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kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 33 「涙」李商隠
七言律詩 涙 李商隠

おびただしい嘆きに満ちるこの人の世では、数知れぬ人人がそれぞれの悲運に涙を流す。どんな「涙」が一番悲しいのか、、一番悔しいのか、うれし涙はないのか。李商隠の秀作。


涙  
永巷長年怨綺羅、離情終日思風波。
華やかな都の、華やかな宮殿の奥深く、女官用の牢獄があり、長い年月を報復によって過ごしている、今はもう曾て着飾った綾絹やうす絹の晴着を独り撫でつつ怨みの涙を流している、また、船つき場では、日日、人は離別の情、旅路に向かう人のこの先の風波苦しみを思って、涙がたえない。
湘江竹上痕無限、峴首碑前灑幾多。
太古、南に巡察の旅に出て途中で崩御した舜帝のあとを慕って湘江までたどりついた二妃が慟哭し、河畔の竹を涙斑で染めたと言い伝えた。今も涙の痕は限りなく、竹の上にあとをとどめている。晋の時代、慈しみ深い将軍羊祜が死んだ時、襄陽の民はその徳を偲んで、峴山に碑石を立て、その碑のもとで涙を流した。その碑前にそそがれた涙もどれほど多いものだろうか。
人去紫臺秋入塞、兵残楚帳夜間歌。
異民族に嫁ぐべく命ぜられた漢の宮女王昭君は、長安の宮殿を去って秋の辺疆の地に赴いた。宮殿を去るのに彼女はどんなに涙をながしたことか。また、覇王である項羽でさえ、敵軍が四面に楚の歌をうたって包囲するのを聞き、愛妾と愛馬に絶望の呼びかけをしつつ、涙数行をおとした。
朝来㶚水橋邊問、未抵青袍送玉珂。

この朝、一介の書生が、㶚水の橋のたもとで泣いているわけをたずねてみれば、白い貝の鈴に飾られた馬で鈴音を立てて千里の彼方に転任するのを、とり残されて見送る涙は、悲しみも少ないに違いない。それより青い服を着た貧乏書生にとって、頼りにしていた大官貴顕の人を政争で見失って、一体、以後どのようにして生きてゆけばよいのであるか不安の涙が一番苦しい。

華やかな都の、華やかな宮殿の奥深く、女官用の牢獄があり、長い年月を報復によって過ごしている、今はもう曾て着飾った綾絹やうす絹の晴着を独り撫でつつ怨みの涙を流している、また、船つき場では、日日、人は離別の情、旅路に向かう人のこの先の風波苦しみを思って、涙がたえない。
太古、南に巡察の旅に出て途中で崩御した舜帝のあとを慕って湘江までたどりついた二妃が慟哭し、河畔の竹を涙斑で染めたと言い伝えた。今も涙の痕は限りなく、竹の上にあとをとどめている。晋の時代、慈しみ深い将軍羊祜が死んだ時、襄陽の民はその徳を偲んで、峴山に碑石を立て、その碑のもとで涙を流した。その碑前にそそがれた涙もどれほど多いものだろうか。
異民族に嫁ぐべく命ぜられた漢の宮女王昭君は、長安の宮殿を去って秋の辺疆の地に赴いた。宮殿を去るのに彼女はどんなに涙をながしたことか。また、覇王である項羽でさえ、敵軍が四面に楚の歌をうたって包囲するのを聞き、愛妾と愛馬に絶望の呼びかけをしつつ、涙数行をおとした。
この朝、一介の書生が、㶚水の橋のたもとで泣いているわけをたずねてみれば、白い貝の鈴に飾られた馬で鈴音を立てて千里の彼方に転任するのを、とり残されて見送る涙は、悲しみも少ないに違いない。それより青い服を着た貧乏書生にとって、頼りにしていた大官貴顕の人を政争で見失って、一体、以後どのようにして生きてゆけばよいのであるか不安の涙が一番苦しい。



永巷 長年綺羅を怨む、離情 終日風波を思う。
湘江の竹上痕限り無く、峴首の碑前灑ぎしこと幾多ぞ。
人は紫台を去りて秋に塞に入り、兵は楚帳に残きて夜に歌を聞く。
朝来 㶚水の橋辺に問えば、未だ青袍の玉珂を送るに抵ばず。


詩の解説
○おびただしい嘆きに満ちるこの人の世では、数知れぬ人人がそれぞれの悲運に涙を流す。
この詩は、恨みの涙、別れの涙。慟哭の涙、偲ぶ涙。辺境の地に向かう惜別の涙、四面楚歌の絶望の悔し涙。とあるけれど、頼りにして従っていた貴顕の御方が、左遷された、取り残された書生の将来不安の涙。
人の世の涙の諸相を写し出し、最後に保護者と別れる貧士の涙が、何よりも痛切であることを歌う。



永巷長年怨綺羅、離情終日思風波。
華やかな都の、華やかな宮殿の奥深く、女官用の牢獄があり、長い年月を報復によって過ごしている、今はもう曾て着飾った綾絹やうす絹の晴着を独り撫でつつ怨みの涙を流している、また、船つき場では、日日、人は離別の情、旅路に向かう人のこの先の風波苦しみを思って、涙がたえない。
永巷 前漢初期、高祖劉邦の側室であった戚夫人が皇位継承問題にまけ、呂雉皇太后による報復で女官を入れる牢獄の永巷(えいこう)投獄し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えた。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として『漢書』に収められている。○綺羅 綾絹とうす絹、美しい衣等



湘江竹上痕無限、峴首碑前灑幾多。
太古、南に巡察の旅に出て途中で崩御した舜帝のあとを慕って湘江までたどりついた二妃が慟哭し、河畔の竹を涙斑で染めたと言い伝えた。今も涙の痕は限りなく、竹の上にあとをとどめている。晋の時代、慈しみ深い将軍羊祜が死んだ時、襄陽の民はその徳を偲んで、峴山に碑石を立て、その碑のもとで涙を流した。その碑前にそそがれた涙もどれほど多いものだろうか。
○湘江竹上 「瀟湘妃子」の故事をふまえての句である。太古の聖天子である舜帝は、南巡(なんじゅん:南方の視察)した際に蒼梧(そうご)で崩御した。堯帝の二人の娘であり舜帝の妃であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)の姉妹は湘水(しょうすい)のほとりで舜帝の死を泣きに泣く。二人の流した涙が河畔の竹の上に降り注いで斑点となり、これがすなわち斑(まだら)模様のついた竹、斑竹(はんちく)になったという。○峴首碑前 西晋の将軍羊祜(221-278年)は有徳の人物で、呉の将軍陸抗(226-274年)と対時しながらも、南の地方の民を善導した。彼が死んだ時、嚢陽(湖北省裏陽県)の民は、その人柄を偲んで峴山に石碑を建てた。それを望む民は涙せざるものはなく、ときに、「左伝」の注家として知られる杜預(222-284年)がそれを「堕涙の碑」と名付けた。紀頌之の漢詩ブログ李白「襄陽曲四首」「襄陽歌」



人去紫臺秋入塞、兵残楚帳夜間歌。
異民族に嫁ぐべく命ぜられた漢の宮女王昭君は、長安の宮殿を去って秋の辺疆の地に赴いた。宮殿を去るのに彼女はどんなに涙をながしたことか。また、覇王である項羽でさえ、敵軍が四面に楚の歌をうたって包囲するのを聞き、愛妾と愛馬に絶望の呼びかけをしつつ、涙数行をおとした。
人去紫台 漢の元帝劉爽(紀元前75-33年)の宮女、王昭君が匈奴の王呼韓邪単子に嫁した故事をいう。紀頌之の漢詩ブログ李商隠 「聞歌」の詩参照。杜甫(712―770年)の古跡を詠懐する詩に
詠懐古蹟五首 其三
群山萬壑赴荊門,生長明妃尚有村。
一去紫台連朔漠,獨留青塚向黃昏。
畫圖省識春風面,環佩空歸月夜魂。
千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論
「一たび紫台を去りて朔漠連らなる。」という句がある。紫台は漢の長安の宮殿。
紀頌之の漢詩ブログ李 白「王昭君二首」+「一首」 
漢文委員会HP 王昭君特集 白居易「王昭君二首」
楚帳聞歌 項羽が核下で四面楚歌のうちに漢の高祖劉邦(紀元前247―195年)との戦に敗れ、自殺する寸前、愛妾の虞、愛馬の騅に絶望の呼びかけをしつつ涙を流した有名な史実をさす。その歌は、
力抜山兮 気蓋世 時不利兮 騅不逝
騅不逝兮 可奈何 虞兮虞兮 奈若何
「力は山を抜き、気は世を蓋いしに、時に利あらずして経は逝かず。雉の逝かざるは奈何すべき。虞よ虞よ、若を奈何せん。」



朝来㶚水橋邊問、未抵青袍送玉珂。
この朝、一介の書生が、㶚水の橋のたもとで泣いているわけをたずねてみれば、白い貝の鈴に飾られた馬で鈴音を立てて千里の彼方に転任するのを、とり残されて見送る涙は、悲しみも少ないに違いない。それより青い服を着た貧乏書生にとって、頼りにしていた大官貴顕の人を政争で見失って、一体、以後どのようにして生きてゆけばよいのであるか不安の涙が一番苦しい。
朝来 朝になって。来は、ある動作或いは時間の展開や継続を示す助詞。○問 たずねる。○㶚水 陝西省の藍田県の東から発し、長安を経て渭水に入る。㶚陵橋は長安の東にあり、一夜を過ごす旅籠もあった。㶚水の土手に柳が植えられていて、人を送るときは柳の枝を手折り夫婦、男女の別離をするのが古くからの習慣である。○青袍 書生乃至は下級の官にいる者の服。○玉珂 馬のくつわにつける貝の装飾。馬の歩みにつれて音を立てる。これは旅立つ大官貴顕の人のくつわである。