(改訂版)-14韋荘92《巻2-42 應天長二首其一》應天長二首その一(寵愛を失っても妃嬪は、寵愛を受けていた時と同じように、待ち続けないといけない。しかしその生活は、世俗を断ち切った隠遁者の生活なのであると詠う。)青々と茂った槐の木陰で高麗鶯が啼いて春が来たことを告げる。九重の奥深い庭は静かで人気がなく、春の昼下がり何も変わらず過すだけだ。

 

 
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『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-14韋荘92《巻2-42 應天長二首其一》二巻42-92〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5662

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『應天長』 六首

 

 

作者



初句7字

 

 

韋荘(韋相莊)

0214

應天長 二首 其一 

綠槐陰裏黄鶯語

 

 

0215

應天長 二首 其二

別来半歳音書絶

 

 

牛嶠(牛給事嶠)

0409

應天長二首 其一

玉樓春望晴煙滅

 

 

0410

應天長首 其二

雙眉澹薄藏心事

 

 

毛文錫(毛司徒文錫)

0532

應天長一首

平江波暖鴛鴦語

 

 

(顧太尉

0719

應天長一首

瑟瑟羅裙金線縷

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(旧版)

應天長  韋莊

(應天長)

綠槐陰裏黄鶯語深院無人春晝午。

青々と茂った槐の木陰でウグイスが春が来たことを告げてくれる。あの人を待つ奥深い庭は静かで人気がなく、春の昼下がりボーッと過す。

畫簾垂,金鳳舞。寂莫綉屏香一。

何気なく美しく縫い取りをしたカーテンを下ろす、カーテンの縫い取り模様の金の鳳が動く。寂しげな女性の部屋の縫い取りのある屏風のそばの香炉から煙が一筋たっている。

 

碧天雲,無定處。空有夢魂來去。

青空にある雲。寄る辺がない。恋しいあのひとはどこにいるのやら。わたしの所へは、ただむなしく夢の中にいる魂だけがやってくるだけ。

夜夜綠窗風雨,斷腸君信否。

夜毎、待ち侘びる女の部屋の窓辺には嵐が吹き荒びつづける。この深い嘆きをあのひとは信じてくれるだろうか。

 

(應天長)

綠槐 陰裏 黄鶯 語り。深院 人無く 春の 晝午【さが】り。

畫簾 垂らせば、金鳳 舞ひ。寂莫たる 綉屏に  香 一【すぢ】。

碧天の 雲, 定める處 無し。 空しく 夢魂の 來去 有るのみ。

夜夜 綠窗に 風雨ありて。 斷腸せるを 君 信ずや否や。

 

(改訂版)-14韋荘92《巻2-42 應天長二首其一》

應天長二首其一

應天長(寵愛を失っても妃嬪は、寵愛を受けていた時と同じように、待ち続けないといけない。しかしその生活は、世俗を断ち切った隠遁者の生活なのであると詠う。)その一

綠槐陰裏黄鶯語,深院無人春晝午。

青々と茂った槐の木陰で高麗鶯が啼いて春が来たことを告げる。九重の奥深い庭は静かで人気がなく、春の昼下がり何も変わらず過すだけだ。

畫簾垂,金鳳舞,寂莫綉屏香一。

美しく縫い取りをした簾を下ろす、簾の縫い取り模様の金の鳳が風に舞い動く。ひっそりと寂しげな閨の刺繍のある屏風のそばの香炉から煙が一筋たっている。

碧天雲,無定處,空有夢魂來去。

寄る辺がない、青空にある孤雲。昔、寵愛を受けていたことは、ただむなしく夢の中にいる夢の中だけに魂だけがやってくるだけになってしまった。

夜夜綠窗風雨,斷腸君信否。

それでも、夜毎、寵愛を受けるための準備をして待ち侘びる閨の窓辺には風とあめが吹きつける。このはらわたが切れるほどの深い嘆きを信じてくれるだろうか、いや、もうそれは期待できないことなのだ。

(應天長二首其の一)

綠槐 陰裏 黄鶯 語る。深院 人無く 春の 晝午【さが】り。

畫簾 垂らせば、金鳳 舞う。寂莫たり 綉屏 香 一【ひとすぢ】。

碧天の 雲,定める處 無し。空しく有る 夢魂の 來って去るを。

夜夜 綠窗に 風雨あり。斷腸せるを 君 信ずや否や。

 宮島(5)

(改訂版)-14韋荘92《巻2-42 應天長二首其一》 
『應天長』 現代語訳と訳註

(本文)

應天長二首其一

綠槐陰裏黄鶯語。深院無人春晝午。

畫簾垂、金鳳舞。寂莫綉屏香一。

碧天雲,無定處。空有夢魂來去。

夜夜綠窗風雨。 斷腸君信否。

 

 

(下し文)

(應天長二首其の一)

綠槐 陰裏 黄鶯 語る。深院 人無く 春の 晝午【さが】り。

畫簾 垂らせば、金鳳 舞う。寂莫たり 綉屏 香 一【ひとすぢ】。

碧天の 雲,定める處 無し。空しく有る 夢魂の 來って去るを。

夜夜 綠窗に 風雨あり。斷腸せるを 君 信ずや否や。

 

(現代語訳)

應天長(寵愛を失っても妃嬪は、寵愛を受けていた時と同じように、待ち続けないといけない。しかしその生活は、世俗を断ち切った隠遁者の生活なのであると詠う。)その一

青々と茂った槐の木陰で高麗鶯が啼いて春が来たことを告げる。九重の奥深い庭は静かで人気がなく、春の昼下がり何も変わらず過すだけだ。

美しく縫い取りをした簾を下ろす、簾の縫い取り模様の金の鳳が風に舞い動く。ひっそりと寂しげな閨の刺繍のある屏風のそばの香炉から煙が一筋たっている。

寄る辺がない、青空にある孤雲。昔、寵愛を受けていたことは、ただむなしく夢の中にいる夢の中だけに魂だけがやってくるだけになってしまった。

それでも、夜毎、寵愛を受けるための準備をして待ち侘びる閨の窓辺には風とあめが吹きつける。このはらわたが切れるほどの深い嘆きを信じてくれるだろうか、いや、もうそれは期待できないことなのだ。

 

花蕊夫人002
 

(訳注) (改訂版)-14韋荘92《巻2-42 應天長二首其一》

應天長 二首其一

(寵愛を失っても妃嬪は、寵愛を受けていた時と同じように、待ち続けないといけない。しかしその生活は、世俗を断ち切った隠遁者の生活なのであると詠う。)その一

寵愛を失って暮らすことは、世俗を立って隠遁生活をするかの様なものである。春が来てもただ何もしないで過ごすだけである。それでも、毎日、毎夜、寵愛を受けていた時のように、待っていなければいけない。その準備をするたびに、寵愛を受けていた時のことを思い出し、断腸の思いが強くなる。

・應天長:詞牌の一。花間集 には韋莊の作が二首収められている。双調五十字、前段二十七字五句四仄韻、後段二十三字五句四仄韻で、❼❼3❸❼/3❸❻❻❺の詞形をとる。

應天長二首其一

綠槐陰裏黄鶯。深院無人春晝

畫簾垂、金鳳。寂莫綉屏香

碧天雲,無定。空有夢魂來

夜夜綠窗風。 斷腸君信

 
  

  
 

 

綠槐陰裏黄鶯語,深院無人春晝午。

青々と茂った槐の木陰で高麗鶯が啼いて春が来たことを告げる。九重の奥深い庭は静かで人気がなく、春の昼下がり何も変わらず過すだけだ。

・綠槐陰裏:青々と茂ったエンジュの木陰で。 ・槐 開花は7月で、枝先の円錐花序に白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。豆果の莢は、種子と種子の間が著しくくびれる。 花・蕾にはルチンを多く含有する。蕾を乾燥させたものは、槐花(かいか)という生薬で止血作用がある。・裏:なかで。

・黄鶯:ウグイス。コウライウグイス。

・語:ここでは、さえずる。詩詞では、花や鳥が声を出すときは「花語」「鳥語」という。

・深院:後宮の奥深いところにある庭や、寺観の奥深い世俗と離れた庭をいう。李後主《秋閨》「無言獨上西樓,月如鉤。 寂寞梧桐,深院鎖清秋。」「九重奥絶」というような意味を持つ語である。歐陽脩(馮延巳)、李淸照などに「庭院 深深 深幾許」とある。

・無人:(静かで)人気がない。寵愛を失って、長いことを表す。

・春晝午:春の昼下がり。昼過ぎの気怠感を表す。寵愛を失って自然に、後宮の中での隠棲生活をおくっていることをいう。

 

畫簾垂金鳳舞寂莫綉屏香一。

美しく縫い取りをした簾を下ろす、簾の縫い取り模様の金の鳳が風に舞い動く。ひっそりと寂しげな閨の刺繍のある屏風のそばの香炉から煙が一筋たっている。

・畫簾:美しく縫い取りをしたすだれ。

・金鳳:金の鳳凰の縫い取り模様を指す。

・寂莫:ひっそりとしてさびしい。寵愛を失っていること。

・綉屏:縫い取りのある屏風。閨の屏風。

・香一:香炉からのぼるひとすじの煙。寂寞感を強調する。

 

碧天雲,無定處,空有夢魂來去。

寄る辺がない、青空にある孤雲。昔、寵愛を受けていたことは、ただむなしく夢の中にいる夢の中だけに魂だけがやってくるだけになってしまった。

・碧天雲:青空にある雲。この女性の恋人のことを暗示している。後に続く「無定處」からそういえる。

・無定處:寄る辺がない。一ところで留まらないで、あちらこちらに移りゆく。この女性の恋人の行動でもある。

・空有:ただむなしく…のみあるだけだ。

・夢魂:夢の中にいる魂。夢を見ている魂。婉約詞ではよく使われる語。

・來去:やってくる。動きを表す。

 

夜夜綠窗風雨斷腸君信否。

それでも、夜毎、寵愛を受けるための準備をして待ち侘びる閨の窓辺には風とあめが吹きつける。このはらわたが切れるほどの深い嘆きを信じてくれるだろうか、いや、もうそれは期待できないことなのだ。

・夜夜:よごと。

・綠窗:女性の部屋の窓。

・風雨:あらし。ここでは、帰ってくるのを待っている女性の心の中を吹きすさぶ嵐のこと。

・斷腸:非常な嘆きをいう。

・君:人に対する尊称。ここでは恋しい人のこと。

・信否:信じるだろうか。 ・否:主として文末に付き、疑問文にする働きがある。

 

 

 

宮島(10)
 

 

 

 

公主たちは封戸からの収入あるいは国が支給する銭、絹によって生活した。その生活状況はどうであったか。玄宗の開元年間を例にして大雑把な統計を出してみたい。租庸調制の規定では、壮丁一人当り毎年租として粟二石、調として絹綾等二丈、綿三両を納付した。もし公主たちが一人当たり食実封千戸を給され、また戸ごとに三人の壮丁がいたとすれば、公主の収入は毎年粟米六千石、縞等六千丈、綿九千両ということになり、彼女たちが賛沢三味の生活を送るに充分であった。この数字はおよそ各時期の公主たちの収入の中等以上の水準を表している。それ以前の中宗の時代、太平公主たちの収入は、この数字をはるかに越えていたようである。玄宗は公主たちの収入が多過ぎたので、彼女たちに「倹約を分からせ」ようとして、削減を行った。唐の後期になると国家財政は困窮し、公主たちの収入もおのずからかなり少なくなった。

 

ここで述べたのはただ正規の収入だけであって、公主たちにはまた別途の収入源があった。その一つは皇帝の賞賜である。同昌公主が嫁に行く時、父乾宗は宮中の珍宝をことごとく嫁入道具として持たせてやった。こうした種類の収入は値うちの計りようがない。第二は詐取強奪である。公主たちは常に大荘園主であったから、多くが田園、破鐘(水車、又は畜力による石臼)を経営したり、高利貸をやって利を謀ったり、あるいはあからさまに権勢を振って他人の財産を強奪したりした。太宗の時、大臣たちは公主が高利貸をやって十分の一もの高利を取っていることを非難したことがあった。また太平公主らの封戸に対する過分の搾取は、大臣たちに「刻剥、過苦きなり」といわれた(『旧唐書』高季輔伝)。強奪による収入はおそらく封戸の納める税収より多かったに違いない。この種の風潮があったため、「皇帝の賜金の外に、寵愛を悼んで私利を謀ることをしない」とか、「租税収入以外に人と利を争わない」(『全唐文』巻六三一、呂温「大唐故紀国大長公主墓誌銘」)といったことが公主たちの美徳になった。このような合法的収入や非合法の掠奪によって、公主たちの大部分は豪奪な生活を送っていたのであった。

 

唐代の公主のなかで、最も高貴を鼻にかけて傲り高ぶり、最も横暴極まりないことを行った者として、太平公主、安楽公主、長寧公主の三人を数えることができる。太平公主は武則天の愛娘であることを悼み、また中宗、容宗を擁立した功績があったので、その権勢は天下を傾けるばかりか、富は帝王に等しく、また政治、経済の力も公主の中で最大のものとなった。彼女の所有する田園は京畿のいたるところにあり、陳右(甘粛省蘭州、筆昌一帯)の牧場には一万頭に上る馬があり、家の中には珍奇な宝物が無数にあり、また美しい絹の衣裳を着た侍女が数百人もいた。彼女が権勢を失い死を賜った時、家産は没収されたが、その時発見された財宝は山のごとくであり、皇帝の内庫の宝物を越えていた。牧舎の羊、馬、土地からの利息収入などは数年間にわたって調査し国庫に収めたが、それでもなお尽きなかった。安楽、長寧の両公主は中宗と喜后の娘であり、両親の寵愛を悼んでほしいままに土地、財宝を強奪し浪費の限りを尽した。安楽公主は人を派遣して珍しい鳥の羽や、獣の毛を集め「百島毛裾」(無数の羽毛で織ったスカート)をつくり、その一枚は一億銭にも値した。彼女は民田十九里四方を強奪して定昆池という池を掘り、石を積んで山となし、水を引いて谷川を造った。また珍しい石や宝石で飾り立て、天下第一の壮農さを極め、そのありさまは宮廷の禁苑を越えていた。彼女はまた、一般民衆の家屋を取り壊して大規模な自分の役所を作り、そのため宮中の内庫の貯えを空にしてしまった。長寧公主は両京(西都長安、東都洛陽)で民田を占拠して邸宅を作った。東都にあったその一邸宅は都城一〇八坊中の一坊を占め、そのうえ三百畝の広さの池があった。

長安にあった一邸宅は、二十億銭にも値した。彼女たちの夫も賛沢な生活をし、こともあろうに地面に油を浸みこませたポロの球場を作るほどだった(安楽公主の夫武崇訓。『新唐書』外戚伝)。公主たちはまた一般民衆の子女を掠奪して奴脾忙したり、民を使役して大いに仏寺をつくったので、当時の大臣から皇帝に報告され、「人の力を噺耳人の財を献じ、人の家を奪う」(『資治通鑑』巻二。九、中宗景龍二年)と指弾された。
 

これ以後の公主たちの権勢はこれほど膨脹したことはなかったが、しかし賛沢の風潮はなお遍く行き渡っていた。玄宗の時代の公主たちは賛沢な料理を献上し、「一皿の料理が十戸分の中等の家の資産を越える」(鄭処萬『明皇雑録』補遺)といわれるほどだった。徳宗の貞元年間、義陽、義孝の両公主は、それぞれ墓地に百余間もある嗣堂(先祖の霊を祭る堂)をつくり、銭数万縛(一緒は銅銭一千枚)を費やした(『旧唐書』李吉甫伝)。同じ時期、十一人の県主が同時に嫁に行ったが、それぞれ三百万銭を支給した。これにはまだ衣服、装身具の費用は入っていなかった。皇帝がこの費用を計算させたところ、花柄の装身具一能だけで一人につき七十万銭であった。徳宗は、これは浪費に過ぎるといって三万に減額した。しかし残った六十余万銭もそれぞれ県主たちに与え嫁入り費用にしてしまった(『旧唐書』徳宗順宗諸子・珍王誠伝)。公主のうち、賛沢さで有名な人物としては、乾宗の愛娘同昌公主をあげねばならない。彼女の部屋の扉や窓はすべて珍宝で飾られており、井戸の囲い、薬を調合する臼、食器入れ、水槽、それに鍋、魂、ひしゃく、盆などは金や銀で作られ、ザルや龍、箕は金を散りばめ、床は水晶、瑠璃で飾り、食器類は五色の玉器でつくられていた。さらにまた連珠帳(珠を連ねた帳)、却寒簾(防寒用カーテン)、鶴鴇枕(雉の羽でつくった枕)、劣翠匝(ひすいの箱)、火蚕綿(四川の茂県産の良質綿)、九玉鋏(九つの玉のついた替)、龍脳香(香料の一種)などの各国から献上された珍宝もあった。公主が家で食べる料理も珍味で貴族さえ知らないほどのものであったが、公主の方はそれを糟や糠のように粗末にした一説によると、彼女の死後家中の器物を一緒に焼いたが、人々は争って灰の中から金銀珠玉を拾ったそうである。彼女の豪勢で賛沢な様は、人々から漠王朝以来のどの公主にもいまだなかったことだと噂された(蘇顎『杜陽雑編』巻下、『太平広記』巻二三七)。公主たちの豪賓の風は一般的となり、また常に彼女たちは世間で不法、横暴を働いたので、代々の皇帝たちも常に頭痛の種と感じ、それを制限せざるをえなかった。文宗の時、帝は公主たちがあまりに華美で高価な装身具を身につけることを厳禁した。ある時、帝は宴会の席上で延安公主の衣服の裾が広すぎるといって即座に追い返し、その夫に罰として二カ月分の減俸を行った(『旧唐書』后妃伝下)。徳宗の娘の義陽公主はみだりに横暴な振舞をしたので、徳宗から宮中に監禁された。稼宗の娘の安康公主なども、宮廷の外で騒動を起こしたので、宮中に連れもどされて住まわされた。