艶歌 東陽谿中贈答 謝霊運 (4)

   謝霊運の詩というと、一般に山水の美を歌ったもののみが高く評価されている。
 梁の徐陵の探した『玉台新詠』の巻十に、きわめてなまめかしい霊運の艶歌二首が選ばれていることに注目してみた。艶歌とは、当時、多くの詩人が遊びとして作ったもので、男女の間の愛情を歌ったものである。謝霊運も遊びとして作ったものであろう。
 その作品数も二首のみではなく、相当数あったものであろうが、このような傾向のものが彼の楽府のなかに微弱に認められるもののこれほどのものはほかにない。
創作年代は不明であるが、常識的に、若いころのものとおもわれる。謝霊運もおそらくこれに属すると推定される。

 「東陽の新中の贈答」の「東陽」とは浙江省の金華府のことであり、色町のあったところである。この詩はその街において男女のことを客観的に見て男女について詠っている。
 このわずかな謝霊運のこの詩に影響され、李白はこの詩をそのままの語、内容で詠っている。閨情詩として「越女詞其四」(東陽素足女)である。そこではこの詩の(一)、と(二)を一緒にして歌っている。
李白 16 越女詞 其四
東陽素足女,會稽素舸郎。
相看月未墮,白地斷肝腸。
まるっきりそのものであり、興味がわいてきて味わいが深い。

東陽谿中贈答 
 場面の設定は、民妓、官妓であろう、あるいは娼婦かもしれないが女性から誘っている詩である。

(一)女篇
可憐誰家婦」 (可憐なり誰が家の婦おんな)
可憐誰家婦,淥流洗素足。
可愛らしいのは、どの家にいる婦人か、澄み切った流に、白い足を洗っている。
明月在雲間,迢迢不可得。
明月は、雲のむこうにあるもの、遥か彼方の存在だから、手にいれることはできない。

可愛らしいのは、どの家にいる婦人か、澄み切った流に、白い足を洗っている。
明月は、雲のむこうにあるもの、遥か彼方の存在だから、手にいれることはできない。


可愛らしいのは、どの娼家にいる女の方か、さかんに素足を見せて誘ってくる。
(なんにもしないでそのままでいたら、)女との情交というものは、はるかかなたのもので手に入れられはしない


(下し文)東陽谿中 贈答
(一)女篇
可憐なり  誰(た)が家の 婦(おんな)ぞ,淥流(ろくりゅう)に 素足を 洗ふ。
明月  雲間に 在り,迢迢(ちょうちょう)として  得 可(べ)からず。

可憐誰家婦、淥流洗素足。
可愛らしいのは、どの家にいる婦人か、澄み切った流に、白い足を洗っている。
・可憐 愛すべき。可愛らしい。 ・誰家 どこの。 ・ おんな。 ・淥流:きよらかな谷川の流れに沿って。 ・ あらう。 ・素足 白い足。 ・素:白い。素足を出して洗うのは、着物の裾をあげて女が男を誘う際のしぐさ。男を誘う際のしぐさを淥流素足を洗うと表現する。別にわざわざ川に行って洗うわけではない。この句を後世、


明月在雲間、迢迢不可得。
明月は、雲のむこうにあるもの、遥か彼方の存在だから、手にいれることはできない。 
明月 澄みわたった月。この場合の月は女性自身を示す。したがって明月と女性とをあらわす掛けことば。 ・雲間:雲の間。雲は情交の行為をあらわす掛け言葉。 ・迢迢 (ちょうちょう) 遥か。遠い。高い。 ・不可得 得ることができない。

と誘っている女を詠い、次の歌では、
 

(二)可憐誰家郎 (可憐なり誰が家の郎おとこ)
可憐誰家郎、淥流乗素射。
そこのいいおとこが、清らかな流れに一人で船に乗っている。
但問情若爲、月就雲中堕。

声をかけられている、情交をするときよ、月は雲間に隠れているのに。

そこのいいおとこが、清らかな流れに一人で船に乗っている。
声をかけられている、情交をするときよ、月は雲間に隠れているのに。

そこのいい男、小舟に乗っているあなたのことよ。
もしもその気があるなら、わたしはいつでも、とてもよいチャンスなのよ。
と、何をぐずぐずしてられるのさ。と、女の独語で表現している。もちろん、この詩(一)(二)ではエロチックな意味を意識して謝霊運はうたっている。


(下し文)東陽谿中 贈答
(二)男篇

可憐なり誰が家の郎ぞ、淥流 素肘に乗る
但だ問う 情 若為(いか)にと、月は雲中に就いて堕つ

権力もあり、金持で、秀才であった謝霊運が、現実に美しい女性にそれほど事欠くことはなかったであろう。それにもかかわらず、このような詩を作ったのは、六朝の文化である。直接的な表現を使わないでいかにそのことを詠うかというのが当時の遊びだったからであったと思う。詩としてはあまり巧みとはいえないが、十分にエロチシズムもあり、謝霊運の詩にもこのような一面があったことを示すのによい材料と思う。
しかし、この傾向は後世にきっちり引き継がれて行く。