.薛昭蘊(改訂版)浣溪紗八首其五 元宵節の時に知り合って、親の目を盗んで、月一回のお参りに、寒食・清明節と逢瀬を重ねた。才色兼備の令嬢崔鶯鶯はと書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、それは悲恋に終わったと詠う。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》巻三3431-〈131〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5857
才色兼備の令嬢崔鶯鶯は、書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、というロマンチックな物語も生れた(元稹『蔦鴬伝』)。これは後世、ながく名作として喧伝されることになる戯曲『西廂記』 の原話である。これは中国古代の恋愛物語の典型ということができる。また、別の話であるが、美しくて聡明な官僚の家の娘無双は、従兄と幼い時から仲良く遊び互いに愛し合っていた。後に無双が家族の罪に連坐し宮中の婢にされると、この従兄は侠客に頼んで彼女を救い出し、二人はめでたく結婚したという話(薛調『劉無双伝』)。名妓李娃は、自分のために金と財産を使い果し、乞食に落ちぶれた某公子を救い、さんざん苦労して彼が名を成すのを助け、二人は白髪になるまで一緒に暮らしたという話(『李娃伝』)。妓女霞小玉は才子の李益を死ぬほど愛したが、李益は途中で心変りして彼女を棄ててしまった。小玉は気持が沈んで病気にかかり、臨終に臨み李益をはげしく恨んで失恋のため死んでしまったという話(蒋防『霍小玉伝』)。唐代には、こうした話以外に、人と神、人と幽霊、人と狐が愛しあう「柳毅伝書」、「蘭橋遇仙」など有名な物語がたくさん生れた。唐代の愛情物語は、中国古代のなかできわだっており、後代の戯曲、小説に題材を提供する宝庫となった。
愛情物語の中ばかりでなく、現実の生活の中でも、当時の労働する女性たちが自由に恋愛し夫婦となることは、どこでもわりに一般的に見られることであった。「妾が家は越水の辺、艇を揺らして江煙に入る。既に同心の侶を覚め、復た同心の蓮を来る」(徐彦伯「採蓮曲」)。あるいは「楊柳青青として 江水平らかに、邸が江上の唱歌の声を聞く。東辺に日出で西辺は雨、遣う是れ無暗(無情)は却って有晴(有情)」(劉禹錫「竹枝詞」)などと詠われている。これらは労働する女性たちの自由な愛情を描いている。彼女たちは長年屋外で働いていたので、男性との交際も比較的多かった。同時にまた、封建道徳観念は稀薄であり、感情は自然で自由奔放であったから、自由な恋愛はわりに多くみられた。一般庶民の家の娘は礼教の影響や束縛を受けることが比較的少なく、自由な男女の結びつきは常に、またどこにでも存在していたのである。たとえば、大暦年間、才女の見栄は隣に住む文士の文茂と常に詩をやりとりして情を通じ、また機会を見つけては情交を重ねた。見栄の母はそれを知り、「才子佳人というものは、往々にしてこんなふうになるものだ」と嘆息したが、ついに二人を結婚させた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」)。この話は、当時の社会には男女の自由な恋愛やひそかな情交があったばかりでなく、こうした関係を父母が許していたことも示している。
女性が恋人と駆落ちするという事件も時々発生した。白居易は次に紹介する詩の中で、庶民の娘の「駆落ち」について書いている。
井底引銀缾 白居易 (井底より銀缾を引く)白居易(白氏文集 巻四)
井底引銀缾、銀瓶欲上糸縄絶。
石上磨玉簪、玉簪欲成中央折。
瓶沈簪折知奈何、似妾今朝与君別。
憶昔在家為女時、人言挙動有殊姿。
嬋娟両鬢秋蝉翼、宛転双蛾遠山色。
笑随戯伴後園中、此時与君未相識。
妾弄青梅憑短牆、君騎白馬傍垂楊。
牆頭馬上遥相顧、一見知君卽断腸。
知君断腸共君語、君指南山松柏樹。
感君松栢化為心、暗合双鬢逐君去。
到君家舎五六年、君家大人頻有君。
聘則為妻奔是妾、不堪主祀奉蘋蘩。
終知君家不可住、其奈出門無去処。
豈無父母在高堂、亦有情親満故郷。
潜来更不通消息、今日悲羞帰不得。
為君一日恩、誤妾百年身。
寄言癡小人家女、慎勿将身軽許人。
(井底より銀缾を引く)
井の底より銀缾を引きあぐに、銀桝は上らんと欲で糸縄絶つ。
石の上にて玉くつわ簪を磨くも、玉簪は成らんと欲て中央より折れたり。
研沈み簪折れる 知らず奈何せん、妾 今朝君と別れるに似たり。
憶うに昔家に在りて女為りし時、人言う 挙動に殊姿有りと。
嬋娟な両鬢は秋蝉の翼、宛転った双蛾は遠山の色。
笑いで戯伴に随う後園の中、此の時君と末だ相い識らず。
妾は青梅を弄びて短塔に憑りかかり、君は白馬に騎って垂楊に傍う。
墻頭と馬上とで遥かに相い顧み、一見して君が即ち断腸たるを知る。
君の断腸たるを知りて君と共に語り、君は南山の松柏の樹(雄大にして常緑なる巨木のたとえ)を指さす。
君が松柏を化して心と為す(わが心は松柏の如く四時変ることがない)に感じ、闇かに双鬟(少女の髪型)を合して君を逐うて去る。
君が家に到りて舎ること五、六年、君が家の大人頻りに言有り(小言をいう)。
「聘すれば(礼をもって迎えたならば)則ち妻と為り 奔すれば(出奔して来たならば)是れ妾、
主祀(祭りの主宰)として蘋蘩(供物とするヨモギ科の草)を奉ずるに堪えず」と。
終に君が家の住まる可からざるを知るも、其れ門を出でて去く処無きを奈んせん。
豈 父母の高堂に在る無からんや、亦た親情(肉親)の故郷に満つる有り。
潜かに来れば更に消息を通ぜず、今日 悲しみ羞じて帰り得ず。
君が一日の恩の為に、妾が百年の身を誤る。
言を痴小なる人家の女に寄す、「慎んで身を将て軽しく人に許すこと勿れ」と。
白居易は詩を書いて世の人々を戒めたのであるが、こうした駆落ちは決して例外的なことではなく、また結婚も必ずしも両家の家長の承認を得なければならないものでもなかったことが分かる。官僚の家の女子の自由恋愛は比較的困難であったが、元稹が自分の経験に基づいて書いた『鴬鴬伝』や、陳玄祐の『離魂記』、薛調の『劉無双伝』などの小説が世に出現したことは、彼女たちの中にも崔鶯鴬のような、封建道徳への反逆者たちが出現していたことを示している。六朝以来、儒教的恋愛観は嫌気があり、そこに、北方文化との融合があって、自由な恋愛が広がったのである。(この時期の自由恋愛の風潮は、中國のみならず、日本を含めた世界的なものである。)
要するに、唐代の女性たちの愛を追求する想いは、決して封建道徳というのはこの頃は成熟していなくて、完全に圧殺されはしなかったし、彼女たちの勇気に人々は感嘆の声を上げたのである。
唐代の女性の恋愛観は社会全体の価値観の影響を全面的に受けて、相手に「文才」があることをとても重んじた。小説はもちろん現実の世界においても、女性が愛する対象はたいてい風流才子であった。「我は悦ぶ 子の容艶を、子は傾く 我が文章に」(李白「情人に別れしひとに代りで」)、「娘は才を愛し、男は色を重んじる」(『零小玉伝』)というように、女は男の才能を愛し、男は女の容色を重んずるというのが、唐代の男女の典型的な恋愛観であった。ここから、後世の小説や戯曲の中の「才子佳人」という恋愛パターンが形成されたのである。

鄭谷『蜀中三首、其一』






















