韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。
33-07-§3-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》韓愈(韓退之)ID 800年貞元16年 34歳<1299> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5479
韓愈詩-33-07-§3-2
韓愈詩-33-01-§1
貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。
唐宋八家文 巻五 太学生何蕃伝
(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)
§1-1
太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。
大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。
歳擧進士、學成行尊。
学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。
自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。
大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。
相與言於助教博士。
相共にこれを助教や博士に申し出た。
助教博士以状申於司業祭酒。
助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。
§1-2
司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、
司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。
以之升於禮部、而以聞於天子。
これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。
京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。
長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。
公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。
公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。
爲禮部者、率蕃所不合者。
礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。
以是無成功。
この故に成功することがなかったのである。
(太学生何蕃伝)
§-1
太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。
歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。
太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。
相与【とも】に助教博士に言う。
助教博士、状を以って司業祭酒に申す。
§1-2
司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。
京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。
§2-1
蕃淮南人。父母具全。
何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。
初入太學、歳率一歸。
初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。
父母止之。其後閒一二歳乃一歸。
父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。
又止之。不歸者五歳矣。
父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。
蕃純孝人也。閔親之老不自克。
何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。
一日、揖諸生、歸養于和州。
ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。
§-2-1
蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。
蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。
§2-2
諸生不能止。乃閉蕃空舎中。
諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。
於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。
義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。
ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。
於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。
ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。
歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。
欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。
或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。
或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。
§-2-2
諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。
是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。
是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。
歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。
或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。
§2-3
葬死者之無歸、哀其孤而字焉。
何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。
惠之大小、必以力復。
人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。
斯其所謂仁歟。
これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。
蕃之力不任其禮、其貌不任其心。
しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」
吾不知其勇也。
「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。
歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。
それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。
蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。
それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。
§-2-3
死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。
歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。
§3-1
惜乎蕃之居下。
惜しいことに、何蕃は下位に居た。
其可以施於人者不流也。
それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。
譬之水、其爲澤不爲川乎。
水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。
川者高、澤者卑。
川は位置が高く、沢は低い。
高者流、卑者止。
高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。
是故蕃之仁義充諸心、諸太學。
この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。
積者多、施者不遐也。
積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。
§-3-1
惜しいかな蕃の下に居る。
その以って人に施すべきものは流せず。こ
れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。
川は高く、沢は卑【ひく】し。
高きものは流れ、卑きものは止まる。
是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。
§3-2
天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。
しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。
然則澤之道其亦有施乎。
そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。
抑有待於彼者歟。
それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。
故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。
それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。
吾是以言之。無亦使其無傳焉。
世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。
§-3-2
天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。
然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。
抑々彼に待つもの有るか。
故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。
吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。
『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(本文)
§3-2
天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。
然則澤之道其亦有施乎。
抑有待於彼者歟。
故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。
吾是以言之。無亦使其無傳焉。
(下し文) §-3-2
天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。
然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。
抑々彼に待つもの有るか。
故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。
吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。
(現代語訳)
しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。
そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。
それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。
それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。
世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。
(訳注) §3-2
(太学生何蕃伝)
(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)
太學 大学。
天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。
天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。
しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。
然則澤之道其亦有施乎。
然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。
そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。
○沢之道 たとえは沢のような低い地位の者の道徳。
抑有待於彼者歟。
抑々彼に待つもの有るか。
それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。
○抑有待於彼者歟 それはさておき、彼、すなわち川のように高い為政者の地位を待つ必要があるのであろうか。
故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。
故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。
それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。
○獨何蕃歟 何蕃だけであろうか。人皆そうである。
吾是以言之。無亦使其無傳焉。
吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。
















