中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊(東野)  漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 訳注解説ブログ

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#27》 §-5-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11145

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#27》 §-5-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11145

 

11153

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#28

 

§-5-6

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11153

 

 

 

5-4

因誦嵩所讀書,

というわけで、于嵩が読んでいる書物を暗話してそらんじて読み上げた。

盡卷不錯一字。

それは一巻のおわりまで、一字もまちがわなかったのである。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

于嵩はびっくりして、張巡が偶然この巻をそらんじていたのだと思ったのであった。

因亂抽他帙以試,無不盡然。     

そこで他の巻を手あたり次第に抜き出してためしてみたが、みな同様に暗唱していたである。(暗唱できることは内容も把握していたと驚いたのである)

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

于嵩はこんどは、書棚の上のさまざまの書物を取り出して、ためしにそれを張巡にたずねてみたところ、

巡應口誦無疑。

張巡は即応、おうむ返しに誦話して、疑わしくためらうことなどなかった。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

ところが、于嵩は長いあいだ張巡の輩下にいたのだが、張巡がついぞ書物を読んでいるのを見たことがなかったのである。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

文章を作るときは、紙と筆とを手にするとすぐさま本文に取り掛かり、同時に書き出し、草案だの原稿だの、こしらえたことはなかったのである。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

最初睢陽を守備したとき、将校兵卒はほとんど一万人いたのだが

城中居人亦且數萬,

城内の住民の戸数もおなじていどで、また人数は数万ばかりであった。

巡因一見問姓名,其後無不識者。

張巡はそこではじめて出あったおりに姓名をたずね、それから後のことは、みな記憶していた。

巡怒,鬚髯輒張。  

張巡が腹を立てると、あごひげも、ほほひげもぴんと立った。

5-6

初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。

其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』          

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。             

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,た

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。           

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

24  5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。             

 

(下し文)
§5-6

 

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)5-6

最初睢陽を守備したとき、将校兵卒はほとんど一万人いたのだが

城内の住民の戸数もおなじていどで、また人数は数万ばかりであった。

張巡はそこではじめて出あったおりに姓名をたずね、それから後のことは、みな記憶していた。

張巡が腹を立てると、あごひげも、ほほひげもぴんと立った。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

 

28 §5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

最初睢陽を守備したとき、将校兵卒はほとんど一万人いたのだが

 

 

城中居人亦且數萬,

城内の住民の戸数もおなじていどで、また人数は数万ばかりであった。

 

 

巡因一見問姓名,其後無不識者。

張巡はそこではじめて出あったおりに姓名をたずね、それから後のことは、みな記憶していた。

 

 

巡怒,鬚髯輒張。

張巡が腹を立てると、あごひげも、ほほひげもぴんと立った。

張巡 (景雲3年(709年) - 2載(757年)は中国・唐代の武。字も巡。南陽の出身。若くして兵法に通じ、開元29年(741年)に進士となる。この頃、兄の張は監察御史に就任しており、すでに兄弟ともに名を得ていた。太子通事人となり、県令として河へ赴任。治に功績をげ、任期がちた後に楊忠に推薦する人もあったがこれをり、源県へ県令として赴任する。その地でほしいままに振る舞っていた大吏の華南金を誅し、民から慕われた。

張巡『晩笑堂竹畫傳』の概要を見る。:15載(756年)安山が反を起こし、張巡は兵を集めて雍丘にて、安山側の令狐潮、李廷望とい、何度も打ち破り、寧陵に移ってからも、楊朝宗を破り、副河南節度使に任じられた。

安慶が安山を殺し、尹子奇に睢陽を攻めさせた。睢陽太守の許遠に援軍を求められ、睢陽に入り、一手となった。許遠は上官であったが、張巡の力を認め、主の位置をる。睢陽城は初め、1年分の蓄えがあったのを河南節度使・虢李巨に無理に召し上げられ、4月から10月にかけて賊軍にまれ、食料に困窮した。臨淮に駐屯していた御史大夫賀蘭進明に援軍をむが、賀蘭進明は敗北することと友軍に背後を襲われるを怖れ、また、張巡の名を妬み、援軍をった。

 

ついに、睢陽は落城に至り、張巡は屈せず、南霽雲、雷万春、姚誾ら幹部30余人は捕らわれて刑された。許遠は洛陽に連行された。援軍の張鎬が到着したのは、落城後、3日後だった。だが、睢陽城の頑な抵抗が唐軍の別隊の行動を容易としたために、落城10日にして賊軍の大部分は敗亡し、尹子奇も殺された。敵兵12万人を殺したと言われる。死後、睢陽に廟が建てられている。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#27》 §-5-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11145

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#27》 §-5-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11145

 

 

11145

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#27

 

§-5-5

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11145

 

 

 

§5-1

張籍曰:

張籍はこういうことをいう。

「有于嵩者,少依於巡;

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

及巡起事,嵩常在圍中。

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

嵩時年六十餘矣。  

かれはその時、年六十あまりであった。

§5-1

張籍日わく、

于嵩という者有り。少うして巡に依る。

巡が事を起こすに及んで、嵩、常に囲みの中に在り。

籍、大暦中に和州の烏江県に於いて嵩を見る。

嵩、時に年六十餘。

24  §5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

張巡に従軍した功績で、もと、臨換県の尉に任命されたことがあり、

好學,無所不讀。

学問すきで、どんな書物でも読んでいた。

籍時尚小,

わたしが于嵩にあったときは、まだおさなかったのであるし、

粗問巡、遠事,不能細也。

あらかた張巡、許遠のことをたずねたが、こまかいことにまで及ばなかった。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。     

于嵩のはなしでは、張巡は身のたけ七尺あまり、あごひげ、ほほひげは関羽さまのようであった。

5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,

あるとき、干満が『漢書』を読んでいるのを見て、

謂嵩曰:

于嵩にいった

『何為久讀此?』

「なぜそんなに長くかかってこんな本を読んでいる。」

嵩曰:

于嵩はいった、

『未熟也。』

「よくおぼえていないからです。」

巡曰:

張巡は言う

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』     

「わたしは本なら三べんも読まなくても、一生忘れない。」

5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、

嵩に謂って日わく、

「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、

「未だ熟せず、」と。

巡日わく、

「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

5-4

因誦嵩所讀書,

というわけで、于嵩が読んでいる書物を暗話してそらんじて読み上げた。

盡卷不錯一字。

それは一巻のおわりまで、一字もまちがわなかったのである。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

于嵩はびっくりして、張巡が偶然この巻をそらんじていたのだと思ったのであった。

因亂抽他帙以試,無不盡然。     

そこで他の巻を手あたり次第に抜き出してためしてみたが、みな同様に暗唱していたである。(暗唱できることは内容も把握していたと驚いたのである)

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

于嵩はこんどは、書棚の上のさまざまの書物を取り出して、ためしにそれを張巡にたずねてみたところ、

巡應口誦無疑。

張巡は即応、おうむ返しに誦話して、疑わしくためらうことなどなかった。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

ところが、于嵩は長いあいだ張巡の輩下にいたのだが、張巡がついぞ書物を読んでいるのを見たことがなかったのである。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

文章を作るときは、紙と筆とを手にするとすぐさま本文に取り掛かり、同時に書き出し、草案だの原稿だの、こしらえたことはなかったのである。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。             

5-6

初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。

其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』          

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。             

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,た

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。           

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

24  5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

 

(下し文)
§5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)5-5

于嵩はこんどは、書棚の上のさまざまの書物を取り出して、ためしにそれを張巡にたずねてみたところ、

張巡は即応、おうむ返しに誦話して、疑わしくためらうことなどなかった。

ところが、于嵩は長いあいだ張巡の輩下にいたのだが、張巡がついぞ書物を読んでいるのを見たことがなかったのである。

文章を作るときは、紙と筆とを手にするとすぐさま本文に取り掛かり、同時に書き出し、草案だの原稿だの、こしらえたことはなかったのである。

 

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

 

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

于嵩はこんどは、書棚の上のさまざまの書物を取り出して、ためしにそれを張巡にたずねてみたところ、

架 棚、書棚。

 

 

巡應口誦無疑。

張巡は即応、おうむ返しに誦話して、疑わしくためらうことなどなかった。

 

 

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

ところが、于嵩は長いあいだ張巡の輩下にいたのだが、張巡がついぞ書物を読んでいるのを見たことがなかったのである。

 

 

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

文章を作るときは、紙と筆とを手にするとすぐさま本文に取り掛かり、同時に書き出し、草案だの原稿だの、こしらえたことはなかったのである。

立書 たちどころに書く。 その場ですぐ。

起草 下書きを作る。草稿を準備する。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#26》 §-5-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11137

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#26》 §-5-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11137

 

11137

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#26

 

§-5-4

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11137

 

 

 

 

§5-1

張籍曰:

張籍はこういうことをいう。

「有于嵩者,少依於巡;

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

及巡起事,嵩常在圍中。

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

嵩時年六十餘矣。  

かれはその時、年六十あまりであった。

§5-1

張籍日わく、

于嵩という者有り。少うして巡に依る。

巡が事を起こすに及んで、嵩、常に囲みの中に在り。

籍、大暦中に和州の烏江県に於いて嵩を見る。

嵩、時に年六十餘。

24  §5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

張巡に従軍した功績で、もと、臨換県の尉に任命されたことがあり、

好學,無所不讀。

学問すきで、どんな書物でも読んでいた。

籍時尚小,

わたしが于嵩にあったときは、まだおさなかったのであるし、

粗問巡、遠事,不能細也。

あらかた張巡、許遠のことをたずねたが、こまかいことにまで及ばなかった。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。     

于嵩のはなしでは、張巡は身のたけ七尺あまり、あごひげ、ほほひげは関羽さまのようであった。

5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,

あるとき、干満が『漢書』を読んでいるのを見て、

謂嵩曰:

于嵩にいった

『何為久讀此?』

「なぜそんなに長くかかってこんな本を読んでいる。」

嵩曰:

于嵩はいった、

『未熟也。』

「よくおぼえていないからです。」

巡曰:

張巡は言う

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』     

「わたしは本なら三べんも読まなくても、一生忘れない。」

5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、

嵩に謂って日わく、

「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、

「未だ熟せず、」と。

巡日わく、

「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

5-4

因誦嵩所讀書,

というわけで、于嵩が読んでいる書物を暗話してそらんじて読み上げた。

盡卷不錯一字。

それは一巻のおわりまで、一字もまちがわなかったのである。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

于嵩はびっくりして、張巡が偶然この巻をそらんじていたのだと思ったのであった。

因亂抽他帙以試,無不盡然。     

そこで他の巻を手あたり次第に抜き出してためしてみたが、みな同様に暗唱していたである。(暗唱できることは内容も把握していたと驚いたのである)

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。             

5-6

初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。

其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』          

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。             

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,た

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。           

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

24  5-4

因誦嵩所讀書,

盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。          

 

(下し文)
§5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

というわけで、于嵩が読んでいる書物を暗話してそらんじて読み上げた。

それは一巻のおわりまで、一字もまちがわなかったのである。

于嵩はびっくりして、張巡が偶然この巻をそらんじていたのだと思ったのであった。

そこで他の巻を手あたり次第に抜き出してためしてみたが、みな同様に暗唱していたである。(暗唱できることは内容も把握していたと驚いたのである)

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

 

5-4

因誦嵩所讀書,

というわけで、于嵩が読んでいる書物を暗話してそらんじて読み上げた。。

 

 

盡卷不錯一字。

それは一巻のおわりまで、一字もまちがわなかったのである。

 

 

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

于嵩はびっくりして、張巡が偶然この巻をそらんじていたのだと思ったのであった。

 

 

因亂抽他以試,無不盡然。     

そこで他の巻を手あたり次第に抜き出してためしてみたが、みな同様に暗唱していたである。(暗唱できることは内容も把握していたと驚いたのである)

乱抽 他帙 『漢書』のうちの他の帙からでたらめに引き抜く。帙は書物を包む袋、布製の函。

 

 

 帙入りの書物 02

 

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#25》 §-5-3- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11129

 

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#25》 §-5-3- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11129

 

11129

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#25

 

§-5-3

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11129

 

 

 

 

§5-1

張籍曰:

張籍はこういうことをいう。

「有于嵩者,少依於巡;

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

及巡起事,嵩常在圍中。

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

嵩時年六十餘矣。  

かれはその時、年六十あまりであった。

§5-1

張籍日わく、

于嵩という者有り。少うして巡に依る。

巡が事を起こすに及んで、嵩、常に囲みの中に在り。

籍、大暦中に和州の烏江県に於いて嵩を見る。

嵩、時に年六十餘。

24  §5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

張巡に従軍した功績で、もと、臨換県の尉に任命されたことがあり、

好學,無所不讀。

学問すきで、どんな書物でも読んでいた。

籍時尚小,

わたしが于嵩にあったときは、まだおさなかったのであるし、

粗問巡、遠事,不能細也。

あらかた張巡、許遠のことをたずねたが、こまかいことにまで及ばなかった。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。     

于嵩のはなしでは、張巡は身のたけ七尺あまり、あごひげ、ほほひげは関羽さまのようであった。

5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,

あるとき、干満が『漢書』を読んでいるのを見て、

謂嵩曰:

于嵩にいった

『何為久讀此?』

「なぜそんなに長くかかってこんな本を読んでいる。」

嵩曰:

于嵩はいった、

『未熟也。』

「よくおぼえていないからです。」

巡曰:

張巡は言う

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』     

「わたしは本なら三べんも読まなくても、一生忘れない。」

5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、

嵩に謂って日わく、

「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、

「未だ熟せず、」と。

巡日わく、

「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

5-4

因誦嵩所讀書,

盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。          

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。             

5-6

初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。

其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』          

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。             

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,た

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。           

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

24  §5-

嘗見嵩讀《漢書》,

謂嵩曰:

『何為久讀此?』

嵩曰:

『未熟也。』

巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』           

 

(下し文)
§5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、

嵩に謂って日わく、

「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、

「未だ熟せず、」と。

巡日わく、

「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

あるとき、干満が『漢書』を読んでいるのを見て、

于嵩にいった

「なぜそんなに長くかかってこんな本を読んでいる。」

于嵩はいった、

「よくおぼえていないからです。」

張巡は言う、

「わたしは本なら三べんも読まなくても、一生忘れない。」

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

 

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,

あるとき、干満が『漢書』を読んでいるのを見て、

漢書 後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。

『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。

『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。『史記』と重なる時期の記述が多いので、比較されることが多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、『史記』に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは『史記』に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。『史記』と比較すると『漢書』には載道の意識が、やや硬直した形で現れている。

  

 

 漢書 01

 

謂嵩曰:

于嵩にいった

 

『何為久讀此?』

「なぜそんなに長くかかってこんな本を読んでいる。」

 

 

嵩曰:

于嵩はいった、

 

『未熟也。』

「よくおぼえていないからです。」

 

巡曰:

張巡はいう、

 

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』   

「わたしは本なら三べんも読まなくても、一生忘れない。」

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#24》 §-5-2- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11121

 

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王融_雜詩五首〔2

 

 

 

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王融_雜詩五首〔3

 

 

 

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 別李義 - #3

 

王融_雜詩五首〔4

 

 

 

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王融_雜詩五首〔5

 

 

 

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 別李義 - #6

 

謝朓雜詩十二〔2

 

 

 

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謝朓雜詩十二〔3

 

 

 

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謝朓雜詩十二〔4

 

 

 

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杜甫研究、詩と生涯(3)

 

 

 

 

 

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§5-1

張籍曰:

張籍はこういうことをいう。

「有于嵩者,少依於巡;

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

及巡起事,嵩常在圍中。

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

嵩時年六十餘矣。  

かれはその時、年六十あまりであった。

§5-1

張籍日わく、

于嵩という者有り。少うして巡に依る。

巡が事を起こすに及んで、嵩、常に囲みの中に在り。

籍、大暦中に和州の烏江県に於いて嵩を見る。

嵩、時に年六十餘。

24  §5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

張巡に従軍した功績で、もと、臨換県の尉に任命されたことがあり、

好學,無所不讀。

学問すきで、どんな書物でも読んでいた。

籍時尚小,

わたしが于嵩にあったときは、まだおさなかったのであるし、

粗問巡、遠事,不能細也。

あらかた張巡、許遠のことをたずねたが、こまかいことにまで及ばなかった。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。     

于嵩のはなしでは、張巡は身のたけ七尺あまり、あごひげ、ほほひげは関羽さまのようであった。

5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,

謂嵩曰:

『何為久讀此?』

嵩曰:

『未熟也。』

巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』           

5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、

嵩に謂って日わく、

「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、

「未だ熟せず、」と。

巡日わく、

「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

5-4

因誦嵩所讀書,

盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。          

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。             

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初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

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其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』          

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。             

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,た

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。           

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

24  §5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

好學,無所不讀。

籍時尚小,

粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。          

 

(下し文)
§5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

張巡に従軍した功績で、もと、臨換県の尉に任命されたことがあり、

学問すきで、どんな書物でも読んでいた。

わたしが于嵩にあったときは、まだおさなかったのであるし、

あらかた張巡、許遠のことをたずねたが、こまかいことにまで及ばなかった。

于嵩のはなしでは、張巡は身のたけ七尺あまり、あごひげ、ほほひげは関羽さまのようであった。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

 

24  §5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

張巡に従軍した功績で、もと、臨換県の尉に任命されたことがあり、

以巡初 「巡の初を以て」と読む説に従う。「以(抽)ふに巡初め」と読めば、文脈に合わず、 また巡が臨換の尉になったことは史に見えない。これは干嵩の身上のことと見るがよい。またここに文章の錯乱があると見る説もある。

 

好學,無所不讀。

学問すきで、どんな書物でも読んでいた。

 

籍時尚小,

わたしが于嵩にあったときは、まだおさなかったのであるし、

 

粗問巡、遠事,不能細也。

あらかた張巡、許遠のことをたずねたが、こまかいことにまで及ばなかった。

不能細 詳細に問うことはできなかった。

 

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。  

于嵩のはなしでは、張巡は身のたけ七尺あまり、あごひげ、ほほひげは関羽さまのようであった。

鬚髯若神 美髯公の由来となった長いひげ?烈火のような赤い顔、商売、戦の神とされる関羽をイメージする。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#23》 §-5-1- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11113


 

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冬至

 

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謝朓雜詩十二〔4

 

 

 

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留別金陵諸公#1

張中丞傳後敘 -#26

 送高司直尋封閬州 #2

 

謝朓雜詩十二〔5

 

 

 

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留別金陵諸公#2

張中丞傳後敘 -#27

 送高司直尋封閬州#3

 

6詠邯鄲故才人嫁為厮養

 

 

 

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留別金陵諸公#3

張中丞傳後敘 -#28

 可歎 #1

 

7秋夜

 

 

 

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#23》 §-5-1- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11113

 

11113

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#23

 

§-5-1

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11113

 

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

§5-1

張籍日わく、于嵩という者有り。少うして巡に依る。

巡が事を起こすに及んで、嵩、常に囲みの中に在り。

籍、大暦中に和州の烏江県に於いて嵩を見る。

嵩、時に年六十餘。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、嵩に謂って日わく、「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、未だ熟せず、と。

巡日わく、「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-6

初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。

其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。


§
5-1

張籍曰:

張籍はこういうことをいう。

「有于嵩者,少依於巡;

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

及巡起事,嵩常在圍中。

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

嵩時年六十餘矣。  

かれはその時、年六十あまりであった。

§5-1

張籍日わく、

于嵩という者有り。少うして巡に依る。

巡が事を起こすに及んで、嵩、常に囲みの中に在り。

籍、大暦中に和州の烏江県に於いて嵩を見る。

嵩、時に年六十餘。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,

好學,無所不讀。

籍時尚小,

粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。          

5-2

巡を以て初め嘗って臨換県の尉を得たり。

学を好んで読まずという所無し。

籍、時に尚小さし。

粗【ほ】ぼ 巡・遠が事を問うて、細かなること能わず。

云う、巡、長け七尺餘、鬚髯、神の若し。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,

謂嵩曰:

『何為久讀此?』

嵩曰:

『未熟也。』

巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』           

5-3

嘗って嵩が漢書を読むを見て、

嵩に謂って日わく、

「何為れぞ久しく此れを読む、」と。

嵩日わく、

「未だ熟せず、」と。

巡日わく、

「吾れ書に於いて読むこと三篇に過ぎずして、身を終うるまで忘れず、」と。

5-4

因誦嵩所讀書,

盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。          

5-4

因って 嵩が読む所の書を誦す。

巻を尽くして一字を錯らず。

嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。

困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。

5-5

嵩又取架上諸書,試以問巡,

巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-5

嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。

巡、口に応じて話して疑うこと無し。

嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。

文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。             

5-6

初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。

城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。

其の後識さずということ無し。

巡怒るときに、髪髭軌ち張る。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』          

5-7

城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。

巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。

巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。             

5-8

衆泣いて仰ぎ視ること能わず。

巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。

遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。

巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。

巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。           

5-9

嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。

或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。

武人奪うて之れを有す。

嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。

嵩、子無し。

張籍云う。

楚州揚州廬州壽州上海 地図05 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

#22  §§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。      

 

 

(下し文)
§4-7

 

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

張籍はこういうことをいう。

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

かれはその時、年六十あまりであった。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

 

§5-1

張籍曰:

張籍はこういうことをいう。

張籍 中唐の詩人。和州烏江 (安徽省和県) の人。字,文昌。貞元 15 (799) 年進士に及第。太常寺太祝から秘書郎を経て水部員外郎となり,晩年国子司業となった。張水部・張司業とも呼ばれる。楽府(がふ)体の詩を得意とし、政治を批判し、民衆の苦しみを歌った。

 

「有于嵩者,少依於巡;

「于嵩というものがいた。わかいときから張巡の部下であったが、

依於― 《論語、述而第七 6 子曰志於道章》「子曰。志於道。據於德。依於仁。游於藝。」(子曰く、道に志ざし、徳に拠より、仁に依より、芸に游あそぶ。)と使う。

 

及巡起事,嵩常在圍中

張巡が義勇軍を起してから、于嵩はいつも賊軍の包囲中にいた。

起事 義兵を挙げて篠山を防いだ。

在圍中 義勇軍が續軍に大きく包囲された状態。

 

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

わたしは、大暦年間、和州烏江県で于嵩にあったが、

和州烏江縣 安徽省馬鞍山市に位置する県。県人民政府の所在地は歴陽鎮。秦漢時代から歴陽県があった。 県内の烏江鎮は、垓下の戦いで漢に敗れた楚の項羽が最期を迎えた場所(「烏江の渡し」)であり、覇王祠が建っている。 行政区画[編集]. : 歴陽鎮、白橋鎮、姥橋鎮、功橋鎮、西埠鎮、香泉鎮、烏江鎮、善厚鎮、石楊鎮. 関連項目[編集]. 歴陽郡 - 晋代から唐代にかけて、現在の和県周辺に設置されていた郡。 和州 - 北斉代から清代にかけて、現在の和県周辺に設置されていた州。

 

嵩時年六十餘矣。  

かれはその時、年六十あまりであった。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#22》 §-4-6- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11105

 

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 可歎 #1

 

7秋夜

 

 

 

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -22 §-4-6- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11105

 

11105

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#22

 

§-4-7

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11105

 

 

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

4-3

霽雲慷慨語曰:

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』      

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

4-4

因拔所佩刀斷一指,

かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。

血淋漓,以示賀蘭。

そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。

一座大驚,

ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。

皆感激為雲泣下。

みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。

#20  4-5

即馳去,

南零雲はここを急いでたち去っていった。

將出城,抽矢射佛寺浮圖,

城を出ようとするところで、矢をひきぬいて仏寺の仏舎利塔にむかって射ったのである。

矢著其上磚半箭,曰:

矢はその上の屋根瓦に半分ばかりもつきささった。そこでかれはいった、

『吾歸破賊,必滅賀蘭,

「わたしはもどって、賊軍を撃破してから、あのにっくき賀蘭進明を必ず亡ぼしてやる。

此矢所以志也!』  

だから、この矢は柄身命を討ち取るための誓いの印だ。」と。

4-6

愈貞元中過泗州,

わたしが貞元年間、泗州を通りすぎたとき、

船上人猶指以相語:

睢陽の城が陥落し、賊兵は刃をつきつけて張巡に降服するよう脅迫した。

「城陷,賊以刃脅降巡,

睢陽の城が陥落し、賊兵は刃をつきつけて張巡に降服するよう脅迫した。

巡不屈。即牽去,將斬之,

張巡は屈服しない。と、安史軍はすぐさまひいて行って、斬ろうとした。

#21  §4-7

又降霽雲,

族は、こんどは南霽雲を降服させようとした。

雲未應,巡呼雲曰:

かれはまだ応答していなかったが、張巡は南霽雲に声をかけた。

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

「南八郎君、こうなれば男なら死あるのみ、覚悟しよう! 不義に屈服してはならぬのだ。」といってきたので、

雲笑曰:『欲將以有為也。

南霽雲は笑っていうのである、「わたしもそうしようとおもっていたところである。」

公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

そしてそれに続いて「閣下のことばにもあった、わたしは死んで見せましょう。」と、屈服しなかった。

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。

此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。

巡屈せず。即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

§4-7

又賽雲を降す。

雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、

南八、男児死せんのみ。不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。

公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

#21  §4-7

又降霽雲,

雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

 

(下し文)
§4-7

又賽雲を降す。

雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、

南八、男児死せんのみ。不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。

公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

族は、こんどは南霽雲を降服させようとした。

かれはまだ応答していなかったが、張巡は南霽雲に声をかけた。

「南八郎君、こうなれば男なら死あるのみ、覚悟しよう! 不義に屈服してはならぬのだ。」といってきたので、

南霽雲は笑っていうのである、「わたしもそうしようとおもっていたところである。」

そしてそれに続いて「閣下のことばにもあった、わたしは死んで見せましょう。」と、屈服しなかった。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

#21  §4-7

又降霽雲,

族は、こんどは南霽雲を降服させようとした。

 

雲未應,巡呼雲曰:

かれはまだ応答していなかったが、張巡は南霽雲に声をかけた。

 

 

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

「南八郎君、こうなれば男なら死あるのみ、覚悟しよう! 不義に屈服してはならぬのだ。」といってきたので、

南八 八は霽雲の排行の順序で八番目ということ。八郎くんというところ、親しんで呼ぶ。

 

雲笑曰:『欲將以有為也。

南霽雲は笑っていうのである、「わたしもそうしようとおもっていたところである。」

欲将 まさに……せんと欲す。

将以有為 仕事したいと思 って考えていた。

 

 

公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

そしてそれに続いて「閣下のことばにもあった、わたしは死んで見せましょう。」と、屈服しなかった。

公有言 閣下の言があったからには

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#21》 §-4-6- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11097

 

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#21》 §-4-6- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11097

 

11097

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#21

 

§-4-6

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11097

 

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

4-3

霽雲慷慨語曰:

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』      

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

4-4

因拔所佩刀斷一指,

かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。

血淋漓,以示賀蘭。

そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。

一座大驚,

ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。

皆感激為雲泣下。

みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。

#20  4-5

即馳去,

南零雲はここを急いでたち去っていった。

將出城,抽矢射佛寺浮圖,

城を出ようとするところで、矢をひきぬいて仏寺の仏舎利塔にむかって射ったのである。

矢著其上磚半箭,曰:

矢はその上の屋根瓦に半分ばかりもつきささった。そこでかれはいった、

『吾歸破賊,必滅賀蘭,

「わたしはもどって、賊軍を撃破してから、あのにっくき賀蘭進明を必ず亡ぼしてやる。

此矢所以志也!』  

だから、この矢は柄身命を討ち取るための誓いの印だ。」と。

4-6

愈貞元中過泗州,

わたしが貞元年間、泗州を通りすぎたとき、

船上人猶指以相語:

睢陽の城が陥落し、賊兵は刃をつきつけて張巡に降服するよう脅迫した。

「城陷,賊以刃脅降巡,

睢陽の城が陥落し、賊兵は刃をつきつけて張巡に降服するよう脅迫した。

巡不屈。即牽去,將斬之,

張巡は屈服しない。と、安史軍はすぐさまひいて行って、斬ろうとした。

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」   

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。

此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。

巡屈せず。即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

4-7

又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。

不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 楚州揚州廬州壽州 地図01汜水関などの地図

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

#21  4-6

愈貞元中過泗州,

船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,

巡不屈。即牽去,將斬之,

 

(下し文)
§4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。

巡屈せず。即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

わたしが貞元年間、泗州を通りすぎたとき、

同じ船の上の人が、そのころでもなお仏舎利塔を指さし示しながら、そのことを語り合っていた。

睢陽の城が陥落し、賊兵は刃をつきつけて張巡に降服するよう脅迫した。

張巡は屈服しない。と、安史軍はすぐさまひいて行って、斬ろうとした。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

#21  4-6

愈貞元中過泗州,

わたしが貞元年間、泗州を通りすぎたとき、

貞元 唐代徳宗の治世で使用された元号。785 - 805年。

泗州 泗州(ししゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の安徽省東北部および江蘇省西部にまたがる地域に設置された。621年(武徳4年)、唐により下邳郡は泗州と改められた。742年(天宝元年)、泗州は臨淮郡と改称された。758年(乾元元年)、臨淮郡は泗州の称にもどされた。泗州は河南道に属し、臨淮・漣水・徐城の3県を管轄した。

 

船上人猶指以相語:

同じ船の上の人が、そのころでもなお仏舎利塔を指さし示しながら、そのことを語り合っていた。

 

「城陷,賊以刃脅降巡,

睢陽の城が陥落し、賊兵は刃をつきつけて張巡に降服するよう脅迫した。

この句の概要 天宝15載(756年)安禄山が反乱を起こし、張巡は兵を集めて雍丘にて、安禄山側の令狐潮・李廷望と戦い、何度も打ち破り、寧陵に移ってからも、楊朝宗を破り、河南節度使に任じられた。

安慶緒が安禄山を殺し、尹子奇に睢陽を攻めさせた。睢陽太守の許遠に援軍を求められ、睢陽に入り、一手となった。許遠は上官であったが、張巡の実力を認め、主将の位置を譲る。睢陽城は初め、1年分の蓄えがあったのを河南節度使の虢王李巨に無理に召し上げられ、4月から10月にかけて賊軍に囲まれ、食料に困窮した。臨淮に駐屯していた御史大夫の賀蘭進明に援軍を頼むが、賀蘭進明は敗北することと友軍に背後を襲われるを怖れ、また、張巡の名声を妬み、援軍を断った。

ついに、睢陽は落城に至り、張巡は屈せず、南霽雲・雷万春・姚誾ら幹部30余人は捕らわれて処刑された。許遠は洛陽に連行された。援軍の張鎬が到着したのは、落城後、3日後だった。だが、睢陽城の頑強な抵抗が唐軍の別働隊の行動を容易としたために、落城10日にして賊軍の大部分は敗亡し、尹子奇も殺された。敵兵12万人を殺したと言われる。死後、睢陽に廟が建てられている。

 

巡不屈。即牽去,將斬之,

張巡は屈服しない。と、安史軍はすぐさまひいて行って、斬ろうとした。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#20》 §-4-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11089

 

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愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

4-3

霽雲慷慨語曰:

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』      

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

4-4

因拔所佩刀斷一指,

かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。

血淋漓,以示賀蘭。

そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。

一座大驚,

ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。

皆感激為雲泣下。

みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。

#20  4-5

即馳去,

南零雲はここを急いでたち去っていった。

將出城,抽矢射佛寺浮圖,

城を出ようとするところで、矢をひきぬいて仏寺の仏舎利塔にむかって射ったのである。

矢著其上磚半箭,曰:

矢はその上の屋根瓦に半分ばかりもつきささった。そこでかれはいった、

『吾歸破賊,必滅賀蘭,

「わたしはもどって、賊軍を撃破してから、あのにっくき賀蘭進明を必ず亡ぼしてやる。

此矢所以志也!』  

だから、この矢は柄身命を討ち取るための誓いの印だ。」と。

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」   

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。

此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。巡屈せず。

即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

4-7

又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。

不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

#20  4-5

即馳去,

抽矢射佛寺浮圖,

將出城,矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,

此矢所以志也!』             

 

(下し文)
§4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。

此の矢は志す所以なり、」と。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

南零雲はここを急いでたち去っていった。

城を出ようとするところで、矢をひきぬいて仏寺の仏舎利塔にむかって射ったのである。

矢はその上の屋根瓦に半分ばかりもつきささった。そこでかれはいった、

「わたしはもどって、賊軍を撃破してから、あのにっくき賀蘭進明を必ず亡ぼしてやる。

だから、この矢は柄身命を討ち取るための誓いの印だ。」と。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

#20  4-5

即馳去,

南零雲はここを急いでたち去っていった。

 

將出城,抽矢射佛寺浮圖,

城を出ようとするところで、矢をひきぬいて仏寺の仏舎利塔にむかって射ったのである。

浮図 音読みでフト、浮屠、仏図とも書く。 ここでは塔のこと。ほかには仏陀のことをいう、傘の頂などの意味もある。塔は仏骨を蔵めた所で、塔婆は卒塔婆の略、故に浮図と書く。

 

矢著其上磚半箭,曰:

矢はその上の屋根瓦に半分ばかりもつきささった。そこでかれはいった、

かわら。焼いた瓦。

半箭 笛の半分が瓦にささった。矢の半面に次の語を記したと解するのはよくない。『唐書』には霹雲の語った語と唐突八大家文読本なっている。

 

『吾歸破賊,必滅賀蘭,

「わたしはもどって、賊軍を撃破してから、あのにっくき賀蘭進明を必ず亡ぼしてやる。

 安禄山の反乱軍。

 

此矢所以志也!』  

だから、この矢は柄身命を討ち取るための誓いの印だ。」と。

所以志 おぼえのためのもの。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#19》 §-4-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11081

 

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#19》 §-4-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11081

 

11081

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#19

 

§-4-4

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11081

 

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

4-3

霽雲慷慨語曰:

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』      

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

4-4

因拔所佩刀斷一指,

かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。

血淋漓,以示賀蘭。

そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。

一座大驚,

ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。

皆感激為雲泣下。

みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』   

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」   

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。巡屈せず。

即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

4-7

又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。

不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

汜水関などの地図 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

-#19 §4-4

因拔所佩刀斷一指,

血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,

皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

 

(下し文)
§4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。

そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。

ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。

みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。

賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

-#19 §4-4

因拔所佩刀斷一指,

かくて腰にぶら下げた佩び刀を抜きはなって、一本の指を切りおとしたのである。

断一指 『唐書』に「霽雲円く、今主将の命達せず、霽雲請ふ、一指を置きて以て信を示し、帰って中丞に報ぜんと。困りて佩刀を抜いて指を断つ」とある。使した証拠に残したのである。

 

血淋漓,以示賀蘭

そこから滴る血をたらたら流したままにし、賀蘭進明に見せた。

淋潤 したたる。流れ落ちる。

賀蘭 名は進明、当時臨淮を守っていた。上文にいう強兵を 増にして坐祝して救わなかった者である。賀蘭進明は第五琦らや、粛宗の皇后、宦官らと結託し、杜甫、房琯らに対しても、陰険な策を弄して、左遷、失脚などしかけた。ほかに、貨幣の悪化、

 

一座大驚,

ここにいた一同のものたちはこしをぬかすほどびっくりしたのである。
函谷関002

 

皆感激為雲泣下。

みな感動して南霽雲のために胸を打たれ、涙を流した。

 

雲知賀蘭終無為雲出師意,

賀蘭進明が結局、すぐさま馬を走らせて去ったというのも、もともと卑怯な男であり、かれのために出兵する気がないのを、南霽雲は、知っていたのである。

南霽雲 唐の頓邱(河南)の人、騎馬を善くし張巡の将となる。安禄山の乱に睢陽城の食が尽きたので囲みを突いて賀蘭進明に救いを求めたが、聴かれなかったので、また囲みをおかして城に入り、後に城が落ちて、賊に執らえられ、遂に巡らと共に害された。その勇壮は後文に見える。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#18》 §-4-3- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11073

 

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古風,五十九首之一 #1

張中丞傳後敘-#9

寫懷二首其一-#1

 

雜詩六首其四古意贈今人 #1

 

2/11

古風之一 #2

張中丞傳後敘-#10

寫懷二首其一 -2

 

古意贈今人 #2

 

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古風,之三五

張中丞傳後敘 -#11

寫懷二首其一 -3

 

代葛沙門妻郭小玉詩二首

 

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僧伽歌 -#1

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代葛沙門妻郭小玉詩二首

 

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張中丞傳後敘-#12

寫懷二首其二 -#2

 

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張中丞傳後敘 -#14

寫懷二首其二 -#3

 

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冬至

 

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11073

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

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§-4-3

 

 

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張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

4-3

霽雲慷慨語曰:

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』      

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』   

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」   

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。巡屈せず。

即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

4-7

又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。

不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

-#16 §4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』    

 

(下し文)
§4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

 

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

 

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

4-3

霽雲慷慨語曰:

南寒雲は義憤にかられ興奮してこう言上した。

慷慨 1 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。2 意気が盛んなこと。また、そのさま。

 

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

『わたしがここに来たとき、睢陽の人びとは、ひと月あまりも食事をとる日がなかったのである。

睢陽 古代中国の地名。春秋時代の宋の地で、秦代には県が置かれた。唐代の757年、安禄山の乱の時に、太守の許遠がここに拠って賊軍の進出を防いだ。

 

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』      

こうした折、わたしが自分だけ食べようとしても、義として食べる気になれぬはずもない。たとえ、食べたところで、のどを通ることなどないであろう。」

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#17》 §-4-2- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11065

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#17》 §-4-2- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11065

 

11065

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#17

 

§-4-2

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11057

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』    

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』   

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」   

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。巡屈せず。

即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

4-7

又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。

不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

-#16 §4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

 

 

(下し文)
§4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

「南霽雲が賀蘭進明に救援を求めたのであるが、そのとき賀蘭進明は、張巡らに嫉妬していた。

 

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

というもの、張巡、許遠の評判や功績が、自分より上であるということで、軍隊を出して救援しようとしなかったのである。

南霽雲 唐の頓邱(河南)の人、騎馬を善くし張巡の将となる。安禄山の乱に睢陽城の食が尽きたので囲みを突いて賀蘭進明に救いを求めたが、聴かれなかったので、また囲みをおかして城に入り、後に城が落ちて、賊に執らえられ、遂に巡らと共に害された。その勇壮は後文に見える。

賀蘭 名は進明、当時臨淮を守っていた。上文にいう強兵を 増にして坐祝して救わなかった者である。賀蘭進明は第五琦らや、粛宗の皇后、宦官らと結託し、杜甫、房琯らに対しても、陰険な策を弄して、左遷、失脚などしかけた。ほかに、貨幣の悪化、

 

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

本来、南茜雲は勇気あり、筋の通ったりっぱな精神を愛して、救援要求のことばは聞きいれなかった、それでも、むりにひきとめて食事と音楽とをととのえさせて、南零雲をその席に案内して坐らせたのである。

 坐は座に通ずる。「延坐」は宴席に案内する。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#16》 §-4-1- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11057

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#16》 §-4-1- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11057

 

11057

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#16

 

§-4-1

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11057

 

 

 

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 韓愈が書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

其老人往往巡、遠時事,云:     

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』    

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』   

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」   

 

§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

4-2

「南霽雲が救いを賀蘭に乞うときに、賀蘭、巡・遠が声威功績己が上に出でんことを駅嫉んで、肯えて師を出だして救わず。

霽雲が勇にして且た壮なることを愛して、其の語を聴かざれども、彊いて留めて、食と楽とを具えて、霽雲を延いて坐せしむ。」

4-3

霽雲慷慨して語げて日わく、

「雲が来りし時、睢陽の人、食せざること月餘日。

雲、独り食せまく欲すと雖も、義、忍びず、食すと雖も且つ咽に下らじ、」と。

4-4

困って佩ぶる所の刀を抜いて、一指を断つ。

血淋漓として以て賀蘭に示す。

一座大いに驚く。

皆感激して雲が為に泣下る。

雲、賀蘭が終に雲が為に師を出だすの意無きことを知って、

4-5

即ち馳せ去る。

将に城を出でんとするときに、矢を抽いて仏寺の浮図を射る。

矢、其の上の磚に著くこと半箭ばかり。日わく、

「吾れ帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。此の矢は志す所以なり、」と。

4-6

韓愈、貞元中、泗州に過る。

船上の人猶お指して以て相語る。

城陥るときに、賊、刃を以て巡を脅かし降す。巡屈せず。

即ち牽い去って、将に之れを斬らんとす。

4-7

又賽雲を降す。雲末だ応ぜざるに、巡、雲を呼んで日わく、南八、男児死せんのみ。

不義の為に屈すべからず、と。

雲、笑うて日わく、「将に為ること有らんと欲す。公言えること有り、雲敢えて死せざらんや、」というて、即ち屈せず。

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:      

 

(下し文)
§4-1

愈嘗って汴・徐の二府に従事として、屡しば両府の間に道して、

親しく其の所謂双廟という者を祭る。

其の老人往径に巡・遠が時の事を説いて云う、

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

翰(り かん、生没年不詳)は、中国・唐の官僚・文人。本貫は趙州賛皇県。李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯や韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年(至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻・『蒙求』3巻・『前集』30巻があった。

 

-#16 §4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

わたしは、汴州(河南省)、徐州(江蘇省)の二つの師団司令部に勤務したことがあり、何度も二つの司令部のあいだを旅行したものである、

従事 仕事に従った。役人をしていた。

 

親祭於其所謂雙廟者。

みずから、直接に二公を祭った双廟といわれるお社を祭ったところが街道にあった。

双廟 張巡に揚州大都督、許遠に荊州大都督の官を追贈して、廟を睢陽(河南省 商丘県の南)に立てて二公を祭って双廟と号した。

 

其老人往往巡、遠時事,云:    

その廟の老人はしばしば張巡、許遠のときのことを話し、次のように語ってくれた。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#15》 §-3-7- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11049

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#15》 §-3-7- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11049

 

 

11049

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#15

 

§-3-7

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11049

 

 

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

觀者見其然,從而尤之,

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

其亦不達於理矣。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

§3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って 之れを尤【すぐれ】るとす。

其れ亦た 理に達せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

猶不得免,其他則又何

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

3-

當二公之初守也,

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

苟此不能守,雖避之他處何益?

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

及其無救而且窮也,

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

二公之賢,其講之精矣。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

守一城,捍天下,

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

長江下流域、淮水流域を掩護して、その勢をおしとどめたのである。

天下之不亡,其誰之功也!

そして、天下が滅亡しなかったのであるが、それはだれの功績であったのであろうか。

當是時,棄城而圖存者,

その出来事があったときには、城を見すてて生存することだけしようとしたものが、

不可一二數,

一人、二人と数えられる数ではないほど大変な数であった。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

強力な軍隊を思いのままに操りながら、じっと形勢を見ていたものが、まわりにはいっぱいいた。

不追議此,而責二公以死守,

それらの人をさかのぼって批判とか、結果論を論じたりするのではなく、それから導かれて、二公が死にものぐるいで守ったことを責めたてるのである。

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

それらは結果的にみずから反逆者と手を握り、いいがかりをつけて反逆者の攻撃の援助をするもののように思われるものなのである。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

(下し文)
3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

強力な軍隊を思いのままに操りながら、じっと形勢を見ていたものが、まわりにはいっぱいいた。

それらの人をさかのぼって批判とか、結果論を論じたりするのではなく、それから導かれて、二公が死にものぐるいで守ったことを責めたてるのである。

それらは結果的にみずから反逆者と手を握り、いいがかりをつけて反逆者の攻撃の援助をするもののように思われるものなのである。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は警)州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

 

15 3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

強力な軍隊を思いのままに操りながら、じっと形勢を見ていたものが、まわりにはいっぱいいた。

檀強兵 強兵を一手に動かす。

 

不追議此,而責二公以死守,

それらの人をさかのぼって批判とか、結果論を論じたりするのではなく、それから導かれて、二公が死にものぐるいで守ったことを責めたてるのである。

追議 あとから議論する。

 

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

それらは結果的にみずから反逆者と手を握り、いいがかりをつけて反逆者の攻撃の援助をするもののように思われるものなのである。

比於逆乱 逆臣乱臣のみかたになる。

淫辞 みだらな語。ほしいままでしまりのない言葉。淫は放蕩。『孟子』公孫丑上に「淫辞は其の陥る所を知る」とある。陥るは悪におちいって悟らないこと。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#14》 §-3-6- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11041

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#14》 §-3-6- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11041

 

8

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#14

 

§-3-6

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11041

 

 

 

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 韓愈が書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 伝のあとがき)

 

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

觀者見其然,從而尤之,

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

其亦不達於理矣。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

§3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って 之れを尤【すぐれ】るとす。

其れ亦た 理に達せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

猶不得免,其他則又何

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

3-

當二公之初守也,

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

苟此不能守,雖避之他處何益?

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

及其無救而且窮也,

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

二公之賢,其講之精矣。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

守一城,捍天下,

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

長江下流域、淮水流域を掩護して、その勢をおしとどめたのである。

天下之不亡,其誰之功也!

そして、天下が滅亡しなかったのであるが、それはだれの功績であったのであろうか。

當是時,棄城而圖存者,

その出来事があったときには、城を見すてて生存することだけしようとしたものが、

不可一二數,

一人、二人と数えられる数ではないほど大変な数であった。

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(
本文)

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

 

(下し文)
3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

 

(現代語訳)

(御史中丞張巡 傳のあとがき)

長江下流域、淮水流域を掩護して、その勢をおしとどめたのである。

そして、天下が滅亡しなかったのであるが、それはだれの功績であったのであろうか。

その出来事があったときには、城を見すてて生存することだけしようとしたものが、

一人、二人と数えられる数ではないほど大変な数であった。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は警)州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

 

14 3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

長江下流域、淮水流域を掩護して、その勢をおしとどめたのである。

37. 蔽遮 おおいさえぎる。防禦する。味方の行動や拠点を敵の攻撃から守ること。転じて、かばって危険から守ること。

38. 江淮 長江(江水)と淮水。安徽・江蘇の地方。

39. 沮遏 はばみとどめる。せきとめる。

 

天下之不亡,其誰之功也!

そして、天下が滅亡しなかったのであるが、それはだれの功績であったのであろうか。

 

當是時,棄城而圖存者,

その出来事があったときには、城を見すてて生存することだけしようとしたものが、

 

不可一二數,
一人、二人と数えられる数ではないほど大変な数であった。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#13》 §-3-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11033

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#13》 §-3-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11033

 

 

11033

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#13

 

§-3-5

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11033

 

 

 

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

§1-1

元和二年四月十三日夜,

元和二年四月十三日の夜、

愈與郡張籍家中舊書,

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

得李翰所為《張巡傳》。

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

然尚恨有闕者:

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

(張中丞伝の後敘)§1-1

元和二年四月十三日の夜、

愈、呉郡の張籍と、家中の旧著を閲る。

李翰が為る所の張巡が伝を得たり。

1-2

翰、文章を以て自ら名あり。此の伝を為ること頗る詳密なり。

然れども尚お恨むらくは闕くる老有ることを。

許遠が為に伝を立てず、雷万春が事の首尾を載せず。

 

§2

遠雖材若不及巡者,

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

開門納巡,位本在巡上。

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

授之柄而處其下,無所疑忌,

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

竟與巡俱守死,成功名;

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

2-1

遠、材、巡に及ばざるものの若しと雖も、門を開いて巡を約す。

位本もと巡が上に在り。之に柄を授ける。

而して虞を其の下にす。

之れに柄を授けて、その下に処って、疑い忌む所無し。

竟に巡と倶に死を守って功名を成す。

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

2-2

城陥って虜にせらる。巡と死すること先後異なるのみ。

両家の子弟、材智下うして、二父の志を通知すること能わず。

以為【おも】えらく巡死して遠慮に就く、疑うらくは死を畏れで賊に辞服するやと。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

2-3

遠 誠に死を畏れば、何を苦しんでか尺寸の地を守り、

其の愛する所の肉を食ましめて、以て賊と抗して降せざらんや。

其の囲み守る時に当って、外、比蝉蟻子の援け無し。

2-4

所欲忠者,國與主耳;

忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

而賊語以國亡主滅,

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

遠見救援不至,而賊來益眾,必以其言為信。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

2-4

忠あらまく欲する所の者は、国と主とのみ。

而も賊語ぐるに國亡び主減ぶというを以てす。

遠、救援の至らずして、賊の来ること益ます衆きを見ば、必ず其の言を以て信なりと為ん。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

雖至愚者不忍為。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

烏んぞ城壊れ其の徒倶に死して、独り愧恥を蒙って活を求むること有らん?

至愚の者と雖も、為るに忍びじ。

鳴呼、而るに遠が賢にして之れを為すと謂わんや。

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

觀者見其然,從而尤之,

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

其亦不達於理矣。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

§3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って 之れを尤【すぐれ】るとす。

其れ亦た 理に達せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

猶不得免,其他則又何

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

3-

當二公之初守也,

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

苟此不能守,雖避之他處何益?

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

及其無救而且窮也,

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

二公之賢,其講之精矣。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

守一城,捍天下,

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説

(本文)

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

 

(下し文)

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

 

(現代語訳)

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

 

(訳注)

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

32. 創殘 傷つき生き残る。

33. 餓贏 うえて衰弱した。

34. 余 結果、はて。

 

二公之賢,其講之精矣。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

 

守一城,捍天下,

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

35. 捍 ふせぐ・まもる.

 

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

36. 就尽 だんだん尽きる。就は「なんなん」と読む。なろうとするの意。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#12》 §-3-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11025

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#12》 §-3-4- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11025

 

 

11025

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#12

 

§-3-4

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11025

 

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

§1-1

元和二年四月十三日夜,

元和二年四月十三日の夜、

愈與郡張籍家中舊書,

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

得李翰所為《張巡傳》。

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

然尚恨有闕者:

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

(張中丞伝の後敘)§1-1

元和二年四月十三日の夜、

愈、呉郡の張籍と、家中の旧著を閲る。

李翰が為る所の張巡が伝を得たり。

1-2

翰、文章を以て自ら名あり。此の伝を為ること頗る詳密なり。

然れども尚お恨むらくは闕くる老有ることを。

許遠が為に伝を立てず、雷万春が事の首尾を載せず。

 

§2

遠雖材若不及巡者,

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

開門納巡,位本在巡上。

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

授之柄而處其下,無所疑忌,

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

竟與巡俱守死,成功名;

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

2-1

遠、材、巡に及ばざるものの若しと雖も、門を開いて巡を約す。

位本もと巡が上に在り。之に柄を授ける。

而して虞を其の下にす。

之れに柄を授けて、その下に処って、疑い忌む所無し。

竟に巡と倶に死を守って功名を成す。

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

2-2

城陥って虜にせらる。巡と死すること先後異なるのみ。

両家の子弟、材智下うして、二父の志を通知すること能わず。

以為【おも】えらく巡死して遠慮に就く、疑うらくは死を畏れで賊に辞服するやと。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

2-3

遠 誠に死を畏れば、何を苦しんでか尺寸の地を守り、

其の愛する所の肉を食ましめて、以て賊と抗して降せざらんや。

其の囲み守る時に当って、外、比蝉蟻子の援け無し。

2-4

所欲忠者,國與主耳;

忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

而賊語以國亡主滅,

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

遠見救援不至,而賊來益眾,必以其言為信。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

2-4

忠あらまく欲する所の者は、国と主とのみ。

而も賊語ぐるに國亡び主減ぶというを以てす。

遠、救援の至らずして、賊の来ること益ます衆きを見ば、必ず其の言を以て信なりと為ん。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

雖至愚者不忍為。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

烏んぞ城壊れ其の徒倶に死して、独り愧恥を蒙って活を求むること有らん?

至愚の者と雖も、為るに忍びじ。

鳴呼、而るに遠が賢にして之れを為すと謂わんや。

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

觀者見其然,從而尤之,

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

其亦不達於理矣。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

§3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って 之れを尤【すぐれ】るとす。

其れ亦た 理に達せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

猶不得免,其他則又何

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

 

作時年:

807

元和2

40

全唐詩卷別:

全唐文/055

文體:

雜著 書敬

昌黎先生集 

13-04

韓愈全集校注〔三〕一七一五

詩題:

張中丞傳後敘

序文

 

作地點:

長安 國子博士

 

及地點:

洛陽分司 (國子博士)

 

0

 

 

 

0

交遊人物:

張籍

府西驛(書簡交際)

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説

(本文)

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

 

(下し文)

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

(現代語訳)

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は警)州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

 

3-

當二公之初守也,

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

29. 二公 許遠と張巡。

30. 初守 許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。

 

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

31. 逆遁 敗れることを知って、あらかじめ逃れる。前もって大城に逃げる。

 

苟此不能守,雖避之他處何益?

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

 

及其無救而且窮也,

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。

807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#11》 §-3-3- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11017

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#11》 §-3-3- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11017

 

11017

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#11

 

§-3-3

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11017

 

 

 

 

807-11元和二年40#1

張中丞傳後敘-§-3-1

昌黎先生集 巻13-04

全唐文/055

韓愈全集校注〔三〕一七一五

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10121

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

§1-1

元和二年四月十三日夜,

元和二年四月十三日の夜、

愈與郡張籍家中舊書,

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

得李翰所為《張巡傳》。

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

然尚恨有闕者:

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

(張中丞伝の後敘)§1-1

元和二年四月十三日の夜、

愈、呉郡の張籍と、家中の旧著を閲る。

李翰が為る所の張巡が伝を得たり。

1-2

翰、文章を以て自ら名あり。此の伝を為ること頗る詳密なり。

然れども尚お恨むらくは闕くる老有ることを。

許遠が為に伝を立てず、雷万春が事の首尾を載せず。

 

§2

遠雖材若不及巡者,

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

開門納巡,位本在巡上。

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

授之柄而處其下,無所疑忌,

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

竟與巡俱守死,成功名;

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

2-1

遠、材、巡に及ばざるものの若しと雖も、門を開いて巡を約す。

位本もと巡が上に在り。之に柄を授ける。

而して虞を其の下にす。

之れに柄を授けて、その下に処って、疑い忌む所無し。

竟に巡と倶に死を守って功名を成す。

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

2-2

城陥って虜にせらる。巡と死すること先後異なるのみ。

両家の子弟、材智下うして、二父の志を通知すること能わず。

以為【おも】えらく巡死して遠慮に就く、疑うらくは死を畏れで賊に辞服するやと。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

2-3

遠 誠に死を畏れば、何を苦しんでか尺寸の地を守り、

其の愛する所の肉を食ましめて、以て賊と抗して降せざらんや。

其の囲み守る時に当って、外、比蝉蟻子の援け無し。

2-4

所欲忠者,國與主耳;

忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

而賊語以國亡主滅,

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

遠見救援不至,而賊來益眾,必以其言為信。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

2-4

忠あらまく欲する所の者は、国と主とのみ。

而も賊語ぐるに國亡び主減ぶというを以てす。

遠、救援の至らずして、賊の来ること益ます衆きを見ば、必ず其の言を以て信なりと為ん。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

雖至愚者不忍為。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

烏んぞ城壊れ其の徒倶に死して、独り愧恥を蒙って活を求むること有らん?

至愚の者と雖も、為るに忍びじ。

鳴呼、而るに遠が賢にして之れを為すと謂わんや。

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

觀者見其然,從而尤之,

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

其亦不達於理矣。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

§3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って 之れを尤【すぐれ】るとす。

其れ亦た 理に達せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

猶不得免,其他則又何

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説

(本文)

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

 

(下し文)

3-3

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

 

(現代語訳)

11

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

 

(訳注)

張中丞傳後敘

1.(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は警)州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。

歐陽文忠の張中丞傳後をして云う:「張巡は許事壯にすや!秉筆の士、皆喜んで述と稱す、然るに以て翰は紀するの所ちす、唐書列傳、及び退之が書する所と考す、互にまだ得失せず、而して列傳は最も疎略を為す。史家は當記を大節と云うと雖も、然して其の大小の數百戰なり、智謀材力、亦た有過人可以て後者を示す。史家皆滅而不著、甚可惜也。翰之所書、誠為太繁、然廣紀備言、以俟史官之採也。」

文忠云う所は「唐書列傳」者、舊傳に謂う、新傳は則ち翰を采が若し及び公 書く所 并びに舊傳は之を為らん。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

 

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

28. 卓卓 つやつやと輝いているさま。

 

猶不得免,其他則又何  

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

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807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#10》 §-3-2- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11009

807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#10》 §-3-2- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11009

 

 

 

 

 

韓昌黎文集  807年元和2年《韓昌黎文集》

 

 

 

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 

 

今回のテキスト

張中丞傳後敘-§-3-2

作時

807-11元和二年40#1

昌黎先生集

13-04

全唐文

055

韓愈全集校注

〔三冊〕頁一七一五

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

§1-1

元和二年四月十三日夜,

元和二年四月十三日の夜、

愈與郡張籍家中舊書,

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

得李翰所為《張巡傳》。

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

然尚恨有闕者:

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

(張中丞伝の後敘)§1-1

元和二年四月十三日の夜、

愈、呉郡の張籍と、家中の旧著を閲る。

李翰が為る所の張巡が伝を得たり。

1-2

翰、文章を以て自ら名あり。此の伝を為ること頗る詳密なり。

然れども尚お恨むらくは闕くる老有ることを。

許遠が為に伝を立てず、雷万春が事の首尾を載せず。

 

§2

遠雖材若不及巡者,

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

開門納巡,位本在巡上。

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

授之柄而處其下,無所疑忌,

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

竟與巡俱守死,成功名;

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

2-1

遠、材、巡に及ばざるものの若しと雖も、門を開いて巡を約す。

位本もと巡が上に在り。之に柄を授ける。

而して虞を其の下にす。

之れに柄を授けて、その下に処って、疑い忌む所無し。

竟に巡と倶に死を守って功名を成す。

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

2-2

城陥って虜にせらる。巡と死すること先後異なるのみ。

両家の子弟、材智下うして、二父の志を通知すること能わず。

以為【おも】えらく巡死して遠慮に就く、疑うらくは死を畏れで賊に辞服するやと。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

2-3

遠 誠に死を畏れば、何を苦しんでか尺寸の地を守り、

其の愛する所の肉を食ましめて、以て賊と抗して降せざらんや。

其の囲み守る時に当って、外、比蝉蟻子の援け無し。

2-4

所欲忠者,國與主耳;

忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

而賊語以國亡主滅,

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

遠見救援不至,而賊來益眾,必以其言為信。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

2-4

忠あらまく欲する所の者は、国と主とのみ。

而も賊語ぐるに國亡び主減ぶというを以てす。

遠、救援の至らずして、賊の来ること益ます衆きを見ば、必ず其の言を以て信なりと為ん。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

雖至愚者不忍為。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

烏んぞ城壊れ其の徒倶に死して、独り愧恥を蒙って活を求むること有らん?

至愚の者と雖も、為るに忍びじ。

鳴呼、而るに遠が賢にして之れを為すと謂わんや。

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

觀者見其然,從而尤之,

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

其亦不達於理矣。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

§3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って 之れを尤【すぐれ】るとす。

其れ亦た 理に達せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

 

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807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#9》 §-3-1- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11001

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807-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#9》 §-3-1- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11001

 

 

 

 

 

韓昌黎文集  807年元和2年《韓昌黎文集》

 

 

807年、元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳        (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言         (韓愈全集校注 〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書       (韓愈全集校注 〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序     (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘   (韓愈全集校注 〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘     (韓愈全集校注 〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘 (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

 

807-11

張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五)

 -#9

 

§-3-1

 

 

韓愈全集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ11001

 

 

 

 

 

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

          (昌黎先生-13-04

          (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

今回のテキスト

張中丞傳後敘-§-3-1

作時

807-11元和二年40#1

昌黎先生集

13-04

全唐文

055

韓愈全集校注

〔三冊〕頁一七一五

 

張中丞傳後敘

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

§1-1

元和二年四月十三日夜,

元和二年四月十三日の夜、

愈與郡張籍家中舊書,

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

得李翰所為《張巡傳》。

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

然尚恨有闕者:

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

(張中丞伝の後敘)§1-1

元和二年四月十三日の夜、

愈、呉郡の張籍と、家中の旧著を閲る。

李翰が為る所の張巡が伝を得たり。

1-2

翰、文章を以て自ら名あり。此の伝を為ること頗る詳密なり。

然れども尚お恨むらくは闕くる老有ることを。

許遠が為に伝を立てず、雷万春が事の首尾を載せず。

 

§2

遠雖材若不及巡者,

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

開門納巡,位本在巡上。

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

授之柄而處其下,無所疑忌,

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

竟與巡俱守死,成功名;

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

2-1

遠、材、巡に及ばざるものの若しと雖も、門を開いて巡を約す。

位本もと巡が上に在り。之に柄を授ける。

而して虞を其の下にす。

之れに柄を授けて、その下に処って、疑い忌む所無し。

竟に巡と倶に死を守って功名を成す。

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

2-2

城陥って虜にせらる。巡と死すること先後異なるのみ。

両家の子弟、材智下うして、二父の志を通知すること能わず。

以為【おも】えらく巡死して遠慮に就く、疑うらくは死を畏れで賊に辞服するやと。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

2-3

遠 誠に死を畏れば、何を苦しんでか尺寸の地を守り、

其の愛する所の肉を食ましめて、以て賊と抗して降せざらんや。

其の囲み守る時に当って、外、比蝉蟻子の援け無し。

2-4

所欲忠者,國與主耳;

忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

而賊語以國亡主滅,

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

遠見救援不至,而賊來益眾,必以其言為信。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

2-4

忠あらまく欲する所の者は、国と主とのみ。

而も賊語ぐるに國亡び主減ぶというを以てす。

遠、救援の至らずして、賊の来ること益ます衆きを見ば、必ず其の言を以て信なりと為ん。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

雖愚人亦能數日而知死處矣,

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

遠之不畏死亦明矣。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

2-5

外、持つこと無うして猶お死をもって守る。

入びと相食ろうて且【まさ】に尽きなんとす。

愚人と雖も亦能く日を数えて死処を知らん。

遠が死を畏れざること亦明らけし。

 

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

雖至愚者不忍為。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

烏んぞ城壊れ其の徒倶に死して、独り愧恥を蒙って活を求むること有らん?

至愚の者と雖も、為るに忍びじ。

鳴呼、而るに遠が賢にして之れを為すと謂わんや。

 

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

3-2

縄を引いて之れを絶つに、其の絶つること必ず処有り。

観る者 其の然ることを見て、従って之れを尤【とがめ】む。

其れ亦理に遷せざるなり。

 

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

小人の議論を好む、人の美せ成すことを楽しまざること是くの如くなるかな。

巡・遠が成就する所此くの如く卓卓たるが如きだも、猶お免るることを得ず。

其の他は則ち又何ぞ説かん。

3-4

二公の初め守るに当ってや、

寧ぞ能く人の卒に救わざることを知って、城を棄てて逆【あらか】じめ遁れんや。?

苟も此れ守ること能わずんば、之れを他処に避くと雖も何の益かあらん。

其の救い無うして且た窮するに及んで、

 

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

3-5

其の創残餓贏の餘を将いて、去らまく欲すと雄も、必ず達せじ。

二公の賢、其の講ずること精【くわ】し。

一城を守って天下を捍ぐ。

千百盡くるに就んとするの卒を以て、百万日に滋すの師に戦う。

3-6

江淮を蔽遮して、その勢を阻遏す。

天下の亡びざること、其れ誰が功ぞや!。

是時に当って、城を棄てて存を図る者、一二をもって数うべからず。

3-7

彊兵を旗にして、坐ながらにして観る者の相環れり。

追うて此れを議せずして、二公の死を以て守るを責む。

亦其の自ら逆乱に比して、淫辞を設けて之れを助けて攻むるを見る。

 

 

《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説

(本文)

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

 

(下し文)

3-1

説者又謂わく、遠と巡と城を分かって守る。城の陥ること、遠が分かつ所より始まる、と。

此れを以て遠を訴る。此れ又児童の見と異なること無し。

人の将に死せんとするときに、其の臓腑必ず先ず其の病いを受くる老有り。

 

 (現代語訳)

説を立て

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儒教の復興は、彼の思想の基盤である。古文復興運動とは表裏のものであり、その観点から原道」「原性」「原毀」「原人」「「原鬼」などを著している。その一方で、排仏論も、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。六朝から隋、唐にかけての崇仏の傾向が強くくなったのも中国人民に儒教が嫌悪されたからで、学問として哲学としても敬遠されたのだ。そうした中で、韓愈の一門は中国古来の儒教の地位を回復しようとするのであった。


「原」(尋ねるという意味)は、『淮南子』の「原道訓」に倣って、韓愈が始めた論文の一種で、本原をたずねて推論する性質のもであって、「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五原がある。

《原性》を書いて性三品説を確立した。

《原毀》世の謗りは人は多情であっても名声あるものを嫉妬することにある。

《原人》人間とは何か、人道、「仁」の本原の理を明らかにする。

《原鬼》人間の精霊の本原の理を明らかにする。

ということである。

まず原道から始めることとする。長文のため、意味によって区切り、おおむね14段分割し、掲載は22回程度になる。
39韓愈2 原道http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/
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40韓愈2 原性http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/
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41韓愈2 原人http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/
archives/6333021.html
42韓愈2 原鬼http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/
archives/6340683.html
43韓愈2 原毀http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/
archives/6349803.html
802年貞元十八年に国子四門博士(大学教授)となって以来十余年、一時監察御史に出た
ほか、三度博士に任ぜられ、813年元和八年以後しきりに左遷されていた韓退之は、この文章
を作って、学殖がありながら世に用いられない一人の博士の自己弁明を滑稽に述べたのであ
る。
題して「学問を進めるための解明文」という。この解も漢の揚雄の「解嘲」に倣った問答体の俳諧
文で、韻を踏んだ賦に似た形式もその系統をあらわしている。揚雄は「太玄経」を著したが、ある
人から「玄(幽玄な哲学) を説くには、尚、彼の徳は白(素白、浅薄)である」といわれた。玄と
白との語言上の戯れであるが、この嘲(からかい)を解くための文章という意味で 「解嘲」と題し
た。これは漢の東方朔の「答客難」に倣ったものであるが、後漢の班国は、またこれをうけて「答
賓戯」を作った。『文選』には「設諭」体の三篇としてこれらを収載している。韓愈はこれを継いだ
のである。

44韓愈3 進学解http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6240580.html









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もう少しすると、ブログを再開します。

お知らせ

癌と3年戦い、克服し、リハビリ頑張っています。
後遺症を克服すべく毎日懸命に生きています。

勉強も長く中断していましたから、リハビリが必要です。

もう少しすると、ブログを再開します。

 


2019年 7月 7日
紀 頌之
アキくん00

もう少しすると、ブログを再開します。(中唐韓愈)



お知らせ
(もう少しすると、ブログを再開します。)
1年、ブログを休止しておりますが、抗がん剤治療、、、再発、、、抗がん剤治療と
がんと闘っています。

この間、やろうと思ってもなかなかできなかった、資料整理をしています。
あと、2~3か月で、目途が立つでしょう。 

其後、韓昌黎集を基本にしたブログを再開する予定です。

2019年3月10日
紀 頌之
アキくん00

807年-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10654

807-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13

 

 

807-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10654

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

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807年-11元和二年40歳§-3-4《張中丞傳後敘#12》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10647

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807-11元和二年40歳§-3-4《張中丞傳後敘#12》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10647

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

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張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

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807-11元和二年40歳§-3-3《張中丞傳後敘#11》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10640

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

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807-11元和二年40歳§-3-2《張中丞傳後敘#10

 

 

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807-11元和二年40歳§-3-2《張中丞傳後敘#10》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10633

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 


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807-11元和二年40歳§-3-1《張中丞傳後敘#9》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10626

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 


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807-11元和二年40歳§-2-6《張中丞傳後敘#8》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10619

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

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807-11元和二年40歳§-2-5《張中丞傳後敘#7》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10612

外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

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忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

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807-11元和二年40歳§-2-3《張中丞傳後敘#5》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10598

許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

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1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

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4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

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807-11元和二年40歳§-2-2《張中丞傳後敘#4》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10591

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

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2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

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張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

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807-11元和二年40歳§-2-1《張中丞傳後敘#3》〔3〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10584

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

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李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

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      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

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(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

元和二年四月十三日の夜、

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

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 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

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      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#10(§2-6)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10549

いくら“過失が教師である”といっても、きみは自ら罪を得たりすることはめんどうなことでしてはいけないが、もしもなにかためになることを聞きましたら、きっとお知らせ下さい。

わたしもきみにお知らせしましょう。うそなど、申すことなどありません。

けっして忘れはいたしません。貴下に敬意をもって二度礼拝します

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-08§2-5

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0552

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韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 807 元和二年40歳【字解集(1)】8-1  答馮宿書

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      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

(馮宿に答うる書)

§-1-1

僕が闕けたる所を垂示せらる。

情の至れるに非ずんば、僕、安んぞ此の言か聞くことを得ん。

朋友の道缺絶すること久し。

相箴 規磨 切するの道 有ること無し。

僕、何の幸いあってか 乃ち吾子を得たる。

§-1-2

僕 常に時俗の人の耳有れども 自ら其の過ちを聞かざることを閔れむ。

懍懍然として 惟だ己れが自ら聞かざらんことを恐る。

而今よりして後に、吾子に望むこと有り。

§1-3

然れども足下、僕と交わること久し。

僕が守る所は、足下の熟まく知れる所なり。

京城に在りし時に、囂囂たる徒、相訾【そし】ること百倍せり。

足下、時に僕と居る。朝夕に出入起居を同ず。

亦僕が不善有ることを見るや。

§1-4

然も 僕 退いて思えう。

以て罪を人に獲ること無しと雖も、亦た以て罪を人に獲る者有り。

僕、京城に在ること一年、一たびも貴人の門に至らず。

人の趨る所は、僕が傲する所なり。

 

§―2-1

己れと合える者には、則ち之れに従って遊ぶ。

合わざる者は、吾が廬に造ると雖も、未だ嘗って之れと坐せず。

此れ豈 徒らに謗りを致すに足れるのみならんや。

人に戮せられざること、則ち幸いなり。

追うて思えば、為に戦懐 寒心しつべし。

2-2

故に此こに至ってより己来【いらい】、己れを剋して自ら下る。

不肖の人至ると雖も、未だ嘗つて敢えて貌を以て之れを慢らず。

況んや時に尚ぶ所の者をや。?

2-3

此れを以て自ら謂えらく、時の患い無きに庶幾せんと。

知らず、猶復た云云たることを。

流言を聞いて、其の行ないを信ぜざること、鳴呼、復た斯の人有らざるなり。

君子は小人の恟恟たるが為に其の行ないを易えず。

僕、何ぞ能く爾らん。?

2-4

委曲に従順して、風に向うて意を承げる。

汲汲として合うことを得ざらんことを恐る。

猶且つ云云たることを免れざるは命なり!

2-5

如何かすべき。

然も子路は其の過ちを聞くときは、則ち喜ぶ。

禹は昌言を聞くときは、則ち車より下りて拝す。

古の人、言えること有り、日わく、

「我れに告ぐるに吾が過ちを以てする者は、吾が師なり。」と。

2-6

願わくは足下、煩わしきことを慣らざれ。

苟も 聞く所有らば、必ず以て相い告げよ。

吾れも亦以て子に報ずること有らん。

敢えて虚しからじ。

敢えて忘れじ。

 

 

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#08(§2-5

 

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#08(§2-5)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10535

けれども、子路は自分の過失を聞けば喜び24

禹はりっばなことばを聞けば、車から下りてお辞儀しました25。古人のことばにも、

「わたしに自分の過失をつげてくれるものは、わたしの教師だ26」とあります。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-08§2-5

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0552

韓愈全集校注〔三〕一六九三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10528

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#08§2-4)〕

 

 

201853

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聞王昌齡左遷龍標遙有此寄

答馮宿書》〔#08(§2-4

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細かいところまで意見を対立させず、なよなよと従順であること、風向きによって意向を分別しないで迎えるのである。

あくせくと相手と意見がくいちがわないように気づかっていても、なおあれこれいわれなければならない。

それは、運命なのです。だから、どうしようもありません。

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-07§2-3

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0552

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#07(§2-3)〕

 

 

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勞勞亭歌-#2

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807年-05元和二年40歳《【字解集】》〔酬裴十六功曹巡府西驛塗中見寄・記夢〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10066

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-3 805年陽山から江陵36

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index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

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index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-246#3 錦樹行(卷二○(四)一八○八)#3卷二○(四)一八○八注(1258) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10466

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767年-集-21 【字解集】 ・寄峽州劉伯華使君四十韻  Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9366

767年 【字解集】152.課小豎鉏斫舍北果,林枝蔓荒穢淨,訖移床,三首 155.反照 157.向夕 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9645

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

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漢・唐・宋詞

花間集 訳注解説 (420)回目《孫光憲巻八27女冠子二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10530 (05/02)

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花間集 訳注解説 (313)回目和凝【字解集】11柳枝三首  12.漁父一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9639 (12/07)

 

 

 

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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

3.鮑照 雜詩九首【字解集】A  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻四ブログ10545

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巻三-29 【字解集】雜詩三首其一~其三  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 10077

●薛濤の全詩

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●花間集(2

●花間集(3

●花間集(4

●花間集(5

●魚玄機全詩

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●花間集(9

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#07(§2-3)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10521

そうした方法で、現在の被害はなくなってほしいと自分から願っていましたが、

それでもあれこれいわれるとは気がつきませんでした。

うわさはなしを聞いても、孫子は、その話の行為を信用しない、ああ、そういうりっぱな人はもういないのです。

君子は小人ががやがやいうからといって、自分の行為を改めることはありませんが、

僕はそれができないのです。

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-06§2-3

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0552

韓愈全集校注〔三〕一六九三

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807年-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#06(§2-2)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10521

807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#06(§2-2)〕

 

 

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《勞勞亭歌-#1

答馮宿書〔#06(§2-2)〕

錦樹行#3

女冠子二首其一

雜詩九首【字解集】A

.史記・漢書両書の社会的背景の相違

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

749年 8-#1《勞勞亭歌-#1(卷七(一)五一三)》漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之の李白詩訳注解説Blog 10520

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746-【字解集】21.魯東門觀刈蒲 22.魯郡堯祠送五之琅琊 23.魯郡堯祠送張十四遊西北Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集Blog9884

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

《楚辞九辯》

 

 

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

807年-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#06(§2-2)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10521

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807年-05元和二年40歳《【字解集】》〔酬裴十六功曹巡府西驛塗中見寄・記夢〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10066

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

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767年 【字解集】152.課小豎鉏斫舍北果,林枝蔓荒穢淨,訖移床,三首 155.反照 157.向夕 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9645

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

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花間集 訳注解説 (419)回目《孫光憲巻八26女冠子二首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10530 (05/01)

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3.鮑照 雜詩九首【字解集】A  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻四ブログ10545

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●薛濤の全詩

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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと)) 《§-3 班固と『漢書』》Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10511

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#06(§2-2)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10521

だから、ここへすでに来てから、自分をおさえて腰を低くした。

人の影響をすぐ受けるろくでなしがやって来ても、なかなか軽蔑の様子をあらわにすることはしません。

まして、現代、尊敬されているひとはいうまでもありません。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-04§1-1

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0552

韓愈全集校注〔三〕一六九三

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807年-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#05(§2-1)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10514

807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#05(§2-1)〕

 

2018430日の紀頌之"6"つの校注Blog

2018430

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勞勞亭

答馮宿書〔#05§2-1

錦樹行#2

更漏子二首其一

雜詩九首其九 贈故人二首其二

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Ⅰ李白詩

(李白集校注)

749年 7《勞勞亭(卷二五(二)一四四三)》漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之の李白詩訳注解説Blog 10485

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746-【字解集】21.魯東門觀刈蒲 22.魯郡堯祠送五之琅琊 23.魯郡堯祠送張十四遊西北Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集Blog9884

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楚辞・九歌》東君

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・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

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index-4 806年 39 江陵・国子博士25

index-5 806年39歳(2)25

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杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#05(§2-1)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10514

自分と意見のあうものとは、いっしょにつきあったものである。

気持ち、性分のあわないものは、自分の家まで来ることはあっても、座を一つにして会することはありません。

これだけでもは、悪口のたねとして十分なものであった。

そればかりか、人から殺されなかったのは、幸運でありました。

あとから思い返しても、そのためにびくびくひやひやしたものです。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

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答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

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答馮宿書〔#04(§1-4)〕

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#04(§1-4)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10507

でもこうして僕はひきさがって考えてみるとすると、人に悪いことをしていないはずなのに、

人に悪いことをしていると思われることがあるのです。

僕は都に一年いましたが、一度もおえら方の屋敷に行きませんでした。

人がかけつけるところは、僕の軽蔑するところだったのです。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

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答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-01§1-1

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しかし、きみは僕と、これまでも、これからも、長いつきあいですし、僕が堅持して動じない態度であること、

きみはよくよく知っている。

都に朝廷務めをしていたときは、口々にうるさく言いたてるやつらが、多くいた

奴らは互いに百倍も悪口しあっていて、きみはそのとき、僕と同居していた、

朝夕いっしょに出入りし起き臥ししましたから、僕によくないことがあるのも見ていますでしょう。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

807-10 元和二年40

答馮宿書-01§1-1

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0552

韓愈全集校注〔三〕一六九三

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807年-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#02(§1-2)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10493

807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#02(§1-2)〕

 

 

 

2018413

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古風五十九首之十四 -#1.

答馮宿書》〔#02(§1-2)〕

虎牙行#3

清平樂二首其二

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僕は、現代の俗人どもが、耳がありながら、自分の過失を聞こうとせぬのを何時もあわれんでいる、

びくびくと自分がそれを耳にしないのではないかとそればかり気づかっておりましたが、これからのちは、きみにそれが期待できます。

しかし、きみは僕と、これまでも、これからも、長いつきあいです。僕が堅持して動じない態度は、きみがよくよく知っていることです。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-17-06

      (韓昌黎文集校注 巻三17P191

 

答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

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韓愈 哲学・儒学「五原」

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767年-集-21 【字解集】 ・寄峽州劉伯華使君四十韻  Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9366

767年 【字解集】152.課小豎鉏斫舍北果,林枝蔓荒穢淨,訖移床,三首 155.反照 157.向夕 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9645

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杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

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杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

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807-10 元和二年40歳《答馮宿書》〔#01(§1-1)〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10486

(自分の欠点を指摘してくれた、韓愈門下、同期合格者である馮宿を尊敬していることを答えてこの書を寄せた)

§-1-1

僕の欠点を御指摘になりましたが、友情にあふれていなければ、

僕はこうしたことを聞かせていただけないと思います。友人としての道がなくなってから久しく、

忠告しあいはげましあう道がなくなりました。僕はどういう幸運できみという友人ができたのでしょう。

 

 

 

 

韓昌黎文集  《巻十七 06

 

 

 

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答馮宿書    作者:韓愈 唐   

§―1

垂示仆所闕,非情之至,仆安得聞此言?朋友道闕久,無有相箴規磨切之道,仆何幸乃得吾子!仆常閔時俗人有耳不自聞其過,懍懍然惟恐己之不自聞也。而今而後,有望於吾子矣。然足下與仆交久,仆之所守,足下之所熟知。在京城時,囂囂之徒,相訾百倍,足下時與仆居,朝夕同出入起居,亦見仆有不善乎?然仆退而思之,雖無以獲罪於人,亦有以獲罪於人者。仆在京城一年,不一至貴人之門,人之所趨,仆之所傲。

§―2

與己合者則從之遊,不合者雖造吾廬,未與之坐,此豈徒足致謗而已,不戮於人則幸也。追思之,可為戰栗寒心。故至此已來,克己自下,雖不肖人至,敢以貌慢之,況時所尚者耶?以此自謂庶幾無時患,不知猶復云云也。聞流言不信其行,嗚呼,不復有斯人也!君子不為小人之恟恟而易其行,仆何能爾?委曲從順,向風承意,汲汲然恐不得合,猶且不免云云。命也,可如何!然子路聞其過則喜,禹聞昌言則下車拜,古人有言曰:「告我以吾過者,吾之師也。」願足下不憚煩,苟有所聞,必以相告。吾亦有以報子,不敢虛也,不敢忘也。愈再拜。

 

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807-7【字解集】釋言(2)  Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10505

 

 

【字解集】釋言

 

 

 

 

 

 

韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三022

 

 

釋言

作者:韓愈 唐                 

・全唐文/0559-02

・韓愈全集校注〔三〕1701 

・韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02

 

§1

元和元年六月十日,愈自江陵法曹詔拜國子博土,始進見今相國鄭公。公賜之坐,且曰:「吾見子某詩,吾時在翰林。

職親而地禁,不敢相聞。今為我寫子詩書為一通以來。」愈再拜謝,退錄詩書若干篇,擇日時以獻。

§2

於後之數月,有來謂愈者曰:「子獻相國詩書乎?」曰:「然。」曰:「有為讒於相國之座者曰:韓愈曰:相國征餘文,餘不敢匿,相國豈知我哉!’子其慎之!」

§3

愈應之曰:「愈為御史,得罪德宗朝,同遷於南者凡三人,獨愈為先收用,相國之賜大矣;百官之進見相國者,或立語以退,而愈辱賜坐語,相國之禮過矣;四海九州之人,自百官以下,欲以其業徹相國左右者多矣,皆憚而莫之敢,獨愈辱先索,相國之知至矣。賜之大,禮之過,知之至,是三者於敵以下受之,宜以何報?況在天子之宰乎!

§4

人莫不自知,凡適於用之謂才,堪其事之謂力,愈於二者,雖日勉焉而不近。束帶執笏,立士大夫之行,不見斥以不肖,幸矣,其何敢敖於言乎?夫敖雖凶德,必有恃而敢行。愈之族親鮮少,無扳聯之勢於今;不善交人,無相先相死之友於朝;無宿資蓄貨以釣聲勢;弱於才而腐於力,不能奔走乘機抵巇以要權利。夫何恃而敖?若夫狂惑喪心之人,蹈河而入火,妄言而罵詈者,則有之矣,而愈人知其無是疾也。雖有讒者百人,相國將不信之矣,愈何懼而慎歟?」

§5

既累月,又有來謂愈曰:「有讒子於翰林舍人李公與裴公者,子其慎歟!」愈曰:「二公者,吾君朝夕訪焉,以為政於天下,而階太平之治。居則與天子為心膂,出則與天子為股肱。四海九州之人,自百官以下,其孰不願忠而望賜?愈也不狂不愚,不蹈河而入火,病風而妄罵,不當有如讒者之也。雖有讒者百人,二公將不信之矣。愈何懼而慎?」

§6

既以語應客,夜歸,私自尤曰:咄!市有虎,而曾參殺人,讒者之效也。《詩》曰:「取彼讒人,投畀豺虎。豺虎不食,投畀有北。有北不受,投畀有昊。」傷於讒,疾而甚之之辭也。又曰:「亂之初生,僭始既涵。亂之又生,君子信讒。」始疑而終信之之謂也。孔子曰:「遠佞人。」夫佞人不能遠,則有時而信之矣。今我恃直而不戒,禍其至哉!

§7

徐又自解之曰:市有虎,聽者庸也;曾參殺人,以愛惑聰也;《巷伯》之傷,亂世是逢也。今三賢方與天子謀所以施政於天下。而階太平之治,聽聰而視明,公正而敦大。夫聰明則聽視不惑,公正則不邇讒邪,敦大則有以容而思。彼讒人者,孰敢進而為讒哉?雖進而為之,亦莫之聽矣!我何懼而慎?

§8

既累月,上命李公相,客謂愈曰:「子前被言於一相,今李公又相,子其危哉!」愈曰:「前之謗我於宰相者,翰林不知也;後之謗我於翰林者,宰相不知也。今二公合處而會,言若及愈,必曰:‘韓愈亦人耳,彼敖宰相,又敖翰林,其將何求?必不然!’吾乃今知免矣。」既而讒言果不行。

 

 

 

 

 

 

韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02 

《釋言》(辯明)【字解集】

 

 

 

 

 

 

§5-1

既累月,又有來謂愈曰:

やがて数か月がたち、又もやわたしのところへやって来てこういうものがあった。

35. 累月 幾月もして。月を累【かさ】ねる。

 

「有讒子於翰林舍人李公與裴公者,子其慎歟!」

「きみを翰林学士李書甫閣下と中書舎人装増閣下とに讒言したものがいるぞ。きみ、気をつけたがいい。」

36. 翰林舍人李公與裴公者 翰林院学士の李吉甫と中書舎人の裴洎をいう。

 

愈曰:「二公者,吾君朝夕訪焉,

わたしはいう、

「お二人は、わが君の朝の参列から夕べの相談と、ひごろ顧問としておられる。

 

以為政於天下,而階太平之治。

それでもって、天下の政治をされ、そして、“太平の治”状態へすすめようとしている方々である。

37. 階太平之治 太平の治を段階的に致す。階は導く。

 

§5-2

居則與天子為心膂,出則與天子為股肱。

朝廷におれば、天子のために心臓、内臓となり、朝廷、宮殿を出て、地方へ出むいて、天子のために手足となる。

38. 心膂 親信の人をいう。『書経』君牙篇「今爾に命じて予が翼たらしめ、股肱心膂と作(な)す」とある。心膂は心腹と同じ。膂は背骨。身内となる。

39. 為股肱 ももとひじ、足や手となる。主人のために思い通りに働くという意。

 

四海九州之人,自百官以下,

天下じゅうの人は、官僚たちより以下のすべてのものが天子の事を思っている。

 

其孰不願忠而望賜?

だれもが真心をつくしたく願い、御恩をこうむりたいと思っている。

 

§5 -3

愈也不狂不愚,不蹈河而入火,

私は狂気でもなく愚人でもないし、黄河に蹈み入り、火に飛び込んだりはしない。

 

病風而妄罵,不當有如讒者之也。

また狂疾をわずらい、むやみに人を罵ることをしない。讒言をする人のいうようなことはあるはずはないのである。

40病風 風は痕に通じ、狂疾である。

 

雖有讒者百人,二公將不信之矣。

讒言をする者が百人いたとしても、二公はまたこれを信じないであろう。

 

愈何懼而慎?」

私は何を懼れて用心などしようか、と。

 

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