玉-001-#8 玉臺新詠集序⑻§2-5〈徐陵〉Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7611
⑻§2-5 こうして作られた清高の作品は筐裏に満ちていて、ただに、晋の傳統が妻の「芍薬花の頌」に比すべきのみならない。幾多の新作の文章は 漢の張洪茂が「葡萄酒の賦」よりも優れたものであるのである。九月九日、重陽の節句には、高い処に登り菊花の酒を飲むにあたっては、時節に合ったやさしき抒情の詩が出来ているのである。晋の万年公主が、父武帝のために寵姫左貴嬢の早世を悼んで作った作品のような生前の徳をたたえた如き名文がなくもないということである。とにかく、その容姿の麗しいことは前述の如くであるが、その才情の豊かなこともかくの通りなのである。
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徐陵 | ||
| ⑻§2-5 |
⑷§2-1
至若寵聞長樂、陳后知而不平、
新寵の名が長楽官に聞こえてきたといえば、漢の陳皇后の阿嬌(武帝の皇后)であることはだれもが知って心に憤懣をいだくのである。
畫出天仙、閼氏覽而遥妬至如。
天仙の肖像画を見たならば、それは匈奴の王妃閼氏を見ることであり、絶対に寵愛を大いに受けるに違いないから、同時に嫉妬の心を生ずるにちがいない。
東鄰巧笑來侍寢於更衣、西子微嚬得橫陳於甲帳。
或は宋玉の賦にいう東隣の美女(衛子夫)が帝(漢の武帝)の更衣の処に御寝に侍り寵愛を得たるのをいうのであり、また西子が微しく眉をひそめて甲帳の中に横臥するを得たるが如くをあげられる。
陪逰馺娑、騁纎腰於結風、
未央宮の駿婆殿に陪遊しては、その柳のような細腰を疾風に舞わしたものだ。
長樂鴛鴦、奏新聲於度曲。
そして、鴛鷺宮にいつまでも華やかに、永楽して、新編の秦声を即座に歌曲にのせてうたうのである。
⑸§2-2
粧鳴蟬之薄鬂、照墮馬之垂鬟、
それかと思うと、髪は魏の文帝の宮人、莫瓊樹がなせる蝉の羽のように透けて見えるほどに解きつくした髪型であったり、或は後漢の政治家梁冀の妾孫寿の考案した「愁眉・啼妝・堕馬髻・折腰歩・齲歯笑、以て媚感を為す」とし、特に堕馬の垂髪を照し出したようなものまであった。
反揷金鈿、橫抽瑶樹。
それに、黄金作りのかんざしをそりまがるように挿し、宝珠作りのこうがいを横につき出して強い自己主張をしている。
南都石黛、最發雙蛾、
南方の都の地方でとれる石墨で念入りに蛾眉を画き、なによりもさきに、三日月眉、蛾の触鬢が美しい弧を画くのである。
北地燕支、偏開兩靨。
北方産のものである燕脂でひたすら両頬の靨鈿をくまどり、飾っている。
亦有嶺上仙童、分丸魏帝、
舞容の蹁躚たることは、山上の仙童が魏の文帝に丸薬を与え、「羽翼を生ず」といったことにひとしいほどである。
腰中寳鳳、授曆軒轅。
そして、簫の笛の吹奏の巧妙なるは、仙界の宮女らが腰中の宝鳳を黄帝が伶倫に命じて律を作らせたもののように、その律暦があざやかなものである。
⑹§2-3
金星将婺女爭華、麝月與姮娥兢爽。
金星の黄色のおしろい「花黄」「花鈿」は須女と其の華やかさを争ったといい、彎々たる麝月の眉は嫦娥とさわやかさを競うというものである。
驚鸞冶袖、時飄韓掾之香、
そして、舞う姿にあたっては、鸞鳳の驚くに似たなまめかしい袖があり、時々晋の韓掾の名香をひるがえしたようである。
飛燕長裾、宜結陳王之佩。
燕の飛ぶに似た長い裾襟 は 魏の陳思王曹植の玉珮を繋けるにふさわしいものである。
雖非圖畫、入甘泉而不分、
それは、絵にかいたほどの美人ではないが、もし描けば、甘泉宮に入った武帝妃の李夫人の名画と上下を分かち難いのである。
言異神仙、戯陽臺無别。
楚の懐王が高唐で逢った、神仙瑤姫とは異なるといっても、陽台の下に戯れてはそれととんと区別ができないということであろう。
⑺§2-4
眞可謂傾國傾城、無對無雙者也。
まことに傾国といおうか傾城といおうか美人ではある、比類なき無双の美人というべきものである。
加以天時開朗、逸思雕華。
それに加えることとして、天資・天性は明朗(賢)にして、俊逸の才思は華彩を生じたのである。
妙解文章、尤工詩賦。
そして、よく文章を理解し、殊に詩賦を作るに巧みである。
琉璃硯匣、終日隨身、
そして、大切な琉璃の硯箱は、終日、身辺に携えておくのである。
翡翠筆牀、無時離手。
そこには、筆かけに翡翠の筆管は、一時たりとも手から離さない。
⑻§2-5
清文滿篋、非唯芍藥之花、
こうして作られた清高の作品は筐裏に満ちていて、ただに、晋の傳統が妻の「芍薬花の頌」に比すべきのみならない。
新製連篇、寧止葡萄之樹。
幾多の新作の文章は 漢の張洪茂が「葡萄酒の賦」よりも優れたものであるのである。
九日登高、時有緣情之作、
九月九日、重陽の節句には、高い処に登り菊花の酒を飲むにあたっては、時節に合ったやさしき抒情の詩が出来ているのである。
萬年公主、非無累德之辭。
晋の万年公主が、父武帝のために寵姫左貴嬢の早世を悼んで作った作品のような生前の徳をたたえた如き名文がなくもないということである。
其佳麗也如彼、其才情也如此。
とにかく、その容姿の麗しいことは前述の如くであるが、その才情の豊かなこともかくの通りなのである。
⑷§2-1
寵 長樂に聞ゆるが若きに至りては、陳后知りて平かならず、
畫 天仙を出せば、閼氏覽て遥かに妬み至るが如し。
東鄰の巧笑に 來りて寢に更衣に侍し、西子の微嚬【びひん】せるは橫に甲帳に陳なるを得。
馺娑に陪逰しては、纎腰を結風に騁せ、鴛鴦に長樂しては、奏 聲を度曲に新たにす。
⑸§2-2
鳴蟬の薄鬂を粧い、墮馬の垂鬟を照し。
反まがって金鈿を揷し、橫ざまに瑶樹を抽く。
南都の石黛は、最も雙蛾を發き、
北地の燕支は、偏えに兩靨を開く。
亦た嶺上の仙童、丸を魏帝に分ち、腰中の寳鳳、曆を軒轅に授くる有り。
⑹§2-3
金星は将に婺女【ぶじょ】と華を爭い、麝月は姮娥と爽を兢う。
驚鸞の冶袖は、時に韓掾の香を飄し、飛燕の長裾は、陳王の佩を結ぶに宜し。
圖畫に非ずと雖も、甘泉に入りて分たず、
神仙に異なると言うも、陽臺に戯れて别つなし。
⑺§2-4
眞に傾國、傾城、無對、無雙の者と謂う可きなり。
加うるに天時の開朗、逸思の雕華を以てす。
妙に文章を解し、尤とも詩賦に工みなり。
琉璃の硯匣、終日 身に隨い、
翡翠の筆牀は、時として手より離す無し。
⑻§2-5
清文の篋に滿つるは、唯 芍藥の花のみに非ず、
新製の篇に連ぬるは、寧んぞ葡萄の樹に止まらん。
九日 登高、時に緣情の作有り、
萬年公主、累德の辭 無きに非ず。
其の佳麗や 彼の如く、其の才情あるや 此の如し。
《玉臺新詠集序》現代語訳と訳註解説
(本文)
⑻§2-5
清文滿篋、非唯芍藥之花、
新製連篇、寧止葡萄之樹。
九日登高、時有緣情之作、
萬年公主、非無累德之辭。
其佳麗也如彼、其才情也如此。
(下し文)
⑻§2-5
清文の篋に滿つるは、唯 芍藥の花のみに非ず、
新製の篇に連ぬるは、寧んぞ葡萄の樹に止まらん。
九日 登高、時に緣情の作有り、
萬年公主、累德の辭 無きに非ず。
其の佳麗や 彼の如く、其の才情あるや 此の如し。
(現代語訳)
⑻§2-5
こうして作られた清高の作品は筐裏に満ちていて、ただに、晋の傳統が妻の「芍薬花の頌」に比すべきのみならない。
幾多の新作の文章は 漢の張洪茂が「葡萄酒の賦」よりも優れたものであるのである。
九月九日、重陽の節句には、高い処に登り菊花の酒を飲むにあたっては、時節に合ったやさしき抒情の詩が出来ているのである。
晋の万年公主が、父武帝のために寵姫左貴嬢の早世を悼んで作った作品のような生前の徳をたたえた如き名文がなくもないということである。
とにかく、その容姿の麗しいことは前述の如くであるが、その才情の豊かなこともかくの通りなのである。
(訳注)
⑻§2-5
〔以下、更に「玉臺新詠」の詩歌の選定に対して、麗貌と舞容とを反復形容し、甘泉・陽台の二句に至っては、帝寵を檀にすることを述べたものである。〕⑹§2-3、⑺§2-4のつづき
清文滿篋、非唯芍藥之花、
こうして作られた清高の作品は筐裏に満ちていて、ただに、晋の傳統が妻の「芍薬花の頌」に比すべきのみならない。
34. 清文満餞、非惟弓英之花 「清文」は下句と対して、「清・新」を分用した。「筐」は竹製の文箱。原稿などを入れておく。晋の傳統の妻に「芍薬花の頌」があったというが、今は伏して伝わらず、僅かに「傳統伝」に、「煜煜たる芍薬、此の前庭に植う。晨には甘露に潤ひ、昼は陽臺に晞に(かわ)く」の四句だけがのこっている。
新製連篇、寧止葡萄之樹。
幾多の新作の文章は 漢の張洪茂が「葡萄酒の賦」よりも優れたものであるのである。
35. 新製連篇、寧止蒲萄之樹 「新製」は新しい作品。「連篇」は篇数の多いこと。「蒲萄之樹」は鐘露昇氏は前涼の張洪茂の「葡萄酒の賦」としている。
九日登高、時有緣情之作、
九月九日、重陽の節句には、高い処に登り菊花の酒を飲むにあたっては、時節に合ったやさしき抒情の詩が出来ているのである。
36. 九日登高、時有縁情之作 九月九日は重陽の節句で、高い処に登り菊花の酒を飲むならわしである。「縁情」は感情の動くままにの蕃U陸機の「文賦」に、「詩は情に縁りて綺靡、賦ほ物を体して劃亮たり」とある。杜甫、
登高 重陽には高い丘に登ることを言う。この園の高処にのぼるをいう。
《卷一二58 九日》「去年登高郪縣北,今日重在涪江濱。」(去年 高きに登る 郪縣の北,今日 重ねて在る 涪江の濱。)
《卷一七25 九日(登高)諸人集於林》 「登高明朝是,相要舊俗非。」(高きに登る 明朝 是なり,相い要うるも舊俗非なり。)
《卷一九18又上後園山腳》「秋風亦已起,江漢始如湯。登高欲有往,蕩析川無梁。」(秋風 亦た已に起る,江漢 始めから 湯の如し。高きに登りて 往く有らんと欲し,蕩析して川に梁無し。)
《卷二○49九日五首其四》「 故里樊川菊,登高素滻源。」(故里樊川の菊,高きに登る 素滻の源。)
《卷二○九日五首其五登高》「風急天高猿嘯哀、渚清沙白鳥飛廻。」(風急に天高くして 猿嘯哀し、 渚清く沙白くして 鳥飛廻る。)
萬年公主、非無累德之辭。
晋の万年公主が、父武帝のために寵姫左貴嬢の早世を悼んで作った作品のような生前の徳をたたえた如き名文がなくもないということである。
37. 万年公主、非無累徳之辞 「万年公主」は晋の武帝の女。「累徳」は徳を績みかさねる意。晋の武帝の左貴妃嬪は名を芬といい、少くして学を好み、善く文を属したが、早く卒したので、帝痛悼して己まず、万年公主に詔して誄(哀悼文)を作らせ、その生前の徳行を偲ばれた。その文には左貴妃嬪の徳を形容称賛してある。一説に「累」は一に「誄」に作る。誄を作り徳行を叙べるから「誄徳之辞」といったと見るものがあるが、熟語としては生硬な感がある。
其佳麗也如彼、其才情也如此。
とにかく、その容姿の麗しいことは前述の如くであるが、その才情の豊かなこともかくの通りなのである。
【字解】玉臺新詠序 陳尚書左僕射、太子少傅、東海徐陵孝穆撰。
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1. 玉臺 「壁臺」「瑤臺」「金屋」などと同意義で、後宮の美人の居所を想定していて、齊の後宮、東宮御所流行の詩を主体に選定された。
2. 尚書左僕射 尚書省(しょうしょしょう)とは、中国で後漢代から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を ... 後漢代には尚書台として少府の下に置かれ、長官を尚書令(一名)・副長官を尚書僕射(二名)としている。
3.徐陵 (507‐583)中国,南朝梁,陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく,548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが,江南に侯景の乱が勃発し,555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代,その東宮に父の徐摛(じよち),および庾肩吾・庾信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は,〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐廋体〉とかよばれて世にむかえられた。また《玉台新詠》の編者である。
3.夫 抑《接続詞「そもそも」が文頭に置かれるところから》最初。発端。副詞的にも用いる。「この話には―から反対だった」「目的が―違う」[接]改めて説き起こすときに用いる語。いったい。だいたい。さて。「―人間というものは」そもそもろん【抑論】物事の始まりや、問題の起きた理由などに立ち戻って論じること。また、そのような論調。
4. 凌雲槩日 宮殿の高いのをいった。「凌雲」は雲を凌いで高く聳えること。「概日」は天日と高さが等しいこと。「概」はとかきで、斗斛に盛った物を平らにする棒である。従って、概日はその高さが太陽と平らになることである。『周書』の「武帝紀」、「鄴を平ぐるの詔」に、「或は層台累構、日に概(たいら)に雲を凌ぐ」とある。「凌雲概日」は下の「千門万戸」と対句になっている。
4. 由余 戎の臣。後に秦の宰相になる。由余の祖先は晋人で、逃げて戎に入ったもので、由余は晋国の言葉を話すことができた。B.C.626戎王の命で秦を視察する。秦繆公が官室の祭器をみせると、由余は「これを人民に作らせば人民を苦しめます」と言った。 繆公は「中国は詩書礼楽法律をもって政をしていても時々乱れることがある。これらの祭器がなくて、どうやって政をやっていくのだ」と問うと、
由余は笑って「それが中国の乱れる所以です。上は法律により下々を責め、民は苦しむと仁義を盾に上を恨みます。国が乱れるのはこれら礼楽・法律のたぐいがあるためです。
一方、戎夷では上は純朴倹素の徳をもって下に臨み、下は忠誠信実の心をもって上につかえているため、国の政をするのは、一身を治めるようなもので、
治まるいわれも知らずに治まっているのです。これこそ、ほんとうの聖人の治というものです」と言った。
繆公は由余が賢明であることがわかると内史の廖に「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。
廖は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。戎王と臣との間に隙を作り、
由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。
このため由余はついに戎を去って秦に降り、繆公は賓客の礼をもって待遇した。そして繆公は由余に戎を討つ形勢を尋ねた。
B.C.623繆公は由余の策を用いて戎王を討ち、西戎の覇となった。穆公は由余を用い、その謀によって地を拓くこと千里、遂に西戎に覇となった(『史記』「秦本紀」)。ここは、由余は穆公の宮殿は見たであろうが、「凌雲概日」の大宮殿は未だ見たことがない筈というのである。
まず徳があり、国民に利益をあたえる。
聖人の治(ち)は民に蔵(ぞう)して府庫(ふこ)に蔵(ぞう)せず。 『聖人之蔵於民府蔵於府庫』 韓非子聖人とは、徳の高い人を指し、府庫とは財物・文書などを入れておく蔵。
ここでは自分の財布のこと。
5. 千門万戸 一に「万戸千門」に作る。
6. 張衡 (78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。
経歴[編集]. 没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。曾て班回の「南都の賦」に擬して「二京の賦」を作り、王侯以下の香惨を諷諌した。その作は十年の構恩を経て成ったといわれる。
張衡《西京賦》(27)(建章宮〔二〕には、次の通りである。「閈」は垣のこと。
(建章宮(二)) #11-2
天梁之宮,寔開高闈。
旗不脫扃,結駟方蘄。
轢輻輕騖,容於一扉。
長廊廣廡,途閣雲蔓。
閈庭詭異,門千戶萬。
重閨幽闥,轉相踰延。
張平子(張衡)《西京賦》(27)(建章宮〔二〕)#11-2 文選 賦<114―(27)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1064 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3868
7. 周王壁台之上 周の穆王(第五代目の天子)が盛姫のために重壁の台を作ったことをいう。
8. 漢帝金屋之中 『漢武故事』に、「武帝の少時、(膠東王となって数歳)、その姑館陶長公主、抱いて膝上に置き、問うて日く、『児、婦を得んと欲するや否や』と。並びにその女阿橋を指して日く、『好むや否や』と。帝笑って対へて日く、『若し阿橋を得は、当に金屋を作りて之を貯ふべし』と。長公主大に悦ぶ。帝既に位に即き、阿橋を立てて皇后と為す」とある。
9. 玉樹以珊瑚為枝『漢武故事』に、「上、神尾を起し、前庭に玉樹を柏う。洞門を以て枝と為し、碧玉を葉と為す。花子の青赤なるは珠玉を以て之を為り、其の中を空にし、小鈴の如くす。鎗々として声有り」とある。「甘泉の賦」の顔師古の注に、「玉樹は武帝の作る所にして、衆宝を集めて之を為る。用つて神に供するなり」とある。
(據《藝文類聚.卷八三.寶玉部上.金》引) 帝年數歲,長公主1>遍指侍者曰:「與子作婦,好否?」皆不用。後指陳后2>,帝曰:「若得阿嬌,當作金屋貯3>之。」 *注解: (1) 長公主:漢時皇帝姐妹之稱謂。此指武帝姑媽劉嫖。
10. 珠簾以粥瑠為押 『漢武故事』に、「白珠を以て簾と為し、玳瑁もて之を押ふ」 とある。海亀の一種でその背甲はいわゆる竃甲色で、各種の装飾品に加工される。「押」はおさえる意で、その縁のおさえとしてあること。「押」は一に「押」に作り、また「匣」に作る。はこのこと。今は「押」に従っておく。
11. 麗人 美人。宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官晶をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
12. 碗約風流 「椀約」は奥ゆかしくつづまやか。「風流」は上品な趣味・態度。
13. 異西施之被教 「西施」はもと越国苧羅村の美女、越王勾践が呉に敗れて会稽に退守していた時、呉王夫差の色を好むを知って、美女を献じてその政を乱さんとし、西施と鄭且を得て特殊教育を施し、呉王に献上した。
『呉越春秋』に「飾るに羅穀を以てし、教ふるに容歩を以てし、土城に習ほしめ、都巷に臨み、三年学び脹(抽)り、乃ち花森をして之を献ぜしむ。呉王大に悦ぶ」とある。ここの意味は、「西施のような下桟の出身でないから、自(禁)ら備わる奥ゆかしさと気品があって、西施の特殊教育を受けて宮人となったのとは自ら相違がある」ということ。一本に「豊」を「非直」(ただに……のみにあらず) に作り、また「異」の上に「無」の字がある。意に於て当たらぬようである。今『考異』の説に従い『芸文類宋』によって正した。
14. 西施 本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。
現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施>>>西施と呼ばれるようになった。
紀元前5世紀、越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。
この時の越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。
呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。
次は美女軍団が呉の国王を狂わせた。
十八史略には、西施のきわめて美しかったこと、彼女にまつわるエピソードが記されている。西施は、呉王 夫差の寵姫となったが、あるとき胸の病となり、故郷の村に帰ってきた。西施は、痛む胸を手でおさえ、苦しみに眉をひそめて歩いた。それがかえって色香を引出し、村人の目を引いた。そのときに村に評判の醜女がいて、西施のまねた行動をした。それは、異様な姿に映り、かえって村人に嫌われた。これを「西施捧心」と表され、実もないのに真似をしても無駄なことだということだが、日本では、「これだけやっていますが、自分の力だけでなく、真似をしただけですよ」という謙遜の意味に使用されることが多い。
このようにまれな美しさをそなえた西施は、呉王 夫差を虜(とりこ)にした。夫差は、西施のために八景を築き、その中でともに遊んだ。それぞれの風景の中には、所々に、席がもうけられ、優雅な宴(うたげ)がもよおされた。夏には、西施とともに船を浮かべ、西施が水浴すると、呉王 夫差は、その美しい肢体に見入った。こうして、夫差は悦楽の世界にひたり、政治も軍事も、そして民さえ忘れてしまい、傾国が始まったのである。
越の策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。
その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
李白の西施の詩句表。
65巻02-06楽府烏棲曲 |
吳王宮里醉西施。 |
195巻五 28子夜吳歌 ( 一作子夜四時歌 ) 夏歌 |
鏡湖三百里。 菡萏發荷花。 五月西施采。 人看隘若耶。 回舟不待月。 歸去越王家。 |
210卷六5玉壺吟 |
世人不識東方朔。 大隱金門是謫仙。 西施宜笑復宜顰。 丑女效之徒累身。 君王雖愛蛾眉好。 |
218卷六13鳴皋歌送岑徵君 時梁園三尺雪 |
鳳孤飛而無鄰。 (蝘)蜓嘲龍。 魚目混珍。 嫫母衣錦。 西施負薪。 若使巢由桎梏于軒冕兮。 |
546卷十六49送祝八之江東賦得浣紗石 |
西施越溪女。 明艷光云海。 未入吳王宮殿時。 |
747巻二十一25西施 |
西施越溪女。 出自苧蘿山。 |
829巻二十三03效古二首其二 |
自古有秀色。 西施與東鄰。 蛾眉不可妒。 況乃效其顰。 所以尹婕妤。 |
945巻二十四56口號吳王美人半醉 |
風動荷花水殿香。 姑蘇台上宴吳王。 西施醉舞嬌無力。 笑倚東窗白玉床。 |
15. 弟兄協律、自小学歌 漠の武帝の李夫人は李延年の妹である。李延年は音を知り歌舞を善くしたので、武帝に寵愛されていた。たまたま平陽公主が李延年に妹があると奏したので、武帝が之を召見し、その妙寵にして舞を善くするを見て寵幸し、遂に延年を協律都尉とした(『史記』「外戚世家」)。ここは「兄妹が音楽家という家庭に生まれて、小さい時から歌を学んだ」という程の意。
・協律 音楽、音楽を教える。十二律・律動・旋律・音律・楽律・調律。
16. 長生河陽 「弟兄」に対(M)して「少長」といったので、小さい時から成人になるまでそこにいた意。「河陽」は黄河の北、もとの晋の地、漠代は県名となり、今の河南省孟県の西にあたる。鍾露昇氏は「河陽」は「陽阿」の誤りと見ている。「陽阿」は今の山西省晋城県の西北に在り、この地方は舞を善くするものが多かった。『推南子』「倣真訓」に、「足陽阿の舞を既み、而して手線水の趨に会す」、曹糖の「撃篠引」に、「陽阿奇弁を奏す」等の句があり、よって「古人舞を言へは必ず陽阿を挙ぐ。河陽の陽阿の誤りに係るを証すべし」と断じた。然し「河陽」でもわかるので、しばらく一説として挙げておく。
17. 由来能舞 「由来」は元来と同じ。
18. 琵琶新曲、無待石崇 石崇(249-300)は字は季倫、晋の働海南皮の人。元康の初め、刑州の刺史に累遷し、遠使商客を刼かして巨富を得、洛陽に金谷園を築き、奢靡の遊にふけり、衛尉に拝せられたが、後趙王倫のために殺された。詩に長じ、「王明君の辞」は『文選』に見え、「其の造新の曲、哀怨の声多し。故に之を紙に叙ぶ」といっている。
19. 堕筏雑引、非閑曹植 「箜篌(くご)」とは、古代東アジアで使われた、ハープに似た撥弦楽器の名。現在は滅んでいる。一に「炊筏」ともいう。二十三絃乃至二十五絃、胸に抱いて両手でひく。「引」は「曲」と同じ。漢の武帝の時、朝鮮の霍里子高の妻麗玉が「箜篌引」を作った。一名「公無渡河」という。『釈名』に、「箜篌は師延の作る所、靡々の楽にして、後は桑間濮上の地に出づ。蓋し空国の侯の作りし所なり。云云」とあり。遂に鄭・衛の音を号して淫楽と称した。曹植(192-232)は字は子建、曹操の第三子、その作る所に「箜篌引」一篇がある。「関」は「関与」の関。或は「由る」と同じ。一に「因」に作る。
楽器。
箜篌引 曹植 魏詩<50>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1993
20. 伝改悪於楊家 「楊家」は宏の名門。漢の楊怪、字は子幼、華陰の人、官は中郎将に至り、平通侯に封ぜられた。その「孫会宗に答ふる書」に、「婦(巴は題の女なり、雅(も)と善く宏を鼓す」(『漢書』「楊慣伝」)とある。
21. 得吹策於秦女 『釈名』に「古の吹希を善くするものに、秦女弄玉・仙人粛史・漢の元帝・霊帝あり」とある。『列仙伝』によれば、「秦女は穆公の女で清史の妻である。爺史が吹斉に巧みで、よく鳳鴨を為した。秦の穆公、女弄玉を以て之に妻わせ、遂に女に吹爺を教えしめた。後に弄玉は鳳に乗り、策史は龍に乗って飛昇し去った」というのである。
22. 金星将婺女爭華 「金星」は宵の明星。錘露昇氏は、「金星は当時の女子の貼する所の「花黄」「花鈿」であるといい、陳の張正見の「艶歌行」の「金を裁して小靨を作り、麝香を散じて微黄を起す」、梁の簡文帝の詩の、「黄を約して能く月に効ひ、金を裁して巧に星を作る」を証としている。「花黄」は女子の化粧品の一つで、頬、額につける黄色いおしろい。「将」は「与」と同じ。一に「与」に作る。李白の「月下獨酌四首其一」の詩句「暫伴月將影,行樂須及春。」(暫く月と影とを伴うて,行樂、須らく春に及ぶべし。)の「将」と同じ。「婺女」は須女ともいい、別に「女宿」ともいう、星の名。須女という名の機織り娘。玄武の亀身あるいは蛇身。『史記』の「天官書」に、「婺の四星は天の少府なり。布巾の我製・嫁要を主どる」とある。
23. 麝月與姮娥兢爽 「麝月」は、三日月、普通月を示すことから、月は女性、鍾露昇氏の、「女子の双眉を指す。其の細くして彎【ひか】れる形の初月の如きを言ふなり。麝は形容の詞となす。麝香の其の香気有るに取るなり」といっているのに従う。「与」は一に「共」に作る。「嫦娥」は「姮娥」と同じ。『淮南子』「冥覧訓」の注「譬若羿請不死之藥於西王母,姮娥竊以奔月,悵然有喪,無以續之。何則?不知不死之藥所由生也。」とあり、「姮娥」は羿の妻なり。羿不死の薬を西王母に請ふ。未だ之を服するに及ばずして、姮娥盗んで之を食ひ、仙なるを得て、奔りて月中に入り、月の精と為る」とある。「爽」はさわやか。「美」とほぼ同じ。
24. 驚鸞冶袖、時飄韓掾之香 「驚鸞」は驚いてとびたつ鳳鷲。美人の軽快に舞う姿にたとえた。「冶袖」はなまめかしい袖。「韓掾」は晋の韓寿。司空操を賜わったから、韓按ともいう。韓寿のことは『晋書』「賀充伝」、『世説』「惑溺篇」及び『豪求』「韓寿窃香」の条に見えている。要約すれば、「韓寿は晋の堵陽の人、姿美わしく、賈充に辟されて司空の掾(属官)となった。さて、充の末娘賈午というものあり、これを見て喜び互いに慇懃を通じたが、折から西域の名香を天子に献じたので、天子はこれを貴び、ただ賈充と大司馬陵騫だけに分賜された。賈午は父の名香を竊んで韓寿におくった。それを知った賈午は事の世にあらわれるのを欲せず、ついに女を以て韓寿にめあわせた。
韓 壽(かん じゅ、生年不詳 - 300年)は、西晋の人物。魏の司徒韓曁の曾孫。賈謐の父。韓王信の子孫とされる。字は徳真。南陽堵陽(河南省方城県)の人。西晋恵帝の外戚。美男であり、賈充の娘である賈午が家で開かれた宴席で一目ぼれし、韓壽の元使用人の女中に取り持ってもらい密通した。賈充は武帝拝領の香を韓壽が使っていたので娘の密通を知り、結婚させた。賈充の司空掾となり、恵帝が即位すると散騎常侍・河南尹となった。元康の初に死去し、驃騎将軍を追贈された。300年4月、兄の韓保、弟の韓豫、韓鑒、韓蔚は賈皇后の廃后の際に全員誅殺された。
25. 飛燕長裾、宜結陳王之猟 「飛燕」は燕の飛ぶように身のこなしの敏捷なこと。漢の成帝の皇后趙氏は弱骨豊肌にして歌舞を善くし飛燕とよはれ、ここは驚鷲と対挙したものである。魏の張燕も身軽であったから飛燕とよばれたのが、よき証左である。「長裾」は衣服の襟から下まで。『正字通』に、「裾は襟より以下皆之を裾といふ」とあり、『説文通訓定声』には「裾は衣の前襟なり」とある。普通着物のすそを「裾」というが、ここではこれに当たらない。「陳王」は陳思主曹植。「陳王之佩」とは、曹植の「洛神の賦」に、「玉珮を解いて之に要(もちい)る」とあるのを典故としている。
26. 維非図画、入甘泉而不分 「甘泉」は宮殿の名。もと秦の離宮であったのを、漢の武帝が通天。高光・迎風の三殿を増築した(『史記』「封禅書」)。漢の楊雄に「甘泉の賦」がある。武帝の寵愛した李夫人が早く亡くなったので、武帝は憫念して肖像を画かせ甘泉宮に掲げた。
李夫人:延年妹 人名。生卒年不詳,漢中山(今河北定縣)人,漢武帝寵妃,李延年妹。容貌美麗,善於歌舞。生昌邑哀王,早卒,武帝曾作賦悼念。兄李延年は美人の妹を武帝に売り込むため、詩をつくって自ら歌ってみせた。それが有名な《絶世傾国の歌》「北方有佳人、絶世而獨立。一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得。」(北方に佳人有り、絶世にして獨立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや 、佳人は再びは得がたし。)売り込みは大成功で、李延年の妹は武帝の夫人として召され、他の兄たちも要職を得て出世した。ところで、武帝に愛されたのは李夫人だけではなかった。傾国と例えるのに相応しい美人だった李夫人の兄、李延年自身もまた絶世の美男だった。武帝は李夫人を慈しみ、男子をもうけつつ、同時に李延年をも寵愛し、夫婦のように起臥を共にしていた。李夫人は不幸にして夭折してしまい、死に瀕して容色衰えた自分の顔を武帝に見せることを頑なに拒んだと伝えられる。
27. 言異神仙、戯陽台而無別 ・「陽台」は地名で、今の湖北省漢川縣の南。宋玉の「高唐の賦」に、「昔、先王(楚の懐王)嘗て高唐に瀞び、怠りて昼寝ぬ。夢に一婦人を見る。日く、『妾は巫山の女なり。高唐の客と為る。聞く君高唐に游ぶと。願はくは枕席を薦めん』と。王因りて之を幸す。去るに辞して日く、『妾は巫山の陽、高丘の岨に在り。旦には朝雲と為り、暮には行雨と為り、朝々暮々、陽台の下にあり』と。旦朝之を視れば言の如し。故に為に廟を立て、号して朝雲といふ」とある (『文選』)。陽臺とは 男女の密会・情交のたとえ。「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」とも。《語源》楚 (ソ)の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と情交を結んだという故事。陽臺:宋玉高唐賦「朝朝暮暮,陽臺之下。」、朝は雲に、夕方は雨になると告げて姿を消
した。一段雲:宋玉『高唐賦』「昔者楚襄王與宋玉遊於雲夢之台,望高之觀,其上獨有雲氣,崪兮直上,忽兮改容,須臾之間,變化無窮。」
宋玉『高唐賦』「昔者楚襄王與宋玉遊於雲夢之台,望高之觀,其上獨有雲氣,崪兮直上,忽兮改容,須臾之間,變化無窮。王問玉曰:“此何氣也?”玉對曰:“所謂朝雲者也。”王曰:“何謂朝雲?”玉曰:“昔者先王嘗遊高唐,怠而晝寢,夢見一婦人曰:‘妾,巫山之女也。爲高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。’王因幸之。去而辭曰:‘妾在巫山之陽,高丘之阻,旦爲朝雲,暮爲行雨。朝朝暮暮,陽臺之下。’旦朝視之,如言。故爲立廟,號曰朝雲。」
李白《巻五 33搗衣篇》
瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。
有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。
摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。
明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。
瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 熒熒として 孤寢を照らす。
便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。
庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 淚を拭うて 氤氳を生ず。
明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。
292-#4 《巻五 33搗衣篇》-#4Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <292-#4> Ⅰ李白詩1585 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6473
28. 傾国傾城 一国を傾けても居ない、一城を傾けても見つからない程の美人。今日は男をして国や城を亡しても顧みない程の美人と説くけれどここでは単に美人を言う。娼妓・遊女をいうようになるのも後世の転義。また一国一城の人の耳目をそびやかす程の美人の意と見る別解も世に行わる。
29. 無對無雙 一に「無双無対」に作る。「無対」とは対偶するものがないこと。「無双」とは二人とないこと。要するに世にならびない美人のこと。
30. 天時開朗 一に「天時」に作り、また「天精」に作る。「天情」 の二字はもと南北朝の習語、「天時」「天晴」「天精」は恐らくは訛誤であろう。「天情」は天資・天性という程の意。「開朗」は「明朗」と同じ。(陶淵明の「桃花源の記」に「豁然開朗」とある。) ここはその心がうち開けて賢明なるをいったものと思われる。『晋書』「胡奮伝」に、「奮、性開朗」とあるのがその例である。
31. 逸恩彫華 俊逸の才藻(文才)あるのをいった。前の「天情開朗」と対である。鐘露昇露昇氏は「天情開朗」を、「才情映発のごとし」と説きながら、「逸恩彫華」を、「瓢逸の思想、修飾の文彩」と二つに分けて解している。対法からいって無理である。ここは「才思絢欄」と同じに見る。
32. 琉璃硯匣 「瑠璃」は梵語で青色の宝石。ここは美しい形容に用いた。「硯匣」はすずり箱。
33. 翡翠筆牀「翡翠」はかわせみ。また翠緑色をした宝石。亦美しいのにいった。「筆牀」は筆かけ。ここは筆という程の意に用いた。「牀」は元来物を安置する具で、筆牀・墨牀・印牀・琴牀などの例。