漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 中唐詩人選集【Ⅰ李商隠-150】Ⅱ韓退之(韓愈)-500Ⅶ孟郊(東野)賈島張籍柳宗元韋応物

Ⅰ李商隠は難解詩といわれている。約150首紹介済。(晩唐詩人) Ⅱ韓退之(韓愈)-約500首Ⅶ孟郊、中唐の詩人を掲載中。万物の性(さが)をテーマにした哲学的な詩。このブログは基本的に中唐詩人を中心にして掲載する予定。 韓愈詩文のこれまでの掲載分とこれから掲載予定分を時系列で整理した2014.3.29のブログに集約してそこから各年次を見ることができる  kanbuniinkai 検索で、《漢文委員会HP05》サイトあります。漢詩唐詩を理解するための総合サイト:≪漢文委員会 漢詩07≫。

2015年01月

少し、マニアックな晩唐詩人Ⅰ-李商隠150首をまず掲載済み。中唐は盛唐詩人(孟浩然・王維、杜甫、李白)を受け継いだ多様な詩人が出ている。この時代も驚くほど詩が発展している。Ⅱ韓退之(韓愈)500首、Ⅲ柳宗元40首、Ⅳ韋応物、Ⅴ劉長卿、Ⅵ韋荘、Ⅶ孟郊(孟東野)、Ⅷ張籍、Ⅸ賈島、Ⅹ劉禹錫、ほか2012~2020年の予定で気長に進める。同じ中唐ではあるが、白居易のグループについては、李白のブログ350首(2015/6月再開~2018/夏・秋月予定)の後掲載の予定。別に杜甫詩ブログ1500首(2011/7月~2018/8月の予定で)を進行中。詩数につぃては、予定の詩数より多くなる。気まぐれなところがあるのでこの予定が少し変わる場合があり、その節はご容赦ください。                 古詩・謝霊運詩 杜甫詩 韓愈詩 花間集500首全詩 それぞれ毎日ブログしています。 このブログ、索引=語句の「検索」 参考書以上掲載。漢詩力up。

33-07-§3-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》韓愈(韓退之)ID 800年貞元16年 34歳<1299> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5479

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

 
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33-07-§3-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(7)》韓愈(韓退之)ID  800年貞元16 34歳<1299 Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5479
韓愈詩-33-07-§3-2

 

 

韓愈詩-33-01-§1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

惠之大小、必以力復。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

斯其所謂仁歟。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

吾不知其勇也。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

辟雍00 

§3-1

惜乎蕃之居下。

惜しいことに、何蕃は下位に居た。

其可以施於人者不流也。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

川者高、澤者卑。

川は位置が高く、沢は低い。

高者流、卑者止。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

積者多、施者不遐也。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。

§-3-1

惜しいかな蕃の下に居る。

その以って人に施すべきものは流せず。こ

れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。

然則澤之道其亦有施乎。

そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。

抑有待於彼者歟。

それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。

§-3-2

 天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

抑々彼に待つもの有るか。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

文具-峡 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。



(下し文) §-3-2

 天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

抑々彼に待つもの有るか。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

(現代語訳)
しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。

そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。

それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。

それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。


(訳注) §3-2

(太学生何蕃伝) 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。

太學 大学。

 

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

しかし天が雨を降らそうとするとき、水気は立ちのぼって、川や沢、谷水や谷川の高低の区別もないのである。

 

然則澤之道其亦有施乎。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

そうだとすれば、沢となって下位にいるものの道徳でも、それこそ施すすべがあるわけであろうか。

○沢之道 たとえは沢のような低い地位の者の道徳。

 

抑有待於彼者歟。

抑々彼に待つもの有るか。

それはともかく、沢でなく、川として高い為政者の地位を待つことが必要があるというのであろうか。

○抑有待於彼者歟 それはさておき、彼、すなわち川のように高い為政者の地位を待つ必要があるのであろうか。

 

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

それ故凡そ貧しく賎しい人士は、必ずその地位を得るということを待つことでないといけないのである。待って成せば、はじめて、確かに立って道を行う立場があるのである。それはひとり何蕃だけであろうか。

○獨何蕃歟 何蕃だけであろうか。人皆そうである。

 

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

世の貧賤の士は共に皆そうである。私はそれ故に、このことを言って何蕃の事を伝わらなくさせないようにするのである。
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韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》  惜しいことに、何蕃は下位に居た。それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。川は位置が高く、沢は低い。高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

 

 
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33-06-§3-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15 32歳<1298> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5474韓愈詩-33-06-§3-1

 

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

惠之大小、必以力復。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

斯其所謂仁歟。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

吾不知其勇也。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

惜しいことに、何蕃は下位に居た。

其可以施於人者不流也。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

川者高、澤者卑。

川は位置が高く、沢は低い。

高者流、卑者止。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

積者多、施者不遐也。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。

§-3-1

惜しいかな蕃の下に居る。

その以って人に施すべきものは流せず。こ

れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-2

 天 将【まさ】に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。

然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。

抑々彼に待つもの有るか。

故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。

吾 是【ここ】を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。


(下し文) §-3-1

惜しいかな蕃の下に居る。

その以って人に施すべきものは流せず。こ

れを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

(現代語訳)
惜しいことに、何蕃は下位に居た。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

川は位置が高く、沢は低い。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。


(訳注) §3-1

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。

太學 大学。

 

惜乎蕃之居下。

惜しいかな蕃の下に居る。

惜しいことに、何蕃は下位に居た。

〇居下 下位に居る。

 

其可以施於人者不流也。

その以って人に施すべきものは流せず。

それで、人に施すことのできる功徳は、広く伝わらなかったのである。

○不流 伝わらない。広く行きわたらない。

 

譬之水、其爲澤不爲川乎。

これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。

水に替えれば、沢となって、川とならないもののようであろうか。

 

川者高、澤者卑。

川は高く、沢は卑【ひく】し。

川は位置が高く、沢は低い。

 

高者流、卑者止。

高きものは流れ、卑きものは止まる。

高いものは低きに流れ、低いものは止まって流れない。

 

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

是の故に蕃の仁義諸【これ】を心に充たし、これを太学に行う。

この故に何蕃の仁義の徳は、これを自分の心に満たして、これを大学生活の中で行った。

○充諸心 これを心に充たす。諸は「これを……に」と読む。

 

積者多、施者不遐也。

積むものは多くして、施すものは遐【とお】からざるなり。

積み上げて蓄えたものは多かったが、しかも施す場合は遠くまで及ばなかったのである。

不遐 遠からずと同じ。遐は遠。

33-05-§2-3 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(5)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1297> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5469

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(5)それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

 

 
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§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

惠之大小、必以力復。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

斯其所謂仁歟。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

吾不知其勇也。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

 

 

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。



(下し文) §-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。

恵の大小、必ず力を以って復す。

斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。

吾その勇を知らざるなり」と。

歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。

蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

(現代語訳)
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何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。



(訳注) §2-3

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。

太學 大学。

 

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。

何蕃は諸生の死者で落ち着きさきのない者を葬ってやり、その父を亡くした子供を可哀そうに思って養ってやった。

 

惠之大小、必以力復。

恵の大小、必ず力を以って復す。

人に対する恵みは、大きいものも小さなものも、必ず自分の力を尽くして心にかけてつとめる。

○恵之大小 人に恵むこと、大小とも。(人から恵まれたことと解する説もある。)

○以力復 力を以て常に、幾度も試みおこなう。復には度々する。繰り返すの意がある。(但し恵みを人から受けたと解する説では、力を尽くして恩返しをすると解する。)

 

斯其所謂仁歟。

斯【こ】れそれ所謂仁なるか。

これが欧陽詹のいう所の仁なのであろうか。

歐陽詹生 歐陽詹は字は行周、貞元の間に韓愈や李観等と共に進士に及第、国子四門学助教、後に博士となる。愈の友人。

 

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。

しかし「何蕃の力は自分の体を自由に動かすのにも堪えないし、その容貌は、自分の心を蔽うのにも堪えられないのである。」

 

吾不知其勇也。

吾その勇を知らざるなり」と。

「だから、私は彼に勇気があるとは思わない」と。

 

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。

それに対して欧陽詹生はいう、朱泚の乱に、大学の諸生はすべて賊に従おうとして、何蕃の所に来て、彼も起ち上がることを請い求めた。何蕃は顔色を正しく改めて、彼らを叱りつけた。

○朱批 符宗の時大尉に拝され、挑令言が兵を督して京を過ぎた時に乱が起こり、天子は奉天に奔った。全日は朱牝を奉じて皇帝となし、大秦と号し、応元と年号を改め、後に漢と称し、天皇と改元したが、李虚に敗れて影原で部将に殺された。建中四年(七八三)に乱が起こり、翌年に平らぐ。

 

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

それで大学六館の士はすべてこの乱に従わなかった。これは彼の勇気ではないか、と。まことにその通りである。

33-04-§2-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(4)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1296> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5464

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(4)》 欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

 
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韓愈詩-33-04-§2-2

 

 

韓愈詩-33-

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

Ta唐 長安近郊圖  新02洛陽 函谷関002 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。



(下し文) §-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

(現代語訳)
諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

或る者がいうに、「何蕃は大学にいる時、諸生たちは蕃の影響力で筋道にはずれた行いをしなかった。」と。

辟雍00
(訳注) §2-2

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。

太學 大学。

 

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

諸生はこれを留めることができなかったので、そこで薯を空いている宿舎に閉じこめておいた。

 

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

ここに大学の六館の士かん百余人は、また何蕃の道義にかなった行いを、司業陽城先生に言い、何蕃を諭し留めて欲しいと願った。

大学六館之士 唐に六学がある、その大館の士。国子監に大学あり、小は国子学、二は大学、三は四門学、四は律学、五は書学、六は算学である。また七学と称する場合には大学の次に広文学(広文館)を入れる。しかし『唐書選学志』や『旧唐書職官志』などには均しく六学に作って、広文鮨をはぶいているのが通例である。大学を入れて六学、大館の意味に解すべきであろう。大学と六館ではない。それ放下文に「大館の士乱に従はず」という。

 

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

ところがこの時、大学では祭酒が欠点であり、ちょうど陽先生が朝廷を出て道州に遣られた時だったので、蕃を留めることを果たせなかった。

 

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

欧陽魯生は言った、「何蕃は仁愛の情があり勇気のある人である」と。

歐陽詹生 歐陽詹は字は行周、貞元の間に韓愈や李観等と共に進士に及第、国子四門学助教、後に博士となる。愈の友人。

 

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33-03-§2-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(3)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15 32歳<1295 Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5459

 

韓愈詩-33-03-§2-1

 

 

韓愈詩-33-01-§1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

汜水関などの地図 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。


(下し文) §-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。

父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。ま

たこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。

一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

(現代語訳)
何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

函谷関002
(訳注)

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

何蕃は准南郡の人で、父母はともに健全に生存している。

 

初入太學、歳率一歸。

初め大学に入ったころ、歳ごとにおおむね一度は帰っていた。

 

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

父母は学業に差し支えるので帰るのを留めた。それから後は、一、二年を隔てるようにし、そのあとで一度帰省した。

 

又止之。不歸者五歳矣。

父母はまたこれを止めた。帰らないことが五年になった。

 

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

何蕃は全くの親孝行の人であった。親が老いたのを心配して、自分で堪えられなくなる。

○純孝 孝心の篤いこと。『左伝』隠公元年に「頴考叔は純孝なり」とある。

○不自克 自分の憂心に堪えられない。克はたふると訓ずる。

 

一日、揖諸生、歸養于和州。

ある日諸生に会釈して故郷和州に帰って父母を養おうとした。

○揖 会釈、挨拶する。

33-02-§1-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(2)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1294> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5454

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(2)》 司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

 

 
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33-02-§1-2 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(2)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15 32歳<1294 Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5454

韓愈詩-33-02-§1-2

 

 

韓愈詩-33-01-§1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

以是無成功。

この故に成功することがなかったのである。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

Ta唐 長安近郊圖  新02洛陽 函谷関002 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

以之升於禮部、而以聞於天子。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

爲禮部者、率蕃所不合者。

以是無成功。

 

(下し文) §1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

(現代語訳)
司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

この故に成功することがなかったのである。


(訳注) §1-2

(太学生何蕃伝)§-1-2 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。

太學 大学。

 

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、

司業や祭酒は、何蕃の多くの行いの中で最も輝かしいもの数十余事を記し列ねている。

撰次 記し列ねる。次は順序にの意。

焯焯 輝く貌。

 

以之升於禮部、而以聞於天子。

これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

これを礼部に上告して、それを天子に申し上げた。

以聞 上聞に達する。知らせる意。

 

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。

長安の都の諸生たちは、何蕃を薦めることを名目として、自分の説を飾る者が多く、数え記すことができないほどである。

選紀 数え記すこと。この選は算出すること。

 

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。

公卿大夫の中で何蕃を知る者は肩を並べて朝廷に立ってはいるけれども、科挙の役所、礼部省の役人となるものがなかった。

比肩 肩をならべて立つ。多い形容。

 

爲禮部者、率蕃所不合者。

礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。

礼部の試験官となった者は、大抵 何蕃の合わない所の者であった。

 おおむね。

 

以是無成功。

是を以って成功無し。

この故に成功することがなかったのである。

33-01-§1-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(1)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1293> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5449

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(1)大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

 

 
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33-01-§1-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(1)》韓愈(韓退之)ID  799年貞元15 32歳<1293 Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5449

 

韓愈詩-33-01-§1-1

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 巻五  太学生何蕃伝

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

歳擧進士、學成行尊。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相與言於助教博士。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教博士以状申於司業祭酒。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

§1-2

司業祭酒、撰次蕃之羣行焯焯者數十餘事、

以之升於禮部、而以聞於天子。

京師諸生以薦蕃名文説者、不可選紀。

公卿大夫知蕃者、比肩立莫爲禮部。

爲禮部者、率蕃所不合者。

以是無成功。

 

(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

相与【とも】に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

§1-2

司業祭酒、蕃の群行焯焯【しゃくしゃく】たるもの数十余事を撰次(せんじ)し、これを以って礼部に升【のぼ】せ、而【しこ】うして以って天子に聞(ぶん)す。

 京師の諸生の以って蕃が文説【ぶんせつ】に名あるを薦【すす】むる者、選紀(せんき)すべからず。公卿大夫【こうきょうたいふ】の蕃を知る者、肩を比(なら)べて立てども礼部となるもの莫し。礼部と為る者は率(おおむね)蕃が合わざるところの者なり。是を以って成功無し。

 

§2-1

蕃淮南人。父母具全。

初入太學、歳率一歸。

父母止之。其後閒一二歳乃一歸。

又止之。不歸者五歳矣。

蕃純孝人也。閔親之老不自克。

一日、揖諸生、歸養于和州。

§2-2

諸生不能止。乃閉蕃空舎中。

於是太學六館之士百餘人、又以蕃之義行、言於司業陽先生城、請愈留蕃。

於是太學闕祭酒、會陽先生出道州、不果留。

歐陽詹生言曰、蕃仁勇人也。

或者曰、蕃居太學、諸生不爲非義。

§2-3

葬死者之無歸、哀其孤而字焉。

惠之大小、必以力復。

斯其所謂仁歟。

蕃之力不任其禮、其貌不任其心。

吾不知其勇也。

歐陽詹生曰、朱泚之亂、太學緒生擧將從之、來請起蕃。

蕃正色叱之。六館之士不從亂。茲非其勇歟。

§-2-1 

蕃は淮南の人なり。父母具【とも】に全【まった】氏。初めて太学に入り、歳に率【おおむね】一たび帰る。父母之を止【とど】む。その後一二歳を間【へだ】てて乃ち一たび帰る。またこれを止む。帰らざること五歳なり。

 蕃は純孝の人なり。 親の老いたるを閔(うれ)いて自ら克たず。一日、諸生に揖【ゆう】して、和州に帰養【きよう】す。

§-2-2

諸生止むること能わず。乃ち蕃を空舎中に閉ず。

 是に於いて太学六館の士百余人、また蕃の義行を以って司業陽先生城に言い、諭して蕃を留めんと請う。

是に於いて太学は祭酒を闕【か】き、会たま陽先生も道州に出で、留むること果さず。

 歐陽詹【おうようせん】生言いて曰く「蕃な仁勇の人なり」と。

或る者曰く「蕃の太学に居るや、諸生は非義を為さず。

§-2-3

死者の帰する無きを葬り、その孤を哀れんで字【やしな】う。恵の大小、必ず力を以って復す。斯【こ】れそれ所謂仁なるか。蕃の力その体に任えず、その貌その心に任えず。吾その勇を知らざるなり」と。

 歐陽詹生曰く「朱泚【しゅせい】の乱に、太学の諸生挙【こぞ】って将にこれに従わんとし、来りて蕃の起たんことを請う。蕃色を正してこれを叱【しっ】す。六館の士乱に従わず。茲【こ】れその勇なるに非ざるか」と。

 

§3-1

惜乎蕃之居下。

其可以施於人者不流也。

譬之水、其爲澤不爲川乎。

川者高、澤者卑。

高者流、卑者止。

是故蕃之仁義充諸心、諸太學。

積者多、施者不遐也。

§3-2

天將雨、水氣上、無擇於川澤澗谿之高下。

然則澤之道其亦有施乎。

抑有待於彼者歟。

故凡貧賤之士、必有待然後能有所立、獨何蕃歟。

吾是以言之。無亦使其無傳焉。

§-3-1

 惜しいかな蕃の下に居る。その以って人に施すべきものは流せず。これを水に譬うるに、その沢を為して川を為さざるか。川は高く、沢は卑(ひく)し。高きものは流れ、卑きものは止まる。是の故に蕃の仁義諸(これ)を心に充たし、これを太学に行う。積むものは多くして、施すものは遐(とお)からざるなり。

§-3-2

 天将(まさ)に雨ふらんとするや、水気の上るは、川沢澗谿(かんけい)の高下を択ぶこと無し。然らば則ち沢の道それ亦た施すこと有るか。抑々彼に待つもの有るか。故に凡そ貧賎の士の、必ず待つこと有って然る後に能く立つところ有るは、独り何蕃のみなるか。吾是(ここ)を以ってこれを言う。亦たそれをして伝うること無からしむ無し。

 

 

『太學生何蕃傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
§1-1

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

歳擧進士、學成行尊。

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

相與言於助教博士。

助教博士以状申於司業祭酒。


(下し文)
(太学生何蕃伝)

§-1 

太学生何蕃(かばん)は、太学に入る者(こと)二十余年なり。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊(こうたか)し。

太学の諸生より推頌(すいしょう)され、敢えて蕃と歯(よわい)せず。

相与(とも)に助教博士に言う。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

(現代語訳)
(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

大学の多くの学生から蕃を推し頒めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。


(訳注)§1-1

太學生何蕃傳

(太学生何蕃伝)§-1 

(大学に入って二十余年にもなる大学生何蕃の伝記。)

太學 大学。

 

太學生何蕃、入太學者廿餘年矣。

太学生何蕃【かばん】は、太学に入る者【こと】二十余年なり。

大学生何蕃は、大学に入って二十余年にもなる。毎年進士に挙げられて試験を受けた。

 

歳擧進士、學成行尊。

歳どし進士に挙げられ、学成り行尊【こうたか】し。

学問はでき上がり、行状は尊くすぐれている。

 

自太學諸生推頌、不敢與蕃齒。

太学の諸生より推頌【すいしょう】され、敢えて蕃と歯【よわい】せず。

大学の多くの学生から蕃を推し頌めて押し切って蕃と同列になろうとはしないでいる。

○歯 同列となる。歯が列ぶことから、ならび地位を比べる意に用いる。

○推頌 尊んで徳を褒めること。 

 

相與言於助教博士。

相与【とも】に助教博士に言う。

相共にこれを助教や博士に申し出た。

○助教博士 唐では、国子苧大学・広文館・四門学に皆助教があり、博士(教授)を輔佐して学生を教えた。

 

助教博士以状申於司業祭酒。

助教博士、状を以って司業祭酒に申す。

助教や博士はその実状を司業や祭酒に申告する。

○司業祭酒 国学(太学)の行政を司る官を司業といい、博士の中で最長老の者を祭酒とする。学長職。大饗宴などの時に、長老が酒を地に祭るの嘉酒というのによる。

33-00 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(0)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1292> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5444

韓愈《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(0) 当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 
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韓愈詩-33-00

 

 

李朝は後年、節度使にまで出世し、師の学風を継いで、学者・文人として名を得た人物である。

張籍は散文作家よりむしろ詩人として、中庸期の詩壇の一方の雄となった。後世の学者が言う「韓門」は、このころから形をなし始めたと見てよかろう。自分の若い時代とほぼ同様の境遇にある後輩たちに対して、今の世には無用のものだと言いながら、愈は古文の道を教えた。それでも教えを受けたいと希望する後輩は、愈にとっては同志の士である。同志も得られたし、上官の晋の知遇もある。生計の道も、どうやら立った。愈の心境も、ようやく落ちついたのであろう。「知者の知るを簸たんのみ」というような余裕のある言葉は、こうした心のゆとりが生み出したものに違いない。

ところが貞元十五年(七九九)、愈が三十二歳の二月、節度使董晋が病死した。前にも書いたが、慣例として、人が郷里を離れた土地で(役人の任地もその一つに該当する)死んだ場合、無名の庶民が行き倒れにでもなったのならば別だが、遺族が遺体を引き取り、郷里にある先祖代々の基地まで運んで、埋葬しなければならぬ。火葬の風習がないため、遺体を棺に入れたまま運搬するので、日数も費用もかかるが、これだけは遺族のはたすべき務めとされた。むろん、遺族にそれだけの費用がない場合もあり、そのときは近所の寺などに棺を一時あずけて、金策に奔走することになる。貧窮と放浪のうちに死んだ杜甫などは、棺があずけられたままになり、郷里まで運ばれて埋められたのは、彼の孫の代になってからであった。

節度使ともなれば、費用に問題はない。むしろりっぱな行列を組んで、荘重に遺体を運ばなければ、体面にもかかわる。晋の郷里は虞郷(山西省)で、汗州からははぽ真西、直線距離で三百キロあまりになるが、中国の広い国土の中では、まず近い方であった。知己と感謝した晋に対する最後の恩返しのつもりであろう、愈は葬送の行列に加わって、汗州を出た。節度使の後任には、晋の補佐役をつとめていた陸長坂があてられた。

陸長瀬は苛酷な男であった。もともと微温的な董晋の性格に不安を感じた朝廷が、この人物を補佐役につけてよこしたのである。部下の過失を晋が兄のがしてやると、長源が容赦なく摘発するというようなことが、これまでに何度もあった。その長坂が節度使に就任しての第一声は、綱紀の粛正であり、しかもそれをただちに実行した。

董晋の寛仁に慣れていた宜武軍の将士が不安を抱いたのは、当然であろう。不安は動揺となり、陸長坂への怒りに変った。晋の遺体を捧じた葬列が汴州の城門を出てから四日の後、ついに将士の反乱が起る。長瀬は怒り狂った兵士たちの手にかかり、むざんな最期をとげた。

その知らせが葬送の一行にとどいたのは、彼らが洛陽の東の催師という町に一泊した夜であった。

このあたりの事実は、事態がいちおう鎮静してから、愈が弟子の張籍に贈った「此の日惜しむに足る可し」と題する五言古詩(韓文二)に詳しい。

この時、愈は汗州に妻子を残していた。彼がいつ結婚したのかは明らかでないが、もう長女があった。長男の乗はこの年の生まれだが、詩中に言及するところがないのを見ると、まだ母親の胎内にあったと思われる。妻ももちろんのことだが、まだ乳離れもしていない長女が、戦乱の中でどうしていることか。「騎女 未だ乳を絶たず/これを念うて忘るる能はず/忽ち我が所に在るが如く/耳に噂声を聞くが若し」というのが、この時の愈の思いであった。

しかし、そのうちに東から来た旅人があって、情報をもたらした。愈の妻子は無事である。ただ、汴州にいては危険なので、船で脱出し、洛陽とは反対方向、東方の徐州へ落ちのびたという。愈は葬列を洛陽まで送ってから、単身で東へと引き返した。汴州の南を迂回して徐州に着き、妻子と落ちあって、ここに仮の住居を定めたのは、二月も末のことであった。

汴州の反乱はほどなく鎮圧されたが、愈はもう、汴州には帰れない。節度使の幕僚は公式に任命されたものであるが、任命は私的な人選によるので、身分の保証はなかった。節度使が死んだ場合(転任のときも同じことであるが)、後任の節度使は、前任者の幕僚を引き継ぐ義務はない。むしろ自分の人選によって新たに幕僚を任じ、幕府を構成しようとする。もとの幕僚は失業するわけだが、文句は言えないのであって、この点が科挙を経て正式に任命された役人と違うところである。愈もせっかく得た幕僚の職を失ったが、運のよいことに、徐州に根拠を置く武寧軍節度使の張建封が、どれほどのつきあいがあったのかはわからないけれども、以前から愈を知っていた。汀州から避難して来た愈の一家に住居を与え、どうやら衣食にも困らぬ程度に援助してくれたのは、張建封であった。もっとも、愈の方ではいつまでも仮住居をしてはおられず、建封に甘えてもいられないので、秋になると、徐州を去ろうとした。郷里へ引きあげるつもりだったのかもしれない。その時、建封が愈を引きとめ、自分のところの幕僚に任命してくれた。

 

 

貞元十五年(799年)冬、韓愈三十二歳の作、当時の大学生は幹部候補生であったが何蕃のように科挙を失敗して二十年余りという学生がいたのである。先に「争臣論」で韓愈に痛切に批判された陽城が出てくるが、天子を諌めて国子司業に左遷され、再びこの年同州刺史に左遷された。この時何蕃が二百人の学生を指導して留任運動を起こした。歐陽詹が韓愈を四門博士に推薦したが、この騒動で取り止めとなった経緯がある。

 

 

唐宋八家文 韓愈 太学生何蕃伝

2013-08-13 10:10:37 | 唐宋八家文

太學生何蕃傳

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