玉集-012 雜詩五首 【字解集】 

 

 

201753

の紀頌之5つの校注Blog

 

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745-【字解集】003 a.送岑徵君歸鳴皋山 b.. 侯十一 c.送族弟凝之滁求婚崔氏 d. 送族弟凝至宴堌單父三十里  e. 送楊山人歸嵩山 .春日遊羅敷潭 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8639

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745-【字解集】003 a.送岑徵君歸鳴皋山 b.. 侯十一 c.送族弟凝之滁求婚崔氏 d. 送族弟凝至宴堌單父三十里  e. 送楊山人歸嵩山 .春日遊羅敷潭 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8640

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

《楚辞九辯》

 

●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-73 巻八-09雨中寄孟刑部幾道聯句【案:韓愈、孟郊】#7 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8640

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806年-66 巻八-06征蜀聯句【案:韓愈、孟郊】#12 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8593

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-106 送王十六判官 杜詩詳注(卷一八(四)一五九五)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8653

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767年-集-11 【字解集】 寄狄明府博濟Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8618

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

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玉集-012 雜詩五首 曹植【字解集】  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8643

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玉集-012 雜詩五首 【字解集】  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8644

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 河南府汝州許州襄陽 地図01
大明宮正面 003

曹植 雜詩五首 【字解集】


 

雜詩五首 曹植

1. 【雜詩五首 曹植の解説】曹植建の《文選》及び《古詩源》六首、七哀詩、閨詩、情詩と《玉臺新詠》の雜詩五首とは出入りがあるもすべてある。玉臺の編者は、諸本の中から、雜詩五首を選出したのであろう。

曹植(そうち、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。魏の皇族。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。生母は卞氏。異母兄は曹昂・曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔琰の姪(兄の娘))。子は曹苗(早世)・曹志・女子2人。

曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、建安19年(214年)には臨葘侯(同)に転封された。詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。同時に曹丕との後継争いが勃発した。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった。

建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。

 

雜詩五首 其一 #1

2.(漢末の乱での不安な世上の中、旅に出ている浮気男の妻に代わって閨を守る哀情を詠う。)

3.【其一の解説】この詩の題を、「玉台新詠」では「雑詩」とする。又「楽府詩集」では、晋楽奏する所として、十二句を増して、七解にわけている。「文選」では「七哀詩」として、哀傷の類に列する。岩波文庫「玉台新詠集」では上203ページ。事実、曹植には他に「七哀」と名づける詩があったことは、「文選」の飽照「苦熱行」及び劉轢「擬古詩」の李善注に見える。文選には王仲宣、張孟陽、にそれぞれ「七哀」の詩がある。この詩は、漢の無名氏「古詩」十九首に基づいている。

4. 明月 秋八月の月。仲秋の名月。
「古詩十九首」之第七首
明月皎夜光,促織鳴東壁。
玉衡指孟冬,眾星何歷歷。
白露沾野草,時節忽復易。
秋蟬鳴樹間,玄鳥逝安適。
古詩十九首之七 (7) 漢詩<94>Ⅱ李白に影響を与えた詩526 漢文委員会 紀頌之の漢詩ブログ1395
第十七首
孟冬寒氣至,北風何慘栗。
愁多知夜長,仰觀眾星列。
三五明月滿,四五蟾兔缺。
客從遠方來,遺我一書劄。
上言長相思,下言久離別。
置書懷袖中,三
字不滅。
一心抱區區,懼君不識察。
古詩十九首之十七 漢の無名氏 (17) 漢詩<104>Ⅱ李白に影響を与えた詩539 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1434 
「古詩十九首」之第十九首
明月何皎皎,照我羅床緯。
憂愁不能寐,攬衣起徘徊。
客行雖雲樂,不如早旋歸。
獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。
古詩十九首之十九 漢の無名氏(19) 漢詩<107>Ⅱ李白に影響を与えた詩541 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1440
5.
 流光正排掴 移りゆく月光をいう。仲秋の月の移動が早く、明るさも一番明るいので光が流れる如くであるという。
6. 徘徊 高殿や庭木の影を追うこと。仲秋は月が昇り沈むまでもっともく長、最も高く上がる。それらと悲しさ、寂しさを示す。

7. 愁思婦 世上混乱の中、ずいぶん長く帰ってこない留守居の寡婦の愁いばかりの婦人を表す新語である。

8. 悲歎有餘哀 これ以上ない悲しみ、歎き、溢れかえるほどのつきぬ哀愁をかこつもの。

9. 借問 ちょっとたずねて見る。こころみに問う。
10. 宕子 旅人。宕は久しく他郷をさすらうこと。《文選》では、客子とある。


11.
 君 客子たる夫のこと。
12. 
 踰十年、踰:超過する。太平道などの教団の指導した農民反乱。鎮圧後、動乱は全国に広がり、三国時代へと移る。 後漢の末期の184年に起こった大農民反乱。生活に苦しむ農民を扇動したのは、張角の唱えた太平道という新興宗教であった。張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉」をスローガンにして甲子の年(西暦184年)の3月5日に反乱を起こした。蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であった。彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので黄巾の乱という。

 河南省を中心とした反乱は河北省に及んだ。後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえていた党人(宦官と対立していた官僚たち)を許し、党人と農民反乱が結束することを防いだ上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定した。その後も散発的な反乱が続いて中央政府の威信はなくなり、各地の有力豪族が自立して、動乱の時代に入る契機となった。

雜詩五首 其一 #2

2.(漢末の乱での不安な世上の中、旅に出ている浮気男の妻に代わって閨を守る哀情を詠う。)

13. 君若持路塵、妾若濁水泥 黄節はいう、塵も泥も、本来同一の物。夫婦一体にたとえるものであるが、チリはどこへでも行ける。女の私は、この泥水の中でじっときれいになるのを待つだけなのだという意味である。

14. 勢 形状をいう。
15. 譜 希望が達せられる。

16. 西南風 西南の方向は坤にあたり、坤は妻の道なる故かくいうとか、一般的な女のことを謂うのであるから、妻の道、女の道、「操」を守ることを強調するのである。

17. 長逝 遠いみちのりを行く。
18. 艮 まことに、果して。「もし」でもよい。

19. 賤妾 《樂府詩集》に「妾心」につくる。

雜詩五首 其二 (文選:其三)#1

20. (漢末の乱での不安な世上の中、旅に出ている留守居の妻が機を織りつつ南方従軍の夫を心配して待ちわびる哀情を詠う。)

21. 西北 天の川が北から西へ移動した。ここは時間の経過を示す。魏文帝《燕歌行》「明月皎皎照我床,星漢西流夜未央。」折からの仲秋の名月はこうこうと私の閨の床を照らしています。天の川は西の空に流れて薄くなりましたがまだ夜明けになるには早すぎます。
・星漢 天の川。天河・銀河・経河・銀漢・雲漢・星漢・天津・漢津等はみなその異名である。杜甫『天河』。夏に明るくなっていた天の川も秋になると光度が落ちて來るので川を渡ることが出来ないとされるもの。
22. 織婦 ・牽牛織女 牽牛星、織女星、この二星は七月七日の夕、一年に一回逢い会するといわれる。織女星が烏鵠のわたした橋をわたって牽牛星の方へゆくというもの。 また、「漢武内伝」に見える漢の武帝劉徹(紀元前157-87)と西王母の逢瀬を指す。承華殿に閑居していた武帝の前に、青い鳥の化身の美女が現われ、妾は墉宮の王子登というもの、七月七日に道教西の理想郷の仙女西王母が来ることをお伝えにきましたと言った。武帝は延霊台に登って待ったところ、果して七夕の夜に西王母がやって来たという。
・織婦 曹丕が足かけ3年にわたり呉を攻めたことを比する。。
《古詩十九首 第五首第五首』「西北有高樓,上與浮雲齊。交疏結綺窗,阿閣三重階。上有弦歌聲,音響一何悲。誰能為此曲?無乃杞梁妻!清商隨風發,中曲正徘徊。一彈再三嘆,慷慨有餘哀。不惜歌者苦,但傷知音希,願為雙鴻鵠,奮翅起高飛。 ○綺縞 綺はあや絹、縞は自絹。ともに精巧な絹織物のこと。
23. 績紛 盛んにあやなすさま。

23. 明晨 朝早く。
24. 機杼 はたのひのこと。
25. 昃 かたむく。日が西にかたむく。 「仄」; 日が西にかたむいた時刻。昼過ぎ。午後二時ごろ。 【昃く】かたむく. 日が西方に沈みかける。 「仄く」とも書く。 【旰昃】かんしょく. 日暮れ。 日暮れまで政務に励むこと。 

26. 文 あや模様。
27. 嘯 いぶき、いきづき。
28. 九春 季善注に従えば、春季は早春、盛春、晩春の一年三春であり、九春は三年になる。春三か月九十日、を三年九春とするのも同じ。

29. 噭噭 悲哀のこもる鳴声。

30. 流景 文脈からは呉の方へ流れる星に願いを掛けることを云う。日光や月光ならばどこにも同じように照らすのであり「南」と方向を示す語がおかしくなるので、初句の銀河、織婦を出していることから星の動きを云うものである。特にこの詩は曹丕が3年物長期にわたって出兵をしていることへ批判的な気持ちをあらわしている。したがって太陽や月では意味をなさない。

雜詩五首 其三(文選:情詩) #1

31. (漢末の乱での不安な世上の中、旅に出て帰ってこない夫の気持ちで留守居の閨を守る妻の哀情を詠う。)

32. 【解説】「文選」には「情詩」とある。この詩は、故郷を遙か離れて旅に出ている者が、その望郷の思い、また留守居の妻の行役中の夫に対する思慕の情をベースにおいて、兄文帝に対しての忠誠を誓ったのを詠ったものである。
この詩の制作時期は建安中の作とし、223年黄初四年の作である。

33. ・陰 かげ。雲。
34. ・翳 かげらす、おおう。
35. ・陽景 太陽の光。

36. ・眇眇 はるかなさま。
37. ・徭役 遠距離の公務をおびた旅行。従軍の旅。

38. ・嚴霜結 きびしい霜柱がたつことで、時節からいえば、晩秋から冬にかけての間がそれに当る。「楚辞」九弁(宋玉の作)には「秋既先戒以白露兮,冬又申之以嚴霜。」秋既に先ず戒めるに白露を以ってし、冬又之に申ぬるに嚴霜を以ってす」と見える。九弁に従えば、その時期は冬のことである。『為焦仲卿妻作』「今日大風寒,寒風摧樹木,嚴霜結庭蘭。」でも冬に使う。ここは夏の終わりから冬になって行く時間の経過をあらわす。
しかし「礼記」月令には「是の月(季秋とはすなわち陰暦の九月をさす)や、霜始めて降り」と見える。その時期を、月令に従って陰暦の九月のことと考えられる。ただ、この時の戦いは魏は220年までに曹操が北方を制覇しており、この前年より呉にたいする挑発威嚇の出兵をしている時期であることから真冬の事となる。。
39. ・白露晞 白い露がかわいて霜となる。と、晞はかわく。『詩経、國風』秦風、蒹葭「蒹葭萋萋、白露未晞。所謂伊人、在水之畔」(蒹葭は萋萋たり、白露未だ晞かず、所謂伊の人、水の畔に在り。)と見え、部箋に「未だ蹄かずとは、未だ霜と為らざるなり」というに基づくもの。

40. ・黍離 兄の死を悲しみで作ったものと解するという説もあることからこの詩に述べたとととらえることができる。。「詩経」王風の篇名。毛序によれば、「周の大夫行役して宗周に至り、故の宗廟・宮室を過ぐるに、尽く未黍と為れり。周室の転覆を悼み、彷徨して去くに忍びずして、この詩を作れり。」毛詩序:「《黍離》,閔宗周也。周大夫行役,至于宗周,過故宗廟宮室,盡為禾黍。閔周室之顛覆,彷徨不忍去而作是詩也。」という。
41. ・式微 即位して間もない文帝に自己の忠節のかわらぬことを訴えたものと見ている。曹植が「歌式微」といったのは、この式微の詩が「胡不帰」の三字を含むが故に、家で帰りを待つ者が歌う詩として適当なものであるからである。「詩経」邶風の篇名。毛序では、「黎侯が故国より追われ、衛の国に寓居していた時、彼の臣が帰国をすすめたもの」、
毛詩序:「《式微》,黎侯寓于衞,其臣勸以歸也。」という。その詩に「式くて微【おとろ】え、式くて微う、胡んぞ帰らざる。」「式微式微,胡不歸,微君之故,胡為乎中露。式微式微,胡不歸,微君之躬,胡為乎泥中。」という一節があるに基づくもの。。

42. ・慷慨【こうがい】1 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。「社会の矛盾を―する」「悲憤―」2 意気が盛んなこと。・促管 笛の音が急なこと。
43. ・嘉賓 このましいお客。
44. ・悽愴 いたみかなしむ。
45. 
傷悲 心のうちはやぶれんばかりである

雜詩五首 其四 (文選:閨情詩) 
46. (漢末の乱での不安な世上の中、旅に出て帰ってこない夫の気持ちで留守居の閨を守る妻の哀情を詠う。)

47. 雜詩 「玉台新詠」に従って、「雑詩」其四とする。この節の詩題を、各本は「閏情」とする。なおこの詩の制作時期は明瞭でないが、229年太和三年、東阿王に国替えになった後、明帝を懐しんで作ったとされる。

参考(1) 曹操の死と漢王朝の滅亡では、220年頃~223年にかけての情勢の概略をのべる。

参考(2) 夷陵の戦いと劉備の死、陸遜が劉備を追撃し、続けて益州まで攻め入っていれば蜀はこの時点で滅亡していた

参考(3) 曹丕の参戦で224~230年の情勢をのべるのでこの詩の背景として参考にされたい。

48. 撹衣 衣の裾を手にとって。「古詩十九首」之十九首
明月何皎皎,照我羅床緯。
憂愁不能寐,攬衣起徘徊。
客行雖雲樂,不如早旋歸。
獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。に基づいて作る。。
49. 中閨 閨中におなじ。ねやの中。
50. 逍遙 さまよいあるく。
曹丕『芙蓉池作』 
乗輦夜行游、逍遥歩西園。双渠相漑灌、嘉木繞通川。
卑枝払羽蓋、脩条摩蒼天。驚風扶輪轂、飛鳥翔我前。
丹霞挟名月、華星出雲間。上天垂光彩、五色一何鮮。
寿命非松喬、誰能得神仙。遨游快心意、保己終百年。
51. 兩楹 堂の入り口の二本の柱。この句で女性の自慰行為とも読める。不遇のものは性描写することで反骨を表すことが多い。

52. 閒房 しずかな部屋。正室の傍にある部屋を房という。
53. 被 おおう。
54. 階庭 庭へおりる階段と中庭のこと。

55. 空室/空穴 開いた門戸をさす。うつろな部屋。

 

 

参考(1)
■曹操の死と漢王朝の滅亡
220年1月23日。洛陽において魏王曹操が逝去する。享年六十六歳であった。
偉大なる覇王の跡を継いだ曹丕は、そつなく国内をまとめあげ、曹操の死による動揺は蜀と呉の陣営が期待したほどにはなかった。
220年10月、曹杢は漢王朝より禅譲を受け、皇帝となる。かくして前漢も合わせれば四百年にわたって続いた漢王朝は滅亡し、代わって魏王朝が成立するのであった。
221年4月、曹丕の魏皇帝即位に対抗して、劉備もまた漢王朝の皇帝として即位する。後に蜀と呼ばれる国家の成立であるが、彼としては劉備が漢王朝の血を引くと自称しており、あくまで漢王朝の正当なる後継者としての皇帝即位であったが、一般的に表現の混乱を避けるため以後「蜀」と表記する。
皇帝に即位した劉備は、荊州奪回を決意する。これは、彼の配下や兵士たちには荊州出身者が多く含まれており、彼らのためにも荊州を奪還せねば人心をまとめあげることが難しかったのである。ただ、義弟である関羽の復仇に意固地になったため過去の劉備とまったく異なるほどの冷静さを欠いてたたかっている。ただこれは劉備の個人的な感情に走るほど無理な戦争であったということなのだ。つまり、蜀から呉を攻め落とせるだけの力量がなかったということであろう。

参考(2)
■夷陵の戦いと劉備の死
221年7月。劉備は蜀の軍勢の大半を動員して、孫権陣営に宣戦布告する。
開戦当初、劉備の勢いは凄まじく、いっきに長江を下っていった。呉の総司令官である陸遜は、蜀軍の勢いを受け流すかのように防衛線を五百里も後退していく。
222年2月、陸遜は夷陵に最終防衛線を張り、ここを堅守して持久戦の態勢に入るのであった。
夷陵における劉備と陸遜の対陣は三カ月にも及び、蜀軍も疲労と倦怠の色が濃くなっていく。
222年5月、陸遜は蜀軍の士気が緩み切ったのを見計らい総攻撃をかける。火攻と夜襲による陸遜の奇襲は見事に成功し、蜀軍は潰滅する。劉備は身一つで白帝城に逃げ込んだものの、蜀軍は多くの将が討たれ、兵員の損害は甚大なるものとなった。ほぼ全滅といえる敗戦である。
このまま陸遜が劉備を追撃し、続けて益州まで攻め入っていれば蜀はこの時点で滅亡していたかもしれない。呉も一時的には蜀を攻め落とせても長期的には伸びすぎた戦力として魏の進行に敗れるとした。蜀は呉の冷静さに救われたということだ。

参考(3)
■曹丕の参戦
曹丕が蜀と呉の戦いの隙を突いて、大軍を南下させようとしていたのである。この報を受けるまでもなく、陸遜は追撃をしなかったのである。
223年、曹丕は濡須口において呉軍と開戦する。しかし呉と蜀の戦いは曹丕の予想よりも早く決着し、防備を整備見直していた呉軍の前に撃退されることになる。結果としては、蜀を救うだけの徒労な遠征となった。ここで三権の力関係がバランスを取れた段階に入ったということだ。
223年4月、劉備は成都に戻ることなく白帝城にて失意のまま没する。そして跡を継いだ劉禅が蜀の皇帝に即位することになった。これを丞相である諸葛亮が補佐するという体制がとられるが、主力軍の大半を失ったうえに、夷陵の敗戦と劉備の死の動揺は大きく、早くも国内では反乱が頻発する。建国間もない蜀は、滅亡の道を啜家と思われるほどの同様であったのだ。
ともあれ漢王朝もまた滅び、後漢末の動乱を飾った最後の群雄である曹操と劉備が没したのである。時代は後漢末から三国時代へと、名実ともに移り変わっていく。

雜詩五首 其四 (文選:閨情詩) 
56. (漢末の乱での不安な世上の中、旅に出て帰ってこない夫の気持ちで留守居の閨を守る妻の哀情を詠う。)

57. 春思 万物が冬の間は我慢をしている「春女陽気に感じて男を思う。」という。曹植の春思はこれにもとづくのであろう。。「天地陰陽、不革而成。」『易経、革』「上六、君子豹変、小人革面」(上六、君子は豹変し、小人は面を革む。)四季の移り変わりのように自然と直ってゆくことを言う。年が改まり、去年の秋冬の風が初春の景色へと変わってゆくように、何かが新しく、正しく改革されてゆく。それは下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わられてゆくからである。易では下の陽気が上昇し、陰気と入れ替わってゆくことで春が来る。初春は泰(上が坤で下が乾の卦)で表し、地面の上は去年から残る秋冬の風の陰気が「緒風」として残っているが、地面には既に陽気が登ってきて、春が来たのが感じられる。ということで万物が性に目覚める季節の思い。
58. 憂戚 憂も戚も、ともにうれいの意。
59. 与我幷 私と一つになる。私とともに存在してはなれない。この語は男女の合体を意味する。

60. 佳人 表面的には夫をさす
61. 単煢 孤独のさま。

62. 蘭芝 香草で、才徳の象徴。「曹集」では芝蘭に作るが「玉台新詠」に従う。

 

参考(4) 
蜀の復興と諸葛亮の手腕
223
、劉備に代わって劉禅が皇帝に即位した蜀は、滅亡の危機に瀕していた。夷陵の敗北は蜀の軍事と経済に深刻な打撃を与え、劉備の死は蜀の国威を低下させたのである。223年、成都にはど近い漢嘉の太守黄元が苛に叛旗を翻したのを皮切りに、また同年、益州軍の確聞、脾脚部太守の朱襲、越亮の異民族の王高定と、立て続けに反乱が勃発する。
ここで獅子奮迅の働きをするのが蜀の丞相諸葛亮である。彼は屯田政策、塩・鉄の専売制、蜀錦などの殖産興業の奨励といった数々の経済政策を行ない、蜀の経済を立て直す。一方、呉に部芝を派遣し外交関係の修復にも努める。呉は款の曹丕が南下していたこともあり、蜀からの講和と同盟の再締結の申し出を受け入れるのであった。

この時期の諸葛亮の大いなる働きによって、一時は滅亡寸前であった蜀は内政外交の両面で立ち直っていく。
225、蜀を再建した諸葛亮は、ようやく南方の反乱の鎮定に乗り出し、これらをすべて治めていく。諸葛亮はここでも優れた手腕を発揮し、この南方の異民族たちを後方の重要な生産力として確保することに成功したのであった。

諸葛亮の北伐227三月、やっと国内を安定させた諸葛亮は、念願の北伐に乗り出す。「出師の表」で漢の復興を高らかに宣言した彼は、漢中を足がかりとして北への進撃を開始する。諸葛亮にとってこの北伐は、充分に勝算のある作戦であった。というのも、予め上庸の孟達と内応の約束を取り付けてあり、また前年には魂帝の曹杢が崩御しており、その混乱も期待できたからである。しかし、内応した孟達は魏の司馬懿の速攻に漬されてしまう。蜀本軍も、迎撃に出た曹真を相手に善戦するが、228年初頭の街事の戦いで蜀の守将馬謀が魏の名将張部に大敗を喫し、戦線全体が崩壊して撤退を余儀なくされる。

同年十一月、諸葛亮は再び北伐の兵を起こすが、魏の司令官曹真はこれを予期していた。要衝である陳倉には城が築かれ、守将である那昭がこれをよく守り、諸葛亮は手も足も出ず撤退する。

229、諸葛亮は三度目の北伐を行ない武都、陰平を併竜北伐初の戦果を挙げる。同年九月、孫権が呉において帝位を宣言。名目上、これ以降「三国時代」となる。

231、請書亮は四度目の北伐を行なう。このとき初めて総司令官として諸葛亮に対したのが、病没した曹真の後を受けた司馬鼓であった。諸葛亮と司馬敦は、郡山において開戦する。これは萄軍有利に終わるが、補給が続かず撤退を余儀なくされる。だが諸葛亮は、この撤退戦において第一次北伐で煮え湯を飲まされた、張部を討ち取ることに成功する。
このように、諸葛亮の北伐は戦果は挙げるものの、その目的である魏の打倒を果たすにははど遠いというのが実情であった。だが、劉備の死後、崩壊するかと思われた蜀を、諸葛亮は見事に立て直したのは事実である。なおかつ彼は、再三にわたる北伐で、覇に歴史の主導権を握らせる。呉も何度か蜀の北伐に呼応して魏に攻め入っていたが、やはりこの時代の主役は蜀であり、諸葛亮であった。

63. 旧愛 昔の愛人。
64. 豈  反語で、どうして……であろうやの意。反語にとらないで推量的な疑問副詞ととる見方もある。
65. 平生 かつての時間。若い頃。「論語」憲間に「久要(昔の約束)平生の言を忘れずんは」と見え、孔安国の注によると平生とは少時と同義。

66. 女蘿 ヒメカズラ。松は男性の象徴。

67. 齎身 身をつつしむこと。貞操を守ること。
68. 奉衿帯 身をつつしみ婦道にはげめとの《衿帯の教え》を遵奉する。衿帶とは1 着物の襟と帯。2 《山が襟のように、川が帯のように取り巻く意から》山や川に囲まれて、敵の攻撃を受けにくい要害の地。これらを踏まえて嫁いだ女性の操を守る道徳的な教えを云う。
69. 不墮傾 上述の嫁入り時の母の教を固く守り、道をあやまらないこと。嫁ぎ先の義理の母は絶対であった。32回の連載であった
『為焦仲卿妻作』を参考

為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩583 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1566
70.
 倘終顧盻恩 万が一にも私を忘れず、かつての愛情をかけて下さるならばの意。倘は仮定の言葉で、もし、万一にもの意。銘はまっとうする、最後までつづける。顧盻はかえり見る、思いやる。恩は夫婦の愛情をいう。
71. 副 つまびらかにするという意味を含んでささえること。
72. 中情 心中。この場合の中はあたるという意味。

73. (南国にはエキゾチックな美人が多いいが、むなしく世に埋もれているのがほとんどだ、装置の不遇を比喩したもの)

74. 其五の詩は、南国にすむ美人の空しく世に埋もれるのに託して、曹植自身の不遇を訴えたものと見られる。黄節は異母弟の曹彪を傷んで作ったという。曹彪は哉初三年呉王に封ぜられ、同五年に寿春県(安徽省寿県)に改め封ぜられ、同七年白馬(河南省滑県の東)にうつし封ぜられた。曹彪は七年までは南方の安徴の地にいたわけだ。

75. 曹植
192年(初平3年) - 232年(太和6年)11月28日)は、中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。
沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男として生まれる。生母の卞氏は倡家(歌姫)の出身であるが、『世説新語』賢媛篇に名を列ねるほどの賢婦であった。同母兄に文帝曹丕・任城威王曹彰。同母弟に蕭懐王曹熊。子は曹苗(早世)・曹志。他に2人の娘がいた。
異母兄の曹昂と曹鑠が早世すると、197年(建安2年)頃[3]に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となる。幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。211年(建安16年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、214年、臨葘侯(同)に転封される。

76. 南国 南方の国。越の国には美人が多い
77. 佳人 美しい人。美しい女性。美人。かじんはくめい【佳人薄命】《蘇軾「薄命佳人詩」から》美人は、病弱で早死にしたり、運命にもてあそばれて、不幸になったりすることが多いということ。曹植自身をたとえたもの、曹彪にたとえるとの説もある。
78. 容華 容貌の華やかなこと。

79. 瀟湘沚 瀟、湘ともに洞庭湖に流入する川の名。瀟水は湖南省零陵県の西北で湘水と合流して洞庭湖にそそぐ。沚はみぎわ。
80. 朝游江北岸,夕宿瀟湘沚 任地を転転して居処の定まらないことをたとえたもの。楚辞 九歌 湘夫人 「朝騁騖兮江皋,夕弭節兮北渚。 鳥次兮屋上,水周兮堂下。(朝に航皐を騁驁て、夕に節を北渚に弭む)と見える。なお「夕宿」の句を、「文選」は「日夕宿湘沚、日夕れば湘の沚に宿す」に作るが、「古詩源」「曹集」によった。 

81. 薄 けいべつする。
82. 発皓歯 白い歯をみせて、歌をうたうこと。
「楚辞」大招、宋玉「笛賦」などの歌唱の場面に「皓歯」を用いた例が見える。皓歯の用語解説 - 白くきれいな歯。多く「明眸(めいぼう)皓歯」の形で、美人の形容に用いる。

83. 俯仰 ふしあおぐ意から時間の経過の極めてはやいことに用いた。「荘子」在宥篇に「其疾俛仰之間而再撫四海之外」(その疾きこと、俛仰の間にして再び四海の外に撫む。)と見える。
84. 栄耀 はなのかがやき、美人の桃李のような容貌についていう。