首韓愈全496首。柳宗元は尊敬していた。その碑文の訳注。羅池廟は柳宗元の廟である。柳侯が州を治めるのに、その人民を辺鄙な土地の異民族として扱いはしなかった。礼義法度を以て接した。三年で、人民は各々自分を重んじ奮い立った。
《394柳州羅池廟碑》韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <998> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3974韓愈詩-271
柳州羅池廟碑
1段目(#1)
羅池廟者,故刺史柳侯廟也。柳侯爲州,不鄙夷其民,動以禮法。三年,民各自矜奮曰:「茲土雖遠京師,吾等亦天氓,今天幸惠仁侯,若不化服,我則非人。」
於是老幼相教語,莫違侯令。凡有所爲於其鄉閭及於其家,皆曰:「吾侯聞之,得無不可於意否?」莫不忖度而後從事。凡令之期,民勸趨之,無有後先,必以其時。於是民業有經,公無負租,流逋四歸,樂生興事。宅有新屋,步有新船,池園潔修,豬牛鴨雞,肥大蕃息。子嚴父詔,婦顺夫指,嫁娶葬送,各有條法,出相弟長,入相慈孝。先時,民貧以男女相質,久不得贖,盡沒爲隸。我侯之至,案國之故,以傭除本,悉奪歸之。大修孔子廟。城郭巷道,皆治使端正,樹以名木。
2段目(#2)
柳民既皆悦喜。常於其部將魏忠、謝寧、歐陽翼飲酒驛亭,謂曰:「吾棄於時,而寄於此,與若等好也。明年,吾將死,死而爲神。後三年,爲廟祀我。」及期而死。三年孟秋辛卯,侯降於州之後堂,歐陽翼等見而拜之。其夕,夢翼而告之曰:「館我於羅池。」其月景辰,廟成大祭,過客李儀醉酒,慢侮堂上,得疾,扶出廟門即死。
3段目(#3)
明年春,魏忠、歐陽翼使謝寧來京師,請書其事於石。餘謂柳侯生能澤其民,死能驚動禍福之,以食其土,可謂靈也已。作《迎享送神詩》遺柳民,伸歌以祀焉,而並刻之。柳侯,河東人,諱宗元,字子厚。賢而有文章。嚐位於朝,光顯矣,已而擯不用。其辭曰:
4段目(#4)
荔子丹兮蕉黄。雜餚蔬兮進侯堂。
侯之船兮兩旗。度中流兮風泊之。
待侯不來兮不知我悲。侯乘駒兮入廟。
慰我民兮不嚬以笑。鵝之山兮柳之水。
桂樹團團兮白石齒齒。侯朝出游兮暮來歸。
春與猿吟兮秋鶴與飛。北方之人兮爲侯是非。
千秋萬歲兮侯無我違。福我兮壽我。
驅厲鬼兮山之左。下無苦濕兮高無幹。
秔稌充羨兮蛇蛟結蟠。我民報事兮無怠。
其始自今兮欽於世世。
柳州羅池廟碑 1段目(#1)-1
羅池廟者,故刺史柳侯廟也。
柳侯爲州,不鄙夷其民,
動以禮法。三年,民各自矜奮曰:
「茲土雖遠京師,吾等亦天氓,
今天幸惠仁侯,若不化服,我則非人。」
(柳宗元柳州刺史の羅池廟の碑文並びに詩)#1-1
羅池廟は、もとの刺史柳侯(柳宗元)の廟である。
柳侯が州を治めるのに、モの人民を辺鄙な土地の異民族としてあつかいはしなかった。
取り扱うのに、文化の進んだものと同じく、礼義法度を以てしたのである。三年で、人民は各々自分を重んじ奮い立った。
この土地は都から遠ざかっているけれども、われらも天の民である。
今幸いにも仁愛の君を恵まれた。もしその徳に感化して服従しなければ、我々は人間でない」と。
-2
於是老幼相教語,莫違侯令。
凡有所爲於其鄉閭及於其家,皆曰:
「吾侯聞之,得無不可於意否?」
莫不忖度而後從事。
-3
凡令之期,民勸趨之,
無有後先,必以其時。
於是民業有經,公無負租,
流逋四歸,樂生興事。
-4
宅有新屋,步有新船,
池園潔修,豬牛鴨雞,肥大蕃息。
子嚴父詔,婦顺夫指,
嫁娶葬送,各有條法,
出相弟長,入相慈孝。
-5
先時,民貧以男女相質,
久不得贖,盡沒爲隸。
我侯之至,案國之故,
以傭除本,悉奪歸之。
大修孔子廟。城郭巷道,
皆治使端正,樹以名木。
(柳州羅池廟の碑)#1-1
羅池廟は、故の刺史柳侯の廟なり。
柳侯の州を爲むる、其の民を鄙夷とせず、
動すに禮法を以てす。三年にして、民各の自ら衿奮して曰く、
「玆の土京師に遠かると雖も、吾等も亦天氓、今天幸に仁侯を恵む、
若し化服せずんば、我は則ち人に非ず」と。
#1-2
是に於て老少相敎語す、侯の令に違うこと莫れと。
几そ其の郷閭、及び其の家に爲す所有れば、皆日く、
「吾が侯之を聞いて、意に可ならざる無きを得んや否や」と。
忖度して後に事に從わざる莫し。
#1-3
凡そ令の期には、民 之に勸趨して,後先有る無く,必ず其時を以てす。
是に於て民業 經に有り,公に負租無く,
流逋 四歸し,生を樂み事を興す。
#1-4
宅に新屋有り,步に新船有り,
池園 潔修し,豬牛 鴨雞あり,肥大し蕃息す。
子 嚴み 父 詔し,婦 顺い 夫 指す,
嫁娶 葬送し,各の條法有り,
出でては相い弟長し,入りては相い慈孝なり。
#1-5
先時,民貧しく 男女を以て相い質す,
久しく贖【あがな】うを得ざれば,盡く沒して隸と爲す。
我が侯の至る,國の故を案じ,
傭を以て本を除き,悉く奪って之を歸す。
大いに孔子の廟を修む。
城郭 巷道し,皆治めて端正なら使め,樹うるに名木を以てす。
『柳州羅池廟碑』 現代語訳と訳註
(本文) 1段目(#1)-1
羅池廟者,故刺史柳侯廟也。
柳侯爲州,不鄙夷其民,
動以禮法。三年,民各自矜奮曰:
「茲土雖遠京師,吾等亦天氓,
今天幸惠仁侯,若不化服,我則非人。」
(下し文)
(柳州羅池廟の碑)#-1
羅池廟は、故の刺史柳侯の廟なり。
柳侯の州を爲むる、其の民を鄙夷とせず、
動すに禮法を以てす。三年にして、民各の自ら衿奮して曰く、
「玆の土京師に遠かると雖も、吾等も亦天氓、今天幸に仁侯を恵む、
若し化服せずんば、我は則ち人に非ず」と。
(現代語訳)
(柳宗元柳州刺史の羅池廟の碑文並びに詩)#1-1
羅池廟は、もとの刺史柳侯(柳宗元)の廟である。
柳侯が州を治めるのに、モの人民を辺鄙な土地の異民族としてあつかいはしなかった。
取り扱うのに、文化の進んだものと同じく、礼義法度を以てしたのである。三年で、人民は各々自分を重んじ奮い立った。
この土地は都から遠ざかっているけれども、われらも天の民である。
今幸いにも仁愛の君を恵まれた。もしその徳に感化して服従しなければ、我々は人間でない」と。
(訳注)
柳州羅池廟碑
(柳宗元柳州刺史の羅池廟の碑文並びに詩)#1-1
広東省の柳州は韓文公の親友柳宗元の流されて刺史となった所であるが、遂にその地で没した。人民はその徳を慕い、霊示によって羅池に廟を建てて祠った(巻六「柳子厚墓誌銘」参照)。退之は碑文並びに詩を作って、石に刻ませたのである。
柳宗元は、中国中唐の文学者・政治家。字は子厚。本籍地の河東から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また、その最後の任地にちなみ「柳柳州」と呼ばれることもある。王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興運動を実践し、唐宋八大家の1人に数えられる。
羅池廟者,故刺史柳侯廟也。
羅池廟は、もとの刺史柳侯(柳宗元)の廟である。
柳侯爲州,不鄙夷其民,
柳侯が州を治めるのに、モの人民を辺鄙な土地の異民族としてあつかいはしなかった。
動以禮法。三年,民各自矜奮曰:
取り扱うのに、文化の進んだものと同じく、礼義法度を以てしたのである。三年で、人民は各々自分を重んじ奮い立った。
○矜奮 自重して奮起した。衿は重んずる。敬しむ。
「茲土雖遠京師,吾等亦天氓,
この土地は都から遠ざかっているけれども、われらも天の民である。
○天氓 天民に同じ。人民は天命を受けて民となっているので、天民という。 氓は他国から往って服する民の意味で、民に同じ。現在の亡命者ということをふくむ。
今天幸惠仁侯,若不化服,我則非人。」
今幸いにも仁愛の君を恵まれた。もしその徳に感化して服従しなければ、我々は人間でない」と。























