紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 37 「寄令狐郎中」李商隠(812~858)845年34歳



李商隠はやわかり。
唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受け、837年、26歳にして進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度はなぜか、李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、娘を娶った。翌839年、王茂元の働きかけにより文人官僚のスタートとして最も理想的といわれる秘書省の校書郎に任官されるも、牛僧孺派からは忘恩の徒として激しい謗りを受けることになった。以後も李商隠は、処世のために牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官僚としては一生不遇で終わることとなる。しかし、これは詩人として選んだ道であった。この頃の詩人は、武人でなく、文人詩人としての生き方であったと考えるべきであろう。儒教的発想によりみると詩に、不遇を悔やむものといわれるものがあるや、よく読むと全く悔やむものではなく、矜持を感じるものである。儒教の垣根を取り払ってみなければ、李商隠は理解できない。

李商隠37

寄令狐郎中  
嵩雲秦樹久離居、雙鯉迢迢一紙書。
天空の中心である嵩山から雲は続いている、いにしえから時代のありさまを見てきた長安の大樹、私はそういうすべてのものから離れて孤独な日日をすごしている。こうした中、はるばると寄せられました貴下からの手紙は、どんなにか私を喜ばせたものでありました。
休問梁園舊賓客、茂陵秋雨病相如。

私はかつてあなたの父君に見出されて梁の孝王の賓客のような地位待遇を受けましたが、今私は反対党にいましたから、あまりお気にかけてくれないでください。私は、茂陵の秋雨の中に病む司馬相如のように、いまは故郷・に病を養って蟄居する身なのであります。


天空の中心である嵩山から雲は続いている、いにしえから時代のありさまを見てきた長安の大樹、私はそういうすべてのものから離れて孤独な日日をすごしている。こうした中、はるばると寄せられました貴下からの手紙は、どんなにか私を喜ばせたものでありました。
私はかつてあなたの父君に見出されて梁の孝王の賓客のような地位待遇を受けましたが、今私は反対党にいましたから、あまりお気にかけてくれないでください。私は、茂陵の秋雨の中に病む司馬相如のように、いまは故郷・に病を養って蟄居する身なのであります。


令狐郎中に寄す
嵩雲 秦樹 久しく離居す、双鯉 迢迢たり一紙の書。
問うを休めよ 梁園の旧賓客、茂陵秋雨 病 相如。



寄令狐郎中 
令狐郎中 令狐楚(れい こそ、766年 - 837年)の次男令狐綯のこと。李商隠は牛李党争の牛党派の令狐楚が河陽の節度使だった時、文筆の才を認められて厚遇を受けたが、狐綯の力により進士に及第したが、令狐楚が同年死没する。彼の死後、反対党の李党派(貴族門閥)の王茂元の幕下に身を寄せ、その娘を娶った。当然、牛僧濡党の人から詭薄無行とののしられ、幼ななじみの令狐絢にも疎まれたという。狐綯については、宋の欧陽修の「新唐書」及び元の辛文房の「唐才子伝」に見える。この詩は、その父令狐楚の勲功により、令狐絢が特別待遇で入朝して戸部員外郎となった頃、母の喪に服して田舎に蟄居していた李商隠が、狐綯からの手紙に答えて寄せた詩である。武宗の会昌五年李商隠三十四歳の作。この詩は「唐詩選」にもある。



嵩雲秦樹久離居、雙鯉迢迢一紙書。
天空の中心である嵩山から雲は続いている、いにしえから時代のありさまを見てきた長安の大樹、私はそういうすべてのものから離れて孤独な日日をすごしている。こうした中、はるばると寄せられました貴下からの手紙は、どんなにか私を喜ばせたものでありました。
嵩雲 嵩は五岳の一。河南省登封県の北にある。○秦樹 秦は長安のあたり。その古名でよんだもの。戦国時代、秦の国都は長安のすぐ北の成陽だったからである。○離居 離群索居。朋友から離れて孤独にいること。○双鯉 手紙をいう。漢代の歌謡である・飲馬長城窟行に「客遠方より来り、我に双つの鯉魚を通る。児を呼びて鯉魚を烹るに、中に尺素の書あり。」とあるのに依る。尺素は自絹。



休問梁園舊賓客、茂陵秋雨病相如。
私はかつてあなたの父君に見出されて梁の孝王の賓客のような地位待遇を受けましたが、今私は反対党にいましたから、あまりお気にかけてくれないでください。私は、茂陵の秋雨の中に病む司馬相如のように、いまは故郷・に病を養って蟄居する身なのであります
○迢迢 はるかなるさま。○梁園 漢の孝景帝劉啓(紀元前188-141年)の弟である梁の孝王が河南省開封附近に作った苑固。彼は好んで宮墓苑圏を営み、司馬相如ら文人賓客を厚遇した。
茂陵 漢の武帝劉徹の御陵名。駅西省興平県東北にあり、司馬相加は晩年病んでここに蟄居した。