玉-004 玉臺新詠集序⑷§2-1〈徐陵〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ7587
⑷§2-1 新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
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徐陵 | ||
| (⑷§2-1) |
⑴§1-1《玉臺新詠集序》
(六朝末期に編集された詩集である《玉臺新詠》)の序文。この詩集は、陳の徐陵が撰したもので六朝の新樂府を産出せしめる、当時の思想信条、感情に大きく反映せしめるものであった。)
夫凌雲槩日、由余之所未窺、
そもそも高く雲零を凌ぎ天の太陽と高さを斉しくする豪華な宮殿は(春秋時代の)晋の由余も未だ曾て見ない所であった。
千門萬戶、張衡之所曽賦。
千門万戸の盛況は、漢の張衡が著書の《西京賦》」にえがき出した通りである。
周王璧臺之上、漢帝金屋之中、玉樹以珊瑚作枝、
そして、そこは、さながら周の穆王の壁台の上なのか、あるいは漢の武帝の金屋の中かと見まごうばかりであるばかりか、玉樹は珊瑚を枝としているのである。
珠簾以玳瑁爲柙。其中有麗人焉。
珠簾は玳瑁ではめこみの鎮飾がほどこされてあり、その中に「宮中内職制度」により、多くの美人が住んでいるのである。
(玉臺新詠集序⑵§1-2)
其人、五陵豪族、充選掖庭、
その後宮の人たちは、五陵の貴族の子女が選ばれて後宮に入り、妃嬪となったのである。
四姓良家、馳名永巷。
昔から言われる由緒ある四姓の良家の出身で、その名を永巷(後宮中)に馳せたものもあるのである。
亦有潁川新市河間觀津、本號嬌娥、魯名巧笑。
あるいは頴川・新市・河間・観津などの産で、もと嬌・娥とよばれ、曾て巧・笑と名づけられた人がいた。
楚王宮裏、無不推其細腰、
彼女らは、恐らく美女が集められたあの楚の霊王の宮中に入れても第一の細腰と推さないものはないといわれたのである。
衞國佳人、俱言訝其纎手。
衛国の佳人に比べても、口をそろえてその纎手に驚嘆しないものはあろうはずもないが、ひとり容姿の美しいばかりではないのである。
閱詩敦禮、豈東鄰之自媒。
そのうえ大切な、教養が高くて、詩を読み、礼を知るのである、だから、(『孟子』告子下に見える)墻を踰えて自ら男を追いかけるような東隣の女とは同日の談ではないのである。
⑶§1-3
婉約風流、異西施之被教。
その奥ゆかしく上品な高教養な態度は、かの西施が(范蠡の)特殊教育を受けて呉王の宮中に入ったのとも異なっている。
弟兄協律、自少小學歌、
音楽家系で育ち、その協律のなか家庭に育って、小さい時から歌を学んでいたのである。
長生河陽、由來能舞。
それに舞の盛んな河陽において成長したので、舞は無論妙手である。
琵琶新曲、無待石崇、
自ら琵琶の新曲を作るのに苦もなくて、「造新の曲、哀怨の声多し」といわれた晋の石崇を待つまでもないのである。
箜篌雜引、非關曹植。
それに、箜篌の難曲も、文選に見る魏の曹植を煩わすようなことはない。
傳鼓瑟於楊家、得吹簫於秦女。
鼓瑟は(漢)名門楊(惲の)家より伝授され、吹籍は名人秦女(弄玉)より会得したものであるから、いずれも絶妙の域に達している。
(玉臺新詠集の序) ⑴
夫れ凌雲・槩日は、由余の未だ窺ほざる所にして、千門寓戸は張衡の曾て賦せし所なり。
周王璧臺の上、漢帝金屋の中、玉樹は珊瑚を以て枝と為す。
珠簾は玳瑁を以て押へと為す。其の中麗人有り。
⑵
其の人や、五陵の豪族にして、掖庭に充選せられ、四姓の良家にして、名を永巷に馳す。
亦た穎川・新市・河聞・觀津、に本と矯蛾と號し、魯て巧笑と名づくる有り。
楚王の宮裏、其の細腰を堆さざる無く、衞國の佳人、俱に言ひて其の纎手を訝る。
詩を閲し禮に敦き、豈 東隣の自ら媒するがごとくならんや。
⑶
婉約風流、西施の被教に異なれり。
協律を弟兄とし、小より歌を学び、少きより河陽に長じて、由来能く舞ふ。
琵琶の新曲は石崇を待つ無く、箜篌の雜引は曹植に関するに非ず。
鼓瑟を楊家に傳はり、吹簫を秦女に得たり。
⑷§2-1
至若寵聞長樂、陳后知而不平、
新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。
畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。
天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。
東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微嚬得橫陳於甲帳。
或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。
陪逰馺娑、騁纎腰於結風、
未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。
長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。
そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
⑸§2-2
粧鳴蟬之薄鬂、照墮馬之垂鬟、反揷金鈿、橫抽瑶樹。
南都石黛、最發雙蛾、北地燕支、偏開兩靨。
亦有嶺上仙童、分丸魏帝、腰中寳鳳、授曆軒轅。
⑹§2-3
金星将婺女爭華、麝月與姮娥兢爽。
驚鸞冶袖、時飄韓掾之香、飛燕長裾、宜結陳王之佩。
雖非圖畫、入甘泉而不分、言異神仙、戯陽臺無别。
⑺§2-4
眞可謂傾國傾城、無對無雙者也。
加以天時開朗、逸思雕華。妙解文章、尤工詩賦。
琉璃硯匣、終日隨身、翡翠筆牀、無時離手。
⑻§2-5
清文滿篋、非唯芍藥之花、新製連篇、寧止葡萄之樹。
九日登高、時有緣情之作、萬年公主、非無累德之辭。
其佳麗也如彼、其才情也如此。
⑷§2-1
寵 長樂に聞ゆるが若きに至りては、陳后知りて平かならず、
畫 天仙を出せば、閼氏覽て遥かに妬み至るが如し。
東鄰の巧笑に 來りて寢に更衣に侍し、西子の微嚬【びひん】せるは橫に甲帳に陳なるを得。
馺娑に陪逰しては、纎腰を結風に騁せ、鴛鴦に長樂しては、奏 聲を度曲に新たにす。
⑸§2-2
鳴蟬の薄鬂を粧い、墮馬の垂鬟を照し。
反まがって金鈿を揷し、橫ざまに瑶樹を抽く。
南都の石黛は、最も雙蛾を發き、
北地の燕支は、偏えに兩靨を開く。
亦た嶺上の仙童、丸を魏帝に分ち、腰中の寳鳳、曆を軒轅に授くる有り。
⑹§2-3
金星は将に婺女【ぶじょ】と華を爭い、麝月は姮娥と爽を兢う。
驚鸞の冶袖は、時に韓掾の香を飄し、飛燕の長裾は、陳王の佩を結ぶに宜し。
圖畫に非ずと雖も、甘泉に入りて分たず、
神仙に異なると言うも、陽臺に戯れて别つなし。
⑺§2-4
眞に傾國、傾城、無對、無雙の者と謂う可きなり。
加うるに天時の開朗、逸思の雕華を以てす。
妙に文章を解し、尤とも詩賦に工みなり。
琉璃の硯匣、終日 身に隨い、
翡翠の筆牀は、時として手より離す無し。
⑻§2-5
清文の篋に滿つるは、唯 芍藥の花のみに非ず、
新製の篇に連ぬるは、寧んぞ葡萄の樹に止まらん。
九日 登高、時に緣情の作有り、
萬年公主、累德の辭 無きに非ず。
其の佳麗や 彼の如く、其の才情あるや 此の如し。
《玉臺新詠集序》現代語訳と訳註解説
(本文)
⑷§2-1
至若寵聞長樂、陳后知而不平、
畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。
東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微嚬得橫陳於甲帳。
陪逰馺娑、騁纎腰於結風、
長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。
(下し文)
⑷§2-1
寵 長樂に聞ゆるが若きに至りては、陳后知りて平かならず、
畫 天仙を出せば、閼氏覽て遥かに妬み至るが如し。
東鄰の巧笑に 來りて寢に更衣に侍し、西子の微嚬【びひん】せるは橫に甲帳に陳なるを得。
馺娑に陪逰しては、纎腰を結風に騁せ、鴛鴦に長樂しては、奏 聲を度曲に新たにす。
(現代語訳)
新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。
天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。
或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。
未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。
そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
(訳注)
⑷§2-1
至若寵聞長樂、陳后知而不平、
新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。
22. 至君寵聞長楽、陳后知而不平 「長樂」は宮殿の名。秦の興楽官を漢の高祖の五年、修治して長楽宮と名づけた。恵帝以後は、皇后は未央官に、母后は長楽官に居ることになった。従って長楽官は、或は長門宮の誤りかと思われる。「陳后」は漢の武帝の皇后阿嬌。武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来なかった。一方で衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)婦人の媚道を挟むに坐して廃せられ、長門宮に居り、数年にして歿した。母の館陶公主は武帝の姉の平陽公主(中国語版)に「皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうして我が娘を捨てるのだ」と訊いたが、平陽公主は「子が出来ないからです」と答えた。皇后は子が出来るようにと医者に多額の金を使ったが、結局子は出来なかったのであった。(『史記』「外戚世家」)。
畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。
天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。
23. 画出天仙、閼氏覧遥妬至如 「天仙」は天女。美人のたとえ。「閼氏」は匈奴王の嫡妻。桓譚『新論』に、「漢の高祖が匈奴のために平城に囲まれたとき、陳平の計を用いて、一美女を画き、人をやって匈奴の閼氏に示し、此の女を単千に進献して囲みを解かんことを請うつもりであると言わせた。閼氏がこれを見て、己の愛の奪われることを恐れ、遂に単于にすすめて囲みの一角を解かせたので、高祖は逃れ去ることが出来て、危いところを助かった」ことが見えている。
24. 匈奴王の嫡妻 閼氏 紀元前200年、匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、彼を降伏させることに成功した。匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫った。そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高祖は匈奴軍を追った挙句に白登山へ誘い込まれ、7日間包囲された。高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせその間に逃走した。これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹する。
東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微嚬得橫陳於甲帳。
或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。
25. 東鄰 東鄰子 宋玉の賦の中に出てくる美人。宋玉《登徒子好色賦》〔「楚國之麗者,莫若臣里, 臣里之美者, 莫若臣東家之子。」後因以“東鄰”指美女。〕李白《白紵辞其一》「北方佳人東鄰子、且吟白紵停綠水。」
80 《白紵辭其一》index-5 1-5 725年開元十三年25歳 蜀を離れ、襄陽・荊州に遊ぶ。20 首 <80> Ⅰ李白詩1246 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4778
東隣巧笑来侍寝干更衣 「東隣」は「東家」と同じ。「巧笑」は巧みに愛くるしく笑うこと。東家の美女という程の意。前掲宋玉の「登徒子好色の賦」に見ゆ。司馬相如の「美人の賦」にも、「臣の東隣に一女子あり。恒に勉々として西離し、臣を留めて共に止らんと欲す。垣に登りて臣を望むこと鼓に三年なり」とある。「更衣」は着物を着換える場所。姻賓憩息の所。これは衛子夫が漢の武帝に寵愛せらるるに至った動機をいったもの。武帝が三月上巳の節句に漏水に修疾し、帰途平陽公に遇った時のことである。『史記』「外戚世家」に「是の日武帝起って衣を更ふ。子夫、尚衣に侍し、軒中に幸せらるるを得たり」とある。平陽主の謳者からついに皇后の地位に上るのである。
27 西子微嚬、得橫陳於甲帳 「西子」は即ち西施である。「微聾」とは少ししかめ面をすること。『荘子』「天運篇」に、「西施心(柵)を病みて其の里に臍す。其の里の醜人見て之を美とし、帰りて亦心を捧げて其の里に賦す云々」とある。「横陳」は「横臥」と同じ。司馬相如の「好色の賦」に、「花容自ら献じ、玉体横陳す」とある。女子の御寝に侍するを「玉体横陳」という。「甲帳」は「甲乙の帳」と同じ。甲乙の順をつけて作ったとばりの第一のもの。『漢書』「西域伝賛」に、「神明通天の台を立て、甲乙の帳を興造す」とあり、『漢武故事』に、「上、瑠璃・珠玉・明月・夜光、天下の珍宝を雑錯して甲帳を造る。次を乙帳と為す」とある。
陪逰馺娑、騁纎腰於結風、
未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。
28. 陪遊敬婆、騨級腰於結風 「陪遊」は帝の遊宴に随うこと。「馺娑」は本来馬の迅疾なるさまであるが、漢の時は宮殿の名としたことが『三輔黄図』に見える。「結風」は旋風と同じ。つむじ風。舞うときの回旋の迅速なるを形容した。傳毅の「舞の賦」にも、「激楚の結風、陽阿の舞」の句がある。
長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。
そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
29. 長楽鴛駕、奏秦声於度曲 「長楽」は「陪遊」と対するから、いつまでも楽しむ意で、ここでは長樂宮のことではない。「鴛鴬」はおしどりであるが、また漢の宮殿の名でもあることが『三輔黄図』に見える。「秦新声」は秦国の音楽。李斯の「諌逐客書」・『史記』の「廉頗蘭相加伝」などに見える。新編の音楽という程の意。「虔曲」は歌曲を按じて歌うこと。張衡の「西京の賦」に、「度曲未だ終えずして雲飛び雪起る」とある。
【字解】玉臺新詠序⑴§1-1陳尚書左僕射、太子少傅、東海徐陵孝穆撰。
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1. 玉臺 「壁臺」「瑤臺」「金屋」などと同意義で、後宮の美人の居所を想定していて、齊の後宮、東宮御所流行の詩を主体に選定された。
2. 尚書左僕射 尚書省(しょうしょしょう)とは、中国で後漢代から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を ... 後漢代には尚書台として少府の下に置かれ、長官を尚書令(一名)・副長官を尚書僕射(二名)としている。
3.徐陵 (507‐583)中国,南朝梁,陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく,548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが,江南に侯景の乱が勃発し,555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代,その東宮に父の徐摛(じよち),および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は,〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。また《玉台新詠》の編者である。
3.夫 抑《接続詞「そもそも」が文頭に置かれるところから》最初。発端。副詞的にも用いる。「この話には―から反対だった」「目的が―違う」[接]改めて説き起こすときに用いる語。いったい。だいたい。さて。「―人間というものは」そもそもろん【抑論】物事の始まりや、問題の起きた理由などに立ち戻って論じること。また、そのような論調。
4. 凌雲槩日 宮殿の高いのをいった。「凌雲」は雲を凌いで高く聳えること。「概日」は天日と高さが等しいこと。「概」はとかきで、斗斛に盛った物を平らにする棒である。従って、概日はその高さが太陽と平らになることである。『周書』の「武帝紀」、「鄴を平ぐるの詔」に、「或は層台累構、日に概(たいら)に雲を凌ぐ」とある。「凌雲概日」は下の「千門万戸」と対句になっている。
4.由余 戎の臣。後に秦の宰相になる。由余の祖先は晋人で、逃げて戎に入ったもので、由余は晋国の言葉を話すことができた。B.C.626戎王の命で秦を視察する。秦繆公が官室の祭器をみせると、由余は「これを人民に作らせば人民を苦しめます」と言った。 繆公は「中国は詩書礼楽法律をもって政をしていても時々乱れることがある。これらの祭器がなくて、どうやって政をやっていくのだ」と問うと、 由余は笑って「それが中国の乱れる所以です。上は法律により下々を責め、民は苦しむと仁義を盾に上を恨みます。国が乱れるのはこれら礼楽・法律のたぐいがあるためです。
一方、戎夷では上は純朴倹素の徳をもって下に臨み、下は忠誠信実の心をもって上につかえているため、国の政をするのは、一身を治めるようなもので、 治まるいわれも知らずに治まっているのです。これこそ、ほんとうの聖人の治というものです」と言った。
繆公は由余が賢明であることがわかると内史の廖に「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。
廖は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。戎王と臣との間に隙を作り、 由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。 このため由余はついに戎を去って秦に降り、繆公は賓客の礼をもって待遇した。そして繆公は由余に戎を討つ形勢を尋ねた。
B.C.623繆公は由余の策を用いて戎王を討ち、西戎の覇となった。穆公は由余を用い、その謀によって地を拓くこと千里、遂に西戎に覇となった(『史記』「秦本紀」)。ここは、由余は穆公の宮殿は見たであろうが、「凌雲概日」の大宮殿は未だ見たことがない筈というのである。
まず徳があり、国民に利益をあたえる。 聖人の治(ち)は民に蔵(ぞう)して府庫(ふこ)に蔵(ぞう)せず。『聖人之蔵於民府蔵於府庫』 韓非子聖人とは、徳の高い人を指し、府庫とは財物・文書などを入れておく蔵。 ここでは自分の財布のこと。
5.千門万戸 一に「万戸千門」に作る。
6.張衡 (78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。 経歴[編集]. 没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。曾て班回の「南都の賦」に擬して「二京の賦」を作り、王侯以下の香惨を諷諌した。その作は十年の構恩を経て成ったといわれる。
張衡《西京賦》(27)(建章宮〔二〕には、次の通りである。「閈」は垣のこと。
(建章宮(二)) #11-2
天梁之宮,寔開高闈。
旗不脫扃,結駟方蘄。
轢輻輕騖,容於一扉。
長廊廣廡,途閣雲蔓。
閈庭詭異,門千戶萬。
重閨幽闥,轉相踰延。
張平子(張衡)《西京賦》(27)(建章宮〔二〕)#11-2 文選 賦<114―(27)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1064 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3868
7. 周王壁台之上 周の穆王(第五代目の天子)が盛姫のために重壁の台を作ったことをいう。
8. 漢帝金屋之中 『漢武故事』に、「武帝の少時、(膠東王となって数歳)、その姑館陶長公主、抱いて膝上に置き、問うて日く、『児、婦を得んと欲するや否や』と。並びにその女阿橋を指して日く、『好むや否や』と。帝笑って対へて日く、『若し阿橋を得は、当に金屋を作りて之を貯ふべし』と。長公主大に悦ぶ。帝既に位に即き、阿橋を立てて皇后と為す」とある。
9. 玉樹以珊瑚為枝『漢武故事』に、「上、神尾を起し、前庭に玉樹を柏う。洞門を以て枝と為し、碧玉を葉と為す。花子の青赤なるは珠玉を以て之を為り、其の中を空にし、小鈴の如くす。鎗々として声有り」とある。「甘泉の賦」の顔師古の注に、「玉樹は武帝の作る所にして、衆宝を集めて之を為る。用つて神に供するなり」とある。
(據《藝文類聚.卷八三.寶玉部上.金》引) 帝年數歲,長公主1>遍指侍者曰:「與子作婦,好否?」皆不用。後指陳后2>,帝曰:「若得阿嬌,當作金屋貯3>之。」 *注解: (1) 長公主:漢時皇帝姐妹之稱謂。此指武帝姑媽劉嫖。
10. 珠簾以粥瑠為押 『漢武故事』に、「白珠を以て簾と為し、玳瑁もて之を押ふ」 とある。海亀の一種でその背甲はいわゆる竃甲色で、各種の装飾品に加工される。「押」はおさえる意で、その縁のおさえとしてあること。「押」は一に「押」に作り、また「匣」に作る。はこのこと。今は「押」に従っておく。
11. 麗人 美人。宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官晶をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
12. 碗約風流 「椀約」は奥ゆかしくつづまやか。「風流」は上品な趣味・態度。
13. 異西施之被教 「西施」はもと越国苧羅村の美女、越王勾践が呉に敗れて会稽に退守していた時、呉王夫差の色を好むを知って、美女を献じてその政を乱さんとし、西施と鄭且を得て特殊教育を施し、呉王に献上した。
『呉越春秋』に「飾るに羅穀を以てし、教ふるに容歩を以てし、土城に習ほしめ、都巷に臨み、三年学び脹(抽)り、乃ち花森をして之を献ぜしむ。呉王大に悦ぶ」とある。ここの意味は、「西施のような下桟の出身でないから、自(禁)ら備わる奥ゆかしさと気品があって、西施の特殊教育を受けて宮人となったのとは自ら相違がある」ということ。一本に「豊」を「非直」(ただに……のみにあらず) に作り、また「異」の上に「無」の字がある。意に於て当たらぬようである。今『考異』の説に従い『芸文類宋』によって正した。
14. 西施 本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。
現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施>>>西施と呼ばれるようになった。
紀元前5世紀、越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。
この時の越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。
呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。
次は美女軍団が呉の国王を狂わせた。
十八史略には、西施のきわめて美しかったこと、彼女にまつわるエピソードが記されている。西施は、呉王 夫差の寵姫となったが、あるとき胸の病となり、故郷の村に帰ってきた。西施は、痛む胸を手でおさえ、苦しみに眉をひそめて歩いた。それがかえって色香を引出し、村人の目を引いた。そのときに村に評判の醜女がいて、西施のまねた行動をした。それは、異様な姿に映り、かえって村人に嫌われた。これを「西施捧心」と表され、実もないのに真似をしても無駄なことだということだが、日本では、「これだけやっていますが、自分の力だけでなく、真似をしただけですよ」という謙遜の意味に使用されることが多い。
このようにまれな美しさをそなえた西施は、呉王 夫差を虜(とりこ)にした。夫差は、西施のために八景を築き、その中でともに遊んだ。それぞれの風景の中には、所々に、席がもうけられ、優雅な宴(うたげ)がもよおされた。夏には、西施とともに船を浮かべ、西施が水浴すると、呉王 夫差は、その美しい肢体に見入った。こうして、夫差は悦楽の世界にひたり、政治も軍事も、そして民さえ忘れてしまい、傾国が始まったのである。
越の策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。
その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
李白の西施の詩句表。
65巻02-06楽府烏棲曲 | 吳王宮里醉西施。 |
195巻五 28子夜吳歌 ( 一作子夜四時歌 ) 夏歌 | 鏡湖三百里。 菡萏發荷花。 五月西施采。 人看隘若耶。 回舟不待月。 歸去越王家。 |
210卷六5玉壺吟 | 世人不識東方朔。 大隱金門是謫仙。 西施宜笑復宜顰。 丑女效之徒累身。 君王雖愛蛾眉好。 |
218卷六13鳴皋歌送岑徵君 時梁園三尺雪 | 鳳孤飛而無鄰。 (蝘)蜓嘲龍。 魚目混珍。 嫫母衣錦。 西施負薪。 若使巢由桎梏于軒冕兮。 |
546卷十六49送祝八之江東賦得浣紗石 | 西施越溪女。 明艷光云海。 未入吳王宮殿時。 |
747巻二十一25西施 | 西施越溪女。 出自苧蘿山。 |
829巻二十三03效古二首其二 | 自古有秀色。 西施與東鄰。 蛾眉不可妒。 況乃效其顰。 所以尹婕妤。 |
945巻二十四56口號吳王美人半醉 | 風動荷花水殿香。 姑蘇台上宴吳王。 西施醉舞嬌無力。 笑倚東窗白玉床。 |
15. 弟兄協律、自小学歌 漠の武帝の李夫人は李延年の妹である。李延年は音を知り歌舞を善くしたので、武帝に寵愛されていた。たまたま平陽公主が李延年に妹があると奏したので、武帝が之を召見し、その妙寵にして舞を善くするを見て寵幸し、遂に延年を協律都尉とした(『史記』「外戚世家」)。ここは「兄妹が音楽家という家庭に生まれて、小さい時から歌を学んだ」という程の意。
協律 音楽、音楽を教える。十二律・律動・旋律・音律・楽律・調律。
16. 長生河陽 「弟兄」に対(M)して「少長」といったので、小さい時から成人になるまでそこにいた意。「河陽」は黄河の北、もとの晋の地、漠代は県名となり、今の河南省孟県の西にあたる。鍾露昇氏は「河陽」は「陽阿」の誤りと見ている。「陽阿」は今の山西省晋城県の西北に在り、この地方は舞を善くするものが多かった。『推南子』「倣真訓」に、「足陽阿の舞を既み、而して手線水の趨に会す」、曹糖の「撃篠引」に、「陽阿奇弁を奏す」等の句があり、よって「古人舞を言へは必ず陽阿を挙ぐ。河陽の陽阿の誤りに係るを証すべし」と断じた。然し「河陽」でもわかるので、しばらく一説として挙げておく。
17. 由来能舞 「由来」は元来と同じ。
18. 琵琶新曲、無待石崇 石崇(249-300)は字は季倫、晋の働海南皮の人。元康の初め、刑州の刺史に累遷し、遠使商客を刼かして巨富を得、洛陽に金谷園を築き、奢靡の遊にふけり、衛尉に拝せられたが、後趙王倫のために殺された。詩に長じ、「王明君の辞」は『文選』に見え、「其の造新の曲、哀怨の声多し。故に之を紙に叙ぶ」といっている。
箜篌雜引、非關曹植。
それに、箜篌の難曲も、文選に見る魏の曹植を煩わすようなことはない。
19. 堕筏雑引、非閑曹植 「箜篌(くご)」とは、古代東アジアで使われた、ハープに似た撥弦楽器の名。現在は滅んでいる。一に「炊筏」ともいう。二十三絃乃至二十五絃、胸に抱いて両手でひく。「引」は「曲」と同じ。漢の武帝の時、朝鮮の霍里子高の妻麗玉が「箜篌引」を作った。一名「公無渡河」という。『釈名』に、「箜篌は師延の作る所、靡々の楽にして、後は桑間濮上の地に出づ。蓋し空国の侯の作りし所なり。云云」とあり。遂に鄭・衛の音を号して淫楽と称した。曹植(192-232)は字は子建、曹操の第三子、その作る所に「箜篌引」一篇がある。「関」は「関与」の関。或は「由る」と同じ。一に「因」に作る。
楽器。
箜篌引 曹植 魏詩<50>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1993
20. 伝改悪於楊家 「楊家」は宏の名門。漢の楊怪、字は子幼、華陰の人、官は中郎将に至り、平通侯に封ぜられた。その「孫会宗に答ふる書」に、「婦(巴は題の女なり、雅(も)と善く宏を鼓す」(『漢書』「楊慣伝」)とある。
21. 得吹策於秦女 『釈名』に「古の吹希を善くするものに、秦女弄玉・仙人粛史・漢の元帝・霊帝あり」とある。『列仙伝』によれば、「秦女は穆公の女で清史の妻である。爺史が吹斉に巧みで、よく鳳鴨を為した。秦の穆公、女弄玉を以て之に妻わせ、遂に女に吹爺を教えしめた。後に弄玉は鳳に乗り、策史は龍に乗って飛昇し去った」というのである。