紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 39 「哭劉司戸二首
其一」李商隠 812~858



哭劉司戸二首其一
離居星歳易、失望死生分。
離ればなれに暮らし、星のまたたきとともに年月は移り、再会できない失望のまま、生と死さえ分かたれているのだ。
酒甕凝餘桂、書籖冷舊芸。
かめにはのこった桂酒が凝り、書物に挟んだしおりも古びた芸香が冷たくなっている。
江風吹雁急、山木帯蝉曛。
長江の風は旅だった雁に激しく吹き付けるようにわたしたちにも吹いている、そして、山の木々のように世間の人たくさんには正しいことを主張し啼いている蝉の声を響かせたけれどとどかないで暮れていくのだ。
一叫千廻首、天高不爲聞。

ひとたび大きく正論を主張し叫んだ、それを千回も向を振り返っても、天子は宦官によって高いところに置かれていて、この正当な主張を耳に届くことはないのだ。


離ればなれに暮らし、星のまたたきとともに年月は移り、再会できない失望のまま、生と死さえ分かたれているのだ。
かめにはのこった桂酒が凝り、書物に挟んだしおりも古びた芸香が冷たくなっている。
長江の風は旅だった雁に激しく吹き付けるようにわたしたちにも吹いている、そして、山の木々のように世間の人たくさんには正しいことを主張し啼いている蝉の声を響かせたけれどとどかないで暮れていくのだ。
ひとたび大きく正論を主張し叫んだ、それを千回も向を振り返っても、天子は宦官によって高いところに置かれていて、この正当な主張を耳に届くことはないのだ。


劉司戸を哭す二首其の一
離居して星歳易(か)わり、望みを失す 死生分かるるに
酒甕(しゅおう) 余桂(よけい) 擬(ぎょう)し、書籖(しょせん) 旧芸(きゅううん)冷やかなり
江風 雁を吹きて急に、山木 蝉を帯びて曛(く)る
一たび叫び千たび首を廻らすも、天高くして為に聞かず



劉司戸
劉司戸 劉蕡、字は去華。当時の硬骨の士。宝暦二年(826)進士及第ののち、大和二年(828)に賢良方正能直言極諌科に応じた時、権勢・謀略をほしいままにしていた宦官勢力を激しく攻撃し、その対策論文を提出した。試験官たちは感服したものの甘露の変*以降、どうすることもできない状態だったので宦官を恐れて落とした。
合格者のなかには劉蕡が落ちて自分が合格した厚顔には堪えられないと授けられた官職を辞退する者まであらわれた。劉蕡は令狐楚、牛僧濡らの幕下で大切に扱われたが、宦官の恨みはすさまじく、結局柳州(広西壮族自治区柳州市)司戸参軍に流謫されてその地で歿した。死後六十数年を経た唐末に至って左諌議大夫を追贈されたことが示すように、権力を恐れない義人として名声は伝えられた。李商隠はおそらく令狐楚を介して知り合ったのだろうが、その人となりを敬慕し、劉蕡が柳州に流される時には「劉司戸に贈る 李商隠35」送別詩を作り、その死に際しては、「劉蕡を哭す 李商隠36」、と「劉司戸蕡を哭す二首」の計四首を作っている。次回「其の二を掲載。」

*甘露の変(かんろのへん)とは、中国、唐の大和9年(835年)、文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件。本件が失敗したことにより中唐期以降、唐における宦官勢力の権力掌握がほぼ確実となった。



離居星歳易、失望死生分。
離ればなれに暮らし、星のまたたきとともに年月は移り、再会できない失望のまま、生と死さえ分かたれているのだ。
離居 離ればなれに住む。『礼記』檀弓の「離群索居」朋友から離れて孤独にいること。○星歳 時間をいう。



酒甕凝餘桂、書籖冷舊芸。
かめにはのこった桂酒が凝り、書物に挟んだしおりも古びた芸香が冷たくなっている。
酒甕 酒を入れたかめ。この甕は女性を意味するものであり、桂は閨を意味する。ととも○余桂 「桂」は香木の香りのさけ、桂酒。桂を浸した上等の酒。次の句の「芸」とともに香り高いものでもある。○書籖 書物の間にしおりのように挟むふだ。籖にも閨情の意味のつきさすということだ。○旧芸 芸は芸香という香草。書物の虫除けに用いる。芸は云、情交を意味する。武骨な部分とこうした、閨情語を使用してしゃれた感じを出したのである。ここでは、李商隠の部隊が娼屋ではない、閨情詩ではないので普通に訳す。次の聯が李商隠の主張であるから。

風吹雁急、山木帯蝉曛。
長江の風は旅だった雁に激しく吹き付けるようにわたしたちにも吹いている、そして、山の木々のように世間の人たくさんには正しいことを主張し啼いている蝉の声を響かせたけれどとどかないで暮れていくのだ。
○蝉 李商隠の「蝉」に詳しく述べているが、蝉は損得、賄賂など関係なく正しいことを主張するという意味で使っている。この意味を正しくとらえないとこの詩を理解はできない。紀頌之漢詩ブログ29「蝉」を参照 夕日の光、夕暮れ、黄昏。



一叫千廻首、天高不爲聞。
ひとたび大きく正論を主張し叫んだ、それを千回も向を振り返っても、天子は宦官によって高いところに置かれていて、この正当な主張を耳に届くことはないのだ。
天高一句 「天高きも卑きを聴く」(『史記』宋傲之世家など)といわれるのに、低い所から発する声を天はただ聞いてくれないだけでなく、宦官が宮廷を牛耳っており天子にこれが届かないということなのだ。


詩型・押韻 五言律詩 分、芸、噴、聞。



李商隠の時代

 宦官は、唐王朝初期60人程度であったものから、徐々に宮廷を侵食し、約100年前の玄宗皇帝の宦官、を高力士の時期には1000人程度まで増大し、さらに、皇帝暗殺、など様々に権勢をにぎり、さらに急速に増大して李商隠の時代は数千人名にまで膨れ上がった。宦官は養子縁組で増大していく、一方の朝廷は科挙から官僚になるものと、血縁、貴族の世襲のものとが、対立していて、宦官対策どころではないのである。権力闘争というより、人事権の争いの様なもので、有力な地方の節度使は独立国を形成していた。
 唐王朝の実質支配は、長安の一体、洛陽の中心部と地方のピンポイントに支配権をもって点と線で結ばれた限られた地域のものにあっていた。
 そうした中で、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争をしていたのである。
 ところが、ここから、半世紀以上も唐王朝は宦官の力で続くのである。