秦嘉妻答詩・飲馬長城窟行・飲馬長城窟行 【字解集】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

201727

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

 

 

  総合案内

 

 

 

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-046-#1卷182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8117

 

 

LiveDoo

rBlog

744年-集06 【字解集】 送族弟綰・送程劉二侍御・前有樽酒行・春日行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8099

 

 

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

 

 

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

《楚辞九辯》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-28 全唐詩338_25 #2寒食日出游 -#2 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8130

 

 

LiveDoo

rBlog

806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

 

 

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

 

 

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-70 灩澦 杜詩詳注(卷一九(四)一六五○)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8137

 

 

LiveDoo

rBlog

767年-集-4字解 【字解集】 a槐葉冷淘・ b上後園山・c季夏送弟韶字解 杜詩詳注Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8131

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

杜甫詩 全詩 総合案内 

 

 

 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

 

 

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

花間集訳注解説 (95)回目韋莊二十二首-4《巻二31 浣溪沙五首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8132 (02/07)

 

 

  fc2

Blog

91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

 

 

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉集-07 秦嘉妻答詩・飲馬長城窟行・飲馬長城窟行 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8133

 

 

LiveDoo

rBlog

玉集-06 同聾歌・贈婦詩三首 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8085

 

 

●薛濤の全詩

●花間集(1

●花間集(2

●花間集(3

●花間集(4

●花間集(5

 

 

●魚玄機全詩

●花間集(6

●花間集(7

●花間集(8

●花間集(9

●花間集10

 

 

 ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門)

漢詩総合サイト 07ch

 

 

杜甫全詩案内

韓愈全詩案内

李白全集

文選

古詩源

花間集案内

 

http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/

 

玉集-07 秦嘉妻答詩・飲馬長城窟行・飲馬長城窟行 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8133

 

 玉臺新詠タイトル002

 

《秦嘉妻答詩一首》1.(秦嘉の妻として、お迎えとお手紙を頂いたことに、お返しの手紙を贈る)

2.  徐淑 秦嘉の妻である。この詩は前出「秦嘉の詩」に対する答詩で、形式は“二字兮二字”というのは、二字を強調し、調子を整える楚調に近いもので、正式の五言詩ではない。

秦嘉と妻徐淑との間には、以上の詩の外に、また巻九に秦嘉の「贈婦詩」四言の一首があり、外にまた詩に添えたと思われる往復の手紙も残されている。それらを読むと、綿綿の情のつきせぬものがくみとられ、夫妻の愛情のこまやかさは人の情をそそるものがある。

3. 妾身 古代女子自己的称。

4. 不令 不善。ふだんの状態とは違うこと。特に、貴人の病気についていう。婦人病。「令」は善し、ここでは病の快方におもむくこと.令:神のお告げや、君主・役所・上位者のいいつけ。 おきて。お達し。 清らかで美しい。 よい、りっぱな、すぐれた。遊びごとのきまり。 命令する。 しむ。せしむ。使役の意をあらわすことば。させる。 仮定の意をあらわすことば。もし…あらしめたならば。 とは、南宋ナンソウから明ミン代にかけて流行した詞曲のうち、詞の短いもの。


5. 嬰疾 為疾病所困。《晉書·卷一二四·慕容雲載記》:「吾嬰疾歷年,卿等所知,願更圖之。」嬰:みどりご、めぐらす、かける。

6. 不差 「差」は「磨(さ)」又は「疹」宣同義、病のなおること。

7. 曠廢 捨てる。怠る。おろそかにする。曠廢堕情。

8. 侍覲 身のまわりの世話をしたり、ご機嫌をうかがったりすること。面会して一緒にいる。おそばに連れ立っている。

9. 情敬 情愛。敬愛。

10. 京師 みやこ。前漢(西漢)は長安。後漢(東漢)時代なので、洛陽をいう。

11. しゃべる,話す叙家常世間話をする.(1) 述べる,陳述する.(2) 順序,等級を付ける叙《旧》官吏を評定する.(3) 序( xu )と通用.叙 xubie[動]別れの語らいをする,別れのあいさつを交わす. 

12.瞻望 遠く見渡すこと。仰ぎ見て慕う。「咨嗟」はため息をつく。高貴な人のすばらしさを敬慕しつつ、ため息をついてうらやむ意味。 
13.・踴躍 踊躍。喜んで、おどり上がること。とびはねること。 
14.・佇立 しばらくの間立ち止まっていること。たたずむこと。ちょりゅう。

15. 感結 同心結の感情になること。塘上行   〔甄后〕
蒲生我池中,其葉何離離。 傍能行仁義,莫若妾自知。 
眾口鑠黃金,使君生別離。 念君去我時,獨愁常苦悲。 
想見君顏色,
感結傷心脾。 念君常苦悲,夜夜不能寐。
蒲は我が池中に生ず、其の葉何ぞ離離たる。 
傍【あまね】く能く仁義を行ふは、妾が自ら知るに若くは美し 
衆 口は黄金をも轢し、君をして生きながら別離せしむ。 
念ふ君が我を去りし時、濁り愁ひて常に苦悲せり。 
君が顔色を想見し、感結んで心脾を傷ましめり。 
君を念うて常に苦悲し、夜夜来ぬる能はず。

蒲がわたしの庭の池にはえている。その葉はなんと今の私たち夫婦のように離れ離れに立ちならんでいることでしょう。 
夫婦一緒のころは、あなたがあまねく仁徳義理儀礼の道を行なわれていた。そのことは、こんなわたしでも一番よく承知していることなのです。 
ところが「衆口金を鑠し」というようにあなたは多くの人々からあれやこれやの告げ口に迷わされ、わたしと生き別れをすることにおいやられたのです。 
あなたがわたしの所から離れていった時からあなたを思い続けているのです。それは一人さびしく、ひとり悲しく、いつも苦しんでいたのです。 
あなたの顔、姿かたちを思いうかべてみるのです。でも結局はそのことで感傷的になってしまい、心も体も傷ついてしまうのです。 
いつもあなたのことを思いだしてはいつも悲しくて苦しくてつらいのです。夜は夜とて、頭から離れずよく眠ることもできないのです。

16. 引邁 車を引き出してゆくこと。《贈婦詩三首井序其三》「肅肅僕夫征、鏘鏘揚和鈴。清晨當引邁、束帶待雞鳴。顧看空室中、髣髴想姿形。一別懷萬恨、起坐為不甯。何用敘我心、遺思致欵誠。」(婦に贈る詩の三首 井わせて序 其の三 肅肅として僕夫 征かんとし、鏘鏘として和鈴を揚ぐ。清晨 當に引き邁くべし、束帯して難鴨を待つ。空室の中を顧り看て、髣髴として姿形を想ふ。一別して萬恨を懐き、起坐して馬に寧からず。何を用てか我が心を敘せん、思を遣りて款誠を致す。

「清晨當引邁、束帶待雞鳴。」皆、夜明けまでには出立せねばならないので、身仕度をととのえ、鶏の鳴き出すのを待っている。

17. 霑【うるお】す  うるおす. 「沾」. 【霑う】うるおう. 水気を含んでしめる。ぬれる。 豊かになる。ゆとりがでる。

 

 

 

飲馬長城窟行一首  

1. (夫が国境のまもり、万里の長城のようなところの空にこたえるほどの冷たい水を飲んでいることだろう、夫を心配して詠う)

2. 【解説】「馬を長城の窟に飲【みづか】ふ行【うた】」と読んで、万里の長城で馬に水を飲ませるの意であるが、歌旨は遠方に出征している夫を思う留守居の妻の情を叙べたものである。作者については真偽両説があり、『文選』には無名氏の作にしてある。然るに『玉台新詠』では薫畠の作と明記してある。本筋は『楽府詩集』では相和歌辞怒調曲の古辞に属し、これが振作は次の陳琳を始め、晋傳玄、陸機、隋煬帝、唐太宗等多くの作家に試みられている。

因みにこの詩の形式第一句から第八句までは毎二句に押韻し、四解に分かれ、毎解、前解の二字を繰り返し、連環体の形をとっている。

 

3. 蔡邕133192)字は伯喈(ハクカイ)、陳留圉(チンリュウギョ)は河南省起県の人、孝行を以て名があり、天文・暦数・音律の学に通じ、郎中となって書を校し、熹平四年(一七五) 六経の文字を校定して碑に刻し、大学の門外に建てたことは名高い。後董卓に迫られて中郎将となり、董卓に党した故を以て獄中に死んだ。

字伯喈,留圉(今河南杞南)人,中國东汉末年名士。東漢著名才女蔡琰()之父。

4. 河辺草 「河畔草」と作るものがある。同様の句が枚乗の 「雑詩」第五首 (六八頁) にも見える。従って後世の擬作にも「河辺」「河畔」の二様がある。けれども薬畠の作としては「辺」 に従うのがよいであろう。

5. 綿綿 思いのひき続いて絶えないさま。「一二この句、行役は春を交代とするのに、期限になっても帰らぬため恩いいや増す意を含むとは『文選』の李幸江である。

6. 宿昔 以前、平生従来の意。

7. 展転 娘転反側の意、寝がえりをうつこと。鈴木博士は移転の意として、夫の移りあるいている意に解したが今はそれに従わぬ。

8. 枯桑知天風、海水知天寒 以下二句、解は軽々に分かれる。『文選』の李善注では「枯桑は枝なきも尚は天風を知り、海水は広大なるも尚は天寒を知る。君子の行役崇空風寒の恩にあらざらんや」と見、主語を枯桑、海水としている。李周翰は「知」を「豈知らんや」の反語形に解し、「枯桑枝葉無ければ天風を知らず、海水凝凍せざれは天寒を知らず、婦人家に在って夫の信息を知らざるに喩ふ」と解している。『古詩賞析』の解は「ただ独居する者のみ寂蓼況味を知るに喩ふ」とある。鈴木博士は前の「知」の主語を妻と見、後の「知」の主語を夫と見、共に妾の想像の語とする。且つ海水は沙漠の水と解し、「こちらでは桑の葉が枯れたので天ふく凧が強くなったのがわかる。あちらでは沙漠の水が凍るので天が寒くなったことがわかるだろう」とし、この句から夫の痴在を沙漠地方と解された。以上いずれの説にも安んじ得ないので、しばらく通釈のように解しておく。

 

9.  入門各自媚、誰肯相爲言 この句もまた解が多岐に分かれる。「入門」の主語と「自媚」の主語とを同じく訪問の客と見るのは李善その他共通であるが、鈴木博士はこれを「妾がよそから帰って来ても」と解される。また別に「もしわが夫が帰宅したなら人は媚びをもって迎えようが」との解もあり、或いはまた「世の柄あるものはわが家の門にはいって媚愛するに」と解くものもある。訳者は独居寂蓼の妻が訪問者の言も自分勝手のお世辞としか受けとれぬ独居の妻の偏狭さをいった句と見た。

10. 雙鯉魚 信書の事。魚は水深いところ潜んでいるところから、秘密を要する書簡を示す。魚の腹中に親書を入れた送付したことを意識させているが、実際には書簡の両端をひもで縛ったことで魚を雙鯉魚という意味である。杜甫《1492寄岑嘉州》「眼前所寄選何物,贈子雲安雙鯉魚。」(眼前 寄する所 何物をか 選ぶ、子に贈る 雲安の双鯉魚。)手近にあるものでどんな物をえらんであなたに寄せ贈ろうか、それは雲安でとれた一対の鯉である七言古詩を贈るのである。

 

呼兒烹鯉魚、中有尺素書。

子供たちを呼んで鯉を烹ようとしたら中から、例によって一尺ほどの白絹に書いた手紙が出てきた。

11. 烹鯉魚 「鯉魚」は信書のこと、魚は深く潜んでいるから秘密を要する信書のことにいう。但し実際に鯉魚の腹中に信書を入れたのではなく、外封の結びを双鯉魚の形にしたのだとは『丹鉛鋸』の所説である。従って「烹鯉魚」は封書を開いたこととなる。

12. 尺素書 1尺の絹布の意で、文字を書くのに用いたところから、短い手紙。尺書。

13. 長跪 上体を伸ばしたまま両膝を地につける敬礼の形。

14. 飱食 飲食すること。

15. 長相思 同心結を誓い合った気持ちはどんなことがあっても変わらないというほどの意。久遠の辞、行人久寿戍、書を寄せて思うところをおくる。夜着の中には「長相思」の綿をつめて、縁のかざりは「結不解」「結同心」のかがり糸にして、固く結んで解けぬ意をもたせるという女の気持ちを詠う。

李白 《長相思【寄遠】,二首之一》

日色已盡花含煙,月明欲素愁不眠。

趙瑟初停鳳凰柱,蜀琴欲奏鴛鴦弦。

此曲有意無人傳,願隨春風寄燕然。

憶君迢迢隔青天,昔日橫波目。【昔時橫波目】。

今成流淚泉。

不信妾腸斷,歸來看取明鏡前。

 (長相思,二首之一)

日色 已に盡きて 花は煙を含む,月明 素ならんと欲して愁て眠らず。

趙瑟 初めて停む鳳凰の柱,蜀琴 奏せんと欲す 鴛鴦の弦。

此曲 意有れども人の傳うる無し,願くば 春風に隨って燕然に寄せん。

君を憶えば迢迢として青天を隔ち,昔日 橫波の目。

今は流淚の泉と成る。

妾の腸斷つを信ぜざれば,歸り來って明鏡の前へ看取せよ。

漢の無名氏《古詩十九首之十八首》

客從遠方來,遺我一端綺。

相去萬餘里,故人心尚爾。

文彩雙鴛鴦,裁為合歡被。

著以長相思,緣以結不解。

以膠投漆中,誰能別離此?

客遠方より乗り、我に一端の綺を遣る。

相去ること萬餘里なるも、故人の心 尚ほ爾り。

文彩は雙鴛鴦、裁ちて合歓の被と為す。

著するに長相思を以てし、縁とるに結不解を以てす。

膠を以て漆中に投ぜば、誰か能く此を別離せん。

 

 

 

 

本筋は『楽府詩集』では相和歌辞怒調曲の古辞に属し、これが振作は次の陳琳を始め、晋傳玄、陸機、隋煬帝、唐太宗等多くの作家に試みられている。

因みにこの詩の形式第一句から第八句までは毎二句に押韻し、四解に分かれ、毎解、前解の二字を繰り返し、連環体の形をとっている。

 

 邕(さい よう、132年または133 - 192年)は、中国後漢末期の政治家・儒者・書家。字は伯喈(はくかい)。兗州陳留郡圉県の人。子は蔡琰。従弟は蔡谷。外孫は羊徽瑜(西晋の景献皇后)・羊祜。

若い頃から博学で、太傅の胡広に師事した。辞章・算術・天文を好み、音律に精通した。

孝心篤い人柄で、母が病を患ってから3年間、寒暑に関わり無く自ら看病し、母が死ぬと庵を塚の側に立てた。彼の動静は礼に適っていたため、兎が室の傍に群れ馴染み、木が繁茂した。遠近の者達はこれを不思議に思い、多くの者が往来しながら見入った。また叔父や従弟と同居し、3世代で財産を分けて暮らしたため、郷党(同胞達)からの義を高めることとなった。

桓帝の時代、蔡邕の鼓琴の腕前を聞いた中常侍らが、桓帝に報告して召し寄せようとした事があったが、蔡邕は旅程の途中で病と称して引き返し、交際を絶って古文を研究して暮らした。建寧3年(170年)、橋玄から司徒府へ招聘された。蔡邕は橋玄から甚だ敬待をうけ、やがて河平県長となった後、召されて郎中に任命され、議郎へ昇進した。

当時、儒学の経典は成立から長い年月が経っていたために正しい文章が失われ、俗世間には誤りの多い文章が流布していると見なされていた。熹平4年(175年)、蔡邕は五官中郎将の堂谿典・楊賜・馬日磾、議郎の張馴・韓説、太史令の単颺らと共に、六経の文字を校訂するよう奏上した。結果的に霊帝から詔許が下され、この作業は蔡邕の自書によって、洛陽太学門外に46枚、総字20万字に及ぶ石碑として立てられた。これは熹平石経として現在でも残石が保管されている。

熹平6年、霊帝が書画辞賦を良くする者たちを高位に就けようとすると、蔡邕は政治を執らせる事に反対して、時宜に合わせ経学に通じた文武の才を用いるように上表した。しかしこれは省みられず、光和元年(178年)に鴻都門学が置かれる事になった。同年、宦官の専横を厳しく直諌する封事を奉ったが、これが曹節に漏洩したため宦官の恨みを買ってしまい、誣告によって家属共々朔方郡へ徒刑となった。翌年大赦を受けたが、郷里で再び宦官の親族と揉め事を起こしたため、揚州へ亡命した。滞在は12年にも及んだ。

中平6年(189年)、霊帝の崩御に伴い朝廷の実権を掌握した董卓は、蔡邕の高名を聞いて招聘した。一度は病と称して断ったものの、激怒した董卓に逆らえず洛陽へ入り、祭酒に任じられた。まもなく高第に推挙されて侍御史・持書御史・尚書と僅か3[1]の間に累進した。その後、巴郡太守に転任しようとしたところを留められて侍中となり、初平元年(190年)には左中郎将を任され、献帝の長安遷都に従って高陽郷侯に封じられた。董卓は蔡邕の才学を重んじて厚く待遇したものの、独り善がりであったため彼の進言に従う事は少なかった。蔡邕はこれを恨めしく思い、また董卓の終わりの良くないことを予感し兗州に逃れようとも考えた。従弟に相談したところ「君の容貌は常人と異なり、道を行くたびに観る者が集まって来ます。これでどうして己を隠し、難を避けられましょうか」と諌められたため、計画を中止したという。

初平3年(192年)、董卓が王允によって誅殺されると、不意の事に蔡邕は慨嘆し、その顔色が変わった。それを見た王允は、蔡邕に対し「董卓は国の大賊である。君は王臣となり、憤りを同じくすべきところだ。それなのに私遇を懐かしみ大節を忘れたのか。今、天が罪を誅したというのに、かえってこれを痛ましく思うとは、まさか君も董卓と同じく逆賊ではあるまいな」と叱りつけて、即刻廷尉に収監させた。蔡邕は謝罪した上で、黥首(額にいれずみを入れる)・刖足(あしきり)の刑によって死罪を代替し、漢史の編纂を続けさせて欲しいと頼んだ。太尉の馬日磾をはじめとして士大夫の多くが王允を諌めたが、王允は「昔、武帝が司馬遷を殺さなかったばかりに、誹謗の書が世に流れる事となった。幼主の左右で佞臣に筆を執らせるべきではない。聖徳に益無く、また私がその誹謗を被る元となるだろう」と答えた[2]。その後、王允が悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、蔡邕は獄死することになった。享年61[3]。紳士諸儒は涙を流さない者が無く、また北海国の鄭玄はこの報を聞き「漢世の事、誰と共に正せばよいのだ」と慨嘆した。兗州の陳留では、皆画像を描いて蔡邕を讃頌した。

その文芸は、詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議に及び、《独断》・《勧学》・《釈誨》・《敘楽》・《女訓》・《篆芸》といった著作が知られる。他に祝文・章表・書記など、およそ104篇が世に伝えられたと『後漢書』蔡邕伝は記す。蔡邕が収集した漢史の史料は、李傕の乱によって多くが失われた。元々は東観において、盧植・馬日磾らと共に行われていたこの『漢記』の撰補は、このような戦乱と関係者の死去などのために中断されたが、建安年間に入って楊彪の手により最後の編纂が行われ、『東観漢記』として知られる事になった。

後漢末の文化人として有名な阮瑀・王粲は彼の門下生である。

 

 

 

 

170年、司徒橋玄の府にまねかれ、甚だ敬待された。郎中として東観で書物を校閲し、やがて議郎に還った。

彼は経書の文字が時を経る間に、転写などによって誤謬が生じ、後学の人を誤らせるのを恐れた。そこで馬日磾ら数人とともに霊帝に願い出て、経書の文字を正定する許可を得た。蔡邕自ら隷書でこれを書き、石工に刻ませた。183年に完成し、洛陽の太学の門前にこの石碑を立てた。これが「熹平石経」と称されるものであった。後漢になって古文経学が盛んになり、今文との比較研究が行われ、諸儒がそれぞれ異説を唱えた際、熹平石経が彼らの準拠となった。清朝末期の光緒4年以来、洛陽の故趾から、断片が相次いで出土した。石経が立てられた当時、この碑を見ようとしたり、書写しようとする儒者たちの車が、一日千乗余りにも及んだと伝えられた。

178年、蔡邕は官の網紀粛正・時世の風潮の匡正の必要を上奏したため、司徒劉郃・中常侍程曠・将作大匠陽球らに憎まれ、讒言に遭って処刑されることになった。幸いに善良な宦臣呂強が無実を訴えて赦免を請うたので、死一等を減じて家族とともに朔方郡にうつされることになった。

 

陽球は刺客数人を送り、途中で蔡邕を殺させようとしたが、彼らは蔡邕の義に感じて手を下さなかった。次いで陽球は護送役人に賄賂を渡して蔡邕を毒殺させようとすると、役人が蔡邕にこれを告げて警戒させた。翌年、大赦があって本郡に還ることになった。すると今度は五原太守王智に讒言されたため、遠く呉郡・会稽郡に難を避け、泰山郡の名族羊氏に身を寄せて十余年を経た。

 

189年、霊帝が崩御し、洛陽に入った董卓が朝廷の権力を握って司空となった。蔡邕は彼にまねかれたが、病と称して応じなかった。董卓は、来ないなら一度皆殺しにするまでだと激怒し、司空府に出頭するよう、州郡に厳命した。蔡邕が已むを得ず出向くと董卓は彼を暑く敬い、三日間に次々に昇進させ、侍中に任命した。

 

190年、董卓が遷都を強行した。蔡邕は左中郎将に任じられ、献帝に随徒して長安に赴いた。蔡邕は董卓の舵を取って暴走を食い止めようとしたが、迎えが難しかった。彼は従弟蔡谷に「兗州に逃れようと思うが遠くて到達できない。一先は山東に行って、機会を待とうと思うが、どうだろうか」と問うた。蔡谷は「君は常人と異なる風格があって、外に出ると人々が集まってきます。出立してもこれを匿しとおすことは出来ないでしょう」と答えたため、そのまま長安に留まった。

 

192年、司徒王允が呂布と謀って董卓の誅殺に成功した。その時、蔡邕は王允と同座していた。董卓の死を聞いて、蔡邕は思わず嘆声を漏らした。これは董卓の死を惜しんだのではなく、彼の暴逆を匡正できなかった自分に対するものだった。しかし王允はそう受け取らず、太尉の馬日磾をはじめとして士大夫の多くが諌めたが、ただちに逮捕して投獄した。

 

その後、王允が悔いて取り下げようとしたが間に合わず、蔡邕は哀れにも処刑された。享年61

 

彼の死を聞いた官僚・儒者たちは、涙を流して惜しんだ。

 

 

評価

蔡邕の文芸は、詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議に及び、《独断》・《勧学》・《釈誨》・《敘楽》・《女訓》・《篆芸》といった著作が知られる。他に祝文・章表・書記など、およそ104篇が世に伝えられたと『後漢書』蔡邕伝は記す。蔡邕が収集した漢史の史料は、李傕の乱によって多くが失われた。元々は東観において、盧植・馬日磾らと共に行われていたこの『漢記』の撰補は、このような戦乱と関係者の死去などのために中断されたが、建安年間に入って楊彪の手により最後の編纂が行われ、『東観漢記』として知られる事になった。

 

後漢末の文化人として有名な阮瑀・王粲は彼の門下生である。

 

 

飲馬長城窟行 陳琳

1. (夫は、役卒であり、長城工事の苦寒に堪えか建設に加わっている、夫婦の書簡のやり取りに苦しみを詠ったもの)

2. 【解説】この詩は征矢と思婦との往返の書信によって長城築造の苦を叙したのである。紀氏『考異』の説に従えば、本篇は五言・七言の雑言体であるから、本書の体例上第九巻に収むべきものを後人が誤ってここに窺入させたのであるという。

3. 陳琳(?―建安22年(217年))字は孔嘩(持し)、広陵(江蘇)の人、建安七子の一人。字は孔璋。揚州広陵郡の出身。はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。曹操は、この檄文を読み「ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだわし自身も怒り心頭に発する」と評している。

鄴城が陥落し、曹操の前に引き立てられた際、陳琳は曹操にこの檄文を読まされた。その内容は曹操のみならず、その父や祖父までをも痛烈に批判するものだったが、曹操はこの檄文を誉めた上で「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねた。陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけにはいきませぬ」と答えたため、曹操から許されたという逸話がある。

その後は曹操に仕え、建安22年(217年)に疫病に罹って病死した。曹丕は彼のことを「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。

唐の呉融は「陳琳墓」なる詩を作り(全唐詩巻685)、「筆先をほしいままにし自分の利益を得たが、あの世でどの面を提げて袁公にまみえるのか」と、その変節を非難している。

4. 水寒傷馬骨 水が冷たすぎて飲んだ馬の骨、肉がひえによってからだをきずつけてしまうほどである。夫が赴任地が過酷であるという事の表現の句である。

5. 太原卒 大原から来た兵卒、太原は山西省。

6. 官作 お上の工事。府兵、徴兵されてこの工事にあたる。

7. 自有程 工程既に定まって変更できぬこと。

8. 挙築 杵をあげて土をつきかためること、築城工事。

9. 諧汝聲 他人とかけ声をそろえて労役に従うこと。

10. 格闘 「格」は力を較べ争う、「闘」は争い戦う。たがいに組み付いてたたかうこと。くみうち。とっくみあい。

11. 怫鬱 気がふさいで、むかむかする。憂恚的樣子。《楚辭·東方朔·七諫·沉江》:「顧地以貪名兮,心怫鬱而傷。」(地を顧ずして以て名を貪じ,心 怫鬱として傷す。)《文選·曹操·苦寒行》:「我心何怫鬱,思欲一東歸。」(我が心 何ぞ怫鬱たる,一たび東歸せんと思んと欲す。)

 

12. 内舎 閨房、妻の部屋。

13. 便嫁 便宜を得て嫁ぐこと。「便ち嫁して」と読めば、すぐさま嫁入る意となる。

14. 新姑嫜 新たに嫁すべき家の父母、「姑」ほしゅうとめ、「樟」は侍にも作り、しゆうと、しゆうとめに通用。

15. 故夫子 前夫の子、すなわち役卒自身の子、再婚を仮定していう。この句「散(摘)の夫子」と読んで、役夫自らを指すという解もあるが、今従わぬ。

 

16. 禍難 3年間という取り決めで、出征したけれど、多くはこの地で果てるものが多く、故郷に帰る予定が立たないため常軌を逸するものが多かった。

17. 稽留他家子 「他家の子に稽留せらる」と読んで、「他家子」を長城の吏を指し、この句までを妻の語と見る解もある。「他家子」はよそから嫁いで来た妻を指す。

18. 生男愼莫舉、生女哺用脯 再婚するものと見なしていう語であるが、同時に、男と生まれたための自らの苦役を悔恨する情を述べた。

19. 哺 育てる。

20. 脯 ほじし、乾肉。

21. 撑拄 ささえる。死骸が重なって互いに支えあうこと。

22. 結髪 かみをゆう、男女ともこどものときはつのがみ、さげがみである、成人すればかみ々ゆう、男は二十歳にして冠し、女は十五にして結ぶ。蘇武詩「結髪爲夫婦、恩愛兩不疑。」と、成人になったばかりで夫婦になる。

-026 留別妻一首-#1〈〔蘇武〕〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7941

23. 慊慊 「慊」にあきたる、あきたらぬと相反する二様の義がある。ここでは心満ち足りて他に求めることのない意をとった。しかしこの句は「慊慊心意關」に作る本もあり、これに従えば、心とざされてあきたらなく思う意となり前の解と反対になる。附記して一考に供する。