元和聖徳詩 韓退之(韓愈)詩<80-#4>Ⅱ中唐詩451 漢文委員会 紀頌之の漢詩ブログ1432
| 同じ日のブログ | ||||
| 1431 | 古詩十九首之十六 漢の無名氏 (16)-2 漢詩<103-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩538 漢文委員会紀頌之の漢詩ブログ1431 | |||
| 1432 | 元和聖徳詩 韓退之(韓愈)詩<80-#4>Ⅱ中唐詩451 漢文委員会 紀頌之の漢詩ブログ1432 | |||
| 1433 | 寄彭州高三十五使君適、虢州岑二十七長史參三十韻 杜甫 <316-#2> 漢文委員会紀頌之の漢詩ブログ1433 杜甫詩 700- 442 | |||
| 李商隠詩 | 李商隠/韓愈韓退之(韓愈)・柳宗元・李煜・王安石・蘇東坡 | |||
| 2011/7/11 | 李商隠 1 錦瑟 | |||
| 2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全130首(187回) | ||||
| 2012/1/11 | 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻 白文/現代語訳 (全文) | |||
腹敗枝披,不敢保聚。
叛乱軍の將候間で分裂し、末端でもちりぢりになり、団結を維持することがとてもできない状態になった。
擲首陴外,降幡夜豎。
夏州兵馬便の張承金が楊恵琳をとらえて首を斬ってさしだしてひめがきの外にさらしたのである、そして降参のしるしの旗を夜になって建てたのである。
疆外之險,莫過蜀土。
そもそも、この地は都から遠く離れた辺境の地であり、その間に峻道がある、そのために蜀の国の管理を見過ごしていたのである。
韋皋去鎮,劉辟守後。
西川節度使南康忠武王韋皋が死んでからは別の節度使が任命されたが劉闢はこれに従わず軍隊で蜀を固めた。
血人於牙,不肯吐口。
人を牙にかけて血まみれにする。人民の膏血をすすって、搾りつくすだけ絞り、収奪したのである。
開庫啖士,曰隨所取。
天子に上納すべき税金などをおさめた倉庫をひらいて、自分の部下に好きなだけ与えることもした。
汝張汝弓,汝鼓汝鼓。
そして「お前たちはお前たちの弓に絃を張れ」、「お前らはお前らの軍太鼓を打ち鳴らして集まるのだ。」と。
汝為表書,求我帥汝。
そうした後に「お前たちは上表文を書くのだ」。そしてそれは「わたしを、おまえたちの将帥とするよう、請求せよ。」ということであった。
腹敗れ 枝披け、敢て保宋せず。
首を陣の外に榔ち、降幡 夜 竪つ。
慮外の険は、筍土に過ぐる莫し。
貴幸 鏡を去り、劉関 守後たり。
人を牙に血ぬり、育て口より吐かず。
庫を開いて士に唱はしめ、日く 取る所の随にせむ。
汝は汝の弓を張れ、汝は汝の鼓を鼓て。
汝は表書を為り、我を求めて汝に帥たらしめよ と。
現代語訳と訳註
(本文) #4・2
腹敗枝披,不敢保聚。
擲首陴外,降幡夜豎。
疆外之險,莫過蜀土。
韋皋去鎮,劉辟守後。
血人於牙,不肯吐口。
開庫啖士,曰隨所取。
汝張汝弓,汝鼓汝鼓。
汝為表書,求我帥汝。
(下し文)
腹敗れ 枝披け、敢て保宋せず。
首を陣の外に榔ち、降幡 夜 竪つ。
慮外の険は、筍土に過ぐる莫し。
貴幸 鏡を去り、劉関 守後たり。
人を牙に血ぬり、育て口より吐かず。
庫を開いて士に唱はしめ、日く 取る所の随にせむ。
汝は汝の弓を張れ、汝は汝の鼓を鼓て。
汝は表書を為り、我を求めて汝に帥たらしめよ と。
(現代語訳)
叛乱軍の將候間で分裂し、末端でもちりぢりになり、団結を維持することがとてもできない状態になった。
夏州兵馬便の張承金が楊恵琳をとらえて首を斬ってさしだしてひめがきの外にさらしたのである、そして降参のしるしの旗を夜になって建てたのである。
そもそも、この地は都から遠く離れた辺境の地であり、その間に峻道がある、そのために蜀の国の管理を見過ごしていたのである。
西川節度使南康忠武王韋皋が死んでからは別の節度使が任命されたが劉闢はこれに従わず軍隊で蜀を固めた。
人を牙にかけて血まみれにする。人民の膏血をすすって、搾りつくすだけ絞り、収奪したのである。
天子に上納すべき税金などをおさめた倉庫をひらいて、自分の部下に好きなだけ与えることもした。
そして「お前たちはお前たちの弓に絃を張れ」、「お前らはお前らの軍太鼓を打ち鳴らして集まるのだ。」と。
そうした後に「お前たちは上表文を書くのだ」。そしてそれは「わたしを、おまえたちの将帥とするよう、請求せよ。」ということであった。
(訳注) #4・2
腹敗枝披,不敢保聚。
叛乱軍の將候間で分裂し、末端でもちりぢりになり、団結を維持することがとてもできない状態になった。
・腹放校披 叛乱軍の將候間で分裂し、末端でもちりぢりになる。披は折と同じで、さける。
・不敢保栄 団結を維持することがとてもできない。『春秋左氏伝』債公二十六年に「我が倣邑は是を用って敢て保聚せず」 の語がある。それをここにそっくり使用した。
擲首陴外,降幡夜豎。
夏州兵馬便の張承金が楊恵琳をとらえて首を斬ってさしだしてひめがきの外にさらしたのである、そして降参のしるしの旗を夜になって建てたのである。
・擲首 擲は、投げる、または、さし出す。叛乱軍の将兵が楊恵琳の首を切ってさし出した、というのであろう。もっとも、事実は、夏州兵馬便の張承金が楊をとらえて斬ったのである。
・陴 陴堄。城の上から城下を覗い見るために作ったひめがき。
投降すること、開城のこと。城の上から城下をうかがい見るために造ったひめがき。
・降幡 降参のしるしの旗。
・豎 たてる、白旗を城にかかげたというのである。以上が楊恵琳討伐である。以下、劉闢征討の次第がのべられる。
疆外之險,莫過蜀土。
そもそも、この地は都から遠く離れた辺境の地であり、その間に峻道がある、そのために蜀の国の管理を見過ごしていたのである。
・疆外 外国。すなわち、辺境。
韋皋去鎮,劉闢守後。
西川節度使南康忠武王韋皋が死んでからは別の節度使が任命されたが劉闢はこれに従わず軍隊で蜀を固めた。
・韋皋去鎮 807年元和元年に叛乱した蜀の西川節度副使劉闢征討のことをのべるもの。
≪詩の背景≫参照。
血人於牙,不肯吐口。
人を牙にかけて血まみれにする。人民の膏血をすすって、搾りつくすだけ絞り、収奪したのである。
・血人干牙 人を牙にかけて血まみれにする。人民の膏血をすする。『旧唐書』には、劉閥が実際に人間を殺して食った、と記すが、ここでは象徴的な書き方だと解すべきであろう。もっとも、中国には食入の風習のあったことは確かである。呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害してその肉を差し出したとされる。(三国志演義)中国では、客をもてなすため、嫁さんが自殺して、その肉を喰わせたという故事があり、美談とされている。
開庫啖士,曰隨所取。
天子に上納すべき税金などをおさめた倉庫をひらいて、自分の部下に好きなだけ与えることもした。
・開庫 天子に上納すべき税金などをおさめた倉庫をひらく。
・喝士 唱は、くらう。部下の将士に金品を与えて、人気取りをやるのである。
・日 劉閲が部下の将兵にいう。求我帥汝までがそのことは。
・随所収 とりたいだけとれ。随は随意というほどの意。
汝張汝弓,汝鼓汝鼓。
そして「お前たちはお前たちの弓に絃を張れ」、「お前らはお前らの軍太鼓を打ち鳴らして集まるのだ。」と。
・汝鼓汝鼓 おまえはおまえの軍鼓をうて。上の鼓は動詞で、つづみうての意。
下の鼓は名詞で、軍太鼓。
汝為表書,求我帥汝。
そうした後に「お前たちは上表文を書くのだ」。そしてそれは「わたしを、おまえたちの将帥とするよう、請求せよ。」ということであった。
・表書 上表文。その内容が、次の句である。
・求我帥汝 わたしを、おまえたちの将帥とするよう、請求せよ。
<詩の背景>
劉闢は、西川節度使南康忠武王韋皋のもとで支度副使をしていた。韋皋は、二十三間在職し、その間に西川地方をまったく君王のように掌中のものとしていた。805年永貞元年秋八月、韋皋が死んだ。劉闢は、みずから「留後」と名乗った。
また部下の諸将に命じて「西川節度使の後任には劉闢をあてていただきたい」と陳情させた。朝廷はこれを許さず、十月、中書侍郎同平章事の袁滋を西川節度使に任じ、劉闢を召して給事中とした劉闘はこれをうけず、軍隊を動かして蜀をかためたので、袁滋はおそれて任地に進もうとしない。怒った憲宗は、袁滋を吉川刺史に貶した。だが、即位したばかりの青年天子には、まだ、劉闢を討つことには自信がなかった。
十二月、劉闢を西川節度副使に任じ、節度使の仕事にあたらせた。これが劉闢をつけ上がらせた。807年元和元年正月、西川以外の三川をも兼領させていただきたいと要求し、許されないことがわかると、早速、兵を発して、東川節度使の李康を梓州に包囲した。憲宗は劉闢を討とうと思い、そのことを公卿にはかった。蜀は討つに難い険固の地である。みな、はなはだ消極的であった。ただひとり宰相の杜黄裳がいった。「劉闢は気のふれた書生で、大したことはありません。神策軍使の高崇文におまかせになれば、かならず生けどりにいたしましょう」高崇文は、すぐれた武人で、平素から実戦の準備を怠らなかった。命をうけると、二時間後には、出発した。
三月には梓州に進み、六月には鹿頭関で劉闢を撃退し、九月には長駆して成都にはいった。劉闢はついに数十騎のみを従え、チベットに向けて逃れたが、途中、高崇文の部下につかまった。十月、身柄が長安に送られ、その族党は誅せられた。
韓愈は、憲宗の治世になって、やっと流鼠の地から長安に還ることができた。かれの貶謫を計画し実行したものと信じ切っていた王叔文党を追放したのが、憲宗であった。憲宗が中興の英主と、かれの目に映ったのは、無理もない。かれのみならず、当時の多くのひとは、この青年大子に大いに期待をかけ、天子もまた、わずかに十五年の治世ではあったが、その前半においては、政務に精励し、かなり思い切った施策があった。







