中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊(東野)  漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 訳注解説ブログ

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

2015年01月

33-07-§3-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》韓愈(韓退之)ID 800年貞元16年 34歳<1299> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5479

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

 
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33-07-§3-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》韓愈(韓退之)ID  800年貞元16年 34歳<1299> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5479
韓愈詩-33-07-§3-2

 

 

韓愈詩-33-01-§1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

惠之大小、必以力復。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

斯其所謂仁歟。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

吾不知其勇也。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

辟雍00 

§3-1

惜乎蕃之居下。

惜しいことに、何蕃は下位に居た。

其可以施於人者不流也。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

川者高、澤者卑。

川は位置が高く、沢は低い。

高者流、卑者止。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

積者多、施者不遐也。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。

§-3-1

惜しいかな蕃の下に居る。

その以って人に施すべきものは流せず。こ

れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。

然則澤之道其亦有施乎。

そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。

抑有待於彼者歟。

それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。

§-3-2

 天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

抑々彼に待つもの有るか。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

文具-峡 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。



(下し文) §-3-2

 天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

抑々彼に待つもの有るか。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

(現代語訳)
しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。

そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。

それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。

それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。


(訳注) §3-2

(太学生何蕃伝) 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。

 

然則澤之道其亦有施乎。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。

○沢之道 たとえは沢のような低い地位の者の道徳。

 

抑有待於彼者歟。

抑々彼に待つもの有るか。

それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。

○抑有待於彼者歟 それはさておき、彼、すなわち川のように高い為政者の地位を待つ必要があるのであろうか。

 

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

○獨何蕃歟 何蕃だけであろうか。人皆そうである。

 

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。
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33-06-§3-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1298> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5474

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》  惜しいことに、何蕃は下位に居た。それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。川は位置が高く、沢は低い。高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

 

 
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33-06-§3-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15年 32歳<1298> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5474韓愈詩-33-06-§3-1

 

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

惠之大小、必以力復。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

斯其所謂仁歟。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

吾不知其勇也。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

惜しいことに、何蕃は下位に居た。

其可以施於人者不流也。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

川者高、澤者卑。

川は位置が高く、沢は低い。

高者流、卑者止。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

積者多、施者不遐也。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。

§-3-1

惜しいかな蕃の下に居る。

その以って人に施すべきものは流せず。こ

れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-2

 天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

抑々彼に待つもの有るか。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。


(下し文) §-3-1

惜しいかな蕃の下に居る。

その以って人に施すべきものは流せず。こ

れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

(現代語訳)
惜しいことに、何蕃は下位に居た。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

川は位置が高く、沢は低い。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。


(訳注) §3-1

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

惜乎蕃之居下。

惜しいかな蕃の下に居る。

惜しいことに、何蕃は下位に居た。

〇居下 下位に居る。

 

其可以施於人者不流也。

その以って人に施すべきものは流せず。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

○不流 伝わらない。広く行きわたらない。

 

譬之水、其爲澤不爲川乎。

これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

 

川者高、澤者卑。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

川は位置が高く、沢は低い。

 

高者流、卑者止。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

 

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

○充諸心 これを心に充たす。諸は「これを……に」と読む。

 

積者多、施者不遐也。

積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。

○不遐 遠からずと同じ。遐は遠。

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韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(5)》それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

 

 
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§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

惠之大小、必以力復。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

斯其所謂仁歟。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

吾不知其勇也。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

 

 

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。



(下し文) §-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。

恵の大小、必ず力を以って復す。

斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。

吾その勇を知らざるなり」と。

歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。

蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

(現代語訳)
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何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。



(訳注) §2-3

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

 

惠之大小、必以力復。

恵の大小、必ず力を以って復す。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

○恵之大小 人に恵むこと、大小とも。(人から恵まれたことと解する説もある。)

○以力復 力を以て常に、幾度も試みおこなう。復には度々する。繰り返すの意がある。(但し恵みを人から受けたと解する説では、力を尽くして恩返しをすると解する。)

 

斯其所謂仁歟。

斯【こ】れそれ所謂仁なるか。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

○歐陽詹生 歐陽詹は字は行周、貞元の間に韓愈や李観等と共に進士に及第、国子四門学助教、後に博士となる。愈の友人。

 

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

 

吾不知其勇也。

吾その勇を知らざるなり」と。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

 

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

○朱批 符宗の時大尉に拝され、挑令言が兵を督して京を過ぎた時に乱が起こり、天子は奉天に奔った。全日は朱牝を奉じて皇帝となし、大秦と号し、応元と年号を改め、後に漢と称し、天皇と改元したが、李虚に敗れて影原で部将に殺された。建中四年(七八三)に乱が起こり、翌年に平らぐ。

 

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

33-04-§2-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(4)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1296> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5464

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(4)》 欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

 
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韓愈詩-33-04-§2-2

 

 

韓愈詩-33-

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

Ta唐 長安近郊圖  新02洛陽 函谷関002 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。



(下し文) §-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

(現代語訳)
諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

辟雍00
(訳注) §2-2

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

 

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

○大学六館之士 唐に六学がある、その大館の士。国子監に大学あり、小は国子学、二は大学、三は四門学、四は律学、五は書学、六は算学である。また七学と称する場合には大学の次に広文学(広文館)を入れる。しかし『唐書選学志』や『旧唐書職官志』などには均しく六学に作って、広文鮨をはぶいているのが通例である。大学を入れて六学、大館の意味に解すべきであろう。大学と六館ではない。それ放下文に「大館の士乱に従はず」という。

 

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

 

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

○歐陽詹生 歐陽詹は字は行周、貞元の間に韓愈や李観等と共に進士に及第、国子四門学助教、後に博士となる。愈の友人。

 

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

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33-03-§2-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(3)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15年 32歳<1295> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5459

 

韓愈詩-33-03-§2-1

 

 

韓愈詩-33-01-§1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

汜水関などの地図 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。


(下し文) §-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。

父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。ま

たこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。

一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

(現代語訳)
何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

函谷関002
(訳注)

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

 

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

 

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

 

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

 

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

○純孝 孝心の篤いこと。『左伝』隠公元年に「頴考叔は純孝なり」とある。

○不自克 自分の憂心に堪えられない。克はたふると訓ずる。

 

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

○揖 会釈、挨拶する。

33-02-§1-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(2)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1294> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5454

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(2)》 司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

 

 
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33-02-§1-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(2)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15年 32歳<1294> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5454

韓愈詩-33-02-§1-2

 

 

韓愈詩-33-01-§1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

Ta唐 長安近郊圖  新02洛陽 函谷関002 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

以之升於禮部、而以聞於天子。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

爲禮部者、率蕃所不合者。

以是無成功。

 

(下し文) §1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

(現代語訳)
司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

この故に成功することがなかったのである。


(訳注) §1-2

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

撰次 記し列ねる。次は順序にの意。

焯焯 輝く貌。

 

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

以聞 上聞に達する。知らせる意。

 

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

選紀 数え記すこと。この選は算出すること。

 

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

比肩 肩をならべて立つ。多い形容。

 

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

率 おおむね。

 

以是無成功。

是を以って成功無し。

この故に成功することがなかったのである。

33-01-§1-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(1)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1293> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5449

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(1)》大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

 

 
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33-01-§1-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(1)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15年 32歳<1293> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5449

 

韓愈詩-33-01-§1-1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

以之升於禮部、而以聞於天子。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

爲禮部者、率蕃所不合者。

以是無成功。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

歳擧進士、學成行尊。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

相與言於助教博士。

助教博士以状申於司業祭酒。


(下し文)
(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃(かばん)は、太学に入る者(こと)二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊(こうたか)し。

太学の諸生より推頌(すいしょう)され、敢えて蕃と歯(よわい)せず。

相与(とも)に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

(現代語訳)
(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。


(訳注)§1-1

太學生何蕃傳

(太学生何蕃伝)§-1 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

 

歳擧進士、學成行尊。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

 

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

大学の多くの学生から蕃を推し頌めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

○歯 同列となる。歯が列ぶことから、ならび地位を比べる意に用いる。

○推頌 尊んで徳を褒めること。 

 

相與言於助教博士。

相与【とも】に助教博士に言う。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

○助教博士 唐では、国子苧大学・広文館・四門学に皆助教があり、博士(教授)を輔佐して学生を教えた。

 

助教博士以状申於司業祭酒。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

○司業祭酒 国学(太学)の行政を司る官を司業といい、博士の中で最長老の者を祭酒とする。学長職。大饗宴などの時に、長老が酒を地に祭るの嘉酒というのによる。

33-00 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(0)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1292> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5444

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(0)》 当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 
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韓愈詩-33-00

 

 

李朝は後年、節度使にまで出世し、師の学風を継いで、学者・文人として名を得た人物である。

張籍は散文作家よりむしろ詩人として、中庸期の詩壇の一方の雄となった。後世の学者が言う「韓門」は、このころから形をなし始めたと見てよかろう。自分の若い時代とほぼ同様の境遇にある後輩たちに対して、今の世には無用のものだと言いながら、愈は古文の道を教えた。それでも教えを受けたいと希望する後輩は、愈にとっては同志の士である。同志も得られたし、上官の晋の知遇もある。生計の道も、どうやら立った。愈の心境も、ようやく落ちついたのであろう。「知者の知るを簸たんのみ」というような余裕のある言葉は、こうした心のゆとりが生み出したものに違いない。

ところが貞元十五年(七九九)、愈が三十二歳の二月、節度使董晋が病死した。前にも書いたが、慣例として、人が郷里を離れた土地で(役人の任地もその一つに該当する)死んだ場合、無名の庶民が行き倒れにでもなったのならば別だが、遺族が遺体を引き取り、郷里にある先祖代々の基地まで運んで、埋葬しなければならぬ。火葬の風習がないため、遺体を棺に入れたまま運搬するので、日数も費用もかかるが、これだけは遺族のはたすべき務めとされた。むろん、遺族にそれだけの費用がない場合もあり、そのときは近所の寺などに棺を一時あずけて、金策に奔走することになる。貧窮と放浪のうちに死んだ杜甫などは、棺があずけられたままになり、郷里まで運ばれて埋められたのは、彼の孫の代になってからであった。

節度使ともなれば、費用に問題はない。むしろりっぱな行列を組んで、荘重に遺体を運ばなければ、体面にもかかわる。晋の郷里は虞郷(山西省)で、汗州からははぽ真西、直線距離で三百キロあまりになるが、中国の広い国土の中では、まず近い方であった。知己と感謝した晋に対する最後の恩返しのつもりであろう、愈は葬送の行列に加わって、汗州を出た。節度使の後任には、晋の補佐役をつとめていた陸長坂があてられた。

陸長瀬は苛酷な男であった。もともと微温的な董晋の性格に不安を感じた朝廷が、この人物を補佐役につけてよこしたのである。部下の過失を晋が兄のがしてやると、長源が容赦なく摘発するというようなことが、これまでに何度もあった。その長坂が節度使に就任しての第一声は、綱紀の粛正であり、しかもそれをただちに実行した。

董晋の寛仁に慣れていた宜武軍の将士が不安を抱いたのは、当然であろう。不安は動揺となり、陸長坂への怒りに変った。晋の遺体を捧じた葬列が汴州の城門を出てから四日の後、ついに将士の反乱が起る。長瀬は怒り狂った兵士たちの手にかかり、むざんな最期をとげた。

その知らせが葬送の一行にとどいたのは、彼らが洛陽の東の催師という町に一泊した夜であった。

このあたりの事実は、事態がいちおう鎮静してから、愈が弟子の張籍に贈った「此の日惜しむに足る可し」と題する五言古詩(韓文二)に詳しい。

この時、愈は汗州に妻子を残していた。彼がいつ結婚したのかは明らかでないが、もう長女があった。長男の乗はこの年の生まれだが、詩中に言及するところがないのを見ると、まだ母親の胎内にあったと思われる。妻ももちろんのことだが、まだ乳離れもしていない長女が、戦乱の中でどうしていることか。「騎女 未だ乳を絶たず/これを念うて忘るる能はず/忽ち我が所に在るが如く/耳に噂声を聞くが若し」というのが、この時の愈の思いであった。

しかし、そのうちに東から来た旅人があって、情報をもたらした。愈の妻子は無事である。ただ、汴州にいては危険なので、船で脱出し、洛陽とは反対方向、東方の徐州へ落ちのびたという。愈は葬列を洛陽まで送ってから、単身で東へと引き返した。汴州の南を迂回して徐州に着き、妻子と落ちあって、ここに仮の住居を定めたのは、二月も末のことであった。

汴州の反乱はほどなく鎮圧されたが、愈はもう、汴州には帰れない。節度使の幕僚は公式に任命されたものであるが、任命は私的な人選によるので、身分の保証はなかった。節度使が死んだ場合(転任のときも同じことであるが)、後任の節度使は、前任者の幕僚を引き継ぐ義務はない。むしろ自分の人選によって新たに幕僚を任じ、幕府を構成しようとする。もとの幕僚は失業するわけだが、文句は言えないのであって、この点が科挙を経て正式に任命された役人と違うところである。愈もせっかく得た幕僚の職を失ったが、運のよいことに、徐州に根拠を置く武寧軍節度使の張建封が、どれほどのつきあいがあったのかはわからないけれども、以前から愈を知っていた。汀州から避難して来た愈の一家に住居を与え、どうやら衣食にも困らぬ程度に援助してくれたのは、張建封であった。もっとも、愈の方ではいつまでも仮住居をしてはおられず、建封に甘えてもいられないので、秋になると、徐州を去ろうとした。郷里へ引きあげるつもりだったのかもしれない。その時、建封が愈を引きとめ、自分のところの幕僚に任命してくれた。

 

 

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 韓愈 太学生何蕃伝

2013-08-13 10:10:37 | 唐宋八家文

太學生何蕃傳

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

歳擧進士、學成行尊。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

相與言於助教博士。

助教博士以状申於司業祭酒。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

以之升於禮部、而以聞於天子。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

爲禮部者、率蕃所不合者。

以是無成功。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃(かばん)は、太学に入る者(こと)二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊(こうたか)し。

太学の諸生より推頌(すいしょう)され、敢えて蕃と歯(よわい)せず。

相与(とも)に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯(しゃくしゃく)たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升(のぼ)せ、而(しこ)うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説(ぶんせつ)に名あるを薦(すす)むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫(こうきょうたいふ)の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具(とも)に全(まった)し。初めて太学に入り、歳に率(おおむね)一たび帰る。父母之を止(とど)む。その後一二歳を間(へだ)てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖(ゆう)して、和州に帰養(きよう)す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕(か)き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹(おうようせん)生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字(やしな)う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯(こ)れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚(しゅせい)の乱に、太学の諸生挙(こぞ)って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱(しっ)す。六館の士乱に従わず。茲(こ)れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

32-(12)§5-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (12)》韓愈(韓退之)ID 797年貞元13年 30歳<1291> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5439

韓愈§5-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (12)》 秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

 
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32-(12)§5-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (12)》韓愈(韓退之)ID  797年貞元13年 30歳<1291> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5439

 

 

(11)§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

其一姬姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

獨中山之族,不知其本所出。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。

子孫最為蕃昌。

子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。

『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。

#2

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。

世遂有名,而姬姓之毛無聞。

世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。

穎始以俘見,卒見任使,

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦之滅諸侯,穎與有功,

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

 

(11)§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姬姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。

子孫 最も蕃昌なりと為す。

《春秋》の成るや,見孔子に絕たる,而も其の罪に非ず。

-2

蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,

世よに遂に名有り,而して姬姓の毛は聞ゆる無し。

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

 

韓愈詩-32-(12)§5-2

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

世遂有名,而姬姓之毛無聞。

穎始以俘見,卒見任使,

秦之滅諸侯,穎與有功,

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」


(下し文) -2

蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,

世よに遂に名有り,而して姬姓の毛は聞ゆる無し。

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

(現代語訳)
蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。

世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。



(訳注)

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。

○蒙將軍 蒙恬のこと。

○中山 中山国(ちゅうざんこく)は、戦国時代の中国で、現在の河北省中南部を中心とする一帯を領土とした国である。中山と改名する前は春秋時代以来の中原の北部にいた白狄が建国した都市国家で「鮮虞」という名で知られていた。当初は太行山脈の西側にあったが、紀元前414年に武公が衆を率いて太行山脈を越え、現在の河北省中部に中山国を建国した(ただし必ずしも旧領のすべてを放棄したわけではない)。武公は周の定王の孫であり、そのため異民族の国でありながら周王朝と同姓の「姫姓」の国であった。

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図 

世遂有名,而姬姓之毛無聞。

世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。

 

穎始以俘見,卒見任使,

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

○俘 俘虜。

秦之滅諸侯,穎與有功,

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

○穎與有功 毛穎がそれに関係して功があった。与は関与。政治には常に文筆がかかわる。

 

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

○不酬勞 功労に相応しない。

 

春秋戦国勢力図 

蒙恬(もうてん、未詳- 紀元前210年)は中国の秦の将軍。蒙驁(驁は敖の下に馬)の孫、蒙武の子、蒙毅の兄。兵三十万をひきいて匈奴討伐などに功績を挙げ、万里の長城を築き、匈奴におそれられた。始皇帝の死後、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。

〔しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている。〕

 

蒙氏は、祖父の代に斉より秦へ移り住んだ。蒙恬は当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた。

紀元前224年、李信の副将として楚討伐に加わり、寝(河南省)を攻めて大勝した。その後、城父(河南省)で李信と合流したが、李信の軍を三日三晩追い続けていた楚の項燕(項羽の祖父)に大敗した。紀元前221年、家柄によって将軍となり、斉討伐では見事に斉を討ち滅ぼし、内吏(首都圏の長官)とされた。

その後の紀元前215年には30万の軍を率いての匈奴征伐では、オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した。これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ、弟の蒙毅も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた。この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった(扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる)。

しかし紀元前210年、始皇帝が死ぬと胡亥・趙高・李斯の三人は共謀して胡亥を皇帝に立てて自らの権力を護ろうと画策した。趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した。蒙恬はなおも抵抗したものの即位した胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、自殺した。蒙恬の死後、蒙毅も趙高により、言いがかりを付けられて、蒙氏一族は皆殺しにされた。

蒙恬は自殺する際に「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である。」と言って毒を仰って自殺した。これに対して司馬遷の評は「私は、蒙恬が秦のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから(始皇帝に諫言して)、この時こそ、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった。それなのにひたすら始皇帝におもねって(長城建設という)自身の功績を挙げることにつとめた。このようなことでは、兄弟ともども誅殺されるのも当然でなかろうか。どうして罪を地脈ごときのせいにできようか。」と厳しく批判した。

逸話

蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている。

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韓愈§5-1 《讀巻05-08 毛穎傳 (11)》 『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。

 
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韓愈詩-32-(11)§5-1

 

 

(11)§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

其一姬姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

獨中山之族,不知其本所出。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。

子孫最為蕃昌。

子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。

『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。

#2

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

世遂有名,而姬姓之毛無聞。

穎始以俘見,卒見任使,

秦之滅諸侯,穎與有功,

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

 

(11)§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姬姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。

子孫 最も蕃昌なりと為す。

《春秋》の成るや,見孔子に絕たる,而も其の罪に非ず。

-2

蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,

世よに遂に名有り,而して姬姓の毛は聞ゆる無し。

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
(11)§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

其一姬姓,文王之子,封於毛。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

戰國時有毛公、毛遂。

獨中山之族,不知其本所出。

子孫最為蕃昌。

《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。


(下し文) (11)§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姬姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。

子孫 最も蕃昌なりと為す。

《春秋》の成るや,見孔子に絕たる,而も其の罪に非ず。

(現代語訳)
太史公はいう、毛氏は両族がある。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。

子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。


(訳注)§5-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

○太史公 中国前漢時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった。前漢で太史公を務めた『史記』の著者である司馬遷の自称。 本紀、世家、列伝の終わりの部分には、「太史公曰」から始まる文章があり、本紀、世家、列伝で紹介した人物についての司馬遷の評価が書かれている。

 

其一姬姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

○姫姓 周王朝は姫姓の家。

○文王之子 周文王の第八子鄭が毛伯に封ぜられ、毛姓となる。毛は河南省宜陽県境にあった古代の国名。文王は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子、虢仲・虢叔の兄。周王朝の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。文王は商に仕えて、三公の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を灃河の西岸の豊邑に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。

 

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

○所謂 世にいう所の、『左伝』僖公二十四年に「魯・衛・毛・聃は文の昭なり」とあるのをいう。

 

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

○毛公 大毛公亨、毛公萇、共に『詩経』を伝えた漢の儒者。その訓伝によって『毛詩』(詩経)が伝わった。

○毛遂 古代の戦国時代、趙の国の都邯鄲は強大な秦の軍隊に包囲され、危険にさらされていた。そこで邯鄲を救うため、趙の王は楚の国と連合して秦に立ち向かう策を立て、楚を説得するため、親王である平原君を遣ることにした。こちら平原君は早速自分の食客の中から知勇兼備の士20人を選び、同行させようとしたが、19人は選べたものの、あと一人足りない。と、このとき、食客の一人毛遂が、同行を申し出た。

毛遂は自ら薦めて「自らを錐にたとえて、遂をして早く嚢中に処るを得しめは、乃ち穎脱して出でん。特(ただ)其の末の見(あら)わるるのみに非ざるなり」といって、従って功をてたという故事がある。

 

獨中山之族,不知其本所出。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。

○本本源、出身の由来

 

子孫最為蕃昌。

子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

 

《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。

『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。

 

 

0本本源、出身の由来

UO苦警と同じ、人数が殖えて盛んであるUO絶於

 

 

 

平原君(へいげんくん、? - 紀元前251年)は、中国戦国時代の趙の公子で政治家。氏は趙、諱は勝。武霊王の子、恵文王の弟。食客を集めて兄恵文王、続いて甥孝成王を補佐した。戦国四君の一人。

人士を好み食客を数千人集めていた。その中には公孫竜や鄒衍などもいた。

略歴[編集]

ある時に平原君の妾が食客の一人が跛行を引いていたのを大笑いした。客は大いに怒り、平原君に対して「あの妾を殺してその首を私にください」と言い、平原君はこれを受け入れた。しかし、それは表面だけのことで平原君はこの客のことを身の程知らずだと笑っていた。その後、平原君の下から次々と人が去り、ついに半分にまでなった。どうしてこうなったかを客に聞くと「跛行を引いていた客が望んだ首を渡さなかったからだ。」と言われ、平原君は妾を殺してその首を持って客に謝り、その後は再び人が集まってくるようになった。

紀元前266年、魏の宰相・魏斉が平原君に保護を求めてきた。魏斉は秦の宰相・范雎に敵と狙われており、そのために魏から逃げ出してきたのである。平原君はこれを受け入れて秦から魏斉をかばった。秦の昭襄王は范雎に敵を取らせてやりたいと思い、平原君を秦に招いて「魏斉を殺してほしい。でなければ秦から出さない」と平原君を趙へと返そうとしなかった。平原君はこれを断ったが、孝成王は魏斉を捕らえる兵を差し向けた。魏斉は夜のうちに逃げ出し、趙の宰相虞卿と共に信陵君を頼るべく魏へ戻ったが、信陵君が面会をためらったと聞いて自刎した。これにより平原君は帰国することが出来た。

紀元前263年、韓は秦に攻められて領土を奪われ、韓の北の領土である上党郡が孤立するようになってしまっていた。そのために上党は趙へ帰属したいと言ってきた。孝成王はどうするかを下問し、弟の平陽君は帰属を認めれば秦と戦争になるだけである、と取り合わなかったが、平原君は「非常な大利です」と積極的に賛成したので孝成王は上党を趙の領土とした。しかしこのことで秦の怒りを買い、紀元前260年に秦の白起将軍に攻められる(長平の戦い)。この戦いで趙は45万という大量の兵を失い、一気に弱体化した。

紀元前259年、秦軍は更に趙の首都・邯鄲を包囲した。平原君は救援を求めるために楚へと赴いた。この時に客の一人の毛遂と言う者が同行したいと名乗り出てきた。平原君は「賢人と言うものは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ着てから3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい。」と断った。毛遂はこれに「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ。」と答え、この返答が気に入った平原君は毛遂を連れて行くことにした。これが「嚢中の錐」の原典である。

平原君は楚に入り、楚の考烈王に合従(同盟)を説いたが、楚は前に秦に侵攻されたこともあって脅威に思い中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち、「白起は楚の首都を焼いて楚の祖先を辱めました。合従は趙のためではない、楚のためである」と説いて考烈王はこれを受け入れた。これに喜んだ平原君は帰国後に毛遂を上客とした。

紀元前258年、魏は趙へ対して援軍を出していたものの途中で留まらせて情勢を観察していた。平原君は魏の信陵君の姉を妻としていたので、信陵君に「姉を見捨てるのか」との手紙を出し、信陵君はこれに答えて魏の将軍を殺して軍を奪い、趙へ援軍に出る。また楚からも盟約に従い援軍が出る。しかしその邯鄲は、援軍が来る見込みはあったが、長らくの包囲により武器も木を削った槍程度しかなく、城内の趙の国民は餓死寸前で、子供を交換して殺して食料とせざるを得ないほどの危機的状況だった。

だが城内の平原君ら貴族は変らず贅沢をしていた為に、兵士のひとりである李同が平原君に「貴方は飢えている兵民を人事のように生活されているが、もし城が敗れれば貴方も無事では済まないのです。私財をすべて投げ打つべきです」と進言する。これに平原君は答え、すべての私財を好きに持っていって良いと言い、侍従には炊き出しなどの労働を行わせた。これに城内の士気が上がり生気が戻った所で、李同は援軍が来るまでの時間を稼ぐ特攻隊を募り自ら率いることを提案し、平原君も承認する。そして李同はこれに応募した3千の兵を率いて城外の秦軍へと攻撃を仕掛けた。死ぬ気の兵は一歩も引かず、日に何度も突撃した。この決死の特攻に嫌気した秦軍が後退した所で援軍が到着し、秦軍を撤退させることに成功した。特攻隊を指揮した李同は討ち死したが戦後、戦功が評価され李同の父が李侯となった。

信陵君はその後、魏へ帰れないので趙に留まっていた。信陵君がある時に博徒と味噌屋の二人を招いて歓談した。この話を聞いた平原君は「信陵君はあのような者を相手にするのか」と言った。この事を聞いた信陵君は怒って「私は彼らが賢明であると前から聞いており、このような交わりを恥とするあなたは外面だけを取り繕ったものであるようだ。」と言って出て行こうとした。平原君はこれを慌てて引き止めた。この話が伝わり、以後は平原君の元を去って信陵君の元に行く客が増えたと言う。

紀元前251年、死去。子孫が平原君を継ぐが、秦により趙が滅亡した際に共に滅ぼされた。

32-(10)§4-3 《讀巻05-08 毛穎傳 (10)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1289> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5429韓愈詩-32-(10)§4-3

韓愈§4-3 《讀巻05-08 毛穎傳 (10)》 毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。

 

 
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32-(10)§4-3 《讀巻05-08 毛穎傳 (10)》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1289> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5429韓愈詩-32-(10)§4-3

 

 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦其遂兼諸侯乎!」

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

曰見親寵任事。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、

陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,

山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、

及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。

仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。

-2

又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。

秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。

毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。

雖見廢棄,終默不泄。

たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。

惟不喜武士,然見請,亦時往。

このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)

頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。

 

又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。

秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。

又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。

廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。

惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。

 

(8)§4-1

累拜中書令,與上益狎。

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

上嘗呼為中書君。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の褚先生と友として仲が善かった。

-2

相推致,其出處必偕。

互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。

上召穎,三人者不待詔輒俱往。

天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。

上未嘗怪焉。

天子は それを一度も怪しまなかった。

後因進見,上將有任使,拂拭之。

後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。

因免冠謝。

それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。

上見其髮禿。

天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。

又所摹畫不能稱上意。

また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。

-3

上嘻笑曰:「中書君老而禿。

天子はおかしそうに笑っていわれた、中書君は年老いて禿げてしまう。

不任吾用。

私の役に立たない。

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」

私は常に中書君と呼んでいたが、君は今字を書くにあたらない ねじけて適当でないということなのか。」と。

對曰:「臣所謂盡心者。」

答えていった、私は世にいう所の君に心を尽くしたのです(筆の毛の心が尽きたので字は書けない) と。

因不復召。

そこで天子は二度と毛頴を召さなかった。

歸封邑,終於管城。

毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。

其子孫甚多,散處中國夷狄。

その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。

皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

皆、管城の号を頭につけているが、ただ中山に居る老だけが父祖の業を継いでいるのである。

 

累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。

上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。

上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。

獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。

穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の褚先生と友として善し。

-2

相い推致し,其の出處 必ず偕【とも】にす。

上 穎を召せば,三人の者 詔を待たずして 輒ち俱に往く。

上 未だ嘗って怪まず。

後に進み見るに因りて,上 將に任使すること有らんとして,之を拂拭す。

因りて冠を免いで謝す。

上 其の髮の禿するを見る。

又た摹畫【ぼかく】する所 上の意に稱【かな】う能わず。

 

-3

上 嘻笑して曰く:「中書君 老いて禿す。

吾が用に任せず。

吾 嘗て君を中書と謂えり。

君 今 書に中【あたら】ざりて邪【ねじけ】るか?」と。

對えて曰く:「臣は所謂【いわゆる】 心を盡す者なり。」と。

因りて復た召されず。

封邑歸りて,管城に終る。

其の子孫 甚だ多く,中國夷狄に散處す。

皆 管城を冒し,惟だ 中山に居る者のみ,能く父祖の業を繼ぐ。

 

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
 -3

上嘻笑曰:「中書君老而禿。

不任吾用。

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」

對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召。

歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄。

皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。


(下し文) -3

上 嘻笑して曰く:「中書君 老いて禿す。

吾が用に任せず。

吾 嘗て君を中書と謂えり。

君 今 書に中【あたら】ざりて邪【ねじけ】るか?」と。

對えて曰く:「臣は所謂【いわゆる】 心を盡す者なり。」と。

因りて復た召されず。

封邑歸りて,管城に終る。

其の子孫 甚だ多く,中國夷狄に散處す。

皆 管城を冒し,惟だ 中山に居る者のみ,能く父祖の業を繼ぐ。

(現代語訳)
天子はおかしそうに笑っていわれた、中書君は年老いて禿げてしまう。

私の役に立たない。

私は常に中書君と呼んでいたが、君は今字を書くにあたらない ねじけて適当でないということなのか。」と。

答えていった、私は世にいう所の君に心を尽くしたのです(筆の毛の心が尽きたので字は書けない) と。

そこで天子は二度と毛頴を召さなかった。

毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。

その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。

皆、管城の号を頭につけているが、ただ中山に居る老だけが父祖の業を継いでいるのである。


(訳注) -3

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

上嘻笑曰:「中書君老而禿。

天子はおかしそうに笑っていわれた、中書君は年老いて禿げてしまう。

 

不任吾用。

私の役に立たない。

 

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」

私は常に中書君と呼んでいたが、君は今字を書くにあたらない ねじけて適当でないということなのか。」と。

○不中書 字を書くにあたらない。

○邪 かたよる。もとる。ねじける。

 

對曰:「臣所謂盡心者。」

答えていった、私は世にいう所の君に心を尽くしたのです(筆の毛の心が尽きたので字は書けない) と。

○尽心 心を尽くすのと、筆の心(しん)の毛が尽きて書けないのとを兼ねていう。

 

因不復召。

そこで天子は二度と毛頴を召さなかった。

 

歸封邑,終於管城。

毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。

○管城 河南の鄭州の管城。古代、秦の時期の筆の発祥の地。ブランド名。

 

其子孫甚多,散處中國夷狄。

その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。

○中國夷狄 中國の中だけでなく異民族の国々。

 

皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

皆、管城の号を頭につけているが、ただ中山に居る老だけが父祖の業を継いでいるのである。

○中山 中山国(ちゅうざんこく)は、戦国時代の中国で、現在の河北省中南部を中心とする一帯を領土とした国である。中山と改名する前は春秋時代以来の中原の北部にいた白狄が建国した都市国家で「鮮虞」という名で知られていた。当初は太行山脈の西側にあったが、紀元前414年に武公が衆を率いて太行山脈を越え、現在の河北省中部に中山国を建国した(ただし必ずしも旧領のすべてを放棄したわけではない)。武公は周の定王の孫であり、そのため異民族の国でありながら周王朝と同姓の「姫姓」の国であった。

32-(9)§4-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (9)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1288> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5424

韓愈§4-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (9)》 後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。

 
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32-(9)§4-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (9)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1288> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5424 
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32-(9)§4-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (9)》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1288> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5424

韓愈詩-32-(9)§4-2

 

 

(8)§4-1

累拜中書令,與上益狎。

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

上嘗呼為中書君。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の褚先生と友として仲が善かった。

-2

相推致,其出處必偕。

互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。

上召穎,三人者不待詔輒俱往。

天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。

上未嘗怪焉。

天子は それを一度も怪しまなかった。

後因進見,上將有任使,拂拭之。

後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。

因免冠謝。

それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。

上見其髮禿。

天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。

又所摹畫不能稱上意。

また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。

-3

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」

對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

 

累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。

上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。

上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。

獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。

穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の褚先生と友として善し。

-2

相い推致し,其の出處 必ず偕【とも】にす。

上 穎を召せば,三人の者 詔を待たずして 輒ち俱に往く。

上 未だ嘗って怪まず。

後に進み見るに因りて,上 將に任使すること有らんとして,之を拂拭す。

因りて冠を免いで謝す。

上 其の髮の禿するを見る。

又た摹畫【ぼかく】する所 上の意に稱【かな】う能わず。

 

-3

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心○8者。」因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
-2

相推致,其出處必偕。

上召穎,三人者不待詔輒俱往。

上未嘗怪焉。

後因進見,上將有任使,拂拭之。

因免冠謝。

上見其髮禿。

又所摹畫不能稱上意。


(下し文)
相い推致し,其の出處 必ず偕【とも】にす。

上 穎を召せば,三人の者 詔を待たずして 輒ち俱に往く。

上 未だ嘗って怪まず。

後に進み見るに因りて,上 將に任使すること有らんとして,之を拂拭す。

因りて冠を免いで謝す。

上 其の髮の禿するを見る。

又た摹畫【ぼかく】する所 上の意に稱【かな】う能わず。

(現代語訳)
互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。

天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。

天子は それを一度も怪しまなかった。

後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。

それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。

天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。

また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。


(訳注) -2

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

相推致,其出處必偕。

互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。

 

上召穎,三人者不待詔輒俱往。

天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。

 

上未嘗怪焉。

天子は それを一度も怪しまなかった。

 

後因進見,上將有任使,拂拭之。

後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。

○任使 官に任じ使う。任官。

○払拭 埃を払い汚れを拭く。真才を抜き用いるのは、物が払拭を経て、ここに塵垢を去るのに喩える。払ったり拭いたりしていたその手が毛穎に触れて、筆のさやが脱げることをいう。人才を択ぶのと筆を拭い払うのとをかけて用いた語。「払拭の恩」という語もある。抜擢の恩の意。

 

因免冠謝。

それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。

 

上見其髮禿。

天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。

○髪禿 筆の毛がすり切れたことを喩える。

 

又所摹畫不能稱上意。

また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。

○摹画 筆でなぞり線を書くこと。

32-(8)§4-1 《讀巻05-08 毛穎傳 (8)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1287> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5419

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (8)》 毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の褚先生と友として仲が善かった。

 

 
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32-(8)§4-1 《讀巻05-08 毛穎傳 (8)》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1287> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5419
韓愈詩-32-(8)§4-1

 

 

(8)§4-1

累拜中書令,與上益狎。

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

上嘗呼為中書君。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の褚先生と友として仲が善かった。

-2

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

 

累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。

上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。

上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。

獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。

穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の褚先生と友として善し。

-2

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

 

汜水関などの地図 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
(8)§4-1

累拜中書令,與上益狎。

上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。


(下し文) §4-1

累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。

上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。

上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。

獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。

穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の褚先生と友として善し。


(現代語訳)
穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の褚先生と友として仲が善かった。

douteikoshoko297
(訳注) (8)§4-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

累拜中書令,與上益狎。

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

○中書令 中書省長官、詔勅を掌る。これを後に「書に中(あたる」と解するが、これは諧謔であって、本来は宮中の書記を掌るので中書といったものである。

 

上嘗呼為中書君。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

○嘗 常と通用する。

 

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

○衡石 衡は重さをほかる秤の横棒、石は分銅(おもり) である。

○程 目ど。区切り。限度とする。

 

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

 

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の褚先生と友として仲が善かった。

○絳人陳玄 山西省の緯県は墨の名産地。故に経の人陳文という。・陳文は墨の異名。陳は古い。玄は黒。古くて黒いから名づけた。

○弘農 河南省の地名、硯を出す。

○陶弘 仮設の人名で、硯を指す。硯に陶器のものがあった。弘は下(ひく)く深い貌。凹(くぼ)んでいること。

○会稽 浙江省の地名。紙を産する。

○褚 こうぞ。紙の原料、木の名。紙を擬人的に褚先生という。

32-(7)§3-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (7)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1286> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5414

韓愈 §3-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (7)》 秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。

 

 
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164 《巻05-11 少年子》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <164> Ⅰ李白詩1373 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5413 
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32-(7)§3-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (7)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1286> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5414 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor『花間集』全詩訳注解説(改訂)-1溫庭筠44《巻1-44 南歌子七首其七》溫庭筠66首巻一44-〈44〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5417 
 薛濤の全詩花間集(1)花間集(2)花間集(3)花間集(4)花間集(5) 
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32-(7)§3-2 《讀巻05-08 毛穎傳 (7)》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1286> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5414

韓愈詩-32-(7)§3-2

 

 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦其遂兼諸侯乎!」

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

曰見親寵任事。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、

陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,

山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、

及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。

仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。

-2

又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。

秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。

毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。

雖見廢棄,終默不泄。

たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。

惟不喜武士,然見請,亦時往。

このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)

頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。

 

又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。

秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。

又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。

廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。

惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。
 

Ta唐 長安近郊圖  新02洛陽 函谷関002 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
(7)§3-2

又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。

雖見廢棄,終默不泄。

惟不喜武士,然見請,亦時往。


(下し文)
又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。

秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。

又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。

廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。

惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。

(現代語訳)
その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。

秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。

毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。

たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。

このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)


(訳注) (7)§3-2

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。

 

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。

秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。

太子扶蘇、胡亥 扶蘇は秦の始皇帝の長男。胡亥は秦朝の第2代皇帝。

丞相斯 秦代の宰相。字は通古[1]。子は李由ら。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。

中車府令高 秦の丞相・中車府令趙 高(ちょう こう、? - 紀元前207年)は、戦国時代末期から秦にかけての宦官、政治家。

 

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。

毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。

 

雖見廢棄,終默不泄。

たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。

 

惟不喜武士,然見請,亦時往。

このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)

 

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図 

 

扶蘇(ふそ、? - 紀元前210年)は、秦の始皇帝の長男。姓は嬴(えい)。温厚な人格と聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。

父の政治(焚書坑儒)に諫言したため怒りを買う。これにより、北方の騎馬民族・匈奴に対する国境警備の監督を命じられ、僻地の蒙恬の駐屯地へ遠ざけられた。

始皇帝は後継に扶蘇をと考えていたと思われるが、巡幸中に崩御した。始皇帝の喪は混乱を避けるべく秘密にされたが、巡幸に随行していた弟・胡亥、丞相・李斯、宦官・趙高の謀略により、後継は胡亥とし、扶蘇には自害を勧める偽の詔が渡された[1]。蒙恬は偽詔であることを看破し、その旨を扶蘇に進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べてそれを受け入れず、偽命に従って自決した。

 

胡亥(こがい)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)。始皇帝の末子。

父帝が行幸中に崩御すると、丞相の李斯と、かつての胡亥の傅役で始皇帝の側近の趙高に擁立されて即位する。しかしこの即位には疑問を有する者が少なからず存在し、二世皇帝は即位前後から趙高の勧めに従って長兄の扶蘇を偽書を用いて自殺に追い込み、公子高ら兄弟を含む皇族や重臣を粛清した。さらに始皇帝陵や阿房宮、万里の長城の建築を推進し、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行なったことで人心の離反を招いた。

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生する。これは半年余りで鎮圧したものの、二世皇帝はさらなる土木事業や奢侈な宮廷生活を追求したことから、人心は一段と乖離するが、二世皇帝に諫言した李斯は趙高の讒言により処刑された。この頃から楚の項梁を中心とした反秦勢力が強大化、秦軍では反乱鎮圧に対応不可能な状態となっていたが、自らは後宮にこもり、政務を趙高に委任していた二世皇帝には秦朝の現状が報告されることなく、趙高が反乱に関する情報を操作していた。この時期に、趙高が故意に鹿を馬であると二世皇帝に献上した、いわゆる「馬鹿」の故事となる出来事があった。

 

李 斯(りし、? - 紀元前208年)は、中国秦代の宰相。字は通古。子は李由ら。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。紀元前210年の秋7月に、始皇帝が巡幸途中で死去し、李斯は趙高と共に偽詔を作って、胡亥を即位させ二世皇帝として、元の太子扶蘇を自決させた(一説では李斯は趙高に恫喝されて、止むなく胡亥の帝位をしぶしぶ認めたといわれる)。

偉大な始皇帝が死んだ事で基盤が揺れてしまった秦帝国に対して、翌年についに陳勝・呉広の乱を初めとして反乱が続発し、国内は大混乱になった。この時になっても二世皇帝は遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。李斯はこれを何とか諌めようとしたが、これを逆手に取った趙高の策略で二世皇帝の不興を買い、李斯は追い詰められてゆくことになった。

紀元前208年、李斯は右丞相馮去疾と将軍馮劫と共に阿房宮の造営などの圧迫政策を止めるように二世皇帝に告げたが断られ、馮去疾と馮劫は自害した。それからも再三二世皇帝に申し入れをしたが、かえって二世皇帝の怒りを買い趙高に讒言され捕らえれ、趙高に執拗な拷問を受けた。拷問に耐えられず趙高が捏(で)っち上げた罪(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川郡の太守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認めてしまい、市で腰斬に処された。その時に李斯は共に曳き立てられた次男(名は不詳)に対して「わしは以前にお前と故郷の上蔡で黄色い猟犬を連れて来て、兎狩りをよくやっておったが、またやりたい夢はもう適わんのう…」と無念そうに述べたという。やがて李斯の一族は全て殺された。なお李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わる。

 

趙 高(ちょうこう、? - 紀元前207年)は、戦国時代末期から秦にかけての宦官、政治家。弟に趙成。始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が「断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿呆の語源とも言われる阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに人民から恨みを買うことになった。また蒙恬、公子将閭など有力者や不平派を悉く冤罪で殺害した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することになる。

32-(6) 《讀巻05-08 毛穎傳 (6)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1285> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5409

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (6)》毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

 
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32-(6) 《讀巻05-08 毛穎傳 (6)》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1285> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5409韓愈詩-32-(6)

 

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦其遂兼諸侯乎!」

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

曰見親寵任事。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、

陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,

山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、

及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。

仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。

-2

又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。

雖見廢棄,終默不泄。

惟不喜武士,然見請,亦時往。

頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。

 

又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。

秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。

又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。

廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。

惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。

 

§4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

-2

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

-3

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

 

§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

其一姬姓,文王之子,封於毛。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

戰國時有毛公、毛遂。

獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。

《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。

-2

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。

而姬姓之毛無聞。

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 

春秋戦国勢力図 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

§3-1

穎為人,強記而便敏,自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。



(下し文)

頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。
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(現代語訳)
毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、

太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、

仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。


(訳注) §3-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

穎為人,強記而便敏,

頴は人と為り、強記にして便敏、

毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、

○為人 生まれつき。

○便敏 すばしこい。

 

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。

太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

○結縄 縄を結んで文字に代える太古の政治。孔安国「尚書序」に 「古は伏義の天下に王たるや、書契を造って、以て結縄の政に代ふ」 と。

○纂錄 集め記す。

 

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、

陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

 

山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,

山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、

山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、

○山経地志 山岳の記、地理の書。

〇九流 『漢書』芸文志に、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家着流を九流という。

 

及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。

及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。

仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。
917年 五代十国 

32-(5) 《讀巻05-08 毛穎傳 (5)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1284> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5404

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (5)》秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

 
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韓愈詩-32-(5)

 

戦国時代(紀元前350年頃)東方地図戦国時代(紀元前350年頃)東方地図


(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦其遂兼諸侯乎!」

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

曰見親寵任事。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

春秋戦国勢力図 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
§2-3
遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。


(下し文)
遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

(現代語訳)
そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。


(訳注)

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

○豪 すぐれた人物。これも毫(兎の毛)を暗示する。

○穎 毛穎、筆の擬人名。《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

 

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

そして、俘虜を章台宮に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

○俘 活け捕りの者。捕虜。

○章台宮 戦国の時、秦の宮内にあった台。咸陽(長安)。今の陝西省長安県にあった。

○加束縛 毛を束縛して筆にすること。これを毛竺族を束縛して禁錮する意味に兼用する。

 

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

○賜之湯沐 湯沐の料に領地を賜う。古代の諸侯が天子に朝するとき、天子は斎戒沐浴の邑(都市)を賜うた。これを湯沐邑といぅ。沐は髪を洗う。

○管城子 この文によって、筆の異名を管城子、管城侯という。管城は河南省鄭県治にあった古国名(春秋戦国時代)。竹管を筆軸とすることから縁語として用いた地名。

 

曰見親寵任事。

曰びに親寵せられて事に任ず。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

32-(4) 《讀巻05-08 毛穎傳 (4)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1283> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5399

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (4)》 ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

 
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32-(4) 《讀巻05-08 毛穎傳 (4)》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1283> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5399 
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32-(4) 《讀巻05-08 毛穎傳 (4)》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1283> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5399

韓愈詩-32-(4)

 

 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦其遂兼諸侯乎!」

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」


(下し文)
筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

(現代語訳)
占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。


(訳注) §2-2

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

○衣褐 粗毛で織った衣を着る。人に擬する。

 

缺口而長鬚,八竅而趺居。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

○缺口 三つ口に裂けている。

○八竅 『荘子』斉物論に「百骸九竅」とある。九つの穴は、両目、両耳、鼻の両孔、口、及び下の二つの穴。兎は下は一つの竅であるから八竅という。胎生するものは九竅、ただ兎だけは八竅であるとの言い伝え。

○趺居 あぐらをかく。脚を組んで尻を地に付けて坐る。

 

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

○髦 長毛。毛の中で長いもの。すぐれた人にたとえる。その両義をかねて用いる。

○簡牘是資 簡牘に是れ資する。文書を書くたすけとする。書記をさせるのと、筆に用いるのとを兼ね言う。簡は竹のふだ、牘は木の片、ともに字を書く。紙の発明前はこれを用いた。

○天下其同書 天下が同じ文字を通用する。統一国家となる。

 

秦其遂兼諸侯乎!」

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

○兼諸侯 秦が初めて諸侯の国を兼併して天下を平げること。

32-(3) 《讀巻05-08 毛穎傳 (3)§2-1》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1282> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5394

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (3)§2-1》始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

 

 
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32-(3) 《讀巻05-08 毛穎傳 (3)§2-1》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1282> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5394

韓愈詩-32-(3)

 

 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

 

 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

將大獵以懼楚。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

得天與人文之兆。

(下し文)§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

(現代語訳)
始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。


(訳注)§2-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

蒙恬(もうてん、未詳- 紀元前210年)は中国の秦の将軍。蒙驁(驁は敖の下に馬)の孫、蒙武の子、蒙毅の兄。兵三十万をひきいて匈奴討伐などに功績を挙げ、万里の長城を築き、匈奴におそれられた。始皇帝の死後、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。

蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。蒙恬が毛氏を囲むという説話とした。

〔しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている。〕

 

將大獵以懼楚。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

 

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

○庶長 左右の将軍職名。

○軍尉 尉は司法警察の官、軍の司法警察官。

○連山 連山易。周易の外に、連山、帰蔵の二派の易法があったという。今伝わらない。

○筮 筮竹でうらなう。筮竹(ぜいちく)とは、易占において使われる50本の竹ひごのようなものである。長さは35cmから55cm程度のものが多く、両手で天策と地策に分けるときに扇形に開きやすいよう、手元に当たる部分をやや細く削ったものもある。算木とともに、易者のシンボル。

 

得天與人文之兆。

天は人文を與うるの兆を得たり。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

○天与人文之兆 天が人類の文化を与える兆(うらかた)、兆は予言のきざし、もとは亀甲を焼いてひびわれた形。その形からうらなう、うらかた。

 

 

蒙恬(もうてん、未詳- 紀元前210年)は中国の秦の将軍。蒙驁(驁は敖の下に馬)の孫、蒙武の子、蒙毅の兄。兵三十万をひきいて匈奴討伐などに功績を挙げ、万里の長城を築き、匈奴におそれられた。始皇帝の死後、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。

〔しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている。〕

 

蒙氏は、祖父の代に斉より秦へ移り住んだ。蒙恬は当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた。

紀元前224年、李信の副将として楚討伐に加わり、寝(河南省)を攻めて大勝した。その後、城父(河南省)で李信と合流したが、李信の軍を三日三晩追い続けていた楚の項燕(項羽の祖父)に大敗した。紀元前221年、家柄によって将軍となり、斉討伐では見事に斉を討ち滅ぼし、内吏(首都圏の長官)とされた。

その後の紀元前215年には30万の軍を率いての匈奴征伐では、オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した。これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ、弟の蒙毅も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた。この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった(扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる)。

しかし紀元前210年、始皇帝が死ぬと胡亥・趙高・李斯の三人は共謀して胡亥を皇帝に立てて自らの権力を護ろうと画策した。趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した。蒙恬はなおも抵抗したものの即位した胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、自殺した。蒙恬の死後、蒙毅も趙高により、言いがかりを付けられて、蒙氏一族は皆殺しにされた。

蒙恬は自殺する際に「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である。」と言って毒を仰って自殺した。これに対して司馬遷の評は「私は、蒙恬が秦のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから(始皇帝に諫言して)、この時こそ、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった。それなのにひたすら始皇帝におもねって(長城建設という)自身の功績を挙げることにつとめた。このようなことでは、兄弟ともども誅殺されるのも当然でなかろうか。どうして罪を地脈ごときのせいにできようか。」と厳しく批判した。

逸話

蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている。

32-(2) 《讀巻05-08 毛穎傳 (2)§1-2》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1281> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5389 韓愈詩-32-(2)

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (2)§1-2》 明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

 
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160-#2 《巻03-10 幽澗泉 #2》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <160-#2> Ⅰ李白詩1368 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5388 
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32-(2) 《讀巻05-08 毛穎傳 (2)§1-2》韓愈(韓退之)ID  796年貞元12年 29歳<1281> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5389
韓愈詩-32-(2)

 

 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

將大獵以懼楚。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

得天與人文之兆。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。
 

 §3-1

穎為人,強記而便敏,自結繩之代以及秦事,無不纂錄。陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

§4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生○8友善,相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。

 

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠○7謝。上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心○8者。」因不復召,歸封邑,終於管城。

 

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。其一姬姓,文王之子,封於毛,所謂魯、衛、毛、聃者也。戰國時有毛公、毛遂。獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名,而姬姓之毛無聞。穎始以俘見,卒見任使,秦之滅諸侯,穎與有功,賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

 

(1)§1-1

毛穎という者,中山の人なり。

其の先は明眎,禹を佐けて東方の土を治む。

萬物を養いて功有り,因りて卯の地に封ぜられ,死して十二神と為る。

嘗て曰く:「吾が子孫は神明の後,與物と同じかる可からず。

當に吐いて生むべし。」と。

已にして果して然り。

§1-2

明視 八世の孫,世に傳う 殷の時に當って中山に居り,神仙の術を得て,能く光を匿し物を使い,姮娥を竊み、蟾蜍に騎りて月に入る。

其の後代 遂に隱れて仕えずと云う。

東郭に居る者を〈夋兔〉【しゅん】と曰う。

狡にして善く走り,韓盧と能を爭い,盧 及ばず。

盧 怒りて,宋鵲と謀りて之を殺し,其の家を醢【かい】にす。

 

 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
(2) §1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

其後代遂隱不仕云。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。


(下し文) §1-2

明視 八世の孫,世に傳う 殷の時に當って中山に居り,神仙の術を得て,能く光を匿し物を使い,姮娥を竊み、蟾蜍に騎りて月に入る。

其の後代 遂に隱れて仕えずと云う。

東郭に居る者を〈夋兔〉【しゅん】と曰う。

狡にして善く走り,韓盧と能を爭い,盧 及ばず。

盧 怒りて,宋鵲と謀りて之を殺し,其の家を醢【かい】にす。

(現代語訳)
明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。


(訳注)  (2) §1-2

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

○竊姮娥、騎蟾蜍入月 姮娥は嫦娥。嫦娥(じょうが、こうが)は、中国神話に登場する人物。后羿の妻。古くは姮娥(こうが)と表記された。

『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられる。

別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。

道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている。

「姮娥」が本来の表記であったが、前漢の文帝の名が「恒」であるため、字形のよく似た「姮」を避諱して「嫦」を用いるようになった。のちに旁の「常」の影響を受けて読みも「じょうが」(に対応する中国語での発音)に変化した。韓愈自身も盧仝と同じテーマの《月蝕詩效玉川子》がある。月蝕詩效玉川子作 韓愈 韓退之(韓愈)詩<96-#1>Ⅱ中唐詩514 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1622

李商隠《嫦娥》「雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。」○常蛾 月の女神。「1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥」詩参照。仙薬を飲んでいる。○蟾蜍 月に住むといわれるひきがえる。李白「古朗月行」月の満ち欠けはカエルが食べてかけていく。

 

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

 

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

○〈夋+兔〉 夋で表示。すばしこく走る兎の名。

 

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

○韓慮 韓国の黒犬、『戦国策』秦策に「秦卒の勇、串騎の多を以(ゐ)て、以て諸侯に当らば、肇へは、黄塵を馳せて寒兎(足の悪い兎)を逐ふが若きなり」と。これを反対に用いた。

 

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

○宋鵠 朱の良犬。古来、韓慮と共に名犬とされる。これも擬人的に用いる。

○醸 ししびしお。肉皆。肉の塩から。

32-(1) 《讀巻05-08 毛穎傳 (1)§1-1》韓愈(韓退之)ID 796年貞元12年 29歳<1280> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5384韓愈詩-32-(1)

韓愈《讀巻05-08 毛穎傳 (1)§1-1》毛穎というものがいる、中山の人である。その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

 
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(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

其後代遂隱不仕云。

居東郭者曰 夋兔,

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

將大獵以懼楚。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

得天與人文之兆。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。
 

 §3-1

穎為人,強記而便敏,自結繩之代以及秦事,無不纂錄。陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,及至浮圖、老子、外國之說,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

§4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生○8友善,相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。

 

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠○7謝。上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心○8者。」因不復召,歸封邑,終於管城。

 

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。其一姬姓,文王之子,封於毛,所謂魯、衛、毛、聃者也。戰國時有毛公、毛遂。獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。《春秋》之成,見絕於孔子,而非其罪。及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名,而姬姓之毛無聞。穎始以俘見,卒見任使,秦之滅諸侯,穎與有功,賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

 

(1)§1-1

毛穎という者,中山の人なり。

其の先は明眎,禹を佐けて東方の土を治む。

萬物を養いて功有り,因りて卯の地に封ぜられ,死して十二神と為る。

嘗て曰く:「吾が子孫は神明の後,與物と同じかる可からず。

當に吐いて生むべし。」と。

已にして果して然り。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

其後代遂隱不仕云。

居東郭者曰 夋兔,

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

 

 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
(1)§1-1

毛穎者,中山人也。

其先明眎,佐禹治東方土。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

當吐而生。」

已而果然。


(下し文)(1)§1-1

毛穎という者,中山の人なり。

其の先は明眎,禹を佐けて東方の土を治む。

萬物を養いて功有り,因りて卯の地に封ぜられ,死して十二神と為る。

嘗て曰く:「吾が子孫は神明の後,與物と同じかる可からず。

當に吐いて生むべし。」と。

已にして果して然り。

(現代語訳)
(毛穎傳)

毛穎というものがいる、中山の人である。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

やがて果たしてその通りになった。


(訳注) (1)§1-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

○中山 江蘇省溧水県の南にある山の名。安徽・江蘇の界にあって兎の毛を多く産する。筆の良い材料である。

 

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

○明眎 明視に同じ。兎の名。『礼記』曲礼に「兎を明視といふ」とあり、明視は祭祀用の免のみをいう。

○東方 十二支の卯を東方に当てる。卯は動物の兎とする。故に卯の地に封ぜらるという。

 

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

○十二神 十二支のこと。各々動物をあて、卯は兔である。

 

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

 

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

○吐而生 兎の音は吐、『論衡』に 「免は毫を舐めて孕み、其の子を生むに及んで口より出だす。名づけてはん嬝と日ふ。俗に呼んで酃といふ」とある。酃は兎の子の名称。これを八世の孫の名とする。口から生むというのは、生児の胞衣を舐めて清めるのを、口から生んだと見た。

 

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

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送董邵南序

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

§1-1

燕趙古稱多慷慨悲歌之士。

古の燕国と趙国、すなわち河北の地は、古来時世に感じ、慷慨悲憤を歌った人物が多かったという。

董生舉進士,連不得志於有司,

董生は進士に挙げられて試験を受けたが、連年試験官に阻まれて仕官の志を得られなかったのだ。

懷抱利器,鬱鬱適茲土。

それで、すぐれた器量を身に抱きながら、不平に心ふさがりつつ、その河北の地に行こうとしている。

吾知其必有合也。董生勉乎哉!

私は君が必ずその地の人々と気質の合うことがあるのを知っている。董生よ、勉めて行くがよい。

§Ⅰ-2

夫以子之不遇時,苟慕義彊仁者,皆愛惜焉;

一体君が時に遇わず不仕合わせなことを、かりそめにも正義を慕い、仁愛の道につとめる老ならば、皆愛し惜しむのである。

矧燕趙之士,出乎其性者哉!

まして燕趙の慷慨悲歌の人士の、その天性に出た者たちが愛惜するのは勿論のことである。

然吾嘗聞:風俗與化移易。

しかし私は以前に聞いた、「土地の風俗は教化によって移りかわるものだ」ということを。

吾惡知其今不異於古所云邪?

私は、その地の現在が、古からいう通りと違っていないと、どうして知ることができるのか。それはわからない。

聊以吾子之行卜之也。董生勉乎哉!

そこでしばらく、君の今度の旅で、その地の気風がどうであるかをうらなってみようと思う。董生よ、元気を出して行くがよい。

§2

吾因子有所感矣!

私は君のこの度の北に行くことにはて感ずることがある。

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

どうか私のために、燕将望諸君(楽毅)の墓を弔って、その町の市場を見てほしい。

復有昔時屠狗者乎?

そこに昔の戦国の荊軻と燕の市に飲んだくれた犬殺しの高漸離のような人物がいるだろうか。

為我謝曰:「明天子在上,可以出而仕矣!」

もしいたら、私のためにこう挨拶をしていってくれ、「今の唐の世には、明徳の天子が上におられるから、出て朝廷に仕えることができる。」ということだ。

 

(董邵南を送る序)

燕、趙の国は、古え、感慨悲歌の士多しと称す。

董生進士に挙げられ、連【しきり】に志を有司に得ず。

利器を懐抱して、鬱鬱として玆の土に適く。

吾其の必ず合ふこと有るを知るなり。董生勉めよや。

#2

夫れ子の時に遇はざるを以て、苟【いやしく】も義を慕ひ仁を彊【つと】むる者は、皆 愛惜す。

矧【いわん】や燕趙の士、其の性に出づる者をや。

然れども 吾 嘗て聞く、風俗は化と移易すと。

吾悪んぞ其の今の古の云ふ所に異ならざるを知らんや。聊か吾子の行を以て之を卜するなり。董生勉よや。

#3

吾 子に因って感ずる所有り!

我が為に望諸君の墓に弔い,而して其の市を觀よ,

復た昔時の屠狗者有らんか?

為我がに謝して曰へ:「明天子 上に在り,以って出でて仕う可し!」と。

 

戦国時代勢力図 

『送董卲南序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

§2

吾因子有所感矣!

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

復有昔時屠狗者乎?

為我謝曰:「明天子在上,可以出而仕矣!」


(下し文)
吾 子に因って感ずる所有り!

我が為に望諸君の墓に弔い,而して其の市を觀よ,

復た昔時の屠狗者有らんか?

為我がに謝して曰へ:「明天子 上に在り,以って出でて仕う可し!」と。

(現代語訳)
私は君のこの度の北に行くことにはて感ずることがある。

どうか私のために、燕将望諸君(楽毅)の墓を弔って、その町の市場を見てほしい。

そこに昔の戦国の荊軻と燕の市に飲んだくれた犬殺しの高漸離のような人物がいるだろうか。

もしいたら、私のためにこう挨拶をしていってくれ、「今の唐の世には、明徳の天子が上におられるから、出て朝廷に仕えることができる。」ということだ。


917年 五代十国
(訳注)§2

送董邵南序(董邵南を送る序)

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

董邵南は寿州(安徽省)安豊の人、孝行ものであった。韓愈は「嗟哉董生行」という詩を贈った。その河北に行くのを送った序である。

貞元中に仕官の道が絶えたので、各地の節度傍らが人材を招いて参謀とし、朝命を奉ぜず専横を極めた。董邵南も河北の潘鎮に招かれて行くのを、韓愈は大義上不賛成の意を含んで、この送序を作って諷した。

嗟哉董生行 <42>#1Ⅱ韓退之(韓愈)詩315 紀頌之の漢詩ブログ 1024

嗟哉董生行 <42>#2Ⅱ韓退之(韓愈)詩316 紀頌之の漢詩ブログ 1027

嗟哉董生行 <42>#3Ⅱ韓退之(韓愈)詩317 紀頌之の漢詩ブログ 1030

 

吾因子有所感矣!

私は君のこの度の北に行くことにはて感ずることがある。

 

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

どうか私のために、燕将望諸君(楽毅)の墓を弔って、その町の市場を見てほしい。

○望諸君 燕の名将楽毅・荊軻。『史記』に「毅燕の恵王の善く昭王に代らざるを知り、誅を畏れて遂に趙に降れり。趙困って封じて望諸君と為せり」とある。燕の昭王を助けて斉を伐って大勝したが、昭王の死後題に仕えた。管仲・楽毅と並び称される。

楽毅・荊軻らは憂色濃く深い者、悲憤の人士者とされる。楽毅は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。荊軻は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。

 

復有昔時屠狗者乎?

そこに昔の戦国の荊軻と燕の市に飲んだくれた犬殺しの高漸離のような人物がいるだろうか。

○屠狗者 荊軻と酒を飲んだ者。『史記』に「狗を居(招)るもの高漸離と云ふものあり、荊軻酒を嗜み、日々屠狗者高漸難と燕の市に飲み、酒酣(たけなわ)にして往いて市中に歌ひ、己にして相泣き、旁人無きが如し」と。感慨志を得なかった人士である。

 

為我謝曰:「明天子在上,可以出而仕矣!」

もしいたら、私のためにこう挨拶をしていってくれ、「今の唐の世には、明徳の天子が上におられるから、出て朝廷に仕えることができる。」ということだ。 

○謝 辞を告げる。挨拶する。

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韓愈《讀巻04-15-#2 送董卲南序》そこでしばらく、君の今度の旅で、その地の気風がどうであるかをうらなってみようと思う。董生よ、元気を出して行くがよい。

 
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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送董邵南序

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

§1-1

燕趙古稱多慷慨悲歌之士。

古の燕国と趙国、すなわち河北の地は、古来時世に感じ、慷慨悲憤を歌った人物が多かったという。

董生舉進士,連不得志於有司,

董生は進士に挙げられて試験を受けたが、連年試験官に阻まれて仕官の志を得られなかったのだ。

懷抱利器,鬱鬱適茲土。

それで、すぐれた器量を身に抱きながら、不平に心ふさがりつつ、その河北の地に行こうとしている。

吾知其必有合也。董生勉乎哉!

私は君が必ずその地の人々と気質の合うことがあるのを知っている。董生よ、勉めて行くがよい。

§Ⅰ-2

夫以子之不遇時,苟慕義彊仁者,皆愛惜焉;

一体君が時に遇わず不仕合わせなことを、かりそめにも正義を慕い、仁愛の道につとめる老ならば、皆愛し惜しむのである。

矧燕趙之士,出乎其性者哉!

まして燕趙の慷慨悲歌の人士の、その天性に出た者たちが愛惜するのは勿論のことである。

然吾嘗聞:風俗與化移易。

しかし私は以前に聞いた、「土地の風俗は教化によって移りかわるものだ」ということを。

吾惡知其今不異於古所云邪?

私は、その地の現在が、古からいう通りと違っていないと、どうして知ることができるのか。それはわからない。

聊以吾子之行卜之也。董生勉乎哉!

そこでしばらく、君の今度の旅で、その地の気風がどうであるかをうらなってみようと思う。董生よ、元気を出して行くがよい。

§2

吾因子有所感矣!

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

復有昔時屠狗者乎?

為我謝曰:「明天子在上,可以出而仕矣!」

 

(董邵南を送る序)

燕、趙の国は、古え、感慨悲歌の士多しと称す。

董生進士に挙げられ、連【しきり】に志を有司に得ず。

利器を懐抱して、鬱鬱として玆の土に適く。

吾其の必ず合ふこと有るを知るなり。董生勉めよや。

#2

夫れ子の時に遇はざるを以て、苟【いやしく】も義を慕ひ仁を彊【つと】むる者は、皆 愛惜す。

矧【いわん】や燕趙の士、其の性に出づる者をや。

然れども 吾 嘗て聞く、風俗は化と移易すと。

吾悪んぞ其の今の古の云ふ所に異ならざるを知らんや。聊か吾子の行を以て之を卜するなり。董生勉よや。

#3

吾 子に因って感ずる所有り!

我が為に望諸君の墓に弔い,而して其の市を觀よ,

復た昔時の屠狗者有らんか?

為我がに謝して曰へ:「明天子 上に在り,以って出でて仕う可し!」と。

 

春秋戦国勢力図 

『送董邵南序』 現代語訳と訳註解説

(本文)

§Ⅰ-2

夫以子之不遇時,苟慕義彊仁者,皆愛惜焉;

矧燕趙之士,出乎其性者哉!

然吾嘗聞:風俗與化移易。

吾惡知其今不異於古所云邪?

聊以吾子之行卜之也。董生勉乎哉!

 

(下し文) #2

夫れ子の時に遇はざるを以て、苟【いやしく】も義を慕ひ仁を彊【つと】むる者は、皆 愛惜す。

矧【いわん】や燕趙の士、其の性に出づる者をや。

然れども 吾 嘗て聞く、風俗は化と移易すと。

吾悪んぞ其の今の古の云ふ所に異ならざるを知らんや。聊か吾子の行を以て之を卜するなり。董生勉よや。

 

(現代語訳)

一体君が時に遇わず不仕合わせなことを、かりそめにも正義を慕い、仁愛の道につとめる老ならば、皆愛し惜しむのである。

まして燕趙の慷慨悲歌の人士の、その天性に出た者たちが愛惜するのは勿論のことである。

しかし私は以前に聞いた、「土地の風俗は教化によって移りかわるものだ」ということを。

私は、その地の現在が、古からいう通りと違っていないと、どうして知ることができるのか。それはわからない。

そこでしばらく、君の今度の旅で、その地の気風がどうであるかをうらなってみようと思う。董生よ、元気を出して行くがよい。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

(訳注) §Ⅰ-2

送董邵南序(董邵南を送る序)

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

董邵南は寿州(安徽省)安豊の人、孝行ものであった。韓愈は「嗟哉董生行」という詩を贈った。その河北に行くのを送った序である。

貞元中に仕官の道が絶えたので、各地の節度傍らが人材を招いて参洛陽 函谷関002謀とし、朝命を奉ぜず専横を極めた。董邵南も河北の潘鎮に招かれて行くのを、韓愈は大義上不賛成の意を含んで、この送序を作って諷した。

嗟哉董生行 <42>#1Ⅱ韓退之(韓愈)詩315 紀頌之の漢詩ブログ 1024

嗟哉董生行 <42>#2Ⅱ韓退之(韓愈)詩316 紀頌之の漢詩ブログ 1027

嗟哉董生行 <42>#3Ⅱ韓退之(韓愈)詩317 紀頌之の漢詩ブログ 1030

 

夫以子之不遇時,苟慕義彊仁者,皆愛惜焉;

一体君が時に遇わず不仕合わせなことを、かりそめにも正義を慕い、仁愛の道につとめる老ならば、皆愛し惜しむのである。

○不遇時 時世に遇わない。不仕合わせ。

○彊仁 仁に強(い)めるに同じ。仁道を努力して行う。

 

矧燕趙之士,出乎其性者哉!

まして燕趙の慷慨悲歌の人士の、その天性に出た者たちが愛惜するのは勿論のことである。

○矧 いはんや。況と同じ。まして……いうまでもない。

○燕趙之士 燕国と趙国、すなわち河北の地は、古来時世に感じ、慷慨悲憤を歌った人物が多かった。李白《俠客行》「趙客縵胡纓,吳鉤霜雪明。」(趙客 縵胡の纓,吳鉤 霜雪明かなり。)

 

然吾嘗聞:風俗與化移易。

しかし私は以前に聞いた、「土地の風俗は教化によって移りかわるものだ」ということを。

○移易 うつりかわる。易はかわる。

 

吾惡知其今不異於古所云邪?

私は、その地の現在が、古からいう通りと違っていないと、どうして知ることができるのか。それはわからない。

 

聊以吾子之行卜之也。董生勉乎哉!

そこでしばらく、君の今度の旅で、その地の気風がどうであるかをうらなってみようと思う。董生よ、元気を出して行くがよい。

○吾子 君。親愛の二人称。

 

 

『送董邵南序』の【本文】

嗟哉董生行  #1

淮水出桐柏,山東馳遙遙、千里不能休;

淝水出其側,不能千里  ,百里入淮流。

壽州屬縣有安豐,唐 貞元時,縣人 董生召南,隱居行義於其中。

刺史不能薦,天子 不聞名聲。

嗟哉董生行 <42>#1Ⅱ韓退之(韓愈)詩315 紀頌之の漢詩ブログ 1024

爵祿不及門,門外惟有吏,日來征租更索錢。

嗟哉董生,朝出耕夜歸讀古人書,盡日不得息。

或山而樵,或水而漁。

入廚具甘旨,上堂問起居。

父母不戚戚,妻子不咨咨。

嗟哉董生孝且慈,人不識,惟有天翁知,生祥下瑞無時期。

嗟哉董生行 <42>#2Ⅱ韓退之(韓愈)詩316 紀頌之の漢詩ブログ 1027

#3

家有狗乳出求食,雞來哺其兒。

啄啄庭中拾蟲蟻,哺之不食鳴聲悲。

彷徨躑躅久不去,以翼來覆待狗歸。

嗟哉董生,誰將與儔?

時之人,夫妻相虐,兄弟爲讎。

食君之祿,而令父母愁。

亦獨何心,嗟哉董生無與儔。

嗟哉董生行 <42>#3Ⅱ韓退之(韓愈)詩317 紀頌之の漢詩ブログ 1030

 

(嗟哉【ああ】董生の行【うた】)

准水【わいすい】は桐柏【とうはく】より出で、山東に馳【は】せて 遙遙【ようよう】、千里 休む能【あた】はず。

淝水【ひすい】は其の側【かたわら】に出で、千里なる能はざれども、百里にして淮に入りて 流る。

壽州【じゅしゅう】の屬縣【ぞくけん】に安豊【あんぽう】有り、唐の貞元【ていげん】の時、縣人の董生【とうせい】召南【しょうなん】あり、隠れ居【す】みて 義を其の中【うち】に行ふ。

刺史【しし】は薦むる能はず、天子は名聾を聞かず。

#2

爵祿【しゃくろく】門に及ばず、門外 惟【ただ】吏【り】あるのみ、日に来って租を徹し更に餞を索【もと】む。

嗟哉【ああ】董生【とうせい】、朝に出でて耕し、夜は掃って古人の書を読む、尽日 息ふことを得ず。

或は山に樵【しょう】し、或は水に漁す。

厨【くりや】に入って甘旨【かんし】を具【ととの】へ、堂に上って起居を問ふ。

父母は戚戚たらず、妻子は咨咨【しし】たらず。

嗟哉【ああ】董生【とうせい】 孝にして且 慈【じ】、人識らず、惟 天翁【てんおう】のみ知る有り、祥を生じ 瑞【ずき】を下し 時期 無し。

#3

家に狗【いぬ】の乳する有り 出でて食を求む、鷄【にわとり】来って その児【こ】を哺【はぐく】まむとす。

啄啄【たくたく】として庭中に蟲蟻【ちゅうぎ】を拾ふ、之を哺【はぐく】ましめむとすれども食はず 鳴く聲悲し。

彷徨【ほうこう】し躑躅【てきちょく】して 久しく去らず、翼を以て来り覆うて 狗の歸るを待つ。

嗟哉 董生、誰を以てか與【とも】に儔【たぐ】へむ。

時の人、夫妻 相 虐【さいな】み 兄弟讎【あた】を爲す。

君の祿を食【は】み、而【しか】も 父母をして愁へしむ。

亦 濁り何の心ぞ、嗟哉 董生、與【とも】に儔【たぐ】へむもの無し。
汜水関などの地図 

31 《讀巻04-15 送董卲南序》韓愈(韓退之)ID 795年貞元11年 28歳<1277> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5369

韓愈《讀巻04-15 送董卲南序》董生は進士に挙げられて試験を受けたが、連年試験官に阻まれて仕官の志を得られなかったのだ。それで、すぐれた器量を身に抱きながら、不平に心ふさがりつつ、その河北の地に行こうとしている。

 
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31 《讀巻04-15 送董卲南序》韓愈(韓退之)ID  795年貞元11年 28歳<1277> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5369
韓愈詩-31

 

795年貞元11年 28歳

 

 

送董邵南序

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

§1-1

燕趙古稱多慷慨悲歌之士。

古の燕国と趙国、すなわち河北の地は、古来時世に感じ、慷慨悲憤を歌った人物が多かったという。

董生舉進士,連不得志於有司,

董生は進士に挙げられて試験を受けたが、連年試験官に阻まれて仕官の志を得られなかったのだ。

懷抱利器,鬱鬱適茲土。

それで、すぐれた器量を身に抱きながら、不平に心ふさがりつつ、その河北の地に行こうとしている。

吾知其必有合也。董生勉乎哉!

私は君が必ずその地の人々と気質の合うことがあるのを知っている。董生よ、勉めて行くがよい。

§Ⅰ-2

夫以子之不遇時,苟慕義彊仁者,皆愛惜焉;

矧燕趙之士,出乎其性者哉!

然吾嘗聞:風俗與化移易。

吾惡知其今不異於古所云邪?

聊以吾子之行卜之也。董生勉乎哉!

§2

吾因子有所感矣!

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

復有昔時屠狗者乎?為我謝曰:「

 

明天子在上,可以出而仕矣!」

 

(董邵南を送る序)

燕、趙の国は、古え、感慨悲歌の士多しと称す。

董生進士に挙げられ、連【しきり】に志を有司に得ず。

利器を懐抱して、鬱鬱として玆の土に適く。

吾其の必ず合ふこと有るを知るなり。董生勉めよや。

#2

夫れ子の時に遇はざるを以て、苟【いやしく】も義を慕ひ仁を彊【つと】むる者は、皆 愛惜す。

矧【いわん】や燕趙の士、其の性に出づる者をや。

然れども 吾 嘗て聞く、風俗は化と移易すと。

吾悪んぞ其の今の古の云ふ所に異ならざるを知らんや。聊か吾子の行を以て之を卜するなり。董生勉よや。

#3

吾 子に因って感ずる所有り!

我が為に望諸君の墓に弔い,而して其の市を觀よ,

復た昔時の屠狗者有らんか?

為我がに謝して曰へ:「明天子 上に在り,以って出でて仕う可し!」と。

 

戦国時代勢力図 

『送董邵南序』 現代語訳と訳註解説

(本文)

送董邵南序

§1-1

燕趙古稱多慷慨悲歌之士。

董生舉進士,連不得志於有司,

懷抱利器,鬱鬱適茲土。

吾知其必有合也。董生勉乎哉!

 

(下し文)

(董邵南を送る序)

燕、趙の国は、古え、感慨悲歌の士多しと称す。

董生進士に挙げられ、連【しきり】に志を有司に得ず。

利器を懐抱して、鬱鬱として玆の土に適く。

吾其の必ず合ふこと有るを知るなり。董生勉めよや。

 

夫れ子の時に遇はざるを以て、苟【いやしく】も義を慕ひ仁を彊【つと】むる者は、皆 愛惜す。

矧【いわん】や燕趙の士、其の性に出づる者をや。

然れども 吾 嘗て聞く、風俗は化と移易すと。

吾悪んぞ其の今の古の云ふ所に異ならざるを知らんや。聊か吾子の行を以て之を卜するなり。董生勉よや。

 

(現代語訳)

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

古の燕国と趙国、すなわち河北の地は、古来時世に感じ、慷慨悲憤を歌った人物が多かったという。

董生は進士に挙げられて試験を受けたが、連年試験官に阻まれて仕官の志を得られなかったのだ。

それで、すぐれた器量を身に抱きながら、不平に心ふさがりつつ、その河北の地に行こうとしている。

私は君が必ずその地の人々と気質の合うことがあるのを知っている。董生よ、勉めて行くがよい。

 

(訳注)

送董邵南序(董邵南を送る序)

(董生に対して、燕に行かずに、朝廷に仕えよという意を諷したものである。)

董邵南は寿州(安徽省)安豊の人、孝行ものであった。韓愈は「嗟哉董生行」という詩を贈った。その河北に行くのを送った序である。

貞元中に仕官の道が絶えたので、各地の節度傍らが人材を招いて参謀とし、朝命を奉ぜず専横を極めた。董邵南も河北の潘鎮に招かれて行くのを、韓愈は大義上不賛成の意を含んで、この送序を作って諷した。

嗟哉董生行 <42>#1Ⅱ韓退之(韓愈)詩315 紀頌之の漢詩ブログ 1024

嗟哉董生行 <42>#2Ⅱ韓退之(韓愈)詩316 紀頌之の漢詩ブログ 1027

嗟哉董生行 <42>#3Ⅱ韓退之(韓愈)詩317 紀頌之の漢詩ブログ 1030

 

 

燕趙古稱多慷慨悲歌之士。

燕、趙の国は、古え、感慨悲歌の士多しと称す。

古の燕国と趙国、すなわち河北の地は、古来時世に感じ、慷慨悲憤を歌った人物が多かったという。

慷慨悲歌之士 楽毅・荊軻らのようにの憂色は濃く、深い者、悲憤の人士者が出ている。楽 毅は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。荊 軻は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。

 

董生舉進士,連不得志於有司,

董生進士に挙げられ、連【しきり】に志を有司に得ず。

董生は進士に挙げられて試験を受けたが、連年試験官に阻まれて仕官の志を得られなかったのだ。

董生 董先生、董君というのと同じ。

連 引き続き、連年。しきりに。

有司 試験官。 

 

懷抱利器,鬱鬱適茲土。

利器を懐抱して、鬱鬱として玆の土に適く。

それで、すぐれた器量を身に抱きながら、不平に心ふさがりつつ、その河北の地に行こうとしている。

茲土 この土地、燕、趙の地。

 

吾知其必有合也。董生勉乎哉!

吾其の必ず合ふこと有るを知るなり。董生勉めよや。

私は君が必ずその地の人々と気質の合うことがあるのを知っている。董生よ、勉めて行くがよい。

 

 

 

嗟哉董生行  #1

淮水出桐柏,山東馳遙遙、千里不能休;

淝水出其側,不能千里  ,百里入淮流。

壽州屬縣有安豐,唐 貞元時,縣人 董生召南,隱居行義於其中。

刺史不能薦,天子 不聞名聲。

嗟哉董生行 <42>#1Ⅱ韓退之(韓愈)詩315 紀頌之の漢詩ブログ 1024

爵祿不及門,門外惟有吏,日來征租更索錢。

嗟哉董生,朝出耕夜歸讀古人書,盡日不得息。

或山而樵,或水而漁。

入廚具甘旨,上堂問起居。

父母不戚戚,妻子不咨咨。

嗟哉董生孝且慈,人不識,惟有天翁知,生祥下瑞無時期。

嗟哉董生行 <42>#2Ⅱ韓退之(韓愈)詩316 紀頌之の漢詩ブログ 1027

#3

家有狗乳出求食,雞來哺其兒。

啄啄庭中拾蟲蟻,哺之不食鳴聲悲。

彷徨躑躅久不去,以翼來覆待狗歸。

嗟哉董生,誰將與儔?

時之人,夫妻相虐,兄弟爲讎。

食君之祿,而令父母愁。

亦獨何心,嗟哉董生無與儔。

嗟哉董生行 <42>#3Ⅱ韓退之(韓愈)詩317 紀頌之の漢詩ブログ 1030

 

(嗟哉【ああ】董生の行【うた】)

准水【わいすい】は桐柏【とうはく】より出で、山東に馳【は】せて 遙遙【ようよう】、千里 休む能【あた】はず。

淝水【ひすい】は其の側【かたわら】に出で、千里なる能はざれども、百里にして淮に入りて 流る。

壽州【じゅしゅう】の屬縣【ぞくけん】に安豊【あんぽう】有り、唐の貞元【ていげん】の時、縣人の董生【とうせい】召南【しょうなん】あり、隠れ居【す】みて 義を其の中【うち】に行ふ。

刺史【しし】は薦むる能はず、天子は名聾を聞かず。

#2

爵祿【しゃくろく】門に及ばず、門外 惟【ただ】吏【り】あるのみ、日に来って租を徹し更に餞を索【もと】む。

嗟哉【ああ】董生【とうせい】、朝に出でて耕し、夜は掃って古人の書を読む、尽日 息ふことを得ず。

或は山に樵【しょう】し、或は水に漁す。

厨【くりや】に入って甘旨【かんし】を具【ととの】へ、堂に上って起居を問ふ。

父母は戚戚たらず、妻子は咨咨【しし】たらず。

嗟哉【ああ】董生【とうせい】 孝にして且 慈【じ】、人識らず、惟 天翁【てんおう】のみ知る有り、祥を生じ 瑞【ずき】を下し 時期 無し。

#3

家に狗【いぬ】の乳する有り 出でて食を求む、鷄【にわとり】来って その児【こ】を哺【はぐく】まむとす。

啄啄【たくたく】として庭中に蟲蟻【ちゅうぎ】を拾ふ、之を哺【はぐく】ましめむとすれども食はず 鳴く聲悲し。

彷徨【ほうこう】し躑躅【てきちょく】して 久しく去らず、翼を以て来り覆うて 狗の歸るを待つ。

嗟哉 董生、誰を以てか與【とも】に儔【たぐ】へむ。

時の人、夫妻 相 虐【さいな】み 兄弟讎【あた】を爲す。

君の祿を食【は】み、而【しか】も 父母をして愁へしむ。

亦 濁り何の心ぞ、嗟哉 董生、與【とも】に儔【たぐ】へむもの無し。

30-(8) §3-3 《讀巻05-05 畫記 -(8)》韓愈(韓退之)ID 795年貞元11年 28歳<1276> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5364

韓愈《讀巻05-05 畫記 -(8) §3-3》私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。

 

 
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30-(8) §3-3 《讀巻05-05 畫記 -(8)》韓愈(韓退之)ID  795年貞元11年 28歳<1276> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5364

韓愈詩-30-(8) §3-3

 

 

(6)§3-1

貞元甲戌年,余在京師甚無事。

貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。

同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。

同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。

余幸勝而獲焉,意甚惜之。

私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。

以為非一工人之所能運思。

思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。

蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。

それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。

 (7)-2

明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。

翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。

座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。

その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。

少而進曰:「噫!余之手摸也。

しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。

亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。

この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。

得國本,絕人事而摸得之。

国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。

 

(8) -3

遊閩中而喪焉。

ところが後に閩中に旅をした時に、これを失ってしまった。

居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。

閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。

今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」

今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。

 

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。

私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。

 

(6)§3-1

貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。

余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。

以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,

蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。

(7)-2

明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。

君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。

少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。

之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。

國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。

 

(8) -3

閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。

居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。

今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」

 

余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。

 

 

『畫記』 現代語訳と訳註解説

(本文) (8)§3-3

遊閩中而喪焉。

居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。

今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」

 

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。

 

(下し文) (8) -3

閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。

居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。

今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」

 

余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。

 

(現代語訳)

ところが後に閩中に旅をした時に、これを失ってしまった。

閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。

今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。

私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。

 

(訳注)

〈畫記〉7.§3-2

(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)

時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。

795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。

この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。

 

遊閩中而喪焉。

ところが後に閩中に旅をした時に、これを失ってしまった。

○閩中 郡名、福建省の地方を閩という。

 

居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。

閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。

○居閒 閑暇な生活に居る。

○處獨 孤独に処る時。

○夙好之篤 若いころの好みが熱心であった。

 

今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」

今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。

○大都 おおよそ。あらまし。

 

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。

私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。

○自釈 自分で画を手放した恨みをなぐさめる。釈はゆるめ解く。

30-(7) §3-2 《讀巻05-05 畫記 -(7)》韓愈(韓退之)ID 795年貞元11年 28歳<1275> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5359

韓愈§3-2 《讀巻05-05 畫記 -(7)》この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。

 

 
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韓愈詩-30-(7) §3-2

 

 

(6)§3-1

貞元甲戌年,余在京師甚無事。

貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。

同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。

同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。

余幸勝而獲焉,意甚惜之。

私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。

以為非一工人之所能運思。

思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。

蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。

それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。

 (7)-2

明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。

翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。

座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。

その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。

少而進曰:「噫!余之手摸也。

しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。

亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。

この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。

得國本,絕人事而摸得之。

国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。

 

(8) -3

遊閩中而喪焉。

居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。

今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。

 

(6)§3-1

貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。

余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。

以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,

蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。

(7)-2

明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。

君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。

少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。

之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。

國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。

 

(8) -3

閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。

居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。

今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」

 

余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02洛陽 函谷関002 

『畫記』 現代語訳と訳註解説

(本文) (7)§3-2

明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。

座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。

少而進曰:「噫!余之手摸也。

亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。

得國本,絕人事而摸得之。

 

 (下し文) (7)-2

明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。

君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。

少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。

之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。

國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。

 

(現代語訳)

翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。

その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。

しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。

この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。

国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。

 

(訳注) (7)-2

〈畫記〉7.§3-2

(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)

時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。

795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。

この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。

 

明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。

翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。

京師 中国歴代王朝の都のこと(長安、洛陽、北京など)。

河陽 現在の河南省孟縣西、県城の南に孟津がある。文選·曹植·送應氏詩二首之二:「親昵並集送,置酒此河陽。」

 

座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。

その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。

 

少而進曰:「噫!余之手摸也。

しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。

○手横 手づから写した。

 

亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。

この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。

 

得國本,絕人事而摸得之。

国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。

○国本 国工の手本、国の最良の画工の描いた手本。
汜水関などの地図 

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韓愈§3-1 《讀巻05-05 畫記 -(6)》同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。

 

 
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韓愈詩-30-(6) §3-1

 

 

(6)§3-1

貞元甲戌年,余在京師甚無事。

貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。

同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。

同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。

余幸勝而獲焉,意甚惜之。

私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。

以為非一工人之所能運思。

思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。

蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。

それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。

 (7)-2

明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。

座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。

少而進曰:「噫!余之手摸也。

亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。

得國本,絕人事而摸得之。

 

(8) -3

遊閩中而喪焉。

居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。

今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。

 

(6)§3-1

貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。

余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。

以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,

蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。

(7)-2

明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。

君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。

少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。

之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。

國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。

 

(8) -3

閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。

居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。

今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」

 

余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。

 

 

『畫記』 現代語訳と訳註解説

(本文) (6)§3-1

貞元甲戌年,余在京師甚無事。

同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。

余幸勝而獲焉,意甚惜之。

以為非一工人之所能運思。

蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。

 

(下し文) (6)§3-1

貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し。

同居に獨孤生申叔という者有り、始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。

余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。

以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,

蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。

 

(現代語訳)

貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。

同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。

私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。

思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。

それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。

 

(訳注) (6)§3-1

〈畫記〉6.§3-1

(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)

時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。

795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。

この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。

 

貞元甲戌年,余在京師甚無事。

貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。

 

同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。

同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。

○彈棊 将棊の駒。碁盤は方二尺、その中央が盂(鉢)を伏せた形をして、その巓に小さな壺がある。二人が対局し黒白の駒が各八枚、互いに弾いて壺に入れて勝負を争う。

 

余幸勝而獲焉,意甚惜之。

私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。

 

以為非一工人之所能運思。

思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。

 

蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。

それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。

○藂集 叢集、藂は叢に同じ。むらがり集まる。

30-(5) §2-2 《讀巻05-05 畫記 -(5)》韓愈(韓退之)ID 795年貞元11年 28歳<1273> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5349

韓愈§2-2 《讀巻05-05 畫記 -(5)》瓶や皿、長柄の傘や笠、竹編みの箱や円箱、脚つきの釜、飲食服や身の廻りの器、投げ矢と壷や双六碁などの道具など、二百五十一、皆こまごまと上手を極めて画いてある。

 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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4.§2--1

馬大者九匹,於馬之中又有上者、下者、行者、牽者、

馬の大きなものが九匹、馬の車で、また、たけの高いもの、低いもの、歩いているもの、輓いているもの、

涉者、陸者、翹者、顧者、鳴者、寢者、訛者、立者、

水を渡るもの、陸にあがっていくもの、体を持ち上げようとする者、ふり返っているもの、鳴くもの、横になっているもの、動いているもの、立っているもの、

人立者,齕者、飲者、溲者、陟者、降者、痒磨樹者、

人のように後脚で立つもの、草をかむもの、水を飲むもの、小便をするもの、坂をのぼるもの、降りるもの、痺いので樹に体をこすりつけるもの、

噓者、嗅者、喜相戲者、怒相踶齧者、秣者、騎者、

息を吐くもの、嗅いでいるもの、喜んでたわむれるもの、怒って互いに蹴り、噛み合うもの、秣を食うもの、人が乗るもの、

驟者、走者、載服物者、載狐兔者,凡馬之事,二十有七,

速足で行くもの、走るもの、服や物を載せて引くもの、狐や免を載せているものなどがあり、およそ馬の動作は二十七態、

為馬大小,八十有三,而莫有同者焉。

馬の数は大小八十三、しかも同じものは無いのである。

5. -2

牛大小十一頭,橐駝三頭,驢如橐駝之數而加其一焉,

隼一,犬羊狐兔麋鹿共三十;旃車三兩,

雜兵器弓矢旌旗刀劍矛楯弓服矢房甲冑之屬,

缾盂簦笠筐筥錡釜飲食服用之器,

壺矢博奕之具,二百五十有一;皆曲極其妙。

 

4.§2--1

馬の大なる者が九匹,馬の中に於いて又た有上なる者、下なる者、行く者、牽く者、涉る者、陸【あが】れる者、翹【つまだ】つ者、顧る者、鳴く者、寢る者、訛【うご】く者、立つ者、人立する者,齕【か】む者、飲む者、溲【しょう】する者、陟【もぼ】る者、降る者、痒ゆくして樹に磨する者、噓する者、嗅ぐ者、喜んで相い戲むるる者、怒って相い踶齧【ていげつ】する者、秣【まぐさか】う者、騎る者、驟【か】くる者、走しる者、服物を載する者、狐兔【こと】を載する者,凡そ馬の事,二十有七,馬為ること大小,八十有三,而して同じき者有る莫し。

5. -2

牛大小十一頭,橐駝【たくだ】三頭,驢 橐駝の數の如くにして其の一を加う,隼一,犬羊狐兔麋鹿共に三十。

旃車【せんしゃ】三兩,雜兵器 弓矢 旌旗 刀劍 矛楯 弓服 矢房 甲冑の屬,缾盂【へいう】簦笠 筐筥【きょうきょ】錡釜 飲食服用の器,壺矢 博奕の具,二百五十有一。

皆 曲【つぶ】さに其の妙を極む。

 

 

6.§3-1

貞元甲戌年,余在京師甚無事,同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊,余幸勝而獲焉,意甚惜之,以為非一工人之所能運思,蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。

7.-2

明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。少而進曰:「噫!余之手摸也。亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事,得國本,絕人事而摸得之,遊閩中而喪焉。

 

8.-3

居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」

 

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。

 

洛陽 函谷関002Ta唐 長安近郊圖  新02 

『畫記』 現代語訳と訳註解説

(本文) 5. -2

牛大小十一頭,橐駝三頭,驢如橐駝之數而加其一焉,

隼一,犬羊狐兔麋鹿共三十;旃車三兩,

雜兵器弓矢旌旗刀劍矛楯弓服矢房甲冑之屬,

缾盂簦笠筐筥錡釜飲食服用之器,

壺矢博奕之具,二百五十有一;皆曲極其妙。

 

(下し文) 5. -2

牛大小十一頭,橐駝【たくだ】三頭,驢 橐駝の數の如くにして其の一を加う,隼一,犬羊狐兔麋鹿共に三十。

旃車【せんしゃ】三兩,雜兵器 弓矢 旌旗 刀劍 矛楯 弓服 矢房 甲冑の屬,缾盂【へいう】簦笠 筐筥【きょうきょ】錡釜 飲食服用の器,壺矢 博奕の具,二百五十有一。

皆 曲【つぶ】さに其の妙を極む。

 

(現代語訳)

牛は大小十一頭、駱駝は三頭、驢馬は駱駝の数と同じようで一頭だけ多い。

はやぶさは一羽、犬羊、狐兎、大鹿や鹿など、合わせて三十、旗を立てた車が三両ある。

さまざまな兵器、弓矢、旌旗、刀剣、矛と楯、弓入れやえびら、よろいやかぶとの類がみえる。

瓶や皿、長柄の傘や笠、竹編みの箱や円箱、脚つきの釜、飲食服や身の廻りの器、

投げ矢と壷や双六碁などの道具など、二百五十一、皆こまごまと上手を極めて画いてある。

 

 

(訳注) 5. -2

〈畫記〉5.§2-2

(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)

時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。

795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。

この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。

 

牛大小十一頭,橐駝三頭,驢如橐駝之數而加其一焉,

牛は大小十一頭、駱駝は三頭、驢馬は駱駝の数と同じようで一頭だけ多い。

○橐駝 橐はふくろ、駝はらくだ。橐は駱駝の背肉が嚢のようなのでいう。

 

隼一,犬羊狐兔麋鹿共三十;旃車三兩,

はやぶさは一羽、犬羊、狐兎、大鹿や鹿など、合わせて三十、旗を立てた車が三両ある。

○狐兔麋鹿 狐と兔、大鹿と鹿。

○旃車 旗を掲げた車。

 

雜兵器弓矢旌旗刀劍矛楯弓服矢房甲冑之屬,

さまざまな兵器、弓矢、旌旗、刀剣、矛と楯、弓入れやえびら、よろいやかぶとの類がみえる。

○弓服 弓袋。

○矢房 矢入れ、箙【えびら】。

 

缾盂簦笠筐筥錡釜飲食服用之器,

瓶や皿、長柄の傘や笠、竹編みの箱や円箱、脚つきの釜、飲食服や身の廻りの器、

○缾盂 缾は瓶に同じ。盂は皿、鉢。

○簦笠 長柄の傘。

○筐筥 ・筐:竹編みの角箱。・筥:竹編みの円箱。

○錡釜 三本の脚のある釜を錡という。

 

壺矢博奕之具,二百五十有一;皆曲極其妙。

投げ矢と壷や双六碁などの道具など、二百五十一、皆こまごまと上手を極めて画いてある。

○壷矢 投げ矢の壷とその矢。矢を壺に投げ入れて勝負をする遊戯の道具。『春秋左氏伝』にも見える非常に古いゲームである。『礼記』および『大戴礼記』に投壺篇があり、投壺の儀礼、壺と矢の寸法、席から壺までの距離などを細かく規定している。

○博奕 双六や碁将棋の類。

○曲 つぶさに。

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