無題(鳳尾香羅薄幾重) 李商隠 20
ほかの女性のもとにいる男のことをそれでも待っている女の気持ちを詠う。



無題
鳳尾香羅薄幾重、碧文圓頂夜深縫。
あなたのものとなった印に頂いた鳳凰模様の香わしい綾絹があり、それは幾枚重ねてもほとんど厚みの感じられないほどの薄さの極上もの。夜更けの閏でわたしひとり、うすみどりの文絹でいつでも交拝の礼を行なえるよう帳を縫っています。
扇裁月魄羞難掩、車走雷聲語末通。
いま、私は班婕妤のように、月魄に似せたまるい扇をつくったけれど、その扇であなたに送る風を私一人でおこしてもはずかしいだけです。門の前を雷のような音を立てて車が駆けるたびに、私の胸は踊るけれど、あなたの声は届かない。
曾是寂蓼金燼暗、断無消息石榴紅。
以前のあなたの愛が消えてから、豪華なともし火の燃えかすだけで暗くなり、私は寂しい思いで暮しております。今も、あなたからのお便りが途絶えてしまい、あなたのために作って置いた石榴酒が、私の体のほてりと同じように燃えるような紅の色をしているのです。
斑騅只繋垂楊岸、何処西南待好風。

家のそばのしだれ柳の川岸に、まだら毛の馬がひく車もなく繋ぎっぱなしになっています。あなたからおたよりがあったなら、西南の突風のように飛んであなたの腕の中に飛び込みたい。何処にいるの。

あなたのものとなった印に頂いた鳳凰模様の香わしい綾絹があり、それは幾枚重ねてもほとんど厚みの感じられないほどの薄さの極上もの。夜更けの閏でわたしひとり、うすみどりの文絹でいつでも交拝の礼を行なえるよう帳を縫っています。
いま、私は班婕妤のように、月魄に似せたまるい扇をつくったけれど、その扇であなたに送る風を私一人でおこしてもはずかしいだけです。門の前を雷のような音を立てて車が駆けるたびに、私の胸は踊るけれど、あなたの声は届かない。
以前のあなたの愛が消えてから、豪華なともし火の燃えかすだけで暗くなり、私は寂しい思いで暮しております。今も、あなたからのお便りが途絶えてしまい、あなたのために作って置いた石榴酒が、私の体のほてりと同じように燃えるような紅の色をしているのです。
家のそばのしだれ柳の川岸に、まだら毛の馬がひく車もなく繋ぎっぱなしになっています。あなたからおたよりがあったなら、西南の突風のように飛んであなたの腕の中に飛び込みたい。何処にいるの。


(下し文)無題
鳳尾ほうびの香羅こうら 薄きこと幾重ぞ、碧文へきぶんの円頂えんちょう 夜深に縫う
扇は月魄げつはくを裁つも羞はじらいおおい難く、車は雷声を走らすも語末だ通ぜず
曾て是 寂蓼せきりょう 金燼きんじん暗く、断えて消息無く石榴せきりゅう紅なり
斑騅はんすい 只だ繋ぐ 垂楊すいようの岸、何の処か 西南好風を持たん

無題
○芸妓の現実には結ばれぬ関係、待っていてもほかの女性のもとにいる男のこと表に出さない嫉妬心を抱いた女性を、嫁入支度をととのえて待つ女性の焦躁に託して歌ったもの。清の程夢星の評に「古人云う。士は己を知る者の為に死し、女は己れを悦ぶ者の為に容づくる(史記の言葉)。故に女子に仮借して以て詞を為す。」とある。女性をセックスの対象とだけ考えられている時代の詩である。嫁入りを待つ女性と、閨で待つ女性の気持ちが同じというところからこの詩を見なければ理解できないのだ。

鳳尾香羅薄幾重、碧文圓頂夜深縫。
あなたのものとなった印に頂いた鳳凰模様の香わしい綾絹があり、それは幾枚重ねてもほとんど厚みの感じられないほどの薄さの極上もの。夜更けの閏でわたしひとり、うすみどりの文絹でいつでも交拝の礼を行なえるよう帳を縫っております。
鳳尾羅 鳳凰の模様のあるうすぎぬ。六朝時代につくられた道教の経典「黄庭内景経」に「盟(ちか)うに金簡鳳文の羅四十尺を以てす。」とある。○碧文円頂 南宋の程大昌の「演繁露」によると、唐の時代、婚礼の時、長い帳を柳の樹にめぐらせ、青いテントを張って四阿のようにつくり、そこで交拝の礼を行なったという。つまり、婚礼用の式幕をいう。

扇裁月魄羞難掩、車走雷聲語末通。
いま私は班婕妤のように、月魄に似せたまるい扇をつくったけれど、その扇であなたに送る風を私一人でおこしてもはずかしいだけです。門の前を雷のような音を立てて車が駆けるたびに、私の胸は踊るけれど、あなたの声は届かない。
扇裁月魄  漢の成帝劉鷔(紀元前51-7年)の宮人班婕好が趙飛燕のために寵を奪われて作ったという怨歌行に「裁ちて合歓の扇を為る。団として明月に似たり。」とあるのをふまえる。月魄は月の陰の部分。○羞難掩 東晋時代の歌謡、団扇郎歌に「憔悴して復た理むる無し。羞ず郎と相い見ゆるを。」と云う句があるのを利用している。中国の婚礼の儀式のときには、侍童が扇をかざして花嫁の顔を扇ぐものなのである。○雷声 いかずちの響き。それが車輪の音に似ていることをいう。漢の司馬相加(紀元前179-117年)の長門賦に「雷隠隠として響起り、声は君の車の音に象たり。」とある。

曾是寂蓼金燼暗、断無消息石榴紅。
以前のあなたの愛が消えてから、豪華なともしびの燃えかすだけで暗くなり、私は寂しい思いで暮しております。今も、あなたからのお便りが途絶えてしまい、あなたのために作って置いた石榴酒が、私の体のほてりと同じように燃えるような紅の色をしているのです。
金燼 豪華なともし火の燃えかす。○石榴紅 石榴は酒の名。赤ぶどう酒のような色。唐の姚思廉の「梁書」に、扶南国のある国に酒の樹があり、その樹は安石榴に似ている。花汁を数日甕に入れておくだけで酒となるのだという記事が見える。その注記に、石榴酒は合歓に喩えしと。なお程夢星は、梁の元帝蕭繹(未詳―554年)の烏棲曲をひいて石榴裾(婦人のもすそ)のこととしている。

斑騅只繋垂楊岸、何処西南待好風。
家のそばのしだれ柳の川岸に、まだら毛の馬がひく車もなく繋ぎっぱなしになっている。あなたからおたよりがあったなら、西南の突風のように飛んであなたの腕の中に飛び込みたい。何処にいるの。
斑騅 斑ら毛の馬。別の無題詩に「斑騅は嚬断す七香車」という句がある。七香車は七つの香木で作った車。○西南待好風 魏の曹植(192一232年)の七哀詩に「願くは西南の風と為り、長く逝きて君のの懐に人らん。」という一節のあるのを想起すべき句。好風を待つとは、早くたよりを得て、女性が思い人の元に駆けよりたく願っております、ということを意味すると思われる。


同様の趣に 、謝朓の『玉階怨』「夕殿下珠簾,流螢飛復息。長夜縫羅衣,思君此何極。」や、 李白の『怨情』「美人捲珠簾,深坐嚬蛾眉。但見涙痕濕,不知心恨誰。」がある。    

<参考>
怨詩  班婕妤 
新裂齊紈素,皎潔如霜雪。
裁爲合歡扇,團團似明月。
出入君懷袖,動搖微風發。
常恐秋節至,涼風奪炎熱。
棄捐篋笥中,恩情中道絶。

  新たに裂きやぶっているのは斉の国産の白い練り絹、練り絹の穢れない清い白さは、霜や雪のようだ。
裁断して、合歡の扇を作っている。丸くして明月のようにしたわ。
あなたさまの胸ふところやソデに出たり入ったりしたい。搖動かして、そよ風を起こすの。
でもいつも秋の季節が来ることを恐れているの。涼しい風が、この情熱を奪ってしまうから。
捨てられる、籠の中になげすてられるわ。私への愛が、もう絶えてしまったの。