劉禹錫《自朗州至京戲贈看花諸君》玄都観の中には千本の桃の木が植えられているというが、その木々のことごとく全部が仙桃を味わった劉晨が、仙郷を去った後に栽えられたものだという。〔12年も経過すると、朝廷に誇らかにしている官僚は、ことごとく、わたし(劉禹錫)が左遷されてから出世した連中でしかないのだ。〕
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自朗州至京戲贈看花諸君(玄都觀看花) 薛濤関連 唐五代詞・宋詩 劉禹錫-237--#93 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2732
元和十一年自朗州召至京戲贈看花諸君子:自朗州至京戲贈看花諸君:(玄都觀看花)」玄都観にて花を看る
劉禹錫(りゅう うしゃく、772年 - 842年)は中国の唐代(中唐)期の詩人、政治家。字は夢得(ぼうとく)。自身は中山(河北省定州市)出身と称したが、彭城(江蘇省徐州市)出身とも伝えられる。詩豪と呼ばれた。
劉禹錫・『晩笑堂竹荘畫傳』
代々儒学者として名があった家に生まれた。793年(貞元9年)進士に及第した。淮南節度使であった杜佑の配下で書記を務めた。その後、中央政界で同じ年に進士となった柳宗元とともに王叔文の党派に連なり、徳宗末期の貞元年間から順宗期を経て政治改革を推進した(永貞の革新)。なかでも劉禹錫は財政面を担当し、王叔文・王伾・柳宗元らとともに「二王劉柳」と並称されるほど重要な役割を果たした。急激な改革だったため彼らは武元衡のような政敵を多くつくってしまう。宦官の圧力のために在位8ヶ月にして順宗が退位させられ憲宗が即位すると武元衡ら守旧派が力を盛り返し、王叔文は失脚、劉禹錫も連州(広東省連州市)刺史に左遷を命じられ、その途次で朗州(湖南省常徳市)司馬に降格となった。このとき他の主立った同志も同じように各地の司馬に左遷された(八司馬事件)。朗州での約9年間、劉禹錫は文学に没頭するようになり、古来楚であった当地の風俗に取材した詩をつくったり、民衆のために祭祀用の歌詞をつくった。
815年(元和10年)、ようやく都長安に召還されたが、玄都観(道教の施設)で詠んだ詩が政府の主流派を揶揄する内容だったためその怒りにふれ、連州刺史に逆戻りとなった。それから数ヶ所の刺史を経たあと、828年(大和2年)に長安に戻り主客郎中を拝命した。そこで劉禹錫はまたも玄都観で、前回の続編となる詩を詠んだ。このときは宰相裴度のおかげでどうにか左遷を免れていたが、その裴度が引退すると洛陽にやられた後、832年(大和6年)蘇州刺史にされた。このように劉禹錫は、狭量な性格ゆえにその地位が安定しなかった。その後も太子賓客となったり刺史となったりを繰り返した。
晩年は白居易と親交が深まり、元稹亡き後も詩を唱和し、その神妙さを讃えられた。最終的には検校礼部尚書・太子賓客で生涯を終えた。
薛濤『和劉賓客玉蕣』
(太子賓客、劉禹錫さまがお作りになった「玉蕣」の詩に和します。)
瓊枝玓瓅露珊珊,欲折如披云彩寒。
玉の蕣(あさがお)は、朝露をおびて、その枝は、きらきらと日に輝き、はらはらと露がこぼれ落ちます。それは、花を折ろうとして、手にとると、まるで美しい玉を開くようなすがすがしさなのです。
閑拂朱房何所似,緣山偏映日輪殘。
そっとやさしく赤い花房をちぎってしまうと、花瓣の形は、何にたとえられるのでしょう。それは、山の端に沈んでゆく太陽が偏ったかがやきの形を遺している姿のようでしょうか。
(劉賓客の玉蕣【ぎょくしゅん】に和す)
瓊枝【けいし】玓瓅【てきれき】露 珊珊【さんさん】,折らん欲とすれば云彩【うんさい】の寒さを披くが如し。
閑かに朱房【しゅぼう】を拂えば何の似たる所ぞ,山に緣【そ】うて 偏映【へんえい】 日輪の殘するに。
劉禹錫
七言絶句。來・囘・栽(平声灰韻)。
『自朗州至京戲贈看花諸君』「玄都觀看花」
(朗州から長安に帰ってきて、戯れに花を看て仲間の諸君にこの詩を贈る。)
紫陌紅塵拂面來、無人不道看花囘。
長安の真ん中を東西南北の交差点、人通りの多い大通りの塵は顔を撫で払うように飛んで来る。この通りにいるどの人も砂ぼこりが顔につかない人はいないし、花を看ての帰りだというのにそれを口に出して謂う人もいない。
玄都觀裏桃千樹、盡是劉郎去後栽。
玄都観の中には千本の桃の木が植えられているというが、その木々のことごとく全部が仙桃を味わった劉晨が、仙郷を去った後に栽えられたものだという。
〔12年も経過すると、朝廷に誇らかにしている官僚は、ことごとく、わたし(劉禹錫)が左遷されてから出世した連中でしかないのだ。〕
(朗州より京に至いたり、戯れに花を看る諸君に贈る)
紫陌【しはく】の紅塵【こうじん】 面を払って来きたる、人の花を看て回ると道わざるなし。
玄都観の裏 桃千樹、盡【ことごと】く是れ 劉郎去って後に栽えたり。
『自朗州至京戲贈看花諸君』 現代語訳と訳註
(本文)
『自朗州至京戲贈看花諸君』「玄都觀看花」
紫陌紅塵拂面來,無人不道看花回,
玄都觀裡桃千樹,盡是劉郎去後栽。
(下し文)
(朗州より京に至いたり、戯れに花を看る諸君に贈る)(玄都観にて花を看る)
紫陌【しはく】の紅塵【こうじん】面を拂うて來る,人【ひとびと】は無く 花を看回るを道わず,
玄都觀の裡 桃千樹,盡く是れ 劉郎 去りて後 栽うるものなり。
(現代語訳)
(朗州から長安に帰ってきて、戯れに花を看て仲間の諸君にこの詩を贈る。)
長安の真ん中を東西南北の交差点、人通りの多い大通りの塵は顔を撫で払うように飛んで来る。この通りにいるどの人も砂ぼこりが顔につかない人はいないし、花を看ての帰りだというのにそれを口に出して謂う人もいない。
玄都観の中には千本の桃の木が植えられているというが、その木々のことごとく全部が仙桃を味わった劉晨が、仙郷を去った後に栽えられたものだという。
〔12年も経過すると、朝廷に誇らかにしている官僚は、ことごとく、わたし(劉禹錫)が左遷されてから出世した連中でしかないのだ。〕

(訳注)
『自朗州至京戲贈看花諸君』「玄都觀看花」
(朗州から長安に帰ってきて、戯れに花を看ている仲間の諸君にこの詩を贈る。)
・朗州 湖南省にかつて設置された州。現在の常徳市一帯に相当する。 魏晋南北朝時代. 南北朝時代の560年(天嘉元年)、陳により荊州天門郡、義陽郡、南平郡及び郢州武陵郡に設置された武州を前身とする。
・自朗州至京 816年元和十一年に朗州(現・湖南省常徳市。洞庭湖西岸の地名。「武陵桃源」の武陵。)より召還され、長安に戻ってきて、戯れに花見をしている諸賢に詩を贈る。805年永貞元年に政争に敗れて地方の連州(広東省連州市)刺史に左遷され、更に朗州(湖南省常徳市)司馬に左遷されて、足掛け12年、都へ呼び戻されたとき(816年元和十一年)、この詩を作ったのである。それが政敵に知られることとなり、「この表現内容が、朝政を嘲弄しており、不穏当」とのことで、再び地方へ飛ばされる原因(口実)となった。やがて、この詩作のとき(元和十一年:816年)から、更に十四年後の太和二年(828年)、再び都へ呼び戻された。その時の詩作『再遊玄都觀』とその序に、その間の事情が説明されている。
再遊玄都觀
序
余貞元二十一年爲屯田員外郎時,此觀未有花。是歳出牧連州,尋貶朗州司馬。居十年,召至京師,人人皆言,有道士手植仙桃,滿觀如紅霞,遂有前篇以志一時之事。旋又出牧,今十有四年,復爲主客郞中。重遊玄都觀,蕩然無復一樹,唯兔葵燕麥動搖於春風耳。因再題二十八字,以俟後遊,時太和二年三月。
(再遊玄都觀:本文)
百畝庭中半是苔, 桃花淨盡菜花開。
種桃道士歸何處? 前度劉郎今又來。
・玄都觀 道教寺院の名。長安の東西を春明門と金光門、延興門と延平門に大通りがあり、南北通り朱雀門と明徳門、が交差するあたりにあった。(長安図 f-3付近)
紫陌紅塵拂面來、無人不道看花回。
長安の真ん中を東西南北の交差点、人通りの多い大通りの塵は顔を撫で払うように飛んで来る。この通りにいるどの人も砂ぼこりが顔につかない人はいないし、花を看ての帰りだというのにそれを口に出して謂う人もいない。
・紫陌 都の市街。帝都の郊外の道路。
・紅塵 賑やかな街の埃(ほこり)。市街地に立つ土ぼこり。繁華な市街地。また、空が赤茶けて見えるほどの土ぼこり。また、浮き世の塵。煩(わずら)わしい俗世間。俗塵。反対意見は握りつぶされていることを示す。
・拂面 顔を撫(な)で払う。
・無人 …という人はいない。誰もが…でない。
・道 言う。動詞。
・無…不… …しない…はない。全て…だ。(結果として)二重否定。
・回 戻る。めぐる。かえる。
玄都觀裏桃千樹、盡是劉郎去後栽。
玄都観の中には千本の桃の木が植えられているというが、その木々のことごとく全部が仙桃を味わった劉晨が、仙郷を去った後に栽えられたものだという。
〔12年も経過すると、朝廷に誇らかにしている官僚は、ことごとく、わたし(劉禹錫)が左遷されてから出世した連中でしかないのだ。〕
・玄都觀 道教寺院の名。長安の朱雀街(f-3付近)にあった。
・裏 (…の)中。
・桃千樹 千本の桃の木。この語に寓意があるとされた。「新・官僚」。
・盡是 ことごとく…だ。
・劉郎 仙桃を味わった劉晨、中国版・浦島太郎伝説中の人物。であり、12年ぶりに帰ってきた作者・劉禹錫であるということは誰もが容易に理解した。
・去後 去っていったあと(で)。
・栽 植える。栽培する。
(玄都観にて花を看る)
紫陌【しはく】の紅塵【こうじん】面を拂うて來る,人【ひとびと】は無く 花を看回るを道わず,
玄都觀の裡 桃千樹,盡く是れ 劉郎 去りて後 栽うるものなり。




(本文) 其二




(本文)
光・威・裒、姉妹三人、小孤、而始姸乃有是作。精醉儔難。謝家聯雪何以加之。有客自京師来者示予。因次其韻。
但能為雨心長在,不怕吹簫事未諳。 
紅芳滿院參差折,綠醑盈杯次第銜。














