中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊(東野)  漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 訳注解説ブログ

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

2011年12月

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 161 #14

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 161 #14

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #12

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #13

玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
南資竭吳越,西費失河源。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
如人當一身,有左無右邊。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』
#-14
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。

列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15

#13
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを。
誠に知りぬ 開闢(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。
千馬 轡(たずな)を返えさず、万車も轅(ながえ)を還(めぐら)さず。
14

城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)(かしま)し。

南の資は呉越に竭()き、西の費は河源に失す。

()りて右の蔵庫(ぞうこ)を令()て、摧(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。

人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。

筋体(きんたい) 半ば痿()えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。

#15
列聖(れつせい) 此の恥を蒙(こうむり)り、懐を含むも宜(の)ぶる能(あた)わず。
謀臣(ぼうしん)は手を拱(こまね)いて立ち、相い戒(いまし)めて敢て先んずる無し。
万国 杼軸(ちょじく)に困(くる)み、内庫(ないこ)に金銭無し。
健児(けんじ)は霜雪(そうせつ)のうちに立ち、腹は歉(あ)かず 衣裳は単のみ。

 

現代語訳と訳註
(本文)
#-14

城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』

(下し文) #14
城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)喧(かしま)し。
南の資は呉越に竭(つ)き、西の費は河源に失す。
因(よ)りて右の蔵庫(ぞうこ)を令(し)て、摧毁(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。
人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。
筋体(きんたい) 半ば痿(な)えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。

(現代語訳)
街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。

(訳注)
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
城空 長安城はみんな逃げて誰もいないありさま。


南資竭吳越,西費失河源。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
南資 南方から長安に運び込まれていた食糧、塩、鉄などの資源。○呉越 共に春秋時代の国名。後に呉は越に滅されたのだが、その二国の版図、江蘇、浙江一帯を呉越という。○西費 西方の異国からもたらされる衣類や香料や宝石などの貢物。○河源 黄河の源の一帯。安縁山の叛乱による中国の混乱に乗じて、粛宗皇帝李亨(711年-762年)の至徳年間(756―757年)、吐蕃は河西隴右の地をことごとく占拠したばかりか、一時長安にも迫った。


因今左藏庫,摧毁惟空垣。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
○因 それで。その結果。○左藏庫 国庫に左右の蔵倉があり、左には天下の賦調、右には国の宝貨および四方からの貢物をおさめる。長安の人口に対して、潼関から西の耕作地面積では長安の自給率は、50%に満たなかった。


如人當一身,有左無右邊。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
○基本的な税は、租庸調に変わりはない。


觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。
臊膻 動物のなま臭いにおい。また食生活の違う、北方の異民族に対する蔑称でもあり、一種のかけ言葉として用いられたもの。

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生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
送者問鼎大,存者要高官。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事はできはしない。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13

行く先先、州軍の干馬は逃げ去って、たづなをしぼって馬を返す忠義の将はいなかった、州軍の万車は車のかじをめぐらしてひきかえす勇気ある兵士もいなかった。
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14


#12
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。
#13
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを。
誠に知りぬ 開闢(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。
千馬 轡(たずな)を返えさず、万車も轅(ながえ)を還(めぐら)さず。

#14
城は空しくして鼠雀(そじゃく)死し、人は去りて豺狼(さいろく)喧(かしま)し。
南の資は呉越に竭(つ)き、西の費は河源に失す。
因(よ)りて右の蔵庫(ぞうこ)を令(し)て、摧毁(さいき)して惟だ空垣(くうえん)のみならしむ。
人の一身に当りて、左有りて右辺無きが如し。
筋体(きんたい) 半ば痿(な)えて痺(しび)れて、肘腋(ちゅうえき)に 臊膻(そうせん)を生ず。


80022008
 

現代語訳と訳註
(本文)

玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13


(下し文)
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを。
誠に知りぬ 開闢(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。
千馬 轡(たずな)を返えさず、万車も轅(ながえ)を還(めぐら)さず。

(現代語訳)
756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事はできはしない。

(訳注)
玉輦望南鬥,未知何日鏇。

756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
望南斗 南斗は二十八宿の一つ。玄宗が蜀(四川のこと)の地方に向って落ちのびた事を指す。剣南節度使を兼任していた楊国忠がすすめによる。756年天宝十五年六月十三日。五行・道教思想では、北斗七星と南斗六星は対を成す存在として神格化されている。北斗(北斗星君)は死をつかさどるとされ、白い服を着た醜い老人の姿で描かれる。南斗(南斗星君)は生をつかさどるとされ、赤い服を着た、北斗と同様の醜い老人の姿や逆に若い美しい男の姿で描かれる。

誠知開闢久,遘此雲雷屯。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
雲雷屯 仮痴不癲のことを示す。雷雲が群れて時期を待っているようなもので、知らないふりをして何もしないほうが、知ったかぶりをして軽挙妄動するよりもいい。沈黙を保って計画を見せない。(『易経』屯卦)。 偽って知らないふりをしているが、実は知っている。

送者問鼎大,存者要高官。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
送者 送者は玄宗につき従ったもの、存者は長安に残って安縁山の偽政府に仕えたものをいう。○鼎大 鼎は夏の萬王が九州の金を収めて鋳った九鼎が、王者のしるしとして伝えられた事から、その大きさを問うことは、あわよくば王朝をのっとろうとすること。


搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事ができはしないのだ。
搶攘 みだれること。○孰辨 孰は誰。弁は弁別。○梟与鸞 梟は悪鳥、鸞は神鳥。与は、と。接続詞である。



千馬無返轡,萬車無還轅。」
行く先先、州軍の干馬は逃げ去って、たづなをしぼって馬を返す忠義の将はいなかった、州軍の万車は車のかじをめぐらしてひきかえす勇気ある兵士もいなかった。
返轡 轡はたづな。○還轅 轅は車のかじ棒。馬車・牛車(ぎつしや)などの前に長く出した二本の棒。その前端に軛(くびき)をわたして牛馬にひかせる。

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奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
少壯盡點行,疲老守空村。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』
#-12
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
#11
奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。
是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。
列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。
但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。
大婦は児を抱きて哭き、小婦は車轓(しゃはん)に攀(すが)る。

12

生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。

少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。

生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。

廷臣は(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。


#13
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。
玉輦(ぎょくれん)は南斗を望み、未だ知らず 何の日に旋(かえ)らんかを
誠に知りぬ 開辟(かいびゃく)より久しくして、此の雲雷の屯に遘(あ)うことを。
送(したが)う者は鼎(かなえ)の大いさを問い、存(のこ)る者も高官を要(もと)むるのみ。
搶攘(そうじょう)しつつ互に間諜(かんちょう)し、孰(たれ)か梟(きょう)と鸞(らん)とを辨(わか) たん。



 現代語訳と訳註
(本文) #-12

生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲賊掃上陽,捉人送潼關。』


(下し文)
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。


(現代語訳)
思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。


(訳注)
生小太平年,不識夜閉門。
思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
生小 年少のころをいう。生まれてきてまだ小さかったころ。思い起こせばその昔、というような意味。○不識夜閉門 李白 秋浦歌十七首 其十一」-255 などにも出てくる。また李商隠 行次西郊作 一百韻 李商隠特集150- 150 #3など参照。


少壯盡點行,疲老守空村。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
点行 点は点検、行は行軍、兵役に徴兵されたことをいう。杜甫兵車行 杜甫37の詩に「道旁過者問行人,行人但云點行頻。」(道端の通りすがりの者が問い尋ねる。出征兵士がただということには、徴兵が頻(しき)りである。・道勇 退者 みちをとおりすぎるもの。・点行 点とは人名の頭に筆を以て点をつける、すなわち点つけをしてしらべること、行とは兵行。兵役に赴かしめることについて点検すること。


生分作死誓,揮淚連秋雲。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
○生分 生きているときは別れて暮らすこと。○死誓死ぬときは一緒に死のうと誓いあうこと。○連秋雲 男、夫を出征させていて、離れ離れだが秋雲ほうき雲はこちらからもこうまでつながっている。


廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
○例獐怯 ・:ノロジカ麕鹿。臆病な動物の喩に使われる。例は比較の意昧で「ごとし」と訓じる。○羸奔 やせ羊のようについ逃げること。・:つかれる. 力がなくなってぐったりする。力が萎えて衰える。弱る。


爲賊掃上陽,捉人送潼關。』#-12
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。
爲賊 反乱軍のためにすることを言う。○上陽 洛陽の宮殿の名。○捉人送潼関 潼関は河南省の西端部、長安と洛陽とのほぼ中間にあたる所にある関所。長安に侵入した叛乱軍は、百官、宦者、宮女、楽エ、長幼男女を問わず、手あたり次第に捉えて洛陽に送った。宋の司馬光の「資治通鑑」天宝十四年の条に詳しく述べられている。。


#11
 この段は安史の乱の情景を描いている。都長安の東北、芭陽の地に蜂起した反乱軍の進軍の速さは天地を覆すほどの勢いであったが、朝廷は長い平和の時代に慣れてすっかり戦争を忘れており。、精兵の大多数を辺境の守備に派遺してしていた。このため黄河一帯の城塞は瞬く間に反乱軍の課蹟され、明け方には反乱軍の旗がひらめく事となった。
民衆も反乱軍の侵攻は知らされてもこれを防ぐはずの官軍の姿が見当たらない。やむなく避難を始めるものの行くあてもなく、上の嫁は子供を抱いて泣きわめき、下の若い嫁は難を逃れようと必死に車の覆い布に槌りつく。

#12
皆平和な時分に生まれ育ち、夜になっても戸締りをすることすら知らないのだ。しかし今や反乱の勃発により若者は尽く微発され、疲れきった老人のみが人気のない村を守る有様。生き別れになってしまえばもはや会う事も出来ないだろうから死に別れるのと同じ事。人々が涙を揮えばまるで秋雲より降り注ぐ雨のようであった。対策を講じるべき朝廷はどうかと言えば、大臣達はただ蜜のごとくびくびく怯えるばかり、将軍達もやせ衰えた羊のごとくどこかへ逃げ出す始末。反乱軍が洛陽に迫るや彼らは上陽宮を掃き清めて賊どもを迎え、また人を捕らえては賊軍の為にこれを滝関に送り込んだのだ。



 このように安史の乱による混乱ぶりを描く#11、#12であるが、政治の腐敗を描いた#9、#10の直後に置かれる事により、両者の因果関係が顕在化するのではないだろうか。すなわち#9、#10で述べてきたような種々の悪政の結果が第五段で描かれるような国家の一大危機なのだというような論理の展開がここでは見られる。

なお因果関係についていえば、#9、#10でそもそもの元凶である安禄山の横暴さを詳細に描いている事もまた、後に控える悲惨な結末をより効果的に印象付けよう。また同じく#9、#10にすでに「因りて猛毅の輩をして 升平の民を雑牧せしむ」「因りて生恵の養を失し漸く微求の頻りなるを見わす」のように「因」字を用い、前の内容を受けその結果を表す叙述をしている事も見逃せない。いずれにせよ、悪政の描写の後にその結果もたらされた影響の描写を置き因果関係を明確にする事は、「又聞く理と乱とは 人に繋りて天に繋らず」の主題とも合致するものであるといえよう。

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 158 #11

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 158 #11

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131

 

行次西郊作一百韻

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 158 #10


#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
是時正忘戰,重兵多在邊。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
列城繞長河,平明插旗幡。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」
#-11
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲賊掃上陽,捉人送潼關。』#-12

#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。

11

奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。

是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。

列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。

但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。

大婦は児を抱きて哭き、小婦は車(しゃはん)に攀(すが)る。

#12
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。



hinode0100

現代語訳と訳註
(本文)

奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11

(下し文)
奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。
是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。
列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。
但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。
大婦は児を抱きて哭き、小婦は車轓(しゃはん)に攀(すが)る。

(現代語訳)
天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。


(訳注)
奚寇西北來,揮霍如天翻。

天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
契寇 契は胡族。寇は1 外から侵入して害を加える賊。「外寇・元寇・倭寇(わこう)」 2 外から攻めこむ。あだする。「侵寇・入寇・来寇」。○西北来 長安城の北西。開遠門、光化門、芳林門から攻め入ったということ。○採宙 ひっかきまわすこと。○ ひっくりかえる。


是時正忘戰,重兵多在邊。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
重兵多在辺 玄宗皇帝のとき、藩鎮の制がしかれ、それまで地方警察軍としておかれていた諸州の兵力を辺疆十節度の管埋下においた。そのことをいう。平准西碑 (韓碑)#1 李商隠136 -#1
平准西碑 (韓碑)#2 137
平准西碑 (韓碑)#3 138
平准西碑 (韓碑)#4 139
平准西碑 (韓碑)#5 140
 注参照。


列城繞長河,平明插旗幡。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
平明 夜明け。○捕旗幡 敵に占領されたことをいう。旗幡は安禄山の軍の旗。755年天宝十四年11月、安禄山註范陽に叛し、諸藩の騎歩の兵十五万をひきいて、夜半に行軍し平明に食事をとり、日に行くこと六十里、十二月に黄河を渡り、洛陽城を陥落させた。翌年元旦安禄山は自ら皇帝宣言をし、6月4日潼関で対峙したが、房琯率いる唐王朝軍は大敗した。6月12日長安城に入城した。その時は、王朝軍はほとんどが逃げ出していた。(【旧唐書】本紀)。


但聞虜騎入,不見漢兵屯。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
 南北朝時代、南人は北人を索虜と蔑称したごとく、北方異民族への蔑称である。○不見漢兵屯 叛兵の至る所の郡県、官兵の防禦する無し。甲仗も器械も朽壊し、郡県の官兵は皆白棒を持つに過ぎなかった、と「安禄山事蹟」に見える。


大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。
大婦 長安の大家族で兄弟出征している留守家族を言うのであり、上の嫁。小婦は下の嫁。○車幡 楼は車の被いのこと。

700Toho shi

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 157 #10

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これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

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劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


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#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10

このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12


#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。


宮島(6)宮島・厳島神社




行次西郊作 一百韻#10 現代語訳と訳註
(本文) #10

捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10


(下し文) #-10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。


#-10 (現代語訳)
范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。

 

#-10 (訳注)
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
捋須 須は鬚。捋は指でつまむこと。胡人特有の長い顎ひげを指先でひねくり様子をいう。○ 驕蹇、尊大にかまえるさま。ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度。○禦榻 天子の席・榻は長椅子。天子椅子の前に安禄山のいすを用意させ座ること。

忤者死艱屨,附之升頂顛。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
忤者 さからうもの。○艱屨 安禄山に靴で踏みつけられて圧死することをいう。○附之 安禄山に付く、すなわち媚を売り、云うことを忠実に守り従うことをしめす。○ のぼる。○頂顛 1 てっぺん。物の先端。「顛末/山顛」 2 逆さになる。ひっくり返る。「顛倒・顛沛(てんぱい)・顛覆/動顛」ここは「転」の代用字で上位の位につけるか、下位に落とされるかどうかという意味。


華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
華侈矜逓衒 はかわるがわる、次次に。は自ら尊大にしようとする。は自己宜伝をすること。玄宗が安禄山の為に京師に壮麗な邸宅を建設させた史実、及び、先に道政坊(東市と春明門の間で興慶宮の南-ピンク)に旧宅がありながらで更に親仁坊(東市の南西隣-空色)のひろびろした地に新宅を建て世に誇った事蹟を指す(新・旧「唐書」)、あるいはもっと一般的に、楊貴妃の一族である楊国忠(生年未詳-756年)、魏国夫人、韓国夫人、秦国夫人たちの華侈の競い合いをも含めた意昧かも知れない。○豪悛相併呑 安禄山が三道を兼制したこと、及び広く遠隔の節度使の兼任の風潮のあった史実を指し、貢物を貰いあさったことを示す。
10risho長安城の図

 


因失生惠養,漸見征求頻。』
このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。
生惠養 民を愛しみ養うべき攻治の本道。○征求 賦税のとりたて。○ ひんぱん。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 156 #9

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有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131



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皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12


#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。

宮島(3)

行次西郊作 一百韻#9 現代語訳と訳註
(本文) #-9

大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」

(下し文) #-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる

#-9 (現代語訳)
年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。
 

#-9 (訳注)
大朝會萬方,天子正臨軒。

年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
大朝 天下四方の国々の朝貢使節を召見する宮中の儀式。漢以後、元旦と冬至にこれを行う。○臨軒 軒は窓のある長廊。ここは軒端(のきば)。


采旂轉初旭,玉座當祥煙。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
采旂 鳥の羽を五色に染め、それを綴って虹を象(かたど)って作った五色旗。天子の儀式や行列に掲げる。杜甫「哀江頭 杜甫700- 162」では霓旌:〔げいせい〕虹色の旗と使っている。  
少陵野老呑聲哭,春日潛行曲江曲。
江頭宮殿鎖千門,細柳新蒲爲誰綠。」
憶昔霓旌下南苑,苑中萬物生顏色。
昭陽殿裏第一人,同輦隨君侍君側。
輦前才人帶弓箭,白馬嚼齧黄金勒。
当祥畑 祥炳は御座のそばでたく香炉の煙。当は炉の煙と天子の席の位置とがおおむね一議上にあること。

金障既特設,珠簾亦高褰。」
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。
金障 金色のついたて。新旧「唐書」に、帝の座の左に、金鶏の大障を張り、前に特別の榻(椅子)を置いて、安禄山を詔して坐せて、共の幄(とばり)をかかげて以て尊寵を示したことが見える。太子が諌めたが、帝は聴き入れなかったと。○ 衣や簾の裾をまきあげること。



 年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、よろずの州郡からの使者を宮廷に謁見する時、天子は庭に面する宮殿ののきば近くに臨席される。五彩に色彩られた於は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼる。その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって収けられてある。屏凰の前に福があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられている。そこへおくればせに胡人特有の長い顎ひげを指先でひねくりながら、傲慢にも居並ぶ群臣を顧みずに登場する人物がある。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に彼は悠悠と坐る。誰あろう、それは厄陽の節度使安禄山。もし彼の談倣にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに足下に斬り伏せられ、彼におもねる軽佻のやからは歎高の位にまで出世できるのだ。
 当時、長安の都では、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、みせびらかしあった。地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼併と争うかのように、その富を独占しようとした。かくて民を愛しみ養うべき攻治の本道は見失われ、中央の財政は困窮し、それを袖うべく次第に賦税がひんぱんに課せられ始めたのだった。



 

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 155 #8

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 155 #8

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7



中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
 その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8

朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。
#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10


#5
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』
#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』
#7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。
#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し。


#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。
miyajima 683


#8 現代語訳と訳註
(本文) #-8

五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』

(下し文) #8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し。

(現代語訳)
あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
 その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。


(訳注)
五里一換馬,十里一開筵。

あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
五里一換馬 安縁山の事蹟。彼は肥満型の人物で、かつて、玄宗皇帝に「此の腹の中に何が有るのか。」と言われたりしたが、晩年益。肥大し、朝廷へ参勤する時、五里3km弱ごとに馬を換えなければ馬が死んでしまうので、駅間に特別に大夫換馬台という馬換えの建物を築いてもらったという。○開筵 筵は敷物。安縁山が参勤の途中、とどまる処ごとに御膳珍味を賜られたことをいう。唐の姚汝能の「安禄山事蹟」による。

指顧動白日,暖熱回蒼旻。
その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
蒼旻 大空。春の空を蒼天と云い、秋を曼天という。
 
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。
朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。
糞丸 晋の崔豹の「古今注」に、奸鮮という虫は、土で糞を包み、転がして丸にする、とある。人を馬鹿にしたつまらぬものの喩えである。


 
これまで
時代は下り玄宗の開元・天宝年間に至り、邪な臣下が現れ国政め方針を歪め始めた。その元凶ともいうべき者が、晋公こと宰相李林甫であった。李林甫は優秀な地方官を中央に召還するという太宗以来の慣例を忌み嫌い、異民族出身の将軍達を節度使に任じ地方の統治に当たらせた。この時登用された将軍の中には、後に安史の乱を引き起こす安禄山もまた含まれていたのである。しかし政治の乱れはこれに止まらない。官職の任免ももはや天子の意向に拠るものではなく、媚びへつらう者や楊貴妃を出だした楊氏一族のような姻戚のような連中の思うがままとなってしまった。
かくして中原の民は悪政により身を裂かれるような苦しみを味わい、逆に奴隷と卑しむべき奸邪の臣どもは日々贅沢な食事に食べ飽きる有様だった。

ここまでは李林甫の悪政や楊氏一族の台頭といった事柄を述べてきたものであるが、これに続く挙例部分第コュ~四十句目では、実に二十八句を費やし安禄山の権勢ぶりに焦点を絞り叙述を連ねていく。そこでは次のようにいう。宮中では皇子すらまともに育てられていないというのに、安禄山は楊貴妃の養子になりたいなどといい、楊貴妃もまた、兪禄山を幔縦で包んで戯れる。天子の寵を受け、北辺の地芭陽に節度使として赴いた

この場面#7 #8
安禄山は二十万の精鋭を蓄え、都長安との行き来の際には五里ごとに馬を乗り換え、十里ごとに宴会を開くという有様。その権勢たるや彼が指差し顧みれば天に輝く太陽ですら動かす事ができ、その身の発する熱気で春の空(蒼天)から秋の空(受天)へという季節の順行を狂わせてしまうほどの巨大なものであった。
#9 #10
天子が四方よりの使節に謁見する大朝の儀式、金の屏風が特別に設けられ、真珠を連ねた簾が高々と巻き上げられると、そこに座していたのは他ならぬ安禄山。顎鬚を撫でつつ傲慢に振舞う彼の席は天子の席の前に設けられていた。安禄山に逆らう者は誰であろうと彼の足元で殺され、逆に彼に従う者は栄華が約束される。我が世の春を楽しむ者は互いに豪奢を競い合い、安禄山は節度使を兼任しその権力を強めていったのである。かくして人民を慈しむ政治の本道は失われ、次第に賦税の徴発が盛んに行われるようになっていった。




 

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 154 #7

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 154 #7

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6



中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次次に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7

皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8

#5
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』
#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』

7

皇子は棄()てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く

重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む

控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。

皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。


#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し。




現代語訳と訳註
(本文) #-7

皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」

(下し文) #7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。


(現代語訳)
楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次次に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。


(訳注)#7
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
皇子棄不乳 通説に従い、李林甫がヽ玄宗皇帝の本予、太子瑛、鄂王瑤、光王琚を讒殺したことを指す。○椒房抱羌渾 ・椒房:山椒を壁に塗りこめてある後官の女子の居間をいう。ここでは楊貴妃が禁男の後宮に安禄山を召し入れ、彼の誕生日を祝うとして、錦繍の大きなオムツで禄山を包み、遊び戯れた史実をざす。安縁山は北方の胡人の混血であるが、羌渾即ち西方の異民族の名で呼ばれるような食生活、残虐性はその功績より上回った。安禄山は楊貴妃の養子となったもの。


重賜竭中國,強兵臨北邊。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次々に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
重賜 玄宗は安禄山を愛し、異常に手厚い賜物をほどこしている。○強兵臨北辺 安禄山は742年天宝元年平盧の節度使となり、以後、范陽の節度使を兼ね、東平郡王となり、河北道の採訪処置使を、そしてまた河東の節度便を兼ねた。かくて751年天宝十年には、北辺一帯三道の軍政は彼の掌中に帰した。中国国内最大、最強の軍を持っていた。それに国内の不平分子、諸侯、潘鎮らが媚を売って従っていた。遊び戯れることが安禄山を手なずけることと勘違いをするまでに強う勢力となったのだ。


控弦二十萬,長臂皆如猿。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
控弦 弓ひく異民族の兵士。漢書の匈奴伝に「控弦の士三十万。」と。安禄山はその鎮范陽に於いて奚人の歩騎二十万を蓄えていた、と史伝に見える。○長臂 肘から肩までの間を臂という。「史記」に「李広は人と為り、猨臂長し。其の善く射ること亦た天性なり。」(李将軍列伝)と見える。この表現はこれにもとづく。弓を引くに最適な体型を言うのであるが、強い軍隊を示す表現ということである。立ち向かうものがないということを言うのである。


皇都三千里,來往同雕鳶。」
皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。
三千里 安禄山は范陽節度使だったが、范陽(今の北京)は長安の北東二千五百二十里、約1450kmのところにある。なお中国の一里は、五七六メートル。○雕鳶 くまたか。北方に棲む李白の『戦城南』。『行行游且獵篇』など千里を見渡し、獲物を見つけ、骨までしゃぶりつくすことを意味している。安禄山は平生から、略奪を平気でできる人間であるから、先に貢物を差し出すということである。


 

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 153 #6

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 153 #6

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131


行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #5




#-5
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。因令猛毅輩,雜牧升平民。」
#6
中原遂多故,除授非至尊。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』

かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。

皇子棄不乳,椒房抱羌渾。重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8


"現代語訳と訳註
(本文) #6

中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』

(下し文)
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』

(現代語訳)
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。


(訳注)
中原遂多故,除授非至尊。

天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
中原 黄河の中下流域。春秋時代、周の王畿及び漢民族諸侯の封地だった河南、山東西部、山西南部、陝西東部の一帯を中原という。○多故 多事。○除授 授は官をさずける。除はもとの官を去って新しく官に任ずること。○至尊 天子。


或出幸臣輩,或由帝戚恩。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
倖臣 佞倖の臣下。こびへつらって分不相応の地位にのしあがった臣下。


中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。
屠解 屠殺。豚や牛を殺してその肉をさく。體を八つ裂きにされるような苦しみをいう。反対派と見ると言いがかりのような理由で牛豚の屠殺のように粛清した。多くの文人が、死んでいる。○奴隷 異民族出身の安禄山らのことを賤しめて言ったもの。李林保や、宦官に逆らえない、逆らえば殺された。




(解説)
 開元・天宝年間に至り、奸邪な臣下が現れ国政め方針を歪め始めた。その元凶ともいうべき者が、晋公こと宰相李林甫であった。李林甫は優秀な地方官を中央に召還するという太宗以来の慣例を忌み嫌い、異民族出身の将軍達を節度使に任じ地方の統治に当たらせた。
この時登用された将軍の中には、後に安史の乱を引き起こす安禄山もまた含まれていたのである。しかし政治の乱れはこれに止まらない。官職の任免ももはや天子の意向に拠るものではなく、媚びへつらう者や楊貴妃を出だした楊氏一族のような姻戚のような連中の 思うがままとなってしまった。かくして中原の民は悪政により身を裂かれるような苦しみを味わい、逆に奴隷と卑しむべき奸邪の臣どもは日々贅沢な食事に食べ飽きる有様だった。ここまでは李林甫の悪政や楊氏一族の台頭といった事柄を述べてきたものである。

開元・天宝の年号712~741年。600年代の太宗の律令体制によって近隣のどの諸国よりも、すべての産業の生産性が非常に高まった。それに周辺諸国に対する交易も国家を潤し、シルクロードを通して、世界一の富強大国であった。長安は世界一の国際都市で、運河により、江南の豊富な食料にあふれた。この経済的な蓄積をただ浪費したのが玄宗の時代なのだ。文化的には開元と次の天宝の時代は唐朝最盛期となるが、文人を忌み嫌う宰相李林甫は、質素仁徳の人物を徹底的に排除し、富の還元をしないため、地方から律令体制は崩れ始め、735年頃には律令体制の片輪の府兵制度が完全崩壊するのである。府兵制度の崩壊にくわえ、私利私欲による施策は、外夷懐柔政策の破綻を見せ始め、節度使、藩鎮の制が破綻に拍車をかけた。内政面でも、宦官が北司なる近衛師団を采配する実権を握り、外威勢力が官僚機構の上層を支配し始めた。特に、宰相李林甫と宦官高力士は貞観時代の国政の大綱も輝かしい文治の方針のすべてを崩れさせた。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 152 #5

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 152 #5


行次西郊作一百韻



行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
降及開元中,奸邪撓經綸。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」
#-5
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24


例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』

5

(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴()し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。

(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。

晋公 此の事を忌()み、多く辺将の勲を録す。

()りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令()て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』


#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』
#7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。
#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し


#-5 現代語訳と訳註
(本文) #-5

例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」

(下し文)
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』


(現代語訳)
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。



(訳注)
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。

通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
 以下の事の行われるのが通例だったという意味で、しきたり、慣例というところ。○陶鈞 陶鈞は陶器の型を造るときのロクロのこと。聖王の為政を陶工の製器に喩えたもの。したがってここでは中央で大臣、宰相をいう。李商隠、杜甫も宰相の政治姿勢を問う物差しとして使う語である。奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫 李林甫の行う政治姿勢を問う語として使っている。李商隠も井泥四十韻 李商隠のなかで政治姿勢を問う語として使っている。もともと天秤はかりの重さを言うのであるから、天下の公平ということである。ここでは史実により、国政の大綱も輝かしい文治の方針ということになる。
 
降及開元中,奸邪撓經綸。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
開元 それから約100年後、唐第六代皇帝玄宗李隆基(685~762年)は、クーデターに成功した。治政の前半の年号(712~741年)。文化的には開元と次の天宝の時代は唐朝の最盛期だったが、外夷懐柔政策が破綻を見せ始め、府兵制度の崩壊、節度藩鎮の制がかえって、その破綻に拍車をかけた。内政面でも、宦官が北司なる近衛師団を采配する実権を握り、外威勢力が官僚機構の上層を支配し始めた。特に、宰相李林甫と宦官高力士は貞観時代の国政の大綱も輝かしい文治の方針のすべてを崩れさせた。○姦邪 奸臣、よこしまなる者。以下に具体的に挙げられる、李林保など悪しき宰相、外戚、藩鎮などを、まず総括的に姦邪と言ったのである。○ まげる。みだす。○経綸 天下を経営すること。施政方針。


晉公忌此事,多錄邊將勳。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
晋公 玄宗の愛妃武恵妃にとり入って出世した宰相李林甫(生年未詳-752年)のこと。張説、張九齢を排除し、737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた故に晋公という。口に蜜あり腹に毒ありと評せられる官僚のほとんどを粛清して、宦官と協力しあって、全権を掌握し、腹黒く且つ無教養な宰相だった。「新唐書」では姦臣列伝に列せられる。○忌説事 此の事とは英賢な地方長官を召しいれて大臣とする習慣を指す。開元中、張嘉賓、王晙、張説、蕭嵩、杜遄など文官はみな一旦節度使として外に功績をあげ、そしてぬきんでられ入閣して、中央の政治に参与した。李林甫は自己の地位の存続を計る為にその慣例をやめ、文官の登用試験を事実上形骸化させた。「科挙」合格者をなくしいった。辺地が不穏であることを理由に、節度使に武将を用いる事を建言して採用された。多く辺将の勁を録すとは哥舒翰(生年未詳~757年)や高仙芝(生年未詳-755年)や安縁山(生年未詳-757年)など辺疆を守備する異族の諸将の功績を、李林甫が過大に称揚して、節度使として文官以上に重用されるようにした事実を指す。

因令猛毅輩,雜牧升平民。」
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
○猛毅輩 安縁山ら、異民族出身のたけだけしき武将たち。○雑牧 統一なく地方を支配する。○昇平民 多くの平和な民。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 151 #4

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39 

北斉二首其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠  103

鸞鳳 李商隠 - 111

漫成五章 其四 李商隠 150- 107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131



行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4

まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6

児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。




行次西郊作一百韻 #4 現代語訳と訳註
(本文) #4

生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』

(下し文) #4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』


#4(現代語訳)
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。

まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

(訳注) #-4
生兒不遠征,生女事四鄰。

そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。


濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
瓦缶 素焼の土器。○側穀 爛は熟に同じ。みのれる穀物。○荊困 雑木造りの田舎の倉。
 
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
健兄 血気盛んな若者。○ かぱう。○旁婦 近隣の女たち。○衰翁 老人、おきな。○童孫 幼い孫。いわゆるローティーン子供が童。

況自貞觀後,命官多儒臣。』
まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。
貞観 唐(618年 - 907年)を礎を築いた貞観の治(じょうがんのち)は、第2代皇帝太宗、李世民の治世、627年貞観元年~649年貞観23年)時代の政治を指す。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。
僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(それほど治安が良い))との評がある。○儒臣 最も正統的な儒教の教養乞もって君に仕える文官。杜甫は、『行次昭陵』(行くゆく昭陵に次る)(太宗の陵をさす。)貞観の治を「文物多師古,朝廷半老儒。直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。」(文物多く古を師とす、朝廷半ば老儒ごと讃えている。直詞寧ぞ戮辱せられん 賢路崎嶇足らず。)この詩は「北征」おなじ旅を別視点で詠ったもの。

太宗李世民:生年599年没年 649年


#5 につづく。

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行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 150 #3

行次西郊作 一百韻#3 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 150 #3

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39 

北斉二首其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠  103

鸞鳳 李商隠 - 111

漫成五章 其四 李商隠 150- 107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131


行次西郊作 一百韻
蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3

政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


3

始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳()べたり。

右輔(ゆうほ)は田疇(でんちゅう)薄く、斯の民 常に貧しきに苦しむ。

()の昔 楽土と称せしときは、頼る所は牧伯(ぼくはく)の仁なりき。

官は清きこと冰玉の若く、吏の善きこと六親(りくしん)の如し。」

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。



行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註
(本文)#-3

始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


(下し文)#3
始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳(の)べたり。
右輔(ゆうほ)は田疇(でんちゅう)薄く、斯の民 常に貧しきに苦しむ。
伊(そ)の昔 楽土と称せしときは、頼る所は牧伯(ぼくはく)の仁なりき。
官は清きこと冰玉の若く、吏の善きこと六親(りくしん)の如し。」

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』


---
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。



(現代語訳)
始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。


(訳注)
始若畏人問,及門還具陳。

始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
 また・めぐり来って再びするかかである。○具陳 事の次第を詳しく物語ること。



右輔田疇薄,斯民常苦貧。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
右輔 都の右の輔翼の地。鳳翔府を指す。その語源扶風、右扶風(ゆうふふう)は、古代中国の官職名、またはその治める行政区域名からいうのである。前漢、後漢の代に置かれ、長安周辺の県を統治した。官秩は二千石(『漢書』百官公卿表上)。武帝の太初1年(紀元前104年)に長安より上流右内史は右扶風、長安中心とした近郊までを京兆尹とされ、下流側を左内史、左馮翊と改名された。中国では古い地名を使う表現が好まれた。
また李商隠の鳳翔を題材にした詩は次のとおりである。
有感二首 其一 有感二首 其二 重有感 燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131 以前、先に、の意。○



伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
伊昔 伊は軽い発語の詞。これ。○牧伯 地方の長官。右扶風尹。本来は、後漢に設置されたもので、王の勅命により州にあって州侯を監視・監督するものであった。

官清若冰玉,吏善如六親。」
政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。
 役所の事務にたずさわる小役人。官は科挙試験に合格した者が、朝廷から任命され、吏は、その下で実務雜役にたずさわる。○六親 六親五類のこと。「父母」、「兄弟」、「子孫」、「妻財」、「官鬼」の5つを指す。これに、自分をあらわす世爻(せこう)を加えて六親という、中国では、ほとんどの事項を五行思想で表した。
以上 #-3







#4 につづく

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149


行次西郊作 一百韻
蛇年建丑月,我自梁還秦。
丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1

その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。

高田長檞櫪,下田長荆榛。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
依依過村落,十室無一存。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』
#-2
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


行きて西郊に次る作 一百韻
蛇の年 建丑(けんちゅう)の月、我 梁より秦に還るに。
南のかた大散嶺を下り、北して渭水の浜を済る。
草木は半ば舒坼(じょたく)し、氷雪の晨に類(に)ず。
又 夏の苦熱に、燋(こ)げ巻(しお)れ 芳津(ほうしん)無きが若し。
高き田には檞櫪(こくれき)の長(の)び、下の田には荊榛(けいしん)を長(ちょう)ず。
農具は道旁に棄てられ、餓えし牛は空なる墩(おか)に死せり。」

依依として村落を過れば、十室に一の存するも無し。
存する者は面を背けて啼き、衣の賓を迎う可きもの無し。
始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳(の)べたり。


行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註
(本文)

蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


(下し文) 行きて西郊に次る作 一百韻
蛇の年 建丑(けんちゅう)の月、我 梁より秦に還るに。
南のかた大散嶺を下り、北して渭水の浜を済る。
草木は半ば舒坼(じょたく)し、氷雪の晨に類(に)ず。
又 夏の苦熱に、燋(こ)げ巻(しお)れ 芳津(ほうしん)無きが若し。
高き田には檞櫪(こくれき)の長(の)び、下の田には荊榛(けいしん)を長(ちょう)ず。
農具は道旁に棄てられ、餓えし牛は空なる墩(おか)に死せり。」
依依として村落を過れば、十室に一の存するも無し。
存する者は面を背けて啼き、衣の賓を迎う可きもの無し。


(現代語訳)
丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。

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(訳注)
行次西郊作 一百韻

行次西郊 西郊は長安の西の郊外、右扶風(鳳翔府に属す)と呼ばれるあたり。この詩は文宗皇帝の開成二年(837年)十二月、興元尹・山南道節度使だった令狐楚の葬儀を終え、興元(陝西省南鄭県)から長安へ帰る途中、鳳翔府一帯が、甘露の変(835年)後、三年を経たのちもなお土地の荒廃し、人心の動揺するのを見て作ったもの。盛唐の詩人杜甫が完成した詩史、すなわち長篇叙事詩の体を継承する詩である。時に李商隠二十六歳。

#1
蛇年建丑月,我自梁還秦。

 丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
蛇年 837年、巳の年、文宗皇帝開成二年の干支は丁巳である。○建丑月 建は北斗七星の斗柄の指す位置。それが丑の位を指すのが陰暦十二月。夏暦で建は月を示し丑は12月。○ 興元はもと梁州といった。も長安のあたりを、戦国時代の秦国が長安のすぐ北の咸陽に都した、その古名でよんだのである。


南下大散嶺,北濟渭之濱。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
大散嶺 映西省宝鶏県西甫にある秦蜀往来の要地であり、大散関という関所のある山。嶺は横に長くのびた山脈であり、またそこにある峠である。揃の字は一に関に作る。○渭水 陝西省中部の宝鷄県を経ながら東流して黄河と合流する川の名。
 長安洛陽鳳翔馬嵬

草木半舒坼,不類冰雪晨。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
舒坼 蕾が開かれるさま。芽生えはじめること。・ ひろがる。ゆったりする。・ さける、 わかれる、 ひらく、 さけめ。

又若夏苦熱,燋卷無芳津。」

その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
燃巻 燃はこげる。巻は草の葉が内にまいてしおれること。○芳津 かおりと潤い。あるいはかんばしい潤い。

#2
高田長檞櫪,下田長荆榛。

丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
檞櫪 どんぐりの樹。役立たずの木なのである。○荊榛 いばらとはしばみ。また広く雄木の総称。


農具棄道旁,饑牛死空墩。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
饑牛 餓えた牛は前の句農具が放置されているで、働き手がいないことをあらわす。 ○空墩 集まりがない、空っぽのさまをいう。人影なきむら。・墩 [量] 植物の叢(むら)や株を数える


依依過村落,十室無一存。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
○依 思い慕うさま。離れがたいさま。ここでは心配して心をそこのむらに寄せること。


存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。
○背面啼 杜甫の北征の詩に「耶を見て面を背けて啼く、垢臓脚機はかず。」とある表現が多分意識されている。



蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
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李商隠 148 北徵と行次西郊作一百韻について

李商隠 148
唐宋期漢詩ブログ、Ⅰ.李商隠の詩150 の最後に取り上げるものである。

北徵と行次西郊作一百韻について
どちらも歴史的な事件を舞台にした王朝批判の長詩である。


北徵
皇帝二載秋、閏八月初吉。
杜子將北徵、蒼茫問家室。』

(北征)
皇帝 二載(にさい)の秋、閏八月の初吉(しょきつ)。
杜子(とし)  将(まさ)に北に征して、蒼茫(そうぼう)   家室(かしつ)を問わんとす。

粛宗皇帝の至徳二載の秋、閏八月一日のことである。
杜甫は北方に向かって突き進む旅をしようとし、乱によって先行きはまったく不安に駆られてながら、家族のもとへ向かうのである。


行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。

(行きて西郊に次る作一百韻)
蛇(み)の年 建午(けんご)の月,我 梁より秦に還える。
南のかた 大散(たいさん)の關を下り,北して渭(い)これの濱(きし)を濟(わた)る。

丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。



杜甫「北征」の詩について
 左拾遺を拝命してまもなく、杜甫は諫諍(かんしょう)をしている。悲陳陶 - 152   悲青坂 - 153 で大敗を喫し、周りの助けで、許されていた房琯(ぼうかん)が宰相を罷免され、太子少師(たいししょうし)に貶された。それを任命間もない杜甫が天子に諫諍し、粛宗が激怒したのだ。

 事件というのは房琯が身近に置いていた琴の名手の董廷蘭(とうていらん)が、房琯の威を借りて賄賂をとったというのだ。社甫にしてみれば、天子を諌めたことによって、たとえ一命を失うようなことがあったとしても、それは本望であり、いささかの悔いも残らなかったであろう。それは長年にわたって願いつづけた政治の舞台での晴れの姿であった。しかし、この事件を区切りとして、その官吏としての生命は失われ、以後は詩人として生きざるをえなくなる。政治の上で世に名を著わすことを念願しながら、意に反して、詩によって世に著われるようになる、そのきっかけとなった諫諍事件といえよう。

 粛宗にとってみれば、玄宗からの命で、いわばスパイの役割をしており、大敗して謹慎中の身でありながら、横暴な面を見せていた房琯を擁護した杜甫をそのままにしておくことは、他の官僚に示しはつかない。

 事件の背景には粛宗(しゅくそう)の近臣と玄宗の旧臣との間の対立があったこと、状況判断、政治的判断ができないことに問題がある。詩人である杜甫にとっては、政治的、客観的な人間でありえないものなのだ。


 それが一生を左右する大事になろうとはまったく思ってもおらず、職務に忠実に勤務を続けて、謝罪の文を奉って十日ばかりのちには、同僚との連署ではあるが、友人の岑参を推薦する上奏文「遺補の為に岑参を薦むる状」を書いている。この結果、岑参は右補闘に任じられた。右補闘は中書省に属する諌官で末席に近く、右拾遺より一つ上のポストであり、これに対応するものとして門下省に左補闘と左拾遺があった。

 岑参に触れたついでに、杜甫の他の友人の消息を見てみると、李白は江南の地で粛宗の弟永王璘の軍に加わっていたが、この年の二月、永王、が粛宗との仲たがいから反乱軍として討伐されたあとは、江南のあちこちを逃げまわっている。しかし、やがて捕らえられて尋陽の獄につながれることになる。


 高適は、皮肉にも永王追討軍を指揮して江南を転戦し、そのまま淮南節度使となって揚州にとどまっている。杜甫がのちに蜀の成都でその庇護を受けることになる厳武は、杜甫と同じ役所の門下省に、給事中として勤めている。鄭虔は叛乱軍の偽政府で水部郎中を授けられていたために、王維らとともに宜陽里の牢獄に投ぜられ、のちに台州(浙江省の東海岸)の司戸参軍として流された。



 杜甫は問責を受ける身になり、職務も停止された。
 新しく宰相になった張鎬(ちょうこう)らのとりなしもあって、六月一日には旧職に復している。粛宗の信任はもどってはこなかったのだ。杜甫は詔書によって鄜州羌村の家族を見舞ってもよいとのお許しを願い出るとが、思いがけず即ゆるされる。勅許というのは名目的で、実体は無用の人間とされ、休職処分だったのだ。


 粛宗のそのような意を知ってか知らずか、杜甫は鳳翔から鄜州まで約二〇〇キロの道を、当時、長安は叛乱軍の占領下にあったので、渭水に沿った東行の道はとれず、鄜州へ行くには鳳翔から北へ山越えの道をゆく必要があった。閏八月の初めから半月ばかりかかって、馬は与えられなかったために、途中で馬を借りるまでは徒歩で、何人かの下僕を供にして麟遊県-邠州―宜君県-鄜州という経路で帰っていった。このときの旅で作られたのが「北征」の詩で、七百字百四十句の長篇である。「北征」というのは征旅のことではなく、「北行」ということで、勅許を受けてゆくので北征と言ったのに過ぎないものだ。


 「北征」の詩の内容は四つの段に分けられる。すなわち第一段はこのたびの帰省のことと現在の時勢について、第二段は旅中の見聞、第三段は妻子との再会、第四段は胡賊撃退へと動き出した状況の説明と大乱平定の願い、となっている。

 “鳳翔県のほうを振りかえると、行在所の旌旗が日暮れの空に見え隠れしており、やがて杜甫は冬枯れのはじまった淋しい山道にはいっていゆく。山中の道端には軍馬の水かい場が幾つも残されており、いまは人けもなく打ち棄てられているのである。”ということで始まる。



李商隠 「行次西郊作一百韻」について
 宦官による大虐殺の「甘露の変」は、李商隠にとって『杜甫にとっての安禄山の乱』と同様な事件として映るのだ。実際に、関与した鳳翔におかれていた軍隊が関与したため、長安と鳳翔の惨状はすさまじい虐殺が行われていたということなのだろう。


 杜甫と同じように鳳翔府の状況、風景から始まる。門を入っても誰も迎えてくれない。誰に聞いても答えるものがいなかった。
 ようやく話してくれ始めた。
 今はこんな荒れ果てているが、仁徳深い地方長官の時代、楽園であった時もあった。しかし、玄宗の時代になると異民族の将軍たちは無秩序な支配により、奴隷のようにあつかわれた。楊貴妃の時代、安禄山の出現と出世のいきさつ、を白居易「長恨歌」とは違った観点で述べていく。

 安禄山の叛乱について述べられる。一朝にして叛乱軍に占領され、安禄山の軍旗にあふれた。鳳翔では家に鍵をかける家などなかったものが今では、老人しか残っていない。

 陥落した長安、逃げた玄宗について触れている。そして李商隠らしい点は、安史の乱を平定するため、異民族に援軍を求めたために、唐の財産が奪われるだけでなく、資源をかすみとられる交易になってしまって、唐の国家的財政に問題を残した。

 それ以降の粛宗、代宗、徳宗、憲宗と歴代の皇帝は恥辱の上塗りしかしなかった。奸臣ばかりが重用され、改革者は左遷された。この宦官だけが力をつけていった。この宦官を一掃しようと仕組んだクーデターも失敗に終わり、長安と鳳翔の間はならず者、一揆と無政府状態となった。その甘露の変から3年も過ぎるのに盗賊を捉まえることすらできないのだ。


行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24

「行次西郊作一百韻」について李商隠の詩150 -147はじめに

「行次西郊作一百韻」について李商隠の詩150 -147はじめに

はじめに
唐宋期漢詩ブログ、Ⅰ.李商隠の詩150 の最後に取り上げるものである。

はじめに
・行次西郊作一百韻と杜甫の昨品(北征、兵車行、など)
・ほぼ同じころ、有感二首、聖女詞、寄令狐郎中
・妻をめとる前 26歳
・令狐楚派から王茂元へ心揺れる段階

・当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。
・835年 甘露の変 事件として小さく扱われているがこの事件は李商隠の一生を狂わせるものであった。

・若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受けていた。
・837年、26歳 進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度は李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入る。
 この年「行次西郊作一百韻」をかいた。

・838年27歳 王茂元の娘を娶った。

・杜甫の「北征」は757年、安禄山の叛乱の2年後預けていた家族を迎えに行く道中に書いている。李商隠も衝撃を受けた甘露の変の翌年の作である。


李商隠の五言古詩 「行次西郊作一百韻(行きて西郊に次る作一百韻)」 詩は、現存する李商隠詩の中で最長の詩篇である。全二百句一千字にも及ぶこの長篇詩は自身の姿と重なり合う1人称の話者である 「我」が都長安の西郊'鳳期府近辺の荒廃した農村で出会った一農夫との対話いう形式を借りて叙述が進行していく。またその内容は太宗の貞観年間の太平世から説き起こし'続いて玄宗の開元・天宝年間から文宗の開成年間に至るまでの唐王朝衰退の歴史を述べ、衰退の原因を偏に政治の腐敗に求めて激しく指弾するというものである。

この 「行次西郊作一百韻」 詩については'従来 「無題」詩を始めとする艶情詩で知られる李商隠の詩篇中でも異色の作品という事もあり、先行する諸研究においてもしばば取上げられてきた。それらの中で必ずといってよほど言及されて来たのが'「行次西郊作一百韻」 詩にも杜甫詩の影響が見られる'という点である。

李商隠 146 李商隠「井泥四十韻」につい

井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 141
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漫成五章 李商隠 150- 104

有感二首 李商隠 150- 101

重有感 李商隠 150- 103

漫成三首  150-80


など、杜甫を手本に自分に置き換え、歴史的な事跡に置き換え、李商隠らしく仕上げている。そして、この詩も長篇かつ著名な政治批判詩である。

① 型について。両詩共に五言古詩の型を用いた長篇詩である。
② 成について。両詩共に人自身が見聞したとする事実を元に詩を構成している。杜甫は独創的、李商隠は手本に、
③ 頭部分について。両詩の冒頭部分を挙げると'次のようにある。

北徵
皇帝二載秋、閏八月初吉。
杜子將北徵、蒼茫問家室。』

(北征)
皇帝 二載(にさい)の秋、閏八月の初吉(しょきつ)。
杜子(とし)  将(まさ)に北に征して、蒼茫(そうぼう)   家室(かしつ)を問わんとす。


行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。

(行きて西郊に次る作一百韻)
蛇(み)の年 建午(けんご)の月,我 梁より秦に還える。
南のかた 大散(たいさん)の關を下り,北して渭(い)これの濱(きし)を濟(わた)る。

李商隠 146 李商隠「井泥四十韻」について

李商隠「井泥四十韻」について
               紀 頌之

 李商隠 146

李商隠「井泥四十韻」について。「それが何を寓意しているのか、解釈は定まらず、難解さにおいても屈指の作。」李商隠詩選P-322にある。そのため、ここに解説を書くことにした。難しくもなんでもない詩である。

この詩は、李商隠の王朝批判と見れば、難しくはない。同詩選では、泥の中から上昇したことにこだわって、この詩全体のキーワードとしていることに問題があるのである。恋歌、艶情歌で無理やり訳そうとするから難解になる。
李商隠の詩は27歳で妻をめとったことで人生が一変するのである。官僚の中で、「いじめられっ子」になるのである。以来、詩の雰囲気は年々変化していく。しかし、その詩に一貫しているのは王朝批判、特に宦官に対しての批判である。


李商隠「井泥四十韻」について
このしは意味の上でも八韻で区分されている。40韻なので5分割である。しかも一場面を二分割、八句、四韻、律詩単位を二組で構成したり、八分割一場面であったりする。

 詩の雰囲気は杜甫の「沙苑行 」を参考にしてイメージをつくっているのであろう。

杜甫「沙苑行」のはじまりは
君不見左輔白沙如白水,繚以周牆百餘裡。
龍媒昔是渥洼生,汗血今稱獻於此。

君見ずや左輔の白抄は白水の如し、繚(めぐ)らすに周牆を以てすること百余旦。
竜媒(りょうばい)昔是れ渥洼(あくあ)より生ず、汗血今称す此より献ぜらると。
(君は見たことはないだろう、長安の東方の郡部にあたる沙苑の白き沙は白水の如く白く、その区域を、土塀を建ててこり囲んでいる長さが百里以上もあるというのを。昔、漢の世に竜媒と称せられた天馬が渥洼の川から生じたといわれているが、唐の今の世では汗血の名馬がこの沙苑の牧場から献上されているといわれている。)杜甫は四場面構成なので馬の血統についてすぐに始まる。


李商隠「井泥四十韻」は
皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
皇都 仁里に依り、西北に高斎 有る。
昨日 主人の氏、井を治む 堂西の陲り。
(帝都の依仁里、永通坊というところ、その坊の北西に立派な屋敷があります。
昨日、この話のご主人の妻氏いた、母屋の西に井戸を掘ったのだ。)

この場所は洛陽の李商隠の妻の実家の北東隣の坊である。洛陽城内には渠水、運河が掘られ、おおきな屋敷には運河の引き込みを作った。そのなかには井戸端の役割のものが多かった。砧をたたく場であった。第一場面でこの場所の特定ができないように幻想的な表現に終始している。


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李商隠「井泥四十韻」の舞台

右下に黄色の枠が李商隠の妻の実家の坊でその右斜め上の永通坊がこの詩の舞台である。ここには運河の渠水が入り込んでいる



 杜甫の詩の場合、血統の良い馬の育成を取り上げ、唐王朝の政治姿勢を批判していく形態をとっている。その場合も、批判の矛先を紛らわすため抽象的な表現をしている。
 李商隠は井戸を掘った泥に関連した故事、事象、歴史的な出来事を絡めていくことになる。



第二場面も雅な庭園、華麗な庭園はそんな庭園を持てる人の話の導入のための演出である。李商隠の詩には多くの庭園が出てくる。宮廷、富豪、娼屋と庭にまつわるものは多くある。
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。
(晚落ち 花は 地に滿ち,幽鳥 鳴くは 何れの枝。
蘿幄 既に 薦しき已き,山樽 亦 開く可し。」
孤月の上るを 待ち得て,佳人の來るが如き與(くみ)する。
茲(これ)に因りて物理に感ず,惻愴 平生の懷い。)ということで、日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
つたの幌幕も用意がととのいこもむしろも敷かれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。

これは、李商隠「有有感二首」に基づいている。もっとも衝撃的な事件であった「甘露の変」である。835年大和九年11月李商隠24歳の時の事件である。官僚としての李商隠にとってその生涯からこの事件は不幸な、不遇な人生の幕開けであった。宦官を一掃するため、鄭注は月夜に紛れて軍を動員して庭に隠れたことを連想させる。そして翌朝「甘露が降った」とその場所に宦官を集め一掃する手はずであった。功を焦って、宦官には筒抜けの待ち伏せであった。その庭は待ち伏せ郡全滅とういう結果おびただしい血にあふれた。しかし、このことにより、宦官の力は増強され、この事件を口にすることさえ憚られるほど、触れてはならない事件となり、宦官に制圧された王朝となる。(宦官批判は第五場面に再登場する)。

有感二首 其一 李商隠

有感二首 其二 李商隠



第三の場面は、尭舜による仁徳によって皇帝継承していたものを血縁継承にした。秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
 こうして異なる王朝へと受け継がれた。


第四の場面は、皇帝、王から臣下に移して史実を挙げていく。
伊尹は殷の王を補佐し、次に王業にまでなったが、血縁親族、父親の力を頼りにしたものではないのだ。
太公望呂尚は普通の老翁の格好で磻渓で釣りをしていたのだが、そのまま周の文王の師となったのだ。
犬殺し食肉を生業としていた樊噲と絹布商人の灌嬰がいました、彼らはそれぞれ、突如として決起し、国家の危急を救ったのだ。
劉発は劉氏長沙国の王に封じられその地を開いた、ところが景帝の皇后の程姫から生まれた子ではないのである。
漢の武帝に「ご主人さま」と呼びかけられた董偃は、もともとは真珠売りで世渡りをしていた子供だった。
漢の哀帝は昔男として生まれ、皇帝となったが、男色を好み、家臣の董賢を寵愛しため、太皇太后王氏が年をとって苦労し王朝を継続した。
蜀の王の死後も相手と結ばれたいとを思う心は、血を吐きながら悲しげに鳴く杜鵑として魂をのこした、そして今もホトトギスとなって林の中で囁いているのだ。
准南の王劉安は霊薬を飲んで昇天したが、そこにいた鶏まで仙薬を舐めた、そして、翻り、羽ばたきながら雲の中へ飛んでいった。


第三、第四どちらも王朝宮殿を舞台にしたものであった。この詩で、誰かが出てきて、この唐王朝の堕落を立ち直らせてくれることはできないのか。李商隠は、王朝が変わってもいい、あるいは、臣下のものから優れたものは出現しないのかとういう願望に満ち溢れたものである。
 これを「上昇の変化」ととらえると意味不明になるのだ。男色を好んだ皇帝にストップをかけた太后皇后をクローズアップして捉えないと意味不明になる。
 また、唐王朝では、不老長寿薬、霊薬、媚薬、といわれるヒ素の混入されたもので中毒死が続出している。すべてが宦官の仕業であった。毒の判定に使用されたものは、銀食器、金魚と鸚鵡などの小鳥である。皇帝が昇天して、その後小鳥に舐めさせたら死んだ。「上昇の変化」は毒殺であった。



第五の場面は
「猛虎與雙翅,更以角副之。」(猛虎 双翅を与えられ、更に角を以て之に副う。)
獰猛な虎に二枚の羽を付け加える、そのうえ更に角までそえてあげるようなこと。それは宦官を重臣にして軍隊を任せそのうえ、総大将、宰相にまですることのように絶対権力を与えてしまうような事象をいう。
「甘露の変」以降、すべてが宦官によって政治が行われた。形の上では、旧貴族、科挙による官僚がいた訳であるが、反体制の発言をすると、粛清された。

「鳳凰不五色,聯翼上雞棲。」(鳳凰は五色とせず、翼を聯ねて雞棲に上らん。)
梧桐の葉が茂るところにしか棲まない鳳凰も五色の羽を失ってしまうこと。翼を連ねて鶏小屋にのぼっているように皇帝の地位はあっても実質的に宦官に全権を奪われるような事象をいう。
 天子はまつりあげられ、鶏小屋の中で棲んでいる状態にされたのだ。


「我欲秉鈞者,朅來與我偕。」(我れは欲す 鈞を秉る者、朅来して我れと偕にするを)
私は、天下国家の公平な施政、公平な采配をするものの出現を願います、そのような人物の到来することは世界の誰もが願っていることなのだ。
「秉鈞」について、杜甫は、「奉贈鮮於京兆二十韻」で宰相たる者は一国の公平を手にするものであるということを独りで独占する李林甫についてこの語を使っている。李商隠は自分に全権を与えられるなら、この唐王朝におけるすべての不合理を一掃してみせるといっているのだ。
 しかし、天の上から公平かどうか見ているはずの雲に、つまり、天子、皇帝は知らんぷりで頽廃の中で甘んじているのだ。
 泥の歌を唄うしかないのだ。


毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
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井泥四十韻 第五場面 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 145

井泥四十韻 第五場面 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 145

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、難解な詩となっている。


第五場面

皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-#1
升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2
茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3
伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4
大鈞運群有,難以一理推。
天下の公平なかで万物がうごめいている。それをただ一つの物差しで推し量るのは難しい。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
深遠な宇宙のそのなかを考えてみると、それでこれを主宰しているのは誰なのかと尋ねてみたくなる。
我恐更萬世,此事愈云爲。
私がおそれていることは、これから万世が経たとしてのち、世界の変転がここに示す通り、いよいよさまざまな現象を生じることなのだ。
猛虎與雙翅,更以角副之。」
獰猛な虎に二枚の羽を付け加える、そのうえ更に角までそえてあげるようなこと。それは宦官を重臣にして軍隊を任せそのうえ、総大将、宰相にまですることのように絶対権力を与えてしまうような事象。
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
梧桐の葉が茂るところにしか棲まない鳳凰も五色の羽を失ってしまうこと。翼を連ねて鶏小屋にのぼっているように皇帝の地位はあっても実質的に宦官に全権を奪われるような事象。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
私は、天下国家の公平な施政、公平な采配をするものの出現を願います、そのような人物の到来することは世界の誰もが願っていることなのだ。
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
ところが天下を見下ろしているはずの浮き雲はまるで振り返えらないのだ。雲が湧き出る巌谷がからっぽで大空に梯子をかけられることを誰ができるのだ。天下国家を思う指導者がいないのだ。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-
#5
憂鬱で不安な気持ちがたまっていくまま夜も半ばを過ぎた。できるのはただ漢の皇帝や、泥のように消えていったものの「井中の泥」の歌を歌うことだけなのだ。

大鈞 群有を運(めぐ)らす、一理を以て推し難し。
冥冥の内を顧(かえり)みて、問いを為す 秉る者は誰ぞと。
我れは恐る 万世を更(へ)て、此の事 愈(いよ)いよ 云為(うんい)せんを。
猛虎 双翅を与えられ、更に角を以て之に副う。
鳳凰は五色とせず、翼を聯ねて雞棲に上らん。
我れは欲す 鈞を秉る者、朅来して我れと偕にするを
浮雲 相い顧みず、寥泬 誰か梯を爲さん。
悒怏として 夜 將に 半、但 歌う 井中の泥。



井泥四十韻 第五場面 現代語訳と訳註
(本文) -#5

大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈雲爲。
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』

(下し文)
大鈞 群有を運(めぐ)らす、一理を以て推し難し。
冥冥の内を顧(かえり)みて、問いを為す 秉る者は誰ぞと。
我れは恐る 万世を更(へ)て、此の事 愈(いよ)いよ 云為(うんい)せんを。
猛虎 双翅を与えられ、更に角を以て之に副う。
鳳凰は五色とせず、翼を聯ねて雞棲に上らん。
我れは欲す 鈞を秉る者、朅来して我れと偕にするを
浮雲 相い顧みず、寥泬 誰か梯を爲さん。
悒怏として 夜將に半、但 歌う 井中の泥。

(現代語訳)
天下の公平なかで万物がうごめいている。それをただ一つの物差しで推し量るのは難しい。
深遠な宇宙のそのなかを考えてみると、それでこれを主宰しているのは誰なのかと尋ねてみたくなる。
私がおそれていることは、これから万世が経たとしてのち、世界の変転がここに示す通り、いよいよさまざまな現象を生じることなのだ。
獰猛な虎に二枚の羽を付け加える、そのうえ更に角までそえてあげるようなこと。それは宦官を重臣にして軍隊を任せそのうえ、総大将、宰相にまですることのように絶対権力を与えてしまうような事象。
梧桐の葉が茂るところにしか棲まない鳳凰も五色の羽を失ってしまうこと。翼を連ねて鶏小屋にのぼっているように皇帝の地位はあっても実質的に宦官に全権を奪われるような事象。
私は、天下国家の公平な施政、公平な采配をするものの出現を願います、そのような人物の到来することは世界の誰もが願っていることなのだ。
ところが天下を見下ろしているはずの浮き雲はまるで振り返えらないのだ。雲が湧き出る巌谷がからっぽで大空に梯子をかけられることを誰ができるのだ。天下国家を思う指導者がいないのだ。
憂鬱で不安な気持ちがたまっていくまま夜も半ばを過ぎた。できるのはただ漢の皇帝や、泥のように消えていったものの「井中の泥」の歌を歌うことだけなのだ。


(訳注)
大鈞運群有,難以一理推。
天下の公平なかで万物がうごめいている。それをただ一つの物差しで推し量るのは難しい。
大鈞 鈞衡、天下の公平。おおきな天。杜甫「奉贈鮮於京兆二十韻」○群有 万物。


顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
深遠な宇宙のそのなかを考えてみると、それでこれを主宰しているのは誰なのかと尋ねてみたくなる。
冥冥 深遠な宇宙。


我恐更萬世,此事愈云爲。
私がおそれていることは、これから万世が経たとしてのち、世界の変転がここに示す通り、いよいよさまざまな現象を生じることなのだ。
此事 ここに示す通り。この句から後に示す事象のこと。○云為 言動。雲の動きのように定めのない運動、現象。ここでは、世界が変化し続けていって、さまざまな奇異な現象を生じること。


猛虎與雙翅,更以角副之。」
獰猛な虎に二枚の羽を付け加える、そのうえ更に角までそえてあげるようなこと。それは宦官を重臣にして軍隊を任せそのうえ、総大将、宰相にまですることのように絶対権力を与えてしまうような事象。
猛虎 もともと弊猛な虎に翼や角が加わってさらに弊猛になる変化。さまざまなことで力を持ってきた宦官に地位や権限まで与えていることを示している。


鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
梧桐の葉が茂るところにしか棲まない鳳凰も五色の羽を失ってしまうこと。翼を連ねて鶏小屋にのぼっているように皇帝の地位はあっても実質的に宦官に全権を奪われるような事象。
○鳳凰 神聖な鳳凰が凡庸な鳥になってしまう変化。


我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
私は、天下国家の公平な施政、公平な采配をするものの出現を願います、そのような人物の到来することは世界の誰もが願っていることなのだ。
秉鈞者 造物主。○朅來 去来する。ここでは来の意味。天下国家の公平な施政。


浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
ところが天下を見下ろしているはずの浮き雲はまるで振り返えらないのだ。雲が湧き出る巌谷がからっぽで大空に梯子をかけられることを誰ができるのだ。天下国家を思う指導者がいないのだ。
蓼訳 からっぽでひっそりしているありさま。


悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5
憂鬱で不安な気持ちがたまっていくまま夜も半ばを過ぎた。できるのはただ漢の皇帝や、泥のように消えていったものの「井中の泥」の歌を歌うことだけなのだ。
悒怏 憂鬱で不安な気持ちがたまっていくさま。悶々としたさまをいう。○夜將半 夜の半は。 


146へ(解説)につづく 


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井泥四十韻 第四場面 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 144

井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 144

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、難解な詩となっている。


第四場面


皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-#1
升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2
茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3

伊尹佐興王,不藉漢父資。
伊尹は殷の王を補佐し、次に王業にまでなったが、血縁親族、父親の力を頼りにしたものではないのだ。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
太公望呂尚は普通の老翁の格好で磻渓で釣りをしていたのだが、そのまま周の文王の師となったのだ。
屠狗與販繒,突起定傾危。
犬殺し食肉を生業としていた樊噲と絹布商人の灌嬰がいました、彼らはそれぞれ、突如として決起し、国家の危急を救ったのだ。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
劉発は劉氏長沙国の王に封じられその地を開いた、ところが景帝の皇后の程姫から生まれた子ではないのである。
帝問主人翁,有自賣珠兒。
漢の武帝に「ご主人さま」と呼びかけられた董偃は、もともとは真珠売りで世渡りをしていた子供だった。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
漢の哀帝は昔男として生まれ、皇帝となったが、男色を好み、家臣の董賢を寵愛しため、太皇太后王氏が年をとって苦労し王朝を継続した。
蜀王有遺魄,今在林中啼。
蜀の王の死後も相手と結ばれたいとを思う心は、血を吐きながら悲しげに鳴く杜鵑として魂をのこした、そして今もほととぎすとなって林の中で囁いているのだ。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4

准南の王劉安は霊薬を飲んで昇天したが、そこにいた鶏まで仙薬を舐めた、そして、翻り、羽ばたきながら雲の中へ飛んでいった。

大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈云爲。
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5


伊尹は興王を佐(たす)くるも、漢父の資(し)に籍(か)りず。
磻渓(はんけい)の老釣叟(ちょうそう)は、坐(そのまま)にして周の師と為る。
屠狗(とく)と販繒(はんそう)とは、突起して傾危を定む。
長沙は封土(ほうど)を啓(ひら)きしが、豈に是れ程姫(ていき)より出でんや。
帝 主人 翁(おう)に問えば、珠を売る 児 自りするもの有り。
武昌の昔の男子、老い苦しみて人の妻と為る。
蜀王 遺魄(いはく)有りて、今も林中に在りて啼く。
准南 鶏は薬を舐め、翻りて雲中に向かいて飛ぶ。


井泥四十韻 第4場面 現代語訳と訳註
(本文)

伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』

(下し文)
伊尹は興王を佐(たす)くるも、漢父の資(し)に籍(か)りず。
磻渓(はんけい)の老釣叟(ちょうそう)は、坐(そのまま)にして周の師と為る。
屠狗(とく)と販繒(はんそう)とは、突起して傾危を定む。
長沙は封土(ほうど)を啓(ひら)きしが、豈に是れ程姫(ていき)より出でんや。
帝 主人 翁(おう)に問えば、珠を売る 児 自りするもの有り。
武昌の昔の男子、老い苦しみて人の妻と為る。
蜀王 遺魄(いはく)有りて、今も林中に在りて啼く。
准南 鶏は薬を舐め、翻りて雲中に向かいて飛ぶ。

(現代語訳)
伊尹は殷の王を補佐し、次に王業にまでなったが、血縁親族、父親の力を頼りにしたものではないのだ。
太公望呂尚は普通の老翁の格好で磻渓で釣りをしていたのだが、そのまま周の文王の師となったのだ。
犬殺し食肉を生業としていた樊噲と絹布商人の灌嬰がいました、彼らはそれぞれ、突如として決起し、国家の危急を救ったのだ。
劉発は劉氏長沙国の王に封じられその地を開いた、ところが景帝の皇后の程姫から生まれた子ではないのである。
漢の武帝に「ご主人さま」と呼びかけられた董偃は、もともとは真珠売りで世渡りをしていた子供だった。
漢の哀帝は昔男として生まれ、皇帝となったが、男色を好み、家臣の董賢を寵愛しため、太皇太后王氏が年をとって苦労し王朝を継続した。
蜀の王の死後も相手と結ばれたいとを思う心は、血を吐きながら悲しげに鳴く杜鵑として魂をのこした、そして今もほととぎすとなって林の中で囁いているのだ。
准南の王劉安は霊薬を飲んで昇天したが、そこにいた鶏まで仙薬を舐めた、そして、翻り、羽ばたきながら雲の中へ飛んでいった。


(訳注)
伊尹佐興王,不藉漢父資。

伊尹は殷の王を補佐し、次に王業にまでなったが、血縁親族、父親の力を頼りにしたものではないのだ。
伊尹 殷王朝開国の功臣。湯王を助けて夏の暴君桀王を滅ぼし、のちには湯王の子の太甲を補佐した(『史記』殷本紀)。○興王 国を興した王。ここでは殷の湯王を指す。○漢父 父親。・漢:好漢の漢と同じく男をあらわす。伊尹は母が大洪水に巻き込まれ桑の大木と化し、その幹から伊尹が生まれたという。そこから伊尹は洪水神であると見る伝説がある(『列子』天瑞)。○ 依拠する。○ 助け。ここの意味は、伊尹は成人して、料理人として或る貴族に仕え、主人の娘が商の君主・子履(しり、後の湯王)に嫁ぐ際に、その付き人として子履に仕える。そこでその才能を子履に認められ、商の国政に参与し重きを成すにいたり、商が夏を滅ぼす際にも活躍し、商(殷)王朝成立に大きな役割を果たした。伊尹は阿衡(あこう)として湯王を補佐し、数百年続く商王朝の基礎を固めた。その後、太甲王を追放して自ら王となる。このことを踏まえている。伊尹のその7年後に太甲王に討たれる。

磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
太公望呂尚は普通の老翁の格好で磻渓で釣りをしていたのだが、そのまま周の文王の師となったのだ。
磻渓 太公望呂尚をいう。磻渓で釣りをしていた呂尚は周の文王に出会い、登用されて宰相となった。磻渓は『水経注』によれは陳倉県(陝西省宝鶏市)のあたりで渭水に注ぎ込む流れ。

屠狗與販繒,突起定傾危。
犬殺し食肉を生業としていた樊噲と絹布商人の灌嬰がいました、彼らはそれぞれ、突如として決起し、国家の危急を救ったのだ。
屠狗 畜殺に従事していた樊噲(はんかい)。○販繒 絹織物の販売を仕事としていた灌嬰(かんえい)を指す。ともに平民から身を起こし、漢の建国に功績を挙げて爵位を与えられた(『史記』樊・酈・謄・灌列伝)。○傾危 国が不安定で危険な状態。

長沙啟封土,豈是出程姬。」
劉発は劉氏長沙国の王に封じられその地を開いた、ところが景帝の皇后の程姫から生まれた子ではないのである。
長沙 劉氏長沙国のこと。前156年に景帝が即位すると、翌年庶子の劉発を長沙王に封じ長沙国が設置された。前漢滅亡まで8代164年にわたって存在した。
漢の景帝の側室「程姫」は月のさわりのために侍女の唐児を身代わりにした。酔っていた景帝はそれに気付かず、懐妊したのちに程姫でなかったことが発覚した。生まれた子に「発」と名付けた(『漢書』景十三王伝)。

帝問主人翁,有自賣珠兒。
漢の武帝に「ご主人さま」と呼びかけられた董偃は、もともとは真珠売りで世渡りをしていた子供だった。
賣珠 董偃は子供の時から母とともに真珠売りをして暮らしを立てていた。漢武帝の姑にあたる竇太主の屋敷に出入りするうちに、寡婦となっていた竇太守から片時も離さないほどの寵愛を受けた。そのため武帝までもが直接名をいうことを避けて、「主人翁(ご主人さま)」と呼ぶほどであった。のちに東方朔がその僭越な態度を弾劾した(『漢書』東方朔伝)。
 
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
哀帝は昔男として生まれ、皇帝となったが、男色を好み、家臣の董賢を寵愛しため、太皇太后王氏が年をとって苦労し王朝を継続した。
○武昌 哀帝前漢第12代皇帝のこと。皇太后趙飛燕の後楯で19歳で即位した。史書によれば哀帝は男色を好み、家臣の董賢を寵愛した。男色を意味する「断袖」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。
老苦 太皇太后王氏が哀帝の崩御に際して、実権を取り燃さねばならないという苦労したことをいう。哀帝25歳で死去。嗣子が無かったために、崩御に際し皇帝璽綬を家臣の董賢に託したが、璽綬は太皇太后王氏、王莽らにより奪われ、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。なお璽綬を奪われた董賢とその妻はその日のうちに自殺した。「漢書哀帝紀」による。○爲人妻 男しか相手にしないことを言う。


蜀王有遺魄,今在林中啼。
蜀の王の死後も相手と結ばれたいとを思う心は、血を吐きながら悲しげに鳴く杜鵑として魂をのこした、そして今もほととぎすとなって林の中で囁いているのだ。
蜀王 蜀の開国伝説によると、周の末に蜀王の杜宇が帝位に即き、望帝と称した。望帝は部下のものに治水を命じておきながら、その妻と姦通し、その後その罪を恥じて隠遁した。旧暦二月、望帝が世を去ったとき、杜鵑(ホトトギス)が、哀鳴した。これを蜀王魂という。また、春心托杜鵑 相手と結ばれたいとを思う心は、血を吐きながら悲しげに鳴く杜鵑(ホトトギス)に托す。杜鵑:〔とけん〕ほととぎす。血を吐きながら悲しげに鳴くという。
燕臺詩四首 其二 夏#1 李商隠130 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 130-1   李商隠1錦瑟


淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』
准南の王劉安は霊薬を飲んで昇天したが、そこにいた鶏まで仙薬を舐めた、そして、翻り、羽ばたきながら雲の中へ飛んでいった。
准南 准南王劉安のこと。劉安は、中国のことわざ「一人得道、鶏犬昇天」(一人が道を得れば、鶏や犬も天に昇る)の出典としても知られる。王充の『論衡』道虚篇によると、劉安は神仙の術を求め、霊薬を自ら調合し、それを服用すると、身体が空に浮き上がった。それどころか、家で飼っていた鶏や犬までもが天に昇ったという(自害した劉安は鶏と犬を伴って仙人となって昇天したと伝えられていた)。現在では「一族のうち一人でも出世すれば、能力もない親戚や側近まで地位が上がる」という故事に基づくものである。

井泥四十韻 第三場面 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 143第 3場面

井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 143

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、難解な詩となっている。

第3場面



皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-#1
升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2
茫茫此群品,不定輪與蹄。
分別できないほど多くとりとめない親子、肉親の間での欲望の法則、それは動き続ける馬車の輪と蹄のようにさだまったものではないのである。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
堯は舜という仁徳の法則のわかった後継名を得たことを喜んだ、その父が暗愚な瞽瞍であっても迷いはしなかったのだ。
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
ついに、禹が舜に代わって帝位に就いたのだ、禹の父は問題のある人で舜に「ああ、心がねじけている」と叫ばれた人でした。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
漢祖把左契,自言一布衣。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。
長戟亂中原,何妨起戎氐。
長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3

この血筋血統については帝王だけの耳目ではないのだ。臣下についても同じことがいえるのだ。
伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4
大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈云爲
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5


茫茫たる此の群品、定まらざること輪と蹄のごとし。
舜の禅(ゆず)るべきを得るを喜び、瞽瞍(こそう)を以て疑わず。
禹は竟に舜に代わりて立つ、其の父は吁あ咈(もと)れる哉。
嬴氏(えいし)は六合を井するも、来たる所は不韋に因る。
漢祖 左契を把るも、自ら言う一布衣なりと。
当塗 国璽(こくじ)を佩(はい)するも、本は乃ち黄門の携。
長戟(ちょうげき)もて中原を乱す、何ぞ戎氐(じゅうてい)より起つを妨げん。

独り帝王のみにあらず、臣下も亦た斯くの如し。



井泥四十韻 第3場面 現代語訳と訳註
(本文)

茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』

(下し文)
茫茫たる此の群品、定まらざること輪と蹄のごとし。
舜の禅(ゆず)るべきを得るを喜び、瞽瞍(こそう)を以て疑わず。
禹は竟に舜に代わりて立つ、其の父は吁あ咈(もと)れる哉。
嬴氏(えいし)は六合を井するも、来たる所は不韋に因る。
漢祖 左契を把るも、自ら言う一布衣なりと。
当塗 国璽(こくじ)を佩(はい)するも、本は乃ち黄門の携。
長戟(ちょうげき)もて中原を乱す、何ぞ戎氐(じゅうてい)より起つを妨げん。

独り帝王のみにあらず、臣下も亦た斯くの如し。



(現代語訳)
分別できないほど多くとりとめない親子、肉親の間での欲望の法則、それは動き続ける馬車の輪と蹄のようにさだまったものではないのである。
堯は舜という仁徳の法則のわかった後継名を得たことを喜んだ、その父が暗愚な瞽瞍であっても迷いはしなかったのだ。
ついに、禹が舜に代わって帝位に就いたのだ、禹の父は問題のある人で舜に「ああ、心がねじけている」と叫ばれた人でした。
秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。
魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。
長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
この血筋血統については帝王だけの耳目ではないのだ。臣下についても同じことがいえるのだ。


(訳注)
茫茫此群品,不定輪與蹄。
分別できないほど多くとりとめない親子、肉親の間での欲望の法則、それは動き続ける馬車の輪と蹄のようにさだまったものではないのである。
茫茫 分別できないほど多い様子。○群品 もろもろの法則。○輪与蹄 車輪と馬の蹄。二つの部分を挙げることによって馬車をあらわす。馬車が走るように一定の状態に留まっていることはない。


喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
堯は舜という仁徳の法則のわかった後継名を得たことを喜んだ、その父が暗愚な瞽瞍であっても迷いはしなかったのだ。
喜得 『尚書』堯に、臣下に後継者を問うと臣下が舜を推挙する。○瞽瞍 盲目の意。舜の父は曹禦といい、愚昧な人であった。舜は母も弟も性格が悪い家庭の中にあって天孝を尽くし、堯の目にかなって帝位を譲られた。舜の父は舜に井戸を掘らせ、深くまで掘ったところで瞽叟と象が土を投げ込んで生き埋めにして殺そうとはかった。このとき舜は、井戸を掘りながら横穴を作り、そこから抜けだす事で助かった。


禹竟代舜立,其父籲咈哉。
ついに、禹が舜に代わって帝位に就いたのだ、禹の父は問題のある人で舜に「ああ、心がねじけている」と叫ばれた人でした。
 禹は初めての世襲王朝である「夏」を創始した人物とみなされていることから、三皇五帝の一人として数えられていない場合が多い。
禹は、父が功ならずして罰を受けた事を悲しみ、総力をあげて職務に打ちこんだ。 衣食を節約して鬼神への供物を豊富にし、家屋敷を質素なものとしてその費用を田畑の潅漑に回した。
『尚書』堯典に、禹の父・鯀は、帝堯が大洪水を治める人物を求めた時に、群臣や四嶽(四方の諸侯の長官)によって推挙された。
 このとき堯は、
「鯀という人物は、おかみの命令に背き、一族と和せずして仲間を損なうような人物だ」
 といって反対したが、四嶽たちが
「臣下たちの才能を比べて見ると、鯀より賢明なものは見当たりません。ためしにやらせて見てください。」
 と主張したため、鯀に治水にあたらせた。
 しかし、九年たっても洪水はやまず、何の成果も表れなかった。
 その後、帝堯に舜が登用されると、舜は鯀の治水が実情にそぐわず、何の成果もあげていないことから彼を東方の羽山へおしこめて死に致らしめた。
 舜は、鯀の代わりに鯀の子・禹を登用して、鯀の事業を継続させた。

 『山海経』によると相柳は青い色をしていて人面蛇身、頭は九つあり、その身体が触れて土が掘り返されたところは沢や谷となったという。
 禹は(おそらく、洪水の元凶となる邪神として)相柳を殺したが、その生臭い血の流れたところは五穀の種を植えることもできず、深い穴を掘って埋めたものの、何度やっても崩れてしまった。
 そこで禹は、相柳を埋めた場所に諸々の帝の臺(=陵墓)を作ったという。
 これは、帝の威光(当然、政治的というより宗教的な)によって、相柳を封じ込める意味があったのだろう。
 禹が相柳を埋めた場所は、『山海経』海外北経には「昆侖の北、柔利(国)の東」にある、とされている。


嬴氏並六合,所來因不韋。」
秦の始皇帝嬴政は天下国家を統一したが、その出自は政商呂不韋の子であった。
 秦の始皇帝のこと。姓は嬴、名は政。・六合 天地と四方。世界全体をいう。・不韋 父・子楚(後の荘襄王)は趙国の人質となっていたが、大商人呂不韋の支援を得て帰国、秦王に即位した。子楚は呂不韋から愛人を譲り受けたが、この愛人との間に生まれたのが政である。
しかしその愛人は子楚の元にやってきた際には既に懐妊していたと言われ、これに従えば始皇帝の父親は子楚ではなく呂不韋となる。この風聞は当時広範囲に流布していたと考えられ、『史記』でも呂不韋列伝に史実として記載されているが、秦始皇本紀には記載されていない。司馬遷は両論併記を採用したともいえる。『史記』秦始皇本紀所収の班固の上書部では「呂政」と表記されており、始皇帝と秦王室の血縁関係を否定しているが、これは漢朝が秦朝の正統性を否定する意味合いが強い。


漢祖把左契,自言一布衣。
漢の高祖は天下の王たる定めを記した割り符を手中にしていても、自ら無位無冠の身、一庶民にすぎないといっていた。
漢祖 漢の高祖劉邦。○左契 契約の札を半分ずつに割った片方。『老子』七十九章に「是を以て聖人は左契を執ってしかも人に責めず(割り符の半分を持ちながら返済を強要しない)」。ここでは天下を取る力を握っていたことをいうか。○布衣 無位無冠の身。絹でない服を着ていることから庶民をいう。劉邦は戦傷がもとで死に瀕した時、「吾は布衣を以て三尺の剣を提げて天下を取る。此れ天命に非ざるや」、死ぬのもまた天命だと言って治療を拒絶した(『史記』高祖本紀)。


當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
魏は国璽を帯びて王朝を立てたが、曹操の出自は宦官の連れ子なのだ。
当塗 道途、道塗みち。道路。道に当たる=権力者。1・:権力、2・國璽:皇帝になる印、3・黄門:宦官、4・:連れ子。この4つのキーワードにより、魏の曹操となる。3と4だけでもわかるのである。宦官のうち、高級官僚も多くいた。養子をとって家を継がせた。もっともこの頃は、その地位が売買されていたので、権力を掌中に入れて、その後、その出自を塗り替えるということをしている。曹操の場合、背は高く、秀麗であったとされているが最近のDNA検査で実際は正反対であったともいわれる。
『三国志』魏書・文帝紀の袈松之注が『献帝伝』を引くなかに、「道(=塗)に当たりて高大なるものは魏なり」。「魏」が官門の両側の建築物を意味するのと掛けたもの。「国璽」は正統王朝であるしるしの印。「黄門」は宦官を指す。曹家は名臣曹参の裔を称しており、父の曹嵩が三公である太尉であったものの、祖父の曹騰が宦官である事から常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。袁紹の幕下にいた陳琳は、曹操との戦いに向けた檄文の中で、曹操を「贅閹の遺醜」(「宦官という卑しい存在の倅」という意味)と罵倒している。「蓑紹の為に濠州に徹す」(『文選』巻四四)に、「父嵩は乞弓(物乞い)より携養さる」という。
曹 嵩(そう すう? - 193年)後漢末の政治家、豪族。字は巨高。魏の太祖武帝曹操の父である。姓は曹氏。諡号は太皇帝。『三国志』裴松之注引『曹瞞伝』によると、彼は夏侯氏の出身で、夏侯惇の叔父(父の弟)であるという。後に後漢の宦官で権勢を振るった大長秋・曹騰の養子となる。その性格は慎ましやかで、忠孝を重んじたという。官僚として司隷校尉、大司農、大鴻臚を経て、188年には太尉まで昇った。当時、売官制が横行しており、曹嵩も一億銭にも上る金額を霊帝に献上し、宦官に賄賂を贈って、太尉の職についたという。その後、黄巾の乱に始まる後漢末の大乱を避けるために、徐州東北部にある瑯邪郡に家族と共に避難していたが、子の曹操が群雄となって兗州に地盤を確保したことから帰還しようとした。だが、その途中で徐州牧陶謙の配下により殺害された。父の死を知った曹操は復讐のため出兵し、徐州で殺戮を行った。
220年、孫の曹丕(文帝)が後漢より禅譲を受けて皇帝となり魏帝国を立てると、曹嵩は魏の「太皇帝」と追尊された。子については、魏の太祖武帝である曹操や共に殺害された曹徳(あるいは曹疾)の他に数名散見されるが、いずれも事蹟に乏しい。『魏書』「樊安公均伝」によると、薊恭公曹彬、同じく『魏書』「東平霊王徽伝」によると、朗陵哀侯曹玉の名が見えるが、それぞれ曹操の子である曹均と曹徽を養子に迎えていたと記録されるのみである。また、『魏書』「夏侯淵伝」によると、曹操の弟である海陽哀侯とおくりなされた人物が確認でき、その娘が夏侯衡(夏侯淵の長子)の正妻となっている。海陽哀侯についての記録は他に見えず、曹徳あるいは曹疾と同一人物か否かは確定できない。


長戟亂中原,何妨起戎氐。
長い戟を手に中原に騒乱を起こした五胡十国、彼らが異民族戎氏から身を起こしたことはなんら弱点にはなっていないのだ。
○長撃一句 「戟」ははこ。武力をいう。「戎氏」は北方の異民族。晋を南方に追い遣って北方中国を奪った五胡十六国を指す。


不獨帝王耳,臣下亦如斯。』
この血筋血統については帝王だけの耳目ではないのだ。臣下についても同じことがいえるのだ。


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井泥四十韻 第二場面 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 142

井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 142

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、難解な詩となっている。

第二場面


井泥四十韻 李商隠(第2場面)

皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-#1
升騰不自意,疇昔忽已乖。
まさか地上に飛び上がってくるとは自分の思いにはなかった。昔とはまるで別の世界にいきなり来たようだ。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
さて、私は馬に腹帯を締めてあげ旅の支度をととのえ、西方からずっと旅を続けてくるべくしてやってきた。
一日下馬到,此時芳草萋。
それはある日、到着して馬を下りた、そこにはちょうど春の草が青々と茂っていた。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
あたり一面、美しい樹木に恵まれていた、朝から夕方まで雲やかすみは鮮やかに照り映えていた。
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
つたの幌幕も用意がととのいこもむしろも敷かれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
待得孤月上,如與佳人來。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-
#2
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。
茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3
伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4
大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈云爲
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5


井泥四十韻
皇都 依仁里、西北に高斎有り。
昨日 主人氏、井を治む 堂の西陸。
工人 三五輩、肇び出だす 土と泥と。
水に到るに数尺ならざるに、積めば庭樹と斉し。

他日 井禁 畢らば、土を用いて益に堤を作らん。
曲がるに林の掩映するに随い、練るに池の周廻するを以てす。
下は冥実の穴を去り、上は雨露の滋いを承く。
詞を寄せて地脈に別れ、困りて言いて泉扉に謝す。
昇騰 自ら意とせず、疇昔 忽(いささか)巳(すで)に乖(そむ)くと。


現代語訳と訳註
(本文)

升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2

(下し文)
昇騰 自ら意とせず、疇昔 忽(いささか)巳(すで)に乖(そむ)くと。
伊(これ) 餘(よ)は 行鞅(こうおう)を掉(ただ)し,行き行きて 自ら西に來たる。」
一日 下馬し到れば,此の時 芳草 萋たり。
四面 好樹 多く,旦暮 雲霞の姿。」

晚落ち 花は 地に滿ち,幽鳥 鳴くは 何れの枝。
蘿幄 既に 薦しき已き,山樽 亦 開く可し。」
孤月の上るを 待ち得て,佳人の來るが如き與(くみ)する。
茲(これ)に因りて物理に感ず,惻愴 平生の懷い。』-#2

(現代語訳)
まさか地上に飛び上がってくるとは自分の思いにはなかった。昔とはまるで別の世界にいきなり来たようだ。
さて、私は馬に腹帯を締めてあげ旅の支度をととのえ、西方からずっと旅を続けてくるべくしてやってきた。
それはある日、到着して馬を下りた、そこにはちょうど春の草が青々と茂っていた。
あたり一面、美しい樹木に恵まれていた、朝から夕方まで雲やかすみは鮮やかに照り映えていた。
日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
つたの幌幕も用意がととのいこもむしろも敷かれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。


(訳注)
升騰不自意,疇昔忽已乖。

まさか地上に飛び上がってくるとは自分の思いにはなかった。昔とはまるで別の世界にいきなり来たようだ。
昇騰 上昇する。地下から地上にあがったことをいう。〇疇昔〔「疇」は以前、先に、の意〕過去のある日。昔。また、昨日。○忽已乖 以前とは全く違っているさまをいう。

伊餘掉行鞅,行行來自西。」
さて、私は馬に腹帯を締めてあげ旅の支度をととのえ、西方からずっと旅を続けてくるべくしてやってきた。
 さて、てなことで。○掉行鞅 馬の支度をする。・はむながい馬の胸から鞍につけるひも。はらおび。束縛。「掉」はふる、うごかす。「行」は旅行く意を添えて「鞅」を二字にしたもの。○ 卓が青々と茂っているさま。
 
一日下馬到,此時芳草萋。
それはある日、到着して馬を下りた、そこにはちょうど春の草が青々と茂っていた。

四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
あたり一面、美しい樹木に恵まれていた、朝から夕方まで雲やかすみは鮮やかに照り映えていた。
旦暮 朝と日暮れ。○雲霞 朝焼け、夕焼けで色鮮やかに染められた雲と霞。

晚落花滿池,幽鳥鳴何枝。
日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
幽鳥 奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏。

蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
つたの幌幕も用意がととのいこもむしろも敷かれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
薙幌 「薙」はつた。「幌」はとばりの幔幕。つたが一面に垂れ下がるのをとばりに見立てる。○ 1 マコモを粗く編んだむしろ。現在は多く、わらを用いる。こもむしろ。「荷車に―を掛ける」 2 「薦被(こもかぶ)り2」の略。おこも。 3 (「虚無」とも書く)「薦僧(こもそう)」の略。 4 マコモの古名。 ○山樽 木でこしらえた粗末な樽。豪華な金色などとは逆に、野趣に富む酒器。李白に「山樽を詠ず」二首がある。

待得孤月上,如與佳人來。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
孤月 もの寂しげな月。○佳人 美人。いいひと。
 
因茲感物理,惻愴平生懷。』
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。
物理 万物を支配する根本原理。杜甫の
曲江二首 其一
一片花飛減却春、風飄万点正愁人。
且看欲尽花経眼、莫厭傷多酒入唇。
江上小堂巣翡翠、苑辺高塚臥麒麟。
細推物理須行楽、何用浮名絆此身。
曲江 二首  其の一
一片  花飛んで  春を減却(げんきゃく)し
風は万点を飄(ひるが)えして  正に人を愁えしむ
且つ看ん尽きんと欲する花の眼(まなこ)を経(ふ)るを
厭う莫れ 多きを傷(そし)らるる酒の唇に入るを
江上(こうじょう)の小堂に翡翠(ひすい)巣(すく)い
苑辺(えんへん)の高塚(こうちょう)に麒麟臥(ふ)す
細かに物理(ぶつり)を推(お)すに 須らく行楽すべし
何ぞ用いん 浮名もて此の身を絆(ほだ)すことを。○惻愴 悲痛な思いをあらわす。


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井泥四十韻 第一場面 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 141


井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 141

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、ちょっと難解な詩となっている。(この詩は40韻で約8回に分けて掲載する。次が李商隠最終の「生きて西郊に次る詩一百韻」24回に分けて掲載の予定)


第一場面(8韻16句)

井泥四十韻
皇都依仁里,西北有高齋。
帝都の依仁里、永通坊というところ、その坊の北西に立派な屋敷があります。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
昨日、この話のご主人の妻氏がいた、そのお屋敷の母屋の西に井戸を掘ったのだ。
工人三五輩,輦出土與泥。
人夫が四、五人、でとりかかりました。土と、泥を猫車に積んではこびだした。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
水に届くまで数尺もないほど浅いのに、掘り出した泥土は庭の樹木に届く高さになった。
他日井甃畢,用土益作堤。
後日、井戸に瓦を張り終えた、その上に土をもって、さらに土手を作った。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
そこに行くには曲がりくねった道を進み、土手は樹林の向こうに見え隠れしている、ぐるりとめぐって井池の周囲を取り囲んでいた。
下去冥寞穴,上承雨露滋。
下に降りていくと地底の暗い穴になっていった、上からは雨露の潤いを承けるのであった。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-
#1
言葉を寄せて別離し地下の霊の世界へつながる道にはいった、ことばをかけることによって黄泉の国の扉に礼を言ったのだ。
升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」2-1
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2-2
茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3
伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4
大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈云爲
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5


井泥四十韻
皇都 依仁里、西北に高斎有り。
昨日 主人氏、井を治む 堂の西陸。
工人 三五輩、肇び出だす 土と泥と。
水に到るに数尺ならざるに、積めば庭樹と斉し。

他日 井禁 畢らば、土を用いて益に堤を作らん。
曲がるに林の掩映するに随い、練るに池の周廻するを以てす。
下は冥実の穴を去り、上は雨露の滋いを承く。
詞を寄せて地脈に別れ、困りて言いて泉扉に謝す。
昇騰 自ら意とせず、疇昔 忽(いささか)巳(すで)に乖(そむ)くと。


 現代語訳と訳註
(本文)

皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』


(下し文)
皇都 仁里に依り、西北に高斎 有る。
昨日 主人の氏、井を治む 堂西の陲り。
工人 三五の輩、輦び出だす 土と泥と。
水に到るに数尺ならざるに、積めば庭樹と斉し。」

他日 井禁 畢らば、土を用いて益に堤を作らん。
曲がるに林の掩映するに随い、練るに池の周廻するを以てす。
下は冥実の穴を去り、上は雨露の滋いを承く。
詞を寄せて地脈に別れ、困りて言いて泉扉に謝す。」


(現代語訳)
帝都の依仁里、永通坊というところ、その坊の北西に立派な屋敷があります。
昨日、この話のご主人の妻氏いた、母屋の西に井戸を掘ったのだ。
人夫が四、五人、でとりかかりました。土と、泥を猫車に積んではこびだした。
水に届くまで数尺もないほど浅いのに、掘り出した泥土は庭の樹木に届く高さになった。
後日、井戸に瓦を張り終えた、その上に土をもって、さらに土手を作った。
そこに行くには曲がりくねった道を進み、土手は樹林の向こうに見え隠れしている、ぐるりとめぐって井池の周囲を取り囲んでいた。
下に降りていくと地底の暗い穴になっていった、上からは雨露の潤いを承けるのであった。
言葉を寄せて別離し地下の霊の世界へつながる道にはいった、ことばをかけることによって黄泉の国の扉に礼を言ったのだ。


(訳注)
井泥四十韻
井泥 井戸の底の泥。『周易』井に「井泥は食らわず」というように、汚いものとされる。不遇の身を井戸の泥に比喩したことなのだろうか。
touRAKUYOjou1000
 
唐期の洛陽城図(図中右下 永通坊)色がついているところは、李商隠の妻の実家のあったところ。



皇都依仁里,西北有高齋。
帝都の仁者の集まる里のちかくにある、永通坊というところ、その坊の北西に立派な屋敷があります。
皇都依仁里 唐代では長安に対置されて洛陽にも都が置かれた。「仁里」坊は東都洛陽の街区の名で、その北側が永通坊で渠水運河に面している。○ 1 神仏を祭るとき、心身を清める。ものいみ。「斎戒/潔斎」2 祭事を行う。「斎主・斎場」3 ものいみや読書などをする部屋。「山斎・書斎」4 精進料理。僧の食事。とき。「斎食(さいじき)」ここでは文人の屋敷、りっぱな書斎のある屋敷を言う。


昨日主人氏,治井堂西陲。」
昨日、この話の主人の妻氏がいる、その屋敷の母屋の西に井戸を掘ったのだ。
 単に井戸でなく井戸端、この頃は、砧を撃つところとなって渠水の傍に作ったと考える。○西陲 西側。「陲」は黄泉との境辺の意。西の兵馬俑の蕖水で黄泉の国に近いところと考える。


工人三五輩,輦出土與泥。
人夫が四、五人でとりかかった。それから土と、泥を猫車に積んではこびだした。
輦出 (1)手で押したり引いたりして動かす小形の車。(2)土砂などを運ぶ二本の柄のついた小形の一輪車。猫車(ねこぐるま)。(3)自家用の人力車。 「和らかひ衣類(きもの)きて―に乗りあるく時は/十三夜(一葉)」(4)二人が向かい合って両腕を組み合わせ、その上に人を乗せて運ぶこと。 「二人の―に乗つて帰らうと思ふが/狂言・鈍太郎」(5)近世の玩具の一。菊花や井戸車の形の車に糸をつけた、ヨーヨーのようなもの。(6)(多く「輦」「輦車」と書く)屋形に車を付けて、手で引く乗り物。内裏の中は歩くのが普通であったが、東宮・親王・摂政関白・女御などが、これに乗って入ることを許された。輦輿(れんよ)。れんしゃ。ここでは猫車の様なものと考える。それに載せて運び出す。

到水不數尺,積共庭樹齊。」
渠水に届くまで数尺もないほど浅いのに、掘り出した泥土は庭の樹木に届く高さになった。
 水脈、渠水運河に続ける。永通坊には蕖水運河が西流していた。

他日井甃畢,用土益作堤。
後日、井戸に瓦を張り終えた、その上に土をもって、さらに土手を作った。
○他日 1 将来における不定の日をさす語。いつか別の日。後日。2 以前の日。過ぎ去った日。○井甃 井戸の内側に張るかわら。井戸の工事をいう。○  おわる。おえる。二十八宿の一。西方の星宿。畢宿。あめふりぼし。

曲隨林掩映,繚以池周回。」
そこに行くには曲がりくねった道を進み、土手は樹林の向こうに見え隠れしている、ぐるりとめぐって井池の周囲を取り囲んでいた
掩映 ちらちら見え隠れすることをいう双声の動詞。○ めぐる、 まとう。百花繚乱など。


下去冥寞穴,上承雨露滋。
下に降りていくと地底の暗い穴になっていった、上からは雨露の潤いを承けるのであった。
冥寞 暗い空間、地下をいう。


寄辭别地脈,因言謝泉扉。』
言葉を寄せて別離し、地下の霊の世界へつながる道にはいった、ことばをかけることによって黄泉の国の扉に礼を言ったのだ。
地脈 地中の地下の霊の世界へつながる道。兵馬俑のような世界が地下にあるとされていた。○謝 1 わびる。あやまる。「謝罪/陳謝」 2 ことわる。「謝絶」 3 礼を言う。「謝意・謝恩・謝礼/感謝・多謝・拝謝」 4 お礼やおわびを表す金品。「月謝・薄謝」 5 入れかわる。「新陳代謝」○泉扉 黄泉の国の扉、すなわち地下世界、黄泉の国への入り口。

平淮西碑 (韓碑)#5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 140

平淮西碑 (韓碑)#5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 140

平淮西碑 (韓碑)#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。


公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に 烜赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。


平淮西碑 (韓碑)#5 現代語訳と訳註
(本文)

公之斯文若元気、先時己入人肝牌。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。

(下し文)#5
公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に 烜赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。

(現代語訳)#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。


(訳注)
公之斯文若元気、先時己入人肝牌。

しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
斯文 道徳、或いは文化の意味また、儒者や文学を斯文という。韓愈は古文復活に熱心な儒教者であった。○元気すべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力の意味。
先時 時は漫然と時間ということではなく、碑文が磨滅させられた時に先んじて。
肝脾 肝臓と脾臓。転じて心の意味。


湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
湯盤 殷の湯王の盤の戎辞。「礼記」大学篇に「湯の盤の銘に日く。苟に日に新たに、日日に新たにして、又た日に新たなり。」と。
孔鼎「春秋左氏伝」に正老父の「一命して僂し、再命して傴し、三命して俯す。」という鼎銘が昭公七年に見える。正考父は孔子の祖先だから、それを湯盤と並へて孔鼎といったのだ。鼎は三脚で二つの耳のある金属のなべ。王者のしるしとして尊重される。ここではそれに刻まれた成文をいう。


鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。古人も言う如く、事は文を以て伝わるものである。
烜赫 盛名威容の盛んなるさま。
淳熙 淳き栄光。


公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
 なんぞ~せんや、という反語的疑問詞。
三五 三皇五帝。理想的な君主として伝説的に伝えられる太古の帝王。三皇:伏羲・神農・女媧、五帝:黄帝・少昊・顓頊・嚳・尭・舜。


願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
 手足の皮にできるたこ。


傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。
七十有二代 漢の司馬遷の「史記」封禅書に「古者より泰山に封じ梁父に禅せる者、七十二家なり。」とあるのにもとづく。
封禪 天子が大きな事業をなしとげた時、天地を祭って其の成功を報告する儀式をする。それを封禅という。ここは、その過去の事例にならいつつ、未来においても、次次と興亡するであろぅ七十二代にこの功績を伝えるという意味。
玉検 玉の名札で封印をかねるもの。封禅のときに用いる道具の玉である。○明堂 天子が諸侯を朝見する御殿。漢の趙岐の「孟子」注に「泰山の下に明堂あり、周の天子東に巡狩し、諸侯を朝せし処なり。」(染恵王下)とある。最後の一句は、「平准西碑」に「既に推察を定め、四夷畢く来る。遂に明覚を開いて、坐して以て治めん。」とあるのに拠っている。


■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜
815憲宗元和10年48歳5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
81611年49歳正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
81712年50歳7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
81813年51歳正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
81914年52歳正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。7月、大赦。



#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生貙貙生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

#2
帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。

#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹墀。

#4
表日臣愈昧死上、詠神聖功書之碑。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以螭。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
長縄百尺拽碑倒、麤砂大石相磨治。

#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。

#1
元和の天子 神武の姿、彼何人ぞや 軒と義
誓って将に上列聖の恥を雪がんとし、法官の中に坐して四夷を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼は貙を生み 貙は羆を生む。
山河に拠らずして平地に拠り、長戈 利矛 日も麾く可し

#2
帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は訾(はか)られず。

#3
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹墀(たんち)に鋪(つら)ぬ。

#4
表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに 螭(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を拽きて倒し、麤砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す

#5
公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に 烜赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。


#1
元和の天子 神武の姿、彼何人ぞや 軒と義
誓って将に上列聖の恥を雪がんとし、法官の中に坐して四夷を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼は貙を生み 貙は羆を生む。
山河に拠らずして平地に拠り、長戈 利矛 日も麾く可し

#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。

#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。

#4
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。

#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。

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平淮西碑 (韓碑)#4 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 138

平淮西碑 (韓碑)#4 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 138


平淮西碑 (韓碑)#4
表日臣愈昧死上、詠神聖功書之碑。
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以螭。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
長縄百尺拽碑倒、麤砂大石相磨治。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。



表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに 螭(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を拽きて倒し、麤砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す




平淮西碑 (韓碑)#4 現代語訳と訳註
(本文)

表日臣愈昧死上、詠神聖功書之碑。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以螭。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
長縄百尺拽碑倒、麤砂大石相磨治。

(下し文)
表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに 螭(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を拽きて倒し、麤砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す


(現代語訳)
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。

(訳注)
表日臣愈昧死上、詠神聖功書之碑。

かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
 君主または官府に奉る書状、及びその文体を表という。
昧死 上書の冒頭に用いる言葉。昧は冒昧。次の言葉がもし不当ならば死をかけてあやまる、という意味である。
神聖功 神聖は天子に関する事柄につける形容、淮西の賊(呉元済―#1と#2参照)を平げた戦勝を、天子有徳のしるしとして韓愈がのべた事をいうもの。


碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以螭。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
 十升を斗というが、その量るますのように器が方形であることに借りて、碑文の字体の大きさの喩えとした。○負以霊鼇 霊鼇は神秘的な大がめ。碑石をその大亀をかたどった彫石の甲の上に建てたことをいう。
蟠以螭 螭はみずち。想像上の神獣で竜の角のないものを螭という。碑石の周囲に螭模様の飾りを彫りつけたことをいう。


句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
句奇 奇は独特の、或いは独自なという意味し
語重 おごそかな言葉の重重しいこと。重厚な表現。
 理解する。
言其私 「旧唐書」韓愈伝に「碑辞多く装度の事を叙ぶ。時に蔡に入りて呉元済を捕えしは李愬の功第一なり。愬は之を不平とす。愬の妻(唐安公主の女)は禁中に出入し、因りて碑辞は実ならずと訴う。詔して愈の文を磨去せしめ、翰林学士段文員(773―835年)に命じて重ねて文を撰せしめて石に刻めり。」とある。南宋の葛立方の 「韻語陽秋」には、それを訴えたのは李愬の子であったと考証する。


長縄百尺拽碑倒、麤砂大石相磨治。
建立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。
靡砂 あらい砂。
 
この章の解説。
皇帝の諫言には耳を貸さない正当な人を貶める讒言には簡単に耳を貸すばかりか、さらに推し進めることをやっている。正当な賢臣を消していく、宦官のやり口にのってしまったのである。同じころ元稹も宦官の諫言で通州司馬に左遷される。

平淮西碑 (韓碑)#3 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137

平淮西碑 (韓碑)#3 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137


平淮西碑 (韓碑)#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹墀。

その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。

帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹墀(たんち)に鋪(つら)ぬ。


■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜
815憲宗元和10年48歳5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
81611年49歳正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
81712年50歳7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
81813年51歳正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
81914年52歳正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。7月、大赦。

平淮西碑 (韓碑)#3 現代語訳と訳註
(本文)

帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹墀。

(下し文)
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹墀(たんち)に鋪(つら)ぬ。

(現代語訳)
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。


(訳注)
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。

憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
〇度 裴度(765-839年)あざな中立。徳宗以下四朝に仕えてよく唐室を輔佐した重臣である。貞元の初めに進士に及第し、校書郎を皮切りに累進して、中書侍郎同平章事となり、817年元和十二年自から請うて呉元済征伐の将軍となった。○従事軍の参謀を職とする副官
○愈
 韓愈のこと。#1を参照○辞 文章。「旧い唐書」韓愈伝に、「淮蔡平らぎ、功を以て刑部侍邸を授けらる。詔して平准西碑を撰さしむ。」と見える。・ 淮水の西側、河南地方。・蔡 蔡城。南北朝以前の名称、河南省の大部分と安徽省の一部の中心城郭。


愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
拝稽首 これ以上ない最敬礼のさま。・ 拝手の略。両手を拱ねいて地につけ、額がその手にあたるまで頭をさげる礼。・稽首 額が地につくまで頭をさげる最敬礼。○蹈且舞 唐制としては一種の儀礼で最敬礼の後喜こんでこおどりすること。
金石刻画 金は鐘鼎、石は碑碣。古代にはそうした銅器や石に頌功紀事、あるいは寓戒の言葉を刻んだ。○臣能為 臣能く為さんや、と反語に読んだ。「史記」の秦始皇本紀に「二世皇帝日く、金石刻は尽く始皇帝の為す所なり。」云云とあるように、金石に功をしるすことは本来天子のなすものと意識きれる。


古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
大手筆 大著述。または大著述家。
職司 公文書をつづることをその職務とする者を指す。


當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
当仁、不譲 仁の事を行うに当っては、師にもゆずらず、だれ憚るところなく行えという「論語」の言葉にもとづく。「論語」衛霊公簾に「子日く、仁に当りでは師にも譲らず。」と。
言訖 語は終る。

公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
斎戒 祭祀の前に、沐浴し葷酒を去って身心を清める行事。また広く、心気一転してある事に精神を集中することをも斎戒という。ここでは集中して、一気呵成に書き上げるさまをいう。
小閤 閤はもと傍戸。ふつうに小部屋のことを閤という。
淋漓 たっぷりと墨を含ませたさま。水のしたたるさまを写す擬声語。


點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
點竄 点は筆で字を消すこと。鼠は改める。二字で詩文を改めなおすこと。
堯典舜典 古代春秋の伝説上の帝王、尭と舜。徳をもって天下を治めた理想的な帝王とされる。五経の一つである「尚書」の篇名。堯典は堯帝の事蹟、舜典は舜帝のことをしるす。
塗改 文字をぬり消して書き改める。
〇清廟生民詩 生民は中国最古の詩集であり且つ五経の一つである「詩経」の大雅の篇名。清廟はおなじくその周頌の篇名。 


文成破體書 在紙、清晨再拝鋪丹墀。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。
破体 破希の書体。当時の常識を破った新しい文体をいう。
再拝 二度、拝手の礼をする。
鋪丹墀 鋪はのべひろげる。丹墀は宮殿の階上の、朱で土地を赤ぬりこめた庭。有感二首 其二 李商隠150- 102
丹陛 天子の宮殿の正殿の正面階段。赤く塗られているので「丹陛」という
有感二首 其 二
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。
臨危封盧植、始悔用龐萌。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
古有清君側、今非乏老成。
素心雖未易、此擧太無名。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
近聽開壽讌、不廢用咸英。』

平淮西碑 (韓碑)#2 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137

平淮西碑 (韓碑)#2 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137



■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜

815

憲宗

元和

10年

48歳

5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。

816

11年

49歳

正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作

817

12年

50歳

7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作

818

13年

51歳

正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」

819

14年

52歳

正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。7月、大赦。

平淮西碑 (韓碑)#2
帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。

帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は訾(はか)られず。


平淮西碑 (韓碑)#2 現代語訳と訳註
(本文)

帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。


(下し文)
帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は訾(はか)られず。


(現代語訳)
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。


(訳注)
帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
聖相 有徳の宰相。この言葉は「妟子春秋」にある「仲尼は聖相なり。」という言葉を典故とする。仲尼は孔子の名。
 裴度(765-839年)あざな中立。徳宗以下四朝に仕えてよく唐室を輔佐した重臣である。貞元の初めに進士に及第し、校書郎を皮切りに累進して、中書侍郎同平章事となり、817年元和十二年自から請うて呉元済征伐の将軍となった。乱平定後は晋回公に封ぜられ、中書令を加えられた。晩年は別別業を作り、白居易(772-846年)劉禹錫(772-842年)らと觴詠した。なお、裴度出陣の二年以前、815年元和十年に、討征の詔は下され、十六道の兵を発して准西に向わせ、用兵の事を宰相の一人、武元衝にゆだね、李光顔を司令官としていたが一向に戦果があがっていなかったのである。
賊斫不死 刺客が裴度を暗殺しょうとした史実をいう。呉元済討征の詔が下された時、平盧の節度使李師道(?-819年)や成徳の節度使王承宗(?-820年)は元済の謝免を断ったが誉れなかった。かくて李師道は、主戦論者の暗殺を計り、宰相武元衝は殺され、裴度も刺客に傷つけられたが、奇蹟的に助かった。新旧両「唐書」裴度伝にくわしい。なお他の節度使が暗に叛乱軍を援助したのは、勿論、その利害が共通していたからである。


腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
相印 宰相の印綬。○都統 軍の司令官。天宝の末に初めてこの元帥職がもうけられた。817年元和十二年七月、裴度は奏して自から行営すなわち出征時の軍営に赴かんことを請い、淮西宣慰招討使に充てられたが、韓弘(765-822年)が都続であった故、宣慰処置使と称するように願った。だが実際には元帥の職をつかさどった、と「旧唐書」に見える。○惨澹 ものすさまじく薄暗いこと。

愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
愬武古通 淮西内平定に力を合せた四人の将軍の名。・:元和十一年に唐鄧隋節度使に任ぜられた李愬。夜、蔡州の城を奇襲し呉元済を擒にした殊勲者。・武:淮西諸軍行営都統であった韓弘の子、韓公武のこと。兵二千を率いて先討隊李光顔(762―826年)の軍に属していた。・:鄂岳観察使李道古。・:寿州団練使李文通。
牙爪 きばとつめ。「詩経」小雅祈父に「祈父、予は王の爪牙なり。」と見える。
儀曹外郎 礼部に属する官職。礼部は礼秩及び学校貢挙のことを掌る官庁。この時、後に宰相となり、対立する牛李の党の牛党の立役者となる礼部員外郎李宗閔を始め、司勲員外郎李正封らが従軍した。隋の時代、礼部侍邸を儀曹郎と呼んだ。唐以後は廃止されたが礼部員外郎(礼部の書記次官)のことをそういった。
載筆 筆を持ち歩く。


行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
行軍司馬副 司令官。また節度使の属官。裴度が朝廷に請うて、韓愈を行軍司馬としたのである。
虎貌とら。親も猛獣の名、虎の属である。


入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
入蔡縛賊 李愬が奇襲で賊将をとらえた功績を指す。「唐書」李愬伝に詳しい。
献太廟 太廟は天子の祖先を祭る宮中の社、かしこどころ。これもまた事実をふまえた表現。817年元和十二年十月、李愬は呉元済を執えて長安に送り、帝は興安門に御して俘虜を受け、廟社に献じ、両市にひきまわしてからこれを斬った。
功無与譲 功蹟の他におよぶもののないこと。北周の文人庾信(522-581年)の商調曲に「功与に譲るなく、太常の旌に銘す。」とあるのにもとづく。太常は天子の大旗。
恩不訾(はかれ) 訾は限る、或いは量るという意味。恩賞は限りなく大きかったという意味である。魏の王粲(177-217年)の詠史詩に「結髪してより明君に事え、恩を受くること良に訾れず。」と。

平淮西碑 (韓碑)#1 李商隠136 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 136-#1

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平淮西碑 (韓碑)#1 李商隠136 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 136-#1


平淮西碑 (韓碑)#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
淮西有賊五十載、封狼生貙貙生羆。
これまで、准西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元适と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。

淮西を平らぐるの碑(韓碑)#1
元和の天子 神武の姿、彼 何人ぞや 軒と羲(ぎ)。
誓って将に 上(これまで) 列聖の恥 を雪(そそ)がんとし、法宮(ほうきゅう)の中に坐して四夷(しい)を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼(ほうろう)は貙(ちゅ)を生み 貙(ちゅ)は羆(ひぐま)を生む。
山河に拠(よ)らずして平地に拠り、長戈(ちょうか) 利矛(りぼう) 日も麾(まね)く可し。


平淮西碑 現代語訳と訳註
(本文) #1

元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷。
淮西有賊五十載、封狼生貙貙生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。


(下し文) #1

元和の天子 神武の姿、彼 何人ぞや 軒と羲(ぎ)。
誓って将に 上(これまで) 列聖の恥 を雪(そそ)がんとし、法宮(ほうきゅう)の中に坐して四夷(しい)を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼(ほうろう)は貙(ちゅ)を生み 貙(ちゅ)は羆(ひぐま)を生む。
山河に拠(よ)らずして平地に拠り、長戈(ちょうか) 利矛(りぼう) 日も麾(まね)く可し。


(現代語訳)#1
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元适と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。


(訳注)#1
平淮西碑 (韓碑)#1

淮西を平らぐ る の碑(韓碑)
韓碑 中庸の文豪韓愈(768-824年)が元和十三年(818年)に作った文章「平淮西碑」(淮西を平ぐるの碑)のこと。碑は文を石にきざみ、宮室廟屋、墓陵の上に立てる立石で、その文章の体を碑という。詩は、その「平淮西碑」の書かれるに到った経緯を述べ、それが極諌したことになり、結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)刺史に左遷され、いったん建てられた碑石が取り壊されたことを憤りつつ、韓愈の文学の卓越せることを賞讃している。ここでも李商隠は、正論を述べて不遇な韓愈を讃えているのである。

韓愈(韓退之)
 768-824
 は字名を退之、河南省修武県の人。3歳のとき父を、14歳のとき兄を失って兄嫁の鄭氏に養われ、苦労して育った。貞元八年(792年)進士科に及第。四門博士から国子博士(国立大学の教授、四門博士は同じ大学教授であるが、身分低い子弟を教える)となり、以後、河南令、考功郎中等を経て、823元和十二年、この詩に歌われる裴度の呉元済討伐に、行軍司馬として従軍している。

元和十四年(819年)に仏骨を論ずる表で諫言し、潮州別史に貶せられたが、後許される。国子祭酒(国立大学総長)をへ、兵部侍邸に復帰した。文学者として、宋以後の中国の散文文学を決定的に方向づけた復古主義的文体は、八代の衰退を起したものと評価されている。また、多く文士の交流し、李賀(790-817年)盧仝(?-835年)張籍(768-830年?)王建(768?-830年?)賈島(779-843年)孟郊(750-814年)等、友人や門弟と共に、その詩に於いても、一つの画期(エポック)を作った。

同時期の詩人として武元衡758~815、權德輿 759-818、柳宗元773~819李益748年 - 827年元稹779~831白居易772~846 と盛唐から中唐と世界史的な文学の花が開花している。




元和天子神武姿、彼何人哉軒與羲。
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
○元和天子 唐朝第11代の皇帝憲宗李純(778-820年)のこと。元和は年号。
○神武姿 はなはだ秀れた勇武ある身ごなし。晩唐の杜牧の皇風の詩に「仁聖の天子は神且つ武。」と類似の表現がある。
軒与羲 五帝の一人、軒轅すなわち黄帝と、三皇の一人伏羲のこと。伝説的に伝えられる。前史時代の有徳の統治者三皇五帝を、伏義と軒轅で代表させたものである。


誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
列聖恥 列聖は代代の天子。安禄山の叛乱以後、粛宗皇帝李亨(721―762年)代宗皇帝李豫(727-779年)徳宗皇帝李适(742-805年)の歴代は、藩鋲が君王化していて、地方の政治的経済的管轄権が潘鎮のの手にあった。それを列聖の恥といったのである。潘鎮は、唐の初め、中央直属の諸州に地方警察軍として置かれていた兵力を、玄宗皇帝李隆基(685-762年)の時、編成換えして、外夷をふせぐ辺蛮十節度の管理下におき、且つ、その土地の徴賦をも掌らせたものであることが、節度使、潘鎮の増長を生んだのだ。
法官 天子の正殿。後漢の班固の「漢書」鼂錯伝に「五帝は常に法官の中の明堂の上に坐せり。」と見える。
朝臣 下が君主にまみえること。奸臣は反対語。
四夷 四方の異民族。東夷・西戎・南蛮・北狄をいう。「礼記」王制篇に見える。


淮西有賊五十載、封狼生貙貙生羆。
これまで、准西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元适と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
准西有賊五十載 淮西は淮水以西の地。察州を中心とし河南省東南部と安徽省西北部を含む淮水以西一帯が淮西節度使の管轄地域だった。代宗の大暦の末、李希烈(?-786年)がこの地の節度使となり、徳宗建中三年(782年)に乱を起して建興王と僭称した。徳宗貞元二年(786年)その部下の陳仙奇(?-786年)が李希烈を毒殺して朝に降り、代って鎭を領したが、幾ばくもなく呉少誠(?-809年)に殺された。呉少誠の卒後は、その将の呉少陽(?-814年)が軍府を領して、亡命者をあつめて叛乱を準備し、その子呉元済が貞元十年(794年)に兵を起した。その間、通算するとほぼ五十年となる。(詩的表現では30年過ぎたら50年という表現もある)。安史の乱(755)の際、消極的に反乱軍に加担している。ことからすれば50年以上となる
韓愈の「平淮西碑」にも「蔡師の廷授せざる、今に五十年。」とある。
封狼 封は大きいこと。狼はおおかみ。
貙貙生羆 貙は猛獣の名。羆はひぐま。狼、貙、羆はすべて、潘鎮、節度使の中で、異民族や亡命者、不満分子を集め、乱賊に変じたものを言う。


不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
長戈利矛 長いほことするどいほこ。戈はほこ先が二つに分れている。
日可麾 落日の陽をも麾き回らすことができるということ。漢の劉安の「淮南子」覧冥訓に「魯陽公、韓と難を構う。戦たけなわにして日暮れぬ。戈を援りて之を撝、日これが為に反ること三舎。」と見える。舎は天文学上の距離の単位。ここは叛乱軍の勢力の大きさをあらわし、意気盛んであったことをいう。五代の劉呴の「旧唐書」呉元済伝に「呉少誠は兵を阻むこと三十年、王師未だ嘗つて其の城下に及ばず。」とみえる。


井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 142

井泥四十韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 142

李商隠の詩のなかでもとりわけ長い作品の一つ、八十句にのぼる。地中から運び出された泥が美しい庭園に身を置く境遇の変化をうたいながら、そこに寓意をこめる。発言が生かされない地位や、若い時期での失敗に、「羹に懲りて」いるため、難解な詩となっている。

(第2場面の1)

皇都依仁里,西北有高齋。
昨日主人氏,治井堂西陲。」
工人三五輩,輦出土與泥。
到水不數尺,積共庭樹齊。」
他日井甃畢,用土益作堤。
曲隨林掩映,繚以池周回。」
下去冥寞穴,上承雨露滋。
寄辭别地脈,因言謝泉扉。』-#1
升騰不自意,疇昔忽已乖。
まさか地上に飛び上がってくるとは自分の思いにはなかった。昔とはまるで別の世界にいきなり来たようだ。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
さて、私は馬に腹帯を締めてあげ旅の支度をととのえ、西方からずっと旅を続けてくるべくしてやってきた。
一日下馬到,此時芳草萋。
それはある日、到着して馬を下りた、そこにはちょうど春の草が青々と茂っていた。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
あたり一面、美しい樹木に恵まれていた、朝から夕方まで雲やかすみは鮮やかに照り映えていた。
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
つたの幌幕も用意がととのいこもむしもしかれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
待得孤月上,如與佳人來。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-
#2
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。
茫茫此群品,不定輪與蹄。
喜得舜可禪,不以瞽瞍疑。」
禹竟代舜立,其父籲咈哉。
嬴氏並六合,所來因不韋。」
漢祖把左契,自言一布衣。
當塗佩國璽,本乃黄門擕。」
長戟亂中原,何妨起戎氐。
不獨帝王耳,臣下亦如斯。』-#3
伊尹佐興王,不藉漢父資。
磻溪老釣叟,坐爲周之師。」
屠狗與販繒,突起定傾危。
長沙啟封土,豈是出程姬。」
帝問主人翁,有自賣珠兒。
武昌昔男子,老苦爲人妻。」
蜀王有遺魄,今在林中啼。
淮南雞舐藥,翻向雲中飛。』-#4
大鈞運群有,難以一理推。
顧於冥冥内,爲問秉者誰。」
我恐更萬世,此事愈雲爲。
猛虎與雙翅,更以角副之。」
鳳凰不五色,聯翼上雞棲。
我欲秉鈞者,朅來與我偕。」
浮雲不相顧,寥泬誰爲梯。
悒怏夜將半,但歌井中泥。』-#5


井泥四十韻
皇都 依仁里、西北に高斎有り。
昨日 主人氏、井を治む 堂の西陸。
工人 三五輩、肇び出だす 土と泥と。
水に到るに数尺ならざるに、積めば庭樹と斉し。

他日 井禁 畢らば、土を用いて益に堤を作らん。
曲がるに林の掩映するに随い、練るに池の周廻するを以てす。
下は冥実の穴を去り、上は雨露の滋いを承く。
詞を寄せて地脈に別れ、困りて言いて泉扉に謝す。
昇騰 自ら意とせず、疇昔 忽(いささか)巳(すで)に乖(そむ)くと。


 現代語訳と訳註
(本文)

升騰不自意,疇昔忽已乖。
伊餘掉行鞅,行行來自西。」
一日下馬到,此時芳草萋。
四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
晚落花滿地,幽鳥鳴何枝。
蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
待得孤月上,如與佳人來。
因茲感物理,惻愴平生懷。』-#2-2

(下し文)
昇騰 自ら意とせず、疇昔 忽(いささか)巳(すで)に乖(そむ)くと。
伊(これ) 餘(よ)は 行鞅(こうおう)を掉(ただ)し,行き行きて 自ら西に來たる。」
一日 下馬し到れば,此の時 芳草 萋たり。
四面 好樹 多く,旦暮 雲霞の姿。」-#1

晚落ち 花は 地に滿ち,幽鳥 鳴くは 何れの枝。
蘿幄 既に 薦しき已き,山樽 亦 開く可し。」
孤月の上るを 待ち得て,佳人の來るが如き與(くみ)する。
茲(これ)に因りて物理に感ず,惻愴 平生の懷い。』-#2-2

(現代語訳)
まさか地上に飛び上がってくるとは自分の思いにはなかった。昔とはまるで別の世界にいきなり来たようだ。
さて、私は馬に腹帯を締めてあげ旅の支度をととのえ、西方からずっと旅を続けてくるべくしてやってきた。
それはある日、到着して馬を下りた、そこにはちょうど春の草が青々と茂っていた。
あたり一面、美しい樹木に恵まれていた、朝から夕方まで雲やかすみは鮮やかに照り映えていた。
日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
つたの幌幕も用意がととのいこもむしもしかれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。


(訳注)
升騰不自意,疇昔忽已乖。

まさか地上に飛び上がってくるとは自分の思いにはなかった。昔とはまるで別の世界にいきなり来たようだ。
昇騰 上昇する。地下から地上にあがったことをいう。〇疇昔〔「疇」は以前、先に、の意〕過去のある日。昔。また、昨日。○忽已乖 以前とは全く違っているさまをいう。


伊餘掉行鞅,行行來自西。」
さて、私は馬に腹帯を締めてあげ旅の支度をととのえ、西方からずっと旅を続けてくるべくしてやってきた。
 さて、てなことで。○掉行鞅 馬の支度をする。・はむながい馬の胸から鞍につけるひも。はらおび。束縛。「掉」はふる、うごかす。「行」は旅行く意を添えて「鞅」を二字にしたもの。○ 卓が青々と茂っているさま。
 
一日下馬到,此時芳草萋。
それはある日、到着して馬を下りた、そこにはちょうど春の草が青々と茂っていた。

四面多好樹,旦暮雲霞姿。」
あたり一面、美しい樹木に恵まれていた、朝から夕方まで雲やかすみは鮮やかに照り映えていた。
○旦暮 朝と日暮れ。○雲霞 朝焼け、夕焼けで色鮮やかに染められた雲と霞。

晚落花滿池,幽鳥鳴何枝。
日暮れに夕映えにかがやく花が池を満たしていた、奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏がどこかの枝で鳴いていた。
幽鳥 奥深い所で鳴き声だけ聞こえる烏。

蘿幄既已薦,山樽亦可開。」
つたの幌幕も用意がととのいこもむしもしかれた、粗末な樽でいいからここで開けるのだ。
薙幌 「薙」はつた。「幌」はとばりの幔幕。つたが一面に垂れ下がるのをとばりに見立てる。○ 1 マコモを粗く編んだむしろ。現在は多く、わらを用いる。こもむしろ。「荷車に―を掛ける」 2 「薦被(こもかぶ)り2」の略。おこも。 3 (「虚無」とも書く)「薦僧(こもそう)」の略。 4 マコモの古名。 ○山樽 木でこしらえた粗末な樽。豪華な金色などとは逆に、野趣に富む酒器。李白に「山樽を詠ず」二首がある。

待得孤月上,如與佳人來。
もの寂しげな月があがってくるのを待っていると、美しい人と一緒に出てくるような気持ちだった。
孤月 もの寂しげな月。○佳人 美人。いいひと。
 
因茲感物理,惻愴平生懷。』
これに触発されて万物を支配する根本原理が感得され、常日頃の思いが刺すように胸を痛めている。
物理 万物を支配する根本原理。杜甫の
曲江二首 其一
一片花飛減却春、風飄万点正愁人。
且看欲尽花経眼、莫厭傷多酒入唇。
江上小堂巣翡翠、苑辺高塚臥麒麟。
細推物理須行楽、何用浮名絆此身。
曲江 二首  其の一
一片  花飛んで  春を減却(げんきゃく)し
風は万点を飄(ひるが)えして  正に人を愁えしむ
且つ看ん尽きんと欲する花の眼(まなこ)を経(ふ)るを
厭う莫れ 多きを傷(そし)らるる酒の唇に入るを
江上(こうじょう)の小堂に翡翠(ひすい)巣(すく)い
苑辺(えんへん)の高塚(こうちょう)に麒麟臥(ふ)す
細かに物理(ぶつり)を推(お)すに 須らく行楽すべし
何ぞ用いん 浮名もて此の身を絆(ほだ)すことを。○惻愴 悲痛な思いをあらわす。

燕臺詩四首 其四 冬#2 李商隠135 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 134-#2

燕臺詩四首 其四 冬#2 李商隠135 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 134-#2


其四 冬 #1
天東日出天西下,雌鳳孤飛女龍寡。
青溪白石不相望,堂上遠甚蒼梧野。
凍壁霜華交隱起,芳根中斷香心死。
浪乘畫舸憶蟾蜍,月娥未必嬋娟子。』
#2
楚管蠻弦愁一概,空城罷舞腰支在。
宮廷では楚の曲や指南地方の少数民族の曲も演奏される、どちらも同じように憂愁を催す。滅亡した王朝の城郭には誰もいない、楽曲に合わせて舞踊もされたものだ、それも妖艶な腰の体つきで舞い姿をみせたのだ。
當時歡向掌中銷,桃葉桃根雙姊妹。」
あの頃の歓びというものは王の趣向に迎合して、この掌中で消えていくか細さを求め餓死者さえ出たのだ。あまたの王、富貴が姉妹を妾家として迎えた、あの王獻之の妾家に「桃葉復た桃葉、桃樹は桃根に連なる」といって桃葉・桃根姉妹と同時に歓びを求めた。
破鬟倭墮淩朝寒,白玉燕釵黃金蟬。
経験のない娘に無理矢理迫ったのだろう、その娘の髪は乱れ、矮墮の髪型のままが朝の寒さに耐えている、白玉の燕のかんざし、黄金の蝉の髪飾りをつけて精一杯のおめかしをしてきたのだろう。
風車雨馬不持去,蠟燭啼紅怨天曙。』

年を取ってきたり、ほかの女に気が移ると風の車も雨の車馬でさえもだれも運んでくれることはなくなるのだ。蝋燭は赤い涙を流し、声出して啼いても、明けてゆく大空への怨みを抱くだけなのだ。
右冬


○押韻 下,寡。野。野。子。/概,在。妹。/寒,蟬。/去,曙。


其の四 冬
天の東に日出でて 天の西に下る、雌鳳(しほう)は孤り飛び 女龍(じょりょう)は寡なり。
青渓と白石と相い望まず、堂中遠きこと 蒼梧(そうご)の野より甚だし。
凍壁の霜華(そうか) 交(こも)ごも隠起す、芳根(ほうこん)は中断し香心は死す。
浪乗(ろうじょう)す 画舸(がか)にりて蟾蜍(せんじょ)を憶う、月蛾末だ必ずしも嬋娟(せんけん)子ならず。

楚管(そかん) 蛮絃(ばんげん) 愁いは一概、空域 舞いを罷(や)めて腰支(ようし)在り。
当時の歓びは掌中に銷ゆ、桃葉(とうよう) 桃根(とうこん) 双姉妹。
破鬟(はかん)の倭墮(わだ)朝寒を淩(しの)ぐ,白玉の燕釵(えんさ)黃金の蟬。
風車雨馬 持ち去らず,蠟燭(ろうしょく) 啼紅(ていこう) 天の曙くる を 怨む。』


燕臺詩四首 其四 冬#2 現代語訳と訳註
(本文) 其四 冬

楚管蠻弦愁一概,空城罷舞腰支在。
當時歡向掌中銷,桃葉桃根雙姊妹。
破鬟矮墮淩朝寒,白玉燕釵黃金蟬。
風車雨馬不持去,蠟燭啼紅怨天曙。』


(下し文)
楚管(そかん) 蛮絃(ばんげん) 愁いは一概、空域 舞いを罷(や)めて腰支(ようし)在り。
当時の歓びは掌中に銷ゆ、桃葉(とうよう) 桃根(とうこん) 双姉妹。
破鬟(はかん)の矮墮(わだ)朝寒を淩(しの)ぐ,白玉の燕釵(えんさ)黃金の蟬。
風車雨馬 持ち去らず,蠟燭(ろうしょく) 啼紅(ていこう) 天の曙くる を 怨む。』
右 冬のうた


(現代語訳)
宮廷では楚の曲や指南地方の少数民族の曲も演奏される、どちらも同じように憂愁を催す。滅亡した王朝の城郭には誰もいない、楽曲に合わせて舞踊もされたものだ、それも妖艶な腰の体つきで舞い姿をみせたのだ。
あの頃の歓びというものは王の趣向に迎合して、この掌中で消えていくか細さを求め餓死者さえ出たのだ。あまたの王、富貴が姉妹を妾家として迎えた、あの王獻之の妾家に「桃葉復た桃葉、桃樹は桃根に連なる」といって桃葉・桃根姉妹と同時に歓びを求めた。
経験のない娘に無理矢理迫ったのだろう、その娘の髪は乱れ、矮墮の髪型のままが朝の寒さに耐えている、白玉の燕のかんざし、黄金の蝉の髪飾りをつけて精一杯のおめかしをしてきたのだろう。
年を取ってきたり、ほかの女に気が移ると風の車も雨の車馬でさえもだれも運んでくれることはなくなるのだ。蝋燭は赤い涙を流し、声出して啼いても、明けてゆく大空への怨みを抱くだけなのだ。


(訳注)
楚管蠻弦愁一概,空城罷舞腰支在。

宮廷では楚の曲や指南地方の少数民族の曲も演奏される、どちらも同じように憂愁を催す。滅亡した王朝の城郭には誰もいない、楽曲に合わせて舞踊もされたものだ、それも妖艶な腰の体つきで舞い姿をみせたのだ。
楚管 楚の国の哀愁を帯びる管楽器。○蠻弦 蛮絃:指南地方の少数民族の弦楽器。憂愁を催す。

河内詩二首 其一150- 126

桂林 李商隠 :anbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 42 

潭州 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41

空城 滅亡した王朝の城郭には誰もいないさま。○罷舞 舞踏はもう過去のこととなった。○腰支在 妖艶な腰の体つきで舞い姿をみせた。「宮妓」詩に「披香新殿に腰支を闘わす」というように、踊り子の動きの際立つ部位。薄絹をつけて舞う宮廷での踊りは、頽廃的に性欲に訴えるものであった。


當時歡向掌中銷,桃葉桃根雙姊妹。
あの頃の歓びというものは王の趣向に迎合して、この掌中で消えていくか細さを求め餓死者さえ出たのだ。あまたの王、富貴が姉妹を妾家として迎えた、あの王獻之の妾家に「桃葉復た桃葉、桃樹は桃根に連なる」といって桃葉・桃根姉妹と同時に歓びを求めた。
○歡向 漢・成帝の寵愛を受けた趙飛燕は体が軽く、「掌上に舞う」ことができたという(『自民六帖』など)。また梁の羊侃の妓女張浄琬は腰周りがわずか一尺六寸(四十cm弱)、「掌中の舞い」ができたという(『梁書』羊侃伝)。○桃葉桃根 桃葉は東晋・王献之の愛人。「桃葉歌二首」其二「桃葉復た桃葉、桃樹は桃根に連なる。相憐れむは兩楽事なるに、獨我をして慇懃ならしむ」(『王台新詠』巻十)。そこから後人が桃菓・桃根を姉妹とする附会の説が生まれたと漏浩はいう。『土花漠漠として頽垣を囲み、中にあり桃葉桃根の魂、夜深く踏むことあまねし階下の月、憐れなり羅襪の終に痕なきを。』
「楚王細腰を好み朝に餓人有り」
 お上の好む所に下の者が迎合するたとえで、そのために弊害が生じやすいこと。春秋時代に、楚王が腰の細い美女を好んだので、迎合する官僚、宮女たちは痩せようとして食事をとらなくなり、餓死する者が多く出たという話から。「楚王細腰を好みて宮中餓死多し」ともいう。なお、楚王については、荘王とする説と霊王とする説がある。


破鬟矮墮淩朝寒,白玉燕釵黃金蟬。
経験のない娘に無理矢理迫ったのだろう、その娘の髪は乱れ、矮墮の髪型のままが朝の寒さに耐えている、白玉の燕のかんざし、黄金の蝉の髪飾りをつけて精一杯のおめかしをしてきたのだろう。
矮墮 女性の髪型。楽府「陌上桑」に羅敷の美しさを述べて、「頭上には倭堕の髻、耳中には明月の珠」。「破贅」はそれが乱れていることをいう。悲愁のために憔悴した女性の姿を描く。○白玉 白玉の燕のかんざしのこと。燕釵:「釵頭雙白燕」。
聖女詞 
松篁臺殿蕙香幃、龍護瑤窗鳳掩扉。
無質易迷三里霧、不寒長著五銖衣。
人閒定有崔羅什、天上應無劉武威。
寄問釵頭雙白燕、毎朝珠館幾時歸。
 髪飾り。この二句は聖女詞のイメージそのままである。


風車雨馬不持去,蠟燭啼紅怨天曙。』
女が年を取ってきた、ほかの女に気が移ると風の車も雨の車馬でさえもだれも運んでくれることがなくなるのだ。寵愛を失ったもの、評価をされないもの、蝋燭は赤い涙を流し、声出して啼いても、明けてゆく大空への怨みを抱くだけなのだ。
風車雨馬 風雨が車馬となって彼女を運んではくれない。西晋・博玄「擬北楽府三首」『燕人美篇』(『王台新詠』巻九)「燕人美兮趙女佳,其室則邇兮限層崖。 云爲車兮風爲馬,玉在山兮蘭在野。 云無期兮風有止,思心多端兮誰能理。」(燕人は美なり。其室は近きも雲は車と為り風は馬と為る。) ○蠟燭啼紅 赤い蝋燭が血のような赤い涙を垂れる。じ白居易「夜宴惜別」詩に「燭暗きて紅涙 誰が為にか流す」。


○詩型 七言古詩。
○押韻 下,寡。野。野。子。/概,在。妹。/寒,蟬。/去,曙。


国王の趣向というものが国を滅ぼした。それは、王朝貴族がお上の好む所に下の者が迎合することにある。そのために弊害が生じやすいこと。春秋の楚王が腰の細い美女を好んだので、迎合する官僚、宮女たちは痩せようとし、周りも食事をとらせなかった。餓死する者まで多く出したという。「楚王細腰を好みて宮中餓死多し」ともいうことだ。これに王朝内で、宦官の働きが問題になることが多くあった。
網の目のように情報を集め、美女をかき集めてくるのだ。美人であれば、姉妹ごと天子のもとに送られた。生娘から十数年の間の栄華に一族揚げて送り出したのだ。李商隠は、宮女、妓女のこうした運命と自分を重ねて表現したのだ。



其四 冬 #1
天東日出天西下,雌鳳孤飛女龍寡。
青溪白石不相望,堂上遠甚蒼梧野。
凍壁霜華交隱起,芳根中斷香心死。
浪乘畫舸憶蟾蜍,月娥未必嬋娟子。』
#2
楚管蠻弦愁一概,空城罷舞腰支在。
當時歡向掌中銷,桃葉桃根雙姊妹。」
破鬟倭墮淩朝寒,白玉燕釵黃金蟬。
風車雨馬不持去,蠟燭啼紅怨天曙。』
右冬

○押韻 下,寡。野。野。子。/概,在。妹。/寒,蟬。/去,曙。


毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
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李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

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燕臺詩四首 其四 冬#1 李商隠134 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 134-#1

燕臺詩四首 其四 冬#1 李商隠134 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 134-#1


其四 冬 #1
天東日出天西下,雌鳳孤飛女龍寡。
天により冬を知らされ、東の空から日は昇り、西の空へとまもなく沈むように天子は歿されたのだ。后妃はひとり寂しく大空を飛ぶのであり、龍の女としての存在に連れ添う相手もいなくなった。
青溪白石不相望,堂上遠甚蒼梧野。
青渓の娘であった「玉環」、白石の青年「寿王」はもう向かい合うこともなく、二人の使った奥座敷はもう遠いものとなった、今度は睦まじく鳳凰が棲む蒼梧の野にかわったのだ。
凍壁霜華交隱起,芳根中斷香心死。
凍てついた壁のように何もできない、発言もできなくなった。庭の木々も霜の花をつけるように、白くなり、主張していたいろんな考えも凍ったのだ。王朝内で、改革を呼びかけている者たちが、党派の間で左遷ということで根を断ち切られ、讒言あるいは宦官の策略、宦官の薬、 香木の根も芯も断ち切られ、その芯は死に絶えた。
浪乘畫舸憶蟾蜍,月娥未必嬋娟子。』

みだりにお迎え舟のようにあでやかな船に乗ったとして月の世界を思っても無駄だ、月の婦蛾があの楊貴妃の美しさに及ぶものではない。
#2
楚管蠻弦愁一概,空城罷舞腰支在。
當時歡向掌中銷,桃葉桃根雙姊妹。」
破鬟倭墮淩朝寒,白玉燕釵黃金蟬。
風車雨馬不持去,蠟燭啼紅怨天曙。』
右冬

○押韻 下,寡。野。野。子。/概,在。妹。/寒,蟬。/去,曙。


其の四 冬
天の東に日出でて 天の西に下る、雌鳳(しほう)は孤り飛び 女龍(じょりょう)は寡なり。
青渓と白石と相い望まず、堂中遠きこと 蒼梧(そうご)の野より甚だし。
凍壁の霜華(そうか) 交(こも)ごも隠起す、芳根(ほうこん)は中断し香心は死す。
浪乗(ろうじょう)す 画舸(がか)にて蟾蜍(せんじょ)を憶う、月蛾 末だ 必ずしも嬋娟(せんけん)子ならず。

楚管(そかん) 蛮絃(ばんげん) 愁いは一概、空域 舞いを罷(や)めて腰支(ようし)在り。
当時の歓びは掌中に銷ゆ、桃葉(とうよう) 桃根(とうこん) 双姉妹。
破鬟(はかん)の倭墮(わだ)朝寒を淩(しの)ぐ,白玉の燕釵(えんさ)黃金の蟬。
風車雨馬 持ち去らず,蠟燭(ろうしょく) 啼紅(ていこう) 天の曙くる を 怨む。』




燕臺詩四首 其四 冬#1 現代語訳と訳註
(本文)
其四 冬
天東日出天西下,雌鳳孤飛女龍寡。
青溪白石不相望,堂上遠甚蒼梧野。
凍壁霜華交隱起,芳根中斷香心死。
浪乘畫舸憶蟾蜍,月娥未必嬋娟子。』


(下し文) 其の四 冬
天の東に日出でて 天の西に下る、雌鳳(しほう)は孤り飛び 女龍(じょりょう)は寡なり。
青渓と白石と相い望まず、堂中遠きこと 蒼梧(そうご)の野より甚だし。
凍壁の霜華(そうか) 交(こも)ごも隠起す、芳根(ほうこん)は中断し香心は死す。
浪乗(ろうじょう)す 画舸(がか)にりて蟾蜍(せんじょ)を憶う、月蛾末だ必ずしも嬋娟(せんけん)子ならず。


(現代語訳) 冬 #1
天により冬を知らされ、東の空から日は昇り、西の空へとまもなく沈むように天子は歿されたのだ。后妃はひとり寂しく大空を飛ぶのであり、龍の女としての存在に連れ添う相手もいなくなった。
青渓の娘であった「玉環」、白石の青年「寿王」はもう向かい合うこともなく、二人の使った奥座敷はもう遠いものとなった、今度は睦まじく鳳凰が棲む蒼梧の野にかわったのだ。
凍てついた壁のように何もできない、発言もできなくなった。庭の木々も霜の花をつけるように、白くなり、主張していたいろんな考えも凍ったのだ。王朝内で、改革を呼びかけている者たちが、党派の間で左遷ということで根を断ち切られ、讒言あるいは宦官の策略、宦官の薬、 香木の根も芯も断ち切られ、その芯は死に絶えた。
みだりにお迎え舟のようにあでやかな船に乗ったとして月の世界を思っても無駄だ、月の婦蛾があの楊貴妃の美しさに及ぶものではない。


(訳注) 其四 冬 #1
天東日出天西下,雌鳳孤飛女龍寡。

天により冬を知らされ、東の空から日は昇り、西の空へとまもなく沈むように天子は歿されたのだ。后妃はひとり寂しく大空を飛ぶのであり、龍の女としての存在に連れ添う相手もいなくなった。
天東日出 太陽が東から昇ったと思えばすぐ・天西下 西に下る。冬の日の短さをいう。○雌鳳孤飛  雌鳳は后妃、お相手の天子が死んだことを意味するもの。・女龍寡 英雄を相手に不義をしていた后妃が天子の詩に伴って、不義の相手と会えなくなったことを示す。寡は女性が連れ合いの存在がなくなったこと。 燕臺詩四首 其一 春#1 では「雄龍雌鳳」身分の違う男女交際を詠ったことが関連している。
 
青溪白石不相望,堂上遠甚蒼梧野。
青渓の娘であった「玉環、白石の青年「寿王」はもう向かい合うこともなく、二人の使った奥座敷はもう遠いものとなった、今度は睦まじく鳳凰が棲む蒼梧の野にかわったのだ。
青溪 南朝の「楽府神絃歌の青渓小姑曲のことで、ここでは梁の呉均の「続斉諧記」に出てくる齢若い仙女を指す。会稽の超文韶なる者と、つかのまの歌合せをして消え去ったという。○ 思いをやるきみ。女性が男性を呼ぶ親称。
無題(垂幡深く下ろす)
重幃深下莫愁堂、臥後清宵細細長。
紳女生涯原是夢、小姑居処本無郎。
風波不信菱枝弱、月露誰敦桂葉香。
直道相思了無益、未妨啁悵是清狂。

李商隠 10 無題(重幃深下莫愁堂) 題をつけられない詩。

(莫愁のことを詠う。)其二夏篇も参照燕臺詩四首 其二 夏#1 

白石 「白石即の曲」がある。それに借りて玄宗の子の寿王とその妃の楊環をしめす。○不相望 玄宗に見初められ女道士とならせ、太真と呼んだ。逢うことはできなくなった。○堂上遠甚 大切な座敷を意味する。○蒼梧野 仙界の蒼梧桐は鳳凰の食べ物でこれがないと住まない。玄宗と楊貴妃の愛の巢をしめす。


凍壁霜華交隱起,芳根中斷香心死。
凍てついた壁のように何もできない、発言もできなくなった。庭の木々も霜の花をつけるように、白くなり、主張していたいろんな考えも凍ったのだ。王朝内で、改革を呼びかけている者たちが、党派の間で左遷ということで根を断ち切られ、讒言あるいは宦官の策略、宦官の薬、 香木の根も芯も断ち切られ、その芯は死に絶えた。
凍壁 壁まで凍り付いて身動きが取れないさまを比喩として言う。○霜華 庭の常緑の葉に霜の花。○交隠起 くぼんだり盛り上がったり。○芳根 王朝内で、改革を呼びかけている者たちが、党派の間で左遷ということで根を断ち切られ、讒言あるいは宦官の策略、宦官の薬、 香木の根も芯も枯れる。

浪乘畫舸憶蟾蜍,月娥未必嬋娟子。』
みだりにお迎え舟のようにあでやかな船に乗ったとして月の世界を思っても無駄だ、月の婦蛾があの楊貴妃の美しさに及ぶものではない。
浪乗 浪+動詞 浪費はみだりに~を費やす。ここではみだりに舟に乗ること。○畫舸 彩色を施した船。○蟾蜍 月を指す。河内詩二首 其一 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 126
鼉鼓沈沈虬水咽、秦絲不上蠻絃絶。
常蛾衣薄不禁寒、蟾蜍夜艶秋河月。』
碧城冷落空豪煙、簾輕幕重金鉤欄。
霊香不下兩皇子、孤星直上相風竿。』
八桂林邊九芝草、短襟小鬢相逢道。
入門暗數一千春、願去閏年留月小。』
梔子交加香蓼繁、停辛佇苦留待君。』
(薬を飲んで帰られなくなった嫦娥は薄いころもをまとった月の女神となり寒さに震えている。月は蟾蜍に食べられた三日月になってはつややかに美しい、銀河と月が輝く秋の夜のできごとだ。)
〇月蛾 月のなかに住む嫦娥。李商隠 12 嫦娥詩参照。〇嬋娟 美しいこと。・嬋娟子で美女。月まで婦娥、嫦娥を連れて帰ったとしても楊貴妃の美しさと比べることさえできない。

燕臺詩四首 其三 秋#2 李商隠133 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 131-#2

燕臺詩四首 其三 秋#2 李商隠133 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 131-#2

其三 秋 -#2
月浪衡天天宇濕,涼蟾落盡疏星入。
雲屏不動掩孤嚬,西樓一夜風箏急。」
欲織相思花寄遠,終日相思卻相怨。
但聞北斗聲回環,不見長河水清淺。」
金魚鎖斷紅桂春,古時塵滿鴛鴦茵。
堪悲小苑作長道,玉樹未憐亡國人。』
瑤琴愔愔藏楚弄,越羅冷薄金泥重。
湘妃が洞庭の月夜に瑟を鼓(ひ)く、玉の琴は愔愔と静かな調べに楚の国の響きを籠められている、越のうすぎぬは秋の冷さのなかで透き通り金泥の模様は重厚なものなのだ。
簾鉤鸚鵡夜驚霜,喚起南雲繞雲夢。」
すだれの鉤のような月の夜、鸚鵡は夜の霜の降りる寒さに驚いた、思い起こすのは、南の雲のもと、仙人に招かれ雲夢の沢をめぐった日々もあった。
璫璫丁丁聯尺素,內記湘川相識處。
湘霊が奏でる五十舷の瑟のしらべ、耳飾りの音もかすかに響いてくる、耳飾りを手紙に結び、そこに瀟湘のあたりで知り合った時のことを綴る。
歌唇一世銜雨看,可惜馨香手中故。』

口ずさむ歌、いつまでも涙ながらに読み続けることだろう。しかし無念にも手紙にかき込められた香は、手のなかでしだいに失せていくのだ。


入。急。」/遠,怨。淺。」/春,茵。人。』/弄,重。夢。/素,處。故。』

其の三 秋
月浪(げつろう) 天を衡(う)ち 天宇(てんう)湿る、涼蟾(りょせん) 落ち盡くして疏星(そせい)入る。
雲屏は不動かず 孤嚬(こひん)を掩う,西樓 一夜 風箏 急なり。」
相思の花を織りて遠くに寄せんと欲するも、終日相い思えば却って相い怨む。
但だ北斗の声の廻環するを聞き、長河の水の清浅なるを見ず。
金魚の鎖は断つ 紅桂の春、古時の塵は満つ 鴛鴦(えんおう)の茵(しとね)。
悲しむに堪えん小苑 長道と作るを,玉樹未だ憐まず 亡国の人。』
揺瑟(ようしつ)愔愔(いんいん)として楚弄(そろう)藏す,越羅(えつら)冷薄にして金泥は重し。
簾鉤(れんこう)鸚鵡(おうむ) 夜 霜に驚き,喚び起こす 南雲 雲夢(うんぼう)を繞(めぐ) るを。」
璫璫(とうとう)丁丁(ちょうちょう) 尺素に聯(つら)なる,內には記(しる)す 湘川(しょうせん) 相 識る處。
歌唇 一世 雨を銜(ふく)みて看ん,惜むべし 馨香(けいこう) 手中に故(ふる)びたり。」


燕臺詩四首 其三 秋#2 現代語訳と訳註
(本文)
其三 秋-#2
瑤琴愔愔藏楚弄,越羅冷薄金泥重。
簾鉤鸚鵡夜驚霜,喚起南雲繞雲夢。」
璫璫丁丁聯尺素,內記湘川相識處。
歌唇一世銜雨看,可惜馨香手中故。』



(下し文) 其の三 秋-#2
揺瑟(ようしつ)愔愔(いんいん)として楚弄(そろう)藏す,越羅(えつら)冷薄にして金泥は重し。
簾鉤(れんこう)鸚鵡(おうむ) 夜 霜に驚き,喚び起こす 南雲 雲夢(うんぼう)を繞(めぐ) るを。」
璫璫(とうとう)丁丁(ちょうちょう) 尺素に聯(つら)なる,內には記(しる)す 湘川(しょうせん) 相 識る處。
歌唇 一世 雨を銜(ふく)みて看ん,惜むべし 馨香(けいこう) 手中に故(ふる)びたり。」

(現代語訳)
湘妃が洞庭の月夜に瑟を鼓(ひ)く、玉の琴は愔愔と静かな調べに楚の国の響きを籠められている、越のうすぎぬは秋の冷さのなかで透き通り金泥の模様は重厚なものなのだ。
すだれの鉤のような月の夜、鸚鵡は夜の霜の降りる寒さに驚いた、思い起こすのは、南の雲のもと、仙人に招かれ雲夢の沢をめぐった日々もあった。
湘霊が奏でる五十舷の瑟のしらべ、耳飾りの音もかすかに響いてくる、耳飾りを手紙に結び、そこに瀟湘のあたりで知り合った時のことを綴る。
口ずさむ歌、いつまでも涙ながらに読み続けることだろう。しかし無念にも手紙にかき込められた香は、手のなかでしだいに失せていくのだ。



(訳注) 秋のうた#2
瑤琴愔愔藏楚弄,越羅冷薄金泥重。
湘妃が洞庭の月夜に瑟を鼓(ひ)く、玉の琴は愔愔と静かな調べに楚の国の響きを籠められている、越のうすぎぬは秋の冷さのなかで透き通り金泥の模様は重厚なものなのだ。
瑤琴 玉で装飾した瑟。美しい玉。また、玉のように美しい。湘妃が洞庭の月夜に瑟を鼓くという古伝説○愔愔 穏やかな音の形容。『左氏伝』昭公十二年に「其の詩に目く、祈招の愔愔たる、式て徳音を昭らかにす」。○楚弄 楚の国の曲。「弄」は演奏することから楽曲をいう。○越羅 越の国の羅(薄い絹織物)は蜀の錦とならぶ名品とされた。○金泥 金の顔料。金泥で羅の衣に図案を描く。
涙  李商隠

(劉蕡・賈誼について)
簾鉤鸚鵡夜驚霜,喚起南雲繞雲夢。」
すだれの鉤のような月の夜、鸚鵡は夜の霜の降りる寒さに驚いた、思い起こすのは、南の雲のもと、仙人に招かれ雲夢の沢をめぐった日々もあった。
南雲 南の空の雲。遠く南方にいる親しい人を思う気持ちをあらわす。西晋・陸機「親を思う賦」 に「南雲を指して款を寄す」。○雲夢 雲夢の沢。夢澤 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-72 (楚王の戦争への負担、豪奢、趣向などによる人民の苦しみを与えたことへ批判したものである。)

七月二十八日夜與王鄭二秀才聽雨後夢作 李商隠  : 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-79


璫璫丁丁聯尺素,內記湘川相識處。
湘霊が奏でる五十舷の瑟のしらべ、耳飾りの音もかすかに響いてくる、耳飾りを手紙に結び、そこに瀟湘のあたりで知り合った時のことを綴る。
璫璫 一対の耳飾り。○丁丁 玉が触れ合う音。○尺素 手紙をいう詩語。長さ一尺のしろぎぬに書いたので尺素という。古楽府「飲馬長城窟行」に「児を呼びて鯉魚を君れば、中に尺素の書有り」。○湘川相識処 湘水のあたりで知り合った時のこと。
参照 李商隠「潭州」、「涙」

安定城樓  紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-75

楚宮 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 55


歌唇一世銜雨看,可惜馨香手中故。」
口ずさむ歌、いつまでも涙ながらに読み続けることだろう。しかし無念にも手紙にかき込められた香は、手のなかでしだいに失せていくのだ。
歌唇一世 手紙の歌をいつまでも口ずさみながら読む。「一生」はいつまでも。○馨香 ここでは箋紙に付いた
香り。二人の恋が過去のものとなっていくことを象徴する。正当な発言も時とともに色あせ、忘れ去られていく。○手中故


(解説)

○詩型・押韻 七言古詩。
○押韻 入。急。」/遠,怨。淺。」/春,茵。人。』/弄,重。夢。/素,處。故。』

此の篇は李商隠「安定城樓」のイメージを異なった言い回しで詠っている。李商隠の王朝批判のせんとうにあるものの基本は宦官による讒言に対して、なすすべを持たない天子、高級官僚たちに向けられている。諸悪の根源を宦官としている。この宦官が日に日に増殖してゆくアメーバ―の様なものである。そのジレンマの中で牛李の闘争がなされている。天子はそれを直視しないで奢侈、頽廃に耽っていく。歴代の王朝が辿って来た道も、同様なものである。


燕臺詩四首 其三 秋 #1と#2

其三 秋
月浪衡天天宇濕,涼蟾落盡疏星入。
雲屏不動掩孤嚬,西樓一夜風箏急。」
欲織相思花寄遠,終日相思卻相怨。
但聞北斗聲回環,不見長河水清淺。」
金魚鎖斷紅桂春,古時塵滿鴛鴦茵。
堪悲小苑作長道,玉樹未憐亡國人。』
瑤琴愔愔藏楚弄,越羅冷薄金泥重。
簾鉤鸚鵡夜驚霜,喚起南雲繞雲夢。」
璫璫丁丁聯尺素,內記湘川相識處。
歌唇一世銜雨看,可惜馨香手中故。」

入。急。」/遠,怨。淺。」/春,茵。人。』/弄,重。夢。/素,處。故。』



其の三 秋
月浪(げつろう) 天を衡(う)ち 天宇(てんう)湿る、涼蟾(りょせん) 落ち盡くして疏星(そせい)入る。
雲屏は不動かず 孤嚬(こひん)を掩う,西樓 一夜 風箏 急なり。」
相思の花を織りて遠くに寄せんと欲するも、終日相い思えば却って相い怨む。
但だ北斗の声の廻環するを聞き、長河の水の清浅なるを見ず。
金魚の鎖は断つ 紅桂の春、古時の塵は満つ 鴛鴦(えんおう)の茵(しとね)。
悲しむに堪えん小苑 長道と作るを,玉樹未だ憐まず 亡国の人。』
揺瑟(ようしつ)愔愔(いんいん)として楚弄(そろう)藏す,越羅(えつら)冷薄にして金泥は重し。
簾鉤(れんこう)鸚鵡(おうむ) 夜 霜に驚き,喚び起こす 南雲 雲夢(うんぼう)を繞(めぐ) るを。」
璫璫(とうとう)丁丁(ちょうちょう) 尺素に聯(つら)なる,內には記(しる)す 湘川(しょうせん) 相 識る處。
歌唇 一世 雨を銜(ふく)みて看ん,惜むべし 馨香(けいこう) 手中に故(ふる)びたり。」


(現代語訳)
月の光が江の上にかかり、北斗七星の第五星「玉衡」は、天空を濡らしている。そうしていると秋の月は沈んでしまった、夜の明けきらぬ早朝の内に宮中に入る。
雲母の屏風がある、身じろぎもせず、口などをゆがめ、眉をひそめた顔に包まれた。そしてその夜の間西の高楼台に、風雲急を告げる凧があげられた。
相思樹の花を織り込んで遠くのあの人に送りたいけれど、一日中織り込んでいて思い続ければ、かえって怨みが募る。
今はただ聞こえてくるのは天子の座を示す北斗星あり、その周りを玉環の魂や、天牢六星が冤魄をともなって回っている、悲しみの声がするのだ、これだけ多くの行きたいという魂が多いと天の川が渡れるほど浅くなっているのは見たことがないだろう。
黄金の魚型の錠前が鎖されて金木犀の咲きほこった庭にだれもいない、かつて伴にした鴛鴦の褥には塵が厚く積もっている。
悲しみを耐えていたあの宮殿の中庭が今では大通りに変わってしまったのだ。陳の後主は「玉樹後庭歌」のように宮女ばかりにかまけて国を亡ぼした人に憐れを覚えるはずがない。
湘妃が洞庭の月夜に瑟を鼓(ひ)く、玉の琴は愔愔と静かな調べに楚の国の響きを籠められている、越のうすぎぬは秋の冷さのなかで透き通り金泥の模様は重厚なものなのだ。
すだれの鉤のような月の夜、鸚鵡は夜の霜の降りる寒さに驚いた、思い起こすのは、南の雲のもと、仙人に招かれ雲夢の沢をめぐった日々もあった。
湘霊が奏でる五十舷の瑟のしらべ、耳飾りの音もかすかに響いてくる、耳飾りを手紙に結び、そこに瀟湘のあたりで知り合った時のことを綴る。
口ずさむ歌、いつまでも涙ながらに読み続けることだろう。しかし無念にも手紙にかき込められた香は、手のなかでしだいに失せていくのだ。

参考---------------------------------
○湘妃 鼓宏舜の妻、蛾皇・女英の二人が舜王のあとを追いかけ湘水までゆき、舜の死んだことをきき、湘水に身をなげて死に、湘水の女神となった。それが湘妃であり、この湘妃が洞庭の月夜に瑟を鼓くという古伝説がある。○斑竹 斑紋のある竹、湘水の地方に産する。その竹は湘妃が涙を流したあとに生じたものであるとの伝説がある。○江 湘江をさす。 

蛾皇と女英の故事にもとづく。古代の帝王舜は南方巡行の途中、蒼梧(湖南省寧遠県付近の山)で残した。二人の妃、蛾皇と女英は舜を追い求めて湘江のあたりまで来たが、二人の涙がこぼれた。竹はまだらに染まった。そのためこの地の竹には斑紋がついているという(『博物志』、『述異記』)。湘江は長抄の西を通って洞庭湖に注ぐ。「浅深」はあるいは浅くあるいは深く、まだらになっていることをいう。


安定城樓
迢逓高城百尺樓、綠楊枝外盡汀洲。
賈生年少虚垂涕、王粲春來更遠遊。
永憶江湖歸白髪、欲廻天地人扁舟。
不知腐鼠成滋味、猜意鴛雛竟未休。



燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠132 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 131-#1

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠132 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 131-#1


其三 秋
月浪衡天天宇濕,涼蟾落盡疏星入。
月の光が江の上にかかり、北斗七星の第五星「玉衡」は、天空を濡らしている。そうしていると秋の月は沈んでしまった、夜の明けきらぬ早朝の内に宮中に入る。
雲屏不動掩孤嚬,西樓一夜風箏急。」
雲母の屏風がある、身じろぎもせず、口などをゆがめ、眉をひそめた顔に包まれた。そしてその夜の間西の高楼台に、風雲急を告げる凧があげられた。
欲織相思花寄遠,終日相思卻相怨。
相思樹の花を織り込んで遠くのあの人に送りたいけれど、一日中織り込んでいて思い続ければ、かえって怨みが募る。
但聞北斗聲回環,不見長河水清淺。」
今はただ聞こえてくるのは天子の座を示す北斗星あり、その周りを玉環の魂や、天牢六星が冤魄をともなって回っている、悲しみの声がするのだ、これだけ多くの行きたいという魂が多いと天の川が渡れるほど浅くなっているのは見たことがないだろう。
金魚鎖斷紅桂春,古時塵滿鴛鴦茵。
黄金の魚型の錠前が鎖されて金木犀の咲きほこった庭にだれもいない、かつて伴にした鴛鴦の褥には塵が厚く積もっている。
堪悲小苑作長道,玉樹未憐亡國人。』-
#1
悲しみを耐えていたあの宮殿の中庭が今では大通りに変わってしまったのだ。陳の後主は「玉樹後庭歌」のように宮女ばかりにかまけて国を亡ぼした人に憐れを覚えるはずがない。
瑤琴愔愔藏楚弄,越羅冷薄金泥重。
簾鉤鸚鵡夜驚霜,喚起南雲繞雲夢。」
璫璫丁丁聯尺素,內記湘川相識處。
歌唇一世銜雨看,可惜馨香手中故。』-
#2

入。急。」/遠,怨。淺。」/春,茵。人。』/弄,重。夢。/素,處。故。』

其の三 秋
月浪(げつろう)  衡天(こうてん) 天宇(てんう)湿る、涼蟾(りょせん) 落ち盡(つく)して 疏星(そせい)に入る。
雲屏は不動かず 孤嚬(こひん)を掩う,西樓 一夜 風箏 急なり。」
相思の花を織り 遠くに寄せんと欲するも、終日 相思 却って相怨なる。
但 北斗 廻環する声を聞き、長河 水 清浅 を見(おぼえ)ず。
金魚の鎖は断つ 紅桂の春、古時の塵は満つ 鴛鴦(えんおう)の茵(しとね)。
悲しむに堪えん小苑 長道と作る,玉樹未だ憐まず 亡国の人。』-#1
揺瑟(ようしつ)愔愔として楚弄(そろう)藏す,越羅冷薄にして金泥は重し。
簾鉤(ちょうら)鸚鵡(おうむ) 夜 霜に驚き,喚び起こす 南雲 雲夢(うんぼう)を繞(めぐ) るを。」
璫璫(とうとう)丁丁(ちょうちょう) 尺素に聯(つら)なる,內には記(しる)す 湘川(しょうせん) 相 識る處。
歌唇 一世 雨を銜(ふく)みて看ん,惜むべし 馨香(けいこう) 手中に故(ふる)びたり。」


燕臺詩四首 其三 現代語訳と訳註
(本文)
 秋-#1
月浪衡天天宇濕,涼蟾落盡疏星入。
雲屏不動掩孤嚬,西樓一夜風箏急。」
欲織相思花寄遠,終日相思卻相怨。
但聞北斗聲回環,不見長河水清淺。」
金魚鎖斷紅桂春,古時塵滿鴛鴦茵。
堪悲小苑作長道,玉樹未憐亡國人。』-#1

(下し文)
月浪(げつろう)  衡天(こうてん) 天宇(てんう)湿る、涼蟾(りょせん) 落ち盡(つく)して 疏星(そせい)に入る。
雲屏は不動かず 孤嚬(こひん)を掩う,西樓 一夜 風箏 急なり。」
相思の花を織り 遠くに寄せんと欲するも、終日 相思 却って相怨なる。
但 北斗 廻環する声を聞き、長河 水 清浅 を見(おぼえ)ず。
金魚の鎖は断つ 紅桂の春、古時の塵は満つ 鴛鴦(えんおう)の茵(しとね)。
悲しむに堪えん小苑 長道と作る,玉樹未だ憐まず 亡国の人。』-#1

(現代語訳)
月の光が江の上にかかり、北斗七星の第五星「玉衡」は、天空を濡らしている。そうしていると秋の月は沈んでしまった、夜の明けきらぬ早朝の内に宮中に入る。
雲母の屏風がある、身じろぎもせず、口などをゆがめ、眉をひそめた顔に包まれた。そしてその夜の間西の高楼台に、風雲急を告げる凧があげられた。
相思樹の花を織り込んで遠くのあの人に送りたいけれど、一日中織り込んでいて思い続ければ、かえって怨みが募る。
今はただ聞こえてくるのは天子の座を示す北斗星あり、その周りを玉環の魂や、天牢六星が冤魄をともなって回っている、悲しみの声がするのだ、これだけ多くの行きたいという魂が多いと天の川が渡れるほど浅くなっているのは見たことがないだろう。
黄金の魚型の錠前が鎖されて金木犀の咲きほこった庭にだれもいない、かつて伴にした鴛鴦の褥には塵が厚く積もっている。
悲しみを耐えていたあの宮殿の中庭が今では大通りに変わってしまったのだ。陳の後主は「玉樹後庭歌」のように宮女ばかりにかまけて国を亡ぼした人に憐れを覚えるはずがない。


(訳注) 秋のうた#1
太和9年11月晩秋、「甘露の変」「楊貴妃」「陳の後主」
月浪衡天天宇濕,涼蟾落盡疏星入。
月の光が江の上にかかり、北斗七星の第五星「玉衡」は、天空を濡らしている。そうしていると秋の月は沈んでしまった、夜の明けきらぬ早朝の内に宮中に入る。
月浪 月の光が江の上にかかる。李商隠「贈劉司戸蕡」*-1参照 を連想させる。
衡天 北斗七星の第五星は玉衡を示すもの。王座ののこと。○天宇 天空。西普・左思「魂都賦」(『文選』巻六)に「天宇骸き、地塵驚く」。○涼蟾 秋の月をいう。月のなかには轄蛤(ひきがえる)がいると考えられたことから、「蟾」は月の別称に用いられる。○疏星 まばらな星。夜の明けきらぬ早朝。宮中で臣下を集めて催す行事朝礼。
*李商隠は首聯が詩題の舞台、この詩の舞台設定をあらわすように使用している。この朝礼で、「瑞兆として甘露が降った」と上奏し、宦官が確認に行くのでその時、宦官を一網打尽にするという策略を示す

雲屏不動掩孤嚬,西樓一夜風箏急。」
雲母の屏風がある、身じろぎもせず、口などをゆがめ、眉をひそめた顔に包まれた。そしてその夜の間、西の高楼台(鳳翔)に、風雲急を告げる凧があげられた。
雲屏 雲母の屏風。「常蛾」詩参照。
雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。
嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。
西亭 李商隠30 西亭に関する新解釈
孤噸 ひとり、眉をひそめた顔。嚬:ひそむ=顰む. 1 口などがゆがむ。2 べそをかく。○西樓 鄭注が鳳翔より兵を率いて粛清する予定であったことをしめす。○風箏 凧のこと。客家の八角風箏と呼ばれる凧。

欲織相思花寄遠,終日相思卻相怨。
相思樹の花を織り込んで遠くのあの人に送りたいけれど、一日中織り込んでいて思い続ければ、かえって怨みが募る。
相思花 相思樹の花。相思樹は蝿蝶鶏麝鸞鳳等 成篇 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-84(蝿蝶鶏蔚鸞鳳等もて篇を成す)詩注参照。
蝿蝶鶏蔚鸞鳳等成篇
韓蝶翻羅幕、曹蝿沸給囱。
闘鶏廻玉勒、融麝暖金紅。
玳瑁明書閣、琉璃冰酒缸。
畫樓多有主、鸞鳳各雙雙。


但聞北斗聲回環,不見長河水清淺。」
今はただ聞こえてくるのは天子の座を示す北斗星あり、その周りを玉環の魂や、天牢六星が冤魄をともなって回っている、悲しみの声がするのだ、これだけ多くの行きたいという魂が多いと天の川が渡れるほど浅くなっているのは見たことがないだろう。
聲回環 北斗星が北極星のまわりを回る。廻環は死んだ楊貴妃(玉環)が回る。 また、天牢六星が冤魄をともなって回っている。 *-2
長河水清淺 牽牛と織女が天の川を隔てて見つめ合い、「河漢清くして且つ浅し、相い去ること復た幾許ぞ」と、すぐそこにあって水かさも浅いのに渡れないという思いをうたうが、ここでも男女を隔てる川を渡るすべもないことをいうが、冤魄うずまき、水深が浅くなったことをいう。

金魚鎖斷紅桂春,古時塵滿鴛鴦茵。
黄金の魚型の錠前が鎖されて金木犀の咲きほこった庭にだれもいない、かつて伴にした鴛鴦の褥には塵が厚く積もっている。
金魚鎖斷 「金魚」は金色に輝く魚のかたちをした錠前。○紅桂春 紅桂は丹桂、キンモクセイで秋の季語。春は回春の情をいう。○古時 陳の後宮、かつての時。「鴛鴦薗」はおしどりの刺繍をほどこしたしとね。会わなくなって久しいことをいう。河内詩二首
 
堪悲小苑作長道,玉樹未憐亡國人。』
悲しみを耐えていたあの宮殿の中庭が今では大通りに変わってしまったのだ。陳の後主は「玉樹後庭歌」のように宮女ばかりにかまけて国を亡ぼした人に憐れを覚えるはずがない。
堪悲小苑 悲しみを知っている、ともに過ごした思い出のある宮殿の庭が、今では人の行き交う道になってしまっている。○玉樹 「玉樹」は歓楽に溺れ国を亡ぼした陳の後主が作った「玉樹後庭歌」。「南朝(玄武湖中)」南朝(梁・元帝) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 47南 朝 (南斉の武帝と陳の後主)李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 46(宋・南斉・陳の宮廷における逸楽を繰り広げるが、この「南朝」詩は梁を舞台とする。)
また隋宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 49

----- *-1 *-2 --------------------------------

*-1 贈劉司戸蕡
江風揚浪動雲根、重碇危檣白日昏。
已断燕鴻初起勢、更驚騒客後歸魂。
漢廷急詔誰先入、楚路高歌自欲翻。
寓里相逢歓復泣、鳳巣西隔九重門。

はげしく大江を吹く風は、波を措きあげ、遠く水平線で水と接する雲の裾も、その波に揺れ動く。舟の重量しい錨、高い帆柱も、ものすさまじい風に翻弄されて真昼にもなおうす暗い危険な船旅に託するようにして去っていった。
ふるさとの燕の国から飛び立たんとしたその鴻の初めの威勢よい翼も、陰険な世の風にへし折られてしまった。その上、更に南の柳州に追いやる命令がきて、昔、むなしく南方にとどまっていつまでも都へ帰れなかった屈原の亡魂を、驚かすというようなことになった。宦官の巣食った漢の朝廷でも、いや唐の朝廷は一体誰を呼び戻そうとするのだろう。
誰よりも先に、漢の孝文帝が賈誼をよび戻したように、よび戻す人物は君であるはずだ。都を離れた楚の地方から柳州まで行く道すがら、かつて接輿がいつわり狂ってそうしたように、ただひとり声高らかに歌う君の声が風にひるがえり大空に飛び散ることだろう。

万里の彼方で、偶然めぐり会って涙ながらに歓んだのに、また万里の僻地に別離の涙を流している。天子を宦官たちに取り巻かれた朝廷は、もはや無縁のものとして遙か西の方に隔絶されてしまった。その九重の門によって閉ざしてしまった。

*-2
○天牢鎖冤魄 古代中国には、「太陽星」「太陰星」「先天五行星」「九宫星」「黄道十二守護星」「南斗七星」「北斗七星」「二十八宿群星」「天罡三十六星」「地煞七十二星」「三百六十五大周天星斗」および十万八千の副星によって天(宇宙)が形成されている、という考えがあった。それぞれの星に神がいて名前を持っている、とされており、当然「天罡三十六星」「地煞七十二星」にも名前がある。天罡星のひとつに天牢星がある。『晋書』天文志に「天牢六星は北斗の魁(星の名)の下に在り、貴人の牢なり」。・冤塊は本来無実の罪で死んだ人の魂。非業の死を遂げた者の魂。張飛は配下の武将の手によって業半ばで殺された、また、全戦全勝の武将であるのに身分差別に不当な仕打ちを受けたことが李商隠と重なる。死んだのちに劉備に報いた話もある。
李商隠 無 題
萬里風波一葉舟、憶歸初罷更夷猶。
碧江地没元相引、黄鶴沙邊亦少留。
益徳冤魂終報主、阿童高義鎮横秋。
人生豈得長無謂、懐古思郷共白頭。

燕臺詩四首 其一
春#1
風光冉冉東西陌,幾日嬌魂尋不得。
蜜房羽客類芳心,冶葉倡條遍相識。』
暖藹輝遲桃樹西,高鬟立共桃鬟齊。
雄龍雌鳳杳何許?絮亂絲繁天亦迷。』
醉起微陽若初曙,映簾夢斷聞殘語。
愁將鐵網罥珊瑚,海闊天寬迷處所。』
衣帶無情有寬窄,春煙自碧秋霜白。
研丹擘石天不知,願得天牢鎖冤魄。』
夾羅委篋單綃起,香肌冷襯琤琤珮。
今日東風自不勝,化作幽光入西海。』

燕臺詩四首 其二 夏#2 李商隠131 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 130-#2

燕臺詩四首 其二 夏#2 李商隠131 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 130-#2

燕臺詩(えんだいし) 四首 李商隠

棄てられた芸妓のこと、思いが伝わらない芸妓、そのやるせない思いは政治の中で正当に評価されなかったものとおなじなのだ。舞台は燕の国の王朝、実際には唐王朝の淫乱、頽廃、そして陰湿な讒言など、四季に分けて詠っている。恋歌とみせかけ、その裏にこっそりと王朝批判をしている。


其 二
前閣雨簾愁不巻、後堂芳樹陰陰見。
石城景物類黄泉、夜半行郎空柘彈。」
綾扇喚風閶闔天、軽帷翠幕波淵旋。
蜀魂寂寞有伴未、幾夜瘴花開木棉。』-
#1
桂宮流影光難取、嫣薫蘭破軽軽語。
月の宮から月影は漏れるけれどその光に触れることはもうできない。あの楊貴妃のかぐわしい蘭は微笑み、ひそやかな言葉「七夕笑牽牛」(七夕に牽牛を笑う)とつぶやいたのだ。の宮から月影は漏れるけれどその光に触れることはもうできない。あの楊貴妃のかぐわしい蘭は微笑み、ひそやかな言葉をつむぎ出す。
直教銀漢堕懐中、未遣星妃鎭來去。」
牽牛と織姫の伝説はあるが、いっそのこと、自分の子の妃である織姫を銀河ごと自分の懐中に引き込ませた玄宗であった、そしてそのまま織女をなんにもなかったかのようにずっと引き留めておいたのだ。
濁水清波何異源、済河水清黄河渾。
濁流も清流もその源になんの違いがあるのか。それなのに済河の流れは清く黄河は濁っているというのだろう。
安得薄霧起緗裙、手接雲輧呼大君。』-
#2
どうすれば叶うのだろう、浅黄色の裳にうっすらと霞がおおっているなかに立つ人がいる、空翔る車に娘を差出し、親しく「太君」と呼びかけている。
右夏

巻、見。彈。/天、旋。棉。』/取、語。去。/源、渾。君。

其の二
前閣の雨簾 愁いて巻かず、後堂の芳樹 陰陰として見ゆ。
石城の景物 黄泉に類し、夜半の行郎 空しく柘彈(しゃだん)す。
綾扇(りょうせん) 風を喚ぶ 閶闔(しょうこう)の天、軽帷(けいい) 翠幕(すいばく) 波 淵旋(えんせん)す。
蜀魂(しょくこん) 寂寞(せきばく)たり 伴有るや未だしや、幾夜か 瘴花(しょうか)を 木棉(もくめん)を開く。』

#2
桂宮 影を流すも光は取り難し、嫣薫(えんくん)として蘭は破る 軽軽たる語。
直 (ただ) 銀漢(ぎんかん)をして懐中に堕とさしめ、未だ星妃(せいひ)をして鎭(とわ)に来去(らいきょ)せしめず。
濁水(だくすい) 清波(せいは) 何ぞ源を異にするや、済河(せいか)は水清く 黄河は渾(にご)る。
安くんぞ得ん 薄霧(はくむ) 緗裙(しょうくん)に起こり、手ずから雲輧(うんべい)に接して太君と呼ぶを。
右夏

燕臺詩四首 其二 夏#2 現代語訳と訳註
(本文)

桂宮流影光難取、嫣薫蘭破軽軽語。
直教銀漢堕懐中、未遣星妃鎭來去。」
濁水清波何異源、済河水清黄河渾。
安得薄霧起緗裙、手接雲輧呼大君。』-#2
右夏

(下し文) #2
桂宮 影を流すも光は取り難し、嫣薫(えんくん)として蘭は破る 軽軽たる語。
直 (ただ) 銀漢(ぎんかん)をして懐中に堕とさしめ、未だ星妃(せいひ)をして鎭(とわ)に来去(らいきょ)せしめず。
濁水(だくすい) 清波(せいは) 何ぞ源を異にするや、済河(せいか)は水清く 黄河は渾(にご)る。
安くんぞ得ん 薄霧(はくむ) 緗裙(しょうくん)に起こり、手ずから雲輧(うんべい)に接して太君と呼ぶを。


(現代語訳) (桂宮は玄宗と楊貴妃の宮殿、 梧桐の葉のもとで)
月の宮から月影は漏れるけれどその光に触れることはもうできない。あの楊貴妃のかぐわしい蘭は微笑み、ひそやかな言葉「七夕笑牽牛」(七夕に牽牛を笑う)とつぶやいたのだ。牽牛と織姫の伝説はあるが、いっそのこと、自分の子の妃である織姫を銀河ごと自分の懐中に引き込ませた玄宗であった、そしてそのまま織女をなんにもなかったかのようにずっと引き留めておいたのだ。
濁流も清流もその源になんの違いがあるのか。それなのに済河の流れは清く黄河は濁っているというのだろう。
どうすれば叶うのだろう、浅黄色の裳にうっすらと霞がおおっているなかに立つ人がいる、空翔る車に娘を差出し、親しく「太君」と呼びかけている。



(訳注)#2
桂宮流影光難取、嫣薫蘭破軽軽語。

月の宮から月影は漏れるけれどその光に触れることはもうできない。あの楊貴妃のかぐわしい蘭は微笑み、ひそやかな言葉「七夕笑牽牛」(七夕に牽牛を笑う)とつぶやいたのだ。
桂宮 月の中には桂の木があると伝えられることから月の宮をいう。梧桐の葉に棲む鳳凰のつがい。玄宗と楊貴妃。○嫣薫 色あざやなに香高イランのような女性が微笑む。 嫣:にっこりほほえむ。色あざやかなさま。美女の笑うさま。薫り高い蘭の花が開くのと女性がにっこりほほえみながら口を開くのとを重ねる。楊貴妃を言う。「七夕笑牽牛」李商隠『馬嵬』馬嵬二首(絶句) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 50


直教銀漢堕懐中、未遣星妃鎭來去。」
牽牛と織姫の伝説はあるが、いっそのこと、自分の子の妃である織姫を銀河ごと自分の懐中に引き込ませた玄宗であった、そしてそのまま織女をなんにもなかったかのようにずっと引き留めておいたのだ。
銀漢 天の川。○星妃 織女。○ 常に、永遠に。二句は天の川を懐中に入れることによって織女を自分のもとに引き留めておきたいの意。

濁水清波何異源、済河水清黄河渾。
濁流も清流もその源になんの違いがあるのか。なのに済河の流れは清く黄河は濁っているというのだろう。
済河水清 済水と黄河は古代の四溝(四つの大河)に数えられる。済水は清く黄河は濁っていたとされる。『戦国策』燕策に「斉に清済と濁河有り」。済水は河南省済源県に発して東流し、海に流れ込んでいたが、のちに黄河と重なって、今では一部がのこるのみ。済水(さいすい)は、中国河南省済源市区西北に源を発している。済源市の名称はまさにここからきている。俗称は大清河。済水は、古来はほかの大河と交わらず海に流れており、江水(長江)、河水(黄河)、淮水(淮河)とともに「華夏四瀆」と称された。済水の水源地は、済源市の済瀆廟(さいとくびょう)。黄河が流れを変えた為、今日の黄河下流は当時の済水の河道である。済水の流れは済源市を発し済南市で黄河に交わる。
現在の黄河と渭水の合流点でも清濁、はっきりしている。どちらにしても王朝内の清濁は儒教者の精に対して、淫乱、頽廃の宮廷は濁水ということである。


安得薄霧起緗裙、手接雲輧呼太君。』
どうすれば叶うのだろう、浅黄色の裳にうっすらと霞がおおっているなかに立つ人がいる、空翔る車に娘を差出し、親しく「太君」と呼びかけている。
緗裙 浅黄色の絹でこしらえた裳。○雲輧 雲輧はとばりで囲った女性の乗る車。仙女にみたてるので「雲」の語を冠する。○太君 高級官僚の妻の称号であるが、ここでは仙女の意味で用いる。楊貴妃は女道士「太真」と呼ばれてその後「貴妃」となった。
縑緗 書物の表装に使う薄い絹。また、書物・書籍。
「天宝十五載六月十四日、近衛兵は禍の根は楊貴妃にあると、憤怒していっせいに馬を駐め、楊貴妃がくびり殺されるまで、もはや前に進もうとはしなかった。かつて七夕の宵、高楼によりそいつつ、玄宗と場景妃は、一年に一度しか織女にあえぬ牽牛の運命を笑い、瀬世夫婦となって共に住もうと誓い合ったのだったが。」
右 夏のうた

○詩型 七言古詩。
○押韻 巻、見。彈。/天、旋。棉。』/取、語。去。/源、渾。君。



鸞鳳 現代語訳と訳註 解説
(本文)
舊鏡鸞何處、衰桐鳳不棲。
金銭饒孔雀、錦段落山雞。
王子調清管、天人降紫泥。
豈無雲路分、相望不應迷。

舊鏡鸞何處、衰桐鳳不棲。
古い曇った鏡がある、そこに姿を映して鳴き続けていた鸞はどこへ行ったのだろうか。枯れ衰えた桐には、もう鳳凰が棲みつくことなどありはしないのだ。
○舊鏡鸞何處 ・鸞という鳥は鐘に映った自分の姿を見て絶命するまで鳴き続ける。

陳後宮 李商隠:kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 53
○衰桐鳳不棲 鳳凰は梧桐の木に棲むとされる。『詩経』大雅・巻阿に「鳳凰鳴けり、彼の高岡に。梧桐生ぜり、彼の朝陽に」。その鄭玄の箋に「鳳凰の性は、梧桐に非ざれは棲まず。竹の実に非ざれは食わず」。
・梧桐 こどう 立秋の日に初めて葉を落とす。大きな葉を一閒一枚落としてゆく青桐は凋落を象徴するもの。特に井戸の辺の梧桐は砧聲と共に秋の詩には欠かせない。李煜「采桑子其二」李煜「烏夜啼」温庭筠「更漏子」李白「贈舎人弟台卿江南之」李賀「十二月楽詞」などおおくある。玄宗と楊貴妃を喩える場合もある。


牡丹 
錦幃初巻衛夫人、繍被猶堆越鄂君。
垂手亂翻雕玉佩、折腰争舞鬱金裙。
石家蝋燭何曾剪、筍令香櫨可待薫。
我是夢中傳彩筆、欲書花片寄朝雲。

牡丹 李商隠22七言律詩


馬嵬二首 李商隠
馬嵬 絶句
冀馬燕犀動地来、自埋紅粉自成灰。
君王若道能傾国、玉輦何由過馬嵬。

馬嵬
海外徒聞更九州、他生未卜此生休。
空間虎旅鳴宵拆、無復鶏人報暁籌。
此日六軍同駐馬、當時七夕笑牽牛。
如何四紀為天子、不及慮家有莫愁。
唐というこの九州よりなる大世界の外に、神仙世界の九州さらにあると玄宗は道教の修験者から聞いていた。だがそれは聞いただけのこと、次の未来生のどこで生れかわるかわからいままに、ここで人生は終わってしまった。
落ち伸びたこの馬蒐の地で兵士たちに迫られて、来世をともに誓った愛妃をうしない、王車守衛の兵士のならす宵の拍子木をも、むなしく一人で聞かねはならなかった。朝になっても、逃げ延びる最中でのことゆえ鶏をかたどった朱の冠をかむり寝所にまで夜明けの時を知らせる守衛の者もいなかった。
この日、天宝十五載六月十四日、近衛兵は禍の根は楊貴妃にあると、憤怒していっせいに馬を駐め、楊貴妃がくびり殺されるまで、もはや前に進もうとはしなかった。かつて七夕の宵、高楼によりそいつつ、玄宗と場景妃は、一年に一度しか織女にあえぬ牽牛の運命を笑い、瀬世夫婦となって共に住もうと誓い合ったのだったが。
四紀、凡そ五十年にわたる年月の間、天子として九州に君臨しておりながら、どうしたことか、洛陽の富家、盧姓の者が、「十五にして嫁し十六にして子を産んだ。」と古い歌謡にも歌われる、その名もめでたき莫愁なる美女を迎え入れて過したその幸福さに及ばないのは。

馬嵬二首(絶句) 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 50

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