807-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13

 

 

807-11元和二年40歳§-3-5《張中丞傳後敘#13》〔〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10654

傷つき痛み飢え疲れた生きのこりのものを指揮し、逃げ去ろうとしても、きっと行き着かなかったにちがいない。

賢明な二公であるから、その点をよく議論し、細かな作戦を立てたのであろう。

一つの城を守ることによって、天下の滅亡を防いだのである。

千数百人になろうとする部隊が、いまにも全滅しそうな兵卒となってしまい、これまで百万日の日日に恩徳に潤っていた兵卒の師団が、この戦いに対したのである。

 

 

 

 

韓昌黎文集  元和2年《韓昌黎文集》

 

 

元和二年、このころから、韓愈が書いた墓誌銘の類はしだいに数を増している。墓誌銘とは故人の行跡を記し、その遺徳をたたえた文章で、これを石にきざみ、棺とともに墓の中におさめる。だから本体は墓中にあって、見ることはできないが、遺族はその写しを保存して記念とし、将来、正史の列伝が書かれるときの資料ともするのである。この文章は、息子が亡父のために書くことは許されない。もっと縁の遠い一族の者か、姻戚か、あるいは亡父の友人に書いてもらうのを原則とする。ただ、同じことならば文章の上手な人に書いてもらいたいと思うのは、遺族の情として当然であろう。そこで、当代の名文家といわれるほどの人があれば、故人とは縁が薄くても、あるいは縁がなくとも、依頼に行くことがある。この場合には、もちろん相応の謝礼をしなければならない。故人の親友や遠い親戚などに頼む場合にも、相手はいちおう辞退するであろうが、謝礼を持って行くのは礼儀であった。

 かんゆが書いた墓誌銘のうち、制作時期を確定できるものに限定しても、この前年には《昌黎先生集/卷24-4考功員外盧君墓銘》ほか二篇があり、この年は《昌黎先生集/卷24-7河南少尹裴君墓誌銘》一篇に止まるが、翌年にはまた三篇、その次の年は四篇と増加する。それらの中には愈または彼の一族と関係のあった人物の墓誌銘もあるが、多くは格別の縁故もなさそうに見える。つまり、愈のところへ墓誌銘の依頼に来る人が増加したわけで、少なくとも墓誌銘に関する限り、愈の文章の評価が高くなったことを示す。そして遺族からの謝礼が貧乏に悩む愈の家計を補ったであろうことは、疑う余地がない。

 

元和2年 韓昌黎文

1.           陸渾山火和皇甫湜用其韻(韓愈全集校注 〔一〕四三三)

2.           毛頴傳  (韓愈全集校注 〔三〕一六九三)

3.           釋言   (韓愈全集校注  〔三〕一七〇一)

4.           答馮宿書  (韓愈全集校注  〔三〕一七一一)

5.           張中丞傳後序   (韓愈全集校注 〔三〕一七一五)

6.           考功廬東美墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三〇)

7.           處士盧君墓誌銘   (韓愈全集校注  〔三〕一七三六)

8.           唐故太原府参軍事苗君墓誌銘  (韓愈全集校注〔三〕一七三八)

 

張中丞傳後敘  (韓愈全集校注  〔三〕一七一五)

(全唐文/0552

      (昌黎先生-13-04

      (韓昌黎文集校注 巻二04P-73 〔雜著 書敬〕

張中丞傳後敘

§1-1

元和二年四月十三日夜,

愈與郡張籍家中舊書,

得李翰所為《張巡傳》。

1-2

翰以文章自名,為此傳頗詳密。

然尚恨有闕者:

不為許遠立傳,又不載雷萬春事首尾。

§2-1

遠雖材若不及巡者,

開門納巡,位本在巡上。

授之柄而處其下,無所疑忌,

竟與巡俱守死,成功名;

2-2

城陷而虜,與巡死先後異耳。

兩家子弟材智下,不能通知二父志,

以為巡死而遠就虜,疑畏死而辭服於賊。

2-3

遠誠畏死,何苦守尺寸之地,

食其所愛之肉,以與賊抗而不降乎?!

當其圍守時,外無蚍蜉蟻子之援,

2-4

所欲忠者,國與主耳;

而賊語以國亡主滅,遠見救援不至,

而賊來益眾,必以其言為信。

2-5

外無待而猶死守,人相食且盡,

雖愚人亦能數日而知死處矣,

遠之不畏死亦明矣。

2-6

烏有城壞其徒俱死,獨蒙愧恥求活?

雖至愚者不忍為。嗚呼!而謂遠之賢而為之耶?

§3-1

者又謂遠與巡分城而守,城之陷自遠所分始。

以此詬遠,此又與兒童之見無異。

人之將死,其藏腑必有先受其病者;

3-2

引繩而之,其必有處;

觀者見其然,從而尤之,

其亦不達於理矣。

3-3

小人之好議論,不樂成人之美,如是哉!

如巡、遠之所成就,如此卓卓,

猶不得免,其他則又何

3-

當二公之初守也,

寧能知人之卒不救,棄城而逆遁?

苟此不能守,雖避之他處何益?

及其無救而且窮也,

3-5

將其創殘餓贏之餘,雖欲去,必不達。

二公之賢,其講之精矣。

守一城,捍天下,

以千百就盡之卒,戰百萬日滋之師,

3-6

蔽遮江淮,沮遏其勢,

天下之不亡,其誰之功也!

當是時,棄城而圖存者,

不可一二數,

3-7

擅強兵坐而觀者相環也,

不追議此,而責二公以死守,

亦見其自比於逆亂,設淫辭而助之攻也。

 

§4-1

愈嘗從事於汴、徐二府,屢道於兩府間,

親祭於其所謂雙廟者。

其老人往往巡、遠時事,云:

4-2

「南霽雲之乞救於賀蘭也,賀蘭嫉巡、

遠之聲威功績出己上,不肯出師救。

愛霽雲之勇且壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽雲坐。

4-3

霽雲慷慨語曰:

『雲來時,睢陽之人不食月餘日矣。

雲雖欲獨食,義不忍,雖食,且不下咽。』

4-4

因拔所佩刀斷一指,血淋漓,以示賀蘭。

一座大驚,皆感激為雲泣下。

雲知賀蘭終無為雲出師意,

4-5

即馳去,將出城,抽矢射佛寺浮圖,

矢著其上磚半箭,曰:

『吾歸破賊,必滅賀蘭,此矢所以志也!』

4-6

愈貞元中過泗州,船上人猶指以相語:

「城陷,賊以刃脅降巡,巡不屈。

即牽去,將斬之,

4-7

又降霽雲,雲未應,巡呼雲曰:

『南八,男兒死耳,不可為不義屈!』

雲笑曰:『欲將以有為也。公有言,雲敢不死?!』即不屈。」

 

§5-1

張籍曰:

「有于嵩者,少依於巡;

及巡起事,嵩常在圍中。

籍大曆中於和州烏江縣見嵩,

嵩時年六十餘矣。

5-2

以巡初嘗得臨渙縣尉,好學,無所不讀。

籍時尚小,粗問巡、遠事,不能細也。

云:巡長七尺餘,鬚髯若神。

5-3

嘗見嵩讀《漢書》,謂嵩曰:

『何為久讀此?』嵩曰:

『未熟也。』巡曰:

『吾於書讀不過三遍,終身不忘也。』

5-4

因誦嵩所讀書,盡卷不錯一字。

嵩驚,以為巡偶熟此卷,

因亂抽他帙以試,無不盡然。

5-5

嵩又取架上諸書,

試以問巡,巡應口誦無疑。

嵩從巡久,亦不見巡常讀書也。

為文章操紙筆立書,未嘗起草。

5-6

初守睢陽時,士卒僅萬人,

城中居人亦且數萬,

巡因一見問姓名,其後無不識者。

巡怒,鬚髯輒張。

5-7

及城陷,賊縳巡等數十人坐,且將戮。

巡起旋,其眾見巡起,或起或泣。

巡曰:『汝勿怖。死,命也。』

5-8

眾泣,不能仰視。

巡就戮時,顏色不亂,陽陽如平常。

遠寬厚長者,貌如其心,

與巡同年生,月日後於巡,

呼巡為兄,死時年四十九。

5-9

嵩貞元初死於亳、宋間。

或傳嵩有田在亳、宋間,

武人奪而有之,

嵩將詣州訟理,為所殺。

嵩無子。」張籍云。

 

 

 

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