郡(浙江省)の劉晨と阮肇という人が、薬草を採りに天台山へ入ったところ、道に迷ってしまった。谷川のほとりに女が二人立っていて絶世の美女たちである。女は二人を自分達の家へ連れて帰った。女達の家は見事なもので、屋根は銅の瓦、広間の南側と東側の壁際に立派な寝台、紅い薄絹の帳をめぐらしてある。帳には金糸銀糸で精緻な縫い取りが施され、四隅に懸けられた鈴が風が吹くたびにチリンチリンと可愛い音を鳴らしている。 寝台の脇にはそれぞれ侍女が十人ずつ居並んでいた。女達と一緒に暮らすようになって十日経った時、二人が家へ帰らせてくれと言うと女達は、「あなた方がこちらにおいでになったのは、前世からのご縁に引き寄せられたからです。どうして帰りたいなどとおっしゃるの」と言って涙を落とした。そして二人はそのまま女の柔かな抱擁を受け、すべてを忘れた。二人はそれから半年ほどの間、昼は酒宴を開き、夜は女達と共に歓楽に耽る日々を過ごした。不思議なことにここには四季がなく、いつも春の気候で花が咲き乱れ鳥が囀っていた。しかし、山を下りた二人が故郷に戻ってみると、村の様子は一変していた。親戚や知人が一人もいないのである。何とか自分の家に帰り着いて当主という人物に会ってみると、何と七代目の子孫であった。


滿觀如紅霞,遂有前篇以志一時之事。
花は満開に咲き誇り、まるで紅の霞が漂っているかのようです。そしてまた、前篇『元和十一年自朗州召至京戲贈看花諸君子』「紫陌紅塵拂面來,無人不道看花回。玄都觀裏桃千樹,盡是劉郎去後栽。」の詩を作った時の事を思い出していた。


旋又出牧,今十有四年,復爲主客郞中。
その詩を書くや否や、わたしはまた地方の長官に出されてしまい、それでまた十四年も経過し、やっとまた戻されて、主客郞中という役目を仰せつかった。


重遊玄都觀,蕩然無復一樹,
そうして重ねてこの玄都観に遊びに立ち寄った。するとどうだろう、ふたたびここには一本の木も無くなっていたのだ。


唯兔葵燕麥動搖於春風耳。
ただ、兔葵と燕麦だけが伸びており、そこを吹き抜ける春風だけなのだ。
・兔葵 (ウサギアオイ)はアオイ科ゼニアオイ属の一年草である。 原産地はヨーロッパである。 日本では1948年に帰化が確認されている。 畑の縁などに生える。
・燕麥 イネ科カラスムギ属の穀物。一年草。別名、オートムギ、オーツ麦、オート、マカラスムギ。また、同属の野生種 A. fatua と同名でカラスムギとも呼ばれる。


因再題二十八字,以俟後遊,時太和二年三月。
そうして、再び二十八字、七言絶句の詩を作った。しかしこの間にどんなことがあったというのだ。この詩を作ったのは828年太和二年三月のことである。
・二十八字 七言絶句
・太和二年 劉禹錫は主客郞中となる。ついで東都に分司となる。


劉晨遇仙 東漢。劉晨和阮肇國二人入山採藥。遇二仙女。 招至成親。半年後二人回家。怎知至家已過百年。 無人認識二人。二人返山找仙女。終不可得。 喻有心花開花不發。無心插柳柳成蔭。 2.燕昭王為郭隗築黃金臺. 燕昭王是燕王噲的兒子,名子叫平。