.薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三  それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。

 

 

 
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『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》巻三3229-129〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5847

 

 

各クラスの官僚が彼女たちの門下に出入し、へつらったり賄賂を送ったりして栄達を求めた。彼女たちが顔を出して頼み事をすると、役所は皇帝の詔勅のごとく見なして奔走し、不首尾に終わることをひたすら恐れた。一般の官僚で彼女たちに逆らおうとする人はいなかった。

貴族の女性は衣食住の心配も家事の苦労もなかったので、年中歌舞音曲とお化粧とで暇をつぶした。

彼女たちは豊かといえば豊か、地位が貴いといえば貴かったが、しかしその富貴と地位の大半は、男性の付属物たる身分によって獲得したものであった。彼女たちに富貴をもたらすことができたものは、逆にまた災難をもたらすこともできた。一家の男が一旦勢力を失うと、彼女たちも同様に付属物として巻き添えになった。そして一夜にして農婦、貧女にも及ばない官稗(国有の奴隷)となった。

これが彼女たちの最も恐れたことである。厳武は剣南節度使となって相当好き勝手に振舞った。彼が死ぬとその母はむしろほっとして、「これからは官碑にならないですむ」といった(『新唐書』厳挺之附厳武伝)。(杜甫が厳武について述べている中には、厳武は英雄としての表現しか見当たらない。参考「《巻16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武 八分割-#1》 杜甫」)

「栄耀栄華は束の間のことで長続きはしない」といつも恐れおののいていたほかに、貴族の婦人たちがそれこそ絶えず感じていたのは閨の孤独、夫の薄情に対する恨み、それに容色の衰え易さに対する嘆きであった。唐詩の中で百首に上る「閏怨」詩の大部分が、彼女たちのこの種の心情をよく表現している。花間集以外でたとえば、

王昌齢「閏怨」

閨中少婦 不曽愁、春日凝粧上翠楼。

忽見陌頭 楊柳色、悔教夫婿覓封侯。

閨中の少婦かつて愁えず、春の日に粧いを凝らして翠楼を上る。

忽ち見る 陌頭の楊柳の色を、夫婿をして封侯を求めしむるを悔ゆる。

陳羽「古意」

妾年四十絲滿頭、郎年五十封公侯。

男兒全盛日忘舊、銀床羽帳空飃

妾の年四十にして絲の頭に滿ち、郎の年五十にして公侯に封ぜらる。

男兒は全盛なれば、日びに舊を忘れ、銀床、羽帳は、空しく飃飅たり。

などの詩。こうした心情は彼女たちがただ終日飽食し、何の心配もなく暮らしていたから生れたというだけではない。それよりも重要なのは、彼女たちは下層の労働する女性たちに比べて独立した経済的能力が無かったため、男性に対する依存心が強く、また家庭の中でも地位が低かったために、夫の自分に対する感情に頼らざるを得なかったことによる。しかし、貴族の男たちは往々にしてたくさんの妻妾を持ち、あちこちで女色を漁ったので、おのずから彼女たちは一日中夫の薄情に苦悩し、家庭の中での自分の行く末を案じ、従って自分の容色の衰えを嘆く以外に為すすべがなかった。

 

命婦制

高貴な身分の女性に授与する封号を定めたもの。皇帝の母や妃嬢等に対しては内命婦制が、公主など外朝の男に嫁した者に対しては外命婦制が定められていた。外命婦には国夫人、郡夫人、郡君、県君、郷君の五等級があった。

内命婦

宮中の全ての妃嬪

外命婦

公主、王妃、貴婦人

外命婦制

親王の母と妻を「妃」とし、文武の二品官と国公の母と妻を「国夫人」に封じ、三品官以上の官僚の母と妻を「郡夫人」に封じ、四品官の官僚の母と妻を「郡君」に封じ、五品官の官僚の母と妻を「県君」に封ず、と。以上の婦人はそれぞれ封号を与えられたが、母親の封号には別に「太」の字が付け加えられた。

 

 

 (旧解)

浣溪沙八首其三

其の三(官妓から妾妻に迎えられたものの寒食の時から見むきもされない女を詠う)

粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。

逢いたいのに逢えなかった娘はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡があり、郡役所の官舎の庭に咲く花は散り夕闇となる。思いは遠くにいるあの人のこと、深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。

記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。

忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、延秋の門の外れに車止め、日は傾きてあの人は花が散るように魂消え失せてしまった時でもあるのだ。

 

唐朝 大明宮2000

(改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》
浣溪沙八首其三

(「郡庭花」として後宮に選ばれて迎えられたものの寵愛を受けることもなく、女の盛りを過ぎてしまう、一度だけ、寒食の日の行楽で心ときめかしたこともあったけど、みんな遠い夢の中と詠う)

粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。

妃嬪はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡がある、郡役所の官舎の大きな庭に咲く花も散り夕闇となってしまう。妃嬪は「郡庭花」として後宮に選ばれては行ったが、しかし、寵愛もないまま花の盛りを過ぎようとしている。情も通うことなく遠く隔ったままで、この深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。

記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。

それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。

(浣溪の沙 八首 其の三)

粉上 依稀【いき】として淚痕有り,郡庭の花 落ち 黃昏【こうこん】せんと欲す,遠情 深恨 誰とか論ぜん。

記【おぼ】え得ぬ 去年 寒食の日,延秋門の外 金輪を卓【と】む,日は斜めに 人は散りて 暗く消魂するなり。

 

唐 長安図 基本図00

(改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》 

『浣溪沙八首』 現代語訳と訳註

(本文) 薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三

浣溪沙八首其三

粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。

記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。

  

(下し文) 薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三

(浣溪の沙 八首 其の三)

粉上 依稀【いき】として淚痕有り,郡庭の花 落ち 黃昏【こうこん】せんと欲す,遠情 深恨 誰とか論ぜん。

記【おぼ】え得ぬ 去年 寒食の日,延秋門の外 金輪を卓【と】む,日は斜めに 人は散りて 暗く消魂するなり。

 

(現代語訳) 薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首 其三

(「郡庭花」として後宮に選ばれて迎えられたものの寵愛を受けることもなく、女の盛りを過ぎてしまう、一度だけ、寒食の日の行楽で心ときめかしたこともあったけど、みんな遠い夢の中と詠う)

妃嬪はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡がある、郡役所の官舎の大きな庭に咲く花も散り夕闇となってしまう。妃嬪は「郡庭花」として後宮に選ばれては行ったが、しかし、寵愛もないまま花の盛りを過ぎようとしている。情も通うことなく遠く隔ったままで、この深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。

それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。

 

(訳注) (改訂版)-4.薛昭蘊129《巻三32浣溪紗八首 其三》

浣溪沙八首其三

(「郡庭花」として後宮に選ばれて迎えられたものの寵愛を受けることもなく、女の盛りを過ぎてしまう、一度だけ、寒食の日の行楽で心ときめかしたこともあったけど、みんな遠い夢の中と詠う)

この詩は郡令・節度使の娘が、選ばれて後宮に迎えられ、妃嬪となり、親孝行となるも、寵愛を受けることもなく、暇を持て余す。故郷の郡官舎の庭遊んだことを思いだす。しかし、どうしようもないことだが、去年の寒食の時、大勢の行楽行列の中の官僚人の男を見初めた。

その初恋の人を忘れる事は無いとおもっていたが、今年の寒食で見つけることはできなかった。妃嬪もしだいに年を重ねる。もう忘れる事しかないのである。

この詩の背景をまとめると郡令・節度使の娘が、選ばれて後宮に迎えられ、妃嬪となり、死の雰囲気から、寵愛を受ける事のない状態であった。.初めた男を思い慕う娘、②.後宮の奥院囲でただ寵愛を受ける準備をして生活するだけ、③.自分の意志を伝える手段はないし、④.そこまでの地位ではない。唐宋の性倫理は結構自由であったが、妃嬪という立場は最も高速性の高い者で、若しあやまちがあれば、本人、一族に至るまで死罪である。ただ、解放される場合、貴族、地方貴族、高級官僚には者のように与えられることはあった。

寒食の時、後宮から、クルマを連ねて、楽遊原、曲江、韋曲などに行楽に行く。

当時の娘、妃嬪、など、深窓の中に暮らし、外出する自由はなかった。外出が許されるのは、月十五日の元宵節や、寒食清明、あるいは寺社参りなど、特別な日に限られていた。しかも一人での外出など許されなかった。

本詞の女主人公は、何時:「去年」「寒食日」というから、今年の寒食の日との対比、去年見初めたけれど、今年はなかった。

何処で:「延秋門外」、この門の内外、一般人は近づくこともできない。つまりここに登場するのは、天子に関係した人物である。去年は延秋門から出て行列の中にいた人であるが、その行列の中には今年はいなかったのか、妃嬪そのものが、行楽に参加させてもらえなかったのか。

どうした時:「卓金輪」去年車を止めて乗り降りするときに見かけた、今年は見かけなかった、あるいは妃嬪はこの康楽に参加させてもらえなかった。

寒食の日に延秋門外に行楽に出かけた時の車も、その身分に相応しい立派なものであったことが金輪の語から窺える。妃嬪は、大勢の行列の中の人の男を見初めたが、もちろん男に二正業をかけることなどできるはずもない。やがて日も西に傾き、人々はみな帰り去ってしまった。

花先、花散る寒食の時節になると、特に強く男のことが思い起こされ、密かに涙を流さずにはいられなかったのである。

『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。

(改訂版)浣溪紗八首 其一

双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、7⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。

紅蓼渡頭秋正雨、印沙鷗跡自成整鬟飄袖野風

不語含嚬深浦裏幾迴愁煞棹舡、鷰歸帆盡水茫茫。



双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、⑦⑦⑦/7⑦⑦の詞形をとる。

(改訂版)浣溪沙八首其二

鈿匣菱花錦帶,靜臨蘭檻卸頭,約鬟低珥等歸

茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依,二年終日損芳



(改訂版)浣溪紗八首 其三

粉上依稀有淚、郡庭花落欲黃昏、遠情深恨與誰論。

記得去年寒食日、延秋門外卓金、日斜人散暗消魂。



 

粉上依稀有淚痕,郡庭花落欲黃昏,遠情深恨與誰論。

妃嬪はお白粉塗をぬった頬に徴かに残った涙跡がある、郡役所の官舎の大きな庭に咲く花も散り夕闇となってしまう。妃嬪は「郡庭花」として後宮に選ばれては行ったが、しかし、寵愛もないまま花の盛りを過ぎようとしている。情も通うことなく遠くへだったまま、この深き恨みを誰に話したらいいのだろうか。

○粉上 白粉を塗った頬。

○依稀 かすかなさま。

○郡庭 郡役所の庭。ここでは郡の長官の官舎の庭を指す。郡は中国では県の上の行政単位。

○遠情 

 

記得去年寒食日,延秋門外卓金輪,日斜人散暗消魂。

それでも、心動かされた出来事があったのは、忘れもしない去年の寒食の日の行楽での事、行列は、ふだんは使われない延秋門から外にでて、行楽先で、金の車止めて降りた時に見初めた人がいた。日は傾く様に時は流れ、「郡庭花」と言われた妃嬪も花が散るものであるし、おもう魂は消え失せてしまうものである。

○寒食 冬至から数えて百五日目。・寒食:清明節の3日前夜。現在の暦で言うと、四月四日前後か。“掃墓”(先祖のお墓参りをして、お墓の掃除をする日)の日でもある。春の盛りから晩春にさしかかる頃。この日は火を焚くことを禁じ、あらかじめ調理しておいた冷えた料理を食べたので寒食と言った。

の「寒食天」:戦国の時、晋国は内乱が発生し、介之推は苦難を恐れなくてに重耳を追随して、困難の時、自分足の肉を切ってスープを作って重耳に飲まされたことがある。重耳が晋文公をした後、介之推は母と隠遁して山奥に行った。重耳は介之推の行ったことが分からない。重耳は行って、あちこちを探しても出せなかった。仕方がなくて彼は、そこで火を放して人を探しす。三日の火が続き、強火が消した後、介之推と母と互いに抱いていっしょに深山の中で焼き殺された。

介之推と母の焼き殺される時間をちょうど清明前の日であり、こちらの忠義の臣を記念するため、清明の時に人々はすべて介之を焼き殺す火を拒絶し、冷たい食品だけを食べて、だからこの日は「寒食節」を叫ぶ。

○延秋門 唐の禁苑の宮門の名。 長安 禁苑西門。 ・天寶 十四載冬115日, 安祿山 起兵叛亂。 次年六月長安陥落,玄宗 即由して 延秋門から長安を脱出し, 蜀に避難に赴く。

   杜甫 《哀王孫》詩:長安 城頭頭白烏, 夜飛 延秋門 上呼。”(長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。

哀王孫 杜甫140  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#1

程大昌《雍錄》卷五:玄宗 自苑西門出, 為苑之 延秋門 為都城 直門 也。 既出, 即由便橋渡 咸陽 馬嵬 而西。”

宋敏求 《長安志》卷六:苑中宮亭凡二十四所, 西面二門, 南曰 延秋門 北曰 玄武門 。”

 

○卓金輪 立派な車を止める。卓は停める。

長安城皇城図