-001-#2 玉臺新詠集序⑵§1-2〈徐陵〉Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7575

 

(玉臺新詠集序⑵§1-2) その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである。昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。

 

 

-001-#2

玉臺新詠集序

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ7575

徐陵

 

 (⑵§1-2)

 

  

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⑴§
1-1《玉臺新詠集序》

(六朝末期に編集された詩集である《玉臺新詠》)の序文。この詩集は、陳の徐陵が撰したもので六朝の新樂府を産出せしめる、当時の思想信条、感情に大きく反映せしめるものであった。)

夫凌雲槩日、由余之所未窺、

そもそも高く雲零を凌ぎ天の太陽と高さを斉しくする豪華な宮殿は(春秋時代の)晋の由余も未だ曾て見ない所であった。

千門萬、張衡之所曽賦。

千門万戸の盛況は、漢の張衡が著書の《西京賦》」にえがき出した通りである。

周王璧臺之上、漢帝金屋之中、玉樹以珊瑚作枝、

そして、そこは、さながら周の穆王の壁台の上なのか、あるいは漢の武帝の金屋の中かと見まごうばかりであるばかりか、玉樹は珊瑚を枝としているのである。

珠簾以玳瑁爲柙。其中有麗人焉。

珠簾は玳瑁ではめこみの鎮飾がほどこされてあり、その中に「宮中内職制度」により、多くの美人が住んでいるのである。

(玉臺新詠集序⑵§1-2

其人、五陵豪族、充選掖庭、

その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである。

四姓良家、馳名永巷。

昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。

亦有潁川新市河間觀津、本號嬌娥、魯名巧笑。

あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。

楚王宮裏、無不推其細腰、

彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。

衞國佳人、俱言訝其纎手。

衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。

詩敦禮、豈東鄰之自媒。

そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。

⑶§1-3

婉約風流、異西施之被教。

弟兄協律、自少小學歌、長生河陽、由來能舞。

琵琶新曲、無待石崇、箜篌雜引、非關曹植。

傳鼓瑟於楊家、得吹簫於秦女。

 

(玉臺新詠集の序) ⑴

夫れ凌雲・槩日は、由余の未だ窺ほざる所にして、千門寓戸は張衡の曾て賦せし所なり。

周王璧臺の上、漢帝金屋の中、玉樹は珊瑚を以て枝と為す。

珠簾は玳瑁を以て押へと為す。其の中麗人有り。

其の人や、五陵の豪族にして、掖庭に充選せられ、四姓の良家にして、名を永巷に馳す。

亦た穎川・新市・河聞・觀津、に本と矯蛾と號し、魯て巧笑と名づくる有り。

楚王の宮裏、其の細腰を堆さざる無く、衞國の佳人、俱に言ひて其の纎手を訝る。

詩を閲し禮に敦き、豈 東隣の自ら媒するがごとくならんや。

婉約風流、西施の被教に異なれり。

協律を弟兄とし、小より歌を学び、少きより河陽に長じて、由来能く舞ふ。

琵琶の新曲は石崇を待つ無く、箜篌の雜引は曹植に関するに非ず。

鼓瑟を楊家に傳はり、吹簫を秦女に得たり。

 

 

⑷§2-1

至若寵聞長樂、陳后知而不平、畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。

東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微嚬得橫陳於甲帳。

馺娑、騁纎腰於結風、長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。

⑸§2-2

粧鳴蟬之薄鬂、照墮馬之垂鬟、反揷金鈿、橫抽瑶樹。

南都石黛、最發雙蛾、北地燕支、偏開兩靨。

亦有嶺上仙童、分丸魏帝、腰中寳鳳、授曆軒轅。

⑹§2-3

金星将婺女爭華、麝月與姮娥兢爽。

驚鸞冶袖、時飄韓掾之香、飛燕長裾、宜結陳王之佩。

雖非圖畫、入甘泉而不分、言異神仙、戯陽臺無

⑺§2-4

眞可謂傾國傾城、無對無雙者也。

加以天時開朗、逸思雕華。妙解文章、尤工詩賦。

琉璃硯匣、終日隨身、翡翠筆牀、無時離手。

⑻§2-5

清文滿篋、非唯芍藥之花、新製連篇、寧止葡萄之樹。

九日登高、時有緣情之作、萬年公主、非無累德之辭。

其佳麗也如彼、其才情也如此。

 

⑼§3-1

而椒宮宛轉、柘觀隂岑。絳鶴晨嚴、銅蠡晝靜。

三星未夕、不事懷衾、五日猶賖、誰能理曲。

少託、寂寞多閒。厭長樂之疎鍾、勞中宮之緩箭。

⑽§3-2

纎腰無力、怯南陽之擣衣、生長深宮、笑扶風之織錦。

雖復投壺玉女、爲歡盡於百嬌、爭博齊心賞窮於六箸。

無怡神於暇景、唯屬意於新詩。

庶得代彼蘇蠲玆愁疾。

⑾§3-3

但徃世名篇、當今巧製、分諸麟閣、散在鴻都。

不籍篇章、無由披覽。

於是然脂暝寫、弄筆晨書、選錄艶歌、凡爲十卷。

曽無叅於雅頌、亦靡濫於風人。涇渭之間、若斯而已。

 

⑿§4-1

於是麗以金箱、裝之瑶軸。 

三臺妙迹、龍伸蠖屈之書、五色花牋、河北膠東之紙。

高樓紅粉、仍定魚魯之文辟惡生香、聊防羽陵之蠹。

⒀§4-2

靈飛太甲、高擅玉函、鴻烈仙方、長推丹枕、至如靑牛帳裏、

餘曲終、朱鳥窓前、新粧已竟、方當開玆縹帙、散此繩、

永對翫於書幃、長循環於纎手、

⒁§4-3

豈如鄧學春秋、儒者之功難習、竇專黃老、金丹之術不成。

固勝西蜀豪家、託情窮於魯殿、東儲甲觀、流詠止於洞簫。

孌彼諸、聊同棄日、猗歟彤管、無或譏焉。

 

 

 

 

 

《玉臺新詠集序》現代語訳と訳註解説
(
本文)

玉臺新詠集序⑵§1-2

其人、五陵豪族、充選掖庭、四姓良家、馳名永巷。

亦有潁川新市河間觀津、本號嬌娥、魯名巧笑。

楚王宮裏、無不推其細腰、衞國佳人、俱言訝其纎手。

詩敦禮、豈東鄰之自媒

(下し文)
天梁の宮,寔【ここ】に高闈【こうい】を開く。

旗は扃【けい】をせず,駟を結び蘄【くつわ】を方【なら】べ。

轢輻【らくふく】して輕く騖【は】せ,一扉を容【い】る。

長廊 廣廡あり,途閣 雲のごとく蔓【の】ぶ。

閈庭【かんてい】詭異にして,門千 萬あり。

重閨【ちょうけい】幽闥【ゆうたつ】,轉た相い踰延【ゆえん】す。


(現代語訳)
(玉臺新詠集序⑵§1-2

その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである。

昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。

あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。

彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。

衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。

そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。


(訳注)

玉臺新詠集序⑵§1-2

其人、五陵豪族、充選掖庭、

その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである。

12. 其人 一本に「也」の字あり。この「人」は複数。

13. 五陵豪族 「五陵」は長安の近郊にある漢の高祖以下五帝の陵で、長陵(高帝)・安陵(恵帝)・陽陵(景帝)・茂陵(武帝)・平陵(昭帝)をいぅ。その近傍には富豪の家があった。唐代、王維、李白、杜甫の「少年行」詩にみる、貴族の住んでいた所である。

14. 充選抜庭 「掖庭」は奥御殿。宮中正殿の傍合をいう。皇妃官女の居る所。ここは選ばれて後宮の妃嬪に充(ぁ)てられる意。後宮に入るには、①礼をもって宮廷に迎え入れられた場合である。この種の人々の大部分は名門貴顕の出身である。②選抜されて宮廷に入った場合である。良家の子女の才智徳行あるものを厳格に選択するというものであった。③宮中に献上された女性である。この種の人々には様々なタイプがあったが、大半は美貌か技芸の才によって献上された女性であった。いくらかの朝臣は自分の出世のために妻や娘を宮中に入れることを常に願った。④罪人の家の女性で宮廷の婢にされたものである。これらの大多数は、官僚士大夫層の女性であった。ここにいう妃嬪は、①と②をいう。

 

四姓良家、馳名永巷。

昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。

15. 四姓良家 後漢の明帝の外戚樊氏・郭氏・陰氏・馬氏を四姓といったのに始まり、三国の呉では朱氏・張氏・顧氏・陸氏、晋では雷民・蒋氏・穀氏・魯氏、後魏では廬氏・崔氏・鄭氏・王氏をいずれも四姓といった。六椚時代は郡の名望家を甲乙丙丁の四等に分けて貴族とし、これを四姓といった。

16. 馳名永巷 「馳名」とは美貌を以て名を後宮に馳せたといぅこと。「永巻」は宮中の長廊下。転じて官女、またはその居る所をいう。

 

亦有潁川新市河間觀津、本號嬌娥、魯名巧笑。

あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。

17. 頴川 郡名。頴水によって名づけた。頴水は河南省登封県の頴谷より出て湛水にそそぐ。水がきれいである。許由が耳を洗ったのも此の川である。頴川郡は美人の多い所、郡治は陽翟、今の河南省禹県。

18. 新市 漢の侯国。故城は今の河北省新楽県の西南にある。今は県名となっている。

19. 河間 漢の侯国。河北省献県、河間県の西南にある。今は郡名となる。

20. 観津 戦国の趙の地。楽毅の封ぜられた所。漢の孝文竇太后(名は漪)も清河観津の人(『太平御覧』三百九十六)であった。故城は河北省武邑県の東南。穎川以下、皆昔から多く美人の生まれた所。

21. 本号嬌娥 「嬌・娥」は女子の名に多く用いる。

22.  魯名巧笑 『詩経』「荷風碩人篇」に、「巧笑倩たり、美目盻たり」とあり、『論語』「八佾篇」にもこれを引いている。「巧笑」は美人の愛くるしく靨をうかべて笑うのにいう。よって女子の通名にも用いることになった。魂の文帝の宮人に段巧笑というのがあったと、古今注に見える。

 

楚王宮裏、無不推其細腰、

彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。

23. 楚王宮裏、無不推其細腰 「宮裏」は一に「宮内」に作る。『墨子』「兼愛中篇」・『韓非子』「二柄篇」に、「越王好勇,而民多輕死。楚靈王好細腰,而國中多餓人。」楚の霊王が細腰の美人を好んだことが見え、『後漢書』「馬磨伝」に、「楚王細腰を好み、宮中餓死多し」の語もある。「推」は推尊・推賞の意。

 

衞國佳人、俱言訝其纎手。

衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。

24. 衞国佳人、倶言訝其纎手 『詩経』「魏風葛瘻篇」に、「摻摻たる女手、以て裳を縫ふ可し」とある。注に「摻摻は猶繊々のごときなり」とある。「繊手」は指の細くしなやかなのをいう。陛機の「擬西北有高楼」(一八七頁)の詩に、「佳人琴瑟を撫す、繊手清くして且つ閑なり」の句がある。「魏国」は一に「衛国」に作る。『詩経』「衛風碩人篇」に美人をうたって、「手は柔荑の如し」の句がある。然し「敵手」の文字よりすれば、魏風を出典とするがよろしく、従って「魏国」に作るを善しとする。「倶言」は口をそろえていう。「訝」は驚嘆羨望の意。

 

詩敦禮、豈東鄰之自媒
そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。

25. 閲詩敦礼 詩を読み札を知るという程の意。教養の高いのにいった。ただ詩を読む結果、人格も向上する、『礼記』「経解篇」の、「温柔敦厚は詩の教なり」の意も多少含んでいるであろう。

26. 東隣之自媒 宋玉の「登桂子好色の賦」や司馬相如の「美人の賦」によって「東隣」は多く隣家美人の意とするが、ここは《孟子·告子下》「踰東家墻而摟其處子,則得妻。」に、「東家の墻を踰えてその処子をひけば則ち妻を得、ひかざれは妻を得ず。則ち将に之をひかんとするか」をふまえていよう。「自媒」は『礼記』「坊記篇」にいわゆる、「男女は媒なければ交はらず」にそむいた行為で、妄りに自ら男を求めて奔るのをいう。

 

 

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【字解】玉臺新詠序⑴§1-1陳尚書左僕射、太子少傅、東海徐陵孝穆撰。

1. 玉臺 「壁臺」「瑤臺」「金屋」などと同意義で、後宮の美人の居所を想定していて、齊の後宮、東宮御所流行の詩を主体に選定された。

2. 尚書左僕射 尚書省(しょうしょしょう)とは、中国で後漢代から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を ... 後漢代には尚書台として少府の下に置かれ、長官を尚書令(一名)・副長官を尚書僕射(二名)としている。

3.徐陵 507583)中国,南朝梁,陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく,548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが,江南に侯景の乱が勃発し,555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代,その東宮に父の徐摛(じよち),および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は,〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。また《玉台新詠》の編者である。

3. 抑《接続詞「そもそも」が文頭に置かれるところから》最初。発端。副詞的にも用いる。「この話には―から反対だった」「目的が―違う」[接]改めて説き起こすときに用いる語。いったい。だいたい。さて。「―人間というものは」そもそもろん【抑論】物事の始まりや、問題の起きた理由などに立ち戻って論じること。また、そのような論調。

4. 凌雲槩日 宮殿の高いのをいった。「凌雲」は雲を凌いで高く聳えること。「概日」は天日と高さが等しいこと。「概」はとかきで、斗斛に盛った物を平らにする棒である。従って、概日はその高さが太陽と平らになることである。『周書』の「武帝紀」、「鄴を平ぐるの詔」に、「或は層台累構、日に概(たいら)に雲を凌ぐ」とある。「凌雲概日」は下の「千門万戸」と対句になっている。

4.由余 戎の臣。後に秦の宰相になる。由余の祖先は晋人で、逃げて戎に入ったもので、由余は晋国の言葉を話すことができた。B.C.626戎王の命で秦を視察する。秦繆公が官室の祭器をみせると、由余は「これを人民に作らせば人民を苦しめます」と言った。 繆公は「中国は詩書礼楽法律をもって政をしていても時々乱れることがある。これらの祭器がなくて、どうやって政をやっていくのだ」と問うと、由余は笑って「それが中国の乱れる所以です。上は法律により下々を責め、民は苦しむと仁義を盾に上を恨みます。国が乱れるのはこれら礼楽・法律のたぐいがあるためです。

一方、戎夷では上は純朴倹素の徳をもって下に臨み、下は忠誠信実の心をもって上につかえているため、国の政をするのは、一身を治めるようなもので、治まるいわれも知らずに治まっているのです。これこそ、ほんとうの聖人の治というものです」と言った。

繆公は由余が賢明であることがわかると内史の廖に「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。

廖は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。戎王と臣との間に隙を作り、由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。このため由余はついに戎を去って秦に降り、繆公は賓客の礼をもって待遇した。そして繆公は由余に戎を討つ形勢を尋ねた。

B.C.623繆公は由余の策を用いて戎王を討ち、西戎の覇となった。穆公は由余を用い、その謀によって地を拓くこと千里、遂に西戎に覇となった(『史記』「秦本紀」)。ここは、由余は穆公の宮殿は見たであろうが、「凌雲概日」の大宮殿は未だ見たことがない筈というのである。

まず徳があり、国民に利益をあたえる。聖人の治()は民に蔵(ぞう)して府庫(ふこ)に蔵(ぞう)せず。 『聖人之蔵於民府蔵於府庫』 韓非子聖人とは、徳の高い人を指し、府庫とは財物・文書などを入れておく蔵。ここでは自分の財布のこと。

5.千門万戸 一に「万戸千門」に作る。

6.張衡 (78 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。経歴[編集]. 没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。曾て班回の「南都の賦」に擬して「二京の賦」を作り、王侯以下の香惨を諷諌した。その作は十年の構恩を経て成ったといわれる。

張衡《西京賦》(27)(建章宮〔二〕には、次の通りである。「閈」は垣のこと。

(建章宮(二)) #11-2

天梁之宮,寔開高闈。

旗不扃,結駟方蘄。

轢輻輕騖,容於一扉。

長廊廣廡,途閣雲蔓。

閈庭詭異,門千萬。

重閨幽闥,轉相踰延。

 張平子(張衡)《西京賦》(27)(建章宮〔二〕)#11-2 文選 賦<114―(27)>31割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1064 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3868

7. 周王壁台之上 周の穆王(第五代目の天子)が盛姫のために重壁の台を作ったことをいう。

8. 漢帝金屋之中 『漢武故事』に、「武帝の少時、(膠東王となって数歳)、その姑館陶長公主、抱いて膝上に置き、問うて日く、『児、婦を得んと欲するや否や』と。並びにその女阿橋を指して日く、『好むや否や』と。帝笑って対へて日く、『若し阿橋を得は、当に金屋を作りて之を貯ふべし』と。長公主大に悦ぶ。帝既に位に即き、阿橋を立てて皇后と為す」とある。

9. 玉樹以珊瑚為枝『漢武故事』に、「上、神尾を起し、前庭に玉樹を柏う。洞門を以て枝と為し、碧玉を葉と為す。花子の青赤なるは珠玉を以て之を為り、其の中を空にし、小鈴の如くす。鎗々として声有り」とある。「甘泉の賦」の顔師古の注に、「玉樹は武帝の作る所にして、衆宝を集めて之を為る。用つて神に供するなり」とある。

(據《藝文類聚.卷八三.寶玉部上.金》引) 帝年數,長公主1>遍指侍者曰:「與子作婦,好否?」皆不用。後指陳后2>,帝曰:「若得阿嬌,當作金屋貯3>之。」 *注解: (1) 長公主:漢時皇帝姐妹之稱謂。此指武帝姑媽劉嫖。

10. 珠簾以粥瑠為押 『漢武故事』に、「白珠を以て簾と為し、玳瑁もて之を押ふ」 とある。海亀の一種でその背甲はいわゆる竃甲色で、各種の装飾品に加工される。「押」はおさえる意で、その縁のおさえとしてあること。「押」は一に「押」に作り、また「匣」に作る。はこのこと。今は「押」に従っておく。

11. 麗人 美人。宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官晶をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。