kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 36 「哭劉蕡」李商隠(812~858)
哭劉蕡  李商隠36


哭劉蕡
上帝深宮閉九閽、巫咸不下問銜冤。
天子は宮を宦官らに奥に追いやられて、九重の門を閉ざし、地上の出来事がわからない。冤罪を救う巫咸も、冤罪をうけた事の次第を問い正すため天より下ってこなかった。
黄陵別後春涛隔、湓浦書来秋雨翻。
洞庭湖をのぞむ丘陵で意気投合し、その後春になって君と別れてからは、洞庭湖の波涛に隔てられ、通じあうこともできなかった。そしてもうこの秋に、湓浦に君の死が手紙で知らされた。悲しみの秋の雨が風にひるがえりこの秋をさびしいものにしている。
只有安仁能作誄、何骨宋玉解招魂。
ただ西晋の秀れた感傷詩人潘岳だけが、このかなしみをよく誄文に綴りうるだろう。君の魂は、どんな文章によって事蹟をたたえようとも、再びは呼びもどせないのである。宋玉でさえは屈原の魂を招くことができなかったし、いま私が宋玉をまねたところで、君はもう帰ってはこないのだ。
平生風義兼師友、不敢同君哭寝門。

これまでつね日頃、君の正しい気風は、師として私の尊敬するところであり、理解し合う友であった。それゆえに、故事にも云われている通り君をとむらうには私の師として、居室においてするものであり、「寝門の外に哭する」単なる友にするようなものと同じようにはできないと私は思う。



天子は宮を宦官らに奥に追いやられて、九重の門を閉ざし、地上の出来事がわからない。冤罪を救う巫咸も、冤罪をうけた事の次第を問い正すため天より下ってこなかった。
洞庭湖をのぞむ丘陵で意気投合し、その後春になって君と別れてからは、洞庭湖の波涛に隔てられ、通じあうこともできなかった。そしてもうこの秋に、湓浦に君の死が手紙で知らされた。悲しみの秋の雨が風にひるがえりこの秋をさびしいものにしている。
ただ西晋の秀れた感傷詩人潘岳だけが、このかなしみをよく誄文に綴りうるだろう。君の魂は、どんな文章によって事蹟をたたえようとも、再びは呼びもどせないのである。宋玉でさえは屈原の魂を招くことができなかったし、いま私が宋玉をまねたところで、君はもう帰ってはこないのだ。
これまでつね日頃、君の正しい気風は、師として私の尊敬するところであり、理解し合う友であった。それゆえに、故事にも云われている通り君をとむらうには私の師として、居室においてするものであり、「寝門の外に哭する」単なる友にするようなものと同じようにはできないと私は思う。



劉蕡を哭す
上帝の深宮は九閽
(きゅうこん)を閉ざし、巫咸は下りて銜冤(こうえん)を問わず。
黄陵
(こうりょう)に別れて後 春涛(しゅんとう)に隔てられ、湓浦(ほんほ)に書来りて 秋雨翻える。
只だ安仁の能く誄
(るい)を作す有り、何ぞ曾て宋玉の解く魂を招く。
平生 風義は師友を兼ねたり、敢えて君を寝門に哭する同じくせず。




哭劉蕡
 人の死を悲しみ泣き叫ぶ礼。劉蕡の死を自分の師である人として追悼する哀傷詩である。武宗会昌二年(842年)の作。李商隠三十一歳。
劉蕡 柳州の司戸参軍、劉貫は字去華。(生没年不詳)。幽州昌平(北京の附近)の人。敬宗皇帝、宝暦二年(826年)の進士。「春秋左伝」に精通する学者であり、正義漢だった。文宗皇帝の太和二年(828年)賢良方正の試験に応じて、時の宦官の政治干渉を痛烈に批判した。李商隠の進士及第が837年であり、劉蕡が10歳程度年上であったのだろう。


上帝深宮閉九閽、巫咸不下問銜冤。
天子は宮を宦官らに奥に追いやられて、九重の門を閉ざし、地上の出来事がわからない。冤罪を救う巫咸も、冤罪をうけた事の次第を問い正すため天より下ってこなかった。
上帝 天の神。天子。○深宮 宦官が巣食ったその奥深いところ。宮を宦官らに奥に追いやられている。○九閽 九関に同じ。天子のいる宮殿の、九重(きゅうちょう)の門。○巫咸 古の神巫女。天帝との仲立ちをして冤罪の者を救う「巫咸将に夕に降らんとす、椒糈(しょうしょ香物と精米)を懐きて之を要むかえん。」と屈原の「離騒」に見える。○衝冤 身に覚えのない罪を受けながら釈明できぬもの。



黄陵別後春涛隔、湓浦書来秋雨翻。
洞庭湖をのぞむ丘陵で意気投合し、その後春になって君と別れてからは、洞庭湖の波涛に隔てられ、通じあうこともできなかった。そしてもうこの秋に、湓浦に君の死が手紙で知らされた。悲しみの秋の雨が風にひるがえりこの秋をさびしいものにしている。
黄陵 山名。湖南省湘陰県の北にあり洞庭湖にのぞむ。〇湓浦 ほんほ江西省に源を発する湓水が東流し、九江県城下を経て長江にそそぐ、その九江のあたりを湓浦港と名づける。



只有安仁能作誄、何骨宋玉解招魂。
ただ西晋の秀れた感傷詩人潘岳だけが、このかなしみをよく誄文に綴りうるだろう。君の魂は、どんな文章によって事蹟をたたえようとも、再びは呼びもどせないのである。宋玉でさえは屈原の魂を招くことができなかったし、いま私が宋玉をまねたところで、君はもう帰ってはこないのだ。
安仁 西晋の詩人潘岳(はんがく247年 - 300年)字は安仁。輿陽中牟(河南省開封附近)の人。賈充(217―282年)に認められて司空太尉の書記官となり、河陽県、懐県の長官を歴任。黄門郎になったとき、八王の乱の発端となった趙王司馬倫のクーデターで殺された。出世をあせる人物だったが、〈哀〉〈誄〉すなわち哀傷の文学には卓越の才を発揮した。輯本「潘黄門集」一巻。(潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。)○ るい。死者の事段を記して功徳をたたえつつ哀悼する文章。○何曾 不曾にほぼ同じ。そんな事が一度でもあったろうか、ありはしない、ということ。○宋玉 楚の懐王と襄王に仕えた文人。但し小臣で間もなく官を去った。生没年・伝記ともに未詳の人物。彼は屈原の弟子であったといわれる。後漢の班固の「漢書」芸文志には賦十六篇を記録する。現在宋玉の名がつけられる作品は十四篇あるが、九弁と招魂が注目される。○招魂  宋玉が追放中の屈原の魂をよび戻そうとして作った辞。「楚辞」におさめられる。



平生風義兼師友、不敢同君哭寝門。
これまでつね日頃、君の正しい気風は、師として私の尊敬するところであり、理解し合う友であった。それゆえに、故事にも云われている通り君をとむらうには私の師として、居室においてするものであり、「寝門の外に哭する」単なる友にするようなものと同じようにはできないと私は思う。
風義 正しい気風。道徳的関係。○哭寝門 「礼記」檀弓篇に「師(死せば)吾諸を寝に哭し、友は、吾諸を寝門の外に哭す。」という孔子(紀元前551―前479年)の言葉をのせる。寝は居室のある建物。寝門はその前にある門である。結句の意味は師礼を以て異するということ。宋の欧陽修の「新唐音」には、節度使の令狐楚(765―836年)や牛僧主孺(779―847年)らは劉蕡認めていた。劉蕡の死後李商隠とも、交えていたとしている。