(改訂版)-12韋荘90《巻2-40 歸國遙三首 其二》(歸ってくる故郷が遠いというのか 三首 其の二  もうカワセミが使者となることもなく、もう何年たっただろう、今年の春も過ぎてゆく、ただ今は、昔の思い出の中に生きているだけだと詠う。

 

 
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『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-12韋荘90《巻2-40 歸國遙三首 其二》二巻40-90〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5652

 

 

・帰国遙は唐の教坊の曲名で、またの名を帰国境、帰日造、帰平遠、思佳客と言う。韋莊の帰国遙は『花間集』に三首所収。

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『歸國遙』五首(改訂版)

 

 

作者



初句7字

 

 

溫庭筠

01-21

歸國遙二首 其一

香玉,翠鳳寶釵垂菉簌

 

 

01-22

歸國遙二首 其二

雙臉,小鳳戰蓖金颭豔

 

 

韋莊

02-39

歸國遙三首 其一

春欲暮、滿地落花紅帶雨。

 

 

02-40

歸國遙三首 其二

金翡翠、爲我南飛傳我意。

 

 

02-41

歸國遙三首 其三

春欲晩、戯蝶遊蜂花爛熳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(旧版)

歸國遙 二

金翡翠、 爲我南飛傳我意。

罨晝橋邊春水、幾年花下酔。

別後只知相愧、涙珠難遠寄

羅幕繍緯爲、舊歡如夢裏。

女は金の翡翠のかんざしを手にとって、金の翳翠にいう。わたしのために、あの人の行っている南の方へ飛んでいって、わたしの心のうちをあの人に伝えて下さい。

網で覆いをかけた様に川の水が増水している春のながれ、橋のほとりに立ってながめる。いくとせになろうか、行楽に行って花陰のもと、あなたと酒をくみながらたのしい日をすごしたことでしょうか。

あなたとお別れしてからは、ただ悔しさを身にしみて感ずるばかりです。わたしのかなしみは遠いところにいるあなたにお伝えすることも困難なのです。

あの頃のこと、その部屋には薄絹のとばり、刺しゅう入りのたれぎぬ、忍のふすまにおおわれていました。それに二人が語り合った閨の内のたのしさ、このようなすぎ去った日々のよろこびはまるで夢のなかのようにおもわれます。

 

(歸る國は遙かなる 二)

金の翡翠、 我が爲に南に飛び 我意を傳えよ。

罨晝【えんがく】 橋邊の春水、幾年 花下ち酔う。

別後 只だ相い愧ずを知る、涙の珠は遠く寄せ難し。

羅幕 繍緯 被い爲し、舊歡 夢の裏に如【に】る。

 

 

宮妓、教坊妓

 

宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職責は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。

宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上手だったため選ばれて宮中に入った。辞填壇はもとは色町の妓女であったが、挙が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、玄宗時代には特に「搊弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『古今図書集成』閏媛典閏艶部、崔令欽『教坊記』による。)。

○楽戸 楽籍という賤民身分の戸籍に属し、宮中の官妓、在野の楽人などが登録されていた。

 

 

彼女たちの中には、また別に朝臣や外国からの使節が献上した女性も、一部分であるが含まれていた。たとえば、敬宗の時代、浙東(浙江省一帯)から朝廷に飛燕、軽風という二人の舞妓が献上されている。また文宗の時代、回紇に降嫁した太和公主が馬にまたがって弓をひく七人の娘を献上したこともあった(『杜陽雜編』巻中、『旧唐書』文宗紀下)。それ以外に、少数ではあるが、元々官女であった女性の中から選ばれ、訓練を受けて宮妓になったものもいた。宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。

 

玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。

○梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。

○霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。

 

 

これら何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婦」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。

 

選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲韶院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二日、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。

○佩魚 五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバッジ(佩び玉)

 

 

彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の范漢女大娘子、許渾の「簫煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の簫煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張祜の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えで宮闈を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。廖融の「退官妓」という詩に、「一旦色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなべてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して自由の身であった。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賎民身分とは区別していたこと、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。

 

宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたし、一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたとはいえ、彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓圃」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に手を入れて暖をとった(『開元天宝達事』巻上)。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎない。

 

 

 

(改訂版)-11韋荘89《巻2-39 歸國遙三首 其一》

0239 歸國遙三首 其一

(南の故郷が遠いというように、再び寵愛を受ける日は来るのだろうかと詠う)

春欲暮、 滿地落花紅帶雨。

春の盛りは暮れはじめている、地面には、ちり落ちた花でいっぱい敷きこめる、あかい色鮮やかな花びらが雨にぬれている。

惆悵玉籠鸚鵡、單棲無伴侶。

恨み嘆きをこめた奇麗に飾られた鳥かごの鸚鵡がただ一羽でいる、つれあいもなく淋しそうにしている、帰らぬ人を待つさびしい気持ちが愈々募ってくる。

南望去程何許、問花花不語。

ひとり南のかなたを眺めてはあのお方のいるところまでの道のりはどれほどあるであろうかとおもう。蝶や蜂が蕋によってくるから、その花にたずねてみたけど、花は寄ってくるものの事は何もはなさない。

早晩得同歸去、恨無雙翠羽。

思いは近々あのおかたと手を携えて一緒にこの庭に帰ってきたい。恨みごとを言っても仕方がない、南に飛んでゆく翡翠のように二つの翼がないので、ここで、帰って来ることだけを考え、寵愛を受けていたころの事だけを考えていきてゆく。

 

(歸る國は遙かなる)

春 暮なんと欲し、落花 地に滿す 紅帶の雨に。

惆悵して玉籠の鸚鵡、單り棲いして 伴侶無し。

南望して 去りし程【みちのり】は 何許【いくば】くぞ、花に問いて花は語らず。

早晩 同じゅうするを得て歸り去り、恨む無し 雙んだ翠羽を。

 

(改訂版)-12韋荘90《巻2-40 歸國遙三首 其二》

歸國遙 三首 其二

(歸ってくる故郷が遠いというのか 三首 其の二  もうカワセミが使者となることもなく、もう何年たっただろう、今年の春も過ぎてゆく、ただ今は、昔の思い出の中に生きているだけだと詠う。

金翡翠、 爲我南飛傳我意。

金の翡翠のかんざしはあのお方からの贈り物、カワセミは冬には南に移動し妃嬪の故郷を思う気持ちを伝えてくれたことだろう、春になって帰ってきたから、今度は、私の使者となって、あのお方に寵愛を得られるようにつたえてほしい。

罨晝橋邊春水、幾年花下酔。

清明節の飾りをした橋に立ち、今年も雪解け水は網で覆いをかけた様に川の水が増水しているながれ、月日の流れは速い。行楽に行って花陰のもと、あのお方と酒を酌みながらよってたのしい日をすごしてから、幾年になろうか、

別後只知相愧、涙珠難遠寄。

寵愛を失い、別れて以来、ただ悔しさを身にしみて感じている。玉の涙があふれるけれど、あのお方に寄せることはあまりに遠いことで困難なことになっている。

羅幕繍緯爲被、舊歡如夢裏。

今は、あの頃の思い出に生きるだけで、それは、部屋には薄絹のとばり、刺繍入りの垂れ絹で寝牀をおおい、そのなかで二人がすごした日々のよろこびは夢のなかだけのことになっている。

 

(歸る國は遙かなる 三首 其の二)

金の翡翠、 我が爲に南に飛び 我意を傳う。

罨晝【えんがく】 橋邊の春水、幾年ぞ 花の下に酔しは。

別後 只だ相い愧ずを知る、涙の珠は遠く寄せ難し。

羅幕 繍緯 被い爲し、舊歡 夢裏の如し。

 

 

(改訂版)-12韋荘90《巻2-40 歸國遙三首 其二》

『歸國遙』二 現代語訳と訳註

(本文)

歸國遙 三首 其二

金翡翠、 爲我南飛傳我意。

罨晝橋邊春水、幾年花下酔。

別後只知相愧、涙珠難遠寄

羅幕繍緯爲、舊歡如夢裏。

 

(下し文)

(歸る國は遙かなる 三首 其の二)

金の翡翠、 我が爲に南に飛び 我意を傳う。

罨晝【えんがく】 橋邊の春水、幾年ぞ 花の下に酔しは。

別後 只だ相い愧ずを知る、涙の珠は遠く寄せ難し。

羅幕 繍緯 被い爲し、舊歡 夢裏の如し。

 

(現代語訳)

(歸ってくる故郷が遠いというのか 三首 其の二  もうカワセミが使者となることもなく、もう何年たっただろう、今年の春も過ぎてゆく、ただ今は、昔の思い出の中に生きているだけだと詠う。

金の翡翠のかんざしはあのお方からの贈り物、カワセミは冬には南に移動し妃嬪の故郷を思う気持ちを伝えてくれたことだろう、春になって帰ってきたから、今度は、私の使者となって、あのお方に寵愛を得られるようにつたえてほしい。

清明節の飾りをした橋に立ち、今年も雪解け水は網で覆いをかけた様に川の水が増水しているながれ、月日の流れは速い。行楽に行って花陰のもと、あのお方と酒を酌みながらよってたのしい日をすごしてから、幾年になろうか、

寵愛を失い、別れて以来、ただ悔しさを身にしみて感じている。玉の涙があふれるけれど、あのお方に寄せることはあまりに遠いことで困難なことになっている。

今は、あの頃の思い出に生きるだけで、それは、部屋には薄絹のとばり、刺繍入りの垂れ絹で寝牀をおおい、そのなかで二人がすごした日々のよろこびは夢のなかだけのことになっている。

花蕊夫人002
 

(訳注) (改訂版)-12韋荘90《巻2-40 歸國遙三首 其二》

歸國遙 三首 其二

(歸ってくる故郷が遠いというのか 三首 其の二  もうカワセミが使者となることもなく、もう何年たっただろう、今年の春も過ぎてゆく、ただ今は、昔の思い出の中に生きているだけだと詠う。

【解説】 妃嬪の故郷は江南で、寵愛を失った今故郷を思い出して悲しみを詠う。前段第三、四句は、「あの時からもう何年たったのだろう、あと何年この美しい春の花の下で酔いしれることができるのかしら」と自らに問いかけるとともに、ほとんど諦めた寵愛を再び受けたいという思い、それを訴えかけてもいる。そこには、短い人生、あと何回も楽しむことのできない春を、あのお方と一緒に過ごしたいという気持ちだけで生きている。後段は、それも諦めて、自己の人生を恥じるばかりで、悲しみの涙をあのおかたのもとに届けることもできないと、悲しみを語る。続いて、もう今は室内の薄絹の垂れ幕や、刺繍模様の帳、鴛竃〔オシドリ)模様のある掛け布団に目をやり、かつて過ごした時の歓びを思い起こし、今はそれも夢幻となってしまったと嘆きながらも、その思い出に生きていくというもの。これほど生活感のない詩はない。どうやって食べていくのか、すっくなくとも、体を売る(娼妓)、神にすがる(巫女・道女)、芸妓・妓優ではなく、食べることに心配がない女性である。

・『花間集』 には韋莊の作が三首収められている。双調四十三字、前段二十一字四句四仄韻、後段二十二字四句四仄韻で、❸❼❻❺/❻❺❻❺の詞形をとる。

歸國遙三首 其一

春欲  滿地落花紅帶
惆悵玉籠鸚  單棲無伴
南望去程何  問花花不
早晩得同歸  恨無雙翠

  
  
  
  

歸國遙 三首 其二

金翡  爲我南飛傳我
罨晝橋邊春  幾年花下
別後只知相  涙珠難遠
羅幕繍緯爲  舊歡如夢

  
  
  
  

 紅梅002

金翡翠、 爲我南飛傳我意。

金の翡翠のかんざしはあのお方からの贈り物、カワセミは冬には南に移動し妃嬪の故郷を思う気持ちを伝えてくれたことだろう、春になって帰ってきたから、今度は、私の使者となって、あのお方に寵愛を得られるようにつたえてほしい。

・金翡翠 金のかわせみの羽のかんざし。女が自分のかんざしを手にとって、それに向かって話しかけることをいう。翡翠は越冬のために南方に移動する。

 

罨晝橋邊春水、幾年花下酔。

清明節の飾りをした橋に立ち、今年も雪解け水は網で覆いをかけた様に川の水が増水しているながれ、月日の流れは速い。行楽に行って花陰のもと、あのお方と酒を酌みながらよってたのしい日をすごしてから、幾年になろうか、

・罨晝 春水は雪解け水の部分の色が変わる、川の中央部分の流れが盛り上がるように早く流れる様子を示すので網で覆いをかけた様に川の水が増水している。春水を春の最盛期を創造させる。春の時が早く過ぎ去ることを意味し、春の行楽を意識させる語である。罨:[]【医】(湿布などを)貼る.魚や鳥を捕る網.

包帯のようにぐるぐる巻きにした衣類。罨晝【宮詞】凌雲高髻綰青螺,罨晝裙裁五色羅。恩賜酒池陪禦宴,半衣夾輦醉顏酡。【簡釋】《古今注》載,始皇詔後梳凌雲髻,九嬪梳參鸞髻。又載,詔令宮女服五色花羅裙。又載,詔令宮人皆服衫子,亦曰「半衣」,蓋取便於侍奉。

②彩色した絵。《白居易 芍藥詩》「 凝香薫罨晝、似涙著胭脂。」

③浙江省長興県の渓谷の名。

ここは、彩色した樓閣、春水で増水したながれに架かる橋、春が早く過ぎゆく、このただ待つだけの女性は寵愛を受ける事だけを考えて生活する人であるということである。

 

別後只知相愧、涙珠難遠寄。

寵愛を失い、別れて以来、ただ悔しさを身にしみて感じている。玉の涙があふれるけれど、あのお方に寄せることはあまりに遠いことで困難なことになっている。

・相愧 相手に対してはじること。慚愧すること。このような場合はたがいに、ふたりともという意味に解さない。

・涙珠 別離の悲しみを涙であらわす。

 

羅幕繍緯爲被、舊歡如夢裏。

今は、あの頃の思い出に生きるだけで、それは、部屋には薄絹のとばり、刺繍入りの垂れ絹で寝牀をおおい、そのなかで二人がすごした日々のよろこびは夢のなかだけのことになっている。

・羅幕繍緯爲被 男とたのしいよろこびを交したことを、この三つのもので点景するように表現したもの。

・舊歡 二人がかつて交したたのしい交歓。