《花間集序 (5)》 唐朝滅亡後、宋朝が興るまでの間、中原では五代に亘って王朝が交替し、江南を始めとする各地では、小国が分立した。この間の小国分立時代を五代または、五代十国と呼ぶ。この時代は、唐最後の皇帝の譲位から宋建国までの五十余年間と、短い。しかし、この中原と江南の政情不安は、才人、技能の優秀なもの、優れた楽工、優秀な妓優らを蜀に集めることとなった。中原から来たもののうち趙一族により、詩文、歌舞が保護発展せられ、趙家の文芸サロンに集められたことが、「花間集」というものに集大成されたというのが、その歴史的背景なのである。
《花間集序 (5)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説 0-730--() 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5197
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| 花間集 五百首 | | |||
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花間集序花間集序
作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織綃泉底,獨殊機杼之功。廣會眾賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。時大蜀廣政三年夏四月日序。
花 間 集
(1)
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
(2)
その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちは陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。
(3)
続いて欧陽烱は、『花間集』 の詞が楽府詩に連なるものであり、贅沢を競い合うどんな富豪の家を凌駕する趙家の(趙崇祚)の豪華な宴席では、貴公子が詞を色紙にしたためて美女に手渡すと、それを受け取った美女が拍子木を手に取って、それを歌えば、美女の美しきは嫌が上にも勝ると言い、ここでも『花間集』の詞が宴席のためのものであることを言う。
(4)
『花間集』の詞に類似する歌は、既に南朝の時代に作られているが、それは言葉が雅やかでないばかりか、実体を伴わぬ空疎なものであったこと、そして、唐の玄宗皇帝の時代になって初めて外面内面ともにそなわった清平楽調が作られ、近年に至って温庭第の詞集『金茎集』が現れたことを指摘し、詞が名実ともに新しい時代の文学となったことを言う。しかし、この評価は巻末の晃謙之の欧文とは相反するものがある。この後、欧陽桐は筆を続けて、先に触れた『花間集』命名の謂われについて語り筆を結ぶ。欧陽胴は 『花間集』 にきわめて高い評価を与えているが、これは自身が 『花間集』 詞人の一員であったこと、また、編集者の趙崇祚との人間関係に起因するものといえよう。
(5)
(5)-1
唐が滅亡して、中原では五つの王朝が長江流域では十数もの地方政権が興亡を繰り返したが、四川盆地を拠とする前・後の蜀は豊かな経済力を基盤に安定した地域となっていた。前・後の蜀は君臣共に一時の安逸をむさぼり、享楽に耽ることで、ここに前・後の蜀の頽廃文化が形成された。それの中核を担ったのは、中原、江南から、文化人のみならず、妓優、楽工、各種職人が戦火を避けて、蜀の地に終結したことが大きな原因である。
(5)-2
編者の趙崇祚は、祖籍は開祖父の趙廷隠が後蜀の大祖・孟知祥に従って蜀に入り、親軍を統括すること十数年。趙崇祚は衛尉少卿となり、弟の崇韜は都知領殿直となって、ともに親軍の指揮に参与した。趙氏一門は要職を占め、その暮らしぶりは贅を尽くしたものであった。
『太平廣記』巻四〇九引孫光憲《北夢瑣言》「趙廷除起南宅北宅、千梁萬供、其諸奢麗、莫之與儔。後枕江瀆、池中有二島嶼、遂甃石循池、四岸皆種垂楊、或間雜木芙蓉、池中種藕。毎至秋夏、花開魚躍、柳陰之下、有士子執巻者、垂綸者、執如意者、執塵尾奢、譚詩論道者。」
邸宅は並ぶものがないほど豪奢で、庭の池に二つの島を造り、岸辺に楊柳を、池の端に水芙蓉を、池の中に蓮を植えていた。毎年、夏や秋になれば、花は咲き魚は躍り、柳の木陰で人々が思い思いに巻物を持ち、釣糸を垂れ、如意やら大
鹿の尾で作った払子やらを揮い、詩を語り、道を論じたりしていた。
趙崇祚はこのすべての芸の優れたもの、風流あるものを集めたサロンで、「広く賓客に会い、時に談論風発する中で、近来の詩客の曲子詞五百首を集め、十巻に分けた」という。
花間集序-#1
(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、
葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、
繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
-#3
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
何止言之不文,所謂秀而不實。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
有唐已降,率土之濱,
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
家家之香徑春風,寧尋越豔。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
-#3
南朝の宮体、北里の倡風を扇りてより、
何ぞ「之を言いて文ならず」、所謂「秀でて実らざる」に止まらんや。
有唐巳降【いこう】、率土の浜、
家家の香逕春風、寧くんぞ越艶を尋ねん。
処処の紅楼、夜月 自ら常娥を墳ざす。
-#4
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては溫飛卿庭筠の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
邇來作者,無愧前人。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
今衛尉少卿弘基(趙崇祚),以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)
織綃泉底,獨殊機杼之功。
蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
廣會眾賓,時延佳論。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。
-#4
明皇の朝に在りては、則ち李太白の応制清平楽詞四首 有り、近代の温飛卿には復た『金筌集』有り。
邇来 作者 前人に塊ずること無し。今
衛尉少卿 字は弘基、翠を洲辺に拾い、自ら羽毛の異なれるを得て、綃を泉底に織り、独り機杼の功 殊なるを以て、広く衆賓を会し、時に佳論を延ぶ。
-#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為し、乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
『花間集序』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,
以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。
南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
(下し文)
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為し、乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
(現代語訳)
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
(訳注) -#5
花間集序
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
○詩客曲子詞 詩人の歌詞。曲子詞は曲につけられた歌詞の意。曲子の子は接尾辞。この一句は『花間集』の詞が民間の卑俗な歌と違って、詩人の手に成る洗練された作品であることを言ったもの。
以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
○爛 欧陽胴の自称。
○粗預知音 少しばかり音楽に詳しい。教坊の曲に合わせた詩という意味で音楽のことを承知しているということであるが、此処の意味は、この十七名の詩人たちと旧知の間で、これらに詩人たちを取りまとめていく力があるということを認められたという意味である。
○序引 序言。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
○郢 戦国時代の楚の国の都。今の湖北省の江陵の北部。
○陽春 陽春白雪の曲。先の「白雪」の注参照。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
○庶 願望を表す言葉。
○西園 漢代の御苑の名。ここでは趙崇祚の豪邸の文芸サロンを言う。
○英哲 俊才。
○用資 それによって助ける。用は以に同じ。
○羽蓋之歓 儀式、行事などにおける楽しみ、集いの喜び。
南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
○南国嬋娟 南国の美女の「浣溪沙」56首、「菩薩蠻」41首、「酒泉子」26首「臨江仙」「竹枝」「楊柳」の各24首「女冠子」「更漏」などの嬋娟詞で過半数を超える。
○蓮舟之引 楽府詩の採蓮曲。南朝の梁代に多く作られた。もともと民間の蓮取り歌に由来するもの。蓮の実を取るには湖面に船を浮かべねばならぬので蓮舟と言った。引は曲の意。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
○大蜀 蜀。大は美称。
○広政三年夏四月日 広政は後苛の孟乗の時の年号。広政三年は西暦九四〇年。旧暦では四月、五月、六月が夏。夏四月日と記して、具体的な日付の数字が入っていないのは、序を書きおえて、彫師に渡す時に後から正式に日付を入れるため。
唐朝滅亡後、宋朝が興るまでの間、中原では五代に亘って王朝が交替し、江南を始めとする各地では、小国が分立した。の間の小国分立時代を五代または、五代十国と呼ぶ。この時代は、唐最後の皇帝の譲位から宋建国までの五十余年間と、短い。この中原と江南の政情不安は、才人、技能の優秀なもの、優れた楽工、優秀な妓優らを蜀に集めることとなり、やはり、中原から来た趙一族により、趙家の文芸サロンに集められたことが、花間集というものが、その歴史的背景なのである。













余貞元二十一年爲屯田員外郎時,此觀未有花。
上王尚書
十離詩十首 鏡離台 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-189-55-#49 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2492
(本文)
鷹離鞲

(本文)



『十離詩十首 馬離廄』 現代語訳と訳註

(本文)















