中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊(東野)  漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 訳注解説ブログ

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

2011年09月

初起 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 69

初起 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 69

855年44歳梓州


初 起
おきがけにおもうこと。
想像咸池日欲光、五更鐘後更廻腸。
いつも想像するのは、朝日が水浴びみするという咸池から太陽が光を投げかけている光景である。眠られぬまま夜明け前の五更の鐘を聞き、一層腸がねじれるほどやるせなさが募ってくる。
三年苦霧巴江水、不爲離人照屋梁。

三年もの間、深く重苦しくたちこめた霧に閉ざされ、巴江の水を飲み、この地に居る。旅に出たきり孤独に残されたわたし、この部屋に面影さえも映し出すことはないのだ。


おきがけにおもうこと。
いつも想像するのは、朝日が水浴びみするという咸池から太陽が光を投げかけている光景である。眠られぬまま夜明け前の五更の鐘を聞き、一層腸がねじれるほどやるせなさが募ってくる。
三年もの間、深く重苦しくたちこめた霧に閉ざされ、巴江の水を飲み、この地に居る。旅に出たきり孤独に残されたわたし、この部屋に面影さえも映し出すことはないのだ。





想像す 咸池 日光かんと欲するを、五更の鐘の後 更に腸を廻らす。
三年の苦霧 巴江の水、離人の爲に屋梁を照さず。






初起
おきがけにおもうこと。
初起 起きがけ。初は、~したばかりの意。「初+動詞」。



想像咸池日欲光、五更鐘後更廻腸。
いつも想像するのは、朝日が水浴びみするという咸池から太陽が光を投げかけている光景である。眠られぬまま夜明け前の五更の鐘を聞き、一層腸がねじれるほどやるせなさが募ってくる。
想像 映像が目に浮かぶ。同音の字をならべて、像が浮かびLがるようすをあらわす語。○咸池 太陽が昇る時に水浴びするという天上の池。古代堯帝の時用いた音楽の名。黄帝のさくといわれる。天の神。五穀の事をつかさどる星の名。〇五更 日没から夜明けまでを5分割したその最後の時間、夜明けに近い4時ころ。杜甫「閣夜」李商隠「無題」「蝉」。○廻腸 胸の痛みではなく下半身の痛み、つまり、セックスのできない気持ちをいう。



三年苦霧巴江水、不爲離人照屋梁。
三年もの間、深く重苦しくたちこめた霧に閉ざされ、巴江の水を飲み、この地に居る。旅に出たきり孤独に残されたわたし、この部屋に面影さえも映し出すことはないのだ。
苦霧 深く重苦しくたちこめた心象。○巴江水 巴の地を流れる長江の支流。○離人 思う男性と離ればなれになっている女性を指す。○照屋梁 この語は初句の「咸池日欲光」をうけている。誰も来ない、月明かりも、まして太陽の光さえ届かない部屋を印象づける。夢枕と同じに梁に光が当たるとそれまで陰に隠れていたものが現れる。
太陽の出現を待望しつつ、思う女性に会いたい気持ちを重ねる。李商隠「無題(梁を照らして)」。杜甫「夢李白」二首その一に「落月滿屋樑、 猶疑照顏色。」(落月屋梁に満ち、猶お疑う顔色を照らすかと)とある。李白が夢にあらわれたことを描いている。この句も思う男性が夢にすらあらわれなかった意味を含む。


○詩型 七言絶句。 ○韻 光、腸、梁。


娼屋の女性か、囲われ者の女性が、座敷牢で待つ女性李商隠が、イメージを借りて詩にしている。無題篇と同じである。
一人眠れないまま、重苦しい霧に閉ざされたような毎日、そこには月明かりも、朝日さえ届かない朝を迎え、明るい日の光を切望するかわいそうな女。女性への懇願を詠う。
自分も、都から離れた地の果て、山の中、異土の生活、そうした日々への嫌悪に浸されているが、いつになったら、都に帰れるのか。

石榴 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 68

石榴 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 68



石榴
榴枝婀娜榴實繁、榴膜軽明榴子鮮。
ザクロをつける枝はしなやかに延びる、たわわに熟れるザクロの実はすばらしい。透き通るように薄いザクロの皮膜の内側、ザクロの種は色鮮やかなものだ。
可羨瑤池碧桃樹、碧桃紅頬一千年。

でももっと羨ましいのは西王母の住まう瑤池に植えられている碧桃の木である。三千年に一度実をつける碧桃は、その紅色の肌を一千年もの長く保ち続けるという。



ザクロをつける枝はしなやかに延びる、たわわに熟れるザクロの実はすばらしい。透き通るように薄いザクロの皮膜の内側、ザクロの種は色鮮やかなものだ。
でももっと羨ましいのは西王母の住まう瑤池に植えられている碧桃の木である。三千年に一度実をつける碧桃は、その紅色の肌を一千年もの長く保ち続けるという。



石榴
榴枝は婀娜として榴實は繁し、榴膜は軽明として榴子は鮮かなり。
羨むべし 瑤池 碧桃の樹、碧桃の紅頬は一千年。




石榴 ザクロ。漢の張鶱が西域の安石国(安息国。すなわち西アジアのパルティア王国。漢字はそのアルサケス朝を音訳したもの)から持ち帰ったと伝えられるので安石榴ともいう。女性の性器を卑猥なほど直接的な表現を使っている。石榴の種子を持ち帰ったことはそれとして評価するにしても、張鶱という人物を派遣して西王国を探しに行かせ、そこにある植物の種子を持ち帰るように命じた。不老長寿、回春のための浪費の一部である。王朝自慢の植物をできるだけ揶揄的にとらえて強調する。李商隠は一の詩だけでは芸妓との揶揄の様な詩であっても、引用の仕方において全体的に王朝批判をしているようだ。



榴枝婀娜榴實繁、榴膜軽明榴子鮮。
ザクロをつける枝はしなやかに延びる、たわわに熟れるザクロの実はすばらしい。透き通るように薄いザクロの皮膜の内側、ザクロの種は色鮮やかなものだ。
婀娜 性行為の際のなまめかしい女性しなやかな体のラインを言う。○榴膜 女性の局部の皮膜をいう。それが紙のように薄いことは、『酉陽雑姐』木篇にも「南詔の石榴は、子大きく、皮は薄くして藤紙の如し」と見える。○軽明 薄くて透明。赤い色の紙箋をうたった梁・江洪の詩に「灼爍として蕖の開くに類し、軽明として霞の破るに似る」(「紅箋を詠ず」)。○瑠子 榴実がザクロの果実をいうのに対して、果実のなかの種子をいう。


可羨瑤池碧桃樹、碧桃紅頬一千年。
でももっと羨ましいのは西王母の住まう瑤池に植えられている碧桃の木である。三千年に一度実をつける碧桃は、その紅色の肌を一千年もの長く保ち続けるという。
瑤池 中国の西の果て、西王母の住まう崑崙山の山頂にある池の名。『穆天子伝』に「(穆)天子 西王母を瑤池の上に觴し(酒を勧め)、西王母 天子の為に謡う」というように、西王母が穆天子と会した場。穆天子は周の穆王が伝説化された存在。仙界の女王である西王母と地上の帝王とが交歓する故事は、穆天子のほかに、漢の武帝の話もある。○碧桃 三千年に一度実が生るという仙界の桃。老子が西王母と一緒に碧桃を食べたという話がある(『芸文類聚』巻八六などが引く『尹喜内伝』)。『漢武故事』には、西王母が七月七日に漢の武帝のもとを訪れ、持参した桃を食べさせた、武帝がその種を取っておこうとすると、西王母がこの桃は三千年に一度実を結ぶものだから地上で構えても無駄だと笑った。どうしてもほしいなら、と約束の訓戒を与えた。武帝は、訓戒を守らず侵略のための浪費と、宮殿を数多くたててまっていた。李商隠は漢の武帝がこれらのために国力を減退させたことを問題にする。それは唐王朝が全く同じことをしているからである。○紅頬 若々しく美しい頼。桃の赤い果皮を若い女性の頬になぞらえる。韓愈が女道士を詠った「華山女」
華山女兒皆奉道,欲驅異教歸仙靈。
洗妝拭面著冠帔,白咽紅頰長眉青。
「白き咽 紅き頼 長眉青し」。とある。

○詩型 七言絶句。  ○韻  繁、鮮、年。

武侯廟古栢 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 67 諸葛亮(2)

武侯廟古栢 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 67 諸葛亮(2)
853年大中7年42歳 梓州
この詩は、杜甫の詩にイメージを完全に借りているが、李商隠の諸葛亮に関する評価は少し違っている。

武侯廟古栢
蜀相階前栢、龍蛇捧閟宮。
蜀の丞相諸葛亮の廟、そのあがり框の前に柏が植えられている、あたかも龍蛇のように幹をくねらせ、閟宮を守っている。
陰成外江畔、老向惠陵東。
成都を囲む江水のほとりに影をなす茂みがある、老いていまなお先主劉備の恵陵東に忠誠をあらわしている。
大樹思馮異、甘棠憶召公。
大樹は将軍馮異の武勲を思わせ、甘棠の詩はその治世に慕われた召公を憶わせる。
葉彫湘燕雨、枝折海鵬風。
葉は枯れ、湘江の石燕も風雨に撃たれた。枝は折れ、海鵬も大風に打たれてしまった。
玉壘經綸遠、金刀歴敷終。
志は蜀にそびえる玉塁山ほどに遠大であった、しかし、漢王朝の天の定めた帝王の順序はすでに尽きていたのだ。
誰将出師表、一爲問昭融。

ああ誰か、出師の表をもって、忠誠の念の結晶で歴数が変わるのか、天の意思を問うてはどうだろうか。


蜀の丞相諸葛亮の廟、そのあがり框の前に柏が植えられている、あたかも龍蛇のように幹をくねらせ、閟宮を守っている。
成都を囲む江水のほとりに影をなす茂みがある、老いていまなお先主劉備の恵陵東に忠誠をあらわしている。
大樹は将軍馮異の武勲を思わせ、甘棠の詩はその治世に慕われた召公を憶わせる。
葉は枯れ、湘江の石燕も風雨に撃たれた。枝は折れ、海鵬も大風に打たれてしまった。
志は蜀にそびえる玉塁山ほどに遠大であった、しかし、漢王朝の天の定めた帝王の順序はすでに尽きていたのだ。
ああ誰か、出師の表をもって、忠誠の念の結晶で歴数が変わるのか、天の意思を問うてはどうだろうか。


武侯廟の古柏
蜀相 階前の柏、龍蛇 閟宮(ひきゅう)を捧ずる。
陰は成る 外江の畔、老いて向かう 恵陵の東。
大樹 馮異(ふうい)を思い、甘棠(かんどう) 召公を憶う。
葉は彫(しぼむ) 湘燕の雨、枝は折れる 海鵬の風。
玉塁 経綸(けいりん)遠く、金刀 歴数終る。
誰か出師の表を将って、ひとたび為に昭融に問わん。



武侯廟古栢
武侯廟 三国鼎立の蜀の諸葛亮(諡を忠武侯という)を祀った成郡の廟。廟の前には諸葛亮手植えと伝えられる二本の柏の大木があった。○古柏 杜甫のよく知られた七言律詩「蜀相」760年上元元年49歳 
丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森。
映堦碧草自春色,隔葉黄鸝空好音。
三顧頻煩天下計,兩朝開濟老臣心。
出師未捷身先死,長使英雄涙滿襟。

にも「丞相の両堂 何処にか尋ねん、錦官城外 柏森森たり」と書き起こされ、廟のシンボルであったことがわかる。この杜甫の詩の約100年後のことだ。



蜀相階前栢、龍蛇捧閟宮。
蜀の丞相諸葛亮の廟、そのあがり框の前に柏が植えられている、あたかも龍蛇のように幹をくねらせ、閟宮を守っている。
閟宮 みたまや。「閟」は閉ざすの意。杜甫が夔州の劉備・諸葛亮の廟をうたった「古柏行」のなかに成都の廟を思い出して「憶う昨 路は操る錦亭の東、先主(劉備)・武侯同に閟宮」というように、成都の閟宮には劉備と諸葛亮がともに祀られていた。(次の句の説明参照)



陰成外江畔、老向惠陵東。
成都を囲む江水のほとりに影をなす茂みがある、老いていまなお先主劉備の恵陵東に忠誠をあらわしている。
外江 蜀の地を流れる長江の支流のうち、ふつうは綿陽から重慶に至る涪江を内江、成都から宜賓を経る岷江を外江と呼ぶが、成都に即して錦江を内江、郫江を外江と呼ぶ。ここでは成都の城外を流れる郫江を指す。○恵陵 劉備の陵墓。先主廟は中央室に先主、西室に諸葛武侯、東室に後主を祀ったもの。杜甫「登樓」参照。



大樹思馮異、甘棠憶召公。
大樹は将軍馮異の武勲を思わせ、甘棠の詩はその治世に慕われた召公を憶わせる。
馮異 後漢の建国に頁献した武将。功を誇らず、ほかの将が手柄話に興ずるとひとり樹下に退いていたので「大樹将軍」と呼ばれた(『後漢書』馮異伝)。武将としての諸葛亮が大功をあげながら誇らないのをたとえる。○甘棠憶召公 「召公」は召伯のこと。『詩経』召南に、召伯の徳を人々が慕い、ゆかりのある甘棠の木をうたった「甘棠」の詩がある。宣王の時の召穆公虎を指す。二句は詩題の「古柏」に掛けて樹木にまつわる二つの故事を引き、諸葛亮の武将として(「大樹」)、賢臣として(「甘棠」)の功績を讃える。



葉彫湘燕雨、枝折海鵬風。
葉は枯れ、湘江の石燕も風雨に撃たれた。枝は折れ、海鵬も大風に打たれてしまった。
湘燕雨 湘江のほとり、零陵(湖南省零陵県)には、風雨に遭うと燕のように飛び、雨が止むと石になる「石燕」というものがあると、『芸文類緊』巻九二などが引く『湘中記』に見える。○海鵬風 『荘子』遁遥遊篇の冒頭、北冥(北の海)の鯤という巨大な魚は鵬という鳥に変化し、風に乗って南冥に翔るという話にもとづく。



玉壘經綸遠、金刀歴敷終。
志は蜀にそびえる玉塁山ほどに遠大であった、しかし、漢王朝の天の定めた帝王の順序はすでに尽きていたのだ。
玉壘 山の名。四川省理県の東南にある。○経論 天下国家を治め人民をすく方策。李白「梁甫吟」○金刀 卯金刀の略。卯、金、刀の三字を合成すると漢王朝の姓、劉の字になることから、漢王朝を指す。漢王朝を正統に継承していると称していた。○歴数 天の定めた帝王の順序。

 

誰将出師表、一爲問昭融。
ああ誰か、出師の表をもって、忠誠の念の結晶で歴数が変わるのか、天の意思を問うてはどうだろうか。
出師表 諸葛亮が魏を攻撃するに際して蜀の後主劉禅に奉った上表文。忠誠の念の結晶とされる。『文選』巻三七。○昭融 天を指す。杜甫「哥舒開府翰に投贈す二十韻」詩に「策行なわれて戦伐を遺し、契り合して昭融を動かす」。


○詩型 五言排律。○押韻 宮・東・公・凰・終・融。


この詩のように治世と軍事に秀でた英雄を取り上げた詩もあるが、諸葛亮については、杜甫は成都と夔州、

籌筆驛 紀頌之の漢詩李商隠特集 66 諸葛亮(1)
において、4首、今回3首あげたように、いずれの廟にも詣でて、時世を救う人物の欠如を詠っている。
李商隠の場合はいっそう諸葛亮の忠誠心についてたたえつつ、それだけでは国は救えないと重心を移している。いずれにしても、古人を詠じながらそこに唐王朝の行く末を憂いている点については杜甫詩のイメージ通りである。。



古柏行  杜甫
夔州の諸葛武侯の廟にある古柏についてよんだうた。
大暦元年の作。
孔明廟前有老柏,柯如青銅根如石。霜皮溜雨四十圍,
黛色參天二千尺。君臣已與時際會,樹木猶為人愛惜。
雲來氣接巫峽長,月出寒通雪山白。』憶昨路繞錦亭東,
先主武侯同閟宮。崔嵬枝幹郊原古,窈窕丹青戶牖空。
落落盤踞雖得地,冥冥孤高多烈風。扶持自是神明力,
正直原因造化功。』大廈如傾要梁棟,萬牛回首丘山重。
不露文章世已驚,未辭翦伐誰能送。苦心豈免容螻蟻,
香葉終經宿鸞鳳。志士幽人莫怨嗟,古來材大難為用。』
(古柏行)
孔明が廟前に老柏有り、何は青銅の如く根は石の如し。霜皮雨を溜す四十囲、黛色天に参す二千尺。君臣巳に時の与に際会す、樹木猶お人に愛惜せらる。雲来たって気は巫暁の長きに接、月出でて寒は雪山の白きに通ず。』
憶う昨路 繞めぐる錦亭の東、先主 武侯 同じく閟宮ひきゅう。崔嵬さいかいとして枝幹に郊原古りたり、
窈窕ようちょうとして丹青に戸牖こゆう空し。落落 盤踞ばんきょするは地を得たりと経も、冥冥 孤高なるは 烈風多し。扶持自ずから是れ神明の力、正直 元と因る造化の功。』
大廈たいか如もし傾いて梁棟を要せば、万牛首を廻らして丘山重からん。文章を露さざれども世己に驚く、未だ翦伐を辞せざるも誰か能く送らん。苦心豈に免れんや螻蟻ろうぎを容るるを、香葉曾て経たり鸞鳳を宿せしめしを。』



登樓
成都の城楼にのぼって見る所と感ずる所とをのべた。広徳二年春の作。
花近高樓傷客心,萬方多難此登臨。
錦江春色來天地,玉壘浮雲變古今。
北極朝廷終不改,西山寇盜莫相侵。
可憐後主還祠廟,日暮聊為梁甫吟。
(楼に登る)
花高楼に近うして客心を傷ましむ、万方多難此に登臨す
錦江の春色天地より来たり、玉塁の浮雲古今変ず
北極の朝廷は終に改まらず、西山の山寇相侵すこと莫れ
憐れむ可し後主還た祠廟、日暮聊か梁父の吟を為す

籌筆驛 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 66 諸葛亮(1)

籌筆駅 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 66 諸葛亮(1)
856年 長安 李商隠45歳。

この詩では杜甫と違い諸葛亮を教条主義者とみていたようだ。後世の我々から見ると李商隠の分析力が勝っているように見える。それは詩の題が廟でなく軍隊を鼓舞したその場所にしていること、且つ、諸葛亮の最大の弱点、後継者を育てていないこと、を見事に指摘している。


籌筆驛
魚鳥猶疑畏簡書、風雲長爲護儲胥。
ここに来るとほり池の魚や垣柵にとまる鳥さえ、まだ孔明の軍規律を恐れているように見える。風雲はながくとおりすぎたが、今なお昔の木柵と竹槍で作る陣地の守備垣を護ろうとしているかのようだ。
徒令上将揮神筆、終見降王走傳車。
上将である諸葛孔明が出兵に際し、神筆をふるって書いた出師の表は、ただただどこから見ても群を抜いた出来栄えのいいものだった。しかし、折角の名文も書いた孔明の死後、それを守らず、ついに魏の軍門に下った、玉輦ではないただの駅馬車で洛陽へ送られたのである。
管楽有才終不忝、関張無命欲何如。
孔明は春秋戦国時代の賢相良将である管仲と楽毅の才腕をそなえていて、永遠にその名をはずかしめないものであった。孔明のもとで動かせ、力を合わせるたらよかったのは、かの名将軍、関羽や張飛であるが、いかんせん、関羽は敵に、張飛は部下に殺されていた。
他年錦里經祠廟、梁甫吟成恨有餘。

いつになるかわからないが、成都、錦里の地には、劉備の廟、諸葛亮の廟を経る。そこで好んで誦したという梁甫の梁父吟を私も吟じたなら、尽きせぬ無念さは有り余っているだろう。



ここに来るとほり池の魚や垣柵にとまる鳥さえ、まだ孔明の軍規律を恐れているように見える。風雲はながくとおりすぎたが、今なお昔の木柵と竹槍で作る陣地の守備垣を護ろうとしているかのようだ。
上将である諸葛孔明が出兵に際し、神筆をふるって書いた出師の表は、ただただどこから見ても群を抜いた出来栄えのいいものだった。しかし、折角の名文も書いた孔明の死後、それを守らず、ついに魏の軍門に下った、玉輦ではないただの駅馬車で洛陽へ送られたのである。
孔明は春秋戦国時代の賢相良将である管仲と楽毅の才腕をそなえていて、永遠にその名をはずかしめないものであった。孔明のもとで動かせ、力を合わせるたらよかったのは、かの名将軍、関羽や張飛であるが、いかんせん、関羽は敵に、張飛は部下に殺されていた。
いつになるかわからないが、成都、錦里の地には、劉備の廟、諸葛亮の廟を経る。そこで好んで誦したという梁甫の梁父吟を私も吟じたなら、尽きせぬ無念さは有り余っているだろう。



籌筆駅
魚鳥 猶お疑う 簡書を畏るるかと、風雲 長く為に儲胥(ちょしょ)を護る。
徒らに上将をして神筆を揮わ令め、終に降王の伝車を走らすを見る。
管 楽 才有りて 終に忝(はず)かしめず、関 張 命無し 何如せんと欲す。
他年 錦里に祠廟(しびょう)を経ば、梁甫吟成って 恨余有らん。



籌筆駅
籌筆駅 四川省広元県北方にある地名。三世紀、三国鼎立時代、蜀の宰相諸葛亮(181-234)字名孔明が討魏の軍を率いて出陣する時、常にこの地に駐屯して作戦をねったと伝えられる。詩は文武兼備の才あれど天の利なかった諸葛亮の事蹟を哀傷する。「三体詩」にもとられている。なお、李商隠が杜甫の影響を強く
受けていることは、既に宋代から指摘されているがはたしてそうなのか。




魚鳥猶疑畏簡書、風雲長爲護儲胥。
ここに来るとほり池の魚や垣柵にとまる鳥さえ、まだ孔明の軍規律を恐れているように見える。風雲はながくとおりすぎたが、今なお昔の木柵と竹槍で作る陣地の守備垣を護ろうとしているかのようだ。
畏簡書 簡書は軍中のおきてのかきつけ。「詩経」小雅出車に「豈、帰るを懐わざらんや、此の簡書を畏れる。」とみえる。軍の規律の厳しいことをいう。○儲胥 木柵と竹槍で作る陣地の守備がき。漢の揚雄(紀元前54-紀元18年)の長楊の賦に「木もて擁し槍もて塁す、以て儲胥と為す。」とある。




徒令上将揮神筆、終見降王走傳車。
上将である諸葛孔明が出兵に際し、神筆をふるって書いた出師の表は、ただただどこから見ても群を抜いた出来栄えのいいものだった。しかし、折角の名文も書いた孔明の死後、それを守らず、ついに魏の軍門に下った、玉輦ではないただの駅馬車で洛陽へ送られたのである。
上将 総司令官。諸葛亮を指す。○揮神筆 はなはだ秀れた文字、あるいは文章を書くということ。ここは彼が建興五年(227年)の出兵に際してたてまつった上奏文「出師の表」を指す。それは、三国時代の代表的な名上奏文として有名で、梁の昭明太子の「文選」にも採られている。○降王走傳車 降王は降伏した亡国の王、蜀の後主劉禅(207―271年)をさす。詣葛亮の在世中はその輔佐によって帝位を保ったが、亮の死(234年)後、景耀六年(263年)魏の将軍鄧艾(197-264年)の軍門に降った。伝車とは、駅伝の馬車のこと。劉禅は降伏後、そうした馬車で洛陽へおくられた。


管楽有才終不忝、関張無命欲何如。
孔明は春秋戦国時代の賢相良将である管仲と楽毅の才腕をそなえていて、永遠にその名をはずかしめないものであった。孔明のもとで動かせ、力を合わせるたらよかったのは、かの名将軍、関羽や張飛であるが、いかんせん、関羽は敵に、張飛は部下に殺されていた。
管楽 管は春秋時代の斉国の賢相、管仲あざな夷考。楽は戦国時代の燕国の卿の楽毅のこと。管仲は桓公をたすけて覇業をなした。管仲は内政改革し、物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。楽毅は軍略にすれ、斉と戦って七十余城をくだした。晋の陳寿の「三国志一諸葛売伝によると、彼は若い頃、自分の才能を管仲や楽毅に比較して誇っていたという。○関張 局の名将軍関羽と張飛のこと。関羽は建安二十四年(二一九年)に死し、張飛は先主劉備の章武元年(二二一年)に死んだ。二人とも諸葛亮が活躍する以前に他界していた。


他年錦里經祠廟、梁甫吟成恨有餘。
いつになるかわからないが、成都、錦里の地には、劉備の廟、諸葛亮の廟を経る。そこで好んで誦したという梁甫の梁父吟を私も吟じたなら、尽きせぬ無念さは有り余っているだろう。
(その歌をうたいおわった時にも、なおその痛切なおもいはその歌をこえて溢れるであろう。)
他年 今年以外は、過去未来に拘らず他年である。いつになるかわからないが。○錦里 蜀の都、錦城とよばれ、四川省成都の地名。○祠廟 やしろ。覇王劉備の廟は錦里にあり、その西に諸葛亮の廟もあった。晋の常壌「華陽国志」その他の地志にのせる。○染甫 梁甫は泰山の傍にある山名である。○吟成 梁甫吟は山東地方の民謡。諸葛亮ははじめ、河南省南陽の都県に住んでいた。父の玄の死後、亮はみずから隴畝に耕し、好んで梁父吟を作ったと「三国志」の伝にある。既成のメロディに合わせて歌詞を作ったのである。「王者徳有りて功成らば、則ち東に泰山に封ず。泰山は以て時の君に喩え、梁父は以て小人に喩う。」とあるから、諸葛亮が梁父吟を作ったのだろうという。
晋の伏深の「三斉略記」ある梁父吟
「歩して斉の東門を出で、造かに蕩陰の里を望む。里中に三つの墳有り、塁々として正に相い似たり。借問す、誰が家の塚ぞ、田強・古冶子なり。力は能く南山を耕やし、文は能く地紀を絶す。一朝に讒言を被り、二桃にて三士を殺す。誰か能く此の謀を為すや、国相たる斉の妟子。」


 


杜甫における諸葛亮四首

 蜀相      (成都)
丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森。
映堦碧草自春色,隔葉黄鸝空好音。
三顧頻煩天下計,兩朝開濟老臣心。
出師未捷身先死,長使英雄涙滿襟。

蜀相
丞相の 祠堂  何處にか 尋ねん,
錦官城外  柏 森森たり。
堦に 映ずる 碧草は  自ら 春色にして,
葉を 隔つる 黄  空しく 好音。
三顧 頻煩なり  天下の 計,
兩朝 開濟す  老臣の 心。
出師 未(いま)だ 捷(か)たざるに身先(ま)づ 死し,
長(とこし)へに 英雄をして  涙 襟に 滿たしむ。


② 武侯廟(菱州)
遺廟丹青落,空山草木長。
猶聞辭後主,不復臥南陽。

(武侯の廟)
遺廟丹青落ち 空山草木長し
猶お聞くがごとし後主を辞するを 復た南陽に臥せず


③ 諸葛廟(菱州)
久游巴子國,屢入武侯祠。竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
君臣當共濟,賢聖亦同時。翊戴歸先主,併吞更出師。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。欻憶吟梁父,躬耕也未遲。

(諸葛廟)
久しく遊ぶ巴子の国 屡々入る武侯の祠
竹目虚寝に斜めに 渓風薄唯に満つ
君臣共済に当たる 賢聖亦た時を同じくす
切戴先主に帰す 并呑更に師を出す
虫蛇画壁を穿つ 巫碗蛛糸に綴〔酔〕う
放ち憶う梁父を吟ぜしを 窮耕するも也た未だ遅からず


④ 詠懷古跡 五首其五 諸葛廟 杜甫(菱州)
諸葛大名垂宇宙,宗臣遺像肅清高。
三分割據紆籌策,萬古雲霄一羽毛。
伯仲之間見伊呂,指揮若定失蕭曹。
福移漢祚難恢復,志決身殲軍務勞。

諸葛が大名宇宙に垂る、宗臣の遺像粛として清高
三分割拠筆策を紆らす、万古雲背の一羽毛
伯仲の間に伊呂を見る、指揮若し定まらば蒲曹を失せん
運移りて漢詐終に復し難く、志 決するも身は繊く軍務の労に
この第五首は諸葛廟について孔明の事に感じてよんだものである。

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茂陵 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 65

 

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茂陵 李商隠:紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64
847年 鄭州と長安 李商隠36歳。


茂陵
漢家天馬出蒲梢、苜蓿榴華遍近郊。
漢の武帝は、遠征して大宛の国を討ち、天馬のように一日、千里をはしる馬を得た、その馬が蒲梢産であったから、蒲梢と名づけた。ある時は張鶱を西域に遣わし、その馬の好物である苜蓿をはじめ、石榴や胡桃などの珍樹を持ち帰らせ、それを国都の近郊に植えさせ、珍しい草木の花々が、一般化したということだ。
内苑只知銜鳳觜、属車無復插鶏翹。
宮中の庭苑内に多くの禽獣を飼い、弓を弾き狩猟のみした。弓の弦が切れたら、鳳の觜から作ったという接着剤を唾でとかすだけで剣でも接着するのにただ知っているだけだった。
武帝が巡行する時の属車に鸞鈴をつけた旗はどの車にもつき立てられていなかった。毎度、お忍びの夜遊びをしていた。
玉桃倫得憐方朔、金屋粧成貯阿嬌。
(晩年には、神仙に傾倒し、仙女の西王母と会うのを楽しみに次次と宮殿を建てた。)三千年にひとたび実る神秘な桃の実を三度もぬすんで俗界に貶められた侍臣の東方朔が武帝の憐れみを得ているのも西王母と会いたいがためだけだ。
誰料蘇卿老歸國、茂陵松柏雨蕭蕭。
誰も考えはしなかったことだが、忠臣の蘇武卿が、武帝の限りない欲望のため、匈奴に十九年も捕われていたが年老いて帰国した。武帝は茂陵にまつられ、松柏に、蕭蕭と雨が降りそそぐだけだった。



漢の武帝は、遠征して大宛の国を討ち、天馬のように一日、千里をはしる馬を得た、その馬が蒲梢産であったから、蒲梢と名づけた。ある時は張鶱を西域に遣わし、その馬の好物である苜蓿をはじめ、石榴や胡桃などの珍樹を持ち帰らせ、それを国都の近郊に植えさせ、珍しい草木の花々が、一般化したということだ。
宮中の庭苑内に多くの禽獣を飼い、弓を弾き狩猟のみした。弓の弦が切れたら、鳳の觜から作ったという接着剤を唾でとかすだけで剣でも接着するのにただ知っているだけだった。
武帝が巡行する時の属車に鸞鈴をつけた旗はどの車にもつき立てられていなかった。毎度、お忍びの夜遊びをしていた。
(晩年には、神仙に傾倒し、仙女の西王母と会うのを楽しみに次次と宮殿を建てた。)三千年にひとたび実る神秘な桃の実を三度もぬすんで俗界に貶められた侍臣の東方朔が武帝の憐れみを得ているのも西王母と会いたいがためだけだ。
誰も考えはしなかったことだが、忠臣の蘇武卿が、武帝の限りない欲望のため、匈奴に十九年も捕われていたが年老いて帰国した。武帝は茂陵にまつられ、松柏に、蕭蕭と雨が降りそそぐだけだった。



漢家の天馬 蒲梢(ほしょう)より出づ、苜蓿(もくしゅく) 榴華(りゅうか) 近郊に遍(あまね)し
内苑 只だ知る鳳觜(ほうし)を銜(ふく)むを、属車 復た 鶏翹(けいごう)を插(さしは)さむ無し。
玉桃 倫み得て方朔を憐み、金屋 粧い成って阿嬌(あきょう)を貯(たくお)う
誰か料(はか)らん 蘇卿老いて国に帰れば、茂陵の松柏 雨蕭蕭たらんとは




茂陵
茂陵 漢の武帝のみささぎ。紀元前39年に初めて茂陵郡をおき武帝自らみさきざを作った。陝西省長安の西北西60km。これは漢の武帝の事蹟を歌う批判的詠史詩。「三体詩」にも採られている。
長安と何将軍

 
漢家天馬出蒲梢、苜蓿榴華遍近郊。
漢の武帝は、遠征して大宛の国を討ち、天馬のように一日、千里をはしる馬を得た、その馬が蒲梢産であったから、蒲梢と名づけた。ある時は張鶱を西域に遣わし、その馬の好物である苜蓿をはじめ、石榴や胡桃などの珍樹を持ち帰らせ、それを国都の近郊に植えさせ、物珍らしい草木の花々が、一般化したということだ。
天馬 天上の馬のような駿足の馬。武帝は太初年間(紀元前104―101年)大宛国を撃ち二日に千里を走る馬を得た。それを蒲梢と名付け、天馬の歌を作った。その歌にいう、「天馬来れ。西極より、万里を経て有徳に帰す。」ことは「史記」楽書に見える。○蒲梢 上述のごとく馬の名なのだが、李商隠は地名のようにこの言集を用いている。○苜蓿 華名。うまごやし。「漢書」西域伝によると、大宛の馬はこの事を好むゆえ、武帝は張鶱に千金を持たせて大宛国に使いさせ、この事の種を持ち帰らせて離宮に植えたという。○榴華 ざくろの花。西晋の張華の「博物志」に、張鶱が西域に使いし、石榴・胡桃・蒲桃などの珍らしい樹を得てかえったとある。○近郊 国都をへだつ五十里以内を近郊といい、百里以内を遠郊という(「周礼」地官の鄭玄の注)。


内苑只知銜鳳觜、属車無復插鶏翹。
宮中の庭苑内に多くの禽獣を飼い、弓を弾き狩猟のみした。弓の弦が切れたら、鳳の觜から作ったという接着剤を唾でとかすだけで剣でも接着するのにただ知っているだけだった。
武帝が巡行する時の属車に鸞鈴をつけた旗はどの車にもつき立てられていなかった。毎度、お忍びの夜遊びをしていた。
内苑 宮御苑。そこに禽獣を飼育する。○銜鳳觜 鳳常は、鳳のくちばしから作るという膠のこと。漢の東方朔に偽託される「海内十州記」に、道教の仙人が、鳳の嘴と麟の角からにかわをつくり、続舷の膠と名づけたという話をのせる。弓や琴の弦の切れたもの、或いは折れた剣をもつなぐことができたという。漢の武帝の時・西国の使者がこの膠を献じたのだが、武帝はその効用を知らず死蔵していた。たまたま、華林園で虎を射ようとして弓の弦の切れた時、はじめてこの「にかわ」の素晴しさを知ったという。銜は口にふくみ唾で膠をとかすこと。○属車 おともする車。○插鶏翹  天子が巡幸する時、鸞旗、つまり鳥の羽毛で飾り、鈴をつけた御旗を先頭に立てる。後漢の察邕の「独断」に、人民がその旗のことを鶏翹と呼んだとある。翹勉は鳥の尾の長い毛。右は、武帝が正式の儀仗をととのえず、お忍びで出遊するのを好んだ事をいう。

 
玉桃倫得憐方朔、金屋粧成貯阿嬌。
(晩年には、神仙に傾倒し、仙女の西王母と会うのを楽しみに次次と宮殿を建てた。ー李商隠「漢宮詞」)
三千年にひとたび実る神秘な桃の実を三度もぬすんで俗界に貶められた侍臣の東方朔が武帝の憐れみを得ているのも西王母と会いたいがためだけだ。
玉桃 玉のような桃の実。東晋の葛洪の「抱朴子」に「崑崙山に玉桃あり、光明洞徹して堅し。」と見える○憐方朔 憐は愛する。方朔は漢の武帝に仕えた文人東方朔、あざな愛情のこと。「漢武故事」に、仙女西王母が武帝の禁中に下降した時、東方朔の方を指さして、この児はもと私の隣りにいた者だが、天の法にたがい、いまは人間世界におとしめられている。むかし私の園で三千年に一たび実る玉桃を三度も倫んだ、と言ったとある。以後武帝は一そう方朔を愛したという。方朔は太中大夫給事中として侍従したが、評語に富む小説的な人物だったので、俗伝の中で非現実的な事蹟が多く伝えられる。○金屋 美しいやかた。「漢武故事」に、武帝が五歳、膠東王だった時、おばに当る長公主が王を抱いて、「あなた姉さんが欲しいかえ。」と尋ねたところ、「欲しいよ。」と彼は答えた。公主がむすめの阿婿を指して、どうかと尋ねると、幼い武帝は、「もし阿婦をよめにもらったならこがねのやかたを作って住ませてあげるよ。」と言ったとある。(吉川幸次郎博士の「漢の武帝」を参照)○阿嬌 長公主の娘、後の陳皇后。


誰料蘇卿老歸國、茂陵松柏雨蕭蕭。
誰も考えはしなかったことだが、忠臣の蘇武卿が、武帝の限りない欲望のため、匈奴に十九年も捕われていたが年老いて帰国した。武帝は茂陵にまつられ、松柏に、蕭蕭と雨が降りそそぐだけだった。
誰料 料は予想する。誰料何何で、一体そのことを誰が推測しえただろう、と反語になる。○蘇卿 漢代の忠臣蘇武(?―紀元前60年)あざな子卿のこと。漠の天漢元年(紀元前100年)武帝の命を受けて匈奴に使いして捕われたが、屈しなかった。北海、今のバイカル湖のほとりで牧羊させられること数年、先に匈奴を征めて捕虜となっていた将軍李陵(?-紀元前74年)が蘇武に降伏をすすめたがきかなかった。武帝の子昭帝劉弗陵(紀元前95-74年)の時、匈奴の国が乱れ、漢との和議が成立して、19年目に故国に帰ることができた。〇松柏 柏はひのきの塀。常緑喬木の総称。漠代の古詩十九首に「青青たり陵上の相」とあるように茂陵には松や柏が植えられる。○蕭蕭 ものさびてあわれなるさま。


武帝は五歳の頃、おばさんの長公主に、阿橋をお嫁さんに欲しいかえと尋ねられて、もし阿婿をもらったら、金の屋敷を作って住ませてあげるよ、と答える早熟ぶりだったが、事実、黄金の屋敷や宮殿を建て、陳皇后だけではない数多くの美女を侍らしたものである。
しかしその栄華をほこった武帝にも、死はおとずれた。

李商隠は漢の武帝の領土拡大欲、神仙道教への傾倒、我儘な性格、奢侈な生活これらは人民を苦しめるだけだと批判している。唐王朝も同じことをしている。やがて滅ぶぞと。

賈生 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64

賈生 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64
847年 鄭州と長安 李商隠36歳。


賈生
宣室求賢訪逐臣、賈生才調更無倫。
漢の孝文帝は賢者を求めて、いったんは讒言を信じて長沙へ流謫した買誼をよびもどし、公正室で彼を召見した。賈誼の才能は群を抜いており、比べる者も全く見当らないのである。
可憐夜半虚前席、不問蒼生問鬼神。

だが、憐れむべきことであった、賈誼は得意の弁舌を振って、夜半にまでいたり、帝が思わず、坐席を前のめりにさせるほどであったのであったが、質問されたのは、人民を治める政事についてではなかった、天地の陰と陽の神々についてだけだった.


漢の孝文帝は賢者を求めて、いったんは讒言を信じて長沙へ流謫した買誼をよびもどし、公正室で彼を召見した。賈誼の才能は群を抜いており、比べる者も全く見当らないのである。
だが、憐れむべきことであった、賈誼は得意の弁舌を振って、夜半にまでいたり、帝が思わず、坐席を前のめりにさせるほどであったのであったが、質問されたのは、人民を治める政事についてではなかった、天地の陰と陽の神々についてだけだった。
(彼の才能はそのように帝の好奇心を満足させるために利用されたに過ぎなかった。官僚になろうとする者は、人民のためのまつりごとについて、勉強している。どの時代の皇帝も女と奢侈と利己的な要求だけするものだ。朝廷内を正道に戻すことから始めるべきだ。)



賈 生
宜室 賢を求めて 逐臣を訪ぬ、賈生の才調 更に倫無し。
憐れむべし、夜半 虚(むな)しく席を前(すす)めしを、蒼生を問わずして鬼神 を問う



賈生 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した



宣室求賢訪逐臣、賈生才調更無倫。
漢の孝文帝は賢者を求めて、いったんは讒言を信じて長沙へ流謫した買誼をよびもどし、公正室で彼を召見した。賈誼の才能は群を抜いており、比べる者も全く見当らないのである。
宜室 天子の居間。未央宮前殿の正等○遂臣中央からおい出された臣下。〇才調才能、ことに文学の才能。



可憐夜半虚前席、不問蒼生問鬼神。
だが、憐れむべきことであった、賈誼は得意の弁舌を振って、夜半にまでいたり、帝が思わず、坐席を前のめりにさせるほどであったのであったが、質問されたのは、人民を治める政事についてではなかった、天地の陰と陽の神々についてだけだった。(彼の才能はそのように帝の好奇心を満足させるために利用されたに過ぎなかった。官僚になろうとする者は、人民のためのまつりごとについて、勉強している。どの時代の皇帝も女と奢侈と利己的な要求だけするものだ。朝廷内を正道に戻すことから始めるべきだ。)
虚前席 席はしきもの。人の談話を傾聴して次第に坐席を前に移すことを前席という。○蒼生 人民。○鬼神 かみ。鬼は陰の神、神は陽のかみ。

漢宮詞 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 63

漢宮詞 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 63
846年 鄭州と長安 李商隠35歳。



漢宮詞
青雀西飛竟未回、君王長在集霊臺。
仙女西王母の使者である青い鳥は、崑崙山のある西の彼方へ飛び去って、約束の訓戒を守らず奢侈にあけくれ、ついに二度とかえって来なかった。漢の武帝は西王母を迎え長命の術をさずかるべく、集霊宮、通天台などの高閣を建てて、長くそこで西王母をまっていた。
侍臣最有相如渇、不賜金茎露一杯。

その侍臣に文才秀れた司馬相如がいたが糖尿病を病んで苦しんでいた。帝は、それを知らぬはずのないのに、豪華に設えた承露盤の露、それは不老長寿の薬であり、盃に一杯だけでも賜ろうとしなかった。




仙女西王母の使者である青い鳥は、崑崙山のある西の彼方へ飛び去って、約束の訓戒を守らず奢侈にあけくれ、ついに二度とかえって来なかった。漢の武帝は西王母を迎え長命の術をさずかるべく、集霊宮、通天台などの高閣を建てて、長くそこで西王母をまっていた。
その侍臣に文才秀れた司馬相如がいたが糖尿病を病んで苦しんでいた。帝は、それを知らぬはずのないのに、豪華に設えた承露盤の露、それは不老長寿の薬であり、盃に一杯だけでも賜ろうとしなかった。



漢宮詞
青雀は西に飛んで竟に未だ回らず、君王は長えに在り 集霊台。
侍臣 最も相加の渇有れども、金茎の露一杯を賜らず




○漢宮 直接的には、漢の武帝劉徹(紀元前156-前87年)短気で独断的な性格、後半は、外征や不老長寿願望、神仙嗜好等から来る奢侈により財政の悪化をさせた。
漢の武帝がそうであったように、道教寺観を各地に立て、国教化させた唐朝では、第6代皇帝玄宗李経基(685-752年)や第11代皇帝憲宗(778―820年)を顕著な例とし、殆ど歴代の天子が、晩年、不老長寿の術に迷い、劇薬に却って健康をそこなったからである。第15代天子武宗(814-845年)も中毒死。○司馬相如 は「子虚・上林賦」」を武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。これらのことを題材にして、漢の武帝を詠いながら、それ以上にひどい唐王朝を批判している。


青雀西飛竟未回、君王長在集霊臺。
仙女西王母の使者である青い鳥は、崑崙山のある西の彼方へ飛び去って、約束の訓戒を守らず奢侈にあけくれ、ついに二度とかえって来なかった。漢の武帝は西王母を迎え長命の術をさずかるべく、集霊宮、通天台などの高閣を建てて、長くそこで西王母をまっていた。
青雀 仙界との通信を媒介するという鳥。この句は漢の武帝の故事をふまえる。六朝時代の小説「漢武故事」と「漢武帝内伝」の記事を折衷すると以下の如くである。漢の武帝が承華殿で禊をしていたところ、突然、青い鳥が西方から飛んで来た。武帝が侍従文人の東方朔に尋ねた所、仙女西王母の使者に相違ないとの答えだった。事実、間もなく聖母がやって来た。武帝は長命の術をたずね、西母は守るべき訓戒を与えた。三年後に再訪するという約束を得たので、その後、武帝は彼女を迎える楼閣は建てたが、訓戒の養生訓を守らなかったので、西王母は二度とやって来なかったという。なお「漢武帝内伝」では、使者は青衣の女子となっている。○集霊台 漢の武帝が道教に執心し、西王母を迎える為に建てた宮殿の一つ。集霊宮中の通天台のこと。陝西省華山の北の山麓にあったという。



侍臣最有相如渇、不賜金茎露一杯。
その侍臣に文才秀れた司馬相如がいたが糖尿病を病んで苦しんでいた。帝は、それを知らぬはずのないのに、豪華に設えた承露盤の露を、それは不老長寿の薬であり、盃に一杯だけでも賜ろうとしなかった。
相如渇 相如は漢代の文人司馬相如(紀元前179年 - 紀元前117年)字名長卿のこと。蜀群成都の人。初め孝景帝劉啓(紀元前188―141年)に仕えたが、その弟である梁の孝主が文人を優遇するのを知って、それに仕えた。梁主の死後、故郷に帰り、臨卭の富豪卓王孫の娘文君の心を、琴の調べでとらえてかけおちした。のちに彼の作品上林の賦が認められて武帝に仕えた。彼は若い頃から消渇(恐らく糖尿病のこと)を病んでいたが、晩年は故郷に蟄居した。消渇(しょうかち、しょうかつ)は、現在では糖尿病を指す言葉として用いられている。本来の伝統中国医学(東洋医学)の用語では、口渇がひどく多量の水を飲んでも、体内でその水が消えてなくなるすなわち尿量が少ないことで現在の脱水状態をいう。現代医学の病名に比較すれば糖尿病に匹敵するが、実際には腎機能障害、心臓血管不全、水分代謝中枢障害が原因となって起こる口渇と多尿の証候を意味している。
唐皇帝の多くは、強中症として色を好み、丹石を多く食べて真気が脱落し、熱邪が出て、痩せてきて、小便が膏油のようで、いつも勃起し、交合しなくても射精するといった症状である。三消の中ではでもっとも難治性である。漢方医学では牛車腎気丸、滋陰降火湯、四物湯、清心蓮子飲、調胃承気湯、麦味地黄丸、八味地黄丸、鹿茸大補湯、六味丸が用いられるが、万病回春によると天花粉を主薬にすべしとある。○金茎 承露盤を支える銅柱。承露盤は漢の武帝が建章宮に建てた銅盤。その上の霧を飲めば不死を求め得ると道教では説く。

宮詞 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 62

宮詞 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 62
846年 鄭州と長安 李商隠35歳。



宮詞 
君恩如水向東流、得寵憂移失寵愁。
天子の寵愛というものは、大河が東海に流れていくようにながれるもの、水流のように留まらずに去るものなのだ。後宮の妓女たる身は、寵愛を得てからは、心変りを憂え、寵愛を失ってからはまた悲しみ愁えることになる。
莫向樽前奏花落、涼風只在殿西頭。

愁いが重なったとしても宴席において花落の笛曲を奏でたりしてはいけないのだ。寵愛が冷めたこと、それを思う苦しさには耐えられないと江淹の擬古詩に「窃かに愁う涼風の至り」と漢の成帝の妃班婕妤の愁いを詠ったように「切に恐る秋節の至るを。」と歌った秋風が、いま、後宮の西辺に迫ってきているのだ。



天子の寵愛というものは、大河が東海に流れていくようにながれるもの、水流のように留まらずに去るものなのだ。後宮の妓女たる身は、寵愛を得てからは、心変りを憂え、寵愛を失ってからはまた悲しみ愁えることになる。
愁いが重なったとしても宴席において花落の笛曲を奏でたりしてはいけないのだ。寵愛が冷めたこと、それを思う苦しさには耐えられないと江淹の擬古詩に「窃かに愁う涼風の至り」と漢の成帝の妃班婕妤の愁いを詠ったように「切に恐る秋節の至るを。」と歌った秋風が、いま、後宮の西辺に迫ってきているのだ。



(下し文)
君恩は水の如く東に向い流れる、寵を得ては移らんことを憂い寵を失いては愁う。
樽前に向いて花落を奏すること莫かれ、涼風は只だ殿の西頭に在り。



宮詞 李商隠
宮詞 後宮の事を主題とする歌謡。中庸の詩人王建(767頃-830頃)は枢密使の王守澄から宮中のことを漏れ聞き、これを素材として七言絶句の「宮詞」百首を作った。王建の詩は次の通り。
宮詞   王建
金吾除夜進儺名、画袴朱衣四隊行。
院院焼灯如白日、沉香火底坐吹笙。

宮詞   王建
銀燭秋光冷画屏、軽羅小扇撲流蛍。
玉階夜色涼如水、臥看牽牛織女星。

当形式に倣って後世、和凝や花蕊夫人らが「宮詞」百首を作ることになる。歌謡の歌詞を作るのにたくみ一世を風靡した。
李商隠この作品は王建の体にならったもの。宮辞とも書く。この一首は「三体詩」にとられている。



宮詞
君恩如水向東流、得寵憂移失寵愁。
天子の寵愛というものは、大河が東海に流れていくようにながれるもの、水流のように留まらずに去るものなのだ。後宮の妓女たる身は、寵愛を得てからは、心変りを憂え、寵愛を失ってからはまた悲しみ愁えることになる。
向東流 中国大陸は東方が海に面するゆえ、大河はすべて東流する。○憂愁 あらかじめ心配することを憂と云い、悲しみの既に至ってうれうるのを愁という。



莫向樽前奏花落、涼風只在殿西頭。
愁いが重なったとしても宴席において花落の笛曲を奏でたりしてはいけないのだ。寵愛が冷めたこと、それを思う苦しさには耐えられないと江淹の擬古詩に「窃かに愁う涼風の至り」と漢の成帝の妃班婕妤の愁いを詠ったように「切に恐る秋節の至るを。」と歌った秋風が、いま、後宮の西辺に迫ってきているのだ。
向樽前 向は、方向を示す意味を含みつつ、何処そこでの(で)に近い。この場合、酒樽に向かう、酒宴、宴席に向かう、宴席に侍る。○花落 盧照鄰「横吹曲」、『梅花落』が奏されていた。盧照鄰(641―680)河北(范陽)の人。初唐の四傑の一人。
梅花落
梅院花初発、天山雪未開。
雪処疑花満、花辺似雪廻。
因風入舞袖、雑紛向牀台。
匈奴幾万里、春至不知来。

梅院の花が初めて発くも、天山の雪は未まだ開かず
雪ふる処は花満つるかと疑い、花辺は雪の廻るに似たり
風に因りて舞袖に入り、紛に雑じりて牀台に向う
匈奴 幾万里、春至るも来たるを知らず

 
涼風 秋風。梁の江淹(444-505年)の班婕妤の詠扇に擬古詩に「窃かに愁う涼風の至り、我が玉階の樹に吹くことを。」とあるのをふまえる。班礎好は漢の成帝劉鷔(紀元前五紀元七年)の宮妓、趙飛燕に寵を奪われて怨歌行を作った。それに「常に恐る秋節の至るを。」という句が含まれている。○西頭 後宮の西辺。西は閨を示す。寵愛に秋風ということだ。頭はあたり。

題僧壁 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 61

題僧壁 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 61
853年梓州李商隠42歳。
題借壁 李商隠47

この詩は、仏教の教えを4つの側面で捉えて詩にした。①命というもの、②物事の大きさということ、③事物の背景には、長い熟成がある、④経文の「おしえ」により生きる 
というものである。

題僧壁
捨生求道有前蹤、乞脳剜身結願重。
解脱への修行の道をもとめれば釈迦の誰も知る「おしえ」に示されている。餓えた虎の叫ぶのを聞いて、命を捨てよと。釈迦は、何一つ人に施すもののないときは、自分の脳味噌を人に与え、肉をさいて虎に施すことをも躊躇しなかった。それほど道を得ようとする願いは重く固いのだ。
大去便應欺粟顆、小來兼可隠針鋒。
大をみればこの大宇宙を一粒の粟の中に蔵し得るとなし、小さいこと考えれば、また尖った針の頭に、この多くの人々を受けて隠し得るものと説いている。
蚌胎未満思新桂、琥珀初成憶舊松。
海底の蛤が孕んだ真珠が、まだ円くひかり輝かぬうちにも、やがて月の上では新月のうちに桂が繁るだろうことを人が予想し、琥珀の一滴の輝きというものには、過去二千年の松の年輪がおもいめぐらされている。
若信貝多眞實語、三生同聴一樓鐘。

多羅樹の葉によって伝わる経文にかかれた真実を信じ、煩悩を捨て一心不乱に生きるなら、過去生、現在生、未来生、どこに生きようとこの高楼から響くこの鐘の音は同じように聞こえるのであろう。


解脱への修行の道をもとめれば釈迦の誰も知る「おしえ」に示されている。餓えた虎の叫ぶのを聞いて、命を捨てよと。釈迦は、何一つ人に施すもののないときは、自分の脳味噌を人に与え、肉をさいて虎に施すことをも躊躇しなかった。それほど道を得ようとする願いは重く固いのだ。
大をみればこの大宇宙を一粒の粟の中に蔵し得るとなし、小さいこと考えれば、また尖った針の頭に、この多くの人々を受けて隠し得るものと説いている。
海底の蛤が孕んだ真珠が、まだ円くひかり輝かぬうちにも、やがて月の上では新月のうちに桂が繁るだろうことを人が予想し、琥珀の一滴の輝きというものには、過去二千年の松の年輪がおもいめぐらされている。
多羅樹の葉によって伝わる経文にかかれた真実を信じ、煩悩を捨て一心不乱に生きるなら、過去生、現在生、未来生、どこに生きようとこの高楼から響くこの鐘の音は同じように聞こえるのであろう。



僧壁に題す
生を捨て 道を求めること 前蹤(ぜんしょう)有り、脳を乞(あたえ) 身を剜(さ)き 願を結ぶこと重。
大にしては便(すなわち) 応(まさ)に粟顆(ぞくか)を欺(あざむ)くべく、小にしては兼ねて針鋒に隠れる可(べし)。
蚌胎(ぼうだい) 未だ満たずして新しき桂を思い、琥珀(こはく) 初めて成り 旧き松を憶う。
若し貝多(ばいた)真実の語を信ずれば、三生 同じく聴かん一楼の鐘




○題僧壁 僧院の壁に書きつけた詩。李商隠は仏教への関心も深く、妻の死後、剣南東川節度使柳仲郢の書記として四川省の梓州へ赴いた時、常平山の慧義精舎経蔵院で写経を行った。これは宣宗大中7、8年頃(853・854年)晩年の作。


(命というもの)
捨生求道有前蹤、乞脳剜身結願重。
解脱への修行の道をもとめれば釈迦の誰も知る「おしえ」に示されている。餓えた虎の叫ぶのを聞いて、命を捨てよと。釈迦は、何一つ人に施すもののないときは、自分の脳味噌を人に与え、肉をさいて虎に施すことをも躊躇しなかった。それほど道を得ようとする願いは重く固いのだ。
捨生 求道身を捨てて無上の悟脱をもとめる。捨生は釈迦の前生に摩詞薩埵王子となって修行中、夜叉の化身の試しに応じ、崖の上から自分の体を投げ出して、飢えた虎に慈悲を垂れた有名な故事から出る言葉。なお梁の釈慧皎の「高僧伝」に亡身篇があり、中国における僧侶の捨生求道の事蹟を載せる。○前蹤 前例となる事柄、おしえ。○乞脳剜身   「因果経」に「菩薩は頭目脳体を以て、人に施すを以て、無上正直の道を求むるを為す。」と見える。乞は与える。剜はさく。


(物事の大きい、小さいということは)
大去便應欺粟顆、小來兼可隠針鋒。
大をみればこの大宇宙を一粒の粟の中に蔵し得るとなし、小さいこと考えれば、また尖った針の頭に、この多くの人々を受けて隠し得るものと説いている。
大去 去は語助詞。大きくなれば、というくらいの意味〕次句の小來の來も同じ。○欺粟顆 顆は粒に同じ。仏偏に「一粒の粟の中に世界を蔵す。」とある。○隠針鋒 北涼の曇無讖訳「大般涅槃経」に「尖頭針鋒も無量衆を受ける。」という句があるのをふまえる。



(物事の背景にあるものとは)
蚌胎未満思新桂、琥珀初成憶舊松。
海底の蛤が孕んだ真珠が、まだ円くひかり輝かぬうちにも、やがて月の上では新月のうちに桂が繁るだろうことを人が予想し、琥珀の一滴の輝きというものには、過去二千年の松の年輪がおもいめぐらされている。
蚌胎 蛤の胎盤。おなかに真珠の玉を抱いていること。○思新桂 月中に桂の樹があるという俗伝にもとづく。○琥珀初成 琥珀は樹脂の化石したもの。西晋の張葦の「博物志」に、松の脂は地中に冷ちて、千年すれば化して茯苓と為り、また千年すれば化して琥珀と為る、という。



(経文の「おしえ」により生きる)
若信貝多眞實語、三生同聴一樓鐘。
多羅樹の葉によって伝わる経文にかかれた真実を信じ、煩悩を捨て一心不乱に生きるなら、過去生、現在生、未来生、どこに生きようとこの高楼から響くこの鐘の音は同じように聞こえるのであろう。
貝多 貝多葉。印度の多蘿樹の葉。それに文字を書いたところから、印度の書物特に仏典を貝(多)葉という。〇三生 過去生、末来生、現在生をいう。




○韻  蹤、重、鋒、松、鐘。

北青蘿 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 60

北青蘿 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 60
853年梓州李商隠43歳。

李商隠晩年の作。唐王朝は王朝として存在はするものの各地の潘鎮、節度使が小王国を形成し始めており、官僚による国家の正常な政治は期待できない状態であった。李商隠の詩に変化が現れ、「獺祭魚」的な部分は影を潜め、隠遁者、禅宗の修行者の雰囲気の抒情詩になっている。

北青蘿
残陽西入崦、茅屋訪孤僧。
夕日が迄か西の彼方崦峨山に入るころ、茅ぶきの庵に独り住う僧を訪ねてきた。
落葉人何在、寒雲路幾層。
枯葉が庭に敷き詰められている、ここには人の気配というものがどうしあるといえよう。冬の寒々した雲はが、幾層にも道のように積み重ってあたりをおおっでいる
濁敲初夜磬、閒倚一枝藤。
ただ、僧のたたく磬の音だけが宵の時刻にあたりに響き渡っている。私はものしずかに一本の藤の杖によりかかって見ているだけである。
世界微塵裏、吾寧愛與憎。
この世界、万物とりわけ人間は、徴かい塵のようであり、どうしようもない仕組みの中にいるのである。私は、どうして、女性を愛すること宦官や党派の政争を憎しみというものを考えているのだろうか。



夕日が迄か西の彼方崦峨山に入るころ、茅ぶきの庵に独り住う僧を訪ねてきた。
枯葉が庭に敷き詰められている、ここには人の気配というものがどうしあるといえよう。冬の寒々した雲はが、幾層にも道のように積み重ってあたりをおおっでいる
ただ、僧のたたく磬の音だけが宵の時刻にあたりに響き渡っている。私はものしずかに一本の藤の杖によりかかって見ているだけである。
この世界、万物とりわけ人間は、徴かい塵のようでありどうしようもない仕組みの中にいるのである。私は、どうして、女性を愛すること宦官や党派の政争を憎しみというものを考えているのだろうか。




北青蘿
残陽は西のかた崦(えん)に入り、茅屋に孤僧を訪う。
落葉 人何くにか在る、寒雲 路幾層。
独り敲(たた)く初夜の磬(けい)、閒(しずか)に倚る一枝の藤。
世界 微塵(びじん)の裏、吾寧(な)んぞ愛と憎とをせんや。
 
 
残陽西入崦、茅屋訪孤僧。
夕日が迄か西の彼方崦峨山に入るころ、茅ぶきの庵に独り住う僧を訪ねてきた。
北青蘿 字義は山蔭のつた。ここは庵の名であろう。だが、場所設定はできないが晩年であり、○ 山の一角。日が沈んでいる部分のこと。雲南省崦峨山のこととする説もあるが、違う。隠者は場所の特定をしないもの。


落葉人何在、寒雲路幾層。
枯葉が庭に敷き詰められている、ここには人の気配というものがどうしあるといえよう。冬の寒々した雲はが、幾層にも道のように積み重ってあたりをおおっでいる。


濁敲初夜磬、閒倚一枝藤。
ただ、僧のたたく磬の音だけが宵の時刻にあたりに響き渡っている。私はものしずかに一本の藤の杖によりかかって見ているだけである。
初夜 初更すなわち午後八時。○ 玉石の楽器。キン。折れ曲った矩形に造り、軒にかけて鳴らす。鐘と共に時刻を知らすのに用いられる。○閒倚 閒は閑に同じ。〇一枝藤 藤の杖。生の蔦は木に巻きついているが、杖はそれを解き一枝にしている。隠者の雰囲気を醸し出している表現である。


世界微塵裏、吾寧愛與憎。
この世界、万物とりわけ人間は、徴かい塵のようでありどうしようもない仕組みの中にいるのである。私は、どうして、女性を愛すること宦官や党派の政争を憎しみというものを考えているのだろうか。
世界微塵裏 微塵はこまかいちり。裏は、ものの裏或いは内側、転じて広く仕組みの内、仕組みののもとでという意味。


天涯 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 59

天涯 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 59
853年梓州李商隠43歳。

春日在天涯、天涯日又斜。
春は君との思い出のある季節だ。わたしは地の果てにいる。そんな地の果てにいても太陽がかたむいてくると君との夜が思い出される。
鴬啼如有涙、爲濕最高花。
鴬はここにも啼くのだが、君の歌はここでは聞けない、琴の音を聞いていると涙がでて啜り泣いてしまう。そ君との濡れ場は考えるだけでも一番高い所に咲く花のように手にも取れない。


春は君との思い出のある季節だ。わたしは地の果てにいる。そんな地の果てにいても太陽がかたむいてくると君との夜が思い出される。
鴬はここにも啼くのだが、君の歌はここでは聞けない、琴の音を聞いていると涙がでて啜り泣いてしまう。そ君との濡れ場は考えるだけでも一番高い所に咲く花のように手にも取れない。


天涯
春日 天涯に在り、天涯 日 又斜めなり。
鶯は啼いて 涙有る如く、為に湿す 最高の花。

春日在天涯、天涯日又斜。
春は君との思い出のある季節だ。わたしは地の果てにいる。そんな地の果てにいても太陽がかたむいてくると君との夜が思い出される。
○天涯 地の果て。当時は四方に果てがあると考えられていた。当時は女性が旅行することはないので、都か、江南の、女性に天涯という表現の方が分かりやすいことであろう。東川節度使柳仲邸の幕下、梓州(四川省三台県)にいた頃の作。


鴬啼如有涙、爲濕最高花。
鴬はここにも啼くのだが、君の歌はここでは聞けない、琴の音を聞いていると涙がでて啜り泣いてしまう。そ君との濡れ場は考えるだけでも一番高い所に咲く花のように手にも取れない。
鴬啼如有涙 この句は司馬相如と卓文君の恋物語に基づいている。鶯は司馬相如の『鳳求凰』の琴の音を意味する。また、鶯は歌の上手い芸妓をも示す。このような地の果てに来て、逢うこともできないでいることに対する涙。李商隠は、司馬相如の物語、ラブレターで卓文君を射止めたことを引きながら、この詩を今はあえない芸妓に贈ったものであろう。
爲濕最高花。 この句は相手を最高に持ち上げたものである。濕は性交を示す。花は女性自身、


 

(李商隠解説)
数年徐州で判官をし、851年長安に帰り、令狐綯の力で大学博士に任官する。852年より梓州に赴任する。この時期になると出世というものからはずれ、自己について嘲笑的態度へと変化させることにより自己満足をする、従来の出来事の裏側のある隠された部分を故事、性的描写など李商隠らしく批判的なものを覆いつつあらわしていたものが消えていく物足りない詩になっていく。

李商隠が後半生 において政治詩をほとんど遺していない事との関連性も想起 しうるのである。

揺落 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 58李商隠

揺落 李商隠  :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 58李商隠

詩は、草木揺落する秋吾に託して、僻地に流寓る孤独をだれかわからない女性にラブレターとして歌う。

揺落
揺落傷年日、羈留念遠心。
今、草も木も揺れ落ち、過ぎ去りゆく年をかなしみを覚える憂愁の季節、旅先に長逗留する私の心は、遙かな故郷をしきりに思う。
水亭吟断續、月幌夢飛沈。
水郷の旅館で、詩を詠じつつ作る私は、感情の途絶えと継続を続けている。月光は宿のとばりを照らしとお前とのことを思う、ある時には鳥
のようにまた魚のように、飛びまた沈むような夢のひと時を。
古木含風久、疎螢怯露深。
古木の梢は微風をしばらく抱きかかえる、一つ二つまばらに飛んで螢は露の深さを恐れて、河畔の茂みから姿をあらわしている。
人閑始遙夜、地迥更清砧。
人気なく閑散として静寂のなかで、秋の夜長がはじまる、へんぴな片田舎、澄み切ったきぬたの音がしみわたり心を震わせる。
結愛曾傷晩、端憂復至今。
たとえ平和な生活が約束されていても、私達は愛を結ぶことの遅かったことを悲しんだものだったのに、その時むすばれた前途への憂いは、現実のこととなり、その悲哀の中にのみずっと私は住むこととなった。
未諳滄海路、何處玉山岑。
東海のあおい仙境に向かう海路がある、貴い真珠があり、玉をもって輝く仙山がきりたっており、そこへ赴く道が何処にあるのかわからない。
灘激黄牛暮、雲屯白帝陰。
ここ黄牛山の山麓の日暮れ、はやせには急流が激しい水音を立てて流れ、雲のようなお前の姿が、彼方の白帝城に見えかくれ思いを寄せるのだ。
遙知霑灑意、不滅欲分襟。
その涙と悲しみは、私達が袖を分って別れた時のことを思い出す、あの時のそれにも劣らない気持ちは消えはしない。

今、草も木も揺れ落ち、過ぎ去りゆく年をかなしみを覚える憂愁の季節、旅先に長逗留する私の心は、遙かな故郷をしきりに思う。
水郷の旅館で、詩を詠じつつ作る私は、感情の途絶えと継続を続けている。月光は宿のとばりを照らしとお前とのことを思う、ある時には鳥のようにまた魚のように、飛びまた沈むような夢のひと時を。
古木の梢は微風をしばらく抱きかかえる、一つ二つまばらに飛んで螢は露の深さを恐れて、河畔の茂みから姿をあらわしている。
人気なく閑散として静寂のなかで、秋の夜長がはじまる、へんぴな片田舎、澄み切ったきぬたの音がしみわたり心を震わせる。
たとえ平和な生活が約束されていても、私達は愛を結ぶことの遅かったことを悲しんだものだったのに、その時むすばれた前途への憂いは、現実のこととなり、その悲哀の中にのみずっと私は住むこととなった。東海のあおい仙境に向かう海路がある、貴い真珠があり、玉をもって輝く仙山がきりたっており、そこへ赴く道が何処にあるのかわからない。
ここ黄牛山の山麓の日暮れ、はやせには急流が激しい水音を立てて流れ、雲のようなお前の姿が、彼方の白帝城に見えかくれ思いを寄せるのだ。
その涙と悲しみは、私達が袖を分って別れた時のことを思い出す、あの時のそれにも劣らない気持ちは消えはしない。


揺落す 年を傷むの日、萌留して遠きを念う心あり。
水亭に 吟 断続し、月幌に 夢 飛沈す。
古木は風を含むこと久しく、疎なる螢は露の深きを怯る。
人は閑かなり 始めて遙き夜、地は迥にして更に清き砧あり。
結愛 曾て晩きを傷み、端憂 復た今に至る。
未だ諳んぜず 滄海の路、何の処にか玉山の岑ある。
灘は激す 黄牛の暮、雲は屯す 白帝の陰。
逢かに知る 霑灑の意の、襟を分たんとするに減ぜざらんことを。



揺落傷年日、羈留念遠心。
今、草も木も揺れ落ち、過ぎ去りゆく年をかなしみを覚える憂愁の季節、旅先に長逗留する私の心は、遙かな故郷をしきりに思う。
傷年 過ぎ去りゆく年をかなしむ。劉宋の飽照の故人に贈るの詩に「歓び至るも時に留まらず、毎に感じて輒ち年を傷む。」○羈留 長逗留。


水亭吟断續、月幌夢飛沈。
水郷の旅館で、詩を詠じつつ作る私は、感情の途絶えと継続を続けている。月光は宿のとばりを照らしとお前とのことを思う、ある時には鳥のようにまた魚のように、飛びまた沈むような夢のひと時を。
 ちん。旅館、休憩所。○ 詩を詠じつつ作る。〇月幌 月夜のとばり。杜甫(712-770年)が月を観て妻子に寄せた詩「月夜」
今夜鄜州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。
今夜  鄜州(ふしゅう)の月、閨中(けいちゅう)  只だ独り看(み)るらん。
遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の、未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを。
香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。
何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り、双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん。
と表現して以来、月幌の字には、妻を思う意が含められる。○夢飛沈 飛は鳥、沈は魚。「荘子」大宗師
笛に「夢に鳥と為って天に腐り、夢に魚となって淵に没む。」と。


古木含風久、疎螢怯露深。
古木の梢は微風をしばらく抱きかかえる、一つ二つまばらに飛んで螢は露の深さを恐れて、河畔の茂みから姿をあらわしている。


人閑始遙夜、地迥更清砧。
人気なく閑散として静寂のなかで、秋の夜長がはじまる、へんぴな片田舎、澄み切ったきぬたの音がしみわたり心を震わせる。


結愛曾傷晩、端憂復至今。
たとえ平和な生活が約束されていても、私達は愛を結ぶことの遅かったことを悲しんだものだったのに、その時むすばれた前途への憂いは、現実のこととなり、その悲哀の中にのみずっと私は住むこととなった。
端憂 劉宗の謝荘(421-466年)の月の賦に「陳王初め応(場)劉(楨)を喪い、端憂して暇多し。」と前例がある。悲しい一の事柄にのみかかわって、他になす事を知らぬ憂いという意味であろうか。


未諳滄海路、何處玉山岑。
東海のあおい仙境に向かう海路がある、貴い真珠があり、玉をもって輝く仙山がきりたっており、そこへ赴く道が何処にあるのかわからない。
滄海・玉山 錦瑟の詩。


灘激黄牛暮、雲屯白帝陰。
ここ黄牛山の山麓の日暮れ、はやせには急流が激しい水音を立てて流れ、雲のようなお前の姿が、彼方の白帝城に見えかくれ思いを寄せるのだ。
○灘 はやせ。○黄牛 峡谷の名。湖北省宜昌県西北にある黄牛山の山麓にある。○白帝 白帝城。四川省夔州にある山。梁の簡文帝蕭網(503-551年)の浮雲の詩に「憐むべし片雲生ず、暫く重く復た還た軽し。荊王の夢をして、白帝城を過ぐべからしめんとす。」とあるごとく、楚の懐王の夢枕にあらわれた神女の巫山というのは夔州にある故に、白帝の雲といえば、単なる実景ではなく、思い人を夢見る意味も含まれる。○ 山の北側。川では陰はみなみである。


遙知霑灑意、不滅欲分襟。
その涙と悲しみは、私達が袖を分って別れた時のことを思い出す、あの時のそれにも劣らない気持ちは消えはしない。
分襟 別離。


○韻 心、沈、深、砧、今、岑、陰、襟。

荊門西下 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 57

荊門西下 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 57
848年37歳


荊門西下
一夕南風一葉危、荊門廻望夏雲時。
ある夕べ、激しい南風が吹いたが、長江を下っていくと木の葉のような小舟は危く顛覆するかのようになった。いま、荊門山の上に夏の雲がぎらぎら光るのを眺めながら、生きた心地もしなかったことと南の佳林でのことこの荊州でのことすべてをかえりみているのだ。
人生豈得軽離別、天意何曾忌嶮巇。
もともと、この南方からこの地へ、仕官の都合上、やむなき理由でこの地を去るのだが、なるほど、人生は別離を軽んじてはならないのだ。そして、天の意志は、必ずしも峻巇な地形を作ることを嫌わない。いかに上司が左遷され、周りが他党派であろうと、簡単に職を辞していいものだろうか。
骨肉書題安絶徼、蕙蘭蹊径失佳期。
各地を転赴しているので家族からの音信は絶えてなく、中央政府から遠隔地だと気も安らかに過ごせるのだが、かつては、再びこの洞庭湖のあたりを訪れることがあれば、かぐわしい蕙蘭の叢のある川辺の小径で逢瀬の約束をしておいたのだが、その約束をも逸失してしまったこともあるが、実は、師ともいうべき揚嗣復とあえなかったのだ
洞庭湖濶蛟龍悪、却羨楊朱泣路岐。
洞庭湖ははてしなく広い。広いゆえに、水底にすむ蛟龍も巨大で、食欲に人をのもうとする悪しき性をもつというのも、長江下流域を治める重要地点でわるいやつらに抑えられているのだ。むかし岐路に立って、北へも南へも進める故に泣いたという哲人楊朱の嘆きをうらやましくおもう。私は自愛主義、悦楽主義に徹することはできないのである。


ある夕べ、激しい南風が吹いたが、長江を下っていくと木の葉のような小舟は危く顛覆するかのようになった。いま、荊門山の上に夏の雲がぎらぎら光るのを眺めながら、生きた心地もしなかったことと南の佳林でのことこの荊州でのことすべてをかえりみているのだ。
もともと、この南方からこの地へ、仕官の都合上、やむなき理由でこの地を去るのだが、なるほど、人生は別離を軽んじてはならないのだ。そして、天の意志は、必ずしも峻巇な地形を作ることを嫌わない。いかに上司が左遷され、周りが他党派であろうと、簡単に職を辞していいものだろうか。
各地を転赴しているので家族からの音信は絶えてなく、中央政府から遠隔地だと気も安らかに過ごせるのだが、かつては、再びこの洞庭湖のあたりを訪れることがあれば、かぐわしい蕙蘭の叢のある川辺の小径で逢瀬の約束をしておいたのだが、その約束をも逸失してしまったこともあるが、実は、師ともいうべき揚嗣復とあえなかったのだ
洞庭湖ははてしなく広い。広いゆえに、水底にすむ蛟龍も巨大で、食欲に人をのもうとする悪しき性をもつというのも、長江下流域を治める重要地点でわるいやつらに抑えられているのだ。むかし岐路に立って、北へも南へも進める故に泣いたという哲人楊朱の嘆きをうらやましくおもう。私は自愛主義、悦楽主義に徹することはできないのである。




荊門 西より下る
一夕 南風一葉危うし、荊門に廻望す 夏雲の時。
人生 豈に離別を軽んじ得んや、天意 何んぞ曾って嶮巇(しゅんき)を忌まん。
骨肉の書題 絶徼に安んじ、蕙蘭の蹊径 佳期を失う。
洞庭湖濶く、蛟龍 悪し、却って羨やむ 楊朱の路岐に泣きしを



荊門 山名。湖北省宜都県の西北方、長江の南岸にある。河川に両岸が迫っているので呼ばれる。北岸の虎牙山と相対した江運の難所である。宜宗の大中二年(848年)、桂林刺史、桂管防禦観察使の鄭亜が循州(広東省恵陽県)に貶され、李商隠は幕を辞して都へ帰った。馮浩はその路中の作とする。偶成転韻と題する詩に「頃之職を失いて南風に辞す、破帆壊漿 荊江の中。」と歌われており、李商隠はこの荊門のあたりの難所で実際に危険な目にあったらしい。杜甫「詠懐古跡五首其三」李白「秋下荊門」「渡荊門送別」三峡をすこし下ってここに差し掛かることを詠う。



一夕南風一葉危、荊門廻望夏雲時。
ある夕べ、激しい南風が吹いたが、長江を下っていくと木の葉のような小舟は危く顛覆するかのようになった。いま、荊門山の上に夏の雲がぎらぎら光るのを眺めながら、生きた心地もしなかったことと南の佳林でのことこの荊州でのことすべてをかえりみているのだ。
一葉 小さき舟を一片の樹の葉に喩えでいう。○荊門 諸本みな荊雲とするが、恐らく誤りであろう。朱鶴齢の説に従ってあらためた。○廻望 ぐるりと視線をめぐらして背後をふりかえる。
*李商隠は前年847年、桂林から荊州に赴任したばかりだった。自らのことを一葉の舟に喩えている。



人生豈得軽離別、天意何曾忌嶮巇。
もともと、この南方からこの地へ、仕官の都合上、やむなき理由でこの地を去るのだが、なるほど、人生は別離を軽んじてはならないのだ。そして、天の意志は、必ずしも峻巇な地形を作ることを嫌わない。いかに上司が左遷され、周りが他党派であろうと、簡単に職を辞していいものだろうか。
嶮巇 巇は山が相対して危くけわしいこと。



骨肉書題安絶徼、蕙蘭蹊径失佳期。
各地を転赴しているので家族からの音信は絶えてなく、中央政府から遠隔地だと気も安らかに過ごせるのだが、かつては、再びこの洞庭湖のあたりを訪れることがあれば、かぐわしい蕙蘭の叢のある川辺の小径で逢瀬の約束をしておいたのだが、その約束をも逸失してしまったこともあるが、実は、師ともいうべき揚嗣復とあえなかったのだ
骨肉 兄弟親族。○安絶徼 絶徼は遠いくにざかい。東南僻地を徼と云い、西北を塞という(「漢書」注)。○蕙蘭 ともに香草の名であるが、「楚辞」以来、しばしば美人のたとえとなり、また美女への連想をともなって用いられる。○佳期 おうせ。愛人とあう約束。
李商隠「潭州」劉蕡にちなんだ詩。李商隠が劉蕡と最初、知りあったのは湖南観察使であった楊嗣復のもとでであったと推定される。なお揚嗣復は劉蕡の座主すなわち進士登第の時の試験官だった。李商隠は5,6年ぶりの再会を夢見て尋ねた。潭州 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41
 


洞庭湖濶蛟龍悪、却羨楊朱泣路岐。
洞庭湖ははてしなく広い。広いゆえに、水底にすむ蛟龍も巨大で、食欲に人をのもうとする悪しき性をもつというのも、長江下流域を治める重要地点でわるいやつらに抑えられているのだ。むかし岐路に立って、北へも南へも進める故に泣いたという哲人楊朱の嘆きをうらやましくおもう。私は自愛主義、悦楽主義に徹することはできないのである。
蛟竜 みずちと竜。蛇に似て足があり人を食うという。ここでは中央政府を牛耳るもの羅が、この洞庭湖周辺の人事を有利に配していることを示す。○楊朱泣路岐 楊朱は春秋戦国時代の思想家。原始的唯物論、快楽主義、及び徹底した利己主義がその思想の特色。個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張した。一本の毛を抜いて天下を利する事もせぬと主張する。「列子」楊朱篇に見える。この一句は、ある時、揚朱が岐路を見て泣き、何故泣くのかと問われて、北へも行け南へも行けるからだと云ったという有名な逸話による(「准南子」

過楚宮 李商隱 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 56

過楚宮 李商隱 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 56
七言絶句。


過楚宮
巫峽迢迢舊楚宮,至今雲雨暗丹楓。
巫峡 はるか遠くに荒淫によりみだれた旧き楚の宮殿があった、今の唐王朝のは雲と雨のような牛李の党派闘争、カエデを真っ赤に色濃くするように宦官たちが金丹によって宮廷を乱れさせている。
微生盡戀人間樂,只有襄王憶夢中。
(屈原のように意志を貫いて死んだ人がいるが)生きているなかでわずかな人は俗世間の楽しみに執着し尽くすことができる、そうはいっても襄王のように追われた王位を取り返すことに集中した人もあるのである。


巫峡 はるか遠くに荒淫によりみだれた旧き楚の宮殿があった、今の唐王朝のは雲と雨のような牛李の党派闘争、カエデを真っ赤に色濃くするように宦官たちが金丹によって宮廷を乱れさせている。
(屈原のように意志を貫いて死んだ人がいるが)生きているなかでわずかな人は俗世間の楽しみに執着し尽くすことができる、そうはいっても襄王のように追われた王位を取り返すことに集中した人もあるのである。



巫峡 迢迢として旧き楚の宮、今に至る 雲雨にして暗き丹楓。
微かに生きるは人の間の楽しみに恋するを尽す、只有るは襄王 憶夢に中る。
宮島(3)
 写真はイメージで詩と関係ありません。 

巫峽迢迢舊楚宮,至今雲雨暗丹楓。
巫峡 はるか遠くに荒淫によりみだれた旧き楚の宮殿があった、今の唐王朝のは雲と雨のような牛李の党派闘争、カエデを真っ赤に色濃くするように宦官たちが金丹によって宮廷を乱れさせている。
巫峽 瞿塘峡・巫峡・西陵峡とあり、巫峡(ふきょう)は中国・長江三峡の二番目の峡谷。重慶市巫山県の大寧河の河口から湖北省巴東県官渡口まで全長45km。上流側の巫山県は四川盆地東端にあり、巫山山脈をはじめ東西方向に伸びる細長い褶曲山脈多数が並行して走っている。巫峡の両側にある景勝地は「三台八景十二峰」と呼ばれ、特に雲の中に聳える神女峰が代表的な存在である。
迢迢 はるかなさま。楚宮をここでは長江から眺めみている。別に湘江から見たものもある。○楚宮 楚 (紀元前223年まで)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の長江下流域、湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした楚の宮殿。紀元前278年に楚の都・郢(現在の湖北省江陵県県内)が秦軍に攻め落とされると、屈原は国を救う望みがなくなったことを感じ、旧暦五月五日の端午節に『懐沙』(石をいだく)を書き、汨羅江に身投げしたことを詠う詩が多い。李商隠は唐王朝に対して楚宮を喩えるために詩題としているのであろう。つまり楚宮という歴史を過ぎても今も荒淫の歴史は続くとしている。○雲雨 雲と雨。 唐代の憲宗期から宣宗期(808年から849年)にかけて起こった政争、牛李の党争を示す。牛僧孺・李宗閔の牛党と李徳裕の李党の間で激しい権力闘争が行われ、官僚のすべてが色分けされ、政治的混乱をもたらし、唐滅亡の要因となったと評される。 ○丹楓 南方の水辺の植物。葉が厚く茎が弱く風が吹くと啼くように鳴る。初めは綠で、霜に逢えば美しく紅葉する。李商隠は宦官を比喩しているから、皇帝を金丹により、薬物中毒にさせたことを喩えている。唐王朝約300年は宦官の金丹による宮廷頽廃の歴史でもある。


微生盡戀人間樂,只有襄王憶夢中。
(屈原のように意志を貫いて死んだ人がいるが)生きているなかでわずかな人は俗世間の楽しみに執着し尽くすことができる、そうはいっても襄王のように追われた王位を取り返すことに集中した人もあるのである。
 執着する。こいしい。○人間 俗人の世界。李白「山中問答」「望廬山瀑布其一」○ たのしみ。おだやか。のぞむ。ねがう。論語「知者楽水、仁者楽山。」ここではたのしみ。
襄王 襄王 紀元前7世紀、周朝の第18代王。前637年、襄王は翟軍を率いて鄭を征伐し、翟人の娘を翟后としたが、軍事的に力を持つ翟后に追われ鄭に出奔し、晋に救援を求め、晋の文公が戎・翟を放逐し復位することができた。『春秋左氏伝』。 ○憶夢中 襄王は復位することができたが、いま、つまり唐王朝が宦官により無力化していることを天子にその実質権力を取り戻すことが夢なのである。ここの解釈を襄王は巫峡の神女とセックスができたがそんな夢みたいなことを望まずに現実を見なさいと訳されているのを見ますが、それは間違い。人間:憶夢 楽:中;たのしむ:あたる。

○韻 宮、楓、中。
五重塔(2)
  
写真はイメージで詩と関係ありません。

楚宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 55

楚宮 李商隠  :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 55
七言律詩。

楚宮
湘波如涙色漻漻、楚厲迷魂逐恨遙。
湘江の水は劉蕡の涙であり、国を救おうとする涙はどこまでも透き通った色である。そこに身を投げた楚の人屈原の怨霊は迷い続けており、どこまでも恨みを追いかけている。
楓樹夜猿愁自断、女羅山鬼語相邀。
水辺の楓に鳴く宮廷に巣食う宦官たちのような夜の猿は、胸破れんはかりに悲痛な声、讒言の声を叫んでいる。女羅のつるをまとった山鬼が淫乱な宮女ように言葉巧みに誘いかける。
空歸腐敗猶難復、更困腥臊豈易招。
腐敗した肉体は宮廷のようで二度と元のように戻ることにならない、そのうえ魚に食いちぎられのように宦官の行為はけがらわしく正当な魂を招き返すことができようか。
但使故郷三戸在、綵絲誰惜懼長蚊。

もし屈原の郷里にのこった家がたった三軒だとしても、蛟龍をたじろがせる色鮮やかな糸で縛った食べ物を、彼の眠る水中に供え続けるようにあきらめてはいけない。


湘江の水は劉蕡の涙であり、国を救おうとする涙はどこまでも透き通った色である。そこに身を投げた楚の人屈原の怨霊は迷い続けており、どこまでも恨みを追いかけている。
水辺の楓に鳴く宮廷に巣食う宦官たちのような夜の猿は、胸破れんはかりに悲痛な声、讒言の声を叫んでいる。女羅のつるをまとった山鬼が淫乱な宮女ように言葉巧みに誘いかける。
腐敗した肉体は宮廷のようで二度と元のように戻ることにならない、そのうえ魚に食いちぎられのように宦官の行為はけがらわしく正当な魂を招き返すことができようか。
もし屈原の郷里にのこった家がたった三軒だとしても、蛟龍をたじろがせる色鮮やかな糸で縛った食べ物を、彼の眠る水中に供え続けるようにあきらめてはいけない。


湘波 涙如 色漻漻(りょうりょう)たり、楚厲(それい)の迷魂 恨みを逐いて遙かなり。
楓樹 夜猿 愁いて自ら断たる、女羅 山鬼 語りて相邀う。
空しく腐敗に帰す 猶お復し難し、更に睲臊(せいそう)に困しめらる 豈に招き易からんや。
但だ使し故郷に三戸在らば、綵絲(さいし) 誰か惜まん 長蛟を懼れしむるを。


楚宮
楚宮 周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした楚の宮殿。紀元前278年に楚の都・郢(現在の湖北省江陵県県内)が秦軍に攻め落とされると、屈原は国を救う望みがなくなったことを感じ、旧暦五月五日の端午節に『懐沙』(石をいだく)を書き、汨羅江に身投げした。李商隠には「楚宮」と題する詩がこのほかに三首、「楚宮を過ぎる」と題する詩が一首あるが、いずれも楚の宮中の奪惨と荒淫を題材とするものである。
屈原の国を救いたい思いは肉体が腐敗しても生き残るものであり、今のひともその遺志を継いでいかねばならない。ここでも屈原は、劉司戸蕡を喩えているのであり、楚宮は唐王朝である。李商隠は、秦に攻撃されて危ない状況でも繰り広げられていた楚の宮廷の奢侈で的外れな政治を改革したかった屈原を喩えることにより、心ある人に訴えた。
 


湘波如涙色漻漻、楚厲迷魂逐恨遙。
湘江の水は劉蕡の涙であり、国を救おうとする涙はどこまでも透き通った色である。そこに身を投げた楚の人屈原の怨霊は迷い続けており、どこまでも恨みを追いかけている。
湘波 湘江の波。湘江は南方から洞庭湖に注ぐ川。屈原が身を投げた汨羅はその支流。○如涙 李商隠の何だの語の使用にはたくさんの色の違った涙があり、国を救おうとする涙は澄み切った色である。 ○色謬謬 水の澄み切った様子。李賀「南山田中行」に
秋野明、秋風白。 塘水膠膠蟲嘖嘖。
雲根苔蘚山上石、冷紅泣露嬌啼色。
荒畦九月稻叉牙、蟄螢低飛隴徑斜。
石脈水流泉滴沙、鬼燈如漆點松花。
「秋の野は明るく、秋の風は白し。塘水は膠膠として虫嘖嘖たり」。○楚厲迷魂 楚の屈原の怨魂をいう。「厲」は非業の死を遂げた魂。

 

楓樹夜猿愁自断、女羅山鬼語相邀。
水辺の楓に鳴く宮廷に巣食う宦官たちのような夜の猿は、胸破れんはかりに悲痛な声、讒言の声を叫んでいる。女羅のつるをまとった山鬼が淫乱な宮女ように言葉巧みに誘いかける。
楓樹 南方の水辺の植物。葉が厚く茎が弱く風が吹くと啼くように鳴る。○夜猿 「猿」も南方のもので、その鳴き声は悲痛なものとされる。日本の猿と違い手が長く、長く引っ張る啼き方をする。○女羅山鬼 「女薙」は蔓植物の名。李白「白雲歌送劉十六歸山」に湘江を渡り、楚山に入る。女羅衣にするとよい。「山鬼」は山中に住む女の神。李賀「神絃」にある。鬼は死者を示す。○ 招く、呼ぶ。
 

空歸腐敗猶難復、更困腥臊豈易招。
腐敗した肉体は宮廷のようで二度と元のように戻ることにならない、そのうえ魚に食いちぎられのように宦官のこういはけがらわしく正当な魂を招き返すことができようか。
空帰腐敗 死後、肉体が腐敗すること。○ 死者の魂を蘇らせる儀式。『礼記』喪大記に見える。○腥臊 なまぐささ。けがらわしい。○ 死者の魂を招く。宋玉が屈原を悼んで作ったのが『楚辞』の「招魂」。



但使故郷三戸在、綵絲誰惜懼長蛟。
もし屈原の郷里にのこった家がたった三軒だとしても、蛟龍をたじろがせる色鮮やかな糸で縛った食べ物を、彼の眠る水中に供え続けるようにあきらめてはいけない。
三戸 戦国末、楚の南公という予言者が「楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすは必ず楚なり」(楚の人の秦に対する怨みは深いので、たとえ三戸だけになっても秦を滅ぼすだろう)と言った言葉にもとづく(『史記』項羽本紀)。○綵絲誰惜懼長蛟 『芸文類架』巻四に引く『続斉諸記』 の逸話を用いる。屈原の命日五月五目が来るたびに、楚の人は竹筒に米を包んで霊を弔っていた。後漢の建武年間、三閭大夫(屈原)と名乗る人があらわれ、「毎年いただいているものは蛟龍に盗られてしまう。もしお恵みをいただけるならは、楝(おうち)の葉で蓋をして五色の糸で縛ってほしい。この二つは蛟龍が嫌うものだから」と言った。以後、その言葉とおりに粽を作る風習が生まれた、という。
 
○韻 膠、遥、遊、招。


李商隠が劉蕡と知りあったのは湖南観察使であった楊嗣復のもとでであった。なお揚嗣復は劉蕡の座主すなわち進士登第の時の試験官だった。李商隠は5,6年ぶりの再会を夢見て尋ねた。しかし、尋ねた人はいなかった。朝廷内で意識ある人は次々に左遷されたりしていく。
 まるで、魂が消えていくようだ。
劉蕡は令狐楚、牛僧濡らの幕下で大切に扱われたが、宦官の恨みはすさまじく、結局柳州(広西壮族自治区柳州市)司戸参軍に流謫されてその地で歿した。死後六十数年を経た唐末に至って左諌議大夫を追贈されたことが示すように、権力を恐れない義人として名声は伝えられた。
 屈原のように正しいことを貫けることはできないのか。

陳後宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 54

陳後宮 李商隠  :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 54


陳後宮
茂苑城如畫、閶門瓦欲流。
茂苑が広がる都は絵のように美しく、呉の都の西の閶門の瓦は水が流れうるおうようにかがやいていた。
還依水光殿、更起月華棲。
水と光とする宮女との戯れを御殿により愛でた、月と華をと宮女たちを賞美する楼閣までさらに建てたのだ。
侵夜鸞開鏡、迎冬雉獻裘。
夜の更けるまで鑾を刻した鏡を開いてお化粧が続き、冬になると雉の首の裘という奇態な物も献上されました。
従臣皆牛酔、天子正無愁。

家来どもはみな酔い心地、無愁天子さまはその名の通り何の愁いもありませんでした。



茂苑が広がる都は絵のように美しく、呉の都の西の閶門の瓦は水が流れうるおうようにかがやいていた。
水と光とする宮女との戯れを御殿により愛でた、月と華をと宮女たちを賞美する楼閣までさらに建てたのだ。
夜の更けるまで鑾を刻した鏡を開いてお化粧が続き、冬になると雉の首の裘という奇態な物も献上されました。
家来どもはみな酔い心地、無愁天子さまはその名の通り何の愁いもありませんでした。





陳の後宮
茂苑 城は画の如し、閶門 瓦 流れんと欲す。
還た水光殿に依り、更に月華楼を起つ。
夜を侵して 鸞 鏡を開き、冬を迎えて 雉 裘を献ず。
従臣 皆な半ば酔い、天子 正に愁い無し。


陳後宮 

後宮」は政治を営む場とは異なる、天子の私的生活の場。陳の後主(陳叔宝)が歓楽に溺れて国を亡ぼしたことは、南朝(梁・元帝) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 47

、「隋宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 49




茂苑城如畫、閶門瓦欲流。
茂苑が広がる都は絵のように美しく、呉の都の西の閶門の瓦は水が流れうるおうようにかがやいていた。
茂苑 左思「呉都賦」(『文選』巻五)に「朝夕の播き池を帯び、長洲の茂れる苑を佩びる」とあって以来、呉の都建業の庭園としてなかは固有名詞として扱われる。○ 町のこと。○閶門 呉の都の西の門。
 

還依水光殿、更起月華棲。
水と光とする宮女との戯れを御殿により愛でた、月と華をと宮女たちを賞美する楼閣までさらに建てたのだ。
水光殿・月華楼 この名の宮殿楼閣は史書に見えず、水光、月華を楽しむ宮殿、楼閣の意か。陳の後主が次々と宮廷を造営し、そのために様々な税を課したことは『南史』陳本紀に記される。


 
侵夜鸞開鏡、迎冬雉獻裘。
夜の更けるまで鑾を刻した鏡を開いてお化粧が続き、冬になると雉の首の裘という奇態な物も献上されました。
鷲開鏡 南朝宋二池泰の「鸞鳥詩序」(『芸文類聚』巻九〇所引)に見える話を用いる。昔、罽賓の国の王が一羽の鸞を捕えたが、鳴かない。夫人が鸞は仲間を見ると鳴くといいますから鏡を置いたらどうでしょぅと言った」皆は鏡のなかの姿を見ると、悲痛な声を発して鳴き続け、夜中に身を震わせるとそのまま息絶えた、という。李商隠頻用の故事。白居易「太行路」にもみえる。ここでは鑾鏡(鸞の模様が刻まれている鏡)を指す。「鸞開鏡」は「開攣鏡」を倒置したもの。○雉献裘 西晋・武帝の時、雉の頭の裘が献上されたが、武帝は珍奇な衣服は典礼に禁じられているとして宮殿の前で焼き捨てた(『晋書』武帝紀)。「雉献裘」は「献雉裘」を倒置したもの。
この聯で用語が上句、下句で倒置されている。酔っていて間違った用語も気付かないということ。



従臣皆牛酔、天子正無愁。
家来どもはみな酔い心地、無愁天子さまはその名の通り何の愁いもありませんでした。
○無愁 北斉の後主高緑は琵琶の演奏を好み、みずから「無愁の曲」を作曲した。そこで世間では彼を「無愁天子」と称したという。「北斉二首」参照。

北斉二首其一 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ特集 44
北斉二首其二 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ特集 45

○韻 流、裳、愁、楼。



「南朝(玄武湖中)」詩と同じく、陳とは別の王朝の故事も使いながら、南朝、ことに陳王朝の、快楽に溺れて存亡の危機にも気づかないありさまをうたう。都の全体の傭轍から城門、宮殿、そして室内へとしだいに焦点が絞られていくそれぞれの句は麗しく表現されているが、「夜を侵して」の二句は常軌を逸するまでに快楽が追求されるのをいう。

など、李商隠のしばしはうたうところ。


夜雨寄北 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 53

夜雨寄北 李商隠  :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 53
七言絶句。

秘められた恋人に寄せた詩とするのがふさわしい。相手は定かでないものの、場所、時間などの状況ははっきりして、李商隠の恋愛詩のなかでは極めてわかりやすく、実際に手紙に代えて送ったものとも考えられる。


夜雨寄北 
君問歸期末有期、巴山夜雨漲秋池。
君は聞くことだろう、帰る約束ができるのか、また交わるという約束をしてくれないのかと。巴国の山間にはいつでも一緒にいるという約束の雨が秋の夜の冷たく降り続け、池の水もあふれんばかりになっている。
何當共翦西囱燭、却話巴山夜雨時。
いつになれは、ともに何度も蝋燭の芯を切りほど西の閨牀の窓辺のもとにいることができるのか、語り合えるだろう、でも、今は話ができないけど巴山には昔から神女との約束の証が夜雨なのだ。夜雨の降りしきるこの時のことは約束のことを思って過ごそう。



君は聞くことだろう、帰る約束ができるのか、また交わるという約束をしてくれないのかと。巴国の山間にはいつでも一緒にいるという約束の雨が秋の夜の冷たく降り続け、池の水もあふれんばかりになっている。
いつになれは、ともに何度も蝋燭の芯を切りほど西の閨牀の窓辺のもとにいることができるのか、語り合えるだろう、でも、今は話ができないけど巴山には昔から神女との約束の証が夜雨なのだ。夜雨の降りしきるこの時のことは約束のことを思って過ごそう。





夜雨 北に寄す
君 帰期を問うも未だ期有らず、巴山の夜雨 秋池に漲る。
何当か共に西窓の燭を翦り、却って話さん 巴山夜雨の時。



夜雨寄北
○寄北 851~855まで梓州(四川省)の柳仲郢の幕下にいた時期。妻王氏はすでに没している。従来、妻に寄せた詩と解されることが多いが、「北」に妻の意味はないし、儒教的な詩の意味はない。ここでの雨が宋玉「高唐の賦」にある巫山神女の故事によるもので、懷王と交わった後、神女が「暮には行雨とならん」とどんな時でも一緒にいるといった意味を持つ雨である。



君問歸期末有期、巴山夜雨漲秋池。
君は聞くことだろう、帰る約束ができるのか、また交わるという約束をしてくれないのかと。巴国の山間にはいつでも一緒にいるという約束の雨が秋の夜の冷たく降り続け、池の水もあふれんばかりになっている。
○期 約束。李商隠「景陽井」にある。同じ句の中に期を二語つかっている。二つの約束を示す。帰るという約束。秘められた女性とのまた交わるという約束有るに至らず。
○巴山 「巴」は四川省東部一帯を指す古名。巴の國に属する山といえは巫山があり、楚の懐王が巫山の神女と夢のなかで交わった故事を連想させる。「重ねて聖女詞を過ぎる」詩注参照。



何當共翦西囱燭、却話巴山夜雨時。
いつになれは、ともに何度も蝋燭の芯を切りほど西の閨牀の窓辺のもとにいることができるのか、語り合えるだろう、でも、今は話ができないけど巴山には昔から神女との約束の証が夜雨なのだ。夜雨の降りしきるこの時のことは約束のことを思って過ごそう。
○何当 いつ。未来の時についての疑問詞。いつになればと願う気持ちを伴う。○共翦西窓燭 「燭を翳る」は、ろうそくの芯についた燃えかすを切り取って明るくする。時間が経過したことをあらわす。また燃えかすが花のようになった「灯花」ができるのは待ち人が来るなど、吉兆とされる。「共」には一緒にと何度もの意味。「西窓」は閨牀の窓辺で、情交を意味する。○却 思いや動きが反対の向きに変わることを示す。


○韻 池、期、時。

瑤池 李商隱 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 52

瑤池 李商隱 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 52



瑤池
瑤池阿母綺窗開、黄竹歌聲動地哀。
崑崙山の瑶池に住む不老不死の薬を持つ女の仙人の西王母(せいおうぼ)は、綾絹(あやぎぬ)を張った美しい窓を開けると。穆王が作った民の苦しみを歌った『黄竹詩(こうちくし)』の歌声が地を揺るがせて響いてきて哀(あわれ)なものだ。
八駿日行三萬里、穆王何事不重來。

周の穆王は八頭だての馬車に乗って、一日に三万里の道のりを行ける、穆王は、どうしてなのだろうか、西王母の許へ再び来ることはなかった。




崑崙山の瑶池に住む不老不死の薬を持つ女の仙人の西王母(せいおうぼ)は、綾絹(あやぎぬ)を張った美しい窓を開けると。穆王が作った民の苦しみを歌った『黄竹詩(こうちくし)』の歌声が地を揺るがせて
響いてきて哀(あわれ)なものだ。
周の穆王は八頭だての馬車に乗って、一日に三万里の道のりを行ける、穆王は、どうしてなのだろうか、西王母の許へ再び来ることはなかった。



瑤池(よう ち) の阿母(あぼ)  綺窗(きそう)を開き,黄竹(こうちく)の歌聲(うたごえ) 地を動ごかして哀(あわれ)なり。
八駿(はっしゅん) 日に行ゆくこと 三萬里,穆王(ぼくおう) 何事なにごとぞ  重かさねては來きたらず




瑤池:〔ようち〕
崑崙(こんろん)山にある池の名。西王母(せいおうぼ)が住んでいるところ。西王母とは、女の仙人で崑崙山に住んで不死の薬を持っている。



瑤池阿母綺窗開、黄竹歌聲動地哀。
崑崙山の瑶池に住む不老不死の薬を持つ女の仙人の西王母は、綾絹(あやぎぬ)を張った美しい窓を開ける、穆王が作った民の苦しみを歌った『黄竹詩』の歌声が地を揺るがせて響いてきて哀なものだ。
 ・阿母:〔あぼ〕お母さん。母親を親しんで呼ぶことば。ここでは、西王母のことになる。 ・綺窗:〔きそう〕綾絹(あやぎぬ)を張った美しい(女性の部屋の)窓。
黄竹:民の苦しみを歌った『黄竹詩』三章のこと。 ・動地:地を揺るがせて響く。地をどよもす。



八駿日行三萬里、穆王何事不重來。
周の穆王は八頭だての馬車に乗って、一日に三万里の道のりを行ける、穆王は、どうしてなのだろうか、西王母の許へ再び来ることはなかった。
八駿:〔はっしゅん〕八頭だての馬車。 ・駿:〔しゅん〕良馬。すぐれた馬。 ・日行:一日に…行く。 ・日行三萬里:『穆天子傳』では穆王がに西遊して西王母の許に到る行程は、九万里とされている。
穆王:〔ぼおう〕周・穆王のこと。『穆天子傳』に一度だけの西遊の故事がある。 ・何事:どうしてなのだろうか。 ・不重來:二度とは来なかった。(一度だけ来たものの)重ねては来なかった。蛇足になるが、もし「重不來」と表現すれば「重ねて来らず」(またしても来なかった=一度も来ていない)の意。



瑤池やう ち の阿母あぼ  綺窗 き さうを開き,
黄竹くゎうちくの歌聲うたごへ  地を動どよもして哀あはれなり。
八駿はっしゅん 日に行ゆくこと  三萬里,
穆王ぼくわう 何事なにごとぞ  重かさねては來きたらず。







欒遊  李商隠
五言絶句

落日を詠じた絶唱。夕暮れに近づくにつれて鬱屈する詩人は、心を解き放とうと見晴らしのいい場所に向かう。楽遊原を「古原」と呼ぶことによって、過去から長い間続いてきた人の営みへの思いにも誘われる。



欒遊
向晩意不適、驅車登古原。
夕陽無限好、只是近黄昏。

たそがれるにつれて、心は結ばれる。車を走らせる。
いにしえの跡がのこる楽遊原に登る。
夕日は限りなく美しい。それはただひたすらに日暮れに迫りゆくときのなかなのである。

楽 遊
晩に向んとして意適(かな)わず、車を駆りて古原に登る。
夕陽 無限に好し、只だ是れ黄昏に近し。



楽遊 長安の東南に位置する行楽の地、楽遊原。周囲を一望できる高台にあった。李商隠にははかにも「楽遊」と題する五言律詩、「楽遊原」と題する七言絶句がある。


向晩意不適、驅車登古原。
たそがれるにつれて、心は結ばれる。車を走らせる。
いにしえの跡がのこる楽遊原に登る。
向晩 日暮れに近づいていく。王維「晩春閏思」詩に「晩に向んとして愁思多し、閑窓桃李の時」。李商隠には「向晩」と適された五言律詩もある。○古原 楽遊原は漢代の廟があったので古原という。



夕陽無限好、只是近黄昏。
夕日は限りなく美しい。それはただひたすらに日暮れに迫りゆくときのなかなのである。
只是 ただひたすらに。



○韻 原、昏。



ここで目にした落日、その美しさを説明することもなく、「好」という一番単純な、しかし何もかも含まれた、感嘆詞に近い語だけを発する。「只是」は「ただひたすら」の意。そして前の句とのつながりに転折を認める必要もない。やがて地平に没し、夕闇に閉ざされるであろうことを知りながら、刻々と変化していく夕陽に目も心も奪われているのだ。

馬嵬(海外徒聞更九州) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 51

馬嵬(海外徒聞更九州) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 51



馬嵬
海外徒聞更九州、他生未卜此生休。
唐というこの九州よりなる大世界の外に、神仙世界の九州さらにあると玄宗は道教の修験者から聞いていた。だがそれは聞いただけのこと、次の未来生のどこで生れかわるかわからいままに、ここで人生は終わってしまった。
空間虎旅鳴宵拆、無復鶏人報暁籌。
落ち伸びたこの馬蒐の地で兵士たちに迫られて、来世をともに誓った愛妃をうしない、王車守衛の兵士のならす宵の拍子木をも、むなしく一人で聞かねはならなかった。朝になっても、逃げ延びる最中でのことゆえ鶏をかたどった朱の冠をかむり寝所にまで夜明けの時を知らせる守衛の者もいなかった。
此日六軍同駐馬、當時七夕笑牽牛。
この日、天宝十五載六月十四日、近衛兵は禍の根は楊貴妃にあると、憤怒していっせいに馬を駐め、楊貴妃がくびり殺されるまで、もはや前に進もうとはしなかった。かつて七夕の宵、高楼によりそいつつ、玄宗と場景妃は、一年に一度しか織女にあえぬ牽牛の運命を笑い、瀬世夫婦となって共に住もうと誓い合ったのだったが。
如何四紀為天子、不及慮家有莫愁。
四紀、凡そ五十年にわたる年月の間、天子として九州に君臨しておりながら、どうしたことか、洛陽の富家、盧姓の者が、「十五にして嫁し十六にして子を産んだ。」と古い歌謡にも歌われる、その名もめでたき莫愁なる美女を迎え入れて過したその幸福さに及ばないのは。


唐というこの九州よりなる大世界の外に、神仙世界の九州さらにあると玄宗は道教の修験者から聞いていた。だがそれは聞いただけのこと、次の未来生のどこで生れかわるかわからいままに、ここで人生は終わってしまった。
落ち伸びたこの馬蒐の地で兵士たちに迫られて、来世をともに誓った愛妃をうしない、王車守衛の兵士のならす宵の拍子木をも、むなしく一人で聞かねはならなかった。朝になっても、逃げ延びる最中でのことゆえ鶏をかたどった朱の冠をかむり寝所にまで夜明けの時を知らせる守衛の者もいなかった。
この日、天宝十五載六月十四日、近衛兵は禍の根は楊貴妃にあると、憤怒していっせいに馬を駐め、楊貴妃がくびり殺されるまで、もはや前に進もうとはしなかった。かつて七夕の宵、高楼によりそいつつ、玄宗と場景妃は、一年に一度しか織女にあえぬ牽牛の運命を笑い、瀬世夫婦となって共に住もうと誓い合ったのだったが。
四紀、凡そ五十年にわたる年月の間、天子として九州に君臨しておりながら、どうしたことか、洛陽の富家、盧姓の者が、「十五にして嫁し十六にして子を産んだ。」と古い歌謡にも歌われる、その名もめでたき莫愁なる美女を迎え入れて過したその幸福さに及ばないのは。


馬蒐
海外 徒らに聞く更に九州ありと、他生は未だ卜せず 此の生は休む。
空しく聞く 虎旅の宵栃を鳴らすを、復た鶏人の暁籌を報ずる無し。
此の日 六軍、同じく馬を駐め、当時 七夕に牽牛を笑う。。
如何ぞ 四紀 天子と為って、慮家の莫愁あるだに及ぼざる。


馬蒐 陝西省興平県西方にある地名。天宝十四年(七五五年)安禄山(7-七五七年)の叛乱軍に潼関(駅西省、洛陽と長安の中間にある関所)を占領きれた玄宗皇帝は、あわただしく出奔して馬鬼までおちのびた。帝の寵姫楊貴妃はここで嬲り殺された。
それはそこまで落ち伸びた将士たちが飢え疲れて憤激し、この動乱を招いた請任は楊氏一族にあるとし、貴妃の兄である宰相揚国忠父子を殺し、また揚貴妃の死を迫ったので、やむなく玄宗は死を賜ったのである。詩一篇はこの悲劇を批判的詠史詩として歌う。



海外徒聞更九州、他生未卜此生休。
唐というこの九州よりなる大世界の外に、神仙世界の九州さらにあると玄宗は道教の修験者から聞いていた。だがそれは聞いただけのこと、次の未来生のどこで生れかわるかわからいままに、ここで人生は終わってしまった。
九州 天下ということ。作者の原注があり、戦国諸子の一人、陰陽家の代表者である鄒衍の言葉「九州の外に更に九州有り。」(「史記」の孟子筍卿列伝に見える)を引いている。陰陽家の考えでは、文明世界は赤県神州つまり中国を中心とした九つの州に分たれ、それを海がとりまいている。その外側にまた九つの州があり、更にその外部を大嵐海(大海)がとりまいているとされる。○他生未卜 他生は、今生以外の諸々の世界に生まれかわること。過去生・未来生双方に言うが、ここでは未来生。卜の字をあるテキストは決の字に作る。○ おしまいになる。



空間虎旅鳴宵析、無復鶏人報暁籌。 
落ち伸びたこの馬蒐の地で兵士たちに迫られて、来世をともに誓った愛妃をうしない、王車守衛の兵士のならす宵の拍子木をも、むなしく一人で聞かねはならなかった。朝になっても、逃げ延びる最中でのことゆえ鶏をかたどった朱の冠をかむり寝所にまで夜明けの時を知らせる守衛の者もいなかった。
空関 空はあるべき実体なきこと。ここは共に聞くべきその人なくで、という意味。○虎旅 宮城及び王事守衛の軍隊。○鳴宵拆 宵塀は宵に就寝を警告する拍子木。○鶏人 官門を警衛し、祭祀の夜、暁を報ずる役目の者「周礼」春官に見える。○暁籌 籌は時刻を示す木札。毎朝未明に鶏人が朱色の冠を戴き、鶏の鳴声をまねておいて、それを天子の寝所に伝送する。尚衣すなわち天子の御服を掌るものが、御服を進め、かくて群臣が朝見するのである。



此日六軍同駐馬、當時七夕笑牽牛
この日、天宝十五載六月十四日、近衛兵は禍の根は楊貴妃にあると、憤怒していっせいに馬を駐め、楊貴妃がくびり殺されるまで、もはや前に進もうとはしなかった。かつて七夕の宵、高楼によりそいつつ、玄宗と場景妃は、一年に一度しか織女にあえぬ牽牛の運命を笑い、瀬世夫婦となって共に住もうと誓い合ったのだったが。
六軍 六編成よりなる近衛兵。すなわち左右の竜武、左右の神武、左右の神楽、六つの近衛師団をいう。○駄馬 馬をとどめる。前記のごとく、馬鬼で将軍陳玄礼が、粉氏を談しょうと論うたことを指す。六甲の兵は戦を持って排倒し、その要求の通るまで、前へ進もうとしなかった。中庸の詩人自辟易の「長恨歌」は、この時の有様を「六翠発せず如何ともするなく、宛転たる蛾眉 馬前に死す。」と歌っている。○当時 当はある二つのものが対応関係にあることを示す言葉。過去の時間から一つの時をとり出して、現在と対置させるとき、それが当時である。〇七夕 たなはたの宵。天宝十年の七夕の宵、玄宗と楊貴妃は、驪山の離宮の長生殿で永遠の夫婦となろうと、誓い合ったという。白居易の長恨歌では「七月七日長生殿、夜半人無く私語の時。天に在りては願わくは作らん此巽の鳥、地に在りては願わくは為らん連理の枝。」と歌われている。○牽牛 ひこぼし。日本でもよく知られる七夕伝説の星。白居易の長恨歌を敢行した中庸の陳鵜の「長恨歌伝」に、楊貴妃の死後、なおその面影を忘れ得なかった玄宗は、道教の修験者に命じて彼女の魂をたずねさせた話をのせる。蓬莱山の仙女と化した楊貴妃にあった修験者が、証拠に他人の知らぬ事柄をひとつと乞うた時、貴妃は、かつて天宝十年の七夕の夜、願わくは世世夫婦とならん、とひそかに誓ったことがあると告げた。使者が帰って この言葉を奏上した時、帝の心は貢蕩した、と。一句はこの故事をふまえる。



如何四紀為天子、不及慮家有莫愁
四紀、凡そ五十年にわたる年月の間、天子として九州に君臨しておりながら、どうしたことか、洛陽の富家、盧姓の者が、「十五にして嫁し十六にして子を産んだ。」と古い歌謡にも歌われる、その名もめでたき莫愁なる美女を迎え入れて過したその幸福さに及ばないのは。
〇四紀 一紀は歳星(木星)が天とまわりする期間、十二年。玄宗皇帝の在位は閲元元年(七一三年)より天宝十四年(七五五年)までで、ほぼ四紀といえる。○盧家有美愁 盧家は魏晋時代の北方豪族八姓の一つに数えられる名門。莫愁はいにしえの洛陽の女児の名。梁の武帝衝衍(464―549)の河中の水の歌)に、「河中の水は東に向って流る、洛陽に女児あり名は莫愁。十五にして嫁して盧家の婦となる。十六にして子を生む字は阿候」云云とある。なお、この故事を利用しつつ、愁い莫という語の意味をもきかしている。

馬嵬二首(絶句) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 50

馬嵬二首(絶句) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 50


馬嵬二首 李商隠



馬嵬 絶句
冀馬燕犀動地来、自埋紅粉自成灰。
冀州の軍馬、燕の甲冑の大軍が、地を揺るがせ来襲してきた、皇帝は麗しい美人の姫妃をみずから土に埋めただけで塵芥に帰せしめた。
君王若道能傾国、玉輦何由過馬嵬。

もしも皇帝が美女により国を傾けるものだとの摂理をご存じだったなら、御車が馬嵬を通るようなことにはならなかったろうに。


冀州の軍馬、燕の甲冑の大軍が、地を揺るがせ来襲してきた、皇帝は麗しい美人の姫妃をみずから土に埋めただけで塵芥に帰せしめた。
もしも皇帝が美女により国を傾けるものだとの摂理をご存じだったなら、御車が馬嵬を通るようなことにはならなかったろうに。


馬嵬 絶句
冀馬(きば) 燕犀(あんさい) 地を動して来たり、自ら紅粉を埋め自ら灰と成す。
君主若し能く国を傾くが道なれば、玉輦(ぎょくりん) 何に由りてか馬嵬を過ぎらん



馬嵬 玄宗がきょく蜀へ落ち延びる途上、楊貴妃が殺された地として知られる。陝西省興平県の西。長安から直線距離にして五十キロあまり。
長安洛陽鳳翔馬嵬


冀馬燕犀動地来、自埋紅粉自成灰。
冀州の軍馬、燕の甲冑の大軍が、地を揺るがせ来襲してきた、皇帝は麗しい美人の姫妃をみずから土に埋めただけで塵芥に帰せしめた。
冀馬燕犀動地来 「冀馬」は冀州産の馬。冀州は古代中国の九州の一つで、河北省・山西省を中心とした一帯。古来、馬の産地とされる。地図で示す燕において
春秋戦国勢力図
 755年11月に安禄山は叛乱を起こし、洛陽をその年の暮には陥落させた。燕は冀馬の産地である。常に北方騎馬民族と対峙していた。『左氏伝』昭公四年に「冀の北土、馬の生ずる所」とある。「燕」は春秋戦国時代の国の名。河北省一帯の地。「犀」は犀の皮で作ったよろいをいう。白居易「長恨歌」にも安禄山の来襲を「漁陽の鞞鼓(陣太鼓)地を動して来たる」という。漢文委員会HP 安史の乱 その時どうしたのか 参照
自埋紅粉自成灰 「紅粉」は、べにとおしろい。美女をしめす。「成灰」は遺体が塵土と化す。楊貴妃の遺骸はその場で仮に葬られた。墳墓に埋葬されていないこと。



君王若道能傾国、玉輦何由過馬嵬。
もしも皇帝が美女により国を傾けるものだとの摂理をご存じだったなら、御車が馬嵬を通るようなことにはならなかったろうに。
 ものの道理。自然界の摂理。李商隠が道を使う場合、道教的な考えに立つ使用法である。○傾国 漢の李延年の歌からその妹李夫人を指す。紀頌之漢詩ブログ李商隠44「北斉二首」其一 参照。玄宗と楊貴妃の関係はしばしは漢の武帝と李夫人の関係と重ねられる。「長恨歌」の目頭にも「漢皇色を重んじて傾国を思う」。○玉輦 ぎょくりん 皇帝の乗り物。

○韻 灰、鬼、来。


755年11月安禄山の叛乱は12月に東都洛陽を陥落させた。玄宗は756年6月哥舒翰に潼関に差し向けたが完敗した。蜀に避遷する途中、引き起こす要因の一つであった楊貴妃、玄宗は縛首を科し、自らの手でその場の土に埋めることしかできなかった運命を詠うものである。

隋宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 49

 

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隋宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 49



隋宮 

紫泉宮殿鎖煙霞、欲取蕪城作帝家。
南に丹水の流れ有り、北に紫泉が廻る都長安の宮殿には、紫の荒淫の霞がたちこめている。 隋の揚帝は、江南の地、蕪城の賦にうたわれたこの地にも都とし、荒淫をしろうと思っていた。
玉璽不縁蹄日角、錦帆應是到天涯。
彪大な資材と人力を徴発したため、国力が衰えて天子の玉印に威力がなくなり各地で群盗蜂起し、遂に日角の形相の唐の高祖が蹄の音高くして天下をおさめた。それがなかったら、逸楽に狂う風流天子の錦の帆は、揚州にとまらず、そこを過ぎて天地の涯までも進んで行ったに違いないだろう。 
于今腐草無螢火、終古垂楊有暮鴉。
東都の景華宮で螢を集めさせ、山谷に放って楽しんだ。ところが今、草が腐って螢となるはずなのに、蛍も光らぬ雑草がおい茂っているだけだ。いつまでも、運河沿いのしだれ柳の樹だけは変りないが、夕暮れの烏が鳴いているだけだ。
地下若逢陳後主、豈宜重間後庭花。

煬帝は、晩年に、よみの国で陳の後主の亡霊にあい、その愛妃の舞いを見せてもらったということだが、その隋も滅ぼされたのだから、再び陳の後主にめぐりあったとしても、もう重ねて後庭花の舞いを見たいとは言えないだろう。


南に丹水の流れ有り、北に紫泉が廻る都長安の宮殿には、紫の荒淫の霞がたちこめている。 隋の揚帝は、江南の地、蕪城の賦にうたわれたこの地にも都とし、荒淫をしろうと思っていた。
彪大な資材と人力を徴発したため、国力が衰えて天子の玉印に威力がなくなり各地で群盗蜂起し、遂に日角の形相の唐の高祖が蹄の音高くして天下をおさめた。それがなかったら、逸楽に狂う風流天子の錦の帆は、揚州にとまらず、そこを過ぎて天地の涯までも進んで行ったに違いないだろう。 
東都の景華宮で螢を集めさせ、山谷に放って楽しんだ。ところが今、草が腐って螢となるはずなのに、蛍も光らぬ雑草がおい茂っているだけだ。いつまでも、運河沿いのしだれ柳の樹だけは変りないが、夕暮れの烏が鳴いているだけだ。
煬帝は、晩年に、よみの国で陳の後主の亡霊にあい、その愛妃の舞いを見せてもらったということだが、その隋も滅ぼされたのだから、再び陳の後主にめぐりあったとしても、もう重ねて後庭花の舞いを見たいとは言えないだろう。


隋宮
紫泉の宮殿 煙霞に鎖し、蕪城を取りて帝家と作さんと欲す。
玉璽 日角に帰するに縁らざれば、錦帆 応に是 天涯に到りしなるべし
今に于いて 腐草に蛍火無く、終古 垂楊に暮鴉有り。
地下に若し陳の後主に逢わば、豈に宜しく重ねて後庭花を問うべけんや。



隋宮 隋の第二代目の天子煬帝(ようだい)煬広(580-618年)は即位の年から大規模な運河工事を起し、長安より江都(江蘇省揚州)までを開通し、その運河沿いに離宮を四十余所も設けて美女を置いた。紫泉宮殿は、長安にすておかれた宮殿の方をさし、蛍狩りに興じたのは、東都の景華宮においてであり、運河沿いに楊柳を植えたのは、板渚から准水にいたる別の運河である。
詩題の隋宮はそれらすべてをふくめて、隋の煬帝の豪奢を諷したものではあるが、この運河をもって中国初の統一国家を成し遂げたということでもある。

吐谷渾に勝ち、琉球を攻め、運河を利用して次次と征略したが、再度高句麗を攻めて大失敗した。相続く戦争による国力の疲弊をかえりみず、洛陽や揚州へ巡遊し、離宮や遊覧船の建造に国費の大半を浪費した。この運河建設については、後世の中国発展の基礎となったもので評価は大きい。「隋傷帝柴」一巻が伝わるが、ただ、唐による編纂のため、煬帝の評価において問題があるが、李商隠の時代は煬帝について客観的しりょうはなかったであろうから、問題提議だけで煬帝について終わる。
taigennankin88
 長安と何将軍



紫泉宮殿鎖煙霞、欲取蕪城作帝家。
南に丹水の流れ有り、北に紫泉が廻る都長安の宮殿には、紫の荒淫の霞がたちこめている。 隋の揚帝は、江南の地、蕪城の賦にうたわれたこの地にも都とし、荒淫をしろうと思っていた。
紫泉宮殿 隋の首都長安の宮殿をいう。紫泉は長安の北にある沢の肇漢の文人司馬相如(紀元前179-117年) の上林の賦に「丹水其の南を更、紫淵其の北に徑れり。灞滻を終始し、涇渭を出入す。」とある。(長安の西と南に丹水、北に紫淵、東に灞水、滻水があり、すべて渭水にそそぐ。) 紫淵は、唐の建国の皇帝、高祖李淵(565-635年)諱(いみな:生前の名を呼ぶのを嫌う)をさけで紫泉といったもの。長安南東部滻水から太液池を経て西へ流れる。この川の淵を太液池とした。○煙霞 かすみ。〇蕪城 劉宋の詩人飽照が、漢代に呉王濞がよっていた広陵の故城を見て、蕪城の賦を作ったのに借りて、広陵(揚州の古名)を蕪城といったもの、かつて呉王濞は、ここで叛乱を起して滅ぼされた。○帝家 皇帝のすまい、つまりみやこ。隋は長安を首都とし、洛陽を東京としたが、大業の初め、楊帝は江都すなわち揚州を南都としようとした。揚州は物産ゆたかで、かつ風光明媚の土地であり、南朝の雅艶文化の地であったからである。
 

玉璽不縁蹄日角、錦帆應是到天涯。
彪大な資材と人力を徴発したため、国力が衰えて天子の玉印に威力がなくなり各地で群盗蜂起し、遂に日角の形相の唐の高祖が蹄の音高くして天下をおさめた。それがなかったら、逸楽に狂う風流天子の錦の帆は、揚州にとまらず、そこを過ぎて天地の涯までも進んで行ったに違いないだろう。 
玉璽 天子の玉印。〇日角 嶺の左右の骨が角のように突き出ている人相。王者たるべき着がもつという瑞相。隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。○錦帆 豪華な錦織の帆。煬帝は遊覧船の帆を金襴緞子で造らせたのである。



于今腐草無螢火、終古垂楊有暮鴉。
東都の景華宮で螢を集めさせ、山谷に放って楽しんだ。ところが今、草が腐って螢となるはずなのに、蛍も光らぬ雑草がおい茂っているだけだ。いつまでも、運河沿いのしだれ柳の樹だけは変りないが、夕暮れの烏が鳴いているだけだ。
○腐草 腐った草。それは古く、蛍のたねとなると信ぜられた。○蛍火 蛍の光。楊帝は東都の宮殿、景華官で蛍を数斗も徴発し、夜に山に遊び、これを放って遊興したことがある。このとき、蛍の光が山谷にあふれたと、「隋書」本紀はしるす。616年(大業末年)のことである。○終古 いつまでも。○垂楊 しだれ柳。楊の柳はしなやかな女性を示す。大業元年(605年)煬帝は西苑から穀洛二水を引いて黄河へ。板渚から熒沢を経て汴水へ。また汴水を泗に入れ准河に到る運河。及び刊溝を開き山陽から揚子江に入る、大運河工事を起し、その堤に街道を作り、楊柳を一千三百里にわたって植えた。その柳を指す(「隋沓」本紀及び食貨志)。〇暮鶉 夕暮のからす。



地下若逢陳後主、豈宜重間後庭花。
煬帝は、晩年に、よみの国で陳の後主の亡霊にあい、その愛妃の舞いを見せてもらったということだが、その隋も滅ぼされたのだから、再び陳の後主にめぐりあったとしても、もう重ねて後庭花の舞いを見たいとは言えないだろう。
地下 よみの国。○逢 偶然出会ぅこと。○陳後主 南北朝の末期、建廉(今の南京)に都とした陳の亡国の天子陳叔宝(553-604年)のこと。二代目または三代目の亡国の天子を通常後主と称する。紀頌之ブログ李商隠48「景陽井」で、井戸に逃げ隠れ捉えられた様を詠う。
陳の後主は、国運の傾いても逸楽に溺れ、妃嬪や客と日夜すごした。隋の文帝は開皇八年(588年)、皇子広即ち後の煬帝に命じて陳を討たせた。煬帝はさまざまに警告したが、後主はまた、空威張りして、伎楽や遊宴を続けた。かくて逃げられず、宮中の井戸にかくれたが、夜・隋将賀来廟の兵に発見され生捕にされた。輯本「陳後主集」一巻。○後庭花 陳の後主「玉樹後庭花」歌曲。
玉樹後庭花
麗宇芳林對高閣  新粧豔質本傾城
映戸凝嬌乍不進  出帷含態笑相迎
妖姬臉似花含露  玉樹流光照後庭

唐の顔帥古の「隋追録」によると、大業末年、隋の煬帝が江都で酒色に耽溺していた頃、ある日、楼閣で陳の後主の亡霊とあった。陳の後主の数十人の舞女のうち際立って美しい美女が居て煬帝が目を奪われていると、陳後主は、「これが私の愛妃麗華です。」と言った。そこで酒が入り、煬帝の請いによって、麗華は、玉樹後庭花の歌曲に合わせて舞をまった。一曲終ってから、陳の後主は、陛下の寵妃である粛妃とどちらが美しいと思われますかと尋ねた。煬帝は答えて、「春の蘭、秋の菊、どちらも各々時の秀。」と言ったという。

景陽井 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 48

景陽井 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 48


景陽井
景陽宮井剰堪悲、不盡龍鸞誓死期。
宮殿の中の井戸に愛妃張麗華・孔貴人と共に身を隠した陳の後主の物語は、悲しさに耐えてなおも余りある出来事である。竜の国王、鸞の愛妃は万一の時、共に死のうと誓っていたが、その誓いは果されるものではなかった。
腸断呉王宮外水、濁泥猶得葬西施。
女のやるせなさの話は、呉王夫差と西施との物語は呉が滅びてから、西施は不祥の者として宮殿の外、五湖の水に沈められたものである、呉王の墓陵近くその湖の濁った泥水であるが西施は葬られたわけだから考えようによっては救いがあるということなのだ。


宮殿の中の井戸に愛妃張麗華・孔貴人と共に身を隠した陳の後主の物語は、悲しさに耐えてなおも余りある出来事である。竜の国王、鸞の愛妃は万一の時、共に死のうと誓っていたが、その誓いは果されるものではなかった。
女のやるせなさの話は、呉王夫差と西施との物語は呉が滅びてから、西施は不祥の者として宮殿の外、五湖の水に沈められたものである、呉王の墓陵近くその湖の濁った泥水であるが西施は葬られたわけだから考えようによっては救いがあるということなのだ。


景陽の井
景陽の宮井(きゅうせい) 剰お悲しむに堪えたり、尽くさず 竜鸞 誓死の期を。
腸断す 呉王 宮外の水、濁泥 猶お西施を葬るを得たり。





景陽井
景陽井 江蘇省江寧県の北、陳の宮殿の井戸の名。
隋の軍隊が国都建虚(南京)に侵入した夜もなお訪宴に耽っていた陳の後主は、逃げおくれて愛妃張麗華・孔貴人とともにこの井戸に隠れた。
588年10月、隋の文帝は南北中国統一をめざし、次子の晋王楊広を総大将とする総勢51万8000の軍を侵攻させた。589年、元日には隋軍が大挙して長江を渡り国都建康に迫った。後主は「犬羊のごとき者ども(隋軍を指す)が我が国に勝手に侵入し、京師(国都の周辺地域を指す)の近郊をぬすみとっている。ハチやサソリのごとき毒のある者は、時機を選んで(隋軍を)掃討・平定するがよい。内外ともに厳重に警戒するように」と命詔したが、迎撃に出た陳の将紀瑱が撃破され、隋軍の前線司令官賀若弼が、陳の捕虜を寛大に扱ったこともあり、形勢不利を悟った陳の軍勢からは投降者が相次いだ。首都の建康が陥落するに及び、大臣の1人である尚書僕射の袁憲は「隋軍の兵士達が宮廷に侵入してきても、決して乱暴なことはしないでしょう。しかも今は陳国にとって最も重大な時でございます。陛下におかれましては、服装を正して正殿に着座し、梁の武帝が侯景を引見した時の例にお倣い下さいますように」と後主に進言したが、後主は従わず「剣の刃の下では当たっていくことはできない。私には私の考えがあるのだ」と言って、宮中の奥にある空井戸に隠れようとした。袁憲は繰り返し諫め、さらに後閤舎人の夏侯公韻が、自分の体で井戸を覆って妨害したが、彼を押しのけて張麗華・孔貴人の両夫人とともに井戸の底に隠れていたところ、結局、宮殿に侵入してきた隋軍に発見されて捕虜となった。張麗華は楊広の命により青渓中橋で斬られた(『陳書』および『南史』の后妃伝)。





景陽宮井剰堪悲、不盡龍鸞誓死期。
宮殿の中の井戸に愛妃張麗華・孔貴人と共に身を隠した陳の後主の物語は、悲しさに耐えてなおも余りある出来事である。竜の国王、鸞の愛妃は万一の時、共に死のうと誓っていたが、その誓いは果されるものではなかった。
 字義は、残った余剰、・多すぎるもの。○竜鸞 竜は天子を喩えていう言葉。鸞は鳳凰の雌の雛。張麗華・孔貴人をいう。○誓死 ともに死のうという誓い。期は約束。春秋時代の呉王夫差を指す。呉王宮外の水とは五湖のこと。



腸断呉王宮外水、濁泥猶得葬西施。
女のやるせなさの話は、呉王夫差と西施との物語は呉が滅びてから、西施は不祥の者として宮殿の外、五湖の水に沈められたものである、呉王の墓陵近くその湖の濁った泥水であるが西施は葬られたわけだから考えようによっては救いがあるということなのだ。
腸断 はらわたが悲しみにねじ切れる。李商隠は男女の情交ができない状況のいたたまれなさ、やるせなさの場合に使う。ここでは、陳の後主が愛妃張麗華・孔貴人と引き裂かれ、越の国のために呉王に献上され役目を果たしたら、越国王夫人により五湖に簀巻で沈められたそれぞれの女のやるせなさを言う。この時代の女の役割は性の道具と考えられていた。○葬西施 西施は春秋時代の越の美琴越王勾践は呉に敗れてのち、呉王夫差が好色であることを知り、美女を献じて内政を乱そうとし、蒋轟をして西施を献ぜしめた。呉王は果して彼女の色香におぼれて、越に滅ぼされた。趙煜「呉越春秋」に見える。呉の滅亡後、西施は江に沈められたと伝説される。



越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた西村の施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。

呉が滅びた後の生涯は不明だが、越王勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。

南朝(梁・元帝) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 46

南朝(梁・元帝) 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 46

七言絶句。


南 朝 
地險悠悠天險長、金陵王気應瑤光。
地勢の恵み自然の要害によるはるかかなたまでの領土、天から気候、風土の恵みにより、長い距離移動、穀物生産による豊かな国。金陵という名は、昔から王気漂う運気の強いところ、天界の斗宿とも合致応じている。
休誇此地分天下、只得徐妃半面粧。

これだけの国力があって、自分の国を誇れるまではない、漢民族が南を制しているだけで天下を二分されたままだ。ご自分の王妃、徐妃でさえ顔の半分だけに化粧をして馬鹿にされたと同様、たかだか全土の半分しか領土にし得なかったということだ。


地勢の恵み自然の要害によるはるかかなたまでの領土、天から気候、風土の恵みにより、長い距離移動、穀物生産による豊かな国。金陵という名は、昔から王気漂う運気の強いところ、天界の斗宿とも合致応じている。
これだけの国力があって、自分の国を誇れるまではない、漢民族が南を制しているだけで天下を二分されたままだ。ご自分の王妃、徐妃でさえ顔の半分だけに化粧をして馬鹿にされたと同様、たかだか全土の半分しか領土にし得なかったということだ


南 朝
地険は悠悠 天険は長し、金陵の王気瑤光に応ず。
誇るを休めよ此の地 天下を分かつと、只だ徐妃の半面の粧を得たるのみ


南朝 七言律詩の「南朝(玄武湖中)」は宋・南斉・陳の宮廷における逸楽を繰り広げるが、この「南朝」詩は梁を舞台とする。



地險悠悠天險長、金陵王気應瑤光。
地勢の恵み自然の要害によるはるかかなたまでの領土、天から気候、風土の恵みにより、長い距離移動、穀物生産による豊かな国。金陵という名は、昔から王気漂う運気の強いところ、天界の斗宿とも合致応じている。
地險悠悠天險長 「天険」、「地険」は守る自然の要害。「悠悠」は「長」と同じく、時間的空間的に長いこと。当時の戦は戦車主体で、その部隊は、戦艦によって移動した。南北朝はそれぞれの川を制した王朝ということができる。北朝は黄河流域を、南朝は長江流域である。隋の煬帝が大運河を完成させて統一するのである。それぞれの首都の位置も大河の要衝の地である。○金陵 南朝が歴代みやこを置いた建康(江蘇省南京市)の雅称。『太平御覧』巻四一が引く『金陵地記』、『太平韓太平寰宇記』昇州が引く『金陵図経』によると、戦国時代、楚の威壬がこの地に「王気」あるのを見て金を埋め、金陵と称した。秦の時に、江東に天子の気があると言われたのを恐れた始皇帝は地脈を断ち、「秣陵」と名を改めた、という。○王気 王者の出る気配を示す気。○応瑤光 「瑤光」は北斗七星(天樞. 天璇. 天璣. 天權. 玉衡. 開陽. 瑤光)にあたる星の名。北斗七星全体もあらわす。天空全体は二十八の宿(しゅう)星座によって区分され(分野)、それが中国全土を区分する「分野」と対応すると考えられた。金陵を含む呉の地は北斗七星を含む斗宿と対応している。


休誇此地分天下、只得徐妃半面粧。
これだけの国力があって、自分の国を誇れるまではない、漢民族が南を制しているだけで天下を二分されたままだ。ご自分の王妃、徐妃でさえ顔の半分だけに化粧をして馬鹿にされたと同様、たかだか全土の半分しか領土にし得なかったということだ。
分天下 中国が南朝と北朝により分割されていたことを指す。○徐妃 梁・元帝の后、徐昭佩。(じょ しょうはい、生年不詳 - 549年)ウィキペディアによると
徐妃は容姿が醜く、元帝は2、3年に1回しか入室しなかった。元帝は片眼だったので、徐妃は元帝がやってくると知ると、半面を化粧して待ったため、元帝は激怒して部屋を出た。徐妃は酒を好み、よく深酒していて、元帝が私室に帰ると、衣中に吐きもどした。徐妃は荊州の後堂瑤光寺の智遠道人と私通した。ひどく嫉妬深く、元帝の寵愛を受けない妾とは酒杯を交わして仲良くした。元帝の子を宿した者がいると分かると、手ずから刃傷を加えた。元帝の側近の曁季江の容姿が美しかったので、またこれと姦通した。季江は徐妃の老いらくの情に困惑して嘆いた。ときに賀徽という者の容姿が美しいことで知られたが、徐妃は賀徽を普賢尼寺に召して、白角の枕頭で詩を贈答しあった。


○韻 長、粧、光。

南 朝 (南斉の武帝と陳の後主)李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 46

南 朝 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 46



南 朝 
玄武湖中玉漏催、鶏鳴埭口繍襦廻。
楽遊園に造った玄武湖で宋の文帝は、行楽し、玉の水時計に急かされ時を惜しんで遊び耽った。楽遊園の堤は鶏鳴埭と名づけられるほど南斉の武帝は行幸し、お付の官女たちの短いうす絹の襦袢が旋舞するのに興じた。
誰言瓊樹朝朝見、不及金蓮歩歩來。
誰が言うのか、陳後主の張貴妃や孔貴嬪、光り輝く宝玉のように美しい樹が朝な朝な立ち現われる美しさと荒淫。それが一足歩む度に美しき黄金の蓮が咲かせた南斉東昏侯の潘妃にしたことが劣るなどというのか。
敵国軍營漂木柹、前朝神廟鎖煙煤。
敵国である隋の陣営は、木くずを流して戦艦建造中と警告したのに、対する陳朝では、先帝の祭祀の日も後宮から出ず荒淫に耽り、霊廟もすすけたままだった。
満宮学土皆顔色、江令當年只費才。

千人以上の宮女たちをあつめ、宮廷に女学士を選定し、いずれ劣らぬ美貌揃いであふれた。尚書令の江総は、当時、後主の荒淫の賛辞にひたすら詩文の才能を費したのである。


楽遊園に造った玄武湖で宋の文帝は、行楽し、玉の水時計に急かされ時を惜しんで遊び耽った。楽遊園の堤は鶏鳴埭と名づけられるほど南斉の武帝は行幸し、お付の官女たちの短いうす絹の襦袢が旋舞するのに興じた。
誰が言うのか、陳後主の張貴妃や孔貴嬪、光り輝く宝玉のように美しい樹が朝な朝な立ち現われる美しさと荒淫。それが一足歩む度に美しき黄金の蓮が咲かせた南斉東昏侯の潘妃にしたことが劣るなどというのか。
敵国である隋の陣営は、木くずを流して戦艦建造中と警告したのに、対する陳朝では、先帝の祭祀の日も後宮から出ず荒淫に耽り、霊廟もすすけたままだった。
千人以上の宮女たちをあつめ、宮廷に女学士を選定し、いずれ劣らぬ美貌揃いであふれた。尚書令の江総は、当時、後主の荒淫の賛辞にひたすら詩文の才能を費したのである。


南 朝
玄武湖中 玉漏催し、鶏鳴壊口 繍襦廻る。
誰か言う 瓊樹 朝朝に見わるるは、金蓮 歩歩に来たるに及はずと
敵国の軍営 木柹を漂わし、前朝の神廟 煙煤に鎖さる
満宮の学士 皆な顔色あり、江令 当年只だ才を費す



南朝 439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。建康(江蘇省南京市)に都を置いた東晋・宋・南斉・梁・陳の王朝。西晋末の五胡十六国の乱から隋が統一するまで三百年近く、中国は漢民族による南朝と北方民族による北朝とに分裂した時期が続いた。北朝の質実剛健、南朝の繊細華美という対比で捉えられる。
北魏が華北を統一し、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。
李商隠にはほかにも「南朝(地険悠悠天険長)」と題する七言絶句がある。



玄武湖中玉漏催、鶏鳴埭口繍襦廻。
楽遊園に造った玄武湖で宋の文帝は、行楽し、玉の水時計に急かされ時を惜しんで遊び耽った。楽遊園の堤は鶏鳴埭と名づけられるほど南斉の武帝は行幸し、お付の官女たちの短いうす絹の襦袢が旋舞するのに興じた。
玄武湖 南京市北郊の湖。南朝宋の文帝が開墾し楽遊園に造った、行楽の場とした。「陳の後宮(玄武)」詩にも「玄武 新苑を開き、龍舟 燕幸(御幸して宴を催すこと)頻りなり」。○玉漏催 玉でできた漏刻(水時計)がせき立てるように時を刻む。文帝は次々に土木工事行い、夜まで時を忘れて享楽に耽ったことをいう。○鶏鳴埭 (けいめいたい) 玄武湖の北の堰の名。南斉の武帝はしばしば官女を引き連れて琅琊城に行幸し、宮廷を早朝に発って玄武湖の堰まで来ると鶏が鳴いたのでそこを「鶏鳴埭」と呼んだという(『南史』后妃伝・武穣装皇后伝)。「域」は堰の意。○繍襦廻 「繍襦」はうす絹の襦袢で刺繍を施したものをいう。膝上までの短衣を着たお供の官女たちを指す。「」は短衣が舞いながら回転する。




誰言瓊樹朝朝見、不及金蓮歩歩來。
誰が言うのか、陳後主の張貴妃や孔貴嬪、光り輝く宝玉のように美しい樹が朝な朝な立ち現われる美しさと荒淫。それが一足歩む度に美しき黄金の蓮が咲かせた南斉東昏侯の潘妃にしたことが劣るなどというのか。
瓊樹 宝玉のように美しい木。陳の後主が張貴妃、孔貴嬪の美貌を讃えて作った「玉樹後庭歌」をふまえてに「璧月は 夜夜に満ち、瓊樹は朝朝新たなり」(『陳書』後主沈皇后伝論)にもとづく。「瓊」は赤い宝石。「璧」も美しい玉。○金蓮歩歩來 南斉の末期の帝、東昏侯蕭宝巻(483-501)は黄金で蓮の花をこしらえて地面に敷き、その上を愛姫の潘妃に歩ませて、「此れ歩歩に蓮華を生ずるなり」といった(『南史』斉本紀)にある。
 

敵国軍營漂木柹、前朝神廟鎖煙煤。
敵国である隋の陣営は、木くずを流して戦艦建造中と警告したのに、対する陳朝では、先帝の祭祀の日も後宮から出ず荒淫に耽り、霊廟もすすけたままだった。
敵国 隋を指す。○漂木柹 隋の文帝は戦艦を建造した際、秘密裡に進めるようにという忠告に対して、天誅を施そうとしているのだから隠すまでもない、川に船の木くずを流せ、戦艦が攻めてくると知って陳が放埓を改めるならはそれでよい、と語った(『南史』陳本紀)。「柹」は木屑。○前朝神廟鎖煙煤 先帝の建国の艱難辛苦忘れ、霊を祀った7か所の御廟が祭祀も行われずに放置され酒食に耽った。その上、陳の後主(陳叔宝)は先祖の祀りを怠って酒食に溺れ、とがめた章華を斬殺した(司馬光「資治通鑑」)。「煙煤」はすすけむり。



満宮学土皆顔色、江令當年只費才。
千人以上の宮女たちをあつめ、宮廷に女学士を選定し、いずれ劣らぬ美貌揃いであふれた。尚書令の江総は、当時、後主の荒淫の賛辞にひたすら詩文の才能を費したのである。
満宮学土皆顔色 陳の後主は宮女のなかで文才のあるものを「女学士」に命じ、宴遊に際して詩を書かせ、千人以上の宮女たちに合唱させた。「顔色」は美貌。○江令 陳の宮廷の御用文人江総(519-594)、梁、陳、隋の三朝に仕えた。尚書令であったので「江令」という。『陳書』江総伝に、総は権宰であったのに、政務を持せず、後主と遊宴のみし、陳喧・孔範・王瑳ら十余人と共にし、「狎客(お追従もの)」と称された。国政に与る身でありながら享楽の詩にのみ才を注いだことをのべる。



○韻 催、廻、煤、来、才。

北斉二首其二 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 45

北斉二首其二 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 45


 
北斉
詩に詠われた斉 建国時の勢力図


北斉は 北朝の王朝の一つ。550年に鮮卑族の高氏が東魏から政権を奪って樹立、三十年足らず後の577年に北周によって滅ぼされた。

北齋 二首 其二
巧笑知堪敵萬機、傾城最在著戎衣
女性の魅力的な笑みは天子の持つすべての権限、権力に匹敵するほどのものなのか。美人の色香により城をも傾けるというものも、いかめしい軍服に身を包んだまさにめざめたなら最も威力を揮い守れるのだ。
晋陽己陥休廻首、更講君王猟一国

そうしていても晋陽はもう陥落した、振り返ったとしても仕方がない、もう振り返るまい。その後一国の王がしたことは戦いのいでたちのまま、もう一度囲みを作って狩りをしたのだ。



女性の魅力的な笑みは天子の持つすべての権限、権力に匹敵するほどのものなのか。美人の色香により城をも傾けるというものも、いかめしい軍服に身を包んだまさにめざめたなら最も威力を揮い守れるのだ。
そうしていても晋陽はもう陥落した、振り返ったとしても仕方がない、もう振り返るまい。その後一国の王がしたことは戦いのいでたちのまま、もう一度囲みを作って狩りをしたのだ。


其の二
巧笑は万機に敵たるに堪うと知る、傾城は最も戎衣を着するに在り
晋陽 巳に陥つるも首を廻らすを休めよ、更に請う 君王一因を猟せんことを

 

巧笑知堪敵萬機、傾城最在著戎衣
女性の魅力的な笑みは天子の持つすべての権限、権力に匹敵するほどのものなのか。美人の色香により城をも傾けるというものも、いかめしい軍服に身を包んだまさにめざめたなら最も威力を揮い守れるのだ。
巧笑 女性の魅力的な笑み。美人の容貌をほめたたえる詩として『詩経』衛風―碩人に「巧笑 倩たり、美目 盼たり」。(にっこり笑えばえくぼが可愛い、美しい目はぱっちりとしている。)手、肌、首、歯、額に続いて微笑み、目を詠っている。艶詩では女性の蠱惑的(こわくてき)な表情として使われる。○敵万機 天子の持つすべての権限、権力の意。よろずの細々した事柄。「敵」は匹敵する。○傾城 美女に心を奪われ、適切な対処を放棄し城を陥落させること。○戎衣 いくさのいでたち。猟をするための服装でもある。



晋陽己陥休廻首、更講君王猟一国
そうしていても晋陽はもう陥落した、振り返ったとしても仕方がない、もう振り返るまい。その後一国の王がしたことは后妃の言う通りに、戦いのいでたちのまま、もう一度囲みを作って狩りをしたのだ。
猟一因 周りを包囲してそのなかの獣をしとめること。『北史』后妃伝の馮淑妃の伝に、後主が猟をしていた時、北周の軍勢が晋陽に迫ったという知らせを受けて戻ろうとしたが、馮淑妃が「更に一因を殺さんことを請う」とねだり、後主はその言に従った、晋陽(現太原)の城が陥落しても首都、鄴には及ぶまいとしたものであろうが、美人の后妃が国を傾けたことを示す。。


○詩型・押韻 七言絶句。 機・衣・囲。



李商隠の詩 時代背景
李商隠(812~858)845年34歳
安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。
中興810~821頃の祖といわれる憲宗(在位806~821)は中央の禁軍を強化することで、中央の命令に服さない節度使を討伐し朝威を回復させた。しかしその後、宮女と不老長寿の薬と称された丹砂(水銀)などの怪しげな仙薬を常用するようになると、精神不安定から宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」(835年11月李商隠24歳)と称される策略を練ったが失敗し、却って宦官の専横を招いた。 文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。
 846年武宗仙薬中毒死。(宦官の謀略とされる。)
 李商隠の時代背景である。

北斉二首其一 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 44

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○北斉 北朝の王朝の一つ。550年に鮮卑族の高氏が東魂から政権を奪って樹立、三十年足らず後の577年に北周によって滅ぼされた。事実上の最後の帝、後主高緯は政治に関心も能力もなく、歌舞音曲を愛した。みずから「無愁の曲」を作って合唱させたので「無愁天子」(脳天気の君)と称された(『北斉書』後主紀)。

宜帝は華北の支配をめぐり北周と争う一方、北方に勃興した突厥を撃破するなど、軍事面では優勢であったものの、国内では「勲貴」と呼ばれる鮮卑系武人と漢族を中心とする文人官僚が内部抗争を繰り広げた。北斉後期になると、さらに「恩倖」と呼ばれる皇帝側近の勢力が抗争に加わり、これら三者による対立が激化して北斉の求心力は低下した。後主の代には、名将斛律光ら勲貴層が粛清され、北周や南朝の陳に対する軍事的優位を失った上、その後も漢人官僚と恩倖による内紛が続き、国内は混乱した。このような状況の中、北周の武帝の侵攻に対応できず敗北を続け、577年に滅亡した。

 李商隠は、宜帝、唐王朝の状態が詩の題材と同様な状態であったと考えている。エロティシズムを持った詩も単一で捉えず、重ねて読んでいくとはっきりと宜帝批判、党派の政争、宦官の排除を訴えている。『王台新詠』を利用し、自己の主張を覆い隠したのであろう。
宮廷の荒淫によって国が滅ぶのは、李商隠は最もわかりやすい例としてよく取り上げる題材の一つである。
 
北斉二首其一 
一笑相傾國便亡、何勞荊棘始堪傷。
美女の一笑で国が傾け滅ぼすということがよくある。国の内部で党派の政争をしたり、宦官の讒言を聞き忠義のものをしりぞける、皇帝の荒淫により宮廷が淫乱れ、都がいばらだらけになってから滅亡を悲しむことにそんな手間などかからない。
小憐玉體横陳夜、己報周師人晋陽。

北斎後主の寵姫小燐、連日艶やかな肢体を横たえ続けたすでに北周の軍勢が晋陽に侵入との知らせが来ていたその夜のことだ。


美女の一笑で国が傾け滅ぼすということがよくある。国の内部で党派の政争をしたり、宦官の讒言を聞き忠義のものをしりぞける、皇帝の荒淫により宮廷が淫乱れ、都がいばらだらけになってから滅亡を悲しむことにそんな手間などかからない。
北斎後主の寵姫小燐、連日艶やかな肢体を横たえ続けたすでに北周の軍勢が晋陽に侵入との知らせが来ていたその夜のことだ。

北斉二首 其の一
一笑して相い傾くれは国便ち亡ぶ、何ぞ労せん 荊棘にして始めて傷むに堪うるを。
小燐の玉体 横陳する夜、己に報ず 周師 晋陽に入ると。


一笑相傾國便亡、何勞荊棘始堪傷。
美女の一笑で国が傾け滅ぼすということがよくある。国の内部で党派の政争をしたり、宦官の讒言を聞き忠義のものをしりぞける、皇帝の荒淫により宮廷が淫乱れ、都がいばらだらけになってから滅亡を悲しむことにそんな手間などかからない。
一笑 笑みは美女の蠱惑(こわく)的な表情。周の幽王は寵愛する褒姐が笑ったことがないので、危急を知らせる煙火を燃やして諸侯を集めた。馳せ参じた人々が何事もないのにきょとんとしているのを見て褒姐が初めて「大笑」した。それを喜んでたびたび怪火を焚いたがもはや誰も集まらなくなって滅亡を招いたという話がある(『史記』周本紀)。白居易「長恨歌」にも楊貴妃について「陣を廻らせて一笑すれば百媚生ず」。○相傾 前漢・李延年は「北方に佳人有り、絶世にして独立す。ひとたび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く」とうたって、自分の妹を漢の武帝に薦め、妹は李夫人となって寵愛を受けた(『漢書』孝武李夫人伝)。「傾城」「傾国」の語は、歌の本来の意味は、美しい人を見ようとして町中、国中の人が一箇所に集中し、そのために町や国が文字通り傾いてしまうこと。○荊棘 「荊」も「棘」もとげのある雑木。二字合わせると子音が重なる双声の語となる。呉の忠臣伍子背が呉王夫差に向かって諌めた言葉に、姦臣に囲まれていたら「城郭は丘墟となり、殿には荊棘生ぜん」(『呉越春秋』夫差内伝)とある。都城の荒廃をいうことと、荊は牛李闘争を示し、棘は宦官による宮廷内の執務の横暴、讒言による貶め、数々の暗殺、などを示す。。



小憐玉體横陳夜、己報周師人晋陽。
北斎後主の寵姫小燐、連日艶やかな肢体を横たえ続けたすでに北周の軍勢が晋陽に侵入との知らせが来ていたその夜のことだ。
小憐 北斉の後主高給が寵愛した馮淑妃の名。燐は同音の蓮とも書かれる。もとは穆皇后の侍女であったが、聡明で琵琶、歌舞に巧みなのが気に入られて穆皇后への寵愛がおとろえ、後宮に入った。その寵愛ぶりを『北史』后妃伝の馮淑妃の伝は「後主 之に惑い、坐すれば則ち席を同じくし、出ずれば則ち馬を並べ、生死一処を得んことを願う」と記す。○玉体 美女の肉体。○横陳 性行為の際の横たわりあらわにする。しとどにする。もっぱら女性についていう。徐陵「王台新詠序」に「西子(西施)微かに顰め、甲帳に杭陳するを得」など、「玉体」も「横陳」も南朝の艶詩を集めた『王台新詠』によく見える。○周師入晋陽 武平七年(576)冬、北周の宇文昌が北斉に攻め入って、その本拠地である晋陽(山西省太原市)を奪った。後主は都を置いていた鄭(河北省臨淳県)に逃げたが、人心離反し、やむなく退位した。年明けて鄴も奪取され、後主は帝位を継いでいた八歳の子高恒や馮淑妃とともに南朝の陳に逃げようとしたが途中で捕えらえられた。

○詩型・押韻 七言絶句。 亡・傷・陽。


涼思 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 44 

紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 44 「涼思」李商隠
847年36歳。桂林に来て少し落ち着いたのか、杜甫の、「江村」「水檻遣心二首」などの心境であったのか。


涼思  李商隠44
客去波平檻、蝉休露満枝。
波立つ水は欄干のもとまで漲っている。先刻まで鳴きしきっていた蝉の声はピタッとやみ、樹々の枝には露がいっぱいにひかり始めた。
永懐當此節、倚立自移時。
久しく続いた憂鬱は、悲愁の季節にあって一層深まり、私は大樹に一人凭(もた)れて、なんとなく時を過してしまうのである。
北斗兼春遠、南陵寓使遅。
北斗七星は過ぎ去った春とともにはるかになんもかんも遠のき、この南陵へ手紙のことづけられるのも、じれったく遅くなったようだ。
天涯占夢数、疑誤有新知。

この南の地の果てで、私は何度も夢占いをしてみたのだ、たわむれの占いを信じものである。吉とでて、新たに私の考えを認知してくれそうな気がしてくるのだ。



波立つ水は欄干のもとまで漲っている。先刻まで鳴きしきっていた蝉の声はピタッとやみ、樹々の枝には露がいっぱいにひかり始めた。
久しく続いた憂鬱は、悲愁の季節にあって一層深まり、私は大樹に一人凭(もた)れて、なんとなく時を過してしまうのである。
北斗七星は過ぎ去った春とともにはるかになんもかんも遠のき、この南陵へ手紙のことづけられるのも、じれったく遅くなったようだ。
この南の地の果てで、私は何度も夢占いをしてみたのだ、たわむれの占いを信じものである。吉とでて、新たに私の考えを認知してくれそうな気がしてくるのだ。



涼恩
客去って波は檻と平しく、蝉休みて露は枝に満つ。
永懐 此の節に当り、倚立 自ら時を移す。
北斗は春と兼に遠く、南陵に使いを寓すること遅し。
天涯 占夢数々(しばしば)なり、疑誤す 新知有りやを。




涼思 涼しき夕べの思い。
江村     杜甫
淸江一曲抱村流,長夏江村事事幽。
自去自來梁上燕,相親相近水中鴎。
老妻畫紙爲棊局,稚子敲針作釣鈎。
多病所須唯藥物,微躯此外更何求。


客去波平檻、蝉休露満枝。
いままで話し合っていた客人も帰り、水ぎわの座敷で、波立つ水は欄干のもとまで漲っている。先刻まで鳴きしきっていた蝉の声はピタッとやみ、樹々の枝には露がいっぱいにひかり始めた。
波平檻 水が満ちて来て波が檻の高さと等しくなる。○ 欄干。○ 成虫になった蝉は、夜露だけを食べるとされる。漢詩ブログ李商隠29「蝉」参照

永懐當此節、倚立自移時。
久しく続いた憂鬱は、悲愁の季節にあって一層深まり、私は大樹に一人凭(もた)れて、なんとなく時を過してしまうのである
永懐 ずっと続いて来た、そしてこれからも続くであろうもの思い。党派に別れての政争と宦官による陰湿な朝廷支配のことを言う。〇倚立 倚はもたれかかる。



北斗兼春遠、南陵寓使遅。
北斗七星は過ぎ去った春とともにはるかになんもかんも遠のき、この南陵へ手紙のことづけられるのも、じれったく遅くなったようだ。
北斗 北斗七星によって季節、月日、時を知らせる星である。○ 何何とともに。接続の辞。○南陵 地名、今の安徽省燕湖の附近。○寓使 寓は寄せると同じ、手紙をよせる。



天涯占夢数、疑誤有新知。
この南の地の果てで、私は何度も夢占いをしてみたのだ、たわむれの占いを信じものである。吉とでて、新たに私の考えを認知してくれそうな気がしてくるのだ。
占夢数 占夢はゆめうらない。数はしばしば。○疑誤 まどわせ誤らす。劉未の蒋嘩の「後漢書」察邑伝に「俗儒は穿馨しで後学を疑誤す。」と見える。ここは占いが自分をまどわすという意味。○新知 新たな知己。自分を認知してくれる

桂林 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 42 

紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 42 「桂林」李商隠
847年36歳。潭州(李商隠41)に立ち寄り桂林に赴いた。長沙から峠を越えて初めて桂林に入った。桂林の風景と異民族の風俗に驚いた李商隠の誌である。


桂林  李商隠
城窄山將壓、江寛地共浮。
この地、桂林は四方に峻しい山が聳え、城壁に囲まれた狭い町を圧し潰すようにせまっている。大江は、おおきくゆったりと流れていて、大地が天と共にそこに浮ぶかのようにみえる。
東南通絶域、西北有高樓。
東南の方は、遠く、蛮夷の住む未開の地に通じ、西北方向に高楼がある。
紳護青楓岸、龍移白石湫。
川岸に茂る神通力を持つ、神の守り札のような不思議な楓の老木がある、白石湫呼ばれる池も、大きく深深として、昔、竜神の害をふせぐためにそれ竜を移した伝説にふさわしいものである。
殊郷竟何禱、簫鼓不曾体。
この言葉通ぜぬ異郷の人々は何を祈っているだろうか、簫や鼓の響きは一向にやまない。



この地、桂林は四方に峻しい山が聳え、城壁に囲まれた狭い町を圧し潰すようにせまっている。大江は、おおきくゆったりと流れていて、大地が天と共にそこに浮ぶかのようにみえる。
東南の方は、遠く、蛮夷の住む未開の地に通じ、西北方向に高楼がある。
川岸に茂る神通力を持つ、神の守り札のような不思議な楓の老木がある、白石湫呼ばれる池も、大きく深深として、昔、竜神の害をふせぐためにそれ竜を移した伝説にふさわしいものである。
この言葉通ぜぬ異郷の人々は何を祈っているだろうか、簫や鼓の響きは一向にやまない。




桂林
城は窄(せま)くして山将に圧せんとし、江は寛(ひろ)くして地共に浮ぶ。
東南 絶域に通じ、西北に高楼有り。
神は護る 青楓の岸、竜は移る 白石の湫。
殊郷 竟して何をか禱、簫鼓 曾て休まず。




○桂林 広西省桂林県。桂林刺史、桂管防禦観察使の鄭亜の掌書記として桂林に赴いた時、宜宗皇帝の大中元年(847年)の作。李商隠三十六歳。桂林市(けいりん-し)は中華人民共和国広西チワン族自治区に位置する地級市。カルスト地形でタワーカルストが林立し、絵のように美しい風景に恵まれ、世界的な観光地である。

 古来、百越の住む地であり、秦始皇帝が征服して桂林郡を設置した。111年に始安県が設置され、湖南省に近いため、荊州臨稜郡に属した。269年始安郡始安県が置かれて初めて現在の桂林の町が形成された。

また桂林市のHP「歴史と文化」には、”唐代には、嶺南(広東・広西一帯)は5つの節度と経略使(いずれも官名)に分かれて管轄されるようになり、嶺南「五管」もしくは「五府」と呼ばれました。桂林は「桂管」の所在地で、桂管の役人は嶺南の採訪使(官名)の職も兼ねており、嶺南すべての検察の権利を持っていました。唐武徳4年(621)に李靖が独秀峰の南に城を建て、唐武徳5年(622)、桂林で貨幣の鋳造が始まり、貿易が盛んに行われるようになります。長寿元年(692)、水利工事を行い、漓江・柳江をつなぎ、貴州・雲南への近道となりました。これは、桂林北部の霊渠とともに一つの交通体系を形成し、桂林はこの体系の中枢となりました。交通の発達は経済の活発化を促進し、唐代中期以降、桂林の発展は隆盛を極めます。”




城窄山將壓、江寛地共浮。

この地、桂林は四方に峻しい山が聳え、城壁に囲まれた狭い町を圧し潰すようにせまっている。大江は、おおきくゆったりと流れていて、大地が天と共にそこに浮ぶかのようにみえる。
○城 城壁に囲まれたまち。○地共浮 土地が天と共に水に浮んでいるように見える。盛唐、杜甫(712-770年)の岳陽樓に登るの詩に「呉楚東南に坼け、乾坤日夜浮ぶ。」と見える。
登岳陽樓   杜甫
昔聞洞庭水,今上岳陽樓。
呉楚東南坼,乾坤日夜浮。
親朋無一字,老病有孤舟。
戎馬關山北,憑軒涕泗流。



東南通絶域、西北有高樓。
東南の方は、遠く、蛮夷の住む未開の地に通じ、西北方向に高楼がある。
絶域 遠隔未開の異民族が住む地域。杜甫「陪鄭広文遊何将軍山林十首」其三
萬裡戎王子,何年別月支。
異花開絕域,滋蔓匝清池。
漢使徒空到,神農竟不知。
露翻兼雨打,開坼日離披。



紳護青楓岸、龍移白石湫。
川岸に茂る神通力を持つ、神の守り札のような不思議な楓の老木がある、白石湫呼ばれる池も、大きく深深として、昔、竜神の害をふせぐためにそれ竜を移した伝説にふさわしいものである。
紳護楓 不思議な楓の老木。紳は神通力を帯びる、護は神や仏の守り札。○白石湫 湫は池。「明一統志」に「白石湫は桂林府城の北七十里にあり、俗に白石潭と名づく。」とある。白石湫に竜が住むという伝説がある。



殊郷竟何禱、簫鼓不曾体。
この言葉通ぜぬ異郷の人々は何を祈っているだろうか、簫一向にやまない。
殊郷 異民族の住む地域。○不骨休 一向にやまない。

潭州 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41

「潭州」李商隠:kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41
 41 潭州  李商隠

847年36歳の作品。
劉蕡にちなんだ詩。李商隠が劉蕡と最初、知りあったのは湖南観察使であった楊嗣復のもとでであったと推定される。なお揚嗣復は劉蕡の座主すなわち進士登第の時の試験官だった。李商隠は5,6年ぶりの再会を夢見て尋ねた。



潭州 李商隠
潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。
潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです
湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。
湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。
陶公戦艦空灘雨、賈傅承塵破廟風。
この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
目断故園人不至、松醪一酔與誰同。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。



潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです
湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。
この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。

 


潭州
潭州の官舎 暮楼空し、今古 端なくも人望中る。
湘涙 浅深 竹色を涼し、楚歌 重畳 蘭叢を怨む。
陶公の戦艦 空灘の雨、晋博の承盛 破廟の風。
目断す 故図 人至らず、鋸跳う表禦現にか閉じゅうせん。




潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。
潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです。
潭州 湖南省にある地名。長沙のこと。湘水は昭山の山麓をめぐるあたり、深い潭となって流れる。この詩は彼が好意を寄せていた揚嗣復を潭州に訪ねた時、その人に会うことができずその寂蓼の中で作られたもの。揚嗣復は文宗の開成四年(839年)湖南観察使となってこの地に赴き、武宗の会昌元年(841年)に潮州別史としてさらに南方の広東省へ貶遷された。○無端 何の原因もなく。ゆえなく。わけもなく。端(はし)無く。これというきざしもなく。思いがけなく。はからずも。いつもどおり何の変りもなく。李商隠「錦瑟」○人望 世間の人々がその人に寄せる信頼や、尊敬の念。 ○ 空と対句で、無なしに対して、当たる。



湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。
湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。
湘涙・・・句 紀頌之の漢詩ブログ 李商隠33「涙」に湘江竹上痕無限を参照。  紀頌之の漢詩ブログ李商隠40「哭劉司戸二首其二」の添恨涙を連想させる。 蛾皇と女英の故事にもとづく。古代の帝王舜は南方巡行の途中、蒼梧(湖南省寧遠県付近の山)で残した。二人の妃、蛾皇と女英は舜を追い求めて湘江のあたりまで来たが、二人の涙がこぼれた竹はまだらに染まった。そのためこの地の竹には斑紋がついているという(『博物志』、『述異記』)。湘江は長抄の西を通って洞庭湖に注ぐ。「浅深」はあるいは浅くあるいは深く、まだらになっていることをいう。この句は次の聯の「雨」 に繋がる。
○楚歌一句 劉蕡を屈原にたくして表現している。屈原・宋玉などの『楚辞』のなかには蘭をはじめとする香り高い植物がよくうたわれ、おおむねは美徳を備えた人を喩える。「重畳」は幾重にも重なり合って。この句は次の聯の「風」に繋がる。



陶公戦艦空灘雨、賈傅承塵破廟風。
この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
陶公一句 西晋の将軍陶侃(とうかん257―332年)は異民族から身を起こし、東晋が南方に勢力を築くのに貢献した武将。陶淵明の曾祖父でもある。字名は士行。明帝司馬紹(299-325年)の時、征西大将軍となり、杜位を討ち、配剛の乱を平らげ、長沙郡公に封ぜられた。陳敏・陳恢兄弟の乱の時、江夏大守だった陶侃は荊州別史劉弘と協力し、運送船を戦艦にしたてて戦いながらも、合戦のたびに必ず勝った。(『晋吉』陶侃伝)。「灘」はその岩のある急流。「空」はあるべき物がない空虚な感じをあらわす。○貢倖一句 ○賈生 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した



目断故園人不至、松醪一酔與誰同。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。
〇目断 視界が途切れる果てまで、まなこを凝らして見る。○故園 故郷。〇人不至 誰一人来ない、ではなく、特定の人が来ない。異土にある心細さゆえに、心通い合う友への思いを募らせる。○松謬 松の香りをつけた濁り酒。唐の貞元年間(785-805)に長沙の男が舟人に「松膠春」という酒をふるまう話が『太平広記』巻一五二、「鄭徳瑛」の条に見えるなど、長抄にまつわって語られることが多い。ここでは、劉蕡に初めて合わせてくれた揚嗣復座主と、死者を偲ぶという松膠を酌み交わそうと思って訪ねてきたのだ。



○詩型・押韻 七言律詩。空、中、叢、凰、同。

哭劉司戸二首其二 李商隠  :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 40

kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 40 「哭劉司戸二首其二」李商隠 812~858



哭劉司戸二首 其二
有美扶皇運、無誰薦直言。
世の中広いが道端であったであって心通じた人なんてあるものではないが、勇気をもって正しいことを主張できる人に、皇帝の命運を支えることだできる唯ひとりの人だ、だが直言して推挙する人物は誰もいなかった。
己爲秦逐客、復作楚冤魂。
秦の追放令を食らって長安を追われたうえに、濡れ衣を着せられて死んだ屈原は、楚の地に非業の死を遂げたと同じようなことになってしまった。
湓浦應分振、荊江有會源。
湓浦では長江はいくつにも分かれているように官僚が党派により争っている。上流の荊江では多くの水流が一つに集まっているように宦官に対して結集しないといけないのだ。
併將添恨涙、一酒問乾坤。
せめて長江の水に恨みのこの涙を添え、そのすべてを地に洗い流して天と地に是非を問いただそう。


世の中広いが道端であったであって心通じた人なんてあるものではないが、勇気をもって正しいことを主張できる人に、皇帝の命運を支えることだできる唯ひとりの人だ、だが直言して推挙する人物は誰もいなかった。
秦の追放令を食らって長安を追われたうえに、濡れ衣を着せられて死んだ屈原は、楚の地に非業の死を遂げたと同じようなことになってしまった。
湓浦では長江はいくつにも分かれているように官僚が党派により争っている。上流の荊江では多くの水流が一つに集まっているように宦官に対して結集しないといけないのだ。
せめて長江の水に恨みのこの涙を添え、そのすべてを地に洗い流して天と地に是非を問いただそう。
 


其の二
有美は皇運を扶するも、誰の直言を薦むるも無し。
己に秦の逐客と為り、復た楚の冤魂と作る。
湓浦 応に派を分かつべし、荊江 源を会する有り。
併せて将て恨涙を添え、一たび洒ぎて乾坤に間わん。



有美扶皇運、無誰薦直言。
 世の中広いが道端であったであって心通じた人なんてあるものではないが、勇気をもって正しいことを主張できる人に、皇帝の命運を支えることだできる唯ひとりの人だ、だが直言して推挙する人物は誰もいなかった。
有美 『詩経』鄭風・野右曼草に
野右曼草   零露溥兮
有美一人   清揚婉兮
邂逅相遇   適我願兮
「美なる一人有り、清揚にして婉たり」とある。道で出会った恋の嬉しさを詠うものである。これも男の洒落であろう。「有美一人」の最初の二字を取った語。人格、能力を備えた人をいう。○皇運 皇帝の命運。○直言 諌言を呈する臣。一句は劉責が賢良方正能直言極諌科に落第させられたことをいう。


 
己爲秦逐客、復作楚冤魂。
秦の追放令を食らって長安を追われたうえに、濡れ衣を着せられて死んだ屈原は、楚の地に非業の死を遂げたと同じようなことになってしまった。
秦逐客 秦の始皇帝がまだ秦王であった紀元前237年、嫪毐(ロウアイ)の乱各地から秦に入っていた遊説の士を捜索して追放したことがあった。のちに丞相となる李斯は自分も楚の人であったので、上書して人材は広く集めるべきであると論じ、そこで「逐客令」は廃止された(『史記』秦始皇本紀)。ここでは秦の地である長安と結びつけて、劉蕡が長安から追われたことと重ねている。○楚冤魂 楚の屈原は冤罪を着せられて楚の国から追放され、汨羅に身を投じた。
天末懷李白
涼風起天末,君子意如何?
鴻雁幾時到,江湖秋水多。
文章憎命達,魑魅喜人過。
應共冤魂語,投詩贈汨羅。
杜甫「天末に李白を懐う」詩に李白がすでに死んだかと思い、「応に冤魂と共に語るべし、詩を投じて汨羅に贈らん」、黄泉の国で屈原と語り合っていることだろうという。ここでは劉蕡が都を遠く離れた南方の地で無実のまま死んだことと重ねる。



湓浦應分振、荊江有會源。
湓浦では長江はいくつにも分かれているように官僚が党派により争っている。上流の荊江では多くの水流が一つに集まっているように宦官に対して結集しないといけないのだ。
湓浦 江州薄陽(江西省九江市)の地名。塩水が長江に合流するあたり。「劉蕡を哭す」詩に「漁浦より書来たりて秋雨翻る」とあるのを劉蕡の訃報とし、湓浦で歿したとする説がある。とすれば柳州から召還されて都に戻る途上で死んだことになる。○分振 振は支流。長江は薄陽に至って九つの流れに分かれる(『漢書』地理志)。○荊江 江州より上流の荊州(湖北省荊州市)付近を流れる長江の称。○会源 長江は荊州のあたりで洞庭湖からの流れ込みをはじめとして、湖南省を流れてきた諸川が合流する。この二句は、劉蕡のまわりに集まっていた人々が次第に遠ざかっていくことをいうのと宦官に向かうべき恨みを官僚の派閥争いをしていることを示している。どうして、官僚が一致団結しないのか、と訴えている。



併將添恨涙、一洒問乾坤。
せめて長江の水に恨みのこの涙を添え、そのすべてを地に洗い流して天と地に是非を問いただそう。
併将一句 幾つもの流れが一つに合わさったり、また分流しながら流れゆく長江の水に、劉蕡の死を悼む涙を添えようの意もある。李商隠「涙」紀頌之漢詩ブログ李商隠33にいくつものの涙を詠っている。「哭劉司戸二首其二」では正論主張を中央の朝廷の中で、少数派になっていることの悔し涙か。○乾坤 天地。「乾坤に問う」とは、劉蕡が正しいのかどうかを問うとしながら、天は味方しないのかを問うの意。



○詩型・押韻 五言律詩。言、源、魂、坤。

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