(改訂版)-8韋荘86《巻2-36 菩薩蠻五首其三》(長安にいて、世間の人が言う、今になって思い出す、若いうちに江南に行ったころは楽しかった、ずっと楽しいまま、白髪になっても帰らないと言っていたものだと、その良さを想像して詠うもの)

 

 
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『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-8韋荘86《巻2-36 菩薩蠻五首其三》二巻36-86〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5632

 

 

官  妓

唐代の社会に充ちあふれ、一つの階層を形成していたのは、主に各級の官庁の楽籍に登録されていた大量の官妓である。もし、宮妓と教坊妓とを一般に芸人と見なすことができ、そしてまた家妓が姫妾・婦女と同類だとすれば、ここでとりあげる官妓だけが後世の娼妓と同じ性格をもっていた。

 

いわゆる唐代の娼妓とは主にこの部類の人たちを指すのである。

唐代は妓楽が盛んであり、「唐人は文を尚び、狎(芸妓遊び)を好む」(張端義『貴耳集』巻下)と評された。官庁の送迎、宴会典礼はもちろん、また官吏が集まって遊ぶ時にも、常に妓楽で雰囲気を盛りたてた。官吏が妓楼に泊り、娼妓と遊ぶ風潮はきわめて盛んであり、朝廷の法律もこれを決して禁止することはなかった。自居易は杭州の刺史(各州に置かれ地方官を監督した役職。太守とも呼ばれた)の任にあった時、日がな一日妓女を連れて遊んだ。それで後の宋代の人は、これを怪しみ、論難して「これによって当時の郡政(郡の政治)には暇が多く、吏議(官吏の議論)も甚だ寛やかだったことが分かる。もし今日だったら、必ず処罰の対象とされたであろう」(襲明之『中呉紀聞』)と書いている。また、清代の人は白居易をいささか羨ましく思い、「風流太守愛魂銷,到處春翹有舊游;相見當時疏朝綱,尚無官吏宿娼條」(風流太守は魂の消ゆるを愛し、到る処 春訪 翠麹有り。想見す 当時 禁網疎 にして、尚お官吏宿娼の条無きを)〔趙翼題《白香山集後》(白香山集の後に題する詩)、銭泳『履園叢話』巻二一「笑柄」)と述べている。官妓制度はまさにこの種の社会風潮と朝廷の放任のもとで、唐代に盛況を極めたのである。

当時、長安と洛陽の両京に大量の官妓がいたばかりでなく、地方の大きな州、府にも官妓がいた。

 

 

それで「府娼」とか「郡娼」という言葉があった。揚州、成都のような繁華な大都会は、みな名妓が集中する場所であった。県の官庁についていえば、『旧唐書』 の「葦堅伝」 には、天宝の初め、霊宝県と隣県(河南省)の官府は両県の「官便の婦人」(官妓)を集めて得宝歌(玄宗が楊貴妃を得た時作られた曲。楽府の一つ)を唱わせ、玄宗皇帝に悦ばれたとあり、また李徳裕の『文武両朝献替記』 には、李が宰相になった時、「両県に命じてこれ以上娼妓を置かないようにさせる」という処置をとったことが記されている。県の官庁にも官妓が設けられていたことがわかる。

そう多くはない現存する史料の分析を通じて、筆者は地方の州・府の官妓の地位と生活は、都長安の官妓と比べてかなり異なっていたことを知った。従って以下においてはそれらを分けて述べよ

 

 

地方の官妓

ここで主にとりあげるのは各州・府(及び唐代後期の藩鎮)に隷属する官妓である。これら官妓には二つの来源があった。一つは、代々「楽籍」に入れられていた、官に隷属する職民の女子であり、他に生きる道はなく、ただ先祖代々の仕事を踏襲するだけで昔どおりの楽妓となったもの。もう一つは、良民の女子であったがいろいろの原因によって楽籍に落ちたものである。たとえば名妓の薛濤は、元は良家の娘であり、父が仕官を求めて各地を巡るのに付き従っていたが、ついに蜀(四川省)まで流れ来た時、落ちぶれて楽籍に入った。また韋中丞の愛姫が生んだ娘は、兄弟がみな死んだので「身を楽部に委ね、先人を恥辱しめざるをえなかった」(『雲渓友議』巻三)。これらはみな衣食にこと欠いたために楽籍に入らざるをえなかった例である。また、地方長官から良民の身分を剥奪され婢にされたものもあった。

 

また、地方長官から良民の身分を剥奪され蝉にされたものはまれであった。林蕗は郡州(湖南省宝慶県)の刺史となった後、「門客の陶元之を杖殺し、その妻を籍没して倡(娼妓)とした」(『新唐書』儒学伝下「林蘊傳」)。しかし、こうした事例はだいたい例外的なものであった。なぜなら、表的には罪人の家族を籍没して官奴稗に落とすことは、皇帝だけに出来ることであり、官吏が良民を抑えつけて勝手に賤民にすることはできなかったからである。

 

さて、これらの女性はひとたび楽籍に入ると、官に隷属する璧となり、その地位は官奴婢とほとんど同じであった。李商隠は「妓席」という詩の中で、「君に勧む〔御指名の際には〕小字(幼名)を書し、慎んで官奴と喚ぶ莫かれ」と述べ、官妓たちが官奴の身分であったことを明らかにしている。

地方官妓は「楽営」の管理下に属していたので、常に「楽営妓人」、「楽営子女」などと呼ばれた。

 

唐代にはまた「営妓」という呼称もあった。営妓は専ら軍士の娯楽に供されたもので、官妓と異なる人々であるという人もいる。しかし今まで見た文献の記載では「官妓」と「営妓」は混同されて使われており、何らの区別も見出せない。営妓とよばれた人々の多くも、一般の官妓と同じょうに地方長官の管理下に置かれ官府に奉仕したのであって、専ら軍士の娯楽の用にのみ供されたという根拠を見出すことはできない。こうした理由で、唐代に専業の軍妓がいたと断定することは不可能である。筆者が思うに、営妓とはただ地方官妓の一種の別称にすぎず、楽営に所属していたがゆえに「楽営妓人」と呼ばれ、或いは単に「営妓」とも略称されたのではないか。誤解を生んだ理由は、一つには営妓という名が軍営を連想させたこと、二つには唐代の中期以後、地方官妓はみな藩帥(潘鎮)の統括下に入り、長官が軍事長官の職権を兼ねたので、人々は属下の営妓は軍事長官が軍隊のために設置したもの、と考えたことにあろう。

楽営官妓は、節度使や州刺史などの地方長官が直接に掌握し支配した。彼女たちは一般に楽営に集中して居住し、そこから自由に出ることは許されず、官庁から衣服や食糧の支給を受けていた。

 

そして、いつでも官庁からの呼び出しに応じることができるよう準備していたので、「官使の婦人」とか、「官侯の女子」などと呼ばれたのである。

 

官庁が挙行する各種の祝典宴会・歓送迎会・上官接待などの時に、官府は彼女たちを召集して芸の披露、酒席の接待、夜の相手などをさせた。官妓の大半はみな一定の技芸を持ち、歌や舞い、酒席での遊び、それに管弦楽器の演奏などに長じていた。彼女たちは、一段と大きな権勢を持つ長官に占有される以外は、一般に地方長官の許可なしに客を自由に接待することはできなかったと思われる

 

(旧版)

菩薩蠻五首 其三   韋莊

如今却憶江南樂,當時年少春衫薄。

騎馬倚斜橋,  滿樓紅袖招。

翠屏金屈曲,  醉入花叢宿。

此度見花枝,  白頭誓不歸。

いまになってみれば、また江南にいた時の楽しい思い出が沸き起こってきます。あのときはわたしもまだ年がわかく、うすい春の上衣を身につけた若々しい粋な姿をしていたのです。

馬にまたがって遊郭の斜橋に近づい時など、どこの靑楼からも、妓女が紅い袖をふって、わたしを手招きしたものです。

翡翠の屏風には金の金具がかざられていてお酒に酔ったいきおいで、花の様な美しい妓女のたくさんいる宿に入りびたりたのしくすごしたのです。

そしてこのたびは花の枝のような細身のうつくしい好みの人を見いだし、こんな白髪あたまになったればこそ、故郷には帰るなどともったいないことはしないと誓ったのです。

(菩薩蠻 その三)

今さらに 却って 江南の樂しかりきを憶ふ,當時 年少 春なれば衫 薄きをつける。

騎馬 斜橋に倚り,樓に滿つ 紅袖が招くを。

翠の屏 金の屈曲あり, 醉ひて 花叢の宿に入る。

此の度【たび】も 花の枝に見【まみ】ゆ,白頭 歸らざるを誓う。

 

 

(改訂版)-8韋荘86《巻2-36 菩薩蠻五首其三》二巻36-86

(長安にいて、世間の人が言う、今になって思い出す、若いうちに江南に行ったころは楽しかった、ずっと楽しいまま、白髪になっても帰らないと言っていたものだと、その良さを想像して詠うもの)

如今却憶江南樂,當時年少春衫薄。

いまになって残念だなあと思い返す、それは江南に遊んでいたころ、楽しいことばかりであった。そのときは、年若く、伊達の盛りで、うすい春の上衣を身につけた粋な装いでいたものだ。

騎馬倚斜橋,滿樓紅袖招。

そして、馬にまたがって官妓高楼に渡る橋のたもとに馬をとどめると、どこの靑楼からも、官妓が紅い袖をふって、手招きしていたものだ。

翠屏金屈曲,醉入花叢宿。

太守専用(高級官僚用)座敷の翡翠の屏風には金の金具が飾られている、そして、お酒に酔ったいきおいで、花の様な美しい妓女のたくさんいる宿に入りびたり楽しく過ごした。

此度見花枝,白頭誓不歸。

そしてこのときは、花の枝のような細身のうつくしい好みの人とまみえた、だからその時、白髪あたまになっても、故郷に帰ることなどないと誓っていた。

(菩薩蠻五首其の三)

今の如し 却って憶ふ 江南の樂しきを,當時 年少なれば 春の衫 薄きし。

馬に騎し 橋に倚ること斜にす,樓に滿つ 紅袖が招く。

翠の屏 金の屈曲あり, 醉ひて 花叢の宿に入る。

此の度【たび】 花の枝に見【まみ】ゆ,白頭 歸らざると誓う。

三峡 巫山十二峰001
 

 

(改訂版)-8韋荘86《巻2-36 菩薩蠻五首其三》二巻36-86

菩薩蠻五首其三』 現代語訳と訳註

(本文)

菩薩蠻五首其三

如今却憶江南樂,當時年少春衫薄。

騎馬倚斜橋,滿樓紅袖招。

翠屏金屈曲,醉入花叢宿。

此度見花枝,白頭誓不歸。

 

(下し文)

(菩薩蠻五首其の三)

今の如し 却って憶ふ 江南の樂しきを,當時 年少なれば 春の衫 薄きし。

馬に騎し 橋に倚ること斜にす,樓に滿つ 紅袖が招く。

翠の屏 金の屈曲あり, 醉ひて 花叢の宿に入る。

此の度【たび】 花の枝に見【まみ】ゆ,白頭 歸らざると誓う。

 

(現代語訳)

(長安にいて、世間の人が言う、今になって思い出す、若いうちに江南に行ったころは楽しかった、ずっと楽しいまま、白髪になっても帰らないと言っていたものだと、その良さを想像して詠うもの)

いまになって残念だなあと思い返す、それは江南に遊んでいたころ、楽しいことばかりであった。そのときは、年若く、伊達の盛りで、うすい春の上衣を身につけた粋な装いでいたものだ。

そして、馬にまたがって官妓高楼に渡る橋のたもとに馬をとどめると、どこの靑楼からも、官妓が紅い袖をふって、手招きしていたものだ。

太守専用(高級官僚用)座敷の翡翠の屏風には金の金具が飾られている、そして、お酒に酔ったいきおいで、花の様な美しい妓女のたくさんいる宿に入りびたり楽しく過ごした。

そしてこのときは、花の枝のような細身のうつくしい好みの人とまみえた、だからその時、白髪あたまになっても、故郷に帰ることなどないと誓っていた。

a謝霊運永嘉ルート02
 

(訳注)

(改訂版)-8韋荘86《巻2-36 菩薩蠻五首其三》二巻36-86

菩薩蠻五首其三

(長安にいて、世間の人が言う、今になって思い出す、若いうちに江南に行ったころは楽しかった、ずっと楽しいまま、白髪になっても帰らないと言っていたものだと、その良さを想像して詠うもの)

当時の文人の共通の感情をあらわしている。酒宴、歌会で披露されたもので、実際に江南を旅をする際中の作ではなく思いでの詩である。

菩薩蠻は唐の教坊の曲で花間集には四十一首所収、韋莊の菩薩蠻は五首、双調 四十四字。換韻。前段二十四字四句二仄韻二平韻、後段四句二仄韻に平韻で、❼❼⑤⑤/❺❺⑤⑤の詞形をとる。 

『花間集』巻二50首の36番目で韋荘8番目の菩薩蠻五首其三としてあり、(花間集500首の86首目)、当時の文人の共通の感情をあらわしている。

菩薩蛮五首 其一

紅樓別夜堪惆。 香燈半捲流蘇

殘月出門、美人和涙

琵琶金翠、絃上黄鶯

勸我早歸   綠窗人似

 
 
● 
 

菩薩蛮五首 其二

人人盡説江南,遊人只合江南

春水碧於,  畫船聽雨

爐邊人似,  皓腕凝雙

未老莫還,  還鄕須斷

  
  
  
  

菩薩蠻五首其三

如今却憶江南,當時年少春衫

騎馬倚斜,滿樓紅袖

翠屏金屈,醉入花叢宿

此度見花,白頭誓不

  
  
  
  

この作品は『花間集』巻二50首の36番目で韋荘8番目の菩薩蠻五首其三としてあり、、当時の文人の共通の感情をあらわしている。

 

如今却憶江南樂,當時年少春衫薄。

いまになって残念だなあと思い返す、それは江南に遊んでいたころ、楽しいことばかりであった。そのときは、年若く、伊達の盛りで、うすい春の上衣を身につけた粋な装いでいたものだ。

・如今:いま。ただいま。今になって思う。

・却:かえって。逆に。

・憶:思い起こす。 

・江南樂:江南での楽しかった日々。菩薩蠻()「人人盡説江南好,遊人只合江南老。」に同じ。

・當時:過去のその時。そのころ。当時。 

・年少:十五歳から二十歳過ぎの年代の者たち、年若い者。

・春衫:春のひとえの衣。 

・春衫薄:春の服が薄ものである。粋ななりをしているということ。閨できる着物を云う。伊達の盛りの粋な着物というほどのもの。

 

騎馬倚斜橋,滿樓紅袖招。

そして、馬にまたがって官妓高楼に渡る橋のたもとに馬をとどめると、どこの靑楼からも、官妓が紅い袖をふって、手招きしていたものだ。

・騎馬倚斜橋 平仄で「騎馬斜倚橋」である。

・騎馬:馬にうち跨ることだが、それができるのは経済的に豊かで、地位のあるものになる。エリートの象徴でもある。 

・倚:たちよる。 

・斜橋:色里にある橋。遊里に架かる橋。

・紅袖:若い女性の衣服で、うら若い女性を指す。 

・招:手招きをする。

 

翠屏金屈曲,醉入花叢宿。

太守専用(高級官僚用)座敷の翡翠の屏風には金の金具が飾られている、そして、お酒に酔ったいきおいで、花の様な美しい妓女のたくさんいる宿に入りびたり楽しく過ごした。

・翠屏:翡翠のびょうぶ。 

・金屈曲:屏風の金色をしたちょうつがい。

・醉入:酔っぱらってしまう。 

・花叢宿:花の繁みになっている宿、前の「滿樓」青楼に宿泊する事。美しい女性のいる所。遊ぶところがたくさんあり、女たちがたくさんいること。

 

此度見花枝,白頭誓不歸。

そしてこのときは、花の枝のような細身のうつくしい好みの人とまみえた、だからその時、白髪あたまになっても、故郷に帰ることなどないと誓っていた。

・此度:このたび。 

・見花枝:細身の美しい女性に出逢った。若い時は肉感の女性をこの身一定の歳を重ねると「細腰」の女性がいいということ。・見:見出すこと。

・白頭:白髪頭。老齢になること。少しゆとりが出たことを云う。 

・誓不歸:誓って帰らない。やっと好みの女性にめぐり会えたというのに帰るわけにはいかないでしょうというほどの意味。