陸游 麗わしの人、唐琬。 (1)


陸游は二十歳のころ結婚している。相手は陸游の母親唐氏の一族の娘で、唐琬といった。二人は仲むつまじいものであったらしい。このころ陸薄は、菊の花びらをつめた枕を詩に詠じ、世間の評判となった。ただ、彼は、その若いころの詩を後にすべて廃棄しているために伝わっていない。

四十余年を経てつぎのような回想の詩、絶句二首を作っている。
詩には「自分が年二十の時、菊枕の詩を作り、すこぶる人に評判を得た。今秋、たまたま、また菊を採り、枕嚢を縫い、凄然としたので詩をしたためた。」という内容の添え書きがされている。この詩も、例によって、艶歌として、お遊びのひとつとして書かれていると考える。いろんな訳註に不満を持って読んだが「お遊びの詩」「閨情」とすれば納得できる。(唐琬とのことを詠ったとする詩を少し追っかけてみる。5回程度になる)

絶句二首 63歳

其一
采得黄花作枕嚢、曲屏深幌悶幽香。
菊の黄花を採りあつめ、枕嚢に詰め込んだ、曲がり屏風奥のとばりあたりまでゆっくりとその香がほのかに届いている。
喚回四十三年夢、燈暗無人説断腸。

思い起こすこと四十三年になるあの閨のこと、燈火がとどかない暗い部屋の中でこのせつないやるせなさを誰もいないのに説いていた。

菊の黄花を採りあつめ、枕嚢に詰め込んだ、曲がり屏風奥のとばりあたりまでゆっくりとその香がほのかに届いている。
思い起こすこと四十三年になるあの閨のこと、燈火がとどかない暗い部屋の中でこのせつないやるせなさを誰もいないのに説いていた。


(その一)
黄花を采得して枕嚢を作る、曲屏 深幌 幽香 悶(かす)かなり
喚(よ)び回(かえ)す 四十三年の夢、灯暗くして 人の断腸を説く無し


采得黄花作枕嚢、曲屏深幌悶幽香。
菊の黄花を採りあつめ、枕嚢に詰め込んだ、曲がり屏風奥のとばりあたりまでゆっくりとその香がほのかに届いている。
采得黄花作枕嚢 昔一緒に暮らしていたころ菊の花を詰めた枕から匂うことは性的感情を高めるものとされていた。その香が閨に漂うのである。


喚回四十三年夢、燈暗無人説断腸。

思い起こすこと四十三年になるあの閨のこと、燈火がとどかない暗い部屋の中でこのせつないやるせなさを誰もいないのに説いていた。
燈暗 ほの暗くして閨の雰囲気を感じさせる詩人の表現。○断腸 悲痛の極み。李白「春思」と「清平調詞其二」につかう。どちらも情交だできない満たされないときの悲痛な思いを詠う。



其二
少日曾題菊枕詩、蠧編残稿鎖蛛絲。
まだ青年だったあの頃、菊枕と題した詩をうたった、虫に食われてバラバラになり、下書きを含めた詩文全部が蜘蛛が糸を張って訳が分からない、見る気がしないものとなった。
人閒萬事消磨盡、只有清香似舊時。

人の閒でおこることというものは萬事、消磨し尽くすもの、只有るのは清らかな香りにかこまれたあの閨のその時のことだけだ。

まだ青年だったあの頃、菊枕と題した詩をうたった、虫に食われてバラバラになり、下書きを含めた詩文全部が蜘蛛が糸を張って訳が分からない、見る気がしないものとなった。
人の閒でおこることというものは萬事、消磨し尽くすもの、只有るのは清らかな香りにかこまれたあの閨のその時のことだけだ。

(其の二下し文)

少き日 曾て題せし 菊枕の詩、蠧編 残稿 蛛絲に鎖(とざ)さる
人間 万事 消磨し尽き、只だ 清香の旧時に似たる有り

少日曾題菊枕詩、蠧編残稿鎖蛛絲。
まだ青年だったあの頃、菊枕と題した詩をうたった、虫に食われてバラバラになり、下書きを含めた詩文全部が蜘蛛が糸を張って訳が分からない、見る気がしないものとなった。
蠧編 虫に食われてバラバラになること。蠧は衣類や書物を食う虫。 ○残稿 下書きを含めた詩文全部。 ○鎖蛛絲 蜘蛛が糸を張って訳が分からない、見る気がしない。・蛛絲 蜘蛛が糸を張ること。放置したままにしておくこと。 ・鎖 とざしてしまう。


人閒萬事消磨盡、只有清香似舊時。
人の閒でおこることというものは萬事、消磨し尽くすもの、只有るのは清らかな香りにかこまれたあの閨のその時のことだけだ。




淳照十四年、六十三歳のときの作。
 この詩の中で、元妻に対する愛の感情は全く感じられない。万物、形あるものはすべて消え去るもの、残るのはほのかなかおりの思い出だけである。と。

 妻の唐婉は宋の皇室の縁続きに嫁いでいることから、推理されることは、強いものになびいたか、皇室のつながりから陸游の母の関係者から、母親に言い含めた結果、母親がふたりを別れさせた。相手がそういう関係者であるから、文句をつけるわけにいかなかったということなら陸游の謎は解けるのである。
お母さんとうまくいかなかったのではなくて、お母さんも言い含められ、どうしようもなかったということではなかろうか。
 唐婉との関係は本来ならすべて消し去られたはずなのに、陸游が詩人でしかも40年以上も過ぎれば、お遊びで詠っても害は受けなくなっていたのだろう。

女性が何人いてもおかしくなく、いる方が立派な人物である時代である。欲しいものは力ずくで奪ってくる時代である。
 当時の男性は、女性を性の対象物とみていたのが根底にある。すべてのことが弱肉強食の時代である。腕力、権力、血筋、すべてが強いものが手に入れられるものである。人間の尊厳が男社会にだけ存在した時代のことだ。詩人が残していなければ、しかも「艶歌」だから残ったのだ。



(釵頭鳳へつづく)