漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

807年-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10654

807-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13

 

 

807-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10654

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

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807年-11元和二年40歳§-3-4《張中丞傳後敘#12》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10647

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807-11元和二年40歳§-3-4《張中丞傳後敘#12》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10647

二公が城の守備を、しはじめたばかりの守備体制が整っていないときのことである。

救援の人、兵卒がいつまでも来ないことを認知させられた、そうなると城を棄てるべきか、見すててひと足さきに逃げ出すべきであろうか。

いやしくもここが守りきれないというのなら、よそへ避難しても、何の役にも立たないということだろう。

救援がないので、せっぱつまってしまったのである。 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

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      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

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807-11元和二年40歳§-3-3《張中丞傳後敘#11》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10640

小人がこうした議論を好むものであり、その中で人の長所、美点を認めることをきらうのである、小人というものはえてして、こうしたものである。

張巡のように、そして許遠がなしとげたということは、これはつやつやと輝くほど素晴らしいものである。

なお、けちをつけられることはないし、その他のことまで文句をつけられることはない。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

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807年-11元和二年40歳§-3-2《張中丞傳後敘#10》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10633

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807-11元和二年40歳§-3-2《張中丞傳後敘#10》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10633

縄を引っぱることによって切るとすれば、それで切れるのは必ずきまった場所であるということである。

それを見たものは、その場所で間違いないと確認するであろうし、それによってその部分こそがもっともな場所であるとするのである。

それはまた、道理に基づくものの域まで達していないものである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

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張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 


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807-11元和二年40歳§-3-1《張中丞傳後敘#9》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10626

説を立てるものは、又こうもいう。「許遠と張巡とは、城を分担して守備していた。城の陥落は、許遠の分担地域からはじまった。」

それを理由として許遠を罵倒するが、それは又、こどもの見解とちがいがない。

人が死のうとするとき、その内臓に必ずまず病気にかかっている部分があるのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 


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807-11元和二年40歳§-2-6《張中丞傳後敘#8》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10619

どうして城が破壊され、自分の部下、仲間がみんな死んたというのに、ただひとり恥辱を受けながら生きようと思うものがあろうか。

いちばん愚かな者でも、なかなかそうする気にはなれまい。

ああ、それなのに、許遠のような賢人がそんなことをするというのか。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

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1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

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外からは待ち望み、期待することもできず、なお死にものぐるいで守ってくれて、城中では人が人の肉を食うまでして、もう全滅しようとしている。

これでは、おろかものでも日を数えていつ死ぬのかを知ることができるであろう。

だから、許遠が死をおそれなかったことは、あきらかである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

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忠をつくそうとした対象は、国家と主君だけであった。

賊軍からは、国家は滅亡し、主君はなくなられたといって来る。

許遠は援軍が到着せず、賊軍がますますたくさんやって来るのを見て、きっとそのことばが本当だと思ったにちがいない。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

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許遠がもしも死をおそれたのなら、どうして苦しんで一尺一寸のちっぽけな土地を守備し、

自分の愛している人たちの肉を食べさせてまで、賊軍に抵抗し、降服しなかったのだろうか。

その敵に囲まれて城を守っていた時に当たって、外からはかげろうやありの子一匹の救援もなかった。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

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5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

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      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

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807-11元和二年40歳§-2-2《張中丞傳後敘#4》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10591

城が陥落して捕虜となり、張巡と死んだのに前後のちがいがあるだけである。

両家の子弟は、才智がおとり、二人の父の志を十分に理解できず、

張巡は戦死して許遠が捕虜になったのは、死をおそれて、賊軍に降服を申し入れたのではないかと疑がっている。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

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      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

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807-11元和二年40歳§-2-1《張中丞傳後敘#3》〔3〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10584

許遠は才能は張巡に及ばない者のようであるけれども、

張巡が遠の軍と合流しょうとして来た時に、門を開いて張巡を収容し、位はがんらい張巡の上にあったのである。

だから。兵権を張巡にさずけて、その下におり、うたがったりねたんだりすることはないのである。

さいごには張巡とともに命を捨てて脽陽を守って功名を立てるのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

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李翰は文章をみずからはこっていた人で、この伝の書きかたも相当くわしいが、

それでも残念なことに闕けてもれおちているところがある。

たとえば、彼とともに戦った許遠のために伝を独立させず、又、雷万春の事跡の顛末を記載していないようなところがあるのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

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807-11元和二年40歳《張中丞傳後敘#1》Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog 10570

(御史中丞張巡 の伝のあとがき)

元和二年四月十三日の夜、

わたしは呉郡の張籍と家の中の古書をしらべていたら、

李翰が書いた《張巡の伝》が見つかった。

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

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張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

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