-巻二40 王昭君辭一首并序-#1石崇

 

 

 

20171014

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

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杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

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杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

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杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

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 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

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-巻二40 王昭君辭一首并序-#1石崇 Ⅴ漢詩・六朝詩・文選・古詩源・唐宋詩詞漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 9206

(王昭君の辭 并びに序)

王明君はもと王昭君といったが、晋の文帝のいみなの昭と同じで、さしさわりがあるので、王明君と改めたのである。

さて漢の元帝の時、匈奴は勢い盛んで、漠朝から妻をめとりたいと申し込んできた。

元帝は奥御殿に仕える良家の女明君をこれにあわすこととした。

 

玉臺新詠 73

王昭君辭一首并序   -#1

-巻二40

 石崇

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ9213

王昭君01
 

王昭君辭并序

(王昭君の辭 并びに序)

1

王明君者,本為王昭君,以觸文帝諱,故改。

王明君はもと王昭君といったが、晋の文帝のいみなの昭と同じで、さしさわりがあるので、王明君と改めたのである。

匈奴盛請婚於漢,

さて漢の元帝の時、匈奴は勢い盛んで、漠朝から妻をめとりたいと申し込んできた。

元帝詔以後宮良家女子明君配焉。

元帝は奥御殿に仕える良家の女明君をこれにあわすこととした。

2

昔公主嫁烏孫,令琵琶馬上作樂,以慰其道路之思,其送明君亦必也。

其新造之曲,多哀聲,故叙之於紙云爾。

王明君は 本と王昭君なるも、文帝の諱に觸るるを以て、故に改む。

匈奴は盛にして 婚を漢に請ふ。

元帝は 詔して 後宮の良家の子なる明君を以て 焉に配す。

 

昔 公主の烏孫に嫁ぎしとき、琵琶もて馬上に樂を作し、以て其の道路の思を慰めしむ。

其の明君を選るにも亦必ず爾せしならん。

其の新曲を造るに 哀怨の聲 多し。

故に之を紙に鼓すと云爾【しかいう】。


 

我本漢家子  將適單于庭。

辭决未及終  前驅已抗旌。

僕御涕流離  轅馬為悲嗚。

#4

哀鬱傷五  泣淚霑珠纓。

行行日已遠  乃造匈奴城。

延我於穹廬  加我閼氏名。

殊類非所安  雖貴非所榮。

5

父子見凌辱  對之慙且驚。

殺身良未易  默默以苟生。

苟生亦何聊  積思常憤盈。

願假飛鴻翼  棄之以遐征。

6

飛鴻不我顧  佇立以屏營。

昔為匣中玉  今為糞上英。

朝華不足歡  甘為秋草并。

傳語後世人  遠嫁難為情。

 

王昭君03
 

《王昭君辭一首并序》現代語訳と訳註解説
(
本文)
 
王昭君辭并序

1

王明君者,本為王昭君,以觸文帝諱,故改。

匈奴盛請婚於漢,元帝詔以後宮良家女子明君配焉。

 

(下し文)
(王昭君の辭 并びに序)

王明君は 本と王昭君なるも、文帝の諱に觸るるを以て、故に改む。

匈奴は盛にして 婚を漢に請ふ。

元帝は 詔して 後宮の良家の子なる明君を以て 焉に配す。

 

(現代語訳)

(王昭君の辭 并びに序)

王明君はもと王昭君といったが、晋の文帝のいみなの昭と同じで、さしさわりがあるので、王明君と改めたのである。

さて漢の元帝の時、匈奴は勢い盛んで、漠朝から妻をめとりたいと申し込んできた。

元帝は奥御殿に仕える良家の女明君をこれにあわすこととした。

 

(訳注)

王昭君辭并序

1. 晋の石崇(二四九土一〇〇)字は季倫(彗)、潮海(相川)南皮(誓)(河北省)の人、航海の商客によって巨富を得、洛陽の西北に金谷園の別荘を営み家督な生活をしたが、その知遇を得た貿謎(笥)の課せられるに及んで免官となった。崇には緑珠という美妓があったが、これを題王倫の寵臣孫秀に与えなかったために怨みを買って殺された。詩を善くし、この「王明君辞」は最も著名である。詩の題意については、次の自序に明らかである。

2. 

李白 王昭君を詠う 三首 五言絶句  王昭君

             雑言古詩  王昭君

             雑言古詩  于闐採花

             関 連  王昭君ものがたり
                  王昭君 二首 白楽天

 李白の詩の中で、王昭君を題材にしたものが多く、直接これを題材にした作品も三首ある。「王昭君」といふのが二首と「于闐(ウテン)花を採る」の詩がそれである。これらの詩が出来た背景に当時の対外関係があげられる。周辺各国境付近で局地戦を常に行っている。一方、和平策も行っている。それは、最も普通なのは古来より行われた騎馬民族に対し豊かな産物や文化財を与へて懐柔するやり方と、婚姻という形をとった。この李白の時代まで、二千年近くも続いていたことであり、その中で、もっとも興味を持たれるのは、王昭君であった。

 

日本の遣唐使派遺などは大唐の文化に垂涎して行はれたのであるが、北西の勇敢な騎馬民族にはこれだけでは駄目だと、皇帝のむすめ、即ち公主またはこれに准ずるものをその酋長に賜はり、これによって懐柔するといふ漢代以来のやり方が行はれた。玄宗は即位の後、たびたびこれを行っている。懐柔策を周辺国全部とするわけにはいかないので、その時の情勢に応じて政治的に方法は違った。国民からすれば、周辺国の中では和平策を進めてほしくない国もあり、局地戦以上にはならない程度の戦いを選ぶことを好んだ。

 

 

李白がこの史実と現実からこれらの詩を作った。盛唐期、特に国政隆起時期、邊塞曲、塞下曲、楽府により、戦争は鼓舞された。李白は、王昭君を題材にした。

当時、唐人の間ではこの懐柔政策を屈辱として大なる反対があったことは李白に邊塞詩、塞下詩を作らせる後押しとなったのだろう。李白は腰抜けの公主たちを隣れんでこれらの詩を作ったのかもしれない。

しかし私はこれらの詩は詩人として世に出る、世に受け入れられやすい内容のものであった。必ずしも政治的な意味で見いるわけでなく、象徴的な存在「王昭君」、悲愁の塞北の地の物語を題材にしたもので受け入れられたことは間違いない。(李白代表作「古風五十九首」にも戦争鼓舞の詩がある)

 

李白33-35 王昭君を詠う 三首

●王昭君  李白

昭君払玉鞍、上馬啼紅頬。

今日漢宮人、明朝胡地妾。

●王昭君  李白

漢家秦地月、流影照明妃。

一上玉関道、天涯去不帰。

漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。

燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。

生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。

●于闐採花

于闐採花人,自言花相似。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花 方比す可き無し。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

766-162杜甫 2001秋日寄題鄭監湖上亭,三首之一》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-162 <1034 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6850

 

 

怨詩 王昭君  漢詩<110-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩545 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1452

怨詩 王昭君  漢詩<110-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩546 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1455

王昭君歎二首 其一
早信丹青巧、重貨洛陽師。
千金買蟬鬢、百萬寫蛾眉。

(王昭君歎二首 其一)
早く丹青の巧なるを信ぜば、重く洛陽の師に貨す。
千金 蟬鬢を買い、百萬 蛾眉を寫さしめしに。

王昭君歎二首 其一 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) <114-#1>玉台新詠集 女性詩 551 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1470

王昭君歎二首 其二

今朝猶漢地、明旦入胡關。

高堂歌吹遠、遊子夢中還。

(王昭君歎二首 其二)

今朝は猶お 漢地、明旦【めいたん】は胡關に入らん。

高堂【こうどう】 歌吹【かすい】 遠し、遊子 夢中に還らん。

王昭君歎二首 其二 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) 女流<115>玉台新詠集 女性詩 552 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1473

 

王昭君02
 

◎王昭君
前漢の元帝の宮女。紀元前33年(竟寧元年)、匈奴との和親のため、呼韓邪単于に嫁し、「寧胡閼氏」としてその地で没した。名は檣。昭君は字。明君、明妃は、「昭」字をさけたための晋以降の称。
『漢書・本紀・元帝紀』「竟寧元年春正月,匈奴 呼韓邪單于來朝。詔曰:「匈奴呼韓邪單于不忘恩德,鄕慕禮義,復修朝賀之禮,願保塞傳之無窮,邊垂長無兵革之事。其改元爲竟寧,賜單于待詔掖庭王檣爲閼氏。」
王檣 王昭君のこと。
閼氏 單于の正妻の称で皇后のこと。
『漢書・匈奴傳・下』「王昭君號寧胡閼氏,生一男伊屠智牙師,爲右日逐王。」
多くの子供をもうけ、夫の没後は、匈奴の習慣に従った再婚をし、父子二代の妻となり、更に子供を儲けている。子供達の名も記録されている。
辺疆安寧のための犠牲になったことで漢・匈奴友好使節の役を果たした。
李白33-35 王昭君を詠う 三首、五言絶句『王昭君』、雑言古詩、『王昭君』、雑言古詩『于闐採花』、王昭君ものがたり『王昭君 二首』 白楽天
聞歌
斂笑凝眸意欲歌,高雲不動碧嵯峨。
銅臺罷望歸何處,玉輦忘還事幾多。
靑冢路邊南雁盡,細腰宮裏北人過。
此聲腸斷非今日,香
燈光奈爾何。

李商隠 3 聞歌

王昭君の七十余年前に、烏孫公主の故事がある。烏孫公主は漢の皇室の一族、江都王・劉建の娘で、武帝の従孫になる劉細君のこと。彼女は、西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系民族の国家・烏孫国に嫁した。ともに漢王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。
悲愁歌 烏孫公主(劉細君) 女流<108542 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1443

 

◎『怨詩』
空高く飛ぶ鳥のさまから己の身を想い、遙かに離れ去ることとなってしまった境遇を詠う。『樂府詩集』に基づく。『昭君怨』『怨曠思惟歌』ともする。

 

怨詩

秋木萋萋,其葉萎黄。有鳥處山,集于苞桑。

養育毛羽,形容生光。既得升雲,上遊曲房。

離宮絶曠,身體摧藏。志念抑沈,不得頡頏。

 

雖得委食,心有徊徨。我獨伊何,來往變常。

翩翩之燕,遠集西羌。高山峨峨,河水泱泱。

父兮母兮,道里悠長。嗚呼哀哉,憂心惻傷。

(怨詩)

秋木 萋萋【せいせい】として,其の葉 萎黄【いこう】す。

鳥有り 山に處【を】り,苞桑【ほうそう】に集【むらが】る。

毛羽を養育し,形容 光を生ず。

既に雲に升【のぼ】るを得て,上のかた 曲房に遊ぶ。

離宮 絶【はなは】だ 曠【ひろ】くして,身體 摧藏【さいぞう】す。

志念 抑沈【よくちん】して,頡頏【けつこう】するを得ず。

 

委食を得【う】と 雖も,心に 徊徨【かいこう】する有り。

 獨り 伊【こ】れ 何ぞ,來往【らいおう】常を變ず。

翩翩【へんぺん】たる燕,遠く西羌【せいきょう)に集【いた】る。

高山峨峨【がが】たり,河水泱泱【おうおう】たり。

父や母や,道里 悠長なり。

嗚呼【ああ】 哀しい哉,憂心惻傷【そくしょう】す。

1

王明君者,本為王昭君,以觸文帝諱,故改。

王明君はもと王昭君といったが、晋の文帝のいみなの昭と同じで、さしさわりがあるので、王明君と改めたのである。

○王昭君 名を王嬙といった。『文選』の李善注には『琴操』を引いて斉国の王襄の女の字を昭君といい、年十七の時、漢の元帝に献ぜられたとある。『楽府詩集』の「琴曲歌辞」には、王嬙の作として「昭君怨」一首が載せられている。

 

匈奴盛請婚於漢。

さて漢の元帝の時、匈奴は勢い盛んで、漠朝から妻をめとりたいと申し込んできた。

 

元帝詔以後宮良家女子明君配焉。 
元帝は奥御殿に仕える良家の女明君をこれにあわすこととした。

後宮良家女子 

宮廷は小社会であり、宮人の中にも身分の高下貴賤があり、また様々な等級があった。后妃たちに「内官」の制度があったように、宮人たちには「宮官」の制度があった。宮官と内官を比較してみると、品階の上で差があったばかりでなく、いくらかの本質的な区別があったようだ。つまり、内官は官と称したが身分上は妃娘の身分に属すべきもの、つまり皇帝の妾でもあったが、宮官にそうした身分はなく、ただ宮中の各種の事務を司る職員にすぎなかった。当然、これはあくまで身分上のことに過ぎず、彼女たちと皇帝の実際の関係に何ら影響しないことは、ちざっど主人と家婢の関係と同じである。

 宮官は宮人の最上屑にある人々であり、後宮のさまざまな部局に属する職員であった。唐朝の後宮には六局(尚宮局、尚儀局、尚服局、尚食局、尚寝局、尚功局)があり、宮中のすべての事務を管理していた。六局の各首席女官の尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功が六部の尚書(長官)になった。六局の下に二十四司を統括し、各司の女官はそれぞれ別に司記、司言、司簿、司闇、司籍、司楽、司賓、司賛、司宝、司衣、司飾、司使、司膳、司酷、司薬、司錨、司設、司輿、司苑、司灯、司制、司珍、司絃、司計に分けられていた。またその他に二十四典、二十四掌、及び宮正、阿監、形史、女史など各級の女官もあった。これらの女官には品級・給与が与えられており、彼女たちは礼儀、人事、法規、財務、衣食住行(行は旅行、出張等の手配)などの宮廷事務を担当した(『旧唐書』職官志三)。

 宮官は事務官であったから、必ずしも容貌とか、皇帝のお気に召すかどうかにこだわる必要はなく、良家の出身で才徳兼備の女性を選びさえすればよかった。著名な才女であった宋若昭は、徳

宗によって宮中に召され宮官の首席尚宮に任命された。裴光廷の母車秋氏は婦徳の名が高く、武則天に召されて女官御正に封じられた(『新唐書』裴行倹伝)。宮人は六局、二十四司に分属して管理され、各職務に任命された。彼女たちは出身、容姿、技芸の才能などによって、それぞれに適した任務と職掌が与えられていた。上級の宮人は大半が近侍となり、皇帝、后妃の日常生活や飲食等の世話に従事した。その他に皇帝が朝政に当たる時は側に侍り、内廷から皇帝の勅命を伝える任務にも当った。唐末の哀帝の時代になって、こうした任務ははじめて廃止され、宮人は内廷の門を自由に出ることが禁じられた。その他の下層の宮人は宮中のこまごまとした各種の雑事を分担した。たとえば、ある種の宮人はもっぱら宮中の門を見張っていたので「戸婢」とよばれた。また裁縫、織布、刺繍など、女腎特有の仕事を専門にする宮人は、皇帝后妃などの衣服を調達したり、また軍服をつくる仕事も兼ねた。また宮中の掃除や、庭園、灯火、倉庫など一切の管理事務を受けもつ者もいた。

 労働と近侍の他に、宮人のもう一つの役割は皇帝を楽しませることであった。中宗は宮女たちに宮中で市場を開いて晶物を売らせたり、また大臣たちに宮女たちと商売をさせ、その際わざと喧嘩の種をまいて自分と皇后を楽しませた。玄宗と楊責妃は歓楽のために数百人の宮妓、宦官を並べて「風流陣」(両陣に分れて競う遊戯の一っ)をつくらせ、錦で旗をつくって互いに戦わせて楽しんだ(『開元天宝遺事』巻下)。皇帝は名声と身分の高い后妃たちに対しては、常に一定の尊重の気持をもっていたが、宮女たちに対しては気の向くままに戯れたり、もて遊んだりすることができた。玄宗の時代、皇帝の寝所に侍ったお手付きの宮女は、皆腕に「風月常新」(男女の情愛は常に新しい、という意)の四文字を刻印され、そこに桂紅膏(赤色のクリーム)を塗られたので、水洗いしても色があせなかった。また穆宗は黒い絹布の上に白色の文字を書き、また白い絹布に黒色の文字を書き、合せて衣服をつくって「寵愛を受けた」宮女に下賜した。その衣服に書かれた文字はすべて見るに耐えない卑摂な言葉であり、人々はこれを「渾衣」(ざれごとを書いた衣)と呼んだ(馮贅『雲伯雑記』巻五、七)。これらは風流のようにも見えるが、実際は宮女を玩具にし、人格を踏みにじったことの明らかな証拠である。

王昭君04