807年-11 《張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) -#27》 §-5-5- 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 訳注解説Blog11145
11153 |
張中丞傳後敘(韓愈全集校注〔三〕一七一五) |
-#28 |
|
§-5-6 |
|
|
韓愈全集校注 訳注解説 |
|
|
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-11153 |
|
|
5-4
因誦嵩所讀書,
というわけで、于嵩が読んでいる書物を暗話してそらんじて読み上げた。
盡卷不錯一字。
それは一巻のおわりまで、一字もまちがわなかったのである。
嵩驚,以為巡偶熟此卷,
于嵩はびっくりして、張巡が偶然この巻をそらんじていたのだと思ったのであった。
因亂抽他帙以試,無不盡然。
そこで他の巻を手あたり次第に抜き出してためしてみたが、みな同様に暗唱していたである。(暗唱できることは内容も把握していたと驚いたのである)
5-4
因って 嵩が読む所の書を誦す。
巻を尽くして一字を錯らず。
嵩 驚いて以為えらく、巡、偶たま此の巻に熟すと。
困って他の帙を乱抽して以て試みるに、尽くに然らずということ無し。
5-5
嵩又取架上諸書,試以問巡,
于嵩はこんどは、書棚の上のさまざまの書物を取り出して、ためしにそれを張巡にたずねてみたところ、
巡應口誦無疑。
張巡は即応、おうむ返しに誦話して、疑わしくためらうことなどなかった。
嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。
ところが、于嵩は長いあいだ張巡の輩下にいたのだが、張巡がついぞ書物を読んでいるのを見たことがなかったのである。
為文章操紙筆立書,未嘗起草。
文章を作るときは、紙と筆とを手にするとすぐさま本文に取り掛かり、同時に書き出し、草案だの原稿だの、こしらえたことはなかったのである。
5-5
嵩、又架上の講書を取って、試みに巡に問う。
巡、口に応じて話して疑うこと無し。
嵩、巡に従うこと久し。亦巡が常に書を読むことを見ず。
文章を為るときは、紙筆を操って立ちどころに書して、未だ嘗って草を起こさず。
5-6
初守睢陽時,士卒僅萬人,
最初睢陽を守備したとき、将校兵卒はほとんど一万人いたのだが
城中居人戶亦且數萬,
城内の住民の戸数もおなじていどで、また人数は数万ばかりであった。
巡因一見問姓名,其後無不識者。
張巡はそこではじめて出あったおりに姓名をたずね、それから後のことは、みな記憶していた。
巡怒,鬚髯輒張。
張巡が腹を立てると、あごひげも、ほほひげもぴんと立った。
5-6
初め睢陽を守る時に、士卒僅ど万人。
城中の居人の戸、亦且つ数万、巡困って一たび見て姓名を問う。
其の後識さずということ無し。
巡怒るときに、髪髭軌ち張る。
5-7
及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。
巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。
巡曰:『汝勿怖。死,命也。』
5-7
城陥るに及んで、賊、巡等数十人を縳して坐せしめて、且つ将に戮せんとす。
巡起ちて旋す。其の衆、巡が起つを見て、或いは起ち或いは泣く。
巡日わく、『汝怖るること勿かれ。死は命なり、』と。
5-8
眾泣,不能仰視。
巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。
遠寬厚長者,貌如其心,
與巡同年生,月日後於巡,
呼巡為兄,死時年四十九。
5-8
衆泣いて仰ぎ視ること能わず。
巡、教に就く時に、顔色乱れず、陽陽として平常の如し。
遠は寛厚の長老なり。執、其の心の如し。
巡と年を同じゅうして生まる。月日、巡に後れたり。
巡を呼んで兄と為。死する時に年四十九、」と。
5-9
嵩貞元初死於亳、宋間。
或傳嵩有田在亳、宋間,
武人奪而有之,た
嵩將詣州訟理,為所殺。
嵩無子。」張籍云。
5-9
嵩は貞元の初めに、亳、宋の問に死す。
或ひと伝う、嵩、田有って亳、宋の間に在り。
武人奪うて之れを有す。
嵩、将に州に詣って訟理せんとして、為に殺さる、」と。
嵩、子無し。
張籍云う。
《張中丞傳後敘》現代語訳と訳註解説
(本文)
#24 5-6
初守睢陽時,士卒僅萬人,
城中居人戶亦且數萬,
巡因一見問姓名,其後無不識者。
巡怒,鬚髯輒張。
(下し文)
§5-6
(現代語訳)
(御史中丞張巡 傳のあとがき)5-6
最初睢陽を守備したとき、将校兵卒はほとんど一万人いたのだが
城内の住民の戸数もおなじていどで、また人数は数万ばかりであった。
張巡はそこではじめて出あったおりに姓名をたずね、それから後のことは、みな記憶していた。
張巡が腹を立てると、あごひげも、ほほひげもぴんと立った。
(訳注)
張中丞傳後敘
1.(御史中丞張巡 傳のあとがき)
2.【題意】張中丞は唐の張巡のこと。張巡は鄧州南陽の人、開元の末の空、清河の令から真源の令となった。天宝十四年冬、安緑山が叛いたことを聞き、吏土を率いて玄元廟(老子を祭る)に哭し、兵を起こして賊を討ち、睢陽に至り、太守許遠と共に防守したが、城陥って害に遇った。李翰がその伝を作ったが完全でなく、許遠の伝がなく、南霽雲の節義についての記述が漏れているのを慨いて、韓愈はこの後序を書いた。
#28 §5-6
初守睢陽時,士卒僅萬人,
最初睢陽を守備したとき、将校兵卒はほとんど一万人いたのだが
城中居人戶亦且數萬,
城内の住民の戸数もおなじていどで、また人数は数万ばかりであった。
巡因一見問姓名,其後無不識者。
張巡はそこではじめて出あったおりに姓名をたずね、それから後のことは、みな記憶していた。
巡怒,鬚髯輒張。
張巡が腹を立てると、あごひげも、ほほひげもぴんと立った。
張巡 (景雲3年(709年) - 至徳2載(757年)は中国・唐代の武将。字も巡。南陽の出身。若くして兵法に通じ、開元29年(741年)に進士となる。この頃、兄の張暁は監察御史に就任しており、すでに兄弟ともに名声を得ていた。太子通事舎人となり、県令として清河へ赴任。内治に功績を挙げ、任期が満ちた後に楊国忠に推薦する人もあったがこれを断り、真源県へ県令として赴任する。その地でほしいままに振る舞っていた大吏の華南金を誅し、民から慕われた。
張巡・『晩笑堂竹荘畫傳』の概要を見る。:天宝15載(756年)安禄山が反乱を起こし、張巡は兵を集めて雍丘にて、安禄山側の令狐潮、李廷望と戦い、何度も打ち破り、寧陵に移ってからも、楊朝宗を破り、副河南節度使に任じられた。
安慶緒が安禄山を殺し、尹子奇に睢陽を攻めさせた。睢陽太守の許遠に援軍を求められ、睢陽に入り、一手となった。許遠は上官であったが、張巡の実力を認め、主将の位置を譲る。睢陽城は初め、1年分の蓄えがあったのを河南節度使・虢王・李巨に無理に召し上げられ、4月から10月にかけて賊軍に囲まれ、食料に困窮した。臨淮に駐屯していた御史大夫・賀蘭進明に援軍を頼むが、賀蘭進明は敗北することと友軍に背後を襲われるを怖れ、また、張巡の名声を妬み、援軍を断った。
ついに、睢陽は落城に至り、張巡は屈せず、南霽雲、雷万春、姚誾ら幹部30余人は捕らわれて処刑された。許遠は洛陽に連行された。援軍の張鎬が到着したのは、落城後、3日後だった。だが、睢陽城の頑強な抵抗が唐軍の別働隊の行動を容易としたために、落城10日にして賊軍の大部分は敗亡し、尹子奇も殺された。敵兵12万人を殺したと言われる。死後、睢陽に廟が建てられている。